IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
――対局開始、10分前か……
北海道旭川で行われる王座戦。
その会場となるホテルのエレベーターを待ちながら、腕時計の針が示す時間を座間は確認する。
前日から旭川に入り、座間自身、心身ともに万全の状態で、己の保有する王座のタイトルをかけた対局に迎えることができたと思う。
『チン』というお決まりの音を立て、エレベーターの扉が開く。
そこに今日、王座のタイトルをかけ、挑戦者として座間に挑んでくる相手が立っていた。
「おはようございます。座間先生」
「おはようございます」
行洋の挨拶に、座間も持っていた扇をパチリと音を立て閉じながら挨拶を返し、エレベーターに乗り込む。
そして王座戦の前に行われた名人戦の話題を出す。
名人戦の結果は棋院から送られてきた棋譜のファックスで座間は知ることが出来たが、その結果内容は近年稀に見る現タイトルホルダーである行洋のストレート勝ちだった。
対局の内容も全て行洋の圧巻。
タイトルをかけた対局では、どんな棋士も大概一敗し、他の対局を勝ち取りタイトルを防衛、または奪取するものなのだが、行洋はそんな一分の隙さえ与えなかった。
「そういえば、名人位防衛6連覇のお祝いをまだ言ってませんでしたね。おめでとうございます。塔矢先生」
「どうも」
「しかし、先日の棋聖戦の挑戦権まで得られて、対局過多ではありませんか?」
「ご心配ありがとうございます。しかし、ご心配には及びません。おかげさまで、心身共に万全ですよ」
「……それは何よりです」
座間を一瞥することなく小さな微笑をたたえ、行洋はそつなく答える。
すでにタイトルをかけ戦うことも日常茶飯事となった行洋には、対局前の前哨戦ですら慣れたものでしかないのかもしれない。
行洋相手に盤外戦に至っては論外だ。
だが、それを分かっていて、揺らぐことのない行洋の落ち着きに座間はこれまでにない不気味さを覚える。
「どうぞ、座間王座」
対局用の部屋に着き、現王座である座間へ、行洋は対局部屋の入室順を譲る。
座間が入室すると、すでに対局用の部屋で準備をしていた係員が頭を下げ
「おはようございます」
という挨拶に、座間は小さな会釈のみを返し、上座に座った。
周囲が行洋に5冠の期待を寄せているのは、わざわざ聞かなくても自然と座間の耳に入ってくる。
名人位を防衛し、聖戦の挑戦者権も得た行洋の勢いは、座間も決して無視できるものではない。
急に碁が若返りそれまで以上に強くなった行洋の実力が、如実に反映された結果のように座間は思う。
熟した碁の中に新たに芽生えた、若さと勢い、そして最善の一手を求める渇望にも似た貪欲さ。
むざむざ王座のタイトルを行洋にくれてやる気は座間には無い。
実力の無い者がタイトルにしがみつくことが見苦しいとしても、タイトルという響きは甘く甘美で、手に入れることができるものなら、どんなことをしてでも欲しいと考えるのが人の性だろう。
しかし、対座し、薄く開いた眼差しでまだ石の置かれていない碁盤を見つめている行洋を見て、座間は行洋が己とは違うのだと思った。
行洋が求めているのはタイトルではないし、タイトルそのものを見ていない。
遥か遠く、そして高みだけを見ている。
タイトルは単に一手を追求する過程で付随してくるおまけ程度でしかないのだ。
If God 42
年末の対局スケジュールを受け取りに棋院へ顔を出すと、そこにふと見知った顔を見かけ、芹澤は足早に相手に歩み寄り声をかける。
軽く頭を下げながら、
「篠田先生、今年もプロ試験の監督、お疲れ様でした」
大手合や、何かタイトルの予選、事務手続きなどがなければ、棋院に顔を出すこともない芹澤をはじめとする多くのプロ棋士と比べて、篠田は院生師範として、棋院にいる頻度は間違いなく多い。
自身の碁の勉強もあるのに、後輩の育成のためと自ら進んで院生師範を務めてくれている篠田に、芹澤は感謝と共に、その苦労を労う。
篠田も声をかけてきた芹澤に気付き、柔らかな物腰で
「いえ、毎年のことです。もう慣れましたよ」
と答える。
その話の流れで芹澤は軽い気持ちでプロ試験の様子を尋ねてみた。
毎年行われるプロ試験ではあるが、近年はアキラを除き、これといって頭角を現してくる新人棋士はいない。
トップ棋士として、新人棋士達をだらしが無いと嘆くべきか、それとも新たなる強敵が現われないと喜ぶべきかは微妙だが、いずれ芹澤も歳を取り心身の衰えと共に引退する日が必ず来だろう。
「去年は塔矢君が1人抜きん出てしまった印象を受けたのですが、今年はどうでしたか?合格者に将来期待できるような新人はいましたか?」
「そうですね、誰々は期待できるできないと私が区別することはできませんが……強いて言うとすれば、進藤君でしょうね」
「進藤?」
「ええ、院生だった子なのですが、その成長たるや、長年多くの院生を見てきた私ですら目を見張るような成長です。院生試験を受けたばかりの頃こそ、まだまだ未熟さが多く見られましたが、あっという間に1組になり、今年のプロ試験は全勝で合格するまでになりました」
常日頃より院生を平等に見る姿勢を心がけているという篠田から、めずらしく特定の1人の名前が出てきて、芹澤は目を見張る。
先ほど期待出来る新人はいるかと尋ねても、世間話の一環であり、名前が出てくるのを期待していたわけではなかった。
進藤という名前を芹澤は初めて耳にするが、篠田が一目置くほど才能のある子なのだろうかと興味が沸いてくる。
「ほぉ、全勝とはすごいですね」
「ああ、ちょうどいいところに。この子ですよ。この前髪がちょっと明るい子です」
近くにあった週刊碁の新聞を手に取り、篠田はそこに載せられていた小さな記事を指差す。
今年のプロ試験に合格した3人の顔写真、その中の1人を。
「え?」
篠田が指差した1人の顔写真を見て、芹澤がピクリと反応する。
心臓がドクンと大きく脈打ったような気がした。
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
篠田から新聞を受け取り、顔を近づけじっと見つめる。
前髪が明るく、中学生くらいの幼さが見られる容姿。
――似ている……?
進藤ヒカルと顔写真の下に紹介されている子供が、芹澤の曖昧な記憶の中にいる1人の存在に被る。
擦りガラスの向こうにいたsaiと思われる子供。
たった一度の対局と、擦りガラス越しで子供の顔をはっきり見ておらず、曖昧ということから、誰かに話すことも無責任に思われ、直後に会った緒方以外の誰にも話してはいない。
しかし、その緒方にさえ言わなかったが、擦りガラス越しでぼやけた肖像からも、その子供の前髪が明るいように見えたように思う。
擦りガラス越しに対局した相手は、子供ではあったがその実力はトッププロの芹澤を打ち負かし、けれどプロではない。
だが、芹澤と対局する直前、子供は1人碁らしきものを打っていた。
片方は芹澤が負けてしまった脅威の実力、もう一つは院生クラスの実力。
その二つの実力を、奇妙に、そして器用に打ち分けていた。
強い方の実力で芹澤を打ち負かしたように、反対に弱い方の院生クラスの実力でプロ試験を打ち分けているとすればどうだろうか。
saiとして騒がれることなく、院生の中に紛れることが出来るかもしれない。
勝手な憶測ではあったが、一度考えてしまうと、どんどん新聞に映った顔写真の子供が、擦りガラス越しの子供に見えてくる。
「篠田先生、突然で恐縮なのですが、この子の打った対局をご存知ありませんか?」
「進藤君の打った対局ですか?」
ヒカルの顔写真を見た途端、急に顔色を変えた芹澤の気迫に篠田は推されながらも
「ええ、出来れば最近のものであればあるほどいい」
「プロ試験最終戦で打った対局でよろしければ、私もちょうど見ていましたので並べることが出来ますよ」
「では!是非それを見せていただけないでしょうか?」
頼み込む芹澤に、空いている部屋で並べましょうと、篠田は快く承諾する。
その篠田について行こうとして、芹澤はもう一度新聞の顔写真『進藤ヒカル』という名前と共に見やった。