IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
「ここで待ち合わせあってるよな?」
不安そうにヒカルが呟く。
手に地図を持ち、日本文化伝統の門構えの旅館を、ヒカルと佐為は見上げた。
全体的に質素な作りだが、地図上でも分かるほど広い敷地と不思議な風格と年季を漂わせる旅館で、こういった場所に来た経験がないヒカルは、店の門の前に立つだけで気後れしてしまう。
5日前に来た塔矢行洋の手紙に、ヒカルと佐為が一緒に喜んだのがつい昨日のことのようだ。
手紙には、対局の承諾の意と、場所、日時が達筆な字で書かれてあった。
しかもヒカルがまだ中学一年だということを気遣ってなのか、学校があるヒカルにとって不都合ではない日時、他言無用ということならと個室の場所も、行洋が提供してくれるという至れり尽くせりの対応に、ちょっと悪いことをしたような気もしてくる。
――おそらく合っていると思いますが、どなたかに尋ねてみたらどうです?
現世に戻り、現代の文化や生活習慣の違いにだいぶ慣れてきたとはいえ、地図の見方は佐為にはまだ難しい。
ここまで来る途中の建物などをヒカルと2人確かめながらようやくこの店の前に辿り着いたのだ。
「尋ねるって、もし間違ってたらどうするんだよ?」
――別に店を尋ねるくらいで怒られはしないと思いますよ
それは分かっているが、聞くこと自体がヒカルは怖く、怖気づいてしまいそうになる。
しかし、ただじっと門を眺めていても仕方ないので、覚悟を決め、深呼吸を一回してからヒカルが玄関を開けようとした時
<がらっ>
「えっ?!」
「あら?」
ヒカルの手が玄関の取っ手を掴もうとするが、先に中から戸を開けられ、中年くらいの着物を着た女性が現れる。
不意のことに驚いて、口をぽかんと開けたままのヒカルに、女性の方から声をかけてくる。
「僕、もしかして、塔矢先生に会いにきたのかしら?」
僕?という子供扱いされたことはさて置いて、<塔矢>の名前が出てきたことにヒカルは過敏に反応した。
「はい!そうです!塔矢っ…先生はもうここに着いているんですか?」
「まあ、やっぱり。話は伺っております。先生は既にお部屋でお待ちになっていますから、すぐ案内しますね」
ふふっと女性が人好きする優雅な所作で口元を手元で隠しながら微笑み、こちらへ、とヒカルを店の中へ手招きする。
結い上げた黒髪と、華美過ぎない落ち着いた上品な着物を来た女性に案内されながら、古風な店に入るという初めての体験に、ヒカルは無意識に体が緊張して強張るのを感じた。
落ち着かないし、敷居が高すぎる。
和服を着ていた行洋や平安時代の着物を着ている佐為には似合うだろうが、洋服の自分には肩身が狭いし、何にもまして似合わない。
反対に佐為の方は、まだ江戸時代の名残が残る家があったのかと、案内される道すがら、見かける庭園のつくりや家の造りに歓喜する。
――よかったですね、ヒカル。無事辿り着くことができて。一時は道に迷い、どうなることかと思いました
「うるさいぞ、佐為」
痛いところを佐為に衝かれ、思わずヒカルは声に出してしまう。
「何か言ったかしら?」
「いえ!全然何でもないです!」
振り返る女性に、慌てて顔の前で手をブンブン振って否定する。
ヒカルが横目に佐為を見やれば、笑っているのが扇で口元を隠していても分かってしまう。
――お前のせいだからな!!
キッ、と睨み、ヒカルが佐為を批難すれば、
――責任転嫁しないでくださいよ。声を出したのはヒカルじゃないですか
――俺が声を出したのはお前が余計な一言言ったせいだろ!だからお前のせいなの
――ヒカル酷いです~!
などと、佐為とやり取りしている間に、敷地の一番奥らしい部屋の前まで案内される。
部屋は離れらしく、小さな家がたくさんの竹林に囲まれ、ぽつんとあるような部屋。
竹林に囲まれているせいか、この場所が都内であることも忘れてしまいそうになる。
「先生、お待ちの方が来られました」
「そうか」
たったそれだけの短い言葉のやり取りを交わし、女性は閉められていた障子を開く。
障子が開くスゥとした音に、ヒカルはつい身体に力が入ってしまう。
本当にこれから佐為と塔矢行洋が打つのかと思うと、俄かに信じられないような気がする。
しかし、打った後、どう佐為を説明しようかと不安も過ぎる。
女性がどうぞ、と部屋に入るよう促す。
もう来てしまったのだから後戻りはできない。
ぎゅっと拳を握り締め、なるようになれ、とばかりに室内に足を踏み入れる。
部屋の中央に碁盤が置かれ、その上に石の入った碁笥が二つ、そして塔矢行洋が碁盤を前にして上座に座っていた。
行洋の視線が碁盤からヒカルの方へ、ゆっくり移ってくるだけでも背中に冷や水が滴る。
「よく来てくれたね。立ちながら話しというのもなんだろう。そちらに座ってくれたまえ」
「あっいえ!俺から手紙出したのに、わざわざこんなところまで用意してもらってすいません!!」
あたふたとヒカルは動揺しながら、促されるがままに碁盤をはさみ、行洋の向かいの位置に正座する。
しかし、ヒカルの様子を気にかけるような素振りは見せず、行洋はたんたんと話を続ける。
本当にこういう何事にも動じない人がいるのだと、テレビ以外で初めて見たような気がした。
自分の周りにはこういった人は、佐為を筆頭に皆無だ。
反面、行洋だからこそアキラのような今時珍しいほど堅い性格の息子がいるのも納得できる気がした。
「いや、気にしないでくれ」
行洋が首を横に振る。
「先日会ったときは、緒方君が無理やり君を碁会所に連れてくるような真似をしてしまい済まなかった。その侘びだと思ってくれていい」
――緒方?
初めて聞く名前に、そんな人いたっけか?とヒカルが視線で佐為に問えば、
――ほら、ヒカルを碁会所前で見つけて引っ張っていった者ではありませんか?
以前、碁会所の前を通りかかった自分の腕を掴んで引っ張って行ったやつがいたようにヒカルは思い当たる。
あまり記憶力のいいと言えないヒカルが覚えていたのは、ヤクザも真っ青な全身真っ白のスーツを着ていたからだ。
このご時世に、あんな派手なスーツ着るような人がいるなんて、出来る限りお近づきになりたくない。
「ここは以前からよく来ている旅館でね、客のプライバシーは決して外に漏れるようなことはないから安心するといい」
「すいません、ほんとこっちのワガママいっぱい聞いてもらちゃって」
深々とお辞儀をするヒカルを、行洋は手を軽く上げ制す。
「それは構わないのだが、誰にも見られず打ちたいという理由は教えてもらえないのかね?」
「っ!……それは……打った後で話します」
やはり聞いて来たか、と覚悟していた筈なのに、いざ問われるとビクリとヒカルの体が震えた。
ちらりとヒカルが隣りに座る佐為の方を見やれば、すでに臨戦態勢に入っているのか、睨むような視線を行洋に向けたままだ。
「……正直、君から手紙を貰って、対局を受けるべきか、それとも断るべきか、私は迷った。プロがアマから個人的な対局を申し出され受けるというのは、あまり誉められた話ではない。君らからしてみれば、閉鎖的でプライドが高いだけと批難されるかもしれないが」
「そんなことはないです……」
「だが、そんな世間体より、私はアキラに勝ったという君の実力を知りたいと思った」
そこで行洋は言葉を一旦区切ると、碁盤の上に置いてある碁笥のうち、黒をヒカルの方へ寄越す。
そして自らの方には白石の碁笥を。
「石を三つ置きなさい」
「……お願いします」
ペコリと一回お辞儀し、ヒカルは黒の碁笥をとって碁盤の星に黒石を置く。
行洋が次に打つまでに数秒間の沈黙が流れた。
中学一年の自分がタイトルをとるようなプロ相手に互戦を望むのは、間違いなく不分不相応だとヒカル自身分かっている。
しかし、石を置くのはヒカルであっても、碁を打つのは1000年近く存在している佐為である。
そして佐為がどれくらい強いのか分からず、請われるままにアキラと打ち、無意識にアキラを打ちのめしてしまった苦い過去を思い出す。
行洋相手であれば、アキラと同じようなことにはならないだろうが、強さに対しての疑惑はさらに深まるだろう。
なぜ囲碁を初めて間もないヒカルが、これほどに強いのか。
パチリ、と。
行洋の指が碁盤に白石を置く音が、ヒカルの耳にいやに大きく響いた。