IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
最終戦開始時間ギリギリになって越智は現われ、碁盤を挟みヒカルに対座する。
じっと見据えてくる越智の後ろに、アキラの幻影が座り、ヒカルをじっと見ているように思う。
アキラが越智を通し、ヒカルの実力を見定めようとしている。
昨日、和谷との対局を終え、休憩室で越智からアキラの存在を聞かされたときはヒカルも動揺してしまったが、緒方と一局打ち、一晩経つことで平静を取り戻すことができた。
ふぅ、と一度深く息を吐き出し、越智から盤上に視線を移す。
これから打つ対局をアキラが見るかもしれない。
そう思うと、中学囲碁大会でヒカルを見下すアキラの眼差しが思い浮かぶ。
あれから自分はアキラにどれくらい近づけただろうか。
越智を通して見定めるのはアキラだから、ヒカルにはどれくらいその距離が縮まったのか分からない。
それともプロの中でもまれ、アキラはさらに遠い先に行ってしまったのだろうか。
対局開始時間になり先番の越智が黒石を打った。
If God 41
――ありえないっ!こんなっ、たった2ヶ月でこんなことっ!
越智がヒカルと最後に打ったのは2ヶ月前のことだったが、その時対局したヒカルは、自分の敵ではないという印象だった。
いつの間にか1組にいて、伊角や和谷たちとつるんでいたことは知っていた。
そして伊角に勝ち、先日の和谷にも勝ち、全勝で最終戦を迎えている。
ヒカルと対戦した者が、ヒカルが強くなっていると噂しているのも知っていたが、越智は信じなかった。
どんなに強くなろうともたった2ヶ月では自分には及ばないとタカをくくっていたことと、越智自身がアキラと何度も打ち、自らも強くなっているという自負があったからである。
しかし、そんな越智の自信さえ、脆くも崩れ去ろうとしていた。
――これが進藤!?塔矢はこのことに気付いていたのか!?
だからあれほどまでにアキラがヒカルに注意しろと繰り返し、そして指導相手の越智ではなく、ヒカルばかり気にかけていたのかと思う。
黒石を打つ越智の指が小さく振るえる。
その一手に、ヒカルの傍らで対局を観戦していた佐為は、動揺、困惑、そして驚愕が如実に反映されているようだと思う。
アキラも越智を出来る限り鍛えようとしたらしいが、もはやヒカルはそんなアキラの思惑の範疇に収まりきらない。
越智ではもうヒカルを押さえることは出来ない。
ヒカルは本当に強くなった。
佐為がヒカルと出会ってから2年で、ここまで上達するというのは、努力だけでは成しえない。
ヒカルの中に人知れず眠っていた才能が、佐為と出会い、アキラと打ち、多くの打ち手と対局をこなしながら、行洋と佐為の対局を一番近くで見ていたからこそ、育つことの出来た才能だろう。
そしてその才能が、しっかりと根を張り固めた地盤を基礎として、このプロ試験の間に、大きく開花した。
ぎゅっと握りしめた両拳を膝の上に置いたまま、越智が次の一手を打つことなく15分の時間が過ぎた頃
「……ありません」
「ありがとうございました」
越智の投了にヒカルは礼をする。
碁盤の傍でヒカルと越智の対局を観戦していた院生指南の篠田が
「予想以上に開いたな。進藤君の力が完全に越智君を上回っている。越智くんが進藤くんに勝つことが目標だと言ったのが分かる。それにしても進藤くんは本当に強くなったね。驚いたよ、プロ試験の短い期間によくここまで……」
ヒカルの打ちまわしに篠田が、ふむ、と小さく唸る。
「進藤……」
俯いたままの越智に名前を呼ばれ、ヒカルは盤面から顔を上げる。
「何?」
「この前、緒方先生に連れられてどこか行っただろ」
「うん」
「お前、緒方先生に指導してもらってたのか?」
「指導なんてしてもらってないよ。あのときは、合格祝いに食事奢ってもらって、そのあと一局打っただけだ。その一局だって緒方先生と初めて打ったものだし」
「……そう」
それだけ言うと、盤上の黒石を片付け、越智は席を立って試験場を出て行く。
――勝ちましたね。ヒカル
――うん。やっと、塔矢と同じ世界で打てるんだ
この対局の棋譜を、アキラが越智から聞くかどうかは分からない。
ただ、ヒカルが勝ったことだけは記録に残り、アキラの目にも留まるだろう。
■□■□
『はい。塔矢でございます』
電話口から聞こえてきた上品な女性の声にヒカルはドキリとして、思わず背筋がピンと伸びてしまう。
アキラが電話を取らなかっただけマシだったが、塔矢家に電話しているだけでヒカルはどうしようもなく緊張してしまう。
もちろん行洋が電話に出てくれるのが一番だったのだが、もし最悪、アキラが出たら、その時点で電話を切ろうと思っていた。
それを考えれば、おそらくアキラの母親が電話に出てくれたのはついていたのかもしれない。
「あっ、あの!」
『何でしょう?』』
「藤原と言います。塔矢先生はご在宅でしょうか?」
『はい。主人は門下の皆さんと研究会の最中ですが、何か主人にご用でしょうか?』
研究会中との返事に、ヒカルは受話器を手の平で押さえながら、クルリと後ろを振り返る。
――しまった!研究会中だって!どうしよっ!?
――えっと……でしたら伝言を頼むというのはどうです?
――なんて!?なんて伝言!?プロ試験合格しましたとか言ったら俺ってバレバレだろ!
――う~ん、あ!では、約束果たせましたというのは!?
『もしもし?』
無言になってしまったヒカルに、受話器の向こうから不審がる声が聞こえ、ヒカルはどうにでもなれと
「あ、あの……先生に約束果たせましたって伝えてもらえますか?」
『約束ですか?それだけでよろしいのでしょうか?』
「はい。それだけ伝えてもらえれば分かってもらえると思うので、よろしくお願いします……。失礼します」
相手の返事を待たず、ヒカルは電話を切る。
とたんに対局後でもないのにどっと疲れが出てきて、大きなため息を吐いた。
――わかってくれるかな、塔矢先生
――きっと分かってくれますよ
プロ試験中に行洋と全勝を目指そうと交わした約束。
途中、伊角との対局でくじけそうになったりもしたが、その対局を佐為と最後まで打ち直し、持ち直すことが出来た。
もしあのとき、伊角の反則を口にしていたら、例え全勝合格しても、今ほど行洋に胸を張って報告は出来なかっただろう。
――ありがとうございました
ヒカルは心の中でそっと呟いた。
■□■□
碁盤二つにそれぞれ分かれ、緒方と対局の検討をしていた行洋が、石を指していた手を膝に置き、
「何か気になることでも?今日の緒方君は何を言ってもうわの空だ」
いつにない緒方の様子に、苦笑しながら言う。
本人はどう言おうとも、緒方の碁に対する真摯な姿勢は行洋も認めるものなのだが、今日の研究会はどうにも集中できていない。
「も、申し訳ありません……」
行洋に注意され緒方はすぐに謝罪する。
緒方自身、己が全く集中できていないと自覚していた。
しかし分かっていても、思考は眼前の碁盤ではなく、先日のヒカルのことを考えてしまう。
緒方の言葉にうまく引っかかり、自分で自分がsaiだと認めたヒカル。
恐らくヒカルは認めたことにも気付いていないだろう。
でなければ、緒方がヒカルの家から去るとき、満面の笑顔で手を振って見送りなどできるはずがない。
そこに、
「失礼します」
一言、声をかけてから明子が研究会を開いている和室の障子を静かに開く。
そのことにより、研究会に集まり碁盤に集中していたメンバーがどうかしたのかと明子を見やった。
研究会中に明子がこの部屋に近づくことはこれまでなかったので、何事かあったのかと行洋が問う。
「どうした?研究会の最中だぞ?」
「ええ、それは分かっているのですが、先ほどあなたに藤原さんとおっしゃる方から電話がありまして伝言を預かりましたものですから」
「藤原?」
行洋の声が僅かに高くなる。
「ええ。約束果たせました、だそうです。そう伝えてもらえれば分かるからとおっしゃってましたけど、よろしかったですか?」
伝言を預かった明子も、それを研究会が終わってから行洋に伝えるべきか迷った。
しかし、伝言の内容が極端に短く、行洋もそれだけで分かってくれるような親しさを滲ませた子供と思われる声質に、念のためにと明子は研究会の部屋に行くことにしたのだ。
そして行洋の眼差しが穏やかになるのを見て、それが間違いではなかったのだと分かる。
「……そうか。分かった」
小さく頷いた行洋に、明子はそれ以上何も言わず、障子を閉め、部屋を後にする。
「先生?」
「いや、何でもない。すまなかった。続けようか」
対面する緒方に呼ばれ、行洋は一つ詫びてから、検討の続きを申し出る。
――全勝で合格したか
プロ試験に臨む目標として、行洋はヒカルにプロ試験全勝を口にしたのだが、本当に実現するとは思っていなかった。
最後に会い、そして指導碁を打ったときも十分プロになれる実力はあると思ったが、あれからまたヒカルは強くなったのだろうか。
行洋もヒカルの底の知れない成長には、目を見張るしかない。
下手な指導を受けず、はじめから佐為という最高の指導者の導きと、行洋と佐為の対局を一番近くで見ることにより、どんどん力を蓄え吸収している。
アキラを見返すためにプロを目指していると言っていたが、いずれアキラと並び、ヒカルが行洋たちプロ棋士の前に出てくるのもそう遠くないような気がした。