IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
事務員がくれた棋譜のコピーを片手に、太善は一手一手、ゆっくり確認しながら石を実際に並べていく。
棋院の事務所で棋譜を見て、すぐに思ったことだが、saiは強い。
それは韓国のトッププロと見比べて、些かの遜色もない。
棋譜を眺めるだけでなく、実際に石を碁盤に並べていくことによって、さらに深いヨミに気付かされる。
『それで断られたときのこととか考えなかったのか?』
碁盤を挟み座っていた男が太善に尋ねる。
幼馴染の友人が、saiの対局を早速聞きつけたらしく、太善がOFFと分かるや否や、朝から太善の家に押しかけてきていた。
2人とも幼い頃から囲碁を学んでいたが、才能を開花させ、どんどん強くなる太善と違い、友人の方は早期に才能が無いことを悟り、趣味として囲碁を打っている。
『考えたけど、実際ホントに仕事入ってたし、駄目なら駄目で縁が無かったということで仕方ないかな~と』
『で、一手も打ってないくせに、次の日曜日に打ち直そう申し出て、運良くOKもらったと?』
『そう』
『……お前の強運さには時々腹が立つぜ』
チャットはことごとく無視するsaiが、対局申し込みされながら、打ち直したいという身勝手な申し出をよく受け入れてくれたものだと呆れながらも、太善の強運さを改めて見た気がした。
昔から太善はついている。
小学校の頃、宿題を忘れれば、担任が急に体調不調で休みになったり、イベントで日本に行かなければいけない日に、事務員のミスで飛行機の予約日時を間違えれば、キャンセルが上手く出て搭乗できたり。
『なんだ、それ?』
本人を目の前にして睨みながら言う台詞か、と太善はクスクス肩を震わせ笑う。
『つまり、俺が何を言いたいかと言うとだな』
そこで一つ区切り、ゴホンと大きな咳払いをしてから、ぐっと前に身を乗り出す。
『勝て。太善。saiは今も全勝記録更新中だ。お前が連勝記録をストップさせろ』
『……顔が近い。しかもお前、何気にsaiに負けたことがあるな?』
だからsaiの様子を常にチェックして、今も全勝中だと知ってるのだろうと太善は当りをつけた。
『ぐっ……』
『そして、どこかのアマが調子に乗って打ってるみたいだが、俺がギャフンと言わせてやるとか思ってたくせに、逆にギャフンと言わされたんだな?』
太善がカマをかけて適当に言う一つ一つが、ピンポイントで当たってしまい、友人の頭が段々と項垂れていく。
太善の方も、へこんでいく友人の様子に、己が言っていることが少なからず当たっているのだと察して、だからそんなに熱を入れて自分を焚き付けてくるのかとため息をついた。
『……ああ、そうさ!どっかの馬鹿が調子こいてるとタカくくって打ったら、あっさり返り打ちにされたよ!!頼む!太善!俺の仇を打ってくれ!!お前ならきっと出来る!』
太善の胸倉を掴み、懇願する。
男に泣きつかれて喜ぶ趣味はないのだけどなぁ、と太善は思いながら、
『仇討ちどうのこうのは別として、対局は最善を尽くすよ』
当たり障りなく返事した。
■□■□
韓国のプロ棋士、安太善とsaiが日曜日に対局するという情報は、またたく間にネットに広がり、噂されるようになった。
対局の日取りのやりとりを、多くの目がある場所でしたこともあるだろうが、ここまで騒がれるのもsaiがどれだけ強く、過去に何人ものプロ棋士を倒してきたか推し量れるようだった。
安太善とsaiの対局を知った者の中には、日本語が出来る者や、日本人の知人がいる者もいる。
その者達から、さらに日本のネット上にも対局の情報が流れた。
「和谷?どうした?探したぞ」
院生の手合い日、短い休憩時間に外へ風に当たりに行くと行ったまま戻ってこない和谷に、伊角が呼び戻しに行く。
棋院の外に出れば、初秋の風が気持ちいい。
しかし、玄関の周囲を見渡しても和谷の姿は見つけられず、結局、自販機の前のベンチで、缶ジュースを片手に腰をかけていた。
「なんだ、伊角さんか。ちょっとね」
名前を呼ばれ、和谷は視線だけ声の主に向ける。
心ここに在らずな和谷の様子に、何か考え込んでいたのだろうと察して、伊角は心当たりを一つ出してみる。
「……またsaiのことか?」
「何で分かったの?」
ネット碁はしないと言っていた伊角がなぜsaiと言い当てたのか、そこでようやく和谷は顔を上げた。
「そりゃあ、棋院でもこれだけ噂されてれば嫌でも耳に入る。事務所の電話がsaiについての問い合わせで鳴りっぱなしだ。日曜日に仕事の入っていないプロ棋士は誰か?だとさ」
「そんな問い合わせ、事務の人はイチイチ答えてんの?」
「日本棋院はsaiについて一切関知しておりません。日本棋院に所属しておりますプロ棋士のスケジュールについては答えかねます。当然の対処だな」
クスリと肩を竦め、伊角は事務所の対応を思いかえす。
事務的、と言ってしまえばそこまでだが、saiというネットの棋士を探しているという理由だけで、棋士達の個人情報に繋がる情報はそう簡単に渡さないだろう。
おかげで断っても断ってもしつこく電話をしてくる者もいると、事務員は頭を抱えていたが。
「前に和谷がネットの中に強いやつがいるって話していたときは全然信じてなかったけど、こんな騒ぎになるなんてな」
相手の顔が見えないネット碁で、どこかのプロが遊びで打ち方を多少変えて、正体を隠しながら打っているのではと、伊角は深く考えないでいた。
しかし、日を追っても一向にsaiの正体は知れず、saiをめぐる騒ぎだけが大きくなった。
「でも、相手は韓国でもトップ棋士の安太善なんだろ。saiが勝てると思うか?」
「反対だよ、伊角さん。saiが勝てるか、じゃなくて、安太善がsaiに勝てるか、だよ」
「本気で言ってるのか?」
「アイツ、さらに強くなってる。夏休みの間、ずっと見てたときもどんどん強くなっていったけど、ここ最近は、それに輪をかけて強くなってる。底が見えない」
「秀策が現代の碁をどんどん吸収しているような?」
「そう。チャットだって普段全然しないくせに、安太善のときは打ち直しを承諾したらしいし、マジ分からねぇ」
相手が韓国プロ棋士とチャットで伝えなかったのにも関わらず、saiは打ち直しの申し出を了承したのだという。
一手も打たないでいきなり打ち直しを申し出られたら、和谷だってチャットを無視して即、対局画面を閉じただろう。
しかも、安太善との対局の話を聞きつけた者達が、同じようにsaiに対局の約束を取り付けようとしたが、返事どころかすべて無視されているのだという。
頭が混乱したように、和谷は「わからねぇ!」と叫び、頭を掻き毟った。
そんな和谷を見ながら伊角はポツリと呟く。
「俺はsaiを知らないし、どれだけ強いのかも分からないけど、安太善が勝つにしろ負けるにしろ、saiがどれだけ強いのか、一つの基準にはなるかもな」
「強さの基準か。確かにsaiはすごく強いってだけで、どれだけ強いのかはハッキリしてないし……」
saiが対局している中にプロ棋士も含まれているというが、その負けたプロ棋士達が誰かということまではハッキリしていない。
まだ段位の低いプロ棋士の中にはsaiに負けたことを認めている者も数人いる。
しかし段位の低い棋士では、もはやsaiの棋力は測れなくなっている。
また1人考えに更けこみ始めた和谷が、ブツブツ言い始めたところに、
「ちょっと!2人とも!休憩時間とっくに終わってるよ!!」
戻らない二人を呼んで来いと言われたらしい奈瀬が、怒り口調で和谷と伊角に怒鳴った。
「わりっ」
「す、すまん」
ようやく休憩時間がとっくに終わってしまっていることに気付いた和谷は、急いで部屋に戻ろうとする。
手合いの部屋に入ると、院生師範を務めるプロ棋士の篠田から2人に雷が落ちた。