黒雪のコモリオム --What a beautiful Fakes -- 作:ジンネマン
なぜ活動報告かと言うと、本編では当分そんなこと書く暇がなさそうなので……ではどうぞ。
1904年1月7日 クリスマス。これは私とアンナが出会ってから初めてのクリスマスを迎えた時の話。その時は、その二日後にはあんな惨事が起こるとは露ほども思わなかった。まだアンナ程ではないにしろ、無邪気にこの学生生活が、アンナ風に言うなら『日常と言う名の演目《うつくしきもの》はまだまだ続くの!』みたいな感じかな? いや、ちょっと違うかな?
ともかくだ、この話はまだ私たちの周りが平和だった時の話だ。
あの日、私はとある社交界に参加していた。クリスマスの定番となった『くるみ割り人形』と主催者の要望でマリンスキーの若手主体の、私やアンナも舞台に立った『白鳥の湖』『火の鳥』を講演した後の社交界。その際に親族とその関係者がひっきりなしに私に会いに、私が会いに行く。それはまるで時計の歯車のように、くるくる。クルクル。ぐるぐる。グルグル。ただそれだけならマシだったのだが。
だがこれは違う。表向きは演者と劇団関係者の慰労会の
くるくる。
クルクル。
ぐるぐる。
グルグル。
彼らは機械のように、発情した獣や繁殖期の虫のように相手を探している。いや、それでは虫や獣に失礼だ。彼は彼らの規範に従いつがいを得るために努力と研鑽を怠らない。たとえ人間から見れば醜悪でも彼らにとっては《うつくしきもの》なのだから。
ここにアンナがいないのが嬉しかった。エイダ主義のおかげとはいえ、まだこの国の多くのバレエダンサーは収入が少なく、スポンサーやパトロンがいなければ役を得ることさえ出来ない。
だからアンナと言う逸材がアカデミーに来てくれたのは本当に幸いで、彼女と会えたことがとても、とてもとても幸運で、神様に感謝の祈りをしたいくらいの幸運。天運。特大の僥倖。無垢で、白くって、暖かく、柔らかな、私に無いモノをたくさん持っている素敵な女の子。まるでバレエをするために生まれてきたかのようは奇跡の女の子。
そんな彼女がここに無いのもまた特大の僥倖。もっとも理由が『明日の公演の為に練習しに行ってくるね』と淑女としてはどうかと思う理由でいないのだが、それが幸いしているので文句はこのさい彼方に置いておく。もちろん後で説教はする。
そんな吐き気を催す汚泥のような社交界で屑どもが私たちに視線を合わさっては離れ、また合わさっては離れ、それの繰り返しにいい加減辟易した私はアンナに倣ってお父様に『明日もバレエの講演会があるからアカデミーに早めに帰って練習してきます』っと言って会場を駆け足で抜け出した。
私目当てで来たであろう汚物たちの面倒は兄や父に押し付けてアカデミーに向かう。更衣室で舞台の早着替えもかくやで着替えてアカデミーに向かう。
向かったのだが――――
「はあ? アンナは外出中?」
アカデミーで待っていたのは落胆と言う名の落とし穴。絶望と言う名の
私は大きな溜息と一緒に魂とやる気が抜ける。ようやくあの陰鬱な社交界を抜け出し、この鬱屈とした気分を見たことはないけども晴れ渡る蒼空の如くスッキリさせたかった。なのに、
――確かにここ最近はずっとアカデミーに泊まり込みで外に出ることなく、練習漬けの毎日だったから気持ちは……多少はわからないでもないが、あの子は少し大人しくできないもだろうか。
アンナを探すという選択しも無いわけではないが、あの子が一人で行動するとなるとその活発さやいなや、それこそ空を舞う小鳥(まかり間違ってもあの子を鳥とは言わない)のようで捕まえるのは難しく、以前にも『黒くってかわいい子猫を見付けたので撮ってきます』っと行ったアンナを追いかけて探した結果は惨憺ものだったのだった。
そうなると私がとれる選択肢は多くない。勘違いしないでもらいたいが、何も親しい友達や先輩後輩がいない訳ではない。むしろ多いほうだと思う。が、今日は日が悪い。
クリスマスという日はそもそも家族水入らずで過ごすもので、私たちのようなある程度の地位やお金を持つ人たちはパーティーを開き親交を深めると言う名の政争を繰り広げる。
そんな日に途中離脱した私が他のパーティーに出るというのはとても許されることではなく、それこそ父や母、兄弟にまで迷惑をかけることになるので自重せざるおえない。
そんな私がとった選択肢は
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この広いアカデミーを歩くこと十数分。目当ての場所にたどり着いた。
扉が少し開いていたのでこっそりと覗いてみる。
――いた。
視線の先にいたのはある男。研究するときにしか掛けない落下防止用のチェーンが繋がれた眼鏡、色々な物が
その黒パンを時折摘まみながらも、右手は一切止まることなく進み続ける。淀みなく、止まることもなく、進み続ける。
そんな彼をもっと見たくってつい扉に体重が掛かってしまい、キギ。っと蝶番が鈍い音を響かせる。
そこで彼の手は止まり、眼鏡を外して此方に声をかける。
「誰だ? ウラジミールか? それともアンナか?」
――なんで真っ先に私の名前が出てこないのよ!
呼ばれなかったことに内心憤慨を禁じ得ないものの、それを顔に出すのは癪でここは笑顔で、決して察せられないように完璧な笑顔と所作で部屋に入る。
「ウラジミール先輩やアンナでなくって悪かったわね。
って、また随分と色んな種類の記録ね、20世紀になってからのロシア全土の天気、地形、
コンスタンチンが私の顔を見た瞬間、苦々しい顔した。本当に失礼な奴だ。私が何かしただろうか?
……色々したかもしれないが、だが私も役者の端くれ、感情をそうそう顔には出さな――
「……なんだよお前か。あとこれらは全部必要だ。地形は物資の運搬と周囲への影響を考慮して、天気は打ち上げに適した季節と時期を知るために、他にも色んなのがあるがすべて必要なんだ」
「――ふーん。って『お前か』とはなによ失礼ね。それよりもアンナ知らない?」
「あーアンナは、と言うか今日はお前以外誰来てないし、来る予定はない。そもそもの話、クリスマスにわざわざこんなインク臭い所に来る酔狂な奴なんか俺を除いたらお前くらいだ」
「――――そう。寂しいクリスマス送っているのねコンスタンチン先輩。あと、私はあなたが思うような寂しい人ではないの。煩わしいパーティーを抜けてアンナと静かで楽しいクリスマスを送る筈だったのに……まあ、あの子を驚かせようと思って事前に約束してなかったのは私なんだけどね。それでもアンナときたら、こんな日までも写真機片手に外を走り回るって……あの子にはバレエダンサーと言うよりも女の子としての自覚は無いのかしら――
あーーせっかく
「まじか!?」
身を乗り出して詰問する勢いで迫ってい来る。その衝撃で山積した紙の摩天楼の一部が崩れた。雪崩となった紙は周囲一帯が白く染められて、その姿は昔見た絵画の雪原を彷彿……しそうになって紙に書かれた癖のあるのか下手なのか判別しづらい文字が見えてなんかげんなりした。
「はー何やってんのよ」
「すまん」
そう言いながら私たちは散乱した紙をコンスタンチンの指示に従いながら片付け、全てが終わるまでに一時間もかかってしまった。
疲れた私たちは保温性水筒に入れてきた紅茶を飲んで一息してコンスタンチンは再度迫ってきた。
「んでさ、それって、お前だけが知っている
「はーーお礼言う前に食べ物の話って――――しょうがないでしょ。賞味期限が今日までで、アンナはいないんだから今食べるしかないし、二人分も食べたら太るじゃない。
それとなに? あんたは私が太ってもいいて言うの?
私はまだバレエをやめる気はないのだから私に感謝して食べないさいよ」
「ああ。ああ。感謝するからいいから早く食べよう! その
ニューヨークチーズケーキ。我が国仮想敵国の一つ合衆国の地名の一つ。かつては世界最大の機関都市だったが、2年前の1902年12月25日未明に発生した異常災害《大消失》により、約300万の住人すべてが死亡し廃墟と化してしまった重機関都市。
その後は合衆国政府によって完全封鎖されて、記録上、廃墟となってからは正式な調査が行われたことはなく、立ち入った者は誰もいないとされる都市。その都市でユダヤ人が作っていたお菓子だったことから、ニューヨークチーズケーキと呼ばれるようになったとされるニューヨークチーズケーキ。以前はこの帝都でも少ないながらも作られていたのだが、あの《大消失》のあと不思議と誰も作らなくなり、アンナに指摘されるまで私も忘れていたくらいだ。
「はあ。まったく――食べるのはいいけど手くらい洗いなさいよ。私は不潔な人と一緒に食べたくないわよ」
「よし。すぐ洗ってくる」
言うやいなや入り口付近にある水道で手を洗い、机の上を少し片付けてスペースを作って、準備万端と椅子に座った。
――なんと言うか、子供みたいね。
「うん。うまい」
ガツガツと食べ始めるコンスタンチンは本当に子供みたいで、あっという間に食べ終わってしまった。私は自分の分もそこそこにバカの食べっぷりに感心してしまった。
「ん。お前食わないならそれくれよ」
「いやよ。あんたのがっつくから呆れていただけよ」
「そか。悪かったな。いやーそれにしても相変わらずうまいなこのケーキ」
「―――――――――!!!」
とびっきりの笑顔で、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの笑顔。アンナの儚くも力強くきれいなのとは違った優しく明るい笑顔。思わず顔を背けてしまいそうになった。そう、なりそうになって――
「いやーーこれを作った人が女の人なら、
――なんだろうか、私のことを言っているわけではないのに、私と比較してるわけでもないのに、なんか、物凄く腹が立ってきた。
私は無言で、無音で、無意識に、無拍子で、
そして――
「綺麗でお淑やかでなくって悪かったわねーーーー!!」
自身にも反響するほどの大音量をコンスタンチンの耳元でお見舞いしてやった。我ながらいい肺活量だ。そう思えるほど出来栄えで、そんなものをくらったコンスタンチンは座っていた椅子から滑り落ちて頭を打った。
落ちた馬鹿は肘から上で器用に耳と頭をおさえて、声になってない呻き声を出しながら打ち回っている。五分ほど経つと痛みと耳鳴りが収まったのか、椅子、机と順に支えにしてたちあがった。
次に深呼吸した。私は次に来るのが予想がついたので瞬時に耳を押さえた。
「――バカかお前は! 頭と耳が悪くなったらどうするんだよボケ!!!! てか、なんでお前が怒るんだよ!」
「うるさいわね! 怒鳴らなくったって聞こえるわよ馬鹿!
あと、耳と頭云々なら問題ないわよ! 普段と何ら変わってないもの。よかったわねコンスタンチン先輩、もう既に耳と頭が底辺なのは証明されたからこれ以上落ちることはないわよ! あ、間違えたこれ以下でしたね!
それと唾飛ばさないでくれますか! 私が黒パン臭くなるから!」
――売り言葉に買い言葉。そんなこと言いに来た訳じゃないのに…………
思ったのと違った、やろうしたことと違った、言おうとしたことと違った。想定して練習したのと何もかもが違う。
――ほんと、なんでこいつの顔を見るといつもこうなっちゃうんだろう?
――本当はこのケーキだってアンタと食べるために作ったのに、アンタと一緒に楽しい時間を、少しでも二人だけの思い出を作りたかっただけなのに。
去年、研究成果報告会に備えて缶詰していたアンタの為に、アンナにどんな差し入れがいいかを聞いて出てきたのがニューヨークチーズケーキ。《大消失》前に一度食べたのをアンナが覚えていて、その味が忘れられないほど美味しかったって言っていたから、私も差し入れには多少の衝撃的なのがいいと思ってニューヨークチーズケーキを出すお店を探した。
でも、なぜかこのロシア機関帝国が誇る帝都サンクトペテルブルクに一軒もなかった。無くなっていた。《大消失》前は何件かはあったはずなのに一軒もなくなった。だから一から作った。材料を買い揃えて、設備の整っている海外料理研究会に貸し(海外の珍しい材料、またはレシピを手に入れた場合優先的にそちらに回すという契約)を作って、何度も何度も怪我と失敗を嫌になるほど繰り返して、やっと人に出せるまでのニューヨークチーズケーキを作ったのに、誰に出しても恥ずかしくないケーキをやっと作れるようになったのに、あなたがおいしいって言ってくれるくらいおいしく作れるようになったのに、それなのに――
今に思えば、今日アンナがいないのを望んでいたかもしれない。でなければクリスマスの公演で忙しい前日に手間隙のかかるニューヨークチーズケーキなんか普通は作らない。
そう思うと、私自身がこれほど嫌な女だと思うと、もう
「――はあ。まあ良いや、おまえいつもこうだし言ってしょうがない。んで、なんのようだ? 冷やかしなら差し入れだけ置いて帰ってくれ」
その
彼と正面から向き合い対等に成ったときだけだ。
――だから、今は、拳を強く握り。涙腺が崩壊しないようにしなが顔は平然と、普段通りの私を演じる。
「……――冷やかしに来たに決まってるじゃない。あなたの研究の進捗はどうか気になってね。ほら私が存命中にその研究成果が見えるかどうかも知りたかったしね」
――ああ、まただ。なんでもっと別の言葉が出てこないのか? 皮肉や嫌味にしても他の言い方があるだろうに、それが一言も出てこない。演じるなら他にもやりようはあるでしょうに。私は女優なのよ。バレエダンサーなのよ。それなのに。
――それなのに、これじゃあ私。ただの嫌な女じゃない――――
本当は今すぐこの場から逃げたい。いや、その前に誠心誠意謝りたいのに、こんな時に変な意地が出てくる。態度を崩さず嫌な自分を演じてしまう。そんなことの為に演技を学んだわけではないのに―――
落ち込みそうなる。いや、ここに誰もいなければ間違いなく落ち込んでいる。でも、そんな無様をこのバカの前では晒さない。晒してはならない。
このバカの前では強く、エイダ主義の体現するタマーラ・カルサヴィナでいなければならない。
このバカ、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーと対等でいなければならない。
「は? そんなこと心配してたのか?」
そんな私の葛藤を知らずか、否! 絶対気づいてないし、気付こうとしない鈍感はあっけらかんとしたことを言い出す。
「そ、そんな事ってなによ! 私はね」
「いいかタマーラ・カルサヴィナ。確かに今のロシアでは俺の研究は必要とされてないかもしれない。それどころか一部じゃ俺の研究は時間と金の無駄だ、『いずれは忘れられて終わる』なんて言われてるけど俺はそう思わない。このテーマが終わるとは思えない。俺が終わらせない。いや、俺がいなくても終わることはない」
自信に満ちたコンスタンチンの言葉に私は困惑した。何よりあなたが私の名前を呼んだことに動揺する。あなたが私の名前を呼ぶ時はとても真剣で、とても稀なことで、とても大事なことを言う時。
彼の言う通り一部の口さがない連中は自分達のことを棚に上げてあなたのことをあれこれ言っているのは知っている。すごく腹が立つし、中には真剣に彼のことを心配して言っている人たちもいる。このバカはこんなんでも優秀な男で、物理学と数学に関しては普段を知る者からすれば別人としか思えないくらいなのだ。
「なんでよ!?」
「だってな、俺がいるんだぜ」
「は?」
「いいか。この国は広い。そんな中に俺がいる」
遂にこの男は頭まで空の果てまで行ってしまったのかと心配してしまった。
――でも、たぶん違う。
「……だから何よ?」
「つまりだ。この国は俺みたいなバカが何人いてもおかしくない。むしろいなきゃおかしい。
だって男はな、上を目指すものだ。なんでも良い、何かの高みに行きたいと思うものだ。そんで、たまたま俺は物理的に上を目指したいと思った。
いいや、そもそも根元的に男は未知を求めるものなんだよ。あの道の先には何があるか? あの川の先。あの山の先。あの海の先。あの空の果て。あの空の天蓋、永遠の灰色雲の先の空には何があるのか?
老人たちが言うような青空があるのかないのか、星は? 月は? 太陽は? そういったものを見たいと思うやつらが一人でもいる限り私の研究は無駄じゃない。
だから、最悪私以外の誰かがあの天元にたどり着いたのら、その時は、
優しい顔。ある種の達観した顔。ある意味で諦めている顔。とても寂しい顔――
――違う。違う。私は……私はあなたにそんな顔をしてほしくってあんなことを言ったんじゃない。私はあなたのそんな顔をしてほしくない。あなたはいつものように無駄に根拠のない自信と理論を言ってほしい。そんな顔するのはあなたじゃない!」
「…………あ~ちょっといいか?」
人が理由のわからない感情が渦巻いてイライラしているのに、このバカは唐突に声かけ来た。少しは空気を読めと言いたい。
ただ、何かを言おうとしている彼は、いつもと違ってなにか歯に挟まったかのような、歯切れの悪い物言いをしている。それが余計に私を苛立たせる。
「何よ!」
「あー途中から声に出てたぞ?」
「!!!!」
今、顔が物凄く赤くなっているのがわかる。
「いやな。お前が俺のことをそう言ってくれるのは嬉しいんだが、でもな現実問題として難しいし、実現にはいろいろ不足してるものが山積みなんだ。だからさ」
「だからなによ。私はね。あなたには、あなただけには、そんな大人みたいな顔してほしくないの! 目指したものを諦めるのに言い訳する人間になんかなってほしくないの! 私は、
誰かが私の頭に手を乗せた。
違う。ここにいるのは二人だけ。
私と、コンスタンチンだけ。
二人だけ――――
「な・なななな何すん」
「ありがとうなタマーラ・カルサヴィナ。俺のこと心配してくれて」
コンスタンチンは私を抱きしめてくれた。優しく、頭と腰に手を回して、包み込むように抱きしめてくれた。私よりも頭一つ以上背が高いから、私の顔は彼の胸に収まっていた。
彼からは紙とインク、オイルと金属の臭い。それと今しがた食べていた黒パンとニューヨークチーズケーキの匂いが私の鼻腔をと思考を占める。
「でもな、実際、この世界は早い者勝ちなんだよなぁ・・・いくら頑張っても先を越されたら意味がない。意味がないんだよ。それでも、私は誰かが空の果てに行ってほしいし私自身も行きたい。友人で行くの難しいから無人でもいいからあの天蓋の先にロケットを飛ばしたいんだ。飛んでほしいんだ。
タマーラ・カルサヴィナ。お前も少しはわかってもらえないかな?」
「――――わかったわよ。わかってるわよ。わかってる。
だから、もう離してよ――」
「ああ。悪いな」
躊躇なく離してくれたコンスタンチン。
――ほんの少し、惜しい気もしたけども、でもあのままでいたら私は――――
「あのなタマーラ・カルサヴィナ」
「いい。もう何も言わないで、わかっているから」
「そうか。安心したならもう心配もなくなったな」
ぽん。
また頭に手を置かれた。でも、もう驚かない。むしろくすぐったいくろい。
私としては悔しいながらも、ちょっと嬉しくって目を細めたのが、それをコンスタンチン嫌がっていると勘違いしたのか『すまん』と謝れて、手を引っ込めてしまった。
――もう少し優しく、してくれてもいいのに。
それならお互いに無言。コンスタンチンはひたすらに資料と小型演算機とノートをいったり来たり、私は机の空いた隙間に身を預けてコンスタンチンを見る。とても静かな空間。だけども不快ではなく、むしろ心地好い雰囲気でいられて。
チクチク
チクチク
チクチク
刻まれる時間とコンスタンチンの筆が走る音と演算機を叩く音がオルゴールのように静かに奏でられる音楽。
その後は日が暮れる(実際に太陽が見えるわけでなく、昏くなる一歩手前)頃までコンスタンチンは机の上の紙と格闘して、私はその光景を静かに見つめた。
その時私は神に願った。願わくばこれから先、コンスタンチンが、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーがこのまま夢に突き進めるよう。様々な困難や試練があろうとも真っ直ぐ行けるように。
諦めることなく、立ち止まろうともまた進めるように願う。
それが私の、アンナの、みんなの知るコンスタンチンそのままでいられるように願う。
その時の私は知らなかった。その二日後に起こる惨事を、このアカデミーに、ロシア全土に這い寄る影を、すべてを焼き尽くす《赫い者》の魔の手がすぐそこまで来ていたのに気づいていなかった。
アンナやコンスタンチンのこと笑えない。私は無邪気に、なんの根拠なくこの暖かい日常というなの至高の演目が、いつまでも続くと思っていたのだから。
アンナに襲いかかる驚異と災禍も知らずに暢気なものだ。でも私は諦めない。
たとえ何があろうとも、私ができる限りのことを、やれることすべてでアンナとコンスタンチンの夢を守りたい。
だから、ねえ神様。お願い神様。少しでいいですから、ほんの僅かでもいいですから、すべてとは言いませんから、せめて私の近くにいる人たちを守る力を私にください。