IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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38 芹澤VS佐為

相手の家に出向いて行う指導碁の帰り、突然の雨に降られ、芹澤は近くにあったカフェに雨宿りがてら駆け込んだ。

家を出る前に、雨が降り出しそうだからタクシーを呼んだほうがいいという相手の好意を、棋院に一度戻るにしても急いでもいないし駅につけば大丈夫だから、と断ったのが裏目にでてしまった。

若い客層をターゲットにした店内は、シンプルな内装で、白を基調とした家具で統一されている。

グレイのスーツに滴る雨を、内ポケットからハンカチを取り出し、軽く払う。

カウンターでアイスコーヒーとサンドウィッチを頼み会計を済ませたあと、空いてる席は、と軽く店内を見渡せば、芹澤と同じように雨宿りでカフェに立ち寄ったらしい人影が数名見えた。

 

その中に、このカフェには少しばかり背伸びして入ってしまったような1人の子供の姿を見つけ、その子供の手許に碁盤が広げられていることに芹澤は気付いた。

こんなカフェに碁盤が用意されているわけがないから、子供が持参している携帯用碁盤だろうかと思いながら、やはり職業病のように碁盤に吸い寄せられるようにして、子供の前の席に腰を下ろす。

テーブルの前には擦りガラスの仕切りがあり、子供の姿はぼけてしまいハッキリ捉えることは出来なかったが、ガラスの下の部分が空いており、顔を少し下に屈めるとその隙間から碁盤だけは覗くことが出来る。

 

偶然入ったカフェで、向かいに座る子供の碁盤を眺めてからしばらくして、芹澤は奇妙なことに気付いた。

 

――これは棋譜並べではないな。誰かと対局しているのか?

 

はじめは1人で誰かの棋譜でも並べているのかと思っていたが、途中途中の変な部分で手が止まったり、なにやらブツブツ独り言を言っているような声までする。

ありえないことだが、1人碁を打っているような。

もっと厳密に言えば、片方は院生クラスの実力と、もう片方はプロ並の実力者が指導碁を打っていて、それを1人2役で演じているような印象を芹澤は打たれる碁盤から受けた。

 

隣で誰かに打つ場所を指示してもらっているかと探れば、子供の両隣は空いており、そんな人物は見当たらない。

携帯電話で打っている場所を誰かに指示された様子もなく、1人で打っている。

自分で自分に指導碁を打つなど不可能だと思いながら、芹澤は雨宿りでカフェに立ち寄ったことを忘れ、じっと向かいの碁盤を眺める。

 

院生クラスの実力で打っている方も、世間一般からすれば十分強く、アマ高段の棋力だろう。

しかし、もう片方のプロ並の実力の方は、指導碁を打っていることからしてその実力を抑えている。

 

――指導碁をしている方は相当強いな

 

院生クラスの実力者相手に指導碁を打つというだけでも、その棋力が伺い知れるというものだが、隠し切れない実力が指導碁の中に見え隠れしていた。

 

1人で2人分を別々に打つなんてことが本当に出来るのかと、芹澤は怪訝に思いつつ観戦していると、

 

「あー!負けだ!」

 

今度こそハッキリ子供の声が擦りガラス越しに芹澤に聞こえた。

負け、というからには誰かと対戦していることを意味するのだが、相手もいないで1人碁を打って勝敗などつくのだろうかと疑問に思える。

マグネットの碁石を片付け始めた子供に、芹澤はつい無意識に

 

「4の4、星」

 

と口走っていた。

擦りガラスの向こうで、子供がキョロキョロと回りを見渡しているのが分かる。

誰が碁盤の位置を言ったのか探しているのだろうが、それもそうだろう。

急に見知らぬ相手、それも擦りガラスの向こうの相手が、碁石の置き位置を示してくるなどありえない。

 

「4の4、星」

 

もう一度芹澤が言うと、ようやく子供は擦りガラス向こうの芹澤が言っているのだと気づいた様子で、恐る恐る芹澤が言った位置に黒石を置き、擦りガラスの隙間から碁盤を差し出してきた。

本当を言うと、芹澤は位置を適当に口にしただけなので、どちら側から盤面をみた『4の4、星』なのかまで考えていなかったのだが、子供は自分自身から見た4の4に黒石を置いていた。

特にどの位置でも芹澤には不都合は無かったので、合っているという合図代わりに頷くと碁盤は引き戻され、そして白石が打たれ、また隙間を通して芹澤に差し出される。

 

もう一度、芹澤は置く場所を口にしようとしたが、いちいち相手の方向から見た位置に考え直し伝えるのは面倒だったので、少し碁盤を押し戻してから、相手によく見えるように人差し指で示し、石を置きたい場所を子供に伝えた。

すると、芹澤が指差したその位置に黒石が打たれ、子供も白石を次の場所に打った。

 

――こっちで打ってきたか

 

相手は1人なのだからこっちもそっちもないのだが、高段者、それもプロ程の実力者ともなれば、お互い10手も打てばその棋力は大体把握出来る。

先ほど子供は院生クラスの実力と、プロ以上の実力の双方で打っていたから、そのどちらで芹澤に挑んでくるかと注意深く見ていたのだが、芹澤の打ち込みにも動じることなく打ち返してきた。

院生程度の実力なら芹澤が本気になることもないが、プロ以上の実力で打ってくるのなら、相手の実力がどれほどなのか分からない以上、気を引き締めて打ってかからねばならない。

 

だたの通り雨に降られて雨宿りで入ったカフェだった。

その店内に碁盤を広げている子供を見かけ、何気ない気持ちで向かいの席に座っただけだった。

そして1人碁らしきものを打っている子供を珍しく思い、軽い気持ちで対局を持ちかけただけった。

それなのに、

 

――私が見ず知らずの子供に圧されている……

 

雨の湿気だけではない、ジワリとした嫌な肌の湿りを芹澤は覚える。

1人碁という奇妙な打ち方を眺めながら、指導碁をしている方は相当の実力だろうと思っていたが、それは芹澤の想像を遥かに超えていた。

同じプロ棋士と相対しているわけでも、ましてタイトルへ続く公式手合いを打っているわけでもないのに、子供から受ける気迫とプレッシャーに引き摺られるようにして、いつの間にか本気で打っていた。

そしてトップ棋士の1人である芹澤が本気で打ってしてなお、子供の実力はそれより勝っていた。

 

じわじわと広がっていく地合い。

どうにも後手に回ってしまう己の一手に、芹澤はテーブルの上に置いていた手で、思わず口を押さえてしまった。

 

――ダメだ……勝てない……

 

そう思ったとき

 

「お客様。大変申し訳ありませんが、店内でのテーブルゲームはご遠慮いただけないでしょうか?」

 

擦りガラスの向こうから、子供に店の店員が遠慮がちに注意する声が耳に届く。

 

「ご!ごめんなさい!!」

 

店員に注意された子供が、石を外すことなく慌ててそのまま折りたたんでバッグに詰め込んでしまう光景が、擦りガラスの空いた隙間から芹澤に見えた。

盤上に集中していたことで反応が遅れてしまい、あ、と芹澤が思った頃には、子供は席を飛び降り、外へ店を走り出てしまった。

 

「君!なんてことを!」

 

席を立ってテーブルを回り、子供を注意したらしい店員に自己中心的な言葉を浴びせ、芹澤も子供を追って急ぎ雨のまだ降る外へ出た。

左右を見渡し、傘を差し行きかう人の中から、傘を差さず走り行く子供の後ろ姿を見つけ

 

「待って!君!」

 

芹澤は公衆の目を気にすることなく叫ぶが、子供は立ち止まることなく、後姿は小さくなり曲がり角をまがったところで完全にその姿は消えてしまった。

こんなことになるとは全く思っていなかったから、芹澤は子供の顔をよく見ずに擦りガラス向こうの席に座ってしまったことがとても悔やまれた。

 

背格好から推察しても高校生はいっていない、中学生、もしかするとまだ小学生の可能性もある。

そんな子供がトップ棋士である芹澤を上回る棋力を持ち、現実に存在している。

同じプロ棋士だが、中学生ながらメキメキと頭角を現しているアキラの存在を芹澤は知っていたが、そんなアキラですらカフェで打った子供の前では霞んで見えるようだと思った。

 

それからどうやって芹澤は棋院に戻ったのか覚えておらず、覚えていたのは夢か幻だったのでは、と思える一局だった。

 

■□■□

 

水溜りの水が跳ね靴が濡れてしまうのも構うことなく、ヒカルは全速力でカフェから走り去る。

もちろん雨もまだ降っていたので、顔や体にも雨が降り落ちる。

 

―― なんでお前が打つ通りすがりの相手は、いつもいつもこんなに強いんだよっ!?

 

――私にそんなこと私に言われてもっ

 

――お前が打とうって言い出したんだろ!

 

――ヒカルが打たないでパスっていうから私が打ったんじゃないですか!

 

――顔見えなかったけど、あれって絶対プロだ!プロの誰かに間違いないって!

 

――バレたでしょうか?

 

――前は擦りガラスだったから、手もとしか見えてないと思うけど、どちらにしろヤバイことには変わりねえ!!

 

ヒカルの心の叫びは佐為にしか届かない。

 

 

■□■□

 

 

おぼつかない足取りで棋院に戻ってきた芹澤に、ちょうど棋院を出るところだった緒方が気付き

 

「どうしました?芹澤先生、そんな顔を顰めて何かって、濡れてるじゃないですか!?」

 

険しい表情で塞ぎ込んだままの芹澤の異変に、緒方が声を上げる。

さきほど通り雨が降ったことは緒方も気付いていたので、はじめ芹澤もその雨に降られたのだろうと思ったのだが、ただ雨に降られただけではない様子に、どうかしたのかと心配すると

 

「いや、大丈夫。軽く降られただけだから……」

 

「しかし、顔色が真っ青ですよ?本当に大丈夫ですか?君、事務員室から何か飲み物を」

 

近くにあった来客用の椅子に芹澤を座らせ、常にない様子の芹澤をとにかく落ち着かせようと、緒方は近くを通った事務員に飲む物を頼む。

普段から落ち着き滅多に取り乱すことのない芹澤が、緒方が傍にいるにも関わらず、気が動転しているようで、両手で口を押さえ、じっと考え込んでいる。

 

「もしかしたら、いや……しかし……、あれは……本当にあの子、なのか?」

 

「芹澤先生?」

 

緒方に言ったのではななく、自問自答に近い呟きだったが、緒方が芹澤の顔を横から覗き込む。

 

「私は……私は、saiと打ったのかもしれない……ネット碁ではなく、対面して……」

 

インターネット碁にしか現われず、アマらしいのにプロ以上に強く、誰にも負けたことのないsai。

そしてトップ棋士の芹澤を圧倒した、見ず知らずの子供。

 

擦りガラスの向こうにいた子供はプロでも院生でもない。

芹澤と同じプロであれば、その実力で話題になっているだろうし、院生であれば、とっくに騒がれ取りざたされているだろう。

稀代の碁の才能を持つ子供として。

 

アマで、院生でもプロでもなく、その正体は一切知れないsai。

そのsaiに似た圧倒的な強さを見せた子供。

 

芹澤の呟きに、緒方は全ての体の動きが静止した。

 


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