IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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「もう外出された?今日はお休みと聞いていたのですが、何か急な仕事でも?」

 

塔矢邸の玄関で緒方が行洋の不在を妻の明子から告げられ、予想外のことに驚く。

前もって行洋と約束していたわけではないが、ハードスケジュールのたまの休みは、いつも家で静かに碁を打つのが行洋の慣例だったので、今日もそうだろうと勝手に思い込んでいた。

 

「個人的な約束があると言って朝早く出かけられて行かれましたよ。夜までには帰るとおっしゃってましたけど」

 

「先生が、個人的な約束……」

 

「どうせ囲碁関係ですよ。だってあの人、とても嬉しそうな顔してたもの」

 

思案する緒方とは反対に、明子はさほど気にした様子もなく笑って言ってのける。

余裕溢れたその様子に、あの塔矢行洋が嬉しそうな顔ねえ、と内心思いながら、緒方もくだけた調子で、

 

「妻の勘ってやつですか?」

 

「いいえ。女の勘かしら」

 

ふふふ、と明子は口元に手を当て、子供のように無邪気な笑みを綻ばせた。

 

 

□■□■

 

 

待ち合わせは前回と同じ店だったので、さすがのヒカルも、今回は道に迷うことなく辿りつくことができた。

店の門に取り付けてあるインターホンを押すと聞き覚えのある女性が出たので、名前を告げれば紺色の半被を着た中年の男性がすぐに出迎え、ヒカルを離れに案内してくれる。

 

――前に来たときも思ったのですが、こちらは本当に庭の手入れが行き届いてますね

 

一度見た庭を、佐為は飽きる様子もなく感慨深く見つめる。

 

――そうか?オレは庭なんか全然分からねぇけど?ていうか、落ち葉がたくさん落ちてるじゃん

 

――その落ち葉はわざとそうしてあるのです。紅葉して散った葉が季節のうつろいを見る者に伝わらせることで、より深い趣きを感じさせます

 

――落ち葉で趣きねぇ

 

関心なさそうにヒカルは呟く。

案内された離れの部屋に、中央に置かれた碁盤の前に座る行洋の姿を見つけて、一瞬待ち合わせに遅刻してしまったかとヒカルは焦ったが、腕時計を見ても時間よりまだ10分は早い。

 

「お、おはようございます……早いですね、先生……」

 

「おはよう進藤君。どうにも佐為と打てると思うと、年甲斐もなく気持ちが高ぶってしまってね、時間より早く来てしまった」

 

行洋が気持ちを高ぶらせるというのがヒカルは想像できなかったが、とりあえず遅刻して行洋を待たせたわけではないのだと分かり、ほっと安心した。

ヒカルが行洋から碁盤を挟み反対の位置に座ると、ちょうど見計らったように、以前、ヒカルを案内してくれた女性がお茶を運んでくる。

失礼いたします、と一声かけてから部屋に入り、2人にお茶を出す様子を、ヒカルはじっと見つめる。

 

「ごゆるりとお寛ぎください」

 

それだけ言うと、部屋から立ち去ろうとした女性にヒカルは、あっ、と声をかけた。

 

「待って。お茶もう一ついいですか?」

 

「お茶をもう一つですか?かしこまりました」

 

2人しかいないのにもう1人分のお茶を頼むヒカルに、女性は小さく首を傾げたが、それ以上の要らぬ詮索をすることなくすぐにもう一つお茶を差し入れた。

 

「どうぞ」

 

差し出されたお茶をヒカルはとりあえず自分のお茶の隣りに置き、女性が部屋から立ち去ったのを確認してから、隣に座る佐為の方に追加で頼んだお茶を差し出した。

 

「ほら」

 

――ヒカル?

 

「進藤君?」

 

「佐為の分です。飲めないけど、3人いるのに2人分しかお茶ないのってなんか寂しいし」

 

佐為を知らなければ、余分なお茶は不自然だろうが、この場にいる行洋には佐為の存在を話している。

 

「なるほど、それはそうだね」

 

――ありがとうございます!ヒカル!

 

ヒカルが差し出したお茶を、佐為は嬉しそうに見つめる。

生身の肉体を持たない己にお茶が差し出されたのは、虎次郎の頃を含めて、一度もなかった。

飲めない己にお茶が用意されても無駄ということは分かっているが、それでも自身ためにお茶が用意されるということは、佐為という存在を改めて認めてくれているような気がした。

 

出されたお茶に行洋は一口つけて、

 

「佐為と韓国の安太善の対局だが、私も見せてもらった。素晴らしい対局だった」

 

「アンテ?」

 

聞きなれない名前に、ヒカルは聞きとらえることができない。

 

「安太善。2週間前の日曜日、佐為がネット碁で対局した相手だよ」

 

「2週間前?ああ!アレ!」

 

名前を言われても分からなかったが、2週間前という一言に、ヒカルと佐為は顔を合わせた。

心当たりはあった。

2週間前、というよりもそれよりさらに一週間前、ヒカルが院生試験に合格し、行洋からの手紙も届いた日、対局申し込みをしておきながら、打ち直しをチャットで申し込んできた相手だ。

一手も打たないうちから、日程を変えての対局打ち直しを申し込んできたので、鬱陶しく感じ、初めヒカルはいつものようにチャットを無視しようとした。

けれど、チャット画面を閉じる前に、佐為が『私は構いません』と打ち直しの対局を了承したので、ヒカルは佐為が言うならと慣れないキーボード相手に両手の人差し指を駆使して、『わかりました』と短い文章を返すことに成功した。

 

「アレって韓国のプロだったんですね。佐為もすごく強かったって言ってました」

 

「相手が誰か分からずに、打ち直しを了承したのかね?」

 

「あ~、なんていうかオレも院生試験受かったばっかりで、佐為も佐為で塔矢先生からの手紙で浮かれてたから、まぁいいかなって。でもその後、いろんなヤツから日取りを決めた対局の申し込みみたいなのがいっぱいきて、面倒になって全部無視してるんですけど。それにネット碁だから相手なんか誰だか分からないし」

 

ただ、持ち時間が3時間だったのはヒカルも驚いた。

ネット碁をするとき、いつものように持ち時間30分くらいかと思っていたので、3時間と画面に表示されたときは、思わず対局を断ろうかと本気で思ったくらいだ。

 

だが、行洋はヒカルが何気なく言った言葉を意外そうに問い返す。

 

「院生試験?進藤君が受けたのかね?それで合格を?」

 

「はいっ!」

 

――ほらっ、ヒカル。行洋殿にもお礼を。試験を受けるのに推薦してくれた緒方という者は、行洋殿の弟子なのでしょう?

 

佐為が隣りからヒカルをつつく。

 

――あ、ああそっか

 

「えと、試験受けるときに、緒方って人から推薦してもらったんです。ありがとうございました」

 

「緒方君が君を推薦?そうか、それは知らなかった」

 

ヒカルのように何か特別な経歴があるでもなく、誰かプロ棋士の推薦がもらえるような様子もないのに、よく院生試験が受けられたものだと訝しんだが、緒方がヒカルを推薦するとはさすがの行洋も予想しなかった。

緒方も緒方で、アキラに勝ったというヒカルのことを気にかけていた様子だったので、それが理由で推薦したのかもしれない。

もっとも、ヒカルが院生に入るだけの力を見極めた上で、行洋自身が推薦してもいいが、そうなると周囲から余計な邪推を受ける可能性が高い。

 

「しかし、君が囲碁を始めたのは、佐為と出会ってからなのだろう?」

 

「そうです」

 

「それから一年足らずで院生に入れるほど力をつけられたのは、佐為の存在があったとしても、進藤君に碁の素質と努力があったからなのだろうね。おめでとう」

 

プロにはまだまだ遠い院生試験に合格というだけで、現役のタイトルホルダーに誉められ、ヒカルは満面の笑顔で喜ぶ。

 

「だって佐為に毎日扱かれてますから」

 

院生試験に入る前はそれこそ寝る時間を惜しんで、ヒカルは佐為に指導してもらった。

 

「では、今日は私に佐為と打たせてもらえるだろうか?」

 

「もちろん!」

 

碁盤の上に置かれた碁笥を行洋が取る。

そしてヒカルもまた碁笥を手元に引き寄せた。

 

 

 

 


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