IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
――伊角さん、フクにも負けてる……
対戦表に押された伊角の黒星をヒカルはじっと見つめる。
ヒカル、和谷、そして福井にも負け、伊角は3敗になった。
急な不調は、ヒカルと対戦したときの反則負けがまだ尾を引いているのだろう。
和谷も越智に負け、全勝は越智とヒカルの2人に減った。
負けてしまった和谷に声をかけるのはしのばれたが、越智に負けてしまった悔しさで盤上の前で頭を抱えている和谷に、
「和谷、伊角さんの電話番号教えて!」
「……伊角さん?電話番号なんか聞いてどうするんだよ?」
「お願いっ!このまま負けるなんて伊角さんらしくない!!」
勝った者が負けた者に情けをかけている風でもなく、本気で心配している様子のヒカルに、和谷も自分がついさっき越智に負けてしまったことも忘れ、苦笑をこぼす。
和谷も伊角の連敗は確かに気になっていた。
ヒカルと伊角の対局がどんなものだったのか知りたかったが、2人が頑として口を閉ざした為、伊角がこれほど塞ぎ込む理由は和谷には分からなかった。
しかも、いつもなら負けないような相手にさえ負けてしまい、院生の中で一番仲の良かった和谷と顔を合わせるどころか顔すら見ようとしない。
伊角の様子がおかしいのは誰の目にも明らかだった。
「お前……ほんとバカだな……。ちょっと待て」
負けた相手のことより、自分がプロ試験受かるかどうかを先に気にしろ、と言いかけつつ、重い腰を上げ、和谷はカバンを取りにいく。
――ヒカル?どうするのです?
――きっと伊角さん、これで立ち直れなかったら囲碁そのものをやめる気がする。でも、そんなの絶対嫌だ
対局場に戻ってきた和谷が、伊角の電話番号を書いているらしいメモをヒカルに差し出す。
「ほら」
差し出されたメモを受け取り
「さんきゅっ!!」
ヒカルは全力で棋院を後にした。
If God 37
伊角と和谷、そしてヒカルの3人でまわった碁会所のうちの一つに。ヒカルは嫌がる伊角を呼び出した。
家に電話をかけても、伊角が出ることはなく、電話に出た母親に伝言を頼んだ。
ずっと待っているから、という言葉を最後に添えて。
カランというドアの開く音がして、ヒカルはパッと入り口を振り向く。
そして待ち人の姿を見つけ、ほっとため息をついた。
「……伊角さん、よかった」
「何が良かっただ。親に伝言なんか頼むから、年下の子供を待たせるなって怒られた」
「だって……伊角さん、電話出てくれないから、仕方なくて……」
「それで俺に話って?」
突然強引に呼び出したヒカルに、伊角は向かいの席に座り、矢継ぎ早に用件を聞こうとする。
なぜこんなに己が不調になってしまったのか、対戦相手のヒカルは分かっているだろうに、その当人が伊角を呼び出す理由が分からなかった。
もっと言うなら、今一番、伊角が会いたくないのがヒカルだった。
「伊角さん、あのときの対局の続き打とう」
「え?……打ってどうするんだ?打ったところで今更どうなるわけでもないのに……」
「そんなことない!中途半端に終わったままだからずっと引き摺るんだよ!それを断ち切るために最後まで打ち切ろう!」
そう言うと、ヒカルは伊角の返事を待たず、碁笥のふたを取り、盤上に石を並べていく。
そして最後にヒカルが打った一手で、ピタリと手を止めた。
その盤上に並べられた石を、伊角は険しい眼差しで眺め、フイと顔を逸らす。
「逃げちゃだめだよ……伊角さん……」
この場に強引だが伊角を呼び出し、伊角が反則してしまった対局の棋譜を並べるまでは出来た。
けれど、これから先はヒカルには何も出来ない。
伊角が自ら盤上に向き合わなければどうしようもない。
ヒカルは何も言わず、ただ伊角が打つのをひたすら待ちつづけてどれくらい経っただろうか。
盤面を見ようともしなかった、伊角が黒石を挟み、盤面に打った。
顔は俯いており、長い前髪で目元が影になり、ヒカルからは伊角の表情は分からなかったが、とにかく伊角が打ってくれたことに、ヒカルは顔を輝かせ、続きを打つ。
すでに終盤に入りかけていた対局だったので、さほど時間をかけず終局になった。
フッと小さな笑みと共に、
「結局、負けてたか……」
終局まで辿りついた盤面を、伊角は膝にひじを立て、その上に顎を乗せながら眺める。
伊角が3目半足らず、ヒカルが勝った。
「そうだね」
「進藤、ヨセ上手くなったな。お陰でヨセでの逆転狙ってたのに出来なかった」
「実を言うと、こうして伊角さんと打つ前にも、この対局を別のヤツと並べたんだ……。だからヨセもその分上手く打てたんだと思う……ごめん……」
「別にそんなの黙ってれば分かんないのに。でも、そっか結局、俺は負けてたのか」
それまでずっと俯いていた伊角が顔を上げ、ヒカルをみやる。
「なんか最後まで打ててスッキリした。実を言ってプロ試験どころか碁を打つのも嫌になってたんだ。棋院に入るまえ、このままふけようかと何度も思った。でも……こうして進藤のお陰でもう一度向き合えた。お前の言うとおりだ。俺も進藤もこれからだ。プロ試験はまだ終わってない」
「うん!!」
■□■□
――憑き物が取れたような顔でしたね
――うん。伊角さん、もう大丈夫だよな。よかった、ほんと。
碁会所で別れるときも、いつもの笑顔で手を振っていた伊角の姿を思い出し、ヒカルは知らず表情が緩んでしまう。
ヒカルに反則負けし、それを伊角は引き摺っていたが、もう大丈夫だろう。
途中で終わってしまった対局を最後まで打ち切ったことで、見失っていた自分を取り戻し、次の対戦ではいつもの伊角に戻っているとヒカルは信じる。
しかし、
――ほんと、この雨さえ無ければ、最高だったんだけどな……
店の窓からみえる雨をヒカルは憎々しく見やる。
伊角と別れたまでは良かったが、電車を降りて家に帰ろうとしたとき、急に雨が降り出して、それから逃げるようにして、雨宿りにと近くにあったカフェにヒカルは逃げ込んだ。
ハンバーガーなどのファーストフードの店なら、ヒカルも馴染みがあるが、今いる店は、客層からして少し大人向けのお洒落なカフェだ。
こういう類の店にあまり来たことのないヒカルは、どうにも居心地が悪く落ち着かない。
雨宿りのために駆け込んだとはいえ、何も頼まず、ただ店に居させてもらうわけにもいかないので、店で一番安いソフトドリンクと、小さなお菓子を頼んだが、それでも中学生のお小遣いには痛い。
プロ試験はまだまだ続くのだから、少しでも早く家に帰って、碁の勉強をしたいのに、とヒカルが愚痴をこぼしたところで、雨が止む気配は全くなかった。
――通り雨だと思うので、そんなに長く降り続けないとは思いますが……
――しょうがない、雨止むまでマグネット碁でもしてるか
カバンからヒカルがマグネット碁を取り出すと、雨のことなどどこかへ吹き飛んだかのように佐為が小躍りして喜びだす。
雨が止むまでの暇つぶしで始めた対局ではあったが、はやりそこは勝負事。
手加減されていると分かっていても、勝つことが出来ない佐為に、ヒカルの眼差しは次第に難しくなっていく。
打ちながら、『むぅ……』と何度もヒカルが独り言を呟き、けれど最後には
「あー!負けだ!」
ヒカルが投了を宣言した。
もちろん本気を出した佐為と戦えるのは、ヒカルより遥かに強い高段者か行洋くらいのもので、ヒカルだとコテンパンにやられてしまうのも目に見えている。
佐為がヒカルの棋力に合わせ、ある程度手心を加えた指導碁だ。
それでも負けてしまい、なおかつ佐為に手加減されて負けるということが一番ヒカルの癪に障る。
口をへの字にまげて、そこでようやくヒカルは顔を上げ、外の雨が小降りになってきていることに気付く。
これくらいなら走って帰れないこともないだろうと思い、出していたマグネット碁をバッグにしまおうとして
「4の4、星」
不意に碁盤の位置を示す声がしてヒカルは聞き間違いかと周囲をきょろきょろ見回した。
「4の4、星」
もう一度、同じ声が聞こえ、ヒカルはそれが聞き間違いでないことが分かると、その声の主が誰なのかを探した。
隣後ろにヒカルを見ている者はいない。
となればヒカルの向かい席になるのだが、テーブルは目の前が擦りガラスで仕切ってあり、向かい席の人物が見えないようになりつつも、その擦りガラスの下10センチ弱が空いていた。
擦りガラスで輪郭はぼやけてはいるが、スーツを着たサラリーマンのように見える。
視線だけ佐為の方を見やり、ヒカルが問いかける。
――これって、前の人?
――みたいですね
テーブル席で前を仕切っていても、その仕切られたテーブルの縦幅は狭い。
もしかしたらヒカルがマグネット碁をしているのが、擦りガラスが浮いた隙間から向かいの席の相手にも見えていたのだろうか、と思いながら、ヒカルは言われた通り、ヒカル側から見て『4の4、星』の位置に黒を置く。
そしてその碁盤を、確認するように擦りガラスの下から相手の方に押しやると、擦りガラスに透けた相手が、一度コクリと頷いた。
向かいの席に座っている相手が打とうと誘っているのだ。
――ヒカル!打ちましょうよ!
――いいけど、お前打てよ。俺パス
――いいんですか?
擦りガラス越しに対局するなど、いつもなら面白がって打ちたがるだろうに、自ら佐為に打たせようとするヒカルに、佐為は首を傾げる。
――とりあえずはまぁ、俺はプロ試験の対局に伊角さんとも今日打ってるし、それでさっきはお前に負けたし……休憩してる……。長考はなしだからな
『負けた』の部分でヒカルの声が若干小さくなりながらも、ヒカルは既に観戦者を決め込んだらしく、氷が溶けてだいぶ薄まってしまったソフトドリンクをストローでちゅるちゅる吸って飲む。
伊角と対局する前まで、本当に来てくれるかずっと不安で気持ちを張り詰めていたので、ヒカルも少し疲れたのかもしれない。
そう思いながらも、突然回ってきた対局に佐為は碁盤に目を輝かせて見やる。
相手の棋力は不明だったが、対局そのものが佐為にとっては何より嬉しい。
――では、16の17、小目