IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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自宅マンションのフローリングに置かれた碁盤と、その盤上に並べられた石を、緒方はフローリングソファーに深く腰をかけながら、視線を外すことなくじっと見つめる。

芹澤がカフェで見知らぬ子供と打ったという一局。

 

――間違いない。これは、saiだ

 

強いことはもちろんだが、芹澤のヨミを全て見越した上で、それをさらに超える打ちまわし、深いヨミは、saiそのものだと緒方は思った。

この対局が雨宿りで立ち寄ったカフェで安いマグネット碁で打ったというのだから、対局内容に反する不釣合いさに呆れるしかできない。

しかし、そんな場所だったからこそ芹澤も、そして相手の子供も、変な警戒心を持つことなく対局したのかもしれない。

お互いがまさか相手がこれほど強いとは、露ほども考えていなかったのだ。

相手の子供が、芹澤が投了する直前に碁を打っていることを店員に注意され、逃げるように店から出て行ったのはその所為だろう。

打ち負かしたまではいいが、対局後、芹澤に捕まり騒ぎ立てられるのを恐れて逃げた。

 

『私は……私は、saiと打ったのかもしれない……ネット碁ではなく、対面して……』

 

子供に負けたというショックで、気が動転しながらもそう呟いた芹澤。

たった一度打っただけで、その負けた相手をsaiと言い当てた芹澤の感の鋭さには、さすがの緒方も感服するしかない。

惜しむらくは、対面した相手が擦りガラスで輪郭がぼやけてしまい、顔がハッキリ見えなかったことと、店に入ったとき芹澤がその相手を注意深く見ず、軽く見流してしまったことだった。

 

saiと打ったという芹澤に、緒方はその相手についてすぐにどんな相手だったのか尋ねた。

 

『これだと断言できるほど相手の顔はよく覚えていない。それに声だって、1、2回短い言葉を聞いただけだ。子供の声だし、どれも同じに聞こえるだろう』

 

しかし、芹澤は青白い顔で首を横に振り、前が擦りガラスで仕切られてて、はっきりとは分からないと答えるばかりだった。

それでも、逃げる子供を追いかけ、店を出たとき、走り去る後ろ姿から大体の背格好は見て取れたという。

中学生ぐらいの身長、細身の体格、そして性別は男。

これまで緒方はずっとsaiは打ち筋から大人だと考えていたが、芹澤の証言で確実に子供だということが判明した。

その条件を満たしている人物が思い浮かび、

 

「進藤がsaiなのか?」

 

そう呟いてすぐ、間を置かず顔を数回横に振って、緒方はバカらしいと思考を打ち消す。

ヒカルはsaiではない。

若獅子戦の時、緒方が観戦した対局はsaiのそれではなかった。

悪手を見事に化けさせた一手は認める。

しかし、碁そのものは練達されたsaiには遠く及ばない。

例え打ち筋や棋風がsaiに似ているとしても。

芹澤も言っていたが、もしsaiが院生なら、その突出した実力でもっと前から騒がれている。

 

けれど、同時に芹澤が言っていた奇妙な打ち方が緒方の頭を過ぎった。

 

『片方が院生ぐらい、もう片方がトップ棋士並みの実力で、それぞれを1人二役で打ち分けているような碁を1人で打っていたんだ』

 

囲碁は2人で打つゲームである。

それを1人二役で打つことは不可能なのに、その子供は1人碁らしきものを打っていたから、そもそも芹澤は興味を持ったのだという。

でなければ、トップ棋士の芹澤が見ず知らずの子供と自ら対局しようとは初めから考えない。

 

片方の実力が院生クラスなら、若獅子戦で見たヒカルが当てはまる。

多くの棋士がその正体を求め、対局望まれるsaiに、最も近くにいるだろうヒカル。

しかしもう片方の棋力、芹澤を打ち負かしたsaiがヒカルかというと、判断つかなくなってしまう。

 

ヒカルが本当の実力を隠しsaiなのだと仮定すれば、アキラが碁会所で2度も負けてしまったということの説明が簡単についてしまうからだ。

 

「二面性の棋力……」

 

saiが垣間見せた、発展途上の棋力と、最強の棋力。

芹澤が相手の子供をハッキリ覚えていない以上、ヒカルを合わせたところで、無駄骨に終わるかもしれないし、芹澤の記憶がまだ新しいうちにと思っても、プロ試験中は大人しくするように行洋に釘を刺されてしまっている。

もし本当にヒカルが今回の一件に関係ないのだとすれば、プロ試験中に緒方と芹澤がなんの根拠も無く騒いで試験に集中できなかったなんてことになってしまい、それが行洋の耳に入りでもすれば、弁解の余地がない。

 

何より、何故saiのことを話してヒカルに引き合わせようとしたのか、逆に緒方が芹澤から疑われることになりかねない。

先日、ネット碁でsaiと対局して以来、saiの情報がないかと緒方を詮索する者は後を絶たないのだから。

 

芹澤にはsaiと対局したことを、騒ぎになるといけないから出来るだけ他言しないようにと口止めしてみたがどうだろうか。

これまでネットの中の存在だけしかなかったsaiに、芹澤もそれまで以上に興味を持ったことだろう。

もしプロ試験にヒカルが受かれば、芹澤がヒカルの存在に気付くのは時間の問題である。

そのとき、芹澤がヒカルを見てどんな反応をするのか。

カフェで打った子供にヒカルが似ているというのか、それとも全く見覚えがないと見向きもしないのか。

 

酷く嫌な胸騒ぎがした。

 

「そんなはずがない……進藤がsaiであるはずが……」

 

ない、と続けようとして、緒方は断言できなかった。

 

□■□■

 

 

「負けました」

 

第26戦の和谷との対戦で、ヒカルは完全に和谷の上を行き白星を掴んだ。

前回の第25戦を勝つことで、ヒカルはプロ試験の対局を2つ残し、プロ試験合格が決定していた。

 

――勝った……

 

体からどっと力が抜けて、ヒカルは正座をするその場に両手をついて、終局した盤面を見やった。

プロ試験に合格し、気が抜けてしまいそうになるのを踏ん張り、最後まで自分を見失わず打てたと思う。

合格が決まったからといって、手を抜いて戦うのは和谷に対して失礼だと心構えを入れ替え、向かってくる和谷にヒカルは正面から相対し全力で打った。

 

「……sai」

 

――はいっ!?

 

俯いた和谷の呟きに、ヒカルの隣に座っていた佐為が思わず声を上げる。

 

「saiって、ネット碁の強いヤツの話をしたよな。お前との初対局したとき」

 

――なんだ……私を呼んだのかと本気で思ってしまいました……あ―ビックリした

 

和谷の言葉が佐為が見えて名前を呼んだわけではないのだと分かり、佐為は胸を撫で下ろし、佐為と同じように驚いたヒカルも、ほっと息を吐く。

 

「あのとき、俺いつかお前はsaiのように強くなるかもって言ったよな?」

 

「うん、覚えてる」

 

「今日の一局はsai並みだったぜ」

 

「うん、ありがとう」

 

俯いた和谷の表情はヒカルからは分からなかったが、それが和谷からの精一杯の激励だということだけは伝わってきた。

盤上の碁石を片付け終え、ヒカルが対戦表にハンコを押すべく席を立つ。

そして最終戦の相手の試合結果を確認し、越智もまたヒカルと同じく残り一戦を残し一敗のままプロ試験の合格が決まったのだと分かる。

 

――越智も勝ってる……

 

――プロ試験合格した者同士の対局ですね

 

お互いプロ試験合格が決った者同士の対局。

越智の性格を考えて、プロ試験合格したからヒカルはどうでもいいと考える性質ではない。

ヒカルの全勝合格を阻止するべく全力で打ってくるだろう。

 

休憩室にカバンを取りにヒカルが戻ると、そこには帰り支度を済ませた越智が立っており、ヒカルは祝いの言葉をかける。

これで合格枠は残り1つとなった。

 

「合格おめでとう」

 

「ありがとう。その様子だと進藤も和谷に勝ったんだね」

 

「あ、うん」

 

「でも次の対局は僕だ。負けないよ。全勝合格なんて、絶対にさせない」

 

素っ気無い口調でも、次の対局への静かな越智の宣戦布告にヒカルは負けまいとして言い返そうとするが、

 

「僕は毎晩のように塔矢と打ってきた。君を倒すために」

 

「え?塔矢?」

 

越智の口から思わぬ名前が出てきて、ヒカルは宣戦布告を言い返すのも忘れてアキラの名前を反芻する。

越智がアキラにどんな関係があるのか、ヒカルは嫌が応にも気になってしまう。

アキラの名前を出したとたんに平静を乱したヒカルに、越智がヒカルを見下し嘲笑したように言う。

 

「毎日のように打ったよ、塔矢は仕事と枠を超えて、僕を熱心に鍛えてくれた」

 

「俺を倒すために塔矢と打ってきた?」

 

「プロをうちに呼んでおけいこをつけてもらっているんだ」

 

「……アイツ……塔矢、俺のこと何か言ってた?」

 

ヒカルが思い出すのは中学囲碁大会で、ヒカルを見下したような眼差しを向けるアキラの顔だった。

あれから会話一つどころか顔をあわせることすらない。

そんなアキラが、自分のことをどう思っているのかヒカルは恐る恐る尋ねるが、越智はそんなヒカルを嘲るように、

 

「何で塔矢が君なんかのことを言うのさ。うぬぼれるな。だいたい塔矢は4月から今日まで全勝!プロでだぞ!そんなアイツがお前なんか気にかけるもんか」

 

「別にうぬぼれてなんか……」

 

「でも塔矢は僕を評価してくれたよ。このプロ試験、君に勝てば塔矢は僕のことをライバルとして認めるって言うんだ」

 

「俺に勝てば?俺に?」

 

越智の言葉に、ヒカルは目を見開く。

さきほどまで越智はヒカルのことなどアキラは眼中にないと言っていたが、越智をライバルと認める条件にヒカルに勝つことを上げているのだという。

毎日のように鍛えに行っている相手に、眼中に無い相手を出すような真似をアキラはするだろうか、とヒカルは越智の言葉に疑いを持つ。

 

「っ!?いや!違うそれはただ!!と、とにかく最終戦で君にか勝てば、塔矢は僕を認めるんだ!」

 

己の失言に気付いた越智が、慌てて取り繕おうとするも、ヒカルは越智の嘘に気付いたようにキッと越智を睨みつける。

 

「じゃあ、お前に勝てば、塔矢は俺をライバルとして認めるんだな!」

 

塔矢がヒカルのことを気にかけているのを気付かれてしまったと、越智は自分のミスを悔やんだがもう遅い。

初めて家にアキラを指導碁で招いたときから、アキラは指導相手の越智ではなくヒカルのことばかり気にしていた。

プロ試験前にヒカルと打ったが、越智にはアキラがそこまでヒカルを気にする理由が分からなかった。

それよりも、プロ試験に合格すれば同じプロとして戦うことになるだろう自分を眼中にでもないかのように見ているアキラの態度が、越智のプライドに障った。

 

碁会所での韓国の研究生との対局。

アキラがヒカルに負けたという2年前の対局。

 

それがどうしたのだと越智は思う。

自分はヒカルより勝っているはずである。

 

「ッ―!僕はっ、僕は進藤になんか負けない!」

 

「俺だって!絶対勝ってみせる!」

 

越智に負けずヒカルも言い返す。

しかし、言い返した直後、ヒカルの頭をガシリと捕まえた大きな手があった。

 

「そうか。プロ試験合格が決まっても最後まで気を抜かないで対局しようとする心構えは誉めてやる。だが、まだ試験場では合格をかけて対局しているやつがいるのに大声を出すのは迷惑だぞ?」

 

「へ?」

 

突然、頭の上から聞きたくない声が聞こえ、ヒカルは素っ頓狂な声を上げてしまった。

ヒカルを逃がすまいとしっかり掴んだ手のひらは大きく、手の主が大人だということは見なくても分かる。

そして見知った声にそれが誰か予測がついても、絶望的希望からヒカルはその相手に振り向き認識したくなかった。

チラリと視界に入った佐為は、目も当てられないとばかりに顔を袖で覆っている。

けれど、ヒカルの考えなど見越したように、硬直してしまったヒカルの首をぐいっと回し、

 

「合格おめでとう、進藤」

 

上から目線で緒方はニコリとヒカルに合格を祝う。

 

「緒方先生!?なんでこんなところに!?」

 

アキラがプロ試験を受けた去年なら分かるが、緒方というタイトルを争うトップ棋士が、気に留めるはずのないプロ試験会場に現われ越智は唖然とする。

 

「プロ試験終わるまで見守るように塔矢先生から言われてたんじゃ……緒方先生……」

 

それまで越智と言い争っていた勢いはあっという間に消えうせ、蛇に睨まれたカエルのごとく、ヒカルは緒方の視線を逸らすことも出来ず、だらだらと汗をたらす。

顔こそ笑みを貼り付けているが、緒方の声は全く笑っていない。

緒方はsaiの正体にほとんど気付いており、そして前回問いただされたときに、行洋の影に隠れてヒカルは緒方にあっかんべーというイタズラまでしている。

眼の前の緒方の笑顔は、間違いなく『イタズラ』を根に持っている。

ヒカルは周囲に誰か大人がいないか探すが、越智以外には同じく対局を終えた和谷が口をポカンと開いて見ている以外に、大人は誰も近くにいなかった。

 

「俺もそう思っていたんだが、合格が決まった進藤に一秒でも早くおめでとうと言ってやりたくてな。プロ試験一発合格とは院生試験に推薦した俺も鼻が高いぞ。25戦目で決まってたんなら俺に連絡の一つもくれていいだろうに?」

 

「そんな緒方先生ともあろう人が勿体無い……」

 

ハハハ、と乾いた笑みを浮かべるヒカルの首根っこを緒方は捕まえ、それまで浮かべていた笑顔が一瞬で消え去る。

 

「飯でも奢ってやる。来い、進藤っ!」

 

「うわわぁっ!ちょっと待って!誰かっ!助けて!!」

 

首根っこを掴まれ、引き摺られていくヒカルの姿を、越智と和谷は呆然と眺めるだけだった。

 

 

 


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