IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
若獅子戦がアキラの優勝で幕を閉じた後、ヒカルは着実に院生順位を上げていった。
5子置いての行洋との対局で、アキラとの距離がどれくらい開いているのか実感したこともそうだが、その対局で行洋から伝わってきた気迫に、ヒカルは圧倒されながらも惹かれている自分に気付いた。
トップ棋士の強さの象徴がそこに在り、圧倒する力で攻められる怖さを感じるのと同時に、そのそびえ立つ高い壁に無償に挑戦したくなる。
佐為はヒカルが碁を始めた頃から指導してもらっているせいか、指導者としての顔しか見たことがない。
佐為と打つだけでは、決して得られなかった経験と感覚だとヒカルは思う。
たった一度の対局で、まだ4子の置き碁だが、必ず置き碁なしで行洋と対局できるようになりたいと、そして佐為と行洋が打っているような碁を自分も打ちたいと強く思った。
「……ありません」
研究会での和谷との対局。
和谷が投了して、ヒカルも一礼し、
「ありがとうございます」
それまで張り詰めた気持ちをふぅ、と緩めた。
快心の一局だった。
隣の碁盤で、別の棋譜を並べていた森下が、和谷の投了に顔をあげ尋ねてくる。
「なんだ和谷、負けたのか?」
「ここ、まさか切られるなんて……」
森下から尋ねられながらも、和谷は盤面から顔を上げることなく、じっと見据え呟く。
「へっへっへ~。もうすぐ和谷の順位だって追い越すから待ってろ」
「院生研修で連勝しているからって調子に乗りやがって!」
「連勝?それはすごいね」と白川。
「5連勝!」
白川に向かって手を広げて言うヒカルに、さきほどの和谷との対局を傍で見ていた冴木も、ヒカルが強くなっている印象を受けたのか、盤面を眺めならがうんうん頷き、
「ん~、でも実際、進藤強くなってるよ。なんかあった?」
「まぁね!」
上機嫌で得意げにヒカルは答える。
もっと打ちたいという欲求の強まりと、それを後押しするような成績の向上。
家で打っているときも、佐為からも強くなっていると誉められ、学校を休んでもいいから碁が打ちたいというのがヒカルの正直な気持ちだった。
打てば打つほど自分が強くなっているのが実感できる。
そして次に果てしなく遠いけれど、未来を見据えた目標として、佐為と行洋が真剣勝負している光景が脳裏に思い浮かぶ。
「勝つのはいいことだが、だからってプロ試験で勝たなきゃ意味ねぇんだぞ!和谷!少したるんどるんじゃないか!?」
森下が畳を扇でバシバシ叩き発破をかけてきて、負けてしまった和谷がうう、と呻く隣で、ヒカルは隣で笑う佐為と視線があい、釣られるように笑った。
□■□■
院生研修が終わり、家に帰ろうとヒカルがエレベーターを降りてすぐ
「キミ、院生かい?」
不意に声をかけられ、ヒカルは立ち止まった。
声をかけてきた相手を見やり、それが見知らぬ人物であったことに、ヒカルは上目遣いに訝しむ。
「え、うん」
「プロ試験もうすぐだね。受けるの?」
「おじさん、誰?」
質問を続けざまにされてもヒカルは答えず、見知らぬ相手が誰なのかを聞き返す。
「おじっ!?」
しかし、20代でおじさんと呼ばれた門脇の方は、思わず噴出しそうになった。
確かに囲碁のプロは10代でプロになるのが普通だが、26でおじさんと呼ばれるのは、精神的ダメージが大きい。
へこんでしまいそうになる気持ちを奮い立たせ、食い下がる。
「あ、イヤ、少し腕に覚えがあってさ、一局打ってくれない?」
「ヤダ、家に帰るの遅くなるもん」
「ヤダって……外はまだ明るいし、ちょっとだけ腕試しさせてよ?」
「えー……」
断ってもしつこい門脇に、ヒカルは顔を思いっきり顰めたが、何か閃いたようにパッと顔を明るくさせ、
「あ、いいよ!打とう!」
門脇の申し出を快諾する。
突然、態度を反転させたヒカルに後ろにいた佐為も首をかしげながら、2人が向かう後を追う。
門脇が案内した先は棋院の中にある一室だったが、ヒカルも佐為も初めて見る場所だった。
部屋にある机の上全てに碁盤と碁石が用意され、いたるところで一般人と思われる者達が碁を打っている。
その様子をもの珍しそうにヒカルが眺めながら、
「へー、棋院にこんなとこあったんだ」
「一般のお客さんが打つとこだよ、知らないの?」
院生であるはずのヒカルが一般の対局部屋を知らない様子に、門脇は多少驚きつつ、空いている席にヒカルを促した。
促されるままヒカルは席に座り、背後の佐為に声をかける。
――佐為
――はい?
――お前打て
――え?
――通りすがりのような一局だから、お前が打っても問題ないだろ。いつもネット碁で顔が見えない相手との対局ばっかだし。顔合わせて対局出来るのも塔矢先生だけだもんな。それに腕試しって言ってるから、この人もそこそこ強いんだろ。でも、あんまり勝ちは過ぎるなよ。後で絡まれてもイヤだからな
佐為にそっと心の中で語りかけながら、門脇が握ったのに対し、ヒカルは黒石を2つ出す。
――先番だ、佐為
「お願いします」
「お願いします」
ヒカルが礼をすると、門脇も間をおかず礼をする。
しかし、打てと言っているのに、打つ場所を示さない佐為に、ヒカルは横目にどうしたのかと隣を見やった。
――佐為?
――こうして誰かを目の前にして打つのは、ヒカルと行洋殿以外では久しぶりですね
幽霊の佐為が石を持てないことはどうしようもなく、ネット碁もディスプレイに映された碁盤だけで相手の顔は見えない。
佐為が相手と面と向かって打てるのは、ヒカルと行洋の2人しかいなかった。
だが、平安時代や江戸時代で相手と向き合って打ってきたように、目の前に相手がいるというのは打つ気構えが全く違うものだと佐為は思う。
感慨深げに佐為は碁盤と相手を見やる。
――……長考はナシだぜ。早く帰りたい
――分かりました
「どうした?」
なかなか一手目を打たないヒカルに、門脇が煽るように言う。
すると、扇を持つ佐為の右手がすぅと持ち上げられ、
――右上スミ小目
佐為の示す場所にヒカルは石を置いた。
佐為もだが、門脇も長考することなく打ってくる。
腕に覚えがあると言ったとおり、打ち始めてすぐにヒカルも門脇が並外れて強いことに気付いた。
強かに佐為に喰らいついてくる。
しかし、佐為の前には、力及ばない。
着実に広がっていく差に、差が縮まらないと認め、門脇は頭をうなだれ投了した。
「……負けました」
もし佐為ではなくヒカルが打っていたら確実に負けていただろう。
どこが腕試しだ、とヒカルは内心悪態をつきながら、挨拶を返す。
「ありがとうございました」
「……おまえ、ホントに院生か?」
――ヤベッ!!
院生というには強すぎる実力に、門脇が訝しげに尋ねてきて、ヒカルは余計なことを聞かれないうちに逃げようと、門脇の問いに答えず急いで基盤の碁石を片付けていく。
まさか門脇がこんなに強いと思わなかったから、軽い気持ちでヒカルも佐為に打たせたのだ。
打つ前にヒカルが勝ち過ぎるなと釘を刺したとおり、佐為も力を押さえて打っていたようだが、その勝った相手の門脇の実力がプロ以上となると、問題が出てくる。
ヒカルの実力と、佐為に打たせたこの対局で、実力差が出てしまう。
ここまで打てるのなら、門脇自身、自分の実力がどれくらいかある程度把握しているだろうし、その上で院生であろうヒカルを捕まえ対局しようと誘ってきたはずなのだから。
「……歳は?名前は?ま、待てよ、おい、お前!」
「ごめん、急ぐんだ!」
下手に絡まれる前に逃げてしまおうとするヒカルに、門脇は質問を重ね、
「碁を始めてどれくらいになる?」
その問いに、ヒカルは出て行こうとした足を止め振り返る。
ヒカルが碁を覚えたのは1年と少し前だったが、さきほど門脇と実際に打ったのは佐為である。
ならば、
「千年」
――千年
グッ、と親指を立ててヒカルと佐為は答える。
そのまま部屋から走り去っていく後ろ姿を門脇はじっと見送り、座っていた椅子に腰を下ろして、既に片付けられてしまった盤面を見やった。
一手目から並べることは出来たが、そんな気力は沸かなかった。
自分の力を過信し、そして相手が院生と侮っていたことは認める。
しかし、負ける気の無かった対局で、見事に負けてしまった。
プロになる自信はあった。
しかし、プロになった後、己より年若いヒカルたちの院生が同様にプロになるのだとしたら、そのとき自分は彼らと渡り合っていけるのだろうか。
ふぅ、と息を深く吐き、門脇は持ってきた封筒に手を伸ばす。
そして未練も心残りも断ち切るようにプロ試験申し込み用紙の入った封筒を破り捨てた。
プロになれればいいという甘い気持ちと共に。
プロになるだろう彼らと渡り合い、さらに上を目指す覚悟を心に秘めて。