IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
人差し指と中指に石を挟んだ緒方の指がしなり、盤上に黒石を打つ。
対戦相手の乃木がコクリとツバを飲み込む音が、対局する隣で記録をつけていた3人の係りの耳にも届いた。
「ッ……」
緒方の打った一手をじっと見つめる乃木の眼差しはひたすら険しく、空調の効いた室内は決して暑くないのに額から汗が流れ、太ももに置かれた右手は、ぎゅっとスーツのズボンを握りしめている。
対して、緒方は表情を崩すことなく冷静な眼差しで盤上を見つめている。
どちらが追い詰められているのかは、碁盤を見なくても2人を見比べるだけで一目瞭然だった。
「……ありません」
「ありがとうございます」
一礼し、緒方はふぅとそれまで張り詰めていた緊張を解いた。
それを皮切りに、記録係や対局の周囲で観戦していた倉田や他のトップ棋士たちも張り詰めていた気を解き、終局した盤面の周囲に集まる。
検討のためだ。
「参った。まさか、この一手にこんな狙いがあるとは思わなかった」
乃木が盤上の一手を指差す。
緒方が打ったワカレの一手に若干損がある違和感を受けながらも、隙を見せたと思い乃木が踏み込めば、うまくしのがれ反対に緒方の地が強固になる結果になってしまった。
「これは私が踏み込むのを誘ったのか?」
「いえ、乃木先生でしたらこういう見え透いた誘いには乗らず、慎重にこっちをこう受けて回るかと思いました」
「確かにそれも考えた。それでも十分だったと思う。だが、それが分かっていてなぜ緒方くんはここに?」
「もし乃木先生が受けてたら、ここをこう打とうかと……」
パチ、パチ、と緒方が頭の中で思い描いた模様を並べていく。
「あっ!!逆にこっちだと破られて大石を荒らされていたのかもしれなかったのか」
ハッと気付いたように乃木が持っていた扇で畳をパチンと叩いた。
どちらにせよ、緒方のヨミに気付けなかった時点で、乃木の敗北は決まっていたのだろう。
だが、そのヨミに気付けた者は対局者の乃木だけでなく観戦していた者達も同じだった。
「緒方さんまで、一皮剥けたっていうか、やっぱりsaiとの一局が機転になったとか?勝敗は別にしても、あの対局は面白かった。なんか緒方さん、タガが外れたように普段打たない場所にもどんどん打っていくし、でもその打った一手が面白い!」
観戦し、対局の検討に混ざっていた倉田が、乃木との対局の内容ではなく、緒方が先日打ったsaiとの対局について話題を述べる。
saiが互戦で対局したこともだが、その相手が緒方だったことが、最も話題になっていた。
韓国の安太善と互戦で対局したときには、その周囲に多く人がいて、どういう経緯で対局することになったのか明らかだったが、緒方の対局は寝耳に水といっていい。
予め約束していたわけでもなく、saiが対局申し込みを断り、狙っていたかのように緒方に対局を申し込んだ。
これで詮索するなという方が無理だろう。
緒方が何かしらsaiについて知ってて、それで互戦で対局できたのではないかと裏を勘ぐる。
しかし、緒方がsaiについて語ることは何もなかった。
「……打ちながら初心を思い出したことは認める」
「でも、本当にsaiについて何も知らないんですか?saiが他の人の対局申し込みを断ってまで、誰かと対局するなんて滅多にないって噂じゃないですか。しかも互戦!打てるなら俺もsaiと打ってみたい!」
なおも倉田が食い下がる。
これについては倉田だけでなく何人にも緒方は聞かれたことだったが、その全員に同じ返答を返した。
「本当に知らないのだから、どんなに食い下がられても何もでないぞ」
対局前にはメッセージ、そして対局後にはチャットを交わしたことは、緒方は誰にも他言しなかった。
その内容ついて誰かにしつこく追求されることが嫌だったからという理由もあったが、これで会話内容は緒方とsaiしか知りえない情報になる。
そこでもしヒカルが会話内容を少しでも口を滑らせれば、そこから集中して突くことができる。
行洋の影に隠れて、緒方だけに見えるようにしたヒカルのあのイタズラ。
思い出すだけでも緒方は腸(はらわた)が煮えくり返りそうになる。
いくら追い詰められてたとはいえ、よくあの塔矢行洋の背中にしがみつくことができたなと思う。
そしてその行洋なら緒方も手出しできないと踏んで上手いことヒカルに逃げられた。
あのときは、森下が急かすようにヒカルを連れていってしまったが、反対にあの場にヒカルがあと少しでも長くいたら、行洋の前であろうとも緒方の短い堪忍袋の緒が切れていたことだろう。
じわじわと追いつめ、必ずsaiの正体を突き止めてみせる。
そしてヒカルの頭に拳骨を一発落とすのだ。
□■□■
「そういうことだったのか」
緒方との事の次第をヒカルから聞かされ、行洋は納得したように、けれど面白そうにクスクス笑みを零す。
研究会の時間になっても現われない緒方が、いきなりsaiとネット碁で対局していると知らされたときは、一瞬本気でヒカルが緒方に佐為の存在を話したのかと思った。
前回会ったときに、緒方がヒカルのことを疑っているという話をしたばかりで、持ち時間3時間の互戦をネット碁で対局しているのは、ネット碁の約束を予めしていたのかと考えたが、前もって緒方から研究会を休むとの連絡がないことが逆に辻褄が合わない。
自分から緒方に何か尋ねて変な疑惑を持たれるわけには行かず、そのまま行洋が静観を決め込んでいれば、棋院で緒方に追いかけられているヒカルと出くわし、事の成り行きを知らない分、どうしたものかと戸惑ったものだ。
下手にヒカルを庇うわけにはいかず、かと言ってsaiの正体に迫る緒方にヒカルを渡すわけにもいかず、通りかかった森下にヒカルを預けて、どうにかやり過ごすことができた。
「しかし、緒方君が打ち筋の相似で進藤君と佐為の関係に気付いたように、まさかそれを逆手にとってネット碁の緒方君をつきとめるとはね」
「俺も最初は半信半疑だったんですけど、佐為がもしかしたらネット碁の棋譜から緒方先生を見つけられるかもって。それで見比べるために棋院で緒方先生の棋譜を全部貰ったら、それがどっかで緒方先生の耳に入ったっぽいんですよね~。対局終わったあと、チャットで俺と関係あるのかって聞かれたときは、もうっ!すっごい焦っちゃって!」
「全く君たちも無茶をする。緒方君にはプロ試験の間は大人しくするよう釘を刺したが、プロ試験が終わった後はどうするつもりかね?彼がこのまま大人しく佐為を諦めるとは思えない」
「開き直ってしらばっくれます。証拠がなければ緒方先生はどうにもできないって分かったし」
だから大丈夫、とヒカルは行洋に胸を張る。
人目があるところで緒方に騒がれるのは嫌だが、それはヒカル以上に緒方が避けるだろう。
子供が勝手な憶測で騒ぎたてるのと、大人が子供に向かって険しい顔で詰め寄るのでは、それを傍から見る印象は真逆だ。
プロ棋士という外聞を気にするであろう緒方ならきっとしない。
後は、1人の時に緒方に捕まらないよう気をつけて、もし何か強引に詮索されても大声を出して誰かしらの背中に張り付いて助けてもらえばいい。
「ときに、緒方君に佐為のことをこれからも話す気は?」
行洋の問いに、ヒカルは明後日の方角を睨みながら、腕を組み、口をへの字にして考え込む。
「ん~~まだいいかな。どうしてもって切羽詰ってるわけでもないし、俺的には佐為のこと知ってる人は1人でも少ないに越したこともないから、塔矢先生だけでいいです」
そして隣に座る佐為に向かっても、心の中で、
――緒方先生と打とうと思えば、ネット碁で対局出来ないこともないしな。なんだかんだって緒方先生のアカウントが判明したことだし
――そうですね。私が幽霊ってこと以外、ほとんど気付いているのに事情を話さないのは申し訳ない気持ちもしますが、どうしても特に話さないといけない理由もありませんから
現状、佐為はネット碁で碁を打つことはできるし、こうして行洋と対面して碁を打つこともできる。
多くの棋士と打ちたいという欲はあるが、ヒカルがヒカルだけの実力でプロになりたいのなら、余計な疑いをかけられないためにも、自身の存在は出来る限り内密にしておくにこしたことはないと佐為も思う。
――それにあの人、からかうと結構面白い
先日の一件をヒカルは思い出し、クククッと堪え切れなかった笑みが漏れてしまう。
師匠である行洋の言葉にはさすがの緒方も逆らえず、すぐそこにいるヒカルに手が出せないでジレンマしている姿は、一見の価値があるだろう。
緒方とのネット碁について、事の次第を何も話していないのに、緒方に追われているヒカルを見て、すぐに事情を察してくれた行洋にも感謝だが、何よりヒカルがあっかんべーをしてやったときの緒方のマヌケな顔は、一生忘れない自信がある。
――コラ!失礼ですよ!大人をからかうのは!
ヒカルの過ぎたイタズラに佐為が叱りつける。
それに不真面目な相槌をヒカルは返す。
「はいはい、分かってるって。もうしないってば」
「進藤君?」
「いえ、何でもないです。佐為もどうしてもって場合じゃなければ、秘密のままそっとしておいたほうがいいって言ってます」
行洋にも佐為の考えをヒカルは伝える。
すると、急に無表情になり口を閉ざした行洋の様子に、ヒカルはもしかすると行洋が自分達とは違う考えなのかと思い、隣の佐為を見やった。
なんと言っても緒方は行洋の弟子だ。
ここまでバレているのなら師匠として緒方にも佐為の存在を話してやりたいのかもしれない。
無言になってしまった行洋に、ヒカルは恐る恐る、
「塔矢先生は、緒方先生にも佐為のこと話した方がいいと思います?」
多少ビクビクしながらヒカルが問うと、行洋はじっと見えない佐為の方を見てから、すぐに手元の湯のみに視線を落とした。
「それは私からは何とも言えない。佐為と打ちたいと願っている者達が、緒方君以外にも大勢いることを私は知っている。その中には当然息子のアキラも入っているだろう。しかし、それを知ってて彼らに内緒で私はこうして人知れず佐為と打ち、たまにふと私だけが佐為を独占しているかのような気持ちになる瞬間がある。己だけが佐為の存在を知り、佐為と好きなときに打つことが出来る。恥ずべきことだ。私は君達と知り合うまで、自分の中にこんな醜い自分がいることを知らなかった」
そこで一度区切りると、行洋はヒカルを見やり、小さく微笑みながら、
「私には佐為の姿は見えず、声も聞こえない。にも関わらず、進藤君のお陰でこうして佐為と打つことが出来る。その奇跡にただ感謝するだけだよ。ありがとう、と」
「そんなっ!ありがとうだなんて!第一、誰にも話さないで内緒にしてって最初にお願いしたのはこっちなんだから!」
――ヒカルの言う通りです!行洋殿が気に病む必要はどこにも無い!
思わぬ行洋の感謝の言葉に、ヒカルと佐為は驚きふためきく。
自分達こそ佐為の存在を内緒にしてもらって感謝しているのに、逆に行洋から感謝されているとは夢にも思っていなかった。
「だが、君達が私を選ばなければ、こうして打っていることもない」
「それは、そうだけど……。いいんです!!塔矢先生が変に思うことなんてこれっぽっちも無いんです!塔矢先生と打ちたいってワガママ言ったのは佐為で、俺が佐為と一緒に見てほしくないから、佐為のことを先生に話して、内緒にしてってワガママ言ってるんです!だから!塔矢先生が恥ずべきとか言う必要はないんで す!」
懸命に行洋を庇うヒカルの姿に、行洋は表情をゆるめ、
「そうかな?そう思ってもいいかな?」
「ぜひ!それに佐為だけじゃなく俺だって塔矢先生に打ってもらえるし!こうして塔矢先生に指導碁打ってもらってるとか院生のみんなが知ったら絶対羨ましがるに決まってる!プロ試験だって先生と打ってるくせに落ちたりなんかしたら、絶対一生受かりっこない!」
「それはまた一大事だな。私の指導が足らずに進藤君がプロ試験に落ちてしまったことになる」
行洋の指摘に、ヒカルはどう補足すればいいか分からず、両手を胸の前でわたわたさせながら、
「え!?そんなつもりで言ったわけじゃなくて!」
「分かっている。だが、佐為と共に私も出来る限り尽力しよう。君がプロ試験に受かるようにね。今の成績は?」
「……6連勝中です」
「では全勝を目指そうか。一つも落とすことなくプロへ」
「はい!!」
ヒカルの目が大きく輝いた。