黒雪のコモリオム  --What a beautiful Fakes --   作:ジンネマン

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 逃げる。逃げる。逃げる。

 私は、私たちは、逃げる。

 

 追い掛けてくる怪物を背に逃げる。

 どんなに角を曲がっても、複雑な路地を走っても。

 すぐ背後に怪物の息遣いが聞こえる。

 

 そして、ついに、怪物の爪が、牙が私たちを捉える。

 タマーラが私を突き飛ばした。その時のタマーラは目に涙を溜めた笑顔でこう言っていた。

 

『ごめんね』

 

 たまらず私はタマーラに何か言おうとした。しかし、その声を届けることはできず。

 

 タマーラが怪物によって引き裂かれた。タマーラだった顔も、髪も、四肢も、内臓も、すべてをまき散らして、四散させる。

 私は涙した、私は叫んだ、私は縋りついた。もう瞬きも、呼吸もしない、物言わぬタマーラの顔に。

 私は抱きしめる。もう、どうにもならないほどに冷たくなったタマーラを。

 

 

「お久しぶり。初めましてMs(ガスパジャー)アンナ」

 

 そんな私の前に声がかけられる。話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

ああ、なんて悲しい(ああ、なんて羨ましい)んだ。でも、安心してくれ。これは夢であり幻だ」

 

 悲嘆にくれる私に彼の言葉は届かない。それでも、彼は話し続ける。まるで、初めから私のことは眼中にないように。

 

「でもね、いずれ、来るかもしれない未来だよ。悍ましい(輝ける)未来だよ。

 だからね。そんな君に私からプレゼントだよ」

 

 仮面の彼は私が抱えるタマーラの顔を蹴り飛ばすと、私を押し倒し胸に手を当てる。

 そして、その手が、私に埋没する。

 

 私の体が、私の中が、弄られていく。

 ――苦しい、辛い、熱い、痛い。

 あからさまに、苦しんでいるのわかりきっているはずの彼は、そんな私におかまいなくかき混ぜ続ける。五分か、一時間か、数日か、時間的感覚がわからないくらいの苦しみが、いつの間に消えていた。

 

 

「終わったよMsアンナ。ああ安心してくれ、これは、いずれ、君の助けになるだろう。

 君が無事にいられればね(・・・・・・・・・・)

 

「無事にいられれば」

 

「無事だって─────ふっ、フハハハハハハハ! フフフフハハハハハハハハハハハハ!! フッハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

「無事でいられるわけないだろ! 君はあの気狂いの王と契約したんだからな!」

 

「ああ、じゃあねMsアンナ。良き青空を」

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 ここはサンクトペテルブルクにあるであろう地下室。

 でも本当にあるかどうかもわからない地下室。

 一般人は決してたどり着けない地下室。

 

 そこはとても深く、暗く、黒い場所。

 階段も、扉も、天窓も、照明さえもないこの場所において、その中心は明かりがともっている。

 否、これは明かりなのか。

 

 その中心は赤かった。紅かった。朱かった。

 しかし、そこに、赫き主はおらず、三人の男女がいる。三人の男女が円卓を囲んでいる。

 

「では同志諸君、緊急招集に応じてくれたことに礼を言う」

 

 冷たく、鋭く、女性にしては低い声が、場に響く。

 赫いドレス身に纏ったきれいな女性だ。

 大きな赫い傘と深めの帽子で顔隠した女性だ。

 

「世辞はいい同志トロツキー、用件だけ聞きたい」

 

 先の冷たく、鋭く、低い声とは違う、鉄をも上回る鋼鉄の強度を持って。

 重たく、硬く、鉄の軋むような声の男。鋼鉄の男。

 真紅のスーツに身を包んだ男。色素の薄い灰色の髪に青い左瞳と、猫のような黄金の右瞳(・・・・・)の怜悧な美貌の男。

 

 

 トロツキーと言われた赫い女は、表情も、瞳も揺るぎもしない。しかし、そのわずか二言のやり取りだけでその場の重圧が何倍にも上がった。仮にその重圧に物理的な力があるのなら、蒸気自動車(ガーニー)が瞬く間に鉄くずになるほどだ。

 しかし、

 

「同志スターリン、貴方のその実直なところは、貴方の美徳ではありますがもう少し言いようがあるのでは?

 同志トロツキーも、ここは冷静に、貴女が我らに緊急招集をかけるくらいだから余程のことがあるのでしょう。早速お話お願いします」

 

 両者とは違う、静かに、深く、深き海の声の。光さえ通さず、届かず、屈折するほど黒のような青いスーツを纏う細身で長身男。

 その男は両者の作り出す重圧を意に介していない、それどころか両者に意見までする。

 

「成る程、それは善処しよう同志ジェルジンスキー」

 

 

 赫い女は二人を睥睨し、重たい口を開く。

 

「では、先日実験中であった被験体番号六番が脱走、サンクトペテルブルク市街で近くにいた民間人を襲うも……偶然にも(・・・・)その場にいた黄衣の王により殲滅された」

 

「同志トロツキー、それはどういうことだ」

 

「――――理想には遠く及ばないが、多少の言語理解ができ、数多の拘束、防壁を突破する戦闘力。このまま行けば量産の目処がつくはずの。アカデミーの軍事機関学の施設に隔離していた被験体だ。だが突然暴走し研究員の制止も停止信号も受け付けず、力任せの脱走だ。所詮は獣どもを掛け合せ、人の脳の一部を移植しただけのキメラにすぎないがな。無論顧問のアレクセイには漏れていない」

 

 アレクセイ。アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン。退役軍人の家生まれの生粋の軍人。ここでは軍事機関学という機関(ドヴィーガチリ)を使った兵器の開発を専門とする世界ではあまり見ない学部の責任者。

 

「そうではない。なるほど厳重であろうアカデミー施設からの脱走、多少の言語理解、進捗はいいようだ。が、私の言いたいのそこではない。

 なぜ(・・)そこに黄衣の王がいたか、そして彼が力を振るったのならサンクトペテルブルク市街が、少なくとも一区画は潰滅していてもおかしくないのだが――」

 

 

 鋼鉄の男は赫い女を見る。その眼光はさしずめ銃口、否、戦艦の主砲といっても過言ではない。

 その視線を受ける赫い女はなにも言わない、何か思案している。言うべきか、言わざるべきか、目を閉じ、顔の前で手を組み合わせている。

 鋼鉄の男はいつまでも口を開かない赫い女から視線を外し、隣の男に問いかける。

 

「同志ジェルジンスキー、君のところに何か情報は入っていないか?」

 

「私の所には特に。しかし、わざわざチェルノブイリ複合機関(スロジニエードヴィーガチリ)が稼働している時に、件の場所に黄衣の王がいるのは偶然には思えない。内部ないし外部からの助力が確実にあったでしょう。

 チェルノブイリ複合機関は元々、それらの外部勢力の介入を防ぐための物。ただの大機関(メガ・エンジン)ではなく、現象数式(クラッキング・エフェクト)の実験機、稼働を始めてこの数年は結社の介入は記録されていません。もっともこちらが探知できていなか、むこうの様子見かは判断できませんが。

 それと被害の方ですが、同志トロツキーが言わないようなので言わせてもらいます。数式領域(クラッキング・フィールド)の展開が確認されました」

 

「数式領域だと――」

 

 今まで何事にも動じなかった鋼鉄の男が、いま、始めて動揺している。

 それほどまでの情報、それほどまでの衝撃。

 

 

「それは、誰が展開したものだ?」

 

「そこまでは、しかし、黄衣の王ではないでしょう。彼なら実験体が被害者に接触する前に行動を起こすでしょうし……これは未確認の、確証のない報告ですか、黒い道化師(ラスプーチン)らしき者が確認されました」

 

「……黒い道化師」

 

 鋼鉄の男が呟く、先程よりも重く、硬く、鉄が軋むように呟く。

 彼は知らず拳を強く握る。いま、彼の内に渦巻く感情は憤怒か、怨嗟か、二人には伺い知れないが、鋼鉄の男を揺らがせるには十分なのだろう。

 しかし、その動揺もすぐに消え、いつも通りの彼に戻っていた。

 

「……それで、奴が介入しているとして、その目的は?」

 

「それこそ私にはわかりません。少なくとも今までの経緯から判断するに我々に有益な行動はとらないでしょう」

 

「同志トロツキー、あなたは奴について感知はしていなかったのか? なぜ直ぐに報告しなかったのか?

 もしや――」

 

 

 ここに赫い女は目を見開き、先まで重く閉じていた口を開く。

 

「誤解無きよう言っておくが、私が黒い道化師とは関係ない」

 

「証拠はあるのか?」

 

「そんなものはない。あえて言うなら閣下への忠誠が証拠だ」

 

「そんなものは証拠にならない。その身の潔白が証明ができないなら――」

 

「スターリン――」

 

 再び始まる両者の沈黙、いま、何らかの切っ掛けさえあれば、すぐさま開戦の号令が鳴る。共に譲らず、共に引かず、引き金に指がかかるその時。

 

 

「そこまでにして下さい。同志スターリン、同志トロツキー」

 

 両者が共に止まる。このまま数秒後には戦端の火蓋が切られるその時、両者を制止させたのは深き男だ。

 彼は両者に目配りをし、矛を納めるよう促す。そして、両者共に矛を納める。

 

「同志スターリン、貴方が疑わしい者を処断しようと言うのはわかるが、今はまだ確証はない、それに同志トロツキーは優秀だ。私達が同志トロツキーと同じ事を同じ期間にしようとしても無理だろう。それほどまでに得難い方だ。

 同志トロツキーも、貴女については私が調査しましょう。やましいことが無いのなら構いませんよね。同志トロツキー」

 

「――好きにしろ。今日の用件は以上だ。失礼する」

 

 赫い女はそう言うと席を立ち、そのまま闇の中に消えていった。

 

「――すまなかったな同志ジェルジンスキー」

 

 赫い女が去ったあと、鋼鉄の男が、深き男に謝罪をする。先までと違い、鉄が軋むようではあるが幾分か柔らかい声で話す。正確に、予め用意していたかのように。

 

「いえ、私はなにも。同志スターリンも無理に声と顔を(・・・・・・・)作らなくっていいですよ。

 あと、修道士(モナーフ)ニコライからブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)言伝(ことづ)てを預かっています。

『ブラヴァツキー夫人、あと数年したら私は極東に渡って主の教えを伝道しに行こうと思います。もしよろしければその伝道を手伝ってもらいたい』とのことです」

 

 

「わかりました。しかと我が親友に伝えましょう」

 

「よろしくお願いいたします。では」

 

 

 

「ああ、待ってください」

 

 立ち去ろうとした深き男を呼び止める。立ち止まる深き男、鋼鉄の男がこのように呼び止めるのは珍しい。故に、深き男は不謹慎ながらも、鋼鉄の男からどんな言葉が出るか少々楽しみに待つ。

 

 だか、

 

「同志トロツキーは即差にいなくなってしまったから伝え損なってしまったが、一つ報告があります。実は当分の間私はサンクトペテルブルクに来られません」

 

「それはなぜですか?」

 

 だか、彼から放たれた言葉が、余りにも慮外の言葉で、深き男は純粋な疑問を問いかける。

 

「貴方も言っていたがチェルノブイリは所詮は実験機、その性能にムラがあり、モスクワの方は効果がいまいちだ。そのため最近結社のエージェントが確認された。

 故に私は当分はモスクワに滞在、奴等の監視及び粛清に専念する」

 

「それは失態を」

 

「いえ、同志ジェルジンスキーがこの帝国全土に監視の目を光らしているのは重々承知している。たまたまその穴を私が見つけただけのこと。

 同志ジェルジンスキー、閣下とサンクトペテルブルクは任せましたよ」

 

「わかりました。御武運を。同志スターリン」

 

 そう言うと深き男は去っていった。鋼鉄の男が抜けた穴をどう補填するかを検討しながら。

 深き男を見送った鋼鉄の男は虚空に問いかける。

 

「それで返事はどうする。モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

「────コーバ。我が親友。答えは決まっています」

 

 鋼鉄の男の背後に一人の女性が現れる。金髪に碧眼の、赤い服に身を包む美しい女が静かに。

 

「そうか。では、丁寧に返事をしておくのだぞ。

 それで、モロトシヴィリ。モロトシュティン。君はトロツキーをどう思う?」

 

「彼女は優秀だ。今は我々に必要不可欠な存在だ。しかし」

 

「しかし、なんだ」

 

「しかし、いずれは我々の障害になる」

 

「なるほど。なればどうする」

 

「今は厳重に監視を、時が来れば」

 

「――ではその時は任せるモロトシヴィリ。モロトシュティン。

 そうだな。その時はチェーカーの小僧どもに任せるか。試験運用を兼ねて」

 

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 窓の外から小鳥の囀りが聞こえる。故郷よりは少ないけど、けれども確かに聞こえる小鳥囀りが。

 ――小鳥の囀り……ここは……

 

「――!!」

 

 私は跳ね起きる。いつのまにか私は自室のベッドで寝ていた。慌てて室内を見回す。

 そして、私のとなりに、誰かいる。

 

 タマーラが、タマーラ・カルサヴィナがそこにいた。

 大好きなタマーラが静かに寝息をたてている。

 大切なタマーラの温かい手が私の手を握っていた。

 

 ――ああ、タマーラ。アレは夢だったのね。

 私は安堵する。大好きなタマーラが息をしている。大切なタマーラの体温を感じる。アレは悪い夢だったと思った。

 けれども違った、私の手を離し、寝返りをうつタマーラの額にガーゼが貼ってあった。それで私は気づいた。いや、認識した。アレは夢ではなかった。タマーラが死んだのは夢でも、怪物に追い掛けられたのは夢ではなかった。

 そこまで思った瞬間、私に今まで感じたことのないほどの吐き気が襲ってきた。

 

 私は急いでお手洗いに入り、嘔吐をした。内臓すべてが吐き出されたと思うくらい、激しく嘔吐をした。五分か十分かわからない、もっと長かったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。少なくとも吐くだけ吐いたあと、落ち着くのにも時間をかけたのは確かだ。

 私は落ち着いてから、自分が今どんな状態かに気づいた。上着のしたには下着しか穿いておらず、しかも寝汗か、それとも嘔吐していたときにかいた汗かわからないが上着と下着が肌にベットリと張り付いて気持ち悪い。

 シャワーを浴びたいと思い立ち上がると、かごの上になぜか(・・・)私の部屋着と下着が置いてあった。なぜ置いてあるか疑問ではあるが、今はシャワーをいち早く浴びたいという欲求が優先した。

 

 

 

 三十分は浴びただろうか、しっかりと汗を洗い流し、乱れた髪を直し、身だしなみを整える。

 結果、私がタマーラの元に戻れたのは優に一時間は経過していたただろう。

 

 それから始めて、彼に気づいた。

 

おはようございます(ドーブリョ・ウートラ)子鳥ちゃん(プチーツァ)

 

 彼、ユーリー。ユーリー・ハリトンがいることに。




あと一話で終わると言ったがアレは嘘だ! いや、本当は終わらそうと思ったのですがね。長くなりそうなのでここで一旦止めておこうと、

うん? 雷電王閣下、なぜここに? ってなぜ両手から紫電を、ちょっと! まっ!





読者の皆様良き――青空を――

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