LG杯世界棋王戦が韓国で開催されるのに合わせて、各国を代表するプロ棋士が集まってくる。
予選はあるもののアマも参加出来る数少ないオープン棋戦とはいえ、
『えらく浮ついてる気がするが、LG杯ってのはいつもこんなもんなのか?』
棋戦が開かれる前夜祭のパーティで、周囲を見渡しながら他人ごとのように揶揄した。
自分がこの棋戦に出るのは今回がはじめてだから、LG杯の空気がどんなものか知らないが、どうにも国際交流だけではないざわめきがパーティ会場のいたるところで見られた。
さっきは場に慣れないと嘯いたが、なんとなしに皆が浮ついている理由は分かる。
何しろ、韓国語・中国語も分かるお陰で、皆が話している内容が筒抜けだ。
『冗談はよしてください。こんなに浮ついてるのは今年が初めてですよ。楊海さんも原因くらい俺が説明しなくてもお分かりでしょう?』
韓国語が話せるお陰で前に何度か話したこともあり、親しいと言えるくらいにはなったんじゃないだろうか。
すでに何度か大会に出場している経験者の太善が苦笑しながら、持ってきたワインを手渡してきたので受け取った。
『連れてきたらしいじゃないか。若くて美少女と噂の奥さんを俺らに自慢したいとか?』
『塔矢先生はそんなことされませんよ。仮に自慢だとしても楊海さんには都合よかったのでは?4年前に突然現われたsaiが、実は16歳の女の子だと判明して、しかも今日その子に会えるんだ。一度でいいから実際に会ってみたい、あわよくば彼女と一局打ちたいと考えている輩がここにはわんさかいます。もちろん、俺や楊海さんも含めてね』
『最初に現われたのが4年。彼女の歳を逆算すれば12歳であれだけの碁を打って、プロを平気で負かしていたことになる』
『羨ましい限りの才能ですね。LG杯はアマも参加できるんだから彼女も参加すればよかったのに』
『それであっさり優勝されたらプロの立つ瀬ないな』
『そうですか?案外、塔矢先生もそれを本気で考えて、彼女を出場させなかったんじゃないですか?』
『……優男な顔して、んな怖いことをサラリと言うヤツだな』
怖いことを笑顔で言うんだから、安太善も相当な曲者だよな。
外見がなまじ優しげだから騙されそうになるが、内面は実はかなり強かで、年上のこっちが度肝を抜くようなことをたまに平気で言う。
それも太善がそれなりの修羅場と対局をして培った強さがあるからだから、勝手に強がっているだけだと一蹴できないから困る。
『でも実際に彼女がsaiであるなら、実力的に優勝する可能性は十分にある。むしろ彼女が最有力になると俺は思いますよ。あくまで彼女が本当にsaiならば、ですが』
『お?疑ってんのか?』
『噂ほど当てにならないものはないです。相手の実力を見るには、やはり実際に対局してみなければ何も評価できませんよ』
『それは言えてる』
噂は所詮噂。
碁の実力を知るには対局するのが一番の早道だ。
『噂をすればですよ、楊海さん。お待ちかねの日本の皆さんが来られたようだ』
『おっ、噂の子はどーこかなー』
会場の入り口にぐるりと振り返り、興味津々探す。
噂の美少女、噂の美少女、どーこだーい?
隠れてないで出ておいでー?
『楊海さん、それはいくらなんでもあからさま過ぎですよ……』
『うるさい、彼女と対局したいと思っている輩がいっぱいいると言ったのはお前だろうが。他のやつに先を越される前にだな、俺が先手を……』
打つ、と言いかけて、口が開いたまま止まってしまった。
会場に出席していたほとんどの注目を集めているのに、そこを中心に静けさが波紋のように広がっていく。
数人の日本のプロ棋士らしき人物と、1人1人につく通訳。
そして日本の伝統的服装である羽織袴を着た塔矢先生の背中からちょこんと出している小さな顔。
『……まじで?』
塔矢先生、羨ましすぎる。
いや、本気でどうやって彼女を落としたのか教えてほしい。
噂は当てにならないとさっき太善が言って、それに俺も同意したが、噂になるにはそれだけのモノもあるんだな。
たかが噂も、されど噂。
馬鹿にしたもんじゃなかった。
日本人らしい大きな目、小さい顔、やわらかそうなストレートの髪を自然に垂らして、ミニのスカートが惜しげもなく健康美溢れる白い足なんか出しちゃって。
そんな子が50代の塔矢先生にぴたってくっついて……
『太善』
『はい。これは噂以上にキレイな子ですね。日本でもモデルとかしてるのかな』
『日本はこれで犯罪にならないのか?』
『日本の法律的には、女の子は16歳で結婚が認められるそうなので、問題ないはずですが?』
『俺、日本人になろうかな……』
『なるのは止めませんが、なったところで可愛くて若い子と結婚できる保障はありませんからね』
『くっ』
だよな。
ちょっと言ってみただけだよ……。
他のやつらも気になってはいるものの、塔矢先生に話しかけて一度に通訳できるのは1人のみ。
今は大会関係者が挨拶しているようで、それが通訳し終わるチャンスを待っているようだが、俺は違うぜ。
中国語、韓国語、そして日本語もほぼ完璧!!
俺に言葉の壁はないッ!!
「塔矢先生、お久しぶりです」
「楊海くん。そうか、今年の中国代表には君が選ばれたのか。これは手強いな、お手柔らかに頼むよ」
「まさか。それは俺の台詞ですよ。少しお会いしないうちに、先生も冗談がお上手になられましたね」
中国の国際棋戦で何度か顔を合わせたことがあるお陰で、塔矢先生も俺の顔を覚えてくれていたらしい。
実際、塔矢先生が覚えている海外棋士の顔は対局相手ならいざ知らず、検討に数回顔出したぐらいの相手の顔を、数年後に覚えていなくても、それはそれでしょうがないと思う。
しかし、名前を覚えていてくれたとなると、これから持って行く話の流れがずいぶんスムーズになってくれるというものだ。
「失礼ですが、そちらのお嬢さんがもしかして、先生が再婚されたというお相手ですか?」
平静の振りをして、さりげなく尋ねてみる。
一緒に視線を塔矢先生の隣に向ければ、丸い目を大きく広げて、こっちをじっと見ていた。
まさに小動物。
こういうのを日本の言葉でなんと言ったかな?
『不躾』……違うな、これは『興味深々』の方がどっちかと言えば近いかも。
「妻のヒカルだ。中国の棋士で楊海くんだよ」
「はじめまして、ヒカルちゃん」
けれど、塔矢先生が俺を紹介してくれても、ヒカルという名らしい女の子は、俺が話しかけるなり顔を不機嫌に顰めて、塔矢先生の羽織をぎゅっと掴み
「ヒカル?」
どうしたのか?と尋ねた塔矢先生の背中にすっぽり隠れてしまった。
おやおや、すっかり塔矢先生になついちゃってますことで。
「すまない、楊海くん」
「いえ。初めての国際棋戦のパーティだ。逆にいきなり声かけて怖がらせちゃったかも」
そういうと塔矢先生は苦笑しながら小さく頭を下げてくれたのだが!!
誰より先んじて先生に挨拶しにきた本題はというと、
「彼女がsaiだったんですね。失礼かと思うのですが、どうもまだ信じられませんよ。4年間も正体不明のままで半ネット伝説化しかけ、多くの人間を魅了する碁を打つ棋士が、実は二十歳も越えてないごく普通の女の子なんて」
「しかし、現実に彼女は私に勝った」
そう言ったのは、塔矢先生ではなく、いつの間にか近くに来ていた韓国の徐彰元先のこれまた流暢な日本語で。
って今、なんて言われました?
徐彰元先生に勝った?
「え?え?って、あ、ご無沙汰してます、徐彰元先生。先生はヒカルちゃんと打たれたことがあるのですか?」
「今朝、彼女と一局打ったよ。碁に歳は関係無い。本当に素晴らしい打ち手だ」
ストレートな賞賛を塔矢先生の後ろに隠れている女の子に向けて徐彰元先生が言えば、塔矢先生も説明を補うように
「実は、私たち2人だけ昨日からこちらに来ていて、昨夜は徐先生の家にお世話になった。それで今朝、ヒカルと一局打つことになったんだよ」
マジ?
「それで……ヒカルちゃんが勝ったと?」
「ああ。塔矢先生も本当にどこでこんな素晴らしい相手を見つけてくるのか、何かコツがあれば教えて頂きたいものです」
噂ではこの女の子が塔矢先生と真剣勝負で勝つというのは聞いていたが、これは半分以上、人の噂伝いに尾ひれ胸ひれがついた誇張話だと思っていたんだが、徐彰元先生にも勝ったとなると話は全く違うぞ?
韓国TOP棋士の徐彰元先生に勝つだけの実力があっても、この女の子がプロでないことは確実だ。
一般的に囲碁は女性は男性がどうしても勝っているのが現状で、まだ16歳という歳の女の子がアマのままプロに勝つのか?
そりゃあ、塔矢先生と結婚したなら、毎日でも塔矢先生と打てるだろうし、門下のプロ棋士、門下でなくても親しいプロ棋士とも打てるだろう。
そんな恵まれた環境ならどんな下手でも嫌でも強くなる。
それでも、強くなる程度も限度があるだろう?
「そいつは是非とも俺もヒカルちゃんと一局打ってみたいですね!」
塔矢行洋と徐彰元のお墨付き相手に、碁打ちとして惹かれないわけがない!!
「行洋ッ!!」
え?
行洋?行洋って、塔矢先生の下の名前だよな?
というか、天下の塔矢先生のファーストネームを呼び捨てにするなんて、どんな馬鹿……じゃなかった……。
「さっきからどうしたのだ?ヒカル?」
塔矢先生の名前を呼び捨てにしたのは、先生の背中に隠れていたヒカルちゃんだった。
しかも『行洋』なんて呼び捨てにして驚いたのは、会話していた俺や徐彰元先生でなく、周囲にいた者全員で。
瞬間どよめきまで起こったぞ。
いや、別に奥さんが旦那の名前を呼び捨てにするのは世間的にも普通なんだろうが、仮にも呼び捨てにした相手は、囲碁棋士で知らぬものはいない世界の塔矢行洋だぞ。
それを、こんな未成年な女の子が、頬を膨らませて駄々をこねる(=甘える)ように『行洋』って、オイ。
何か援助交際場面で出くわしたような見てはいけない場面を見ているような気分だぞ。
「気持ち悪いから、外の空気吸いに行こ!」
グイっと塔矢先生の腕を引っ張り、外へ連れ出そうとする。
塔矢先生もどうしたものかと困ったような表情になったが、
「徐さん、楊海くん失礼する」
一言断って、塔矢先生はヒカルちゃんに引っ張られるようにして廊下の方へ行ってしまった。
その後ろを、置いてかれまいと慌てて塔矢先生付きの通訳担当が追いかけていく。
「なんだ?何がどうしたんだ?急に気持ち悪いって……」
このパーティ会場に入ってきたときは、別に普通だったと思う。
それなのに、俺が声をかけたら急に不機嫌になって、気持ち悪いとまで言い出して、塔矢先生を連れて行ってしまった。
『俺、何か悪いこと言いました?』
後に残された徐彰元先生に韓国語で尋ねれば、答えたのは先生ではなく、会話に入ってこなかった太善だった。
『語学がいくらできても、女心は楊海さんには理解できないということですよ』
クスクス声を押し殺しながら笑う安太善のその分かったような口ぶりにムッとして
『俺のどこが女心が分からないって?』
『俺は日本語は分かりませんが、名前の末語に「ちゃん」って付けるのは、日本の子供に対しての言葉なのでしょう?』
『それがどうした?』
『恐らく彼女はそれが気に食わなかったんですよ。塔矢先生の妻として会場に出席したのに、楊海さんから子ども扱いされて、女としてのプライドに障ったんです。反対に彰元先生からは「ちゃん」付けは無かったと思います。だから彼女も徐彰元先生の言葉は塔矢先生の後ろで嬉しそうに聞いてましたよ?』
安太善が徐彰元先生に確認を取るように質問を振ると、徐彰元先生は否定せずに苦笑するだけだった。
つまり安太善の指摘を肯定したわけだ。
『女って、彼女はまだ16なんだろ!?日本語的にはちゃん付けが普通だぞ!?』
『でも、現に彼女は不機嫌になってしまった。 なまじ日本語を理解していたのが逆に仇になりましたね、楊海さん。楊海さんへの印象はこれで最悪だ』
あははは、と他人事のように安太善が笑う。
16歳で子供でも、女。
どんなに素晴らしい碁を打っても、気まぐれな思春期な女の子。
……ということか?
となると……せっかくsaiと打てるチャンスだったのに、これでパァってことになる。
しまった……やっちまった……。
『塔矢先生も、楊海くんに悪気があったわけでないことは分かっていらっしゃるだろうから、きっと彼女にも手ごろに取り成してくれるよ』
慰めのお言葉ありがとうございます、徐彰元先生。
気休めでも、大変ありがたいです。
『だといいんですが』
ハァ……
女心はよく分からんな