研究会の時間になっても、部屋に現われないヒカルに、芦原さんがキョロキョロしながら
「アキラくん、ヒカルちゃんは今日は研究会でないの?」
「もうすぐ学校で文化祭があるらしくて、クラスの出し物の準備が間に合わないって言って、部屋に篭って何かしてるみたい」
「へ~、文化祭の準備か~、何だかんだってヒカルちゃん高校生なんだよな。勉強は嫌だけど、そういう皆でやる行事は俺も好きだったな」
自分の学生時代を思い出しているのか、芦原さんは両腕を組みながらうんうん頷く。
10代前半でプロ棋士になることも珍しく無い囲碁界では、高校へ進学せず囲碁一本に絞る人も多い。
もちろんプロ棋士としての仕事と対局をこなしながら、大学院にまで進む人も中にはいるが、あくまでごく一部だ。
ボクも中学のときにプロ試験に合格し、プロ棋士になったけれど、高校へは進学する道を選んだ。
その大きな理由として、囲碁だけの世界に篭りがちな生活をこれからして行くだろう上で、少しでも世間の視野を広げておくために。
ヒカルがウチに来てからというもの、研究会には必ず彼女も参加していたから、急にその姿が無いとなると変な違和感があった。
男だけの中の紅一点が無いという意味ではなく、彼女の持つ独特の緊張感と気迫が感じられないからだ。
普段は本当に頭が痛くなるほど、お父さんにべったりで我が侭で甘えたがりなのに(お父さんもお父さんでヒカルを絶対甘やかせ過ぎだし)、碁盤を前にすると別人になる。
タイトル戦で打たれた対局の検討をしては、誰も気付かなかった一手に気付き鋭く指摘してくるし、それが実際にヒカルと対局するとなると、公式手合でもないのに石を打つ手がじっとりと汗が滲み出るほど、圧迫感を覚えて緊張するのだ。
特に盤面をみやる真剣な眼差しは、その眼差しだけで本当に人を射ることが出来るんじゃないかと錯覚するくらい氷鋭としている。
これでプロでないというのだがら完全に詐欺だ。
そのヒカルが研究会に参加していない。
もちろんヒカルが研究会に参加しているのは、プロでなく、そしてプロを目指していない点から、完全に『自主的な趣味』の範疇だ。
参加していないことで、誰からも責められる謂われは無い。
けど、ヒカルがウチに来る前はそれが当たり前で自然だったのに、すっかり彼女の存在が無くてはならないものになっているのだと、今更ながらに気付かされる。
今日の研究会はどうも気が乗らないというか、集中できない。
簡潔に言えば、ヒカルがいないと調子が狂う。
それはボクだけでなく、緒方さんたちも同様らしく、気持ちがそぞろになっていることが見て取れた。
「どうも今日は皆集中できていない様子だね」
石を打ち、苦笑いしながらお父さんが、部屋にいる全員に対して言う。
勘のいいお父さんが、この空気に気付かないわけがない。
「申し訳ありません……。どうも集中できないというか……」
小さく頭を下げ、お父さんの言葉をすぐに認め緒方さんが謝る。
その表情は、集中できていない自身を叱咤するというより、集中できないことに戸惑っている様子だった。
「ヒカルの姿がないと気が抜けてしまうかな?」
「そっそんなことは!」
お父さんの指摘を緒方さんは否定しようとして、その周りが反論出来なければ無力に等しい。
緒方さんの隣に座っていた笹木さんが溜息をついて
「ほんと彼女がここにいることがすっかり当たり前になってたんだなって思いますね……。だらしが無いと言われればそこまでなんですが、女の子がいないって言うんじゃなくて、あの子という存在があるだけで糸がピンって張ったみたいに無意識に緊張して集中してるんですよね」
「俺もです……面目ない……」
笹木さんの正直な告白に芦原さんも続く。
ボク自身もそれに対して何か言うことはできない。
なにしろ、ボクも2人と同じなんだから。
緒方さんも2人を責めるようなことはせず、メガネの位置を神経質に正すだけだった。
「仕方ない、今日の研究会はこれで終わりにしようか。これ以上だらだらと続けていても意味がない」
研究会のお開きを宣言したお父さんに、ボクを含めて全員が頭を下げた。
意味の無かった研究会だったとしても、とりあえず終わったということで皆に振舞うお茶と茶菓子を芦原さんと取りに行く。
しかし、そこに今日の研究会が早めに終わった元凶がいた。
それもありえない格好で……。
「ひっヒカルちゃん!?なんて格好してるの!?」
一緒に台所に来た芦原さんが素っ頓狂な声を上げたが、その気持ちはボクも痛いほど分かる。
分かるけれど、芦原さんのようにボクも変な声を上げなかったのは、一つ屋根の下で暮らしている慣れと耐性があったお陰だろう。
「何って、メイドさん。今度、文化祭でウチのクラス、メイド喫茶するからその衣装だよ。市販品じゃなくて皆でオリジナルのメイド服作ろうってことになったから、カヨさんにお裁縫習いながら頑張って作ったんだ。似合う?」
白と黒のどこからどう見てもミニスカートのメイド服は、フリルがふんだんに使われてあって、ウェストもしっかり紐で締められて細さを強調している。
そのミニスカートから出ているスラリとした足も黒のニーハイソックスとかいう、太股中間まである長いソックスで、頭にもしっかりフリル付きのカチェーシャ。
その姿で、ヒカルは嬉しそうにクルクル回ってみせ、メイド服を見せびらかす。
「とっても可愛いわよ、ヒカルちゃん」
「ほんと?ありがとカヨさん!カヨさんが難しいところの縫い方教えてくれたからだよ!すっごい感謝!」
とっても似合っていると誉めてくれるカヨさんに、ヒカルも満足げにお礼を言う。
文化祭の準備が間に合わないって、メイド服を作るのが間に合わなくて、それで部屋に篭っていたのか……。
さすがに女の子の部屋を男が覗くわけにもいかなかったから、放置していたけれど、メイド服。
天国のお母さん、我が家にメイドがいます……。
「それより、なんで2人ともここ来たの?研究会は?遅れるけど少しでも出ようと思ってメイド服作りがんばったのに」
研究会が終わりお茶を取りにくるには早い時間に、怪訝に思ったのかヒカルが尋ねてくる。
「えっと…… 今日はなんとなくいつもより早く終わっただけだよ。ね、芦原さん」
「あ、うん!今日は特別!」
まさか、ヒカルがいなくて集中出来ませんでしたとは口が裂けても言えません。
「だったら、ヒカルちゃんがお茶持って行ったらどうかしら?せっかくメイドさんになってるんだし、先生にもその姿見てもらったらどう?」
カヨさん、余計なことは言わないでください!
「あ!そうだね!そうする!」
「だめだよ!せっかく作った衣装なのに、本番前にお茶零して汚したりしたら大変だろ!?」
「何それ!私がまるでこれからお茶零してメイド服汚すのが目に見えてるような言い方じゃん!」
「そういうことじゃなくて」
「お茶を運ぶのはメイドさんの仕事でーす!」
そう断言して、予めカヨさんが用意していただろう湯のみとお菓子が乗ったお盆をヒカルが持って研究会の部屋に行ってしまう。
まったく……。
「はい、お湯です」
「ありがとう、カヨさん……」
笑顔でお茶用のお湯の入ったポットをカヨさんから渡されました。
仕方なくヒカルの後について研究会の部屋に向かうが、部屋に現われたヒカルに、やはりお父さんを除いた全員が驚いていた。
「ヒカルちゃん!?なんでメイド服!?」と笹野さん。
声が上ずってますよ。
「今日はメイドさんごっこです。はい、お茶どうぞ」
メイドから差し出されたお茶を、戸惑いながらも嬉しそうに男どもは受け取り、美味しそうに啜る。
いつも男ばかりの世界でメイドなんて雑誌かテレビの中だけの映像だ。
多少興味がある者もいるかもしれないが、囲碁界で大っぴらにメイドが好きですと言って受け入れられるには難しいだろう。
「わざわざソレを着るために今日は研究会サボったのか?」
緒方さんの冷やかしにもヒカルは動じることなく、クルクル回ってみせた。
「違うよ。サボったんじゃなくて、今度の文化祭でうちのクラスの出し物がメイド喫茶になったから、自分で着るメイド服作ってたの。難しいところはカヨさんに教えてもらったりして」
クルクル回るついでにミニスカートと裾のフリルがふわふわ舞う。
ふわふわ舞うついでにチラチラ太股も見える。
なんか、今までメイドのどこがいいのか全く理解出来なかったけれど、なんとなーく、メイド喫茶に通う男の気持ちが分かったかもしれない。
これがチラリズムの極意というやつか。
なかなか奥深いものだったんだな。
「先生、似合う?」
「ああ、とっても似合っているよ」
「ほんと!?」
「もちろん」
メイド服を誉めてもらって嬉しかったのか、ヒカルはお父さんの腕にしがみつく。
その光景もすでに慣れたもので、研究会に来ている男全員、お茶を飲んだりお菓子を食べたり軽ーく流している。
みんなスルースキル能力を身に付けた、というより、スルースキルがしっかり鍛えられてないと、我が家(塔矢行洋)の研究会はやってられないと悟ったんだろう。
「ところで、今日の研究会が早く終わったのは何で?先生がこれから用がってどっかに行かないといけないからとか?」
このヒカルの一言にお茶をちょうど飲んでいた男数名が盛大にむせった。
特に緒方さんはお茶が肺に入ったみたいで、激しく咳き込んでいるし。
「そ、そんなことないよ、た、たまには研究会が早く終わる日もあるよ……」
ナイスフォロー、笹野さん!
「 ホントにー?つまんないのー。後で研究会出ようと思って、せっかく頑張ってこのメイド服早く仕上げたのにー」
頬を膨らませて不満を口にする。
その顔には一局打ちたかったとマジック文字で書かれているのがハッキリ見て取れた。
それにお父さんも気付いたのか、
「集中することも当然大切だが、同じくらいリラックスすることも大切だ。気分転換も兼ねて、今日は少し早めに終わったのだよ。しかし、そうだな……お開きと言った私が言うのもなんだが、残る者で少しいつもと趣向を変えて打ってみようか」
「趣向を変えてですか?先生」と緒方さん。
「ペア碁などどうだろう。ヒカルはまだペア碁を打ったことがないのではないか?」
「なにそれ!?知らないっ!」
お父さんの提案に、不満が一気に消し飛び、ヒカルは好奇心の塊になって瞳を爛々(らんらん)と輝かせているが、その様子に本当にペア碁というものを知らないのだと分かってしまう。
前々から分かっていたが、ヒカルは囲碁界にはほんと疎い。
お父さんが持っているタイトルの名前すら知らなかった。(でも何故か本因坊は知ってたんだよね)
タイトル戦や昇段のシステムに至っては、まったく興味がない。
碁が強いのは、碁そのものに興味があるからで、プロの世界には全く興味がないから囲碁界について知る気もない。
この両極端さは生まれながらなんだろうなとつくづく思う。
「ペア碁というのは2人で組になって交互に打つのだよ。つまり対戦相手も2人。自分だけじゃなく組になった相手の考えも視野に入れながら打たないといけないから、なかなか難しい」
「面白そう!打ってみたい!」
「分かった。では誰かペア碁をする者は……」
お父さんがペア碁に参加したい者を募ると、手を上げたのは……(ボクを含め)全員でした。
さっきまで集中できないとか気が乗らないとか言ってたやつは誰だ?
「なんだ、皆残るんじゃん」
その通りです。
君が研究会に出ると分かったとたんに、皆この気合の入れようですよ。
あまりの変わりように自覚があるのか、心苦しくてみんなお父さんを避けるようにして、顔は明後日の方角向いてます。
ああ、普段と同じはずなのに、冷ややかに感じるお父さんの視線が痛いのは決してボクだけではないハズ!!
「じゃあ、チーム組もう!私は先生と」
「それはダメ!ペア碁は普段打ちなれない者同士が組んで打つのが醍醐味なんだよ。ヒカルはお父さんと毎日たっぷり打ってるだろ?別の人と組むんだ」
「えーー!」
ヒカルに批難されながらも、僕の心は『ヒカルとお父さんが組んだら勝負は最初から見えている』だ。
この2人を組にして勝てる組なんて世界中にいるかどうかも怪しい。
そこからは結局、メイドさんが加わって皆でペア碁大会。
碁の研究会で真面目にメイドが混ざっているところなんてウチだけじゃないんだろうか。
けれど、一対一では勝てないけれど、ペア碁ならヒカルに勝てるかもしれないと、みんな異様な気合の入り様で、研究会が終わったのは夜もとっぷり深けた頃だった。
PS
次の手合日に棋院に行ったら、『塔矢名人は若奥さんにメイド服着てもらうのが趣味らしい』という噂が流れていたのは、誰が口を滑らせたのかな?ん?