東方先代録   作:パイマン

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地霊殿編その三。


其の八「怪力乱神」

 鬼と人。

 激闘の開幕は、やはり先代巫女の一撃からだった。

 回避はおろか、防御の余地すらない。

 勇儀は気が付いた瞬間には、首がもげるような衝撃によって意識を飛ばされそうになった。

 盃片手に隙も油断もあった最初とは違う。

 完全に戦闘態勢だった。

 だからこそ、初撃では身体ごと吹き飛ばされた一撃に今回は足を踏ん張って耐え抜くことが出来たが、逆にそこまで備えながらまともに喰らってしまった。

 

 ――気持ちのいい一発なんて、見栄張るんじゃなかった!

 

 朦朧とする意識の中で、少し前の自分に悪態を吐く。

 為す術も無い現状に、これがどれ程エゲツナイ攻撃なのか身に染みて実感した。

 相手の初動に全く追いつけず、それでいて芯に残るような重さの一撃なのだ。

 なんて理不尽だ、と鬼である自分の身を棚に上げて考えてしまう。

 しかし、何も掴めなかったわけでもない。

 勇儀は先代が両手を合わせた合掌を行ったのをかろうじて捉えていた。

 その動作に何の意味があるのかまでは分からないが、それがこの攻撃の予備動作だというのは理解出来た。

 理解出来ただけで対応は全く出来ないのだが、この不可避の一撃がそれを挟まなければ成立しないれっきとした一連の動作なのだと分かっただけで十分だった。

 見出した光明。そこから伸びる綱で遠のく意識を引き上げ、崩れそうな体勢を無理矢理戻す。

 

「まだまだぁ!!」

 

 自分への叱責と強がりを半々に織り交ぜた雄叫びを上げ、勇儀は突撃した。

 筋肉を硬直させ、丸太のような太い両腕で顔面を防御し、被弾覚悟で強引に間合いを詰める。

 予備動作が存在するのなら、攻撃の間隙も必ず存在する。

 あと一発は被弾することを覚悟の上で、そこへ自身を割り込ませるつもりだった。

 そして、先代からの二撃目が放たれる。

 やはり一瞬の間に行われる祈りの動作。

 次の瞬間、勇儀の全身を覆い尽くさんばかりの無数の衝撃が走り抜けた。

 

「ぐっ……連撃か!」

 

 一つの動作に一撃のみと無意識に捉えていたのは単なる甘さであった。

 見えない拳が弾雨となって勇儀を圧倒した。

 怒涛の如く押し寄せる重い衝撃に、渾身の力で耐えるが、鬼の胆力を以ってしても踏ん張った足ごとジリジリと押し返される。

 なんという――。

 なんという人間だ、あいつはっ!

 勇儀は歯を食い縛りながら、そのまま口の端が釣り上がるのを抑え切れなかった。

 胸の中ではち切れんばかりの歓喜が渦巻いていた。

 短い生しか持たない人の身でありながら、一体どれ程濃密な鍛錬の果てにこれほどの力と技術を手に入れたというのか。

 それを思うだけで尊敬の念が湧いて止まない。

 そして、それを真正面からぶつけ合える自身の幸運に感謝した。

 だからこそ、耐える。何が何でも耐え抜く。そうでなければ、彼女の積み重ねた時間に申し訳が立たない。

 皮肉なことに、先代の洗練され抜いた力と技であったからこそ、対する勇儀は自身の意地と相手への敬意によってこの猛攻に耐え抜くことが出来たのだった。

 嵐のような打撃が止む。

 凄まじい攻撃だった。

 合掌の予備動作は一度きりだったが、そこに何十発もの連撃が込められているとは予想していなかった。やはり、常識を超えた技だ。

 しかし、一撃に力を収束させたものに比べれば、連撃ではどうしても攻撃の重みが無くなる。

 それでもなお圧倒的な破壊力を秘めていたが、本気で防御に回った鬼の肉体を砕くことは出来なかった。

 防御に成功しながらも、それよって完全に足の止まってしまった現状。

 予想通り、次の攻撃までの間隙は確かに存在していたが、それは本当に短い間隔だ。間合いを詰めるには足りない。

 未だ遠い標的までの距離を睨み、勇儀は両腕の防御を開いた。

 

「■■■■■■ーーーッ!!!」

 

 地底全体を震わせるような、鬼の咆哮が響き渡った。

 攻撃に晒されながら腹の中に溜め込んでいた力を、声と共に一気に開放する。

 放たれた咆哮は、ただそれだけで形を持った力となり、弾幕となって津波のように先代へと襲い掛かった。

 雄叫び一つさえ攻撃手段となる鬼の規格外さに不意を突かれ、逃げ場は無し、飲み込まれれば即死の状況へ一瞬にして追い込まれる。

 先代は咄嗟に迎撃を選択した。

 

「波ぁぁぁーーーっ!!」

 

 鬼の咆哮を、裂帛の気合いで迎え撃つ。

 両手を上下逆さにして前に突き出す独特の構えを取って放たれた『博麗波』が、勇儀の弾幕と真正面から激突した。

 幽香の放ったものと勝るとも劣らない極大高密度の光線が弾幕を飲み込み、そのまま勇儀自身さえも光の奔流の中に巻き込む。

 弾幕ごっこ用の威力を調節した物ではない。恐るべき破壊力と殺傷力を秘めた閃光だ。

 しかし、勇儀はあろうことかその光の中を構わず突き進んだ。

 

「これではヌルイなぁ!」

 

 勇儀の肉体はまさに鋼鉄だった。

 単なるエネルギーの放出では皮膚を焼く程度のダメージしか与えられない。

 先程までの一撃や連撃こそが、異常なまでに収束され、研ぎ澄まされていたのだ。

 あれほどの一点集中でなければ、鬼の肉体を貫けない。

 押し寄せる破壊の光を物ともせず、ついに拳の間合いへ先代を捉えた勇儀は、鬱憤を晴らすかのように初撃にして渾身の拳を見舞った。

 砲弾に等しいそれが、軌道上の標的を粉砕するべく唸りを上げて迫る。

 鮮血が飛び散った。

 傷つけたのは、しかし皮一枚。

 盛大な空振りだった。勇儀の一撃は、先代の手のひらの皮を削り取った程度で、そのまま巧みに軌道を逸らされたのだ。

 

「これを受け流すか!? 当たれば、人間の肉体なんぞ粉微塵にする自信くらいはあるんだがねぇ!」

 

 驚愕と称賛を交えて、勇儀は獰猛に笑った。

 対して先代は、必殺とも言える鬼の間合いに立ちながらも全く変わらぬ静かな物腰のまま備えている。

 

「激流を制するは静水……」

 

 聖人が悟りを語るように、厳かに告げる。

 

「激しい流れにはあえて身を任せるってか。しかし、その力の抜けた拳で鬼の身体を貫けるかな!?」

 

 相手の意図など解さず、ただ腕力で殴り、脚力で突っ込む。

 鬼の戦闘方法は至って単純であり、それ故に極まっていた。

 生来備わった力こそが、最も強大な武器であり鬼の真価なのだ。

 勇儀の剛力が容赦なく先代に襲い掛かる。

 間合いの開いていた時こそ一方的な先代の攻勢だったが、至近距離での格闘戦となった途端立場は逆転した。

 当たれば一撃で致命傷となる攻撃を、先代が文字通り身を削りながら逸らし、かわす。

 言葉の通り、激流となった勇儀の猛攻を冷静に制していく先代の柔らかな身のこなし。

 結果的に勇儀の攻撃は全て空振りである。

 しかし、その拳圧は周囲のチルノや傍観者達を一発ごとに圧迫し、拳打が放たれる度に先代の体の表面を削り取った。

 もちろん、一方的な展開が通るほどこの戦いは尋常なものではなかった。

 間合いを詰めてきた勇儀に対し、今度は先代が更に踏み込む。

 もはや密着状態とも言える位置で、わずかな隙間から脇腹に拳を叩き込んだ。

 予想外の轟音と衝撃が体内で響き、勇儀は思わず呻いた。

 拳に十分な勢いを乗せられない数寸の間で、体重移動と関節の捻りによって力を収束させた打撃がありったけの霊力と共に打ち込まれたのだ。

 拳そのものが身体を貫いて背中を突き破ってもおかしくない破壊力――。

 

「……っまだぁ! これもヌルイ!!」

 

 だが、それでも鬼の肉体には致命傷とならない。

 反撃に移るべく、大きく体を後ろに逸らす。

 そこで勇儀は己の失敗を悟った。

 間合いを開いてしまった。しかも自分から。

 気付いた時には遅い。

 案の定、勇儀がその一動作を行う間に先代は祈りを済ませていた。

 至近距離で不可避の一撃が放たれる。

 間一髪、頭を守ることに成功した両腕に衝撃が走り、今度ばかりは踏ん張ることも出来ずに勇儀は吹き飛ばされた。

 地面を削り、なんとか制動を掛ける。

 追撃は無い。

 余裕があるからなのか、あるいは無いからなのか。

 勇儀は考えても仕方の無いことを考える自分に苦笑した。

 戦闘の音が止まり、沈黙が辺りに満ちる。

 一度目の攻防が終わった。二人の位置は、最初に対峙した時のような状態に戻っている。

 周囲の熱狂は上がり続けていた。

 しかし、実際に歓声は無く、誰もが拳を握って固唾を呑むしかない。

 それほどの緊迫感を、二人の闘争は生み出していた。

 

「堪らないねぇ、お前さんは……」

 

 状況は決して一方に有利ではない。

 本来ならば人間と鬼という二つの種族の間に存在する圧倒的な差を、目の前の巫女は想像を絶する鍛錬と経験によって埋めている。

 生来の力への自負を持ち、それを力の源とする妖怪には決して為し得ない人間特有の強みを、彼女は極限まで備えているのだ。

 その事実がまた、勇儀には堪らなく嬉しかった。

 

「昔は、お前さんのような人間がたくさんいたよ。その中でも極めつきだ」

 

 勇儀は素直な称賛を口にすると同時に過去を懐かしんでいた。

 先代は応じず、無言のままおもむろに履いていた足袋を脱ぎ捨てる。

 素足となった状態にどんな意味があるのか、勇儀には分からない。

 しかし、きっと何か戦いに備えた油断ならない意味があるのだろう。

 そう当たりをつけて、ますます愉快になった。

 

「地底に攫っちまおうかな? なあ……」

 

 鬼特有の欲求に任せて獰猛に笑う様を前に、先代が身構えて応える。

 

「――言葉は無粋。押し通れ!」

 

 戒めるような一喝が勇儀の緩んだ緊張感を叩き起こした。

 その言葉に我に返った勇儀は、いつの間にか腑抜けていた自身を叱責し、改めて目の前の恐ろしくも愛おしい人間と向き合った。

 何を無駄なことを考えていたのだ? 今この瞬間を一秒でも無駄にしたくないのに。

 

「応っ!!」

 

 もはや余計なことは考えまい。

 旧都の管理を任された責務、仁義、過去の栄光、全てが終わった後のこと――何もかも投げ捨てる。

 一体どれくらいぶりだろうか?

 勇儀はただ一匹の鬼として、目の前の人間との戦いに没頭することを決めた。

 

 

 

 

 鬼強すぎワロタ。

 鬼のように強い、っていう表現の意味が身に染みて分かります。

 

 紫のようなチート能力によるものではなく、幽香のような妖怪特有の怖さを備えた精神的な手強さでもない。

 ただ単純に強い。

 滅茶苦茶力が強くてアホほど頑丈な、ぶっちゃけるとカンストしたステータスを前面に出したスーパーゴリ押しタイプだった。

 こっちの攻撃は渾身のものしか防御を抜けず、逆に向こうは即死確定の攻撃をバンバンかましてくる。

 守りに入ろうものならそのまま粉々にされてしまうので、なんとか受け流してはいるが、攻撃の余波だけで体が切り刻まれていく有様だ。

 比喩ではなく、本当にこの人の拳って砲弾並なんですけど……。

 掠った部分が削り取られていくし、腕の表面に卸し金でも付いてるんじゃないの?

 このままでは卸される大根みたいに少しずつ身体を削られてその内無くなっちゃうような不安さえある。

 直撃は一切受けていないのに、私は既に血塗れだった。

 まあ、派手な見た目ほどダメージは深刻でもないんだけどね。でも痛ひ……。

 当たったらどうなってしまうのか考えたくもない。

 私は偉大なる先人の教えを言葉にして自分に言い聞かせながら、激流と向かい合っていた。

 加えて鬼の耐久力も尋常ではなく、百式観音の連撃さえ耐えて接近されてしまった。

 やっぱり『もどき』じゃ駄目かぁ。

 百式観音・九十九乃掌(つくものて)のような弾幕を張れればさすがに近づけないだろうが、あの技は念の観音像が必要だから特性を持たない私は無理なんだよね。

 おまけに、かめは……じゃない『博麗波』を受けながら突進してくるし。

 二つ名に『伝説のスーパーなんとか』って付くんじゃないの、この鬼。

 近距離戦では普通の打撃に切り替えたが、どれだけ霊力を込めてもイマイチ効果が出ない。

 特に密着状態でのリバーブローとか渾身だったんだけどな。さすが鬼だけに肝臓は丈夫なのねってやかましいわ。

 あれが駄目なら、もうカウンターでも狙うしかないぞ。

 飛んで来る大砲の弾に付いた小さな標的を狙うようなカウンターをね。

 ……うん、無理!

 あと、なんだ雄叫び一つで弾幕出せるって。しかもすげえ強力な奴。

 攻撃力、防御力共に凶悪。飛び道具も半端じゃない。

 なんとかもう一度距離を空けて対峙する状態に戻せたが、当初予定していた間合いを取っての攻勢は不可能だと悟った。

 あの身体能力相手に肉弾戦かぁ……今更だけど、私人間なのよ?

 マジで気が重い。

 緊張感で吐きそうだ。

 けど、まあ……吐いた唾は飲めんわなぁ。

 内心で苦笑しながら、更なる激戦に備えて足袋を脱ぎ捨てる。

 これは言葉を借りるなら『グローブを外した』ってところか。

 

「――言葉は無粋」

 

 なんか勇儀が私を攫っちゃう宣言しちゃってますが変な意味じゃないよね?

 とりあえず、返答代わりというか自分を奮い立たせる意味が大半な台詞を口にする。

 

「押し通れ!」

「応っ!!」

 

 やべ、カッコつけすぎた。

 空元気も元気というか、私自身も大分精神的に立ち直せたが、勇儀の方も私の啖呵を受けて物凄い気迫に満ちていた。

 なんかもう気合だけで吹っ飛ばされっちゃいそう。

 ええい、弱気になるな!

 事前に覚悟は完了しているのだ。

 とりあえず、現状で必要な要素は純粋な戦闘力だ。

 鬼の身体能力は、当然のように人間の比じゃない。

 どれだけ力を集中させても、私では地力が足りないのだ。

 今のままでは勇儀の攻撃を凌ぎ切れないし、その防御を抜くことも出来ない。

 だったら、地力そのものを引き上げるしかない。

 自分の能力を一時的に限界以上にまで引き出す、というのは実は結構よくある技だ。

 体内門を開放するとか、自身の秘孔を突くとか、肉体のリミッターを外すといった内容の技は数多い。

 そして、私もそういった技を持っている。

 今、そいつを使うのだ。

 これは正真正銘、私の最大の切り札だ。

 こういった限界を一時的に超える技に定番である、使った後の反動というのももちろん存在する。

 筋肉痛程度ならまだしも、下手すると肉裂けたり骨折れたりするし。

 あと、使用中は身体能力激上がりするから、血行も良くなって鼻血とか血涙とか耳血まで出まくります。

 ……自分で言ってて、すげえやべえ技だと自覚した。

 これ使って戦闘が長引いたことないから分からないけど、ずっと使い続けてたら最終的に私の体破裂するんじゃないの?

 なにそれこわい。自分の技なのに。

 でも、このまま戦っても勝ち目ないしね。やるしかない。

 チルノと幽香の為にも、負けることを視野に入れて戦うなんて無様な真似は出来ないな。

 この技を使って生き延びた奴はいねえ! とか、いらないフラグを立てつつ深呼吸一つ。

 まあ、実際に敵以外でこれ見せたの霊夢くらいだしね。

 漫画の中で類似の技はいろいろあるし、呼び方も様々だが、私は敢えてこう叫ぼう。

 

 

 いくぞ――界・王・拳んんッ!!!

 

 

 

 

 ドクンッ、という心臓の鼓動が先代の身体を飛び越えて勇儀にも聞こえたような気がした。

 彼女を中心に空気が震え、波打つ。

 

「何……?」

 

 明らかな変貌だった。

 身構えた先代から放たれる『力』としか表現出来ないものが増大し、周囲を圧迫した。

 対峙する勇儀はもちろん、戦いの場から一歩退いた傍観者達にすら戦慄が走る。

 目に見える変化も彼女の身には起こっていた。

 全身から吹き出さんばかりの霊力が表面化し、蒸気のように立ち昇る。

 増大した力が血管を伝って体内で荒れ狂っていた。

 目は充血し、血管が破裂して鼻血が流れ出す。

 

「……おいおい、本当にお前さんは人間かい?」

 

 前代未聞なことに、鬼の額には冷や汗が滲んでいた。

 目の前の人間から感じ取れる、漲る力と圧迫感は同族のそれさえ凌駕する。

 半ば呆然としていた勇儀は、自らが敵に圧倒された隙の代償を払わされることとなった。

 何かを砕くような音が響く。

 先代が文字通り地面を蹴り砕いて突進した音なのだと理解する前に、彼女は勇儀の眼前に到達していた。

 

「ぉ――」

 

 何かを言いかけ、結局何も言う暇はなかった。

 狙い澄ました正拳突きが勇儀の身体の中心を捉える。

 衝撃が内臓を撹拌して背中から突き抜けた。

 

「ごっ!?」

 

 勇儀が吹き飛び、慌てて避けたギャラリーの間を抜けて近くの家屋に激突した。

 崩落を始めるそこへ先代の追撃が間髪入れずに迫る。

 起き上がろうとした勇儀の下腹に肩から突っ込むと、そのまま一気に体を押し込んだ。

 あろうことか、壁を貫通して家の中へ突き進み、そのまま反対側の壁から抜けて出た。

 遅れて背後の建物が崩壊する。

 

 ――なんだ、あれは?

 ――人間? いや、違う。あれは……。

 ――鬼だろう。

 

 周囲の妖怪達は戦慄と恐怖に呆然と佇むことしか出来なかった。

 唯一、チルノだけが二人の戦闘を追ってすぐさま駆け出す。

 それに慌てて他の者が続いた。

 完全に崩れ落ちた建物を貫通して、反対側の街道からは既に戦闘の音が絶え間なく続いていた。

 タックルからマウントポジションを取った先代が、圧倒的優位な体勢で勇儀の顔面に拳を振り下ろしている。

 勇儀は拳と地面に挟まれ、頭部を小刻みにバウンドさせながら、滅多打ちにされていた。

 およそ肉体が上げるようなものではない重く鈍い音が鳴り止むことなく続く。

 もちろん、勇儀も一方的にやられているわけではない。

 勢いの乗せられない不利な状態から、鬼の腕力に物を言わせて拳を振り上げる。

 文字通り頭に血が昇り、活性化した血流によって鼻血を吹き出しながらも、先代は氷のように冷静にそれを避けた。

 反撃の拳はこめかみを削り取るだけに留まり、逆に振り下ろされた一撃がカウンターとなって勇儀の顔面に突き刺さる。

 頭蓋骨の奥にまで衝撃が届くのが分かった。

 単純な腕力と全身の瞬発力、込められた霊力さえ先程までの先代とは圧倒的に違う。鬼の肉体に深刻なダメージを刻み込む程に。

 

(一気に力が上がった。真っ当な方法じゃないだろうね)

 

 ぐちゃぐちゃに掻き回された意識の中で、どこか冷静に勇儀は推察した。

 

(こうして密着してると異常に熱い。血流の勢いが肌で感じられる。あの血も、全部体に無理をさせている結果か……)

 

 先代の体内から沸き上がる限界を超えた力を感じ取った勇儀が、次の瞬間思ったこと。

 それは戦いを始めて以来尽きることの無い歓喜と、かつてない興奮だった。

 感じていた痛みが理性という枷と共に消し飛ぶ。

 勇儀は考えることを放棄した。

 ただ、目の前の恐るべき人間から放たれる全てを感じ取り、そして捻じ伏せたいとだけ思った。

 

「うっ、おおお……!」

 

 完全に捕らえらていた体勢からがむしゃらに足掻く。

 背筋に力を込め、一気に解放して体を跳ね上げると、意図せず不意を突かれる形となった先代が勇儀の上から弾き飛ばされた。

 自由を取り戻した勇儀は、顔面を覆う流血を拭う間も惜しんですぐさま立ち上がった。

 余分なことをしている暇は無い。

 こいつ相手に、そんな余裕はないのだ。

 勇儀は自身のダメージからそう痛感しながらも、何処か楽しくて仕方なかった。

 ふらつく足で大地を踏み締め、視線を走らせた先で、既に拳が迫っていた。

 間一髪、それを避ける。

 受けて耐えられるとは思わない。

 この人間の拳は、もうその領域を超えている。

 反撃する。

 空気を切り裂く拳。

 なんてことはない。単なる空振りだ。

 一瞬の硬直を突いて、反撃への反撃。

 受けざるを得ない。

 重すぎる打撃。軋む。

 殴り返す。

 殴り返される。

 次は蹴り。

 拳にこだわる。

 殴る。

 受け。

 掴み。

 流し。

 撃。

 打。

 打――。

 

「すげえ……」

 

 傍観する者達の心境を代表して、誰かが呟いた。

 空気と大地を震わせる凄まじい攻防が繰り広げられている。

 人間と鬼。

 比べることすらおこがましい二つの種族が、互いに全く退くことなく打ち合っているのだ。

 一撃が即死となる鬼の攻撃を受け流し続ける人間に対し、洗練された一撃を身に受けながらも耐え抜く鬼。

 いずれも尋常ではない強さだった。

 息継ぎも無く、このまま永遠に続くとすら錯覚するような攻防は、しかし当然のように衰えを見せる。

 幾層にも重ねられた両者の痛みと疲労。

 汗と血の混じった物が体温で蒸発して湯気となる。

 常軌を逸した緊張の連鎖の途中で、全く当然のこととして勇儀の集中力がほんの僅かにほつれた。

 隙を逃さず先代の蹴りが唸る。

 勇儀は首を狙うそれを腕で守った。

 骨の軋む衝撃。

 しかし、それで終わらなかった。

 防御した腕が不意に引っ張られる。

 何事かと視線を走らせれば、手の指が先代の足の指によって絡め取られていた。

 そのまま蹴り脚を戻す勢いで、掴んだ腕を捻り上げ、体勢を崩す。勇儀は背中から地面に激突した。

 先代は、足の指で投げ技を行ったのだ。

 

「拙……っ」

 

 再び先代を見上げる体勢になってしまった状況に、全力で悪寒が走る。

 どれだけ警戒しても不利な状況へ追い込まれてしまう。妖怪相手に戦い抜いてきた人間が持つ巧みさと言う他ない。

 先代が両手を合わせるのが見えた。

 渾身の振り下ろしが来る。しかも、放たれれば回避することは絶対に出来ない。

 勇儀は咄嗟に地面を殴りつけると、その反動で強引に体を宙へ跳ばした。

 まさに刹那の遅れで、倒れていた場所を不可避の衝撃が抉り取った。

 攻撃力の倍増した一撃は、もはや鬼のそれと同等だ。

 地面が激震し、ギャラリーが悲鳴を上げる。

 しかし、かわした。

 地に足を戻し、逆に相手は攻撃を終えたばかり。二発目はすぐには来ない。

 

「ッシャァアアアアッ!!!」

 

 勇儀は絶好の機会を逃さず、裂帛の気合いと共に戦いに幕を下ろす渾身の一撃を繰り出した。

 鬼の拳が唸る。

 それに対して先代は、佇んでいた。

 祈ってはいない。

 ただ、全てを推し量るように勇儀を見据えていた。

 

 ――罠か!

 

 直感的に勇儀は悟る。

 しかし、もう出した拳は止められない。

 何も考えず、加速させるしかない。

 当たれば首から上を血煙に変えてしまうであろう剛拳が、先代の眼前にまで迫る。

 拳と頬が触れ合った瞬間、動いた。

 高速の拳打に合わせて首を捻り、直撃を避けながらその腕を掴み取る。

 同時に跳び付きの要領で両脚が地から離れ、片方を勇儀の後頭部に引っ掛けた。

 そして残された脚は、顎目掛けて掬い上げるように膝蹴りとして繰り出される。

 全ての動作が、一瞬の内に淀みなく行われた。

 腕を捕らえられ、両脚が虎の顎のように挟み込もうと迫る瞬間、勇儀は総毛立つほどの死を予感した。

 左脚で後頭部を押さえつけ、右脚の膝が顎をかち上げて、砕く。

 鈍く凄惨な音が響いた。

 崩れ落ちる勇儀の首を支点にして上を取り、そのまま捕らえた右腕を捻り上げて容赦なく肩まで破壊する。

 地に伏した頭部から夥しい血が流れ、地面を赤く染めた。

 怒涛の如く続いた死闘が止まる。

 決着の形となったその壮絶な光景に、誰もが言葉を忘れた。

 この世界に知る者など一人としていない、先代の繰り出した技。

 その名を『虎王(こおう)』と言う。

 即ち、それが極まったこの形こそ――。

 

 虎 王 完 了。

 

 

 

 

 それは、よく語られるように『むかしむかしのおはなし』だった。

 まだ鬼が外の世界にいた頃の、よくある鬼退治の逸話。

 人間が知恵を絞って、恐ろしい怪力を持つ鬼を討ち取ろうとするお話。

 

「……騙したのか」

 

 肩口に走った刀傷の痛みと熱さを感じながら、勇儀は呆然とその人間を見上げていた。

 そうして呆けていたのは本当にわずかな間で、今の状況を他に解釈しようがないと悟ると共に怒りが湧き上がった。

 

「騙したのかっ!!」

 

 勇儀は怒りに震えて立ち上がった。

 心地よい酩酊は消え失せ、傍らにあった酒瓶を忌々しげに踏み潰す。

 つい先程まで、それは鬼と人間の絆の証として在った物だ。

 今はもう、何の価値もない。

 いや、この酒に何かの価値を見出していたのは鬼だけだったのだ。

 

「糞っ! この霊刀でも駄目か!」

「構うこたぁねえ、手負いだ! 何度でも斬れ! 斬っちまえ!!」

「首を獲れ! 鬼の首は手柄だぞ!」

 

 茂みの中から隠れ潜んでいた鎧姿の武者達が次々と現れる。

 勇儀は自分の寝込みを狙った人間――見知った顔の、歳若い青年を睨みつけた。

 今、この場にいるのは自分と青年の二人だけのはずだった。

 二人で愉快に酒盛りをして、そして眠りに就き、痛みに目を覚ませばこの状況だ。

 最初から何もかも謀られたことだったのだ。

 

「どうしてだ……?」

「どうしても糞もねえ」

 

 勇儀は怒りと共にわずかな困惑を交えた視線を向けていたが、睨み返す青年の瞳は憎しみだけが映っていた。

 

「鬼退治だ。ずっとそうしてきただろうが」

「……確かに、お前さんは私を退治しようと何度も挑んで来た。

 だが、今夜は違うだろう?

 命を賭けて決闘をして、酒を酌み交わし、朝になれば別れ、そしてまた挑みに来る。騙し討ちなんてくだらない真似をするんじゃあない!」

「くだらない? くだらないってのは何だ、てめえの勘違えのことか? 俺がてめえと好き好んで酒を飲み交わしていたってえのか!?」

 

 ドス黒い感情が、睨みつける青年の瞳の奥で暗く燃えている。

 それを見た勇儀は己の怒りが萎えて消えていくのを感じた。

 盃を交わす時に浮かべていた青年の笑みが、途端に形を崩して記憶から消えていく。

 

「……本当に、最初から私を貶める為だけに酒を飲んでいたってのかい?」

「ああ、そうだ。何度繰り返しただろうな。腹に入ったもんは、その日の朝に全部吐き出したよ」

「そこまで……」

「憎いさ。てめえが憎くて仕方ねえってんだ! この鬼がっ! てめえは俺のおっ母を目の前で喰いやがったんだぞ!!」

「だったら、その憎しみを隠すんじゃあない! なんで私にそのままぶつけないんだ!?

 憎んでも憎みきれないってんなら、出された盃なんぞ跳ね除けて、この腹に刀を突き立てりゃよかっただろうが!」

 

 それは永遠に交差することのない、二つの種族の価値観の違いだった。

 勇儀が許せないのは、目の前の青年が自分自身にさえ嘘をついて、憎しみを隠したまま笑っていたことだけだった。

 親を食い殺したこの鬼を許せなどと思いはしない。

 ただ、自分自身を騙してまで憎い仇と盃を交わして欲しくはなかった。

 

「へっ、真っ当にやり合って鬼と勝てるもんかい。俺はてめえが殺せるなら、どんな屈辱にも耐えてやるのよ!」

「ああ、殺されてもよかった。お前になら殺されてもよかったんだ!

 お前が真っ当にこの身に一太刀でも入れられたなら、首を持っていかれようが、その後で死体に小便をかけられようが構わなかったんだ!!」

 

 鬼は人間が好きだった。

 人間は自分達の暴虐を恐れ、憎み、傷つき弱った心を奮い立たせて決死の戦いに乗り出す。

 そうして挑んで来た人間の多くは、その圧倒的な力の差に力尽きるが、それらの無念を背負って更に強くなった後に続く者が鬼を退治してのけるのだ。

 かくして、悪しき鬼は討たれ、正当な憎しみは果たされる。

 首を獲られ、それを戦利品として扱われても文句などない。

 それほどの偉業を成し遂げたからだ。

 それが人と鬼の絆だった。

 少なくとも、勇儀にとっては。

 

「誰が鬼の望むことなんかしてやるもんかい」

 

 青年は憎しみに濁りきった瞳で勇儀を睨み、再び刀を構えた。

 周りの武者達は鬼の真正面に立つような愚かな真似はせず、彼を囮にして隙を伺っている。

 何もかもが勇儀の癇に障った。

 

「騙し討ちが嫌いだってんなら、幾らでもやってやらぁ! 吐きそうな反吐を堪えて、馬鹿笑いするてめえの前で盃を空けたのもその為だ! てめえと飲んだ酒は一滴たりとも美味えなんて思わなかったぜ!!」

「……っ、馬鹿野郎がぁあああああああっ!!!」

 

 勇儀は腹の底から叫んだ。

 それは怒号のようでもあり、慟哭のようでもあった。

 

 それからどうなったのかは、よく覚えていない。

 結果的に今、自分は生きている。

 仲間の鬼が助けてくれたのかもしれないし、自力でなんとかしたのかもしれない。

 がむしゃらで何も覚えていなかった。

 いや、思い出すのがあまりにも億劫に感じるだけだ。

 人と鬼の関係は、いつの間にか終わった。

 正義の旗の下に力を合わせて立ち向かう人間の姿はなくなり、鬼の弱みを突く為に自らさえ騙しながら近寄って寝首を斬り落とす。

 人間で言うところの『知恵を絞った勇気ある者』が鬼を狩るようになった。

 一体いつから、二つの種族の間にあった『絆』が変化してしまったのかは誰にも分からない。

 少なくとも勇儀にとっては、今ではもう覚えていない『その日』のことだった。

 あの青年の遺体を自分の手で埋めたことだけは覚えている。

 そして、幾年も過ぎた。

 この幻想郷へ移り住み、更に地底へと潜っても、何処か退屈な日々が続いた。

 心の底に根付いた諦念が、ほんの少しずつ鬼の力を奪っていくのを感じながら、盃を片手にのんきに遊んで暮らしていた。

 ふと、考える時がある。

 

 ――いつまでこんな時が続く?

 

 終わりはないのか。

 人間を見限った時点で。あるいは人間が鬼を見限った時点で、本当はもう全部終わっているのではないか。

 ならば、こうして生きている自分は何だ?

 一体、どうすればよかったんだ?

 自問する内に、自然と浮かぶ答えはいつも一つだった。

 

 

 死んでおきゃあよかったのさ。

 あの日、まだこの首をくれてやれると思っていた人間がいた時代で――。

 

 

 

 

 激痛の中で勇儀は目を覚ました。

 束の間、意識を失っていたらしい。

 戦いの中で気絶するなど、本当に随分と久しぶりのことだった。

 しかし、懐かしむ気など頭の片隅にさえなかった。

 脱力した全身に、意識は戻っても力は戻らない。それほど打ちのめされていた。加えて、完全に押さえ込まれている。

 勇儀はすぐ傍にいる先代を意識した。

 追い詰められた状況で、敵である彼女を憎んだり疎ましく思う気持ちは全く湧かなかった。

 言葉に出来ない程疲労した体の中で、ただ必死に訴えかけた。

 

 ――すまないっ。

 ――すぐに起きる。

 ――まだ駄目になっちゃいない。

 ――まだまだ、愉しめるさ。私の身体は。なあっ!

 

「ぉ……おっ、おぁ嗚呼ああああああああああああああぁっ!!!」

 

 もはや雄叫びですらない。悲鳴のような絶叫を上げて、勇儀は死に掛けていた肉体を叩き起こした。

 身体が軋みを上げる。無視した。

 後頭部に体重を乗せられ、右肩は破壊されて関節が完全に極まっていたが、どうでもよかった。

 決して軽くはない先代を担ぎ上げるように、そのまま立ち上がった。

 声こそ上げないが、頭上から驚愕の様子が伝わってくる。

 

 ――そうか、驚いてくれるか。

 ――私は、まだお前を脅かす鬼で在れるのか。

 

 勇儀は嬉しくなった。

 痛みも疲労も、ここに来て気にする意味を失った。

 動かないはずの右腕を、自らの筋力で自らの骨を砕く勢いで無理矢理に振り回す。

 ここに至って限界を超えるほどに発揮された鬼の怪力が、破壊された右腕一本で先代を投げ飛ばした。

 近くにあった屋台へ激突する。

 木製のそれが粉々に砕けて、盛大な音を立てた。

 チルノの悲痛な声。

 逆に熱を帯びる住人達の歓声。

 勝負が決着したものと考えていた彼らは、不屈の鬼を声高に称えた。

 しかし、当の勇儀にとってそれすらどうでもいいことだった。

 最強と称えられる鬼は、今まさに満身創痍の状態で佇むことしか出来ていないのだ。

 この姿を省みて、一体どんな称賛を受けろというのか。

 いや、もちろん恥など感じてはいない。

 むしろ誇りだ。

 たった一人の人間にだけ認めてもらいたい。自分が立ち上がれたことを。

 他の称賛など全くの無価値だった。

 おもむろに、勇儀は口の中に溜まっていた血反吐を吐き出した。

 

「……我ながら、恐ろしい技を喰らったもんだ」

 

 地面には血と一緒に白い物が幾つも散らばっていた。

 自分の歯だ。

 人間を骨ごと喰らい、時には武器にもなる鬼の歯が、無残にも転がっている。

 折れたのではなく、顎を蹴り上げられ、噛み合った歯が衝撃で粉々に砕けたのだった。

 

「こっちは動かないねぇ……」

 

 勇儀は自分の右腕を見下ろして苦笑した。

 肩の骨を砕かれた上で、無理矢理に動かした腕は完全に死んでいた。

 もはや筋肉がピクピクと痙攣するだけで拳を握ることすら出来ない。

 

「ああ、ちくしょう……っ」

 

 悪態ではない呟きが漏れた。むしろ自分自身に向けた言葉だった。

 あれだけ完膚なきまでにやられたのに、必死こいて立ち上がってしまった。

 まったく自分は往生際の悪い奴だ。

 倒れた時点で、勝敗を決めても良かった。

 十分な結果のはずだ。

 どんな敵もこの拳で葬ってきた。どんな名刀にも斬り落とせず、どんな槍にも貫けなかった。その自慢の右腕を、あの人間は素手で潰したのだ。

 本来ならば、そこで勝負はあったはずだ。『人の身でありながら、天晴れ見事!』と称賛し、素直に負けを認めてしかるべきだった。

 人と鬼の差が在る。

 鬼が譲って、ようやく平等なのだ。

 そうして、ようやく人間を『友』として扱えるのだ。

 しかし、駄目だ。

 もう駄目だ。そう思ってしまった。

 この度し難い馬鹿は、極限の戦いの中で実感してしまったのだ。

 どれだけ望んでも得られないと思っていた、人間の身でありながら鬼と対等になるまで鍛え上げた猛者と今立ち会っているのだ、と。

 大昔から、鬼が人間との間に築いてきた殺伐とした関係。

 かけがえのない友情。

 勇儀は、先代に対してこれ以上ない程の『絆』を感じていた。

 

 ――だから、もう駄目だ。

 ――もう妥協なんて出来ない。

 ――私はこいつと、行くところまで行ってみたい!

 

 心の底から待ち望む勇儀に応えるように、瓦礫の中からゆっくりと先代が立ち上がった。

 ダメージを引き摺った、おぼつかない足取りで、それでも勇儀の下へ歩み寄る。

 全ての力を出し尽くしていたのは勇儀だけではなかった。

 先代もまた限界を超えていた。

 鬼の猛攻に晒され続けていた全身は無数に傷跡が走り、巫女装束の白い部分を真っ赤に染め抜いている。

 口と鼻から出血し、血涙さえ汗と共に流れ落ちていた。

 呼吸は荒く、何よりも先程まで圧倒されるほどに感じていた力のうねりをほとんど感じ取れない。

 やはり、あの人外の戦闘力は肉体の限界を超えて発揮されていたものなのだ。

 それが終わった今、技の反動が彼女から根こそぎ余力を奪っていた。

 それでも、その眼だけは強い意志の光を全く陰らせていない。

 勇儀は再び自分と向かい合ってくれた彼女に深い感謝と愛おしさを感じた。

 三度目の対峙。

 しかし、状況は既に終息しつつある。

 いずれも満身創痍だが、鬼と人間の身ではそれぞれの深みが違う。

 勇儀は左腕一本でも人間を捻り殺せる。しかし、先代は力尽きかけていた。

 チルノの必死の声援が続く。

 妖怪達の囃し立てるような歓声と、わずかに混ざる嘲りと罵り声がそれを掻き消した。

 どちらも微動だにしない先代には届いているのか分からない。

 ただ、勇儀は聞こえるそれらに煩わしさを感じていた。

 今この瞬間に横槍を入れるものがあるなら、それはただの声であっても無粋に思えた。

 

「へへへっ、勝負はつきやしたね勇儀さん」

 

 周囲の熱に浮かされ、最初に先代達に絡んだ妖怪の残りが擦り寄ってきた。

 

「ありゃあ、もう死にかけでさぁ。後始末は一つ、俺に任せて……」

 

 勇儀は無言で裏拳を叩き込み、その妖怪をはるか彼方へ吹き飛ばした。

 耳障りな戯言を最後まで許す余裕は、今の勇儀にはなかった。

 戦闘で昂ぶった怒気と殺気が混じり合い、騒ぎ立てていた周囲を一睨みで圧倒する。

 

「ごちゃごちゃうるせえ……邪魔する奴は、はらわた全部掴み出すぞ!!」

 

 その一喝で、浮かれていた周囲は黙り込んだ。

 周りの持ち上げる『決着』など無意味だった。

 状況の不利有利を語るなど不毛にも程がある。

 目の前の脆弱なはずの人間は、鬼と対等に渡り合うという前代未聞の所業を既に為しているのだ。

 安易な予想や、それによる油断など許されるはずがないことは勇儀自身が身に染みて理解していた。

 

「……こいつは正真正銘、私のとっておきだ」

 

 残された全身の力を左拳に集中させ、握り込む。

 

「人間相手に本気で使うのは、お前さんが最初で最後さ」

 

 切り札などと出し惜しみするような性格ではない。

 ただ、全身全霊を賭けた一撃とするには最も相応しい技だと勇儀は考えたのだ。

 拳を構えるだけで周囲が圧迫される。

 本当の決着は、この一撃でつく――。

 全ての者がそう無意識に確信するほどの力が、勇儀の左拳に収束されていった。

 傍から見る者には無意味な抵抗としか思えない先代の構えを、一切の油断無く睨み据える。

 

「四天王奥義――」

 

 星熊勇儀の最大最強の攻撃が、解き放たれた。

 

「三・歩・必・殺!!!」

 

 

 

 

 ……本気でシャレになってないわぁ。

 

 木片の下敷きになって、私は軽く絶望していた。

 勇儀マジ強い。

 もう正直、茶化して言う余裕すらない。

 鬼ってのは、東方の世界における裏ボスみたいなもんだね。人間が挑むこと自体間違ってますよ。

 まあ、その間違ったことを私は全力でやってしまっているわけだが。

 しかし、本当に勝ち目が見当たらなかった。

 持ち得る限りの技術と力を結集させて勝負を仕掛けたが、結果はこの通りだ。

 まさか『虎王』まで耐えられるとは思わんかった。

 あの技は練習相手が必要だから、実戦の中で命を賭けて必死に習得したってのに……。

 いや、妖怪相手なのだから対人戦闘術に絶対の自信などなかったが、それでもこれまでの経験上、強力な妖怪ほど人型を取り、それらに有効な技術として通じていたんだけどねぇ。

 妖怪の中でも更に別格ってことか。

 っていうか、あれで立たれたらマジでこれからどうすればいいのか分からないんですけど。

 物凄い手応えだったし、全てが噛み合った完全な技だったはずだ。

 多少の被弾覚悟だった勇儀の一撃も完璧にいなして腕を取れたし……いや、本当に完璧だったのに余波だけで顎の骨に罅入ったけど。

 被弾覚悟って、当たってたらそのまま死んでたかもしれないギリギリの状況だった。

 勇儀だって、限界を超えてまで耐え抜いたことは分かる。

 しかし、一体何が彼女をあそこまで支えているんだろうか?

 鬼のプライドって奴か、それとも別の何かか。

 分からんが、きっと人間の私には考えもつかないこだわりがあるんだろうな。

 ああ、いかん。精神面でも圧されそうだ。

 私は弱気になる自身を叱咤し、木片を掻き分けて立ち上がった。

 ぐぬぬっ……予想以上に消耗が激しいぜ。

 全身の痛みすら鈍く感じるほどに、脱力感が凄い。

 やっぱり、能力を底上げした反動か。体の中のあらゆるエネルギーを一気に出し尽くした感じだ。口とか鼻とか目とかから本当に出てますね、分かります。

 更に萎えかける戦意を、体と共になんとか叩き起こして、おぼつかない足取りで勇儀の下へ戻る。

 まだ戦いは終わっちゃいない。

 ちょっと朦朧としてきた意識に、チルノの必死な声が聞こえた。

 いかん、何て言ってるのか聞き取れん。相当ヤバイな、今の私。

 でも、声援だということは分かる。

 ちょっと力が湧いてきた。錯覚だろうけど。

 幽香は戦闘が始まってから、ずっと黙ったままだ。

 ここで不甲斐ない私を言葉責めでもしてくれたら、またもうちょっとだけ力が湧きそうな気がするんだけどね。

 ……いや、私はMじゃないよ?

 仲間の言葉なら、何でも頑張れちゃうって意味だよ?

 しかし、幽香は何も言わない。

 まあ、私に対して激励するなんて絶対にやりそうにないしね。

 私の打ちのめされた姿を見下ろして、鼻で笑っている姿を容易に想像出来てしまい、思わず内心で苦笑した。

 あ、なんか今ので更にちょっと力が戻った感じ。

 我ながら単純な精神構造だが、勇儀と再び向かい合った時には心身共にいくらか持ち直していた。

 

「……こいつは正真正銘、私のとっておきだ」

 

 ここへ来て、必殺技ですか。ハハッ、ワロス。

 更に追い込まれた状況で引き攣った笑いが浮かびそうになるが、それすら惜しんで意識を集中する。

 意味があるのか分からないが、諦めを無視して身構えた。

 勝機などほとんど残されていないだろう。

 だが、あえて狙うとするならカウンターだ。

 私自身の体力はもう限界を超えているし、決死の覚悟とか皆の想いとかそういうの掻き集めても一撃を繰り出すのが精一杯だろう。

 それでも鬼の肉体に致命傷を刻み込むには全く足りない。

 最大の攻撃の瞬間こそ、最も無防備になる……はず。多分。漫画とかのセオリー通りなら。勇儀の存在がセオリーかどうかは知らんけど。

 とにかく、その一瞬に賭けるしかなかった。

 いや、弱気になるな私! あとは勇気で補えばいい!!

 

「四天王奥義――」

 

 補うにも限度があるでしょうと言わんばかりに厳しい現実が眼前で牙を剥いていた。

 奥義とか言い出したし……。

 っていうか、もしかしなくてもこれって『三歩必殺』じゃねえか!

 原作の弾幕という形でしか見たことなかったが、あの鬼畜スペルがガチの拳で繰り出されるってどんな威力なのか想像を絶するものだ。

 元々なかったが、これで防御や回避といった選択肢は消えた。

 受け止めればそのまま粉々になっちゃうか、避ければ余波でズタズタになっちゃうかのどっちかだな。どっちにしろ死ぬ。

 まさに死中に活路を見出すべき状況。

 勇儀を中心に放たれる圧迫感を受け流しながら、私は最大に集中した。

 

「三・歩・必・殺!!!」

 

 来た。

 死ぬほど怖いけど目を逸らすな。本当に死ぬから。

 その技の名前の如く、三歩分の動きがこの技の肝となるはずだ。

 意識を集中して、見極めろ――!

 まずは一歩目。

 地響きを伴う尋常ではない足踏みだ。なるほど、最初の一歩は標的を間合いに捉える為の単純な踏み込みか。

 ……んで、その一歩で勇儀がもう目の前に居る件について。

 なんじゃそりゃ。

 全然見えなかった。多分、この一瞬の踏み込みに限ってのことだろうが、天狗並の速さだぞ!?

 おまけに身のこなしが極限まで洗練されているのか、音や気配でさえ捉え切れなかった。

 驚愕する間に二歩目。

 高く振り上げた足を、大地に叩きつける。

 それは移動の為ではなく、むしろ攻撃に近かった。

 いや、実際に攻撃だった。

 大地に向けての一撃は衝撃波を生み出し、それが地中を走って私の足元で爆発したのだ。

 土砂を巻き上げるような破壊を伴うものではない。しかし、だからこそ衝撃は直に私の足を襲った。

 くそっ、足を潰された!

 痺れるなんてレベルじゃない。内側を走り抜けた衝撃が骨を砕き、筋肉を引き裂きやがった。

 二歩目で標的の動きを封じるってわけか!

 いや、これは逃げるだけではなく反撃すら封じられている。

 この足では十分な踏み込みや体重移動が出来ないし、拳にも力が乗せられない。

 っつーか、この怪我だけで深刻なダメージなんですけど!

 驚愕に焦燥が加わり、一気に追い込まれた私の眼前で最後の一歩が踏み込まれようとしていた。

 こいつが三歩目。

 動けなくなった標的に全身全霊を込めた一撃を打ち込む為、勇儀の足が大地を踏み締めた。

 

 あ、勇儀の動きがゆっくりになった。

 

 もちろん、それは本当に動きが遅くなったわけではなく、死に瀕した私の集中力が限界を超えた結果だった。

 何度か経験がある。私は今、死ぬ一歩手前って状況なわけだ。

 ほら、走馬灯が見えるし。

 あらやだ、霊夢が子供の頃だわ。なつかしー。

 ……って、そんなの悠長に見ている場合かぁぁぁーっ!

 なんとかしないと。直撃を受けたら痛みを感じる間もなく、文字通りこの世から消し飛んでしまう!

 私は全身の動かせる箇所を総動員して決死の行動を試みた。

 足が全く動かない。崩れ落ちないように支えるだけで精一杯だ。

 踏み込みも出来ずに、勇儀の一撃からカウンターを取れるわけがない。一手遅れているのだ。

 拳を繰り出す。

 遅い。

 加速しろ。

 なんでもいい。体の中に残るありったけをこの腕一本に収束させろ。

 動かせるのは上半身のみ。

 筋力だけでは駄目だ。霊力。関節の捻り。鬼の肉体を貫く為に理想的な力の流れ。加速。回転。

 

 ――抉り込めぇ!

 

 

 

 

 幽香は湧き上がる感情を抑えきれず、テーブルの上を薙ぎ払った。

 ガシャンッと盛大な音を立てて、ティーセットが落ちた。

 中身を盛大にぶちまけ、破片と共に床を広がる。

 

「……本っ当に、どこまで私をイラつかせれば気が済むのかしら、あの馬鹿はっ」

 

 震える手を握り込んで拳を作る。

 そうして抑え込まないと、胸の内の激情が表に溢れ出てしまいそうだった。

 今、目の前に人間かあるいは妖怪が現れたのなら、幽香は一切の躊躇いもなくそいつを痛めつけて殺していただろう。

 無性に暴れ回りたい気分だった。

 強大な妖怪としての自負と品位が、荒れ狂う暴虐をかろじて抑えていた。

 先代巫女の戦う姿が脳裏に焼きついて消えない。

 

「クソッ! オニだかなんだか知らないけど、何勝手に戦ってるのよ。私とは避けてたくせに!」

 

 悪態を吐き、その内容を聞き返してみればまるで嫉妬しているようにも捉えられると理解して、幽香はますます苛立った。

 複雑極まりない内心が、幽香自身の表情にも表れている。

 引き攣ったような笑みを浮かべながら、怒りを堪えて歯を食いしばっているのだ。

 嬉しくはあった。

 自分の言った通りに、先代はいかなる相手であっても己の強さを証明し続けたのだ。

 悔しくもあった。

 そういう状況に陥ったからとはいえ、自分を差し置いて現れた妖怪と死闘を繰り広げているのだ。先を越された気分だ。

 苛立ちも当然あった。

 何故、ここまで人間相手にやきもきしなければならないのか。自分の抱く感情を一つ理解すると、そこからまた別の感情が湧いてどんどんワケが分からなくなっていく。

 そして、何よりも昂ぶって仕方が無かった。

 

「あいつ、まだあんな力を隠してたなんて……!」

 

 未だまともに戦ったことすらないのだから、知らないのも当然だった。

 花を介して見る先代と鬼の戦いは、幽香をして戦慄せざるを得ないほど激しいものだった。

 互いの死力を尽くす、まさに死闘。

 強い、と認めるしかない。

 どちらも自分にとって脅威となる程の強さであったことが、幽香を不愉快にさせた。

 しかし、それ以上に見せつけられた。

 力と技を駆使して戦う二人の様が、幽香の魂を大きく奮わせたのだ。

 気が付けば、花から送られる映像を言葉も忘れて凝視し、最後の激突の瞬間に唐突にそれは途切れたのだった。

 先代の繰り出した拳が、先に敵に当たった……ように見えた。

 ハッキリとは分からない。

 決着は見届けることが出来なかった。

 いや、見る必要など無い。

 散々見せてもらった。先代巫女の力の真髄を。

 彼女は勝ったに違いない。

 あの横から掻っ攫うように彼女との戦いを持っていった、力ばかりが強い愚かな妖怪を滅ぼし、普段通り憎らしいほど涼しげな顔で地上に戻って来るのだ。

 こっちも何食わぬ顔で出迎えてやろう。

 焦ることはない。

 ゆっくりと機を待ち、今回の傷が癒えた頃に改めて迎えに行ってやればいいのだ。

 

「疼かせてくれるわねぇ、先代……!」

 

 今度こそ邪魔者の存在しない、この私と二人きりの殺し合いの場所まで――。

 

 

 

 

 三歩必殺が放たれた次の瞬間、先代の身体が宙を舞っていた。

 力なく地面に叩きつけられ、転がってようやく止まる。

 

「お師匠!!」

 

 チルノの悲痛な声が響く。

 二つの拳が交差し、一方が弾け飛んだ。

 決着だ。

 やはり人間が鬼に敵うはずがなかったのだ。

 地底の妖怪達は、自らの祭り上げる最強の存在に対して喝采を上げ――すぐに違和感を感じて眉を顰めた。

 何故、あの人間は両手足を投げ出して倒れているのだ?

 星熊勇儀が奥義と呼ぶものをまともに喰らいながら、脆弱な人間が原型を留めているなど有り得ない。

 全員が、ようやく勝者であるはずの勇儀の方へ視線を走らせた。

 勇儀は拳を突き出したまま立っていた。

 その胸に、背中まで貫かれた大きな穴が空いていた。

 

「……天晴れ見事、ってか」

 

 勇儀は愉快そうに笑い、そして血を吐いて仰向けに倒れた。

 辺りが騒然となる。

 では、勝負の結果は――?

 

「お師匠、しっかりして! 大丈夫!?」

「……ああ」

 

 ボロ布のような有様となった先代は、体の小さなチルノに支えられてようやく、しかしそれでも自らの足で立ち上がった。

 鬼は倒れ、人間は生き残っている。

 勝敗は明らかだった。

 地底の妖怪達は誰もが受け入れることが出来ない。

 しかし、認めざるを得ない。

 あの最後の一瞬を制したのは、地上からやって来た一人の巫女だった。

 

「うう゛……っ、よがっだぁ~! よかったよぉ……!」

 

 チルノは血塗れの服に構わず顔を押し付け、安堵の涙を流した。

 勝って欲しいとは思っていた。

 その後で、この人がどれだけ強いのか周りに自慢してやろうと思っていた。

 しかし、戦いが終わった今はそんなこと思いつきもしない。

 ただ安心していた。

 押し付けた顔から感じる相手の体温が嬉しかった。

 

「……チルノ、勇儀の所まで連れて行ってくれ」

 

 様々な意味を含む周囲の視線が交差する中、先代はチルノに支えられて、倒れた勇儀の下へと歩み寄った。

 死闘の敗者に相応しいボロボロの姿で、それでも勇儀は満足そうに微笑んでいた。

 

「まいったよ。負けだ。私の完敗さ」

「そうか」

「じゃあ、鬼退治の仕上げを頼むよ」

 

 勇儀は清々しそうに言った。

 

「鬼の首を獲れ」

「……なに?」

「お前さんになら、この首をくれてやってもいいってんだ」

 

 その提案に、当事者達を尻目に周囲の方が大きく動揺した。

 この旧都を仕切る絶大な存在として長年君臨し続けていた星熊勇儀が、今この瞬間己の命を差し出しているのだ。

 あまりに唐突な終わりだった。

 彼女を恐れ、敬っていた多くの妖怪達が肯定も否定も出来ない心境で、ただ固唾を呑んだ。

 

「……断る」

 

 先代は疲れた仕草で首を振った。

 その返答に、勇儀は更に言い募る。

 

「すまん、見栄張った。

 くれて『やってもいい』じゃない。お前さんにこの首をくれて『やりたい』んだ。

 きっちり私を退治してくれ。力の勇儀はここでお終いだ。死ぬには十分すぎるほど、いい喧嘩だった」

 

 勇儀の顔に、敗者特有の諦めや卑屈さは全く浮かんでいない。

 彼女は本心からそう言っていた。

 心の底から満ち足りていたのだ。

 長い年月生き長らえた命。終わらせ時は、今まさにここだ。

 勇儀は安らかに目を閉ざした。

 

「…………断る」

 

 そして長い沈黙の後に、先代が出した答えはやはりそれだった。

 疲れ果てた体で、それでもはっきりとした意思を込めて告げる。

 返答を聞き入れ、勇儀は大きくため息を吐いた。

 

「そうかい。残念だ」

 

 落胆の声ではなかった。

 もちろん内心はまったくその通りだったが、負けた身を弁えたのだ。

 敗者が勝者に何かを叶えてもらおうなどおこがましい話だ。

 先代の判断に文句をつけられるはずもなかった。

 ただ、この最高の瞬間を逃して生き長らえた自分の残りの生が一体どんな意味を持つのか、考えるのが少し億劫になっただけだ。

 より一層疲れ果てたように覇気を失った勇儀を先代は黙って見下ろしていた。

 

「……いずれ、私の娘がお前の前に現れる」

 

 しばらく何かを考え込んでいたが、おもむろに勇儀へ語りかけた。

 

「博麗の巫女として、この地底で起こる騒動を解決しにやって来る。

 そして、きっとお前と勝負することになるよ。あの子に退治される楽しみを、それまでとっておくといい」

「……強いのかい?」

「とても。自慢の娘だ」

 

 そう言って、先代はにっこりと笑った。

 思い返せば初めて見る相手の笑顔だ。

 こんな顔も出来るのか、と勇儀は思わず見惚れていた。

 

「やれやれ……来年のことを話せば、鬼が笑うもんだ。

 何も決まっていない先のことをこれみよがしに語るのは、私も嫌いだったんだがね。だって嘘みたいなもんだからさ。

 ……でも、不思議なことにお前さんが言うと、本当にそうなるように思えちまうよ。きっと、嘘じゃないんだろうなぁ……」

「ああ。嘘じゃない」

 

 先代はチルノから離れ、苦労して勇儀の傍にしゃがみ込むと、彼女にだけ聞こえる小声で最後に告げた。

 

「――だ」

「え?」

「私の名前。今では地上で知っている者も少ない」

 

 勇儀の意識は朦朧とし始めていたが、その名前だけはしっかりと聞き取り、記憶に刻み込んだ。

 最初に宣言した通り、自分はこれを死ぬまで忘れることはないだろう。

 先代を見上げ、嬉しそうに微笑み返す。

 

「そいつは、いい自慢になりそうだ……」

 

 そして、勇儀は眠るように気を失った。

 次に目を覚ます時が、少しばかり楽しみになっていた。

 

 

 

 

 束の間、気を失っていたらしい。

 私は目を開けた。

 目覚めることが出来たということは、私は死んでいないってことだ。

 ……いや、油断出来ないか。この世界って普通にあの世とかあるし。

 とりあえず、気絶する前より酷くなった全身の激痛が生きている証だと思おう。

 うぐぐっ、マジで痛いっす……泣きそう。

 こうしてのんきに痛がっていられるということは、どんな形であれ勇儀との勝負はついたということだろう。

 あの一瞬の交差で、もし私が負けていたのなら文字通りこの世に存在していないはずだしね。

 

「お師匠、しっかりして! 大丈夫!?」

 

 駆け寄ってきたチルノに支えてもらって、なんとか立ち上がる。

 全然足に力が入らない。

 これ、治ってもちゃんと歩けるようになるのかなぁ?

 不安を押し込んで、私は改めて状況を見定めた。

 私、ボロボロ。これは言うまでもない。

 チルノは泣いている。ごめんねぇ、私が不甲斐ないばかりに不安にさせてしまったようだ。

 それと、視界の片隅でハラリと白い花びらが舞うのを見て、髪に手を当てた。

 あ、幽香の花が散ってる。

 ……まあ、あれだけの激戦を繰り広げたんだから、髪に挿した花とか普通に散ってもおかしくないんだが。

 いかん、意外とショックだわ。折角、幽香から貰った物だったのに。

 場違いな気持ちの沈み具合の中で、ようやく本題となる勇儀の方を見やる。

 絶対に倒せないと思っていた恐るべき鬼は、大の字になって倒れていた。

 私の勝ち、ってことでいいのかな?

 全然実感が湧かないが、それは周りの妖怪達も同じようで、私と勇儀を困惑した視線で交互に見ている。

 私はチルノに頼み、勇儀の下まで連れて行ってもらった。

 倒れた勇儀の胸には拳大の穴が空いていた。

 これは私がやった……んだよな? 正直、あの時はがむしゃらだったのでハッキリと覚えていない。

 予想外というのが本音だ。

 鬼の肉体をここまで完璧に破壊することなんて、少なくともあの時の私は不可能だと考えていた。

 勇儀の攻撃より先に当たったのは日々の正拳突きの修行の賜物だとして、カウンターがそこまで効果を発揮したのか?

 それだけとは思えない。

 あの時繰り出した一撃は、踏み込みの出来ない状態で止むを得ずに上半身のバネのみで放ったものだ。

 言うなれば、刀を使わない『牙突・零式』だ。

 技名を叫ぶなら『ガトチュ・エロスタァイム(巻き舌の発音で)』だ。

 ……まあ、その辺は冗談として、刀を使ってないので牙突と呼ぶのも微妙な感じかもしれない。

 実際には上半身のバネと、少しでも拳に貫通力を持たせる為に各種関節の捻りを極限まで加えた変則的なコークスクリューブローとも言えるものだった。

 とにかくありったけの力を収束させ、小宇宙(コスモ)を燃え上がらせて放った渾身の一撃だったが、さすがにこの破壊力は予想以上だ。

 よく見れば、胸の穴は螺旋状に服と肉を巻き込んで体内を抉っている。

 打ち込まれた力が回転しながら貫いた跡だ。

 純粋に拳の捻りだけでこうなるとは思えない。拳に込めた霊力まで回転してたっていうのか? っつか目に見えない霊力が回転するってどういうこと?

 ふーむ、予想以上の破壊力といい、これはひょっとして『黄金の回転』ってやつなのだろうか?

 ……うん、その辺を追求する為にも新しい修行をやってみたいな。

 死ぬ思いをした戦いの後で、もう次の修行を考えてしまうあたり私も相当アレな人間だった。

 とりあえず、今はまだ生きている勇儀に意識を向ける。

 うっ、今更朦朧としてきた。

 血が足りないよー……。

 

「まいったよ。負けだ。私の完敗さ」

 

 勇儀が自らそう認めることで、ようやく勝敗がはっきりと決まった。

 そうか。私の勝ちか……。

 安心するよりも先に呆然とするんですけど。

 なんか一気に疲れと痛みが襲ってきたわ。

 しかし、次に勇儀の口にした言葉で、そんなのんきな気持ちも吹き飛んだ。

 いや、首を獲れって……私はそこまで徹底的に退治するつもりなんて当然ない。

 むしろ、あの星熊勇儀と本気の喧嘩をやらかした現状を今更になって疑問に思うほどだ。

 こんな行くところまで行っちゃうとは、当初全然予想していなかった。

 断る私に対して、しかし勇儀は更に頼み込んできた。

 私には鬼の価値観や、その眼で捉えている世界がどんなものなのかは分からない。

 ただ、勇儀の頼みは真剣であり、本気のものだというのは痛いほど分かった。

 ……えぇ、どうすればいいの?

 正直に言うと、私は勇儀を殺したくはない。

 それは原作の未来がどうこうといったくだらないものではなく、この幻想郷の人妖全てに対する想いと、拳を交えてそれが更に強くなったことからだ。

 本気で死にそうな目にあったが、私は勇儀との戦いから禍根を一切残さなかった。

 グチャグチャのボロボロでもうウンザリな状態だが、戦いが終わった今、ちょっとした清々しさすら感じていた。

 勇儀自身が言ったように、私にとってもこれは『気持ちのいい喧嘩』だったのだ。

 いや、全然余裕ってわけじゃないけどね。もう一回やろうって言われたら今度こそ逃げます。

 でも、まあとりあえず。

 勇儀には悪いが私の答えは変わらない。

 何より私は勝ったのだ。

 勝者が敗者の言葉に揺らいじゃったら示しがつかないってね。ここはハッキリと断らせてもらいます。

 その代わり、なんか落ち込んだっぽく見える勇儀にはフォローも忘れない。

 近い将来起こるだろう、地霊殿の異変をそれとなく仄めかしておく。

 霊夢や魔理沙なら、勇儀にとってもいい勝負相手になると思うんだよね。

 その頃には地底でもスペルカード・ルールが普及しているだろうから、私みたいに死ぬ一歩手前まで無理をする必要も無し。ずっと健全な決闘が出来るはずだ。やったね。すごいね。

 ……くそっ! 私ももう少し後に地底へ来てればよかったんだ!

 何故に私だけこんな極限状態に追い込まれにゃならんの……。

 

「不思議なことにお前さんが言うと、本当にそうなるように思えちまうよ。きっと、嘘じゃないんだろうなぁ……」

 

 そりゃまあ、ある意味確定した未来の出来事ですから。

 原作がどうこうなどと言う訳もいかず、私は誤魔化すついでに自分の名前を教えておいた。

 勝負が決まったら教えるって約束だったしね。

 話を終え、全ての決着を果たすと、眠りに就いた勇儀から視線を外して空を仰いだ。

 ああ、地底だから空ないわ。

 駄目だ。いい加減意識を保つのが限界に来てる。

 でも、ここでぶっ倒れたらその後どうなるんだろ?

 旧都の元締めである勇儀を殴り倒しちゃったんだから、他の妖怪に報復されるとか……私はともかく、チルノが巻き添えを食らうのはマズイ。

 うぅ、どうしたものか……。

 

「これはまた、随分と派手に暴れたものね」

 

 気を抜いたら止まってしまいそうな思考回路を必死で回して悩む私に、天恵とも言える声が聞こえてきた。

 現れたのは、地霊殿の主である古明地さとりだった。

 メイン読心キタ! これで、勝つる……!

 

 ――冷静に考えたら、私の知識ってこっちにバレたらヤバイものばっかりじゃね?

 

 

 

 

「これはまた、随分と派手に暴れたものね」

 

 さとりがその場に現れると同時に、畏怖と忌避の念が辺りに飛び交った。

 なんということはない。

 さとりにとって、そんな反応は日常茶飯事のことだ。

 冷静に周囲の妖怪達の思考を読み取りながら、断片的な情報を繋ぎ合わせ、それとこの場の状態を分析して、正確な状況と経緯を理解する。

 

「……人間が、あの星熊勇儀を?」

 

 さとりをしても動揺を隠せない事実が浮き彫りになった。

 地上からやって来た巫女がたった一人で鬼と渡り合い、挙句の果てに勝ってしまったというものだ。

 破壊された家屋や地面に広がる夥しい量の血痕を見れば、特大の戦闘があったことは納得出来たが、その結果は全くの予想外だった。

 件の巫女に視線を移す。

 満身創痍としか言いようのない有様だった。

 自身の力で立つことも出来ず、傍らの妖精に支えられてかろうじて立っている。

 弱りきったその姿からは勝者の威厳など全く感じなかったが、更にその傍に倒れた勇儀の姿を見れば、嫌でも納得せざるを得なかった。

 この人間は鬼との死闘を制したのだ。

 これは思った以上の厄介事だ、と。さとりは警戒心をあらわにした。

 鬼を打ち倒すような相手に、真っ当な戦い方では勝ち目などない。

 そもそもが戦う状況などに持ち込まれないよう、慎重に対応する必要があった。

 

「貴女が地上からやって来たという巫女ですか」

 

 こちらを睨みつける妖精の単純な警戒と疑念の心は無視して、第三の眼を問題の巫女に向ける。

 深いダメージを受けていることは間違いないようだ。

 疲労で朦朧とした意識は酷く読み取りにくい。

 

「私は地霊殿の主をしています、古明地さとりです」

 

 まずは自分から名乗る。

 相手がそれに対してどう応じるかは知らないが、その時思い浮かべた名前を読み取り、それを切り口にして心を暴く。

 それがさとりの交渉事における常套手段だった。

 心を読み取れば脅すことも容易く、話の流れを主導することが出来る。

 さとりが地底の妖怪たちに忌み嫌われる理由だった。

 

(さとり……この娘が……)

 

 今にも途切れそうだが、目の前の人間の思考が見え始めた。

 さて、では貴女の今考えていることは――。

 

(……いいか、みんな。『小五』と『ロリ』では単なる犯罪だが、二つ合わされば『悟り』となる)

 

「…………はあ?」

 

 目を疑ったと言えばいいのか、耳を疑ったと表現すればいいのか。

 とにかく、さとりは思わず間の抜けた声を上げるしかなかった。

 

(でも、実際は『悟り』じゃなくて『覚』って書くのが正しいらしいよ。っていうか、さとりん……)

 

「さと……っ、えぇ?」

 

(……ふつくしい)

 

 不意に心の声が途切れる。

 全く予想だにしない心の内を見て混乱の極みにあったさとりは、相手が気絶して思考が止まったのだと理解するのが一瞬遅れてしまった。

 完全に力を失った体をチルノだけでは支えきれず、さとりに向かって倒れ込む。

 さとりは小さな悲鳴と共にその長身の下敷きになった。

 

「お、お師匠!? コラ、お前さっさとお師匠からどけ!」

「……それはこっちの台詞よ」

 

 圧し掛かる重さと、むせるような血臭に今更ながら巫女の状態の深刻さを察して、さとりはため息を吐いた。

 厄介な問題だらけだ。

 この人間を死なせるわけにはいかないだろう。

 怪我以外の理由からも、ここに放置はしておけない。

 旧都で最大の実力者を倒してしまったこの人間は、一体何が目的でこんな所までやって来たのか。

 そもそも、この人間は一体何者なのか。

 

「美しいって、なにそれ……」

 

 第三の眼で読み解いた、偽りや修辞の入り込む余地のない心の言葉を思い出して、さとりはわずかに顔を赤くした。

 こいつは一体何を思って、あんなことを考えたのか。

 目下、あらゆる厄介事の中心にいる人間だったが、そこだけはちょっとだけ興味を抱いた。

 

 ……ところで、一番謎だった『ロリ』とは何のことだろう?




<元ネタ解説>

「虎王完了」

コミック「餓狼伝」の中で出てくる強力な技。それが極まった瞬間。

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