IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

48 / 61
48

「失礼いたします」

 

すっと静かに障子を開け、

 

「お茶の換えをお持ちしました」

 

女将がしずしずと室内に入ると、盆に乗せて持ってきた急須を、中身の冷めてしまった急須と取替えて新しい湯のみに温かいお茶を淹れなおし、行洋へ差し出す。

 

「ありがとう」

 

「今日はヒカル君はご一緒ではないのですね」

 

部屋に1人きりの行洋に、女将はいつも行洋と一緒に碁を打っている子供の姿がないことを珍しく思う。

ヒカルは行洋の息子ではなかったが、数ヶ月に一度の頻度で店にやってきては、この離れで朝から夕方までずっと2人きりで碁を打っていた。

何故人目を避けるように碁を打つのか、という余計な詮索はしない。

だがその様子は親子というよりは、歳の離れた友人と言った方が相応しいような雰囲気だった。

 

「今日は私1人だ。すまないね、こんな我侭を聞いてもらって」

 

ヒカルは今頃、棋院の幽玄の間で芹澤と対局している真っ最中だろう。

その時間に合わせて、行洋はsaiのHNでネット碁にログインし、saiの足跡を残していく。

 

「いえ、滅相もございません。私などが先生のご指導をする日が来るとは夢にも思っておりませんでしたわ。よい体験をさせて頂きました」

 

普段、碁盤ばかりを前にしている行洋が、今日ばかりは机に置かれたノートパソコンに向かっている。

やっている内容はパソコンでもインターネットで碁を打っているのだが、行洋にパソコンはどうにも見慣れず、女将はつい笑みが堪えきれず、顔を横にそらし口元を押さえた。

 

女将自身は店の経営管理でパソコンは必需品なため、毎日使っていて慣れている。

そしてパソコンを初めて触るという行洋に、簡単なパソコン指導をした。

演算ソフトなどの難しいソフトではなく、ヒカルが分かりやすいように手順を書いたのだろうメモを一緒に見ながら、マウスをクリックするだけで出来るネット碁のやりかたを教えたことを思い出す。

教えると言っても、パソコンを立ち上げ、ネット碁のウィンドウを開いてしまえば、対局申し込みの手順を覚える必要もなく、次々と対局申し込みが入った。

あとは『了承』ボタンをクリックし、ネット碁を打ち、対局終了したら対局室を出る、の繰りかえしで、教えたと言えるほど指導はしてないと思う。

しかし、一度その光景を思い出すと、また笑みが込み上げてきそうになり、女将はまた笑っては失礼と一度会釈してから部屋を後にした。

 

 

If God 48

 

 

新初段のヒカルと芹澤の対局が行われる前。

 

「君から急ぎで会いたいという手紙が来たときは驚いたが、どうしたのかね?」

 

最初はヒカルから送られた手紙で始まったこの関係だったが、それ以降は多忙な行洋の対局の合間をぬうように行洋からの手紙で会う日程を決めていた。

それが久しぶりにヒカルの方から手紙が塔矢家に届き、相談があるので急ぎ会えないかという旨が書かれてあった。

 

棋院の事務に詫びを入れ日程調整をしてもらい、ヒカルと会う時間を行洋は作ったのだが、行洋と再会するやヒカルは挨拶やプロ試験の合格報告などもそぞろに、落ち着きがなく呼び出した本題を切り出す。

 

「実は……今度の新初段なんですが……」

 

言い難そうにヒカルがカフェでの出来事と、新初段の対局相手が芹澤ということ、そしてヒカルがsaiとして疑われていることを、行洋に説明する。

一通り説明を終えたあと、ヒカルが途中で言った言葉に行洋は眉間に皺を寄せた。

対面して打っているのなら顔がばれてしまい、言い逃れは出来ない筈だろう。

疑われるどころではない。

 

「芹澤先生と対面して打った?」

 

「対面なんですけど、擦りガラス越しだったし顔もハッキリと見られていないと思うんです。というか、もし顔をハッキリ見られてたのなら、新初段で対局指名するなんて遠まわしなことしないで、とっくに俺がsaiだろって言ってくると思うし」

 

そうしないということは、芹澤は断定できる確証がないのだろうとヒカルは思う。

確証がないからこそ、芹澤は一度ヒカルと対局しカフェでの人物と比べ確かめようとしている。

 

「ていうか、元々は急に雨が降ってきて雨宿りしようと思って偶然立ち寄っただけなんですっ!そしたら擦りガラス向こうから碁盤の位置を言われて、まさか芹澤先生だったなんて思わなくてっ……」

 

「ふむ。しかし芹澤先生から佐為について何かしら直接言われたのでは?だからこそ私に相談したいと手紙を送ったのだろう?」

 

「ああ、それは緒方先生が教えてくれたんです。芹澤先生がカフェで自分を打ち負かした子供がいるって言ってたから、気をつけろって。だから芹澤先生と俺が顔を会わせて話したことはまだ一度もなくて」

 

「緒方君が……」

 

行洋は思わず顎に手をあて呟く。

緒方がヒカルをsaiの知り合いとして疑っているのは行洋も知っている。

だが、そこで芹澤のことをヒカルに教えて気をつけろと忠告する理由が分からない。

緒方の性格を考えると、saiの正体を欲するなら芹澤とのことを引き合いに、saiについての情報を引き出そうとするように思える。

芹澤が疑っているのはヒカルがsaiでないかということであり、緒方が忠告したのも同じ意味だろう。

 

そこで、ふと思い当たり、行洋は思案していた顔を上げ、不安げな様子のヒカルを見やった。

ヒカルがそのことに気付かなかったとしても、緒方はすでに『知り合い』ではなく、ヒカルがsai本人であると感づいているから、芹澤の話をヒカルにしたのではないだろうか。

そう考えれば芹澤のことをヒカルに忠告した辻褄が合う。

 

だが、行洋の思案を他所に、

 

「で、 今度の新初段で対局相手が芹澤先生で、俺がsaiじゃないかっていう確証はないけど、間違いなく俺を疑ってます。緒方先生のときは、まだsaiと俺が知り合いだろうって別人で考えていたからシラをきり通せばよかったけど、芹澤先生は俺がsaiじゃないかって疑ってる……。どうしたらいいか分からなくて、 俺っ……」

 

緒方が気付いたように芹澤もsaiとヒカルの打ち筋の相似な部分を探してくるだろうと、ヒカルは懸念する。

新初段でトップ棋士側ならいざしらず、新人棋士の方が手をぬくというのは、前代未聞だろう。

緊張したフリをして手が引っ込んでしまったと誤魔化すことは出来るかもしれないが、余計に芹澤に疑われる可能性がある。

何より、新初段は棋譜が残りアキラが目にするかもしれないのだ。

そんな対局をヒカルは自ら駄目にするような真似はしたくなかった。

 

「俺が誰かと打ってるときに、saiがネット碁に現われるのが一番いいんだろうけど、そんなの絶対無理だし」

 

「ふむ、進藤君とsaiが同時に存在するということか」

 

ヒカルが溜息をつきながら何気なく呟いた一言を、行洋は反芻する。

 

「それでいこうか」

 

「はい?」

 

行洋が何を言いたいのか理解できず、ヒカルは首を傾げた。

 

「君が新初段で対局中、saiがネットに現われる。そうすれば、進藤君とsaiは別人という決定的証拠になる」

 

「でもっ!佐為は俺に取り憑いてるから俺の傍から離れられないし、それに姿や声だって俺にしか!」

 

ヒカルの隣に座っている佐為も、ヒカルの意見に同意して首を縦にブンブン振る。

 

「そう。だから私がsaiとして打とう。もし佐為がそれでよければだが。私がsaiとして打つことを了解してもらえるなら」

 

どうだろうか?、と突然の行洋の申し出に、ヒカルは絶句して佐為の方を見やる。

『どうする?』と佐為に問いたいのだが声が全く出ない。

 

佐為の方もヒカルの気持ちは十分分かり、何が言いたいのかも伝わってきたので

 

――この場合、致し方ないのでしょうし、そうすればヒカルと私が別人という証拠になるのでしょう?でしたら私の代わりに行洋殿に打ってもらえるのに、何ら断る理由などありませんが……

 

佐為の返事の半分も、ヒカルは頭に入らない。

5冠のトップ棋士にネット碁の代打ちをさせるなんてとんでもないと囲碁界に疎いヒカルでも分かる。

対局申し込みしてくる相手はsaiと思っているのに、実は違うというのは可哀想な気がしなくもないが、塔矢行洋と打っていると知れば責めるどころか逆に喜ぶだろう。

しかし、とヒカルはある一点がどうしても引っかかり、真顔で、

 

「佐為はOK、っていうか……先生がネット碁するんですか?」

 

碁盤は誰より似合っても、パソコンに向かいネット碁をしている行洋の姿が、ヒカルには全く想像できなかった。

言った後で、不躾な質問だったとヒカルは思ったが、言ってしまったのを今更取り消すことはできない。

 

「パソコンは不慣れだが、碁を打つのは得意だよ」

 

『心外だな』とばかりに微笑む行洋の瞳に、ヒカルは普段、厳格なイメージしかない行洋から微かな悪戯心が垣間見えた気がした。

 

「代打ちとしても、佐為の代わりだと思うと責任重大だな。決して負けてはいけないのだからね」

 

朗らかだった行洋の眼差しがほんの一瞬剣呑さを帯びる。

そうして芹澤だけでなく、いつ勘づいたか知らない緒方も共に煙に巻いてしまおうか。

これ以上<藤原佐為>に近づけさせないために。

 

 

■□■□

 

 

「緒方さん、先ほどモニター室で言われたのはどういう意味ですか?」

 

棋院から出てきた緒方を捕まえ、アキラは開口一番問いただす。

 

「……そのままの意味だが?」

 

駐車場に留めてある車へ向かいながら緒方は答えた。

その後ろからアキラは置いてかれまいと早歩きでついていく。

 

「僕に言う前に『馬鹿な』と仰ってましたよね。あれはsaiが現われる筈がないのに現われたことに対しての言葉ではないですか?」

 

「…………」

 

同じ弟弟子でも天然で能天気な芦原と違い、アキラは実に鋭いところを突いてくると緒方は思う。

もっとも緒方自身分かってて、アキラにそんなヒントを与えたので、問われたところで今更焦りはしない。

 

「家まで送ろう。話は車の中だ」

 

どこで誰が聞いているか分からない。

車に乗り込み、棋院を出てしばらくしたところで緒方はようやく口を開いた。

 

「アキラ君は進藤がsaiじゃないかと疑っているようだが、俺も最近になって同じ事を考えていた」

 

「では!緒方さんはどこかでsaiと進藤が繋がっている何か確証でもっ」

 

一年以上前にしたアキラとsaiとの対局。

saiの打つ一手がヒカルと被り、そして追っても追っても逃げられてしまったヒカルをようやく掴まえたような気がした。

しかし、ヒカルがsaiとするにはどうしようもなく棋力の差があり、誰に言うこともできなかったが、緒方も自分と同じ考えだったことが分かって、アキラはずっと心の中に溜めていたものが爆発するように、声を荒立て緒方に詰め寄る。

 

「根拠は言えない。何しろそう思っていたのに、進藤の対局中にsaiが現われたんだ。根拠そのものが崩れたと言っていい」

 

アキラが言い詰め寄る途中で口を挟み、緒方は否定する。

根拠が崩れたと口にしたが、やはりsaiはヒカルだと緒方は思う。

新初段の対局直後に芹澤がヒカルがsaiと言おうとしたのを、寸前で止めた時、ヒカルは明らかに安堵した表情を見せた。

 

ヒカルは自身の対局中にsaiが現われることを予め知っていたのだ。

 

ヒカルに詰め寄ったとき、まだ知り合い程度の疑惑だったからアッカンベーくらいの可愛い悪戯で自分は済んだのだと緒方は思う。

もしsaiがヒカルだとして正面からぶつかっていれば、芹澤と同様に緒方も煙に巻かれただろう。

ヒカルの背後にいて、トップ棋士に並ぶ棋力を持った誰かによって。

ヒカルは1人ではない。

誰かがヒカルの後ろにいて、ヒカルの中のsaiを守り、隠そうとしている。

 

「ところで、進藤の対局はどうだった?俺は途中で抜けてしまったが」

 

「途中の一手で、芹澤先生に上をいかれて、その後は猛攻に耐えられず投了しました……」

 

ヒカルの打った一手を新人棋士の気持ちが逸ったただの悪手と判断せず、20分かけてよみきった芹澤の冷静さは流石だとアキラは思った。

モニター前で対局を見ていた桑原も、芹澤が長考したことでヒカルの意図に気付いたようで『オモシロイ小僧じゃ』と言って高笑いしていた。

 

しかし、ヒカルが負けた直接の敗因はその一手のみ。

それ以前も、それ以後も、ヒカルに悪手はなく、トップ棋士相手に大健闘したと言える。

中学囲碁大会でアキラを落胆させた一局を思えば、そこからここまで力をつけたのだとすると、恐るべき成長だろう。

これまで見ることも聞くこともできなかったヒカルがアキラを追ってくる足音が、今日の対局で初めて見えた気がした。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。