黒雪のコモリオム  --What a beautiful Fakes --   作:ジンネマン

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 モスクワ。帝都サンクトペテルブルクより南東に位置するロシア機関帝国第二の都市。ロシア国内で数少ない大機関都市(メガ・エンジンシティ)

 ロシア機関帝国の、ロシア帝国の前身モスクワ大公国の首都であり、後のロマノフ朝第5代皇帝ピョートル1世がサンクトペテルブルクに遷都されるまでのロシアの心臓部であり頭脳であった。

 

 土地そのものは肥沃ではないが、この街を流れるモスクワ川は上流に遡るにつれオカ川、サンクトペテルブルクにも支流がある欧州最大の河川ヴォルガ川に通じる好ましい位置し、その好立地さで金や銀など流通の要地としてその後の安定した拡張に寄与した。

 サンクトペテルブルクに次ぐロシア第二の都市として製造中心地であったモスクワ。その市内の労働力の職業の種類は多様性に富んでいたが、繊維関係に集中していた。

 

 されど、その歴史は繁栄だけではなかった。

 

 幾度となく起こる飢饉、火災、戦禍など壊滅的な被害に見回れた、一番近いものでフランス皇帝ナポレオンの祖国戦争(ロシア遠征)よる焦土作戦や市内の全域の火災がある。この時に至っては市街は灰燼ときし、フランス軍は和平交渉の決裂、撤退まで1ヶ月滞在した。

 しかし、災禍の度この都市は復活を遂げ、今日までロシア有数の大都市として続いてきた。

 

 そう。まるで不死鳥のように。

 

 そんな古都モスクワに私たちは来た。正確には着いた。

 ――長い時間をかけて…………

 

 モスクワ・サンクトペテルブルク鉄道、19世紀半ばに完成した鉄道で二つの都市を結ぶ大動脈たる道路が二コラエフスキー道路と呼ばれ、車線がその沿線にあったことから通称ニコラエフスキー鉄道とも呼ばれる鉄道に乗ってきた。

 八時間掛けて。

 ――うぅ。寝台特急なんて聞いてないよ……

 

 昨日の夜遅くに私とタマーラ宛でウラジミール先輩の電報が届いた。

 なんでも、連日のモスクワ事件の関係一部の職員が休暇届をだしたせいでダイヤが混乱、その結果早朝の便が欠便になり、その次の便も運航はするものの満席、私たちが乗れるは明日の夕方となり流石にそれは不味く、急遽寝台特急の切符が人数分奇跡的に取れたので今すぐ出立となった。

 一度アカデミーに集合した後駅に向かい、列車に出発したのは日付変更の五分前だった。

 

 ――うぅ。本当ならモスクワまでの道中、写真を撮りながらゆっくり行くはずだったのに。

 ――こんなにも暗かったら何にも映らないよ。

 ウラジミール先輩の電報が来る直前に点検し終えたし写真機、本来ならそれで車窓から流れる風景を撮影しながらちょっとした旅行気分で行くつもりだった。

 少なくとも、列車の移動中くらいはそれくらい浮かれてもいいと思っていたのだ。

 

 その後も波乱続きで、急ぎだったので四人部屋一つしか取れず、その日初めて家族以外の男性と一緒の部屋で寝た。その際にタマーラは散々文句を言った。だが背に腹は代えられないと一緒の部屋に寝るのを了承した。

 本当に波乱だったのは全員が寝ようとした時だ。ウラジミール先輩たちの身じろぎや寝返った時の音がやけに大きく聞こえて、それは部屋に備え付けの時計の秒針と相まってすごく緊張した。

 

 チクタク。

 チクタク。

 チクタク。

 

 ごそごそ。

 ごそごそ。

 ごそごそ。

 

 ――異様に耳朶に響く音に睡魔が勝つまで数時間、ずっと気になって本当に寝づらかった。

 ――かと言って、タマーラが寝ているかどうか聞くのも気が引けるし、この静かな空間を壊してお手洗いに行くのも恥ずかしい。

 

 そんな私が寝たのは、最後に時計を確認した五時頃だった。

 

 

 

 それから終点のモスクワに着いた頃には空は少し明るく、時間的には八時を少し過ぎた頃の街には自分の工業に向かう人で駅の前は混雑していた。

 私はというと、タマーラが普段の私にするような起こしかたはせず、ユサユサと肩を控えめに揺すられて起こされた。もう二人は改札口で手続きを行っているとのことなので急ぐように促された。

 が、私が覚醒直後に一番感じたのは『お手洗いに行きたい』という、痛切な生理現象だった。

 

 タマーラは予想していたと言わんばかりに、というか予想していたのだろう。呆れたようにため息をついて、

 

「ほら、早く行ってきなさい。そのために二人を追い出しておいたのだから」

 

 ――ああ、タマーラ!

 その言葉に、一瞬タマーラが天使様のように見えた。

 

「まったく。夜のうちにちゃんと行っておかないからよ。じゃあ正面改札口で待っているから、早めにね」

 

 そう言ってタマーラは手ぶらで部屋を出て行った。

 ――? 手ぶら?

 

「ねえタマーラ。荷物は?」

 

「ん。二人に持たせておいたわよ。男なんだからそれぐらいはやらせな「ありがとうタマーラ。それじゃ行ってくるね」――って、ちょっと待ちなさい。まずは身だしなみを整えてからにしなさい。

 すぐ済むからじっとしていて、列車もすぐには車庫に行かないから」

 

 タマーラに感謝をしつつ、急いでいこうとしたら腕を掴まれて椅子に座らされた。

 そして、予め用意していた櫛で髪を梳いてくれる。夜中に何度も寝返りをした後シーツを頭まで被って寝たせいか、所々髪が乱れていた。

 

「まったく緊張感のない子。まったく危機感のない子鳥ちゃん(プチーツァ)。まったく目が離せない雪ちゃん(スニェーク)

 いい。女の子はね、一歩外に出た時から周りの目を気にするものなの、いえ、自分以外の人がいる時点で気にするの。もちろん、気の置けない人には例外だけど、それでもあんまりみっともないのを晒すものではないのよ。

 それにもうここはロシア有数の大機関都市モスクワ、煤や排煙も帝都と同じくらいあるのだから、そのあたり気を付けるの。

 

 なによりも、もうここは安全地帯とは言えない、昼も夜も関係なく殺人鬼が活動している。

 だから、いつも以上に気を付けるのよ。特に、絵になりそうだからって所かまわず写真機を取り出さないように!」

 

 タマーラは私に注意喚起を促しながらも、黙々と私の髪を梳いてくれる。

 

 ――タマーラが優しく、丁寧に、まるでハープを奏でるかのように梳いてくれるから、とても心地よい。

 ――ああ、今だけ。そう。今だけはこのままでいたい。

 この瞬間だけ、今だけ、誰かに、『この風景を撮ってほしい』っと、言いたい。

 今の私は、タマーラに髪を梳かれている身だから、写真を撮ろうとしても変なのになってしまう。

 だから、今だけ、誰かこの部屋に来てほしい。このかけがいのない物を、このとてもとても《きれいなもの》、この何物にも代えがたい《うつくしいもの》を、

 

 ――一つの形に、

 ――一つの絵に、

 ――一つの思い一緒に、

 

 ――残したい。

 

 しかし、タマーラの手が止ってしまった。名残惜しくはあるが、終わってしまったものは仕方がない。

 私は振り向きタマーラにお礼を言おうとしたら、肩にタマーラが手を静かに置いた、先程とは違うモノものが、少し重たい雰囲気で。

 

「………今のうちに、正直に言うとね、本当はアンナも連れてくるかどうか迷ったの。でもね、この間も帝都で危険な目に遭ったばかりだからね、だから、私が一緒にいれば少しは安全だと思ったから、ちょっと強引に、あなたも連れてきてしまった。

 うんうん。違う、あの時私がいながらアンナを危険な目に遭わせてしまった。

 本当は帝都の方が安全かもしれない、だって、あいつがいるから、私は選択を誤ったかもしれないから。

 だから、

 

 ごめんね――」

 

 肩に置かれた手が震える。手が、震える。

 私はタマーラの手に、自分の手を重ねる。

 手から伝わる体温は普通なのに、なのにとても冷たく感じてしまう。

 ――まるで今のタマーラの心みたい。

 

「大丈夫だよ。タマーラ」

 

「アンナ――」

 

「うん。だって、私は自分の意志でみんなに付いて来たんだから。

 たしかに最初はタマーラの強引さにされるがままだっけど、それでもタマーラは本当に私が嫌と言ったら、ちゃんと聞いてくれるでしょ?

 だから、何にも気にしなくっていいの。

 私はちゃんと、自分の意志でここにいるんだから。

 

 それにね、私自身もコンスタンチン先輩のことが心配だったのもあるけど、こんな機会がないとモスクワに来ることもなかったかもしれないから。

 だからね不謹慎だけどね、タマーラには感謝してるの。

 もちろん。危ないところには近づかないし、みんな一緒に行動するれば安全だと思うから、思うから、大丈夫だよ」

 

 重ねた手から震えが止まった。止まってくれた。

 止まってくれた。止まる前に、ほんの少しだけ、震えて。

 手が離れるのを確認すると、私はタマーラに振り向きお礼を言う。

 

「ありがとうねタマーラ。じゃあ御手洗いに行ってくるから先に待っててね」

 

(ありがとうアンナ)

 

 部屋を出ていく瞬間、タマーラが何か言った、私には聞こえないように、小さく、ささやいて、呟くように。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 嘆きの夜。

 悲鳴の雨。

 慟哭の夜明。

 

 だれもが悲嘆にくれる夜を過ごし、悲鳴は豪雨のように降り注ぎ、慟哭は新たな悲劇の幕開け。

 

 誰もこの連鎖を止められない。

 止めようとした男もいたが、ついには敗れ、行方知れず。

 世間では彼は死亡したと思われているようだが、僕は違う。彼は必ず生きている。

 

 生きている。はずだ。

 だが、今、ここに彼はいない。

 

 ならば、僕がどうにかするしかない。

 彼がいないなら、誰もいないなら。

 僕が、やるしかない。

 

 そう、僕しか――

 

「! アンナがいない!?」

 

 少し時間、この数時間の間、別のことに気を取られてアンナが帝都からいなくなっているのに気づかなかった。

 いや、いくら他のことに気を取られていたからと言って、僕がこの帝都からアンナがいなくなっているのに気づかないなんておかしい。

 黒い雪も降っていない。つまり、チェルノブイリの暗示迷彩は効いていない。

 ――そもそも、こういったことを防ぐため、無理をして《印》を渡したのに。だが、どうして…………まさか!

 

 思い至る。こと人の精神については、あのメスメルすら凌駕しうる存在を、この国の影で暗躍する一人の男を、《黒い道化師》を、

 

 ――く、《黒い道化師(ラスプーチン)》め何のつもりだ。

 碩学の習性で思考に耽りそうになるのを振り切って、アンナを追う。

 ――《印》がある限りアンナを見失うことはない。向かっている方向から目的地を…………モスクワ!? なんであんなところに!

 

 黄衣の王は駆け出す、全力で。

 現在時刻は深夜二時、既に夜行列車は出発し、その蛇を想起させる巨体は既に闇の中。

 

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 ここは寒い、ここは暗い、ここは狭い。

 ああ、なんて寒さだ。

 あまりの寒さに体がうまく動かない。

 

 ああ、なんて暗さだ。

 どんなに目を凝らしても、何も見えない。

 

 ああ、なんて狭さだ。

 あまりに狭くって息すら出来ない。

 

 そもそもここは何処だ?

 

 そうだ。外に出ないと。

 

 そう思い、身動きすら難しいこの場所から、もがき、あがく。

 自分がなんと弱っていることに、今更気付いて、それでもなんとか脱出する。

 そして、外に出た。

 

 そこは灰色に覆われた世界。

 そこは天も地も灰色に覆われた街。

 そこはすべて覆い隠し、消し去る街。

 

 本来自分のいた場所とは正反対の土地。

 そこに迷い込んだ異邦者は、ただ、空と地を見渡し、

 ただそこを行き交う人を見上げ、それは、歩み出す。

 

 誰か、助けて。

 

 それは動き出す。人を、車輪を駆動させる機械を、降りしきる灰色の雪を避けながら。

 どこ行くはてもわからず、だれのあてもなく、ただ、生きるために。




最近の自分にしては早めの投稿。

さて、実は来月から私用ですこし、いえ、だいぶ投稿が遅くなるやもしれません。
出来る限り頑張りますが、それでも遅くなる可能性が大なので、すいません。

さて、アンナ一行はロシア帝国の第二都市モスクワに行きます。
一応モスクワを舞台にするのには多少理由があるのですが、それは、今後にと言うことで、

それと、最後の語りですが、あれは、え~~と、うん。
取り敢えず人間ではないのであしからず!

ではとりとめもない話はこれくらいにして、
親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。

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