IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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13 太善VSsai

午前の仕事を手早く終わらせ自宅に戻ると、太善はスーツから普段着に着替える。

 

コーヒーを淹れ、リビングテーブルの上に開いたノートパソコンの前に座ると、傍に置いていたバッグの中から手帳を取り出し、太善は挟んでいたメモ用紙を取り出した。

やってしまった後から言うのもなんだが、悪いかなと思いつつ事務員からから教えてもらったアカウントとパス。

saiの対局だけしか使用しないで、この対局が終わったらパスを変えてもらい、お礼に何か菓子折りでも持っていこうかと太善は思う。

 

ログイン画面が出て、メモを見ながらアカウントとパスを打ち込んでいく。

 

エンターキーを押すと現れるトップ画面から、ログイン中のアカウントを上からざっと見下ろしていったが、リストにsaiの名前は見あたらなかった。

壁にかけてある掛け時計を見やれば、時間は11時ちょっと前。

約束した時間が12時だから、対局までに1時間はある。

1時間もあれば、十分気持ちを落ち着けられ、対局に臨むことが出来るだろう。

 

直後、メールの着信音が鳴り携帯を開くと、友人から短く一言『頑張れ!』の文字が送られて来ていて、太善は小さな微笑を浮かべた。

 

もっとも、ネットでの対局約束など、反故にされたとしても何ら珍しくない。

saiが現れないという可能性も多分にある。

元々はと言えば、こちらから対局を申し込んでおきながら打ち直しを申し出た己の我侭だ。

saiが現れなかったからといって、文句を言うつもりはさらさらない。

それでも、もしこれだけの棋力を持つ棋士と打てるのならと、僅かな希望を抱く。

 

この日までにsaiの打った棋譜は何度も見た。

saiの棋力は熟知している。

ネット碁という手慰みのゲームではなく、一つの公式対局と思って打つ。

脳裏にsaiが打った一手を思い浮かべ、それに対する己の応手もまた同じ数だけ思い描く。

 

12時ジャスト。

saiの名前がログインリストに上がり、

 

――saiが黒石、持ち時間は3時間

 

太善は対局を申し込んだ。

 

打ち始めてからどれくらい時間が経っただろうか。

パソコンに表示されている画面を見る限り、3時間も過ぎていない。

しかし、太善の感覚としては5時間も、6時間も経っているような気がした。

公式の対局ではないのに、一手一手の緊張感はそれを凌駕し、無人のはずのパソコンの向こうから鬼気迫る気迫を感じる。

太善が持ち時間を半分以上使っているのに対し、saiは一時間も使っておらず、対局も全体の半分しか打っていない。

 

勝てる気が、しなかった。

考えぬいた場所に打っても、その一手はsaiのヨミの範疇でしかなく、鮮やかにさばかれていくような。

指導碁ならまだプロになる前、何度も打ってもらったことがあるが、それとは一線を引いて異なっていた。

 

『ッ!!』

 

saiの打った一手に、太善は目を見張り、マウスを持つ手にぐっと力がこもる。

背中を冷や汗が流れていく。

 

気付かなかったというより、そんな一手が存在するのかと太善は驚愕した。

最善の一手の追求は、棋士であれば当然の目標の一つではあるが、saiの打った一手は最善の一手には到底収まりきらない。

 

最強の一手

 

中央に置かれた石が、四方の攻防を寡黙に睨みつける。

盤上の石全てを見渡し、saiの黒石どころか太善の白石まで支配下に置かれたと太善は感じた。

しかし、

 

――なんだ……これ……

 

初めての経験だった。

対局に勝てないだろうということは、すでに太善自身分かっていたが、だからと言って早々と投了するのではなく、もっと打ちたくなる。

saiと打つことによって、己がより高みに押し上げられているのを太善は感じていた。

 

これまでの太善ならおおよそ考えつかなかっただろう一手が見えてくる。

ときに、その一点をsaiに導かれているような錯覚にもなる。

 

棋譜を見て並べるだけでは分からなかった部分に、気付かされる。

実際、saiを相手に打ってみて、太善はようやくsaiがここまで騒がれる理由を理解した。

saiの碁は、ただ強いだけではなく、打つ相手をより高みへ導いていく。

 

太善もプロになる前から、そしてプロになってからも数多くの棋士と打ってきたが、こんな打ち手は初めてだった。

そんな棋士が碁盤を挟み目の前に座るのではなく、ネットの中に存在するという奇跡。

 

盤面はsaiが優勢のまま、終局へと、一手一手近づいていく。

正確なヨミは寸分の間違いもない。

小寄せまで全て打ち終ってから太善はマウスカーソルを投了ボタンの上に置くと、ゆっくり瞼を落としクリックした。

 

それまでずっとパソコンから聞こえていた石を置く『パチ』という擬似音ではなく、『ピコン』という別の音が耳に届く。

瞼を落とした時より、太善はさらにゆっくりと瞼を開く。

ディスプレイの画面には、saiの勝利が宣言されていた。

 

対局が終わったことで、太善はようやく緊張がほぐれ、深く深呼吸をすることができた。

 

対局には負けてしまったが、恥とは思わない。

己の持てる全力を尽くしたいい碁だったと思う。

体を満たす満足感と興奮がそれを証明している。

 

いい碁が打てた自分を誉めたいのと同時に、この棋譜を共に創り上げてくれたsaiへの感謝。

 

対局終了間もなく、saiは画面上から消えていった。

 

■□■□

 

「sai ……」

 

パソコンに映し出された画面を見ながら、アキラは無意識に呟く。

決して負けてしまった安太善が弱かったわけでない。

saiの方が強かっただけの話だ。

 

緒方からsaiが韓国の安太善と対局すると聞いて、ずっと気になっていたが、膨大な観戦者数の中、対局を始終観戦していて、アキラはsaiの力を改めて思いしらされたようだった。

 

――また強くなっている……

 

ディスプレイに映し出される碁盤上の一点を眺めながらアキラは奥歯をかみ締めた。

夏にアキラが打ったときより、確実にsaiは強くなってきている。

 

対局半ばで打たれたsaiの一手。

アキラも気付かなかったが、対局している安太善も気付かなかったのではないだろうか。

囲碁を打つ者が、個人の差はあれど多少足踏みしてしまうところを、saiは一足飛びに強くなっていく。

強さに際限がない。

 

対局終了後、saiはすぐにネットの闇に消えた。

また一つ、名局といえる棋譜を残して。

 


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