IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
地方で行われるイベントに芹澤はおもむき、午前の対局を少し長引かせながらも終えることができた。
対局といっても公式手合いではなく、イベントに参加している客へ分かりやすく見せるための碁でもあるので、そこまで神経を疲労するものではない。
しかし対局相手がイベントでの対局に慣れないらしく、その相手に合わせるように打ったため、予定時間を若干押してしまった。
相手は高段の芹澤に迷惑をかけてしまったと、イベント会場の外で生真面目に平謝りしてきたが、それに対し気にしてないから大丈夫だと苦笑しながら答えた。
ようやく食事休憩が取れるかと思い、関係者用の張り紙の貼られたドアを開けると、休憩室の一角に人だかりができ、その後ろに碁盤を広げ、食事休憩をしている棋士は1人もいなかった。
「どうかしたのかね?」
その人だかりに芹澤は声をかける。
すると、碁盤の前に座っていた1人が、芹澤の姿に気付き、
「saiが中国のプロ棋士、楊海7段と対局してるんですが、芹澤先生もごらんになりませんか?持ち時間3時間の互戦。すでに中国サイトでは観戦しながらチャットしているところまで現われて騒ぎになってるんです」
「saiが!?」
『sai』という言葉に、芹澤は走り去る子供の後姿が脳裏に浮かんだ。
If God 44
楊海がsaiと対局するにあたり、勝敗よりも確かめてみたいことがあった。
saiが人間かどうかということである。
ネット碁にsaiが現われてから一年と少し。
最強の強さを見せつけ、ネットのみならず、リアルの世界でもその強さが騒がれるようになった今でも、saiの正体は已然として何一つ不明のままだということに、楊海は疑問を持っていた。
ネット碁に現われた段階でsaiは既に強かったのだという。
となると、ネット碁に現われる以前はどうなのだろうか。
本を読む、詰め碁を解く、棋譜を並べるといった、囲碁を学ぶ方法はいくらでもある。
しかし、強くなるためには必ず自分以外の誰かと対局しなければ、自らの短所に気付き、鍛え強くなることはできない。
そしてsaiが強くなるにつれ、対局相手もsaiと同等かそれ以上に強くなければならない。
そうして碁打ちとして力をつけていく段階で、saiと他人との繋がりが築かれるのだ。
saiが人であれば。
けれど、saiが人ならば強くなる段階で周囲がそのことにいくらか気付き騒ぎ立てるだろう。
アマがプロ以上に強いのだ。
saiもそれだけの棋力をもつためにはプロ以上と対局を重ねなければならない。
騒がれない方がおかしい。
だが、そういったことが無く、人の繋がりを一切受け付けずに強くなることが出来る可能性を、楊海は模索した。
それが人を越えるのは、まだ100年かかると言われている存在。
それならば、ネット碁の中にしか現われないことも、誰もsaiの素性が知れないことも得心がいく。
「嘘だろ……」
それは対局している楊海ではなく、楊海の後ろからパソコン画面に映された対局画面を眺めていた劉の呟きだった。
saiと対局している楊海は瞬きも忘れたように、無言でディスプレイを見つめている。
趣味の語学とパソコンにはまっている楊海を劉は冷やかしもするが、楊海の碁の実力が決して劣っているわけではない。
中国棋院きっての実力派の棋士で、トップクラスの棋力を持っている。
その楊海が本気になって打ってなお、saiの実力は上を行っている。
囲碁なら日本だと言われていたのは、すでに遠く久しい。
国を挙げて奨励する韓国や中国の勢いに押され追い越されるのもそう遠くないだろう。
現に、日本で中韓と渡り合えるのは行洋1人ぐらいのものだ。
中国棋院でも楊海の力碁に対抗できる者は五本の指でも余るほどだ。
それなのに、日本人だというsaiは平然と黙して、楊海を力でねじ伏せようとしている。
元々はと言えば、楊海が最初に得意の力碁でペースを掴もうとしたことに発するが、その力碁をかわすどころか真っ向から迎え撃ち、逆に叩きのめさんばかりの力碁で楊海を追い詰めている。
無言のまま楊海が投了ボタンをクリックする横顔を劉はじっと見ているだけだった。
楊海の判断は正しい。
このまま打っても決して勝てない。
「AIじゃなかったか……」
公式手合い並みの真剣な表情がゆるみ、勝敗のことはいくらも気にした様子もなく楊海がポツリと零す。
「AI?」
「もしかしたら、saiはどこかの誰かが開発した人工知能かと思っていたんだ」
それを見極めるために、楊海は序盤から戦いを仕掛け、力碁でsaiを測ろうとした。
感情のないAIであれば力碁など見向きもしないだろう。
しかし、楊海の強引な力碁を無視するどころか、同じ力碁で迎え撃ってきた。
「コンピュータ―が囲碁で人の上にいくのは、あと100年かかると言われてないか?」
どんなに強いパソコンゲームでもアマの初段に到達できるかどうか怪しいと劉は首を捻る。
「だが、突然ネットの中に現われ、プロでもない正体不明の棋士なら、もしかしてと思ったんだよ。でも、これはAIじゃない。saiは……saiはとても人臭いよ。無感情じゃない」
楊海はおもむろに右手を上げ、ディスプレイを手の平で触ると、機械特有の熱が手のひらに伝わってきた。
相手の顔は見えなくても、打ってくる一手一手が、ピリピリとした空気と気迫と共に、相手の感情を伝えてくる。
AIに感情はない。
一手の中に感情を込めるのは人だけなのだ。
■□■□
楊海の投了で終了した対局に、
「やっぱりsaiが勝ったか……」
パソコン画面を見ていた川崎が呟く。
saiが楊海と対局をしていることが分かってから、イベントスケジュールが空いている者達は午前から交代するようにしてパソコンディスプレイでの観戦と同時に、碁盤にその対局を並べて検討していた。
今頃、昼のイベントが始まり、対局や解説、指導碁をしている者は、saiと楊海の対局結果が気になって仕方が無いはずだ。
中国棋院でも実力派という楊海は、噂以上の実力だろう。
近年力をつけ勢いを増している中国でトップ棋士の1人に数えられるだけの実力を見せた。
日本の棋士が打っていれば、楊海が打って見せた力碁にまずやられていたはずだ。
ただ強引にいくだけではなく、緻密(ちみつ)さと繊細(せんさい)さを兼ね合わせた力溢れる碁だった。
それをsaiは真っ向から迎え撃ち、同じく力碁でねじ伏せた。
ずば抜けたヨミがあってこそ成し得る力碁だろう。
全てにおいて計算し尽くされた大胆さと豪胆さ。
真逆の力碁で楊海を退けた。
「あ、どこにっ?芹澤先生」
それまでずっと、saiと楊海の対局を中心で見ていた芹澤が急に席を立ち、
「失礼……」
塞ぎこんだ様子で休憩室を出て行く。
そしてポケットから携帯を取り出すと、登録されている番号の一つに発信した。
コール音が耳元で鳴るのを聞きながら、人気が無い場所を探し廊下を歩く。
5コールが鳴る直前に週刊碁の編集部が出る。
『はい、週刊碁編集部です』
「棋士の芹澤です。天野さんはいらっしゃいますか?」
『はい、少々お待ちください』
『もしもし、天野です。芹澤先生、どうされました?』
電話にでた目的の人物に、芹澤は一呼吸おいて、思い切ったように用件を切り出す。
「折り入ってお願いがありまして……」
『お願いですか?何でしょう?』
「新人棋士とトップ棋士を対局させるという新初段ですが、私に出させていただけないでしょうか?」
『それは願ってもない!芹澤先生が出てくれるのでしたら是非!』
突然、トップ棋士の芹澤が己に電話してきたことに、なにか大事でもあったのかと怪しみながら天野は電話を取ったのだが、芹澤から切り出された話に天野は二の句もなく承諾する。
毎年、プロ試験に合格した新人棋士に対して行われる対局ではあるが、多忙なトップ棋士の時間を裂いてまで対局することに、どうしても快諾とまでにはいかない。
そのいい例として去年、一昨年と、天野は行洋に多忙を理由に断られている。
芹澤もタイトルホルダーではないものの、タイトルをかけリーグ戦で凌ぎを削るトップ棋士の1人であることは間違いない。
その芹澤から新初段に出たいと言われて断る理由はどこにもなかった。
「ただし、相手を指名させていただきたいのです」
『指名?』
電話口から聞こえてくる真剣味を帯びた芹澤の声に、天野も訝しむような口調になってしまった。
これまで新初段に出てくれたトップ棋士が、新人棋士を予め指名した前例はない。
「はい。進藤ヒカル、彼と対局させていただきたい」
新初段に出たい理由が、ヒカルがsaiかどうか見極めるためだと言えば、思慮が足らず大人気ないと思われるかもしれない。
囲碁を覚えてたった2年でプロ棋士になったとしても、なんの証拠もなくsaiかもしれないと周りに言ったところで、考えすぎと一蹴されてしまうだろう。
それでも、と思う。
これまで見たsaiの棋譜、カフェでの一局、プロ試験最終戦でのヒカルの一局、そしてついさっきみたsaiと楊海の対局。
誰に何を言われてもいい。
ヒカルがsaiでないかもしれなくても、もう一度擦りガラスの向こうにいたsaiに会う為には、プロ棋士としての面子もプライドも捨て、一介の碁打ちに戻り碁を打つことが必要なのかもしれない。