IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
若獅子戦の夜、負けた村上との対局をヒカルと佐為は検討していた。
全体的によく打てたし、中盤の一手は佐為も諸手を上げて誉めたが、惜しむらくはヨセで先手先手と打たれ逆転されてしまった。
――今日はホント惜しかったですね
最後の部分を、佐為が正しい応手でヨセていく。
そのヨセをヒカルは佐為の示す順に黒と白の石を置いていった。
「ん~、まぁな………。あ~こうやって打てばよかったのか~」
――細かい部分で見落としやすいですからね。これに勝てたら次は塔矢と対戦だったのに残念です
「それはそうなんだけど……俺、きっとこの対局で強くなったと思うんだ。結果だけ見れば俺は負けたし、その相手だって2回戦では塔矢に何も出来ないで負けてる。きっと負けてよかったんだよ、俺」
――ヒカル?
若獅子戦前はあれほど塔矢と対戦することを意気込んでいたヒカルが、塔矢と対戦できなかったことを悔やむどころか、負けてよかったと相反することを口にして、佐為は首を傾げた。
「俺は塔矢を見返したいけど、やっぱ対戦するなら勝つに越したことないじゃん。今日みたいな碁をもっとたくさん打って、もっと強くなって、自分の力だけで塔矢に勝つんだ」
――そうですね。今日の塔矢の対局、2回戦で塔矢が力を押さえている分を差し引いても、ヒカルには遠い道のりですね~
「なんだと!!言ったな!」
窓の外を眺めるように言う佐為に、ヒカルは並べていた碁石をさっさと片付け碁笥に戻す。
棋譜並べではなく打とうと言っているのだ。
――はい!打ちましょ!
佐為が嬉しそうに持っている扇をパタパタ振る。
それが碁を打つだけでなく別のことが要因で佐為が浮かれているのだとヒカルは分かっていて、あえて言うまいと思っていたが、負けた自分の前であまりの佐為の浮かれように耐え切れず
「………塔矢先生から手紙が来てたのがそんなにうれしいかよ?」
――それはもうっ!!
ヒカルの嫌味混じりの口調などどこ吹く風の佐為に、ヒカルの眉間がピクピク痙攣する。
数日前に届いていた行洋からの手紙に、佐為が歓喜したのは言わずもがなだが、ヒカルが若獅子戦前ということもあり、まずは佐為と行洋の対局よりヒカルの若獅子戦が優先と2人で決めていた。
「ていうか分かってんのか?来週日曜日に対局するってことは、俺は院生研修の手合いサボるってことなんだぞ?」
――大丈夫ですヒカル!研修も勿論大事ですが、より強い相手の対局を間近に見る機会はそうあるものではありませんし、ヒカルにとってもきっと院生研修以上の勉強になるはずです!
院生研修より塔矢行洋名人の対局の方が貴重だという意見はヒカルも理解できる。
だが、だからと言って、嘘をついて研修を休むのは佐為ではなくヒカルなのだ。
佐為と行洋が対局するので研修を休みます、なんて口が裂けても言えない。
すでに行洋との対局に気持ちが飛んでしまっている佐為を目の前に、どうやって研修日を誤魔化そうかとヒカルは肩を落とした。
□■□■
今年の日中天元戦は中国上海で開催され、3番勝負のうち、第1局と第2局を行洋が続けて中押しで勝ち、2勝0敗で下した。
相手も中国で天元のタイトルを持つトッププロ棋士であり、全体的に力をつけ始めている中国という勢いそのものもあったが、行洋の放つ一手に動揺を隠しきれない局面が、対局中、何度もあった。
それは行洋の対局相手だけではなく、別室で観戦していた他の中国プロ棋士達も同様で、映し出される画面と手元に並べられていく碁盤を食い入るように見つめていた。
対局を終えれば、通常対局者同士とプロ棋士で検討が行われるのが常だが、今回は予定されていた検討時間がオーバーした上、行洋が訪中している間に一度でいいから対局したいと申し出る者も現れた為、行洋はホテルに戻ることなく中国棋院に留まり碁を打った。
国が奨励していることで碁が盛んな中国だけあって、国籍に関係なく行洋の考えを請い、そしてそれ以上に如何なく意見を述べてくる。
礼儀は当然大事だと行洋も思うが、目上の相手に怯むことなく意見を述べ合う熱心さは、日本のプロも率先して学ぶべきことのように感じた。
「中国プロ棋士の間でも、今回の天元戦で塔矢先生がまた一段と強くなられたと話題ですよ」
検討がひと段落したとき、同行していた通訳者が、行洋の活躍を嬉しそうに語る。
身振り手振りのジェスチャーもだが、はやり言葉が分かれば、相手がどのように考えているか深く知ることが出来る。
その上で、行洋に向けられた賛辞を、できるだけそのままの意味で伝えたいと通訳者は持ちうるボキャブラリーを駆使し言葉を通訳した。
それらの言葉に、行洋はただ静かにありがとうございますとだけ返していたのだが、検討しているところに、突然ノートパソコンを持った1人が現れ、机の上に置いたかと思うと、中国語で慌てたように行洋に話しかけてくる。
当然、検討していた者が、慌しげに現れた者を、厳しい口調で嗜めようとしたようだったが、パソコンに映し出された画面を指が示す場所を見て、声を詰まらせた。
そして通訳に何事か話しかけている間に、パソコンを持った者が行洋の隣りにしゃがみこむ。
「対局中のネット碁を塔矢先生に見てほしいそうです」
困惑したように通訳が行洋に話す。
それに対し、行洋が返事をする前に、すっ、とパソコンのディスプレイが向けられた。
「今、ネットで話題になっている正体不明の棋士だそうで、名前は……sai」
通訳の口にした名前に、行洋が微かに目を細める。
その間にも行洋を取り囲む中国のプロ棋士達の間に何度も佐為の名前がささやかれるのを耳にしながら、
「saiの棋譜は私も何度か見たことがある」
と行洋が答えたのを、通訳がさらに中国語で訳すと周囲に声が上がった。
saiの名前が世界で騒がれていることは日本にいながらも時折耳にしていた行洋だったが、中国の地でsaiの名前を聞くと、どれだけ強い棋士としてsaiの名前が知られているか、その影響力を目の当たりにした気分だった。
それも下町などにある碁会所ではなく、中国棋院の中でである。
佐為の意思を代弁するヒカルと打った対局を思い浮かべながら、佐為の強さはネットの中だけに収まらなくなっているのか、と行洋は心内だけでそっと思う。
画面に映し出された対局は、中盤にさしかかろうとした頃だったが、形勢的には僅かにsaiが勝っている。
saiと対局している相手もプロだろうか。
押されてはいるが、saiを相手にしていると考えれば、決して弱いわけではない。
『やはりsaiが強いか』
『だが、相手もまだ負けてない』
粘ろうとするsaiの対局者に、行洋の周囲にいた1人が近くにあった碁盤を引き寄せ
『パソコンをどけるんだ。並べてみよう』
パソコンが退けられ、その位置に碁盤が置かれると、ディスプレイと交互に見合わせながら、画面に映し出された対局画面と同じ棋譜が並べられていく。
厳しいsaiの攻めに、相手もよく耐えていると言えた。
ここまで持ちこたえることが出来るのも、それだけの力量があってのことだろう。
『ここを先に抑えておけばどうだろう』
『だがそれより先にこちらを進めておくべきでは?』
対局画面を追って並べられていく石に、次の一手を予想したり、石の狙いを検討している様子を視界に映しながら、行洋は盤面に黙して集中する。
数ヶ月前に打ったときより、行洋と同様に佐為もまた強くなっているのだと碁盤から伝わってくるようだった。
パソコンの画面がsaiの番のまま打ってこない。
『ここでsaiが長考?持ち時間はもとからそんなに設定してないんだろ?』
saiの長考に首を傾げる周囲を他所に、行洋はおもむろに黒石を持ち
――おそらく、佐為ならばここに
対局中の盤面に石を打った。
『これはっ……』
観戦していた者達が息を呑む。
それは誰も気付けなかった証拠だった。
受けなければ地を食い破られる。
それでもその後の応手次第では、食い破られることは防いでも地を多く荒らされるだろう。
『saiも塔矢先生と同じ場所に打ってきた!!』
1人が声を荒げて叫ぶ。
saiのヨミに行洋だけが気付くことができたのだ。
saiが打った後、対局者は長考に入って打ってこないまま10分が過ぎた頃、持ち時間8分を残して対局者が投了する。
最後に打ったsaiの一手に諦めたのだろう。
saiの勝ちだった。