IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
『ピコン』という音が鳴ると同時に、PCディスプレイに対局相手の投了が表示される。
佐為が勝ったのだ。
「よしっ」
それを確認してすぐにヒカルは対局画面を出る。
下手に対局画面を開いたままにしていると、対局相手がチャットをしてくるので、それを避けるためである。
しかし対局画面を出たら出たで、今度は対局が終わったsaiへの対局申し込みが押し寄せてくるのだが、そちらは断っても断ってもキリが無いのでヒカルは放置することにしている。
もし佐為が続けて打つのなら、ディスプレイに映っている対局申し込みを了承し対局するだけであり、対局しなければログアウトしてしまえばいい。
「ずっと俺のプロ試験優先にしてきたから、お前あんまりネット碁できなかっただろ?プロとしての対局は春からだし、しばらくお前に付き合ってやるよ」
――ほんとですか!?
沢山打てると分かった佐為が諸手をあげて嬉しそうに喜ぶ。
その無邪気な姿に、ヒカルもクスリと笑む。
プロ試験の合格が決まるまで、行洋もだが、佐為もまたヒカルのために一生懸命指導してくれた。
面と向かっては言わないが、これがヒカルなりの佐為へのお礼だった。
「負けたら俺に交代だけどな。それより、最近は強いやつしか対局申し込みしてこなくなったな。前は弱いやつでも平気で申し込みしてきたのに。……saiの名前が有名になり過ぎて、強いヤツしか申し込みしなくなったとか?」
放置している対局申し込み画面を見ながら、ヒカルは独りごちる。
対局申し込みしてくる適当な相手と対局しているだけなのに、先ほど対局した相手ももちろん強かった。
プロには少し棋力が足らないようだったが、アマでも十分高段者だろう。
チラリと時計を見て、晩御飯までにまだ時間があるのを確認してから、ヒカルが佐為にもう一局打たせられるかなと迷っていると、
『私は中国のプロ棋士、楊海(ヤンハイ)7段です。sai、あなたと是非対局したい。対局の日時はあなたのご都合に合わせます。持ち時間3時間の互戦で対局して頂けませんか?』
画面に表示されたメッセージの『中国のプロ棋士』という文字にヒカルの目がいく。
「中国の?日本語だけどマジで?」
これまでも数え切れないほど海外のプレーヤーからチャットやメッセージで話しかけられたことはあったが、それらはほとんど英語だった。
対局中のプレーヤーにメッセージは送れない。
だから、saiの対局待ち中の短い時間にメッセージ入力画面に文章を打ち込んで送れたとしても、内容の大半がsaiの素性に関するものだったので、ヒカルは全部無視していた。
例外として韓国のプロ棋士、安太善と知らず対局の約束をした時、日取りを改めての対局を打診されたことはあったが、その時ですら、文章は全てひらがなだけだった。
違和感のない日本語の文章。
――中国というのは唐の国のことですよね。この箱は本当にすごいですね。海を越えた者たちとも対局ができるなんて
メッセージの文章を眺めながら佐為は感心したように呟く。
けれど、ヒカルもインターネットの仕組みについて完全に理解しているわけではないので、説明できようもなく、佐為の呟きは無視することにして
「どうする?中国のプロ棋士だって」
マウスに手を置いたまま、顔だけ振り向いて佐為に問いかける。
――私はもちろん構いません。何時にしましょうか
「うーん、それじゃあ……」
■□■□
「きたっ、よし!了承だ!」
画面に映された『わかりました。次の日曜日、朝10時からでおねがいします』の文字に、思わず楊海はぐっと拳を強く握り締めた。
「朝10時……日本時間の10時か……」
saiの指定してきた時間に、楊海は承諾の旨を返信する。
すると送信して間もなくsaiはネットから消えてしまった。
ほんの短い時間のやりとりだったが、メッセージごときでこんなに緊張するのは、初めて女の子をデートに誘ったとき以来だと楊海は明後日なことを思う。
「楊海の語学力がこんなところで役立つとはなぁ~」
普段から周囲に『語学が趣味』と言ってはばからず、碁の勉強そっちのけで外国語を勉強している楊海に、劉が苦言をこぼしたことも何度かあったが、まさかsaiとの対局申し込みでその語学が役立つとは、何があるか分からない。
「少しは見直したか」
日本語を理解し、文章を打てるかどうかで、saiと対局したいと思う他の中国プロ棋士達を出し抜き、楊海とsaiの対局が叶ったのだ。
自慢げに鼻を鳴らす楊海に、劉は親指と人差し指で1ミリほどの幅を作り、
「ほんのこれっぽっちな」
「てめぇっ」
見直すどころかからかってくるに、楊海は大声を上げ睨む。
しかし、すぐにパソコンに向き直し、
「ホント、saiへの対局申し込みが集中し過ぎて、サーバー側が対局申し込み規制をかけてしまったせいで、4段以下はsaiへ対局申し込みできなくなってしまったとは恐れ入る」
段級位は、対局相手の段級位とその相手との勝敗数で決まる。
お陰でアカウントを登録してから、ゲーム内の段位をあげるために、アマであろうユーザーと楊海は何局も打つ羽目になった。
正確に言えば、囲碁ソフト内の段級位が自分より4つ以上には対局申し込みできない仕様になったことで、ゲーム内で最高段位の8段であるsaiへは最低5段以上でないと対局申し込み出来なくなったのだ。
絶対に5段以内でなければsaiと対局できないわけではなく、saiの方から低段者に対局を申し込めば対局可能だが、saiが誰かに対局を申し込むと言うこと自体がまずない。
対局制限が設けられた原因は、明らかにsaiだろうが、saiという特定ユーザーの名前を運営側は出すことなく、サーバー負担を軽減するためという理由を適当にでっちあげたらしい。
けれど、規制と同時にもサーバーそのものの補強などもしている。
その点で言えば、saiの対局を見ようとする観戦数の増加でサーバーダウンしないだけありがたいとも受け取れる。
「ただ、最大の問題は日本との時差、か」
と呟きならが、ふぅ、と壁にかけてある時計を楊海は見やる。
こればかりは中国と日本という距離的に致仕方ない。
saiの都合に合わせると申し出た手前、どうしても中国にいる楊海は日本時間に合わせることになり、楊海のいる北京が1時間早い朝9時になる。
「ていうか、対局はsaiの都合に合わせるったって、もし楊海自身の対局とかぶったらどうするつもりだったんだ?」
「リーグ戦とかの団体戦は落ち着いてる。もし他の手合いに重なったら、仕方ない」
「仕方ない?saiとの対局をすっぽかすのか?」
「逆だ」
「手合いをサボる気か!?」
健康上の理由や、どうしても行けない用事でもないのに、プロが公式手合いをサボるというのが、どれほど信頼を失うものか楊海も分かっているはずだろう、と劉は問い詰める。
しかし、楊海は至って平静のまま、
「それだけの価値は十分ある、このsaiは。でも多分、かぶらないと予想してた」
「何を根拠に?」
「saiの現われるパターンは平日は夜だけで、朝から打ってるのは土日くらい。となると、持ち時間3時間の互戦で打てるのは土日に限られる。公式手合は平日だからな。かぶるとしてもイベントくらいだ」
「……つまりは確信犯だったってことか」
「そゆこと。頭脳派と言ってくれ」
思惑通りにいったことに、楊海はニヤリと口の端を斜めにあげた。
□■□■
――似ている……と、思う……
石一つ一つを、芹澤は求める人物の面影を何一つ見逃さないよう、ゆっくり、時間をかけて何度も並べた。
そして同時に、カフェで打った一局と、インターネットでsaiが打った棋譜も取り寄せ、何時間もかけ見比べた。
黒石の先を行く白石は、プロになっても十分渡り合っていける実力だろう。
しかし、この棋譜を芹澤が院生師範の篠田に並べてもらっているとき、恐るべき事実を聞かされた。
白石の進藤ヒカルという子供は、囲碁を覚えて2年でここまで打てるようになったのだという。
それも師匠もおらず、森下の研究会に顔を出しているだけらしい。
俄かには信じがたい経歴だった。
プロになったほとんどの者が幼少から碁に慣れ親しみ、しかるべきプロ棋士に師事するなどして切磋琢磨し、ようやく一握りの者がプロになれるというのに、そんな経歴もなくたった2年でプロの世界に辿り着くことが出来るのだろうか。
だが、何度並べて、似ていると思っても、芹澤はそこに確信を持つことが出来ない。
どうしても不確定に終わってしまう。
認めるにしろ、否定するにしろ、進藤ヒカル本人に聞くのが一番早い。
しかし、もし違っていれば?
たとえ人目のないところで聞いたとしても、プロ試験に合格したばかりの子供に、『saiか?』と尋ねて否定されたときを思うと、どうしても行動に移すことが出来ない。
芹澤の歳にもなると、若い頃の勢いだけで行動するということが出来ない。
体が動くより先に、頭が行動を考える。
そこに確かな証拠や確証がなければ、動くことを躊躇ってしまう。
何もない若者と違い、大人になればそれまで培ってきたものに対して、恥や外聞が出てくる。
仮にゆずって2年でプロになれたとしよう。
碁を覚えて間もなくプロ棋士の下に師事しているが、倉田もまた2年でプロになった。
だが、その2年前にsaiはネットに現われ、並みいる強者を蹴散らしてきた。
となるとヒカルとsaiとの辻褄が合わなくなる。
辻褄を合わせようとすれば、やはり芹澤が最初に興味を持った独り碁。
saiは、1人で二つの棋力を打ち分けていた。
新聞に掲載された小さな顔写真。
「君なのか?」
返事がないと分かっていて、声に出てしまっていた。