IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
3月、新入段の免状授与式がある。
「なんだか似合わないわねぇ」
新調したスーツを着込んだヒカルを見て、美津子の第一声である。
小学校に入学するとき子供用のスーツをヒカルが着たことがあったが、そっちの方がまだ似合っている気がする。
「だいたいあんたがネクタイなんて……それでなくてもまだ中学生だっていうのに」
「越智も塔矢も中学生だいっ」
美津子のぼやきに、ヒカルがいい加減聞き飽きたというように乱暴に言い返す。
美津子に言われなくても、ヒカル自身が普段着慣れない着心地悪さを一番実感しているのだ。
「……なんて世界なの」
中学生がスーツを着て大人に混ざる世界。
痛くなってきた頭を美津子は押さえた。
If God 49
授与式の会場に着き、受付を済ませると、受付をしていた係りの人に、ヒカルは左胸に小さな花飾りを付けられる。
この花飾りが棋士とその他関係者を区別するものらしく、ヒカルは大勢の中から同じく花飾りをつけているだろう知り合いの姿をキョロキョロと捜す。
「いた!和谷」
「お前にしちゃ早いじゃん」
「へへ、それにしてもすごい人が集まってるんだな。人酔いしそうになる」
「ああ今日は表彰されるいろんな棋士が来るんだ。最優秀棋士は塔矢名人だし、他にも優秀棋士とか女流賞とか……いろいろだな。塔矢アキラは勝率第一位賞と連勝賞の二つを受賞してんだぜ」
「勝率一位と連勝……」
「今日はそういう表彰式がメインで俺達はオマケだよ」
「オマケかぁ……」
自分がプロとして認められる免状授与式と意気込んでいたのがオマケと言われ、途端に落胆するヒカルに
――オマケ?それが何だというのです!塔矢だって去年はオマケとしてここにいたんでしょ!?一局一局の積み重ねの上に今の塔矢があるのです!
佐為の励ましに、それもそうかとヒカルは思い直す。
今のヒカルと同じように、去年のアキラはプロとしてスタートを切り、それから一年、対局を重ねて勝率一位と連勝の2つの賞を取ったのだ。
「一局一局……てことは……俺の最初の手合いって誰になるのかなあ」
「俺かも。まぁでも相手は初段とは限らねーから、2段・3段の可能性もあるし」
「フーン」
ヒカルのプロデビュー戦が誰になるのかまだ連絡はない。
4月からプロとしての対局が始まるのでそろそろ連絡があっていい頃合なので、相手が誰になるか気になるヒカルは、和谷の『俺かも』という一言にドキリとした。
知り合いであろうとなかろうと全力を尽くすのは変わらないが、出来ることなら初戦は勝ちで飾りたい。
悩むヒカルの隣にいた佐為が、不意に
――あそこ、行洋殿が
「えっ?」
佐為の視線の先に、会場内でもとりわけ大きな人だかりの中心に和服に身を包んだ行洋の姿を見つけ、ヒカルの顔がパッと明るくなる。
しかし、見つけた直後に人垣が動いた隙間から白スーツが現われ、明るくなったヒカルの顔がそれ以上の速さで暗く沈んだ。
――いたけど、その隣に緒方先生が……
――……いますね
ヒカルの言葉を佐為が補足する。
年明けから行われた棋聖戦でタイトルを一柳から奪取し、行洋はさらに保有タイトル数を6に伸ばした。
このまま行けば残る本因坊も手にし、7大タイトルを全て制覇するのではとさえ言われている。
それだけ行洋の勢いは凄まじいのだと、研究会で森下が苦味を潰したようにブツブツ言っていた。
プロに受かったばかりの新人棋士であるヒカルが、そんな雲の上の存在で6冠のトップ棋士である行洋に話しかけるというのは、周囲からは不自然に映るだろう。
とくに、行洋と親しく会話している姿を緒方に見られるわけにはいかない。
――こんなに近くにいるのに話しかけることも憚れるとは、なんとももどかしいですね
――話せなくても、こっちに気付いてくれるだけでいいから……
ヒカルと佐為は行洋に向かって、こっちを振り向けと瞼を強く閉じ強く念じる。
『どうだ?』とゆっくりヒカルは瞼を開く。
が、行洋は変わらず周囲と談笑を続けてヒカルの姿に気付く様子はなく、その隣の緒方とヒカルはバッチリ視線が合ってしまった。
「マズッ!」
「オイッ!どこ行く気だ!?」
和谷に何か言う余裕もなく、脱兎のごとく、ヒカルは踵を返し人ごみに紛れる。
まさか振り向いて欲しい人が全く気付かず、その隣にいる振り向かなくていい人物が振り向くとは思っていなかった。
緒方の姿が見えなくなったであろう辺りで、ヒカルは後ろを振り返りほっとする。
緒方と初めて対局して以来、それ以前に比べて仲は良くなったはずなのだが、
――俺が塔矢先生見てたの気づいたと思うか?
――あの距離でしたらヒカルが誰を見ていたなんて分からないと思いますが、とにかく他人の目があるところで、下手に近づかない方が無難でしょうね。行洋殿は言わずもがなですが緒方にも
――だな。アドレスだってせっかく教えてあげたのに全然メールくれないし。あんなにsaiは誰だって迫ったくせに、佐為と対局したくねぇのかな。分かんねー人
――ヒカルッ!隣!!
佐為に促され、ヒカルは無防備に振り向く。
そして、そこに立ち、上から見下ろす人物に、ヒカルは反射的に仰け反り、
「ゲッ!」
「げ、とはいい度胸だ」
「いえっ、そんなつもりじゃなくて、おはようございます……緒方センセ……」
しまった、と失言を後悔しつつ、ヒカルはヒクついた不自然な笑みで挨拶する。
けれど、緒方がそれ以上何か言うことはなく、自身の内ポケットから小さなメモを取り出すと、有無を言わせずヒカルのポケットに突っ込み、その場を去っていく。
去ってゆく緒方の後ろ姿を唖然と眺めながら、ヒカルは突っ込まれたポケットを手探りし、メモを取り出す。
『アドレスが間違ってる そっちが俺にメールしろ』
という短い文章の下に緒方のプライベートであろうアドレスが書かれてあり、ヒカルは何故緒方からメールが来なかったのか理解し、『アハハ』と乾いた笑いがこぼれた。
しかも、もう一度ヒカルから正しいアドレスを聞き出すことをさっさと放棄し、緒方のアドレスへメールするように指示してきた。
これであれば正しいアドレスが自動的に緒方へ伝わるだろう。
アドレス間違いを、心の中でそっと謝り、緒方のくれたメモを大事にポケットに戻す。
何か言われると思って身構えたが、とりあえずこれで今日一日、緒方から何か言われることはないだろうと、ヒカルが安心してあの場に置いてきた和谷のところに戻ろうとして歩いていると
「塔矢!」
久しぶりに会うアキラにヒカルは目を見開く。
ヒカルの新初段の対局のとき、モニター室で対局を観戦していたことは越智から知らされたが、直に顔を合わせたわけではなかった。
アキラの方もヒカルの姿に気付き、ハッとしたように一瞬歩む足が止まるが、すぐに掻き消え睨むような眼差しでヒカルの方へ歩いてくる。
「塔矢、オレやっと」
プロになって追いついた、とヒカルが言おうとする傍を、アキラは無言で通り過ぎる。
名前を呼ばれ、そして視線が交わりお互い認識していて、話しかけられていることに気付かなかったということはありえない。
「なんでぇ、アイツ無視はねーだろ、無視は。アッタマくるな!ちょっと成績が優秀だと……」
ヒカルを探しにきた和谷が、ちょうど無視して通りすぎるアキラの姿をみかけ、ムッとしたように文句を言う。
しかし、文句を言おうとした最後の部分で、流石の和谷も文句の付けれないアキラの好成績に言葉尻が弱くなる。
「お前もどこ行ってたんだよ、急に」
「……追いつくだけじゃない、追い越してやるっアノヤロー」
アキラにお前など眼中にないと暗黙に言われでもしたかのように、ヒカルは表情を険しくさせ、両手をぎゅっと握りしめる。
ヒカルはアキラがいる同じ世界に立ったが、すでにアキラは一年前から走り出している。
その差が今日アキラが受賞する2つの賞なのだ。
対してヒカルはオマケ程度の免状授与のみ。
追いつくだけではなく、追い越さなくてはアキラを見返すことはできないのだとヒカルは知る。
午前の授与式が終わり立食パーティが行われたあと、午後は新入段者研修会がヒカルを待っている。
渡された封筒から書類を取り出し、
「あ、コレ大手合の対戦表だ」
と隣でパラパラ捲る和谷に、ヒカルはその表をヒョイと覗き込む。
「自分の見ろよ」
「オレどこ?」
「最後の方!」
和谷に指摘され、ヒカルが自分の対戦表に視線を戻すと、研修の係員が
「自分の名前の右に書かれている人が初戦の相手になります。順に右へ第2戦、第3戦となっていきます」
詳しく対戦表の見方を説明した。
言われた通りに、ヒカルは対戦表を指さしながら自分の名前を探していく。
「進藤ヒカルっと、……あった!俺の初戦は……え?」
対戦表に書かれていた名前に、ヒカルは数時間前、ヒカルを無視して通り過ぎた相手の横顔が脳裏を過ぎる。
――塔矢!初戦の相手が塔矢!
まさかプロになってこんなに早く対局が回ってくるとは考えておらず、ヒカルは無意識に口元を押さえた。
ヒカルの後ろからその対戦表を見ていた佐為も、
――塔矢との対戦、願ってもないところですね
――塔矢はこのこと知ってんのかな?
――もう宣戦布告してきましたよ、アキラは。すれちがったときのあの目!あれは既に自分がヒカルと対局することを既に知っていたからではありませんか?
佐為に問われ、ヒカルはすれ違ったアキラを思い出す。
話しかけたヒカルを無視するようにアキラは無言で通り過ぎたが、その視線だけはヒカルを睨み見据えていた。
本気で無視をする気だったのなら、視線すら合わせないのでは、とヒカルはようやく思い当たる。
アキラはこの対戦を既に知っていたから、ヒカルをワザと無視したのだ。
アキラはちゃんとヒカルを見ている。
「よぉし!!」
眼の前では研修の係員がまだ書類の説明を続けていたが、対戦に向けて気合を入れるように構わずヒカルは叫んだ。