IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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確証はないまま、恐らく緒方であろう可能性が一番高いアカウント名を佐為が特定することに成功しても、肝心の緒方がいつネット碁に現れるかまでは分からない。

碁のプロ棋士という世間一般のサラリーマンとは違った生活習慣を送る相手を捕まえようとするなら、気長に待つしかなくなる。

 

「はじめ俺のアカウントで緒方先生のアカウント探して、もし見つかったら、お前のアカウントに急いで切り替えて対局申し込むって形かな」

 

――ヒカルの名前で探す?初めから私の名前で探したほうが、対局申し込みするのに手早いのでは?

 

まだパソコンとネット碁の仕組みをよく理解していない佐為が首を傾げた。

 

「お前のだと皆がどんどん申し込んできて、緒方先生見つける暇がないんだよ」

 

負け無しの全勝を続ける佐為に、多くの人が次から次に対局を申し込んでくる。

現にヒカルは『sai』でログインして、対局申し込みするという手順を半年以上した記憶が無かった。

 

 

If God 32

 

 

「緒方先生、お疲れ様です」

 

棋院に現れたトップ棋士に慣れた様子で事務の受付が頭を下げる。

それに対し緒方の方も小さく会釈し、棋院に出す必要のある書類を封筒ごと手渡した。

 

「ではよろしくお願いします」

 

「はい、確かにお預かり致しました」

 

中身の書類に目を通し、書類を元の封筒に戻しながら

 

「そういえば、院生の中に緒方先生の熱心なファンという子がいまして、この間、緒方先生が打った棋譜だけ全部くれないかと頼まれましたよ」

 

「院生?」

 

受付が何気なく話しだした雑談に、緒方は表情を変えることなくピクリと反応した。

自身のファンだという話を聞いて、決して悪い気持ちはしない。

しかし院生という単語に、緒方は咄嗟にヒカルが脳裏に思い浮かぶ。

 

「ええ、名前はなんだったかな。でも前髪だけが明るくて特徴的な子供だったな。緒方先生の棋譜だけ欲しがるなんてよっぽど緒方先生に憧れているんでしょうね。棋譜を印刷してあげたら、すごく喜んでましたよ」

 

「……それ、もしかして、進藤と言ってませんでしたか?」

 

「え?あ……そうです!進藤ってその子名乗ってました!緒方先生ご存知だったんですか?」

 

院生とは言え、トップ棋士に名前を覚えてもらえるほど有望な子だったのかと受付は驚く。

 

「まぁ、知り合いといえば知り合い、ですね」

 

お互いたいした会話はしていないが、それでも知り合いというなら十分だろう。

それ以上、深く詮索されないうちにと緒方は足早に棋院を後にする。

 

――進藤が俺の棋譜だけ、をね

 

車中で緒方は運転しながらタバコをふかす。

saiとヒカルの関係に気付いても、緒方からは2人に行動を起こす術も手段も見つけられずにいる。

片やネットの闇に隠れ、チャットもしないで碁を打つだけの存在。

揺さぶりをかけれるとすれば、もう1人のヒカルの方だろう。

アキラと違い、子供らしく考えていることがすぐ表情や行動に出やすい。

 

そのヒカルが緒方の棋譜を欲しがった。

ヒカルが自分のファンだというのを、緒方がどうこう言う筋合いはないが、今更だろう。

緒方と出会ってからこれまでのヒカルの態度を思い返せば、それはまずありえないと思う。

目的が緒方の棋譜だったのは本当かもしれないが、ファンというのは棋譜を得るのに疑いを持たせないための取ってつけた嘘だ。

何のために緒方の棋譜を欲しがったのかまでは分からないとしても。

 

自宅のマンションに着き、家に戻ると、緒方がまずパソコンの電源を入れる習慣がついたのはいつごろだったろうか。

パソコンが立ち上がる間に、ネクタイを緩め、キッチンでポットに水を注ぎ、ガスコンロに火をつけてからパソコンに戻ると、ちょうどデスクトップが立ち上がっている。

それからWEBブラウザとネット碁ソフトのショートカットをダブルクリック。

 

――今夜は塔矢先生の研究会か

 

研究会では棋譜並べもそうだが、非公式な対局もそれ以上に打つ。

そして打った一局に対し、皆で意見を言い合うのが常だったが、ここしばらく緒方が行洋と対局すると実力を詰めるどころか、差を広げられているように感じていた。

決して緒方が弱くなっているのではなく、行洋がこの歳になってさらに力を付け始めている。

碁が若返り、勢いが増し、より高みへと成長している。

そして大手合もだが、タイトルをかけた対局でも、それらは結果として現れていた。

 

行洋は急に強くなった。

 

どんな気持ちの変化があったのか、強くなるどんなきっかけがあったのか、行洋は何も語らなかったが、トップ棋士が強くなるだけの要因が必ずあったハズだと緒方は思う。

それまでも日本や、韓国、中国を含めた世界で最も神の一手に近いと言われてきたが、必ず行洋の好敵手は存在していた。

対局で同じトップ棋士達としのぎを削り、競合することで碁を熟成させていった。

 

しかし今の行洋の碁は、好敵手が存在していない。

常に勝つということはなくても、相手が苦戦の末にギリギリ勝てただけであって、行洋そのものは1歩も2歩も先を歩いている。

若返り成長している碁が熟成の段階を迎えたら、誰も行洋に勝てないのではないだろうか。

 

行洋の強さは、誰もいない相手に向かい、一人で碁を打っているように緒方の目に映った。

 

「いないか……」

 

囲碁ソフトが立ち上がり緒方はログインすると、ログイン中のユーザーの名前からさほど期待することなくsaiの名前を探した。

しかし目的のユーザー名は見当たらない。

それほど期待もしていなかったから、見つからなかったとしても緒方が落ち込むことはないが、パソコンを立ち上げ、囲碁ソフトでsaiの存在を探すことが習慣のようになっている自分を嘲笑するしかない。

 

saiがログインしているかどうかだけを確かめるためにネット碁にログインしただけであって、緒方が気晴らしに誰かとネット碁で打ちたいわけではなかった。

なので、ログインユーザー画面のまま、飼っている熱帯魚に餌をやるために席を立つ。

餌を食べる魚の様子を鑑賞していると、キッチンからお湯が沸いた音がして、インスタントコーヒーを淹れてからパソコンデスクに戻り、緒方はディスプレイに映された名前に目を見張った。

 

――対局申し込み……

 

「え?」

 

ネット碁をするつもりは初めからなかったので、対局を断ろうとしてマウスを持った手に力がこもった。

申し込んできた相手の名前は『sai』

一瞬見間違いかと思ったが、間違いなくsaiである。

 

――saiが俺に対局を申し込んできている?

 

saiと対局したがるユーザーは多く、saiがログインした瞬間、多数の対局申し込みが寄せられる。

そのため、来るもの拒まずな姿勢のsaiが、自ら対局者を選ぶということはほぼ無いに等しい。

それなのにsaiが対局を申し込んできた。

 

――偶然か?

 

たまたまsaiがログインしたことに誰も気付かず、適当な相手にsaiが対局を申し込み、それが緒方だった可能性もある。

理由は何にせよ、思いがけずsaiと対局が叶ったことに、知らず緒方は武者震いを覚え、対局申し込みを受けるべくマウスカーソルを動かしたとき、

 

『打ちませんか?』

 

メッセージ画面がパッと開き、saiのメッセージを映す。

 

――こいつ!

 

このアカウントが緒方精次本人だと分かって、saiは対局を申し込んできているのだと緒方は直感的に思った。

チャットですらほとんどしないsaiが、対局中ではない相手に、それも一度も対局したことのない見知らぬ相手にむかってメッセージという手段を使ってまで対局したがっている。

対局申し込みした相手の反応がなければ、さっさと申し込みキャンセルして別の誰かに申し込みし直せばいいだけだ。

saiが対局を申し込んで断る馬鹿は、ネット碁経験が浅い素人ぐらいだろう。

 

そのsaiが緒方と対局を望んでいる。

 

――どうやって俺のアカウントを調べたか分からないが、いいだろう。受けてやるっ

 

ヒカルが緒方の棋譜を欲しがったことと、saiが対局申し込みしてきたことに関係があるのか分からなかったが、不敵な笑みを浮かべ、緒方は対局了承ボタンをクリックした。

 

□■□■

 

「いたっ!緒方先生だ!!」

 

目を見開き、ヒカルがパソコンディスプレイに食いつく。

 

――え!?ホントですか!?ヒカル早く!!

 

「ちょっと待てって!今急いでログインし直してるから!!」

 

カチカチとマウスでログアウトボタンをクリックし、ヒカルは再度ログイン画面でsaiのアカウントとパスワードを入力する。

すると先ほどヒカルが見ていたログインユーザー画面が現れ、リストの中から緒方のアカウントを探しているその短い時間に、対局申し込みが入り

 

「もう!今は相手してる時間ないんだって!!」

 

消しても消しても現れる対局申し込み画面にヒカルは、乱暴にマウスをクリックしキャンセルし続ける。

ようやく申し込みが落ち着き、元のログインユーザーのリスト画面に戻ると、急いでさきほど見つけた緒方の名前を探し出し対局申し込みをする。

 

なんとか申し込みできたとヒカルは安堵したが、今度は申し込み画面のままディスプレイの表示が動かなくなる。

 

「……何も反応ないけど、緒方先生パソコンから離れてないよな?」

 

申し込みしても何も反応が無い画面に、ヒカルはディスプレイをじっと睨み訝しむ。

 

――パソコンから離れるとは?

 

「だからログインしてるけど、本人はパソコンを放っておいて、どっか別のところで何かしてないかな、ってこと。えーと、確かメッセージが送れたはずだけど……名前をクリックして……」

 

慣れない操作でヒカルはメッセージ入力画面を開く。

それから、ゆっくり一つずつ間違えないように文字を入力していった。

 

『打ちませんか?』

 

短い文章ではあったが、とりあえず文章が打てたことにヒカルは満足し、

 

「送信っと。どうかな?」

 

カチリ、とマウスが音を立て、送信完了画面が現れる。

 

――対局受けてくれるでしょうか……

 

何時ネット碁をしようと約束しているわけではないので、また緒方のアカウントを見つけられるとも分からない。

ヒカルの言うとおり、対局申し込みされていることに緒方が気付かないでいるのだとしたらどうしようかと佐為が悩んでいると

 

「あ!きた!って、え?」

 

ヒカルが設定した対局条件が変更されて、対局申し込みが返ってくる。

対局条件は持ち時間3時間の互戦。

 

「持ち時間3時間って……このアカウント、ほんとのほんとに緒方先生?ていうかマジで打つ気満々だったり?」

 

――ヒカル、お願いします

 

さっきまでの穏やかな雰囲気が佐為から消えていた。

 

 


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