IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
プロ試験を11戦全勝で勝ち進んでいるのは伊角、越智、ヒカルの3人だった。
伊角、越智の2人はいいとして、ヒカルが全勝を続けていることに、院生の中には首を傾げる者もいたが、ヒカルと対戦するとその評価はガラリと変わる。
『進藤が変わった』
『進藤が強くなっている』
対局したことのない外来受験者は分からないが、ヒカルと対局した院生のメンバーは口を揃えて言う。
プロ試験予選の前も、ヒカルが急激に院生順位を上げ一時期騒がれたことがあったが、それはまだ調子がいいのだろうと捉えられていた部分もあった。
しかしそれがプロ試験予選を通過し、本戦でも連勝を続けているとなると話が変わってくる。
「次の伊角さんの対戦相手、進藤だっけ?マグレで進藤勝たないかな。とにかく誰でもいいから、伊角さんと越智に黒星つけないと俺が入り込む余地がない」
試験の帰り道、本田が伊角に冗談めかして言う。
「でも、それだと進藤が連勝続けることになるぞ」
「進藤はどこかでコケるさ」
あたかも絶対そうなると信じ込んでいるような本田の言いように、
「そうかな……俺、本気で進藤と当たるのが最終でなくて良かったと思ってるよ。アイツ、日に日に強くなってる。最終戦だと、どれくらい強くなってるか……」
「え?伊角さんも、進藤が強くなってる説を信じてるの?」
予想外の伊角の評価に、本田が顔色を変える。
小宮もヒカルに負けたとき、強くなっているというのを傍で聞いていたが、半分は負けた悔しさからそんな負け惜しみを言っているのだろうと思っていた。
だが、対戦前から伊角のヒカルに対する評価は高い。
「お前、プロ予選前だっけ?進藤と最後に対局したの」
「そ、そうだけど」
「本戦前にさ、俺と和谷が進藤連れて碁会所巡ったんだけど初めて見た。目に見えた人の成長ってやつ。打てば分かるって言いたいけど、本田が打つ時には既に遅かったりしてな。俺、進藤だからって甘くみないで、本気で打つぜ」
「……マジで?」
「今年のプロ試験、最大の難関は進藤だ」
□■□■
秒読みに入った対局時計を押しながら、終局が見えてきた、と伊角は苦々しく思う。
形勢はヒカルの白が若干良し。
プロ試験前に碁会所で見たときより、そして韓国の研究生だという洪秀英と打ったときより、ヒカルがまた強くなっていると盤上に打たれる石が伝えてくる。
院生に入ったばかりのヒカルを見て、誰がこの急激過ぎる成長を予想出来ただろう。
碁会所で最後に見たヒカルより、このプロ試験11戦の間に、また一段とヒカルが強くなっていると伊角は感じる。
だが、ヒカルの白良しといっても、形勢は細かい。
ヨセの応手次第では十分逆転は可能だ。
だがヒカルは悪手を打つことはなく、伊角の中に焦燥の気持ちばかりが増していく。
どうにかしなければと思いながら、盤面に向かい、石を置こうとして、
――あっ
頭では分かっていたのに、伊角の手はそのまま対局時計を押してしまう。
アテ間違って一度指から離れた石を再度打ちなおしてしまった。
指が離れたあとの打ち直しは、その場で反則負けになる。
しかもそれが自分自身分かっていて、言い出すことが出来ない。
お互い全勝同士でプロ試験はまだ中盤。
一個の白星も惜しい。
緊張と焦り、そして恐怖で、心臓の脈打つ音が、伊角の耳の近くで高鳴る。
――あれ?今、伊角さんの指、石から離れなかった?
自分の見間違いかとヒカルは佐為に尋ねる。
微妙だったのでヒカルも絶対という自信はなかったが、けれど伊角の指は離れていたと思う。
――離れたようには見えましたが、ハッキリとは……ヒカル?
――……伊角さんが何も言わないってことは石に指が離れていなかったら?でも……言っちゃダメ、かな?
――え?言うのですか!?
――だって!!本当に離れてたら!
その場で伊角が負けになり、ヒカルに白星が転がってくる。
盤上はヒカルが僅かに勝っていたが、どんな小さなミスで逆転されてもおかしくない。
――1勝が欲しい!伊角さんも1勝が欲しいから黙っているのかもしれないじゃないか!
ヒカルや伊角だけではない。
この対局場にいる誰もが1勝を喉から手が出るほど欲しがっている。
――その1勝は自分に誇れるものですか!?行洋殿に対して恥ずかしくないものですか!?
「え……」
佐為の言葉に、ヒカルは目を見開く。
――ヒカル、よく考えて。1勝に対する執着はお互い同じです。でも、ヒカルはその勝利を行洋殿に胸を張って言えますか?
――でも、塔矢先生と全勝でプロ試験合格するって……
――行洋殿が求めているのはそんな合格ではないと思います。例え、石から指が離れていないか聞いて、伊角が認めたとしても、そんな碁を行洋殿へ顔を向けて話せますか?ヒカルも分かっているはずでしょう?
佐為の言葉に、ヒカルの脳裏に行洋の姿が思い浮かぶ。
数ヶ月に一度しか会えない佐為との時間を割いてまで、プロ試験を受けているヒカルを応援し指導碁を打ってくれた。
俯き、ギュッと目を瞑り、それから小さく震える手でヒカルは白石を挟むと、そのまま震える指でヒカルは石を打つ。
自分より強い相手に、石を打つ指が震えてしまったことはあったが、眼の前にぶらさがった反則勝ちという誘惑に向かい石を打つのは初めてだった。
ヒカルの迷いをそのまま反映したような鈍い音が響く。
――これでいいんだ……もしこれで負けても……、全勝でプロ試験合格できなくても、……試験落ちても、塔矢先生に俺は顔を向けることが出来る
打ち終えた手を膝に戻し、ヒカルは自分にそう言い聞かす。
そのまましばらく顔を俯いたままじっとしていた伊角が、
「……進藤、ありがとう。何も言わないで打ってくれて」
「伊角さん?」
「負けました」
頭を下げる伊角をヒカルはじっと見つめた。
やはり伊角の指は離れていたのだと分かったのと同時に、そのことを口に出さず、打ち続けて良かったとヒカルは思った。
もしかしたら石から指が離れてしまったことを誰よりも分かっている伊角自身が、ヒカルよりももっと辛かったのかもしれない。
もしこのまま打ち続けて勝ち、そしてプロ試験に合格したとしても、伊角の中で一生しこりとなって悔やむのではないだろうか。
同じようにヒカルは1勝の欲しさで、石から指が離れたことを言い出そうとしたが、傍にいた佐為が止めてくれた。
しかし伊角に佐為のような存在はいない。
本当にたった独りで戦っているのだ。
そして1人で戦っている伊角の方がきっと正しい。
もし佐為の姿が皆にも見えていたら、さきほど石が離れていたかどうか、ヒカルは佐為に尋ねることなどできなかったのだから。
反則をしてしまったことより、それをヒカルが打つまで言い出せなかった伊角と、佐為が止めなければ恐らく反則勝ちに縋っただろうヒカル自身も同じだけ弱く、決して伊角だけを責めることはできない。
検討することなく石を片付け、立ち去ろうとした伊角に、
「伊角さん、これからだよ!まだ!まだプロ試験は終わってないからっ」
声を押し殺し、ヒカルは伊角に訴える。
「……そうだな、ありがとう」
苦笑しながら伊角は答える。
言葉と裏腹にその表情は冴えなかったが、ヒカルはそれ以上何も言うことができなかった。
家に戻っても、ヒカルの頭には伊角の後姿が頭から離れなかった。
少しでも反則勝ちに縋ろうとした自分が許せなかった。
――ヒカル、今日の続きを打ちましょう。伊角の代わりに私が打ちます。そうして心に決着をつけてまた明日へと踏み出しましょう
心の整理がつかないヒカルに、佐為は碁盤を示す。
「自分を信じる強さが欲しい。棋力だけじゃなく自分を信じきれる力が。今日のような碁なんか二度と打たない」
決意を口にしながら、伊角との対局を並べていくヒカルを眺めながら、佐為は今日の白星はどんな勝利にも勝る白星だと思った。