IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
机に向かい紙にペンを走らせ、また再び合間見えて碁を打つ日のことを思い、行洋は心はやらせる。
お互いの生活があり、そして大勢の目の前で大っぴらに打つことが出来ない対局。
過去では江戸時代で本因坊秀策として、現代にもその偉業が伝わるほどの棋神の存在を知りながら、決して他言せず隠れるようにして碁を打つ。
佐為と碁を打つのは楽しい。
行洋がヨミきったと思った盤上に、未知の、そして最強の一手を放ってくる。
対局後の検討も素晴らしいものだった。
行洋は手紙を書き終え、封筒に入れて、机の引き出しにしまう。
今日開かれる研究会に集まった者達にも、4ヶ月前に佐為と打った棋譜を見せてやれればと行洋は思う。
佐為と打てたことを自慢するわけではなく、検討するに値する対局として、息子のアキラや弟子たちにとっても十分勉強になるはずだろう。
しかし佐為の名前を伏せても、行洋相手にここまで打つ相手が誰であるか詮索され疑われる。
そして、行洋は尋ねられても返す答えを持っていなかった。
If God 20
「本因坊秀策。そう答えていたな、その棋士は」
笹木が思い出しながらそう言うと、話題に心当たりのあった芦原が雑話にくいつく。
「ずいぶん前の週間碁の記事ですよね、ソレ」
「囲碁の歴史上、一番強い棋士?」
雑誌の記事を知らない緒方が、今頃どうして江戸時代の棋士の名前が出てくるのか、と怪訝な表情になるが、さほど気にする素振りもなく笹木と芦原は雑話を続ける。
「ええ、囲碁って不思議ですよね。碁そのものの研究は日々重ねられていくのに、最強棋士で過去の棋士の名があがってくるんだから」
「棋士の技量は、個人の資質によりますから」
「まあね、秀策のヨミの深さにも、一手の厳しさにも。芦原はもちろん、俺だって太刀打ちできないからなぁ」
「あ、でも秀策の知らない定石でカクランぐらいは」
ふと良い案を思いついたように芦原が提案するも、笹木が
「秀策が仮に現代の打ち方を学んだら?」
「そりゃ最強だ」
芦原は肩をすくめ、両手を上げて降参のポーズをとった。
その傍らで、緒方は無表情のまま国際交流囲碁大会で、院生の少年が言っていた言葉を思い出す。
院生の少年はsaiを『現代の定石を覚えた本因坊秀策』と表現していたが、最近ではその言葉はネットの中でよく見られるようになった。
現れた当初からsaiを見ている者達は、古い打ち筋から現代の定石を吸収し、段々強くなっていく様を『現代の定石を覚えた本因坊秀策』と例え、それはネット碁をしてsaiを知る者達に広く浸透していった。
ネットの中にだけに存在し、未だにその一切の素性が知れない。
これだけの打ち手ならプロでではなくアマだとしてもとも、その周囲が打ち筋などで気付く者や、心当たりのあるものが1人くらい出てきてもおかしくないのに、そういった者も出てこない。
人が切り捨てることが出来ない人間のしがらみが、saiには一切無かった。
だからだろうか。
saiは人間ではなくコンピューターのAIではないかとさえ、言い出す者まで出てきた。
「塔矢名人でもどうかな」
芦原が秀策と対局して勝てるかどうか、冗談半分で行洋の名前を出す。
すると当の行洋本人がタイミングよく現れて、芦原は慌てて口を手のひらで覆った。
その芦原の慌てように隣りに座っていたアキラがクスクス笑う。
「最強棋士?何の話をしているかと思えば」
クスクスと笑いながら、上座に座る行洋に、芦原はあたふたと取り繕う。
「ですから、僕は先生のライバルに値する棋士は誰かな、と」
「みんなライバルと思っているよ。桑原先生も、座間先生も、緒方くんも」
「先生はどう思われます?いえ、140年前の棋神秀策がですね、もし今、この世に蘇ったとしたら」
興味本位での雑談として笹木は話題を行洋にも振った。
現段階で、行洋は囲碁界のトップに君臨し、神の一手に最も近いと言われている。
塔矢行洋 対 本因坊秀策
ありえない話ではあったが、行洋が秀策に対してどう答えるのか、話の流れで笹木の口から出た冗談だろうとこの場に集まっている誰もがそう考えた。
もちろん、行洋が先ほど皆ライバルだと言ったように、この質問も軽く流すであろうと思っていた。
だが、行洋は碁盤をじっと眺めたかと思うと、両手を正座した太ももに置いたまま、目を細め真面目な声で
「私でも秀策には敵わないだろうな……」
集まっていた全員が行洋の答えに目を見張った。
特に、話を振った張本人である笹木は、まさか行洋から真面目に返答が返ってくるとは思っていなかったので慌てふためき
「まさか!?塔矢先生が秀策に!」
「もしも、の話だろう。本因坊秀策が現代に蘇ったら、というね」
ついさっきの真剣みを帯びた声が嘘のように、行洋は穏やかに取り乱した笹木に落ち着くよう言う。
「なんだ、びっくりした~」
ほっとして、気が抜けたように笹木は後ろに手をつき、天井を仰いだ。
冗談で話題を振った自分が、逆に行洋にはめられたのだと気付く。
「先生も人が悪い」
メガネの位置を正しながら言う緒方も、思わず行洋の言葉を本気で受け取ってしまった。
はじめて弟子として行洋に出会ったときから、厳格で囲碁に対して真面目すぎる印象しかない。
まさか行洋の口から冗談を聞く日が来るとは、これからもあるかどうかというところだ。
「本当にそう思っているよ。もしも、の話ではあるが」
もしも、の話。
ありえない話。
その奇跡の中で、佐為と打つことが出来る幸福。
和んだ空気の中、行洋は言葉を続ける。
しかし、それも冗談と受け取られ、聞いていた者達のなかに真剣に受けている者はいなかった。