東方先代録   作:パイマン

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地霊殿編その一。


地霊殿編
其の六「地霊殿」


 風見幽香は最強の妖怪であると自負していた。

 数多くの妖怪が生息するこの幻想郷において、自らの最強を証明することは容易なことではない。

 当然、他にも存在する強力な妖怪達は幽香のその自信を驕りや自惚れであると捉えている。彼女達もまた同じような自負を抱えているからだ。

 しかし、妖怪の強みというものはそうした自尊心や強烈な個性にある。

 人間の恐怖によって形作られる妖怪とは、自身の持つエゴをそのまま力へと変えるのだ。

 そうした例は人間にも多く、歴史上の偉人の多くは自らへの過大なまでの自信によって大きな行動力や決断力を得ていた。

 もちろん、彼らの結末の多くがその自負心によって判断を誤り、悲劇的な終わりを遂げている。

 人間も妖怪も変わりは無い。驕りや自惚れは、自分自身以外の力を侮り、いずれ破滅を招く。

 妖怪の強さとは同時に弱みにも繋がるのだ。

 風見幽香もまた例外ではない。

 

 その日、幽香は一人の人間と出会った。

 

「――これはまた、珍しい迷い子ね」

 

 辺り一面を向日葵に囲まれた『太陽の畑』と呼ばれる場所は、幽香にとって自らの領土も同然だった。

 時折、妖精や霊の類が迷い込み、遊び回るが、それらは彼女にとって花に誘われた虫程度の認識でしかない。

 この場所に侵入を図る者は、幽香が認めなければ、悪意や意図があろうとなかろうと全て害虫だった。

 向日葵の群れが丁度途切れる畑の端で、巨大な異形の妖怪が倒れ伏していた。

 頭部を跡形も無く吹き飛ばされ、既に絶命したそれの傍には紅白の巫女服を着た女が一人佇んでいる。

 

「貴女が噂の博麗の巫女かしら?」

 

 その妖怪がどれほどの強さかは分からない。しかし、少なくとも巫女は無傷であった。

 人間の身でありながら、妖怪を一方的に打ち倒す者の正体に幽香はそう当たりを付けた。

 圧倒的強さによって幻想郷の妖怪を素手で滅ぼす人間の守護者にして妖怪の天敵。歴代最強の博麗。

 それらの噂を幽香は以前より耳にし、興味を持つと同時に不快感を感じていた。

 

「ここが何処だか、理解していないのでしょうね」

 

 幽香は微笑みながら、ゆっくりと巫女に歩み寄った。

 その表情に反して放たれる威圧的な様は、野獣が牙を剥き、爪を突き立てながら獲物ににじり寄るも同然の姿である。

 

「人間の分際で、はやし立てられてのぼせたのかしら?」

 

 目の前の巫女の存在は、風見幽香の根幹にある強烈な自負心に相反するものである。

 幽香にとって人間とは、無造作に毟り取られる雑草のような存在でなければならなかった。

 

「殺されても、文句は言えないわねぇ」

 

 幽香の静かな死刑宣告に対して、巫女は無言を貫いていた。

 これまで偶然迷い込んだ人間や、妖怪退治という身の程を違えた人間を何度も相手にしてきている。いずれも、幽香の気まぐれによってその生死は決定していた。

 例外なく共通することは、全員が幽香の殺意に触れるだけで平伏し、無様に命乞いを繰り返すことだった。

 しかし、目の前の巫女はこれまでとは違う。

 恐れはもちろん、動揺すら見せず、身構えることもしない。

 その静かな様子がまた、幽香を苛立たせた。

 

「……ふんっ」

 

 幽香はそれ以上言葉を重ねなかった。

 まずは足か腕を吹き飛ばそう、と。相手をただ殺すのではなく、その不遜な態度の元になる精神から折ることに決めた。

 無くなった四肢を見て、取り返しのつかない後悔に泣き喚くがいい。

 厳かとも言える、ゆっくりとした動作で幽香の片手が持ち上がった。

 そして次の瞬間、意識が一瞬飛んだ。

 腕が上がりきる前に、幽香の頭部が轟音と共に弾き飛ばされていた。

 首から上が無くなるような衝撃に襲われ、幽香は為す術も無く、そのまま体ごと後方へ吹き飛び、地面に叩き付けられて転がった。

 

「ぁ……?」 

 

 何がなんだか分からなかった。

 視界が赤く染まり、口の中に広がる熱と苦味が全て自分の血によるものだと理解するのにしばらくの間が必要だった。

 

「な、何を……っ」

 

 ダメージを自覚するより先に立ち上がろうとして、混濁する意識がそれを阻む。

 再び無様に地面に這う形になり、ようやく自分の陥った状況を察すると、耐え難い怒りと羞恥心が湧き上がった。

 何かをされた。

 何かは分からない。

 ただ、その何かにやられた。

 ――たった一撃で!

 

「ふざ、け……ぐぇ!?」

 

 胸の内で燃え上がる激情を原動力としても、幽香は上半身を起こすことすら許されなかった。

 口の中で異物を噛んだ。地面だ。自分は今、土を舐めている。

 途端に、全身の血液が沸騰するような怒りが湧き上がるが、それでも立てない。

 完全に無防備な状態で、強烈な一撃を頭部に受けたのだ。

 幽香は底知れぬ憎悪をもって、自分を地面に伏させた相手である巫女を睨み上げた。

 巫女は、最初に対峙した時と同じ姿勢のまま無造作に佇んでいる。

 一体、どうやってあの状態から自分を昏倒させるような威力と速さの攻撃を繰り出したというのか?

 当然の疑問は、巫女が自分を見下ろしているという状況を理解するだけで消え失せた。

 体の内側が焼け付きそうな屈辱と殺意は、しかし虚しく空回りをするだけで、混濁した意識を戻すことや体を動かすことに繋がらない。 

 やがて、わずかな間幽香を見つめていた巫女は、そのまま背を向けた。

 幽香にとどめを刺すこともなく、足早に去って行く。

 

「ま……て……!」

 

 幽香は縋るように、その背中へ呼びかけていた。

 立ち上がることも出来ない今の彼女は、傍らに横たわる名も知らぬ妖怪の死体と同等だった。

 

「待ちなさい……っ!!」

 

 必死の声は、届いていないのか無視されているのか、巫女の足を止めることない。

 やがて太陽の畑には地面を這う妖怪が一匹と死体が一体残されるだけになった。

 巫女の立ち去った先を睨みつけていた幽香の視界が歪み、滲んだ。

 

「待ちな、さいよ……! ちくしょう……まてぇ……クソッ! 畜生っ!!」

 

 幽香は自分が涙を流していることも気付かず、何も出来ない己の無力さを呪いながら地面を殴り続けた。

 ――油断したんだ。

 ――本気を出した私なら、この程度で倒れない。

 喉下まで出掛かった言葉を、幽香は歯を食い縛ってかろうじて飲み込んだ。

 こんな『言い訳』を考えた時点で、既に己の度し難さに吐き気を覚えていたが、もし口にしてしまったら風見幽香を支えているものが根元から折れていただろう。

 その日まで、風見幽香にとって己の自負心は強みであり力の源であった。

 幽香は今日、完膚なきまでに敗北した。

 しかし、その敗北を受け入れることは出来なかった。もし受け入れてしまうようなら、風見幽香という妖怪は終わりだ。それが彼女の持つ力のパラドックスであった。

 以来、風見幽香は苦しみ続けることになる。

 彼女の心に残った敗北感と屈辱を自らの手で拭い去る、その日まで――。

 

 

 

 

 人里では妖怪が暴れることは禁じられている。

 しかし逆に言えば、それさえ守れば、妖怪も人里を訪れることが許されていた。

 風見幽香は、時折人里に現れる。

 理由は、単なる散策であったり、買い物であったり。強大にして危険な大妖怪だと知れ渡ってはいるが、その実、分別を持った紳士的な人柄であった。

 ただ一つの例外として、彼女が里の診療所へ向かう場合は、住人達も警戒して近づかないようにしなければならなかった。

 その時の彼女が明確な理由を持っているのか、気まぐれなのかは誰にも分からないが、少なくともそこへ向かう時、風見幽香の目的は一つに限られるからだ。

 彼女は、現役を退いた今も先代の博麗の巫女を強く敵視していた。

 

「――では、先代。少なくとも一週間以内には戻られるということで、皆に伝えておきます」

「ああ。そう長くはかからないだろう」

 

 幽香が診療所の近くにまで来ると、その入り口の前には目的の人物と共に邪魔な人物が話し込んでいた。

 先代巫女と上白沢慧音だ。

 いずれも人里の守護者として訪れる妖怪達への強い抑止力となっていたが、幽香にとってはそういった面は何ら意味を持たなかった。

 幽香の目的は単純に、先代巫女と戦うこと。そして、慧音はそうなる過程での邪魔者程度の認識だった。

 少し面倒だ、と慧音の存在を鬱陶しく思いながら、それを柔らかな物腰と優雅な微笑で隠して二人に歩み寄る。

 

「あら、先代は今日はお出かけの予定かしら?」

「むっ、風見幽香!」

「幽香か、久しぶりだな」

 

 幽香の笑顔の下にあるものを見抜き、警戒をあらわにする慧音と、それとは対照的に自然体のまま小さく笑みすら浮かべる先代。

 何度顔を合わせても変わらない。先代のこの友好的な態度は、幽香にとって不愉快そのものだった。

 自身の敵意が空回りしているような空しさを感じさせる。まだ慧音の対応の方が心地よかった。

 出鼻を挫かれたような悔しさを内心に押し隠し、先代に明確な敵意と殺意を向けて笑いかける。

 

「ええ、久しぶりね。今日は、用があって来たの」

「そうか。すまない、今日は私も外せない用事があるんだ。しばらく、診療所も留守にする必要がある」

「あらそう。で? それが私の用を蔑ろにすることと何か関係があるかしら?」

「貴様……っ」

 

 あからさまな幽香の態度に、傍らの慧音の方が激していた。

 しかし、そんなことは幽香にとって気にもならない。

 慧音ではなく、目の前の人間が心動かされなければ何の意味もないのだ。

 

「幽香の用とは、私と戦うことか?」

「いいえ、殺し合うことが目的ね。どちらかが死ぬまで、決着と認めるつもりはないわ」

「幽香。何度も言っているが、私はお前と戦うつもりは無い」

「こちらも何度も、こう返しているわ。『私には関係ない』」

 

 先代巫女に敗北して以来、幽香は幾度も戦いを挑んでいた。

 相手の同意など望んではいない。

 ただ一つ、不意打ちによる一方的な勝負の決着を拒む以外のあらゆる方法で戦いを仕掛けていた。

 一度は周囲の人間を巻き込んで、この人里を戦場にしかけたこともある。

 慧音や八雲紫など多数の妨害に遭うことで、自分の望む決闘とするには分が悪すぎると悟り、それ以来人里で襲い掛かるような真似はしていないが。

 いずれにせよ、幽香の敵意と殺意は徹底したものであり、それは博麗の巫女が代替わりしてからも続いている。

 

「例の紅い霧の異変、だったかしら? 新しい決闘のルールが広まったらしいわね」

「スペルカード・ルールだ。お前の望む命を賭けた私闘は、このルールに背いている」

「そのようね」

 

 慧音の言葉に、幽香は同意するように頷いてみせた。

 しかし、内心がそれと全く正反対であることは誰の目にも明らかだ。

 その意思が、幽香を今日ここへ来させた理由でもあった。

 

「強さよりも美しさを競う。強い妖怪ほど優雅であれ、という考えには賛同するわ。

 季節が変わるように、この幻想郷の変化を私も受け入れましょう。新しい形の決闘を楽しむのも悪くはない」

「ならば……」

「でもね、貴女だけは駄目よ」

 

 慧音を無視し、無言のまま自分の話に聞き入る先代を睨みつける。

 いつもそうだ。初めて出会った時から変わらない。

 静かで揺るがない姿が、あの日の屈辱を思い起こさせる。

 

「貴女との決着を、そんな戯れで終わらせるわけにはいかない」

 

 幽香は当時から変わらぬ先代巫女への憎悪と同時に、時を経た今わずかな感謝を抱いていた。

 短い時間で衰え、死んでいく人間の身でありながら、よくぞ今まで揺らぐことなく在り続けていてくれた、と。

 だからこそ同時に、決着にこだわる、ある種の焦りがあった。

 今回の新しいルールに、先代は従うだろう。

 現役を退いた彼女に、更に戦いの場から遠ざかる理由を与えてしまう。

 そして今回の変化が、幽香に改めて時の流れを自覚させた。

 このまま、ただ無為に時が過ぎれば、人間である彼女には逃れようのない変化が訪れる。

 老い、衰え、そして死ぬ――。

 その後に残されるのは、もはや決して拭うことの出来ない『敗北』という事実を刻まれ、『最強』という空しい幻想を抱えた妖怪が一匹だけだ。

 

「決着を付けましょう。今、すぐに」

「……それは出来ない」

「場所は別にここでなくてもいいわ。ただ、もうのらりくらりと避け続けることは許さない」

 

 幽香は差していた日傘を畳んだ。

 それは戦闘態勢に入ったことを示している。

 大妖怪の本気を感じ取り、慧音が険しい表情で身構えた。

 

「乱心したか、風見幽香!?」

「いいえ、私は冷静よ半獣。

 こう考えている。『先代巫女は戦いを拒み、私が仕掛ければ逃げるだろう』――それでは意味がないわね。

 これまでも、こいつはようやく戦いに巻き込めたと思ったら、防戦や回避に全力を尽くして、自ら挑むことはしなかった。

 そんなものは勝負とは言えないし、その終わりも決着とは認められない。じゃあ、どうやってその気にさせましょうか? 適当にその辺へ一発撃ち込んでみる?」

 

 幽香が日傘の先を無造作に真横へ向けると、慧音が今にも飛び掛からんばかりに身を乗り出した。

 悪戯が成功した子供のように、幽香は笑った。

 

「……でも、そうもいかないわね。

 そこの半獣の妨害なんて大した問題ではないけれど、戦う意思を持った貴女相手に矛先を逸らすことはあまりに愚行だわ」

 

 幽香は敗北した時の、一瞬にして圧倒的な決着を心に刻み込んでいた。

 未だに受け入れ難い事実であるし、屈辱に塗れた記憶だが、それ故に彼女は二度と油断することはなかった。

 目の前の敵とは全力で戦わなければならない。

 そして、まずは敵となるように仕向けなければならない。

 

「となると、やっぱり力押ししかないわねぇ。

 貴女が拒もうが関係ないわ、先代。私は貴女に戦いを仕掛ける。逃げても、追いかける。貴女が反撃をするまで一方的に攻撃する。

 貴女の決意や精神力が並々ならないことは知っているわよ? でも、ここは人里。周りの人間はどうかしら?」

 

 二人の一触即発の雰囲気を感じ取り、とうに人の気配のなくなった周囲を指して幽香は笑った。

 

「私は貴女だけを狙い続けるけれど、その攻撃が外れたら何処かへ当たるかもしれない。攻撃の余波が何かを壊すかもしれない。誰かを傷つけるかも――。

 私か貴女の力が尽きるまでそれは続けるつもりだけれど、周りの人間は何処まで付き合えるかしらね?

 その半獣や、他の助けが来るまで待つ? でも私は諦めないわよ。貴女が居るというだけで、そこは私が戦いを仕掛けるのに十分な理由となる」

 

 駄目押しのように、幽香は凄まじい殺気を放つことで自らの真意を示した。

 肌がひりつくようなそれを、先代は不動のまま受け止めていたが、傍らの慧音は冷や汗を止められなかった。普通の人間ならば腰を抜かしているだろう。

 幽香が本気で戦闘態勢に入れば、こんなものが周囲に撒き散らされるのだ。

 

「私は貴女だけが目的。

 案外、今の博麗や八雲紫は無用な被害を抑える為に、貴女を差し出すかもね。例えそうでなくても、貴女は存在するだけで周囲にとって厄種となる。

 人間が同じ人間を受け入れるのはね、利益があるからよ。実益面でも精神面でもいいわ。受け入れても良い益があるから、友好的になる。せめて無害である必要がある。

 でも、人間なんか糞にも思っていない大妖怪に追い回される者なんて、例え元が巫女だろうが人間の守護者だろうが、そうなった今は拒絶の対象でしかないわよね?」

「貴様は……!」

「人間は自らを脅かすものを常に追い立てる。妖怪のように、貴女もそうなるわ。

 ねえ、そこの半獣もそう思うでしょ? 貴女なら身体の半分に、それこそ身に染みて理解出来ているのではなくて?」

「貴様という奴はぁっ!」

 

 幽香の挑発に、慧音は激昂した。

 我を忘れて飛び掛らんとし、幽香は笑顔を持って受け入れる。

 しかし、それを止める者が在った。

 慧音の眼前に腕を差し出して、先代が制止を掛けていた。

 その顔に激しい感情の色はなく、ただ瞳に静かな決意が宿っている。

 横顔を見た慧音が息を呑んで、昂ぶらせていた感情さえ冷えてしまう程強い意志でありながら、それは幽香の望んだものでは決してなかった。

 

「……もしもそうなったら、私は急いで逃げよう」

 

 叫ぶわけでも、力を込めるわけでもなく、囁くように言葉が紡がれる。

 

「そしてまた、ほとぼりがさめたら」

 

 穏やかさと静かさの中には、呑み込まれそうな程の覚悟があった。

 

「静かに、寄り添うよ」

 

 先代が言い切ったその後には、ただ沈黙だけが残った。

 その場の誰も、何も言うことは出来ない。慧音も幽香も口を噤んで聞き入っていた。

 慧音は戦う寸前にまで緊張させていた全身から力を抜き、呆けたように佇むだけだった。

 先代の出した答えが、熱いうなりとなって胸の奥で渦巻いている。

 この人にとって、人間を守るという行為は責務や義理などではない。ただ単純に、多くの人と共に生きることの一部なのだ。慧音の心には理解と感動があった。

 そして幽香は、一瞬呆気に取られた後すぐ思い出したかのように先代を睨みつけたが、真っ直ぐに見つめ返されることで全てが徒労になると察した。

 

「…………分かったわ」

 

 しばらくの間を置き、幽香は大きなため息を吐いて、力を抜いた。

 もう、この場で自分の目的を達することは出来ないだろう。

 彼女の答えはそう納得させてしまうだけの意志が込められていた。

 目の前の敵を打ち倒す――ただそれだけの単純な方法を、最後の一線に至るまで避けようとする。それはもはや、逃げではなく決断だ。

 先代巫女は決死の覚悟を持って選んだ。

 完全なる決意を持って、幽香の目的を絶ったのだ。

 

「今回は退くわ。でも、いずれ必ず決着はつける。今度は逃がさない」

 

 先代の目の前にまで迫ると、幽香は念を押すように断言した。

 

「自覚を忘れないことね、先代。貴女の言動は周囲に大きな影響を与える。自分の為した事に責任を持ちなさい」

 

 自分を含めた大妖怪を退治した最強の巫女であるという周囲の認識があることを、幽香は遠回しに先代へ言い含めた。

 敵意に満ちて睨み付けていた視線を和らげると、唐突に何もない手の平から一本の白い花を咲かせる。

 根もないそれは不思議と瑞々しい美しさに溢れていた。

 そっと、先代の髪に挿す。

 

「これは餞別」

 

 少なくとも見た目だけは慈愛と優しさに満ちた笑顔を浮かべる。

 手が離れる際に、艶やかな指先が先代の頬を撫でていった。

 

「今日の外せない用事とやら、せいぜい頑張ってらっしゃい」

 

 意味深げにしか感じられない言葉と笑みを残して、幽香は去って行った。

 

 

 

 

 ヤンデレゆうかりんに狙われて夜も眠れない!

 ……いや、デレとか欠片もないんですけどね。

 

 私が幽香と初めて出会ったのは、まだ現役の巫女としてブイブイいわせてた(死語)頃の話だ。

 当時、人里の子供を攫って食う妖怪が現れ、私はそいつを退治する為に動いていた。

 何とか新たな犠牲者を出す前に発見は出来たのだが、予想外なことに妖怪の間では私の噂が広まっており、そいつは私を警戒していきなり逃げの一手を打ったのだ。

 攫った子供を囮にして一目散に逃げ出すそいつに対し、一手遅れてしまった私がようやく追い詰めた頃には、随分な距離を逃げられていた。

 一撃で頭を吹き飛ばして、一呼吸置いた後にふと気付く。

 眼前に広がる向日葵畑。

 私は、自分が意図せずして太陽の畑(ゆうかりんランド)に踏み込んでしまったのだと理解した。

 案の定、侵入者である私の前に現れる大妖怪・風見幽香。

 初の対面に感動する間もなく、一瞬で察する。 

 

 ――私を殺す気満々じゃないですか! やだー!

 

 もうね、殺気とかやばい。こちらを見る目が養豚場にいる豚を見るくらい冷め切ってる。『明日の朝にはお肉屋さんに並ぶ運命なのね』って感じ。

 まあ、二次創作でも最強とドS扱いに定評のある幽香なのである程度予感はあった。

 それでも『実はドS(親切)かもしれない』という淡い望みに賭けて、黙って様子を伺っていたのだが、ダメ押しの殺気と台詞を頂きました。

 うん、分かってたけど、幽香の私への認識って虫けら程度だね!

 戦闘がもはや避けられないと悟った私は、返答する間すら惜しんで最大限に集中した。

 様子見とかは一切無し。

 だって、幽香が無茶苦茶強いというのは東方ではほぼ常識だからね。

 油断も妥協も完全に意識から排除して、最初からクライマックスの一撃を先手でぶち込んだ。

 この先制攻撃が功を奏し、人間相手だと油断していた幽香の隙につけ込む形でクリーンヒット。体ごと顔面を吹き飛ばした。

 ……やばい、やりすぎた。

 いや、結果としては妥当ではある。

 先の妖怪を即死させたものよりも更に威力を振り絞った不可避の一撃を無防備な顔面に叩き込んで、それでもダメージ止まりな時点で幽香の妖怪として半端じゃない強さが伺えるし、結果的に彼女を殺さず行動不能に出来た。

 でも……これって、完全に友好フラグぶち折れたよね?

 だって開幕ぶっぱで顔を殴り飛ばしちゃったもん。

 しかも、形としてはこちらが先に手を出してしまっている。

 最初に出会った状況が悪かっただけで、私としては友好的に行きたいのが本音だ。しかし、その出鼻は完全に挫かれてしまった。

 後悔してももはや後の祭りで、倒れたままこちらを見上げる幽香の瞳には殺意と憎悪が漲っていた。

 うん、これはもう絶対許してもらえんね。

 水に流して友達になろうよ、とかほざきながら手を差し出したら、そのまま小指をへし折られるレベル。

 気まずすぎて居た堪れなくなった私は、その場から無言で立ち去ったのだった。

 それからである、私と幽香の関係が始まったのは。

 あの一撃を敗北と捉えた幽香は執拗に私に勝負を挑むようになり、私はそれを避ける為に全力を尽くすこととなった。

 幽香との戦いを避ける理由としては、冗談抜きで殺し合いになるしかない強さと容赦の無さもあるが、それ以上に初対面時の対応に対する罪悪感が私の心にあった。

 命が掛かっていたとはいえ、不意打ち気味に全力で相手の顔殴り飛ばすとかイカンよなーと、反省しているのである。

 でもその辺のことを素直に謝ったら、幽香が更にブチギレると予想出来るので何も言えない。

 結果、私は幽香の要求から逃げ続けるしかなかった。

 今回もそうだ。

 数日前から予定していた『紫からの頼まれ事』があったのだが、当然幽香はそれを無視する。

 しかも、なにやら思うところがあるらしく今回は完全に本気モード。ストーキング宣言まで出る始末である。

 だからといって、幽香と戦うなどという選択肢など端からない私は、追い詰められた末、無意識に口走っていた。

 

「もしもそうなったら、私は急いで逃げよう。

 そしてまた、ほとぼりがさめたら――静かに寄り添うよ」

 

 人に傷つけられ、追い立てられて悩み抜きながらも、安易に引き金を引くことを拒み続けた英雄の言葉である。

 やべえ、かっこよすぎる。こんな逃げ腰の状況で言っていい台詞じゃないって!

 しかし、私の本心だけは篭もりまくっていた。

 この偉大な名台詞を介したおかげで、幽香はようやく折れてくれた。

 ああ、よかった。今回ばかりは幽香の本気がビリビリ伝わってきたので、行くところまで行くしかないかと内心焦っていたのだ。

 まだ何か含むところはあるようだが、一変して穏やかな物腰になった幽香は、餞別の花を渡して去って行った。

 普通の花じゃないっぽいけど、綺麗だな。

 うぅむ……っていうか、花の贈り物なんて私貰うの初めてなんですけど。しかも去り際に顔撫でていくし。

 ちょっとドキッとしちゃったでしょうが。

 さすが幽香、見事な不意打ちだ。

 

「先代……」

 

 髪に挿された花に、なんだか妙に気を取られてしまっていると、黙り込んでいた傍らの慧音が私をじっと見つめていた。

 あ、あれ? なんでそんな泣きそうな顔してるの?

 

「わたし……私は……っ」

「慧音?」

「……あっ、いえ! その……すみません。なんだか、胸が詰まってしまって……」

 

 我に返った慧音は、気まずげに押し黙って、俯いてしまった。わずかに鼻を啜る音が聞こえる。

 よく分からないが、さっきの幽香とのやりとりで私の対応に至らないところがあったのだろうか?

 慧音の表情は何かを堪えるような、切なそうな眼をしていた。

 

「……貴女の本心は、確かに受け取りました。先代、どうかご無事でお戻りください」

 

 顔を上げた時には、もう普段の凛とした顔に戻っていた慧音の気遣いに、とりあえず頷いておく。

 なんだか夫を送り出す妻のような深い敬愛の念を感じながら、私は慧音に見送られて人里を後にしたのだった。

 

 ふーむ、しかし出だしから思わぬ障害にぶつかってしまったぞ。

 今回の用件を引き受けた時から、何かしら厄介事の予感は感じていたのだが、この分だと先にも波乱の展開が待ち受けていそうだ。

 鬼が出るか、蛇が出るか。

 少なくとも、鬼が待っているのは間違いない。

 紫が相談を持ちかけてきたのは数日前のことだった。

 彼女は私に、『地霊殿』へ行って来て欲しいと頼んだのだ。

 

 

 

 

 幻想郷の境。誰も見たことのない八雲紫の屋敷はそこに在った。

 

「よろしかったのですか? 紫様」

 

 藍はのんびりと庭先を眺める主に向かって、控え目に尋ねた。

 質問の意味は理解しているはずだが、紫は縁側から見える景色を楽しむだけで何も答えない。

 仕方なく藍は言葉を続けた。

 

「先代巫女を地霊殿へ向かわせたことです」

「あそこは地上の妖怪にとって不可侵領域。だから、人間である先代に使いを頼んだのよ」

「使い、とは。先代に渡した、地霊殿の主に宛てた書状ですか」

「内容を知りたい? 新しい幻想郷のルールのことよ。

 地底世界には、スペルカード・ルールがまだ伝わっていないから、地霊殿の主にそれの普及を行うよう頼んだの」

 

 至極真っ当な答えが返ってきて、藍は顔を顰めた。

 八雲紫の式神となって長いが、主人の考えは全く計り知れない。

 表の理由を出せば、必ず裏の理由もついてくる。そういう性格の御仁なのだ。口にした答えを鵜呑みにするわけにはいかなかった。

 考え込む藍の様子を横目で伺い、紫は愉快そうに微笑んだ。

 

「お利口な私の式神さん。今度は一体どんな深読みをしているのかしら?」

「……貴女の性格がそうさせるのでしょう? 一体どれだけの付き合いだと思っているのですか」

「相手を翻弄するには裏を突くのが一番よねぇ。何かあるように見せかけて、何もない。あるいはその逆」

「今回の件に、含むものはない、と?」

「あったとして、それが何か問題かしら? 貴女の懸念を言ってみなさいな」

 

 神妙な表情の藍に反して、紫はこの問答を楽しんでいる様子だった。

 藍は諦めたようにため息を一つ吐くと、思ったままを言葉にした。

 

「以前から思っていたことですが、あの先代巫女に対して少々入れ込みすぎではないかと」

「彼女が特別なのは本当よ」

「博麗の巫女としての多大な実績や、異質な力を持つことは、この際置いてきましょう。

 紫様はあの巫女を、御自身の心の何処か特別な所へ置いているのではないですか?

 八雲紫の名の下に送り出された使者が、地霊殿の主にどのように捉えられるのか理解しておられるのでしょう」

「『さとり』は、なかなか厄介な相手よ。ただのお使いにしても、信頼出来る者に任せたいわ」

「あの巫女が、貴女にとって急所になると愚考します」

 

 藍は思い切って核心に切り込んだ。

 

「他の力ある者に、例えわずかでも御自身の実体を掴ませてはいけません」

 

 藍は己の主の得体の知れなさに時折恐怖することがあった。

 だが、それでいいのだ。

 幻想郷という一つの世界を管理する地位に立つ者として、恐怖は使い勝手のいい力になる。

 恐るべき能力を持ち、知識に富み、そしてそれらの底を見せない。

 敵に決して真意を悟らせない実体の無さが、八雲紫の真の強みだった。

 

「あの巫女は、貴女に破滅を呼び込む切欠になりかねない存在です」

 

 藍の真剣な眼差しを紫は黙って受け止めていたが、やがて軽薄に笑いかけた。

 

「藍ってば嫉妬してるの?」

「ああ、もうっ! そうやってまたはぐらかす!」

 

 もはや何度繰り返したか分からないやり取りを経て、藍はうんざりしながら頭を掻いた。

 思い起こせば、紫が博麗の巫女として、山奥で修行をしていたという得体の知れない少女を連れてきたところから藍の苦悩は始まっていた。

 人間の身でありながら恐るべき力と、何よりその異質な才能を持つ少女に対する紫の扱いが妙に甘いことを薄々と感じてはいた。

 歴代の博麗で最強の巫女となり、現役を退いた今もなお高い影響力を持つ先代巫女の実態がハッキリとしないのは、紫自身が追求しないからだ。

 何処で、いつ生まれた? 両親は? 能力の詳細は?

 他にも多くの疑念が残っているのに、紫はそれらを見送ってきた。

 藍には主がそう判断する理由が分からない。

 それが不安に繋がる。

 あらゆる障害を排除し、複雑な問題を解決してきた偉大なる己が主は、そこまで甘くも愚かでもないはずなのだ。

 

「――藍。貴女はやっぱり、物事を複雑に見過ぎね」

 

 紫は藍の眉間に寄った皺を、ツンとつついた。

 

「何もかも計算し尽していればいいというものではないわ。たまには適当にやって、曖昧になりなさい。あとはその時の流れというものが物事を決めてくれるわ」

「……それが紫様の持つ真理ですか?」

「だいたいそんな感じ、ね。

 ねえ、藍。貴女が頭を悩ませていることは、私が先代に対して感じていたことと似てるわ。

 でも、私はもう彼女を複雑に捉えるのはやめたの。それが傍から見て、特別扱いに見えるのなら、それは捉え方の自由というものよ。私には関係の無いこと」

「では、今回の地霊殿への使いの件。裏の意味は何もないのですね?」

 

 なんだかいつものようにはぐらかされたような気がしたが、せめてそれだけはハッキリさせておこうと藍は再度尋ねた。

 

「地底世界との取り決めを守り、地上とは何かと毛色の違う地底へ向かわせる使者として最も妥当な者だと判断したわ」

 

 それは嘘偽りなく、紫の本音だった。

 地底に住むのは、ほとんどが封じられた妖怪達だ。

 彼らは封じられるに足る理由がある種族ばかりで、簡単に言えば同じ妖怪であっても危険な者達だった。

 生来の能力や性質が他者と相容れずに忌み嫌われた者もいるし、考えや本能が世の理から外れたおぞましい者もいる。

 そんな危険な場所の最大の抑止力となっている存在そのものが、『鬼』という更に強大な妖怪なのだ。

 鬼は独自の価値観を持ち、それを押し通す力と、嘘を許さぬ頑なさを持つ種族だ。紫であっても相手取るのは容易ではない。

 紫自身に鬼の友人がいるが、友情とは対等な関係でなければ築けない。

 ただの個人ならばともかく、何らかの立場を伴った交渉事において対等な存在というのは避けるべき相手だった。

 地底世界とは紫自身であっても何が身に降りかかるか分からない魔窟なのだ。

 そんな場所に送り込む者として、先代巫女はまさに適任だった。

 彼女は敵対する者に容赦はしないし、実力も十分すぎるほど備えている。

 それでいて、純粋であり残酷さを持たない。例え敵であっても、相手を貶めようなどと思いつきもしない性格だ。

 紫の考える地底世界で起こり得る最悪の問題とは、発生したそれが拡大して地上にまで及ぶことだったが、先代ならば後を引くような対応は決してしないだろう。

 想定されるあらゆる事態への対処においても信頼出来る相手だった。

 自分以上に適しているかもしれないと思うほどだ。

 なるほど。確かにこの考えからすれば、先代は特別扱いなのかもしれない。

 外の世界には『国家に真の友人はいない』という言葉あるが、紫の先代への無意識な信頼が藍には立場を越えた過剰なものと映るのだろう。

 ――じゃあ、やっぱり嫉妬なんじゃない。と、紫は藍に悟られぬよう内心で笑った。

 

「そうですか、分かりました。ならば、私から言うことは何もありません」

「……それと、やっぱり興味が少し」

 

 あまり納得のいっていない顔で頷く藍に付け加えて、紫は悪戯っぽく笑った。

 管理者としての立場を継承し、新たなルールの提唱により完全に第一線から退いたはずの先代巫女。

 本人も先見者としての地位に重きをおいて、娘である現博麗の巫女や素質を見出した魔法使いを後押しする姿勢を取っている。

 ――にも拘わらず、先の異変ではいつの間にか戦いの場に立っていた。

 紫の考える、物事の流れというものが自然と彼女を事態の中心に運んだかのように。

 彼女には、無自覚にそういった力や性質が備わっているのかもしれない。

 

「決して悪い事にはならないという信頼はある。けれど、彼女がどんな出来事を起こすのかは私にも予想出来ない」

 

 八雲紫にとって、先代巫女とは神の手すら離れた賽の目と同じ。

 何が出るかは……さて、お立会い。

 

 

 

 

 ドー・レミファー・ソーラーシードー・ドーシーラーソーファーミレードー♪

 べぃべぇ~、ってちゃんと日本語の歌詞があったと思うけど、忘れたからこの辺のサビだけ繰り返しまくる私。

 生前の知識にある歌なのに覚えてるのがおぼろげって適当だな、前世の私よ。

 

 私は初めてのお使いにちょっと浮き足立っていた。

 紫からの頼み事という時点で珍しいことだからね。

 なんか紫って頭もいいから何でも事前に解決しちゃうイメージなので、こういうちょっとしたことでも頼られてるって感じがして嬉しい。

 何かを頼まれること自体は昔から結構あったけど、妖怪退治とか侵略者迎撃とか物騒なことばかりだったからね。

 今回は、地上の妖怪が立ち入れない地底へ重要な手紙を届けるという内容だから、私がヘマをしなければ戦いとか面倒なことにはならないはずなのだ。

 まあ、地底世界が物騒な場所っていうのは予想がついてるし、実際に紫からも注意は受けてるけどね。

 原作の東方地霊殿では、シューティング要素が強いのでそこまで危険な雰囲気は感じられなかったが、実際はどういう場所なのか行ってみなければ分からないだろう。

 要素だけ見れば、死体とか疫病とか色々ヤバそうな単語が飛び交ってるんだよなぁ。

 しかし、私自身は怖さよりも好奇心の方が勝って、ちょっとワクワクしている。

 地上の妖怪や人間が誰も入れない場所に行けるっていうのは、普通なら有り得ない機会なわけだしね。

 紅魔館の時もそうだけど、原作ゲームの舞台となった場所っていうのは個人的に思い入れも強いから尚更だ。

 地底世界へ続く穴があるという妖怪の山の麓まで歩いて向かう。

 走ればかなり時間を短縮出来るが、私は鼻歌交じりにゆっくり歩くことにしていた。

 遠出をするというのも実は結構久しぶりだ。

 ちょっとした旅のつもりで、幻想郷の風景を楽しもう。

 僅かな不安と多大な期待が足取りを軽くしていた。

 そして、人里を出てから幾らか時間が過ぎたところで、霧の湖が見えてきた。

 霧の湖っていうくらいだから、どちらかというと霧が見えてきたと言った方がいいか。

 この湖は妖怪の山の麓にあるので、目的の穴にも近づいてきたということだ。

 穴自体は妖精などが迷い込まないよう結界が張られているし、場所はここから更に迂回しなければいけないらしい。

 位置的に紅魔館には寄れないルートだな。ちょっと残念。

 さて、空が飛べない以上、ここから湖に沿うように歩いていくのが普通なのだが……。

 

 問題はないッ 15メートルまでなら!!!

 

 ……もちろん、別に急いでるわけじゃないから、湖を走って横断して時間短縮なんてしなくていい。

 ちなみに私も昔試してみたことあったが、脚力だけでも15メートル程度なら本当に行けるね、アレ。

 さすがに走りはしないが、折角なので修行の一環として私は波紋を使った方法でこのまま湖を渡ることにした。

 波紋の呼吸によって、足元の水を弾いて水面に立つ。それを維持しつつ、歩く。

 基本的な波紋の運用だが、これが結構難しかったりする。

 だからといって、足場に出来るほどの水場が人里にはほとんどない為、意外とやりにくい修行なのだ。

 有力者の屋敷なら庭に池とかあるけど、阿求の家とかにお邪魔して『小一時間ばかり池の上に立たせて下さい』とか頼めるわけないもんね。

 井戸の中? 私は貞子か。

 足の触れる水面が波打って、文字通りの波紋を作る。

 点々と続くそれを足跡代わりに、私は霧に包まれた湖の上を進んでいった。

 うーん、水の上と霧の中にいるせいか、ちょっと肌寒くなってきたような――。

 

「そこで止まれ!」

 

 不意に頭上から警告が響き、私は素直に足を止めた。

 気のせいではなく、全身を襲う寒さがハッキリと増していく。

 単なる気温の低下じゃないな。冷気を発するものが近くにあるのだ。

 

「あたいの許可なく湖に踏み込んだわね! ここを通りたかったら、あたいと勝負しろ!」

 

 当然ながら霧の湖は誰の領土でもない。

 いちゃもんとしか思えないことを言われながら、しかしその声は敵意を含むというより元気いっぱいといった微笑ましいものだった。

 霧の中でも姿が分かるほど、声の主が近づいて来る。

 予想通り、それは氷の妖精チルノだった。

 

「……妖精か」

 

 冷静を装いながら、内心はムッヒョーって感じに奇声を上げて喜んでいる私。

 うわー、実はチルノに会うのって初めてなんだよね。

 なんという感動。遊園地でマスコットキャラと対面したに等しい。

 

「そういうあんたは人間……なの? えっ、人間って水の上を歩けるの?」

「空を飛ぶ人間もいるんだから、不思議じゃないだろう」

「……それもそうね!」

 

 あっさり納得するチルノ。

 すごいちょろい。そして素直で可愛い。

 ……でも、自分で言っといてなんだけど、確かに空飛ぶ人間がいるんだから水の上歩いても大したことじゃないよね。

 改めて幻想郷ってすげー。

 

「あたいはチルノ。ここを通りたかったら、弾幕ごっこで勝負しなさい!」

 

 しっかり自己紹介してくれたのが微笑ましいが、ちょっとまずい展開になってきてしまった。

 私は弾幕が撃てないのだ。

 だからといって、チルノの要求を受け入れずにここを通してもらうことは難しい気がする。

 さーて、どうしたものか?

 

「湖の近くを通る全員に、そうやって喧嘩を売っているのか?」

 

 とりあえず、少し話して様子を見ることにする。

 

「喧嘩じゃないわ! これは修行よ、あたいは強くなりたいの!」

「チルノはもう十分強いだろう」

 

 妖精の中では、ね。

 

「ふふん、よく分かってるわね。大した奴だわ、あんた」

「ありがとう。通っていいか?」

「ダメ! あたいよりもっと強い奴がいるんだ。そいつより強くなるために、あたいはたくさん弾幕ごっこがしたいの!」

 

 チルノが自分より強いと認める相手――。

 それはもちろん幾らでもいるだろうけど、私には心当たりがあった。

 そもそもチルノが原作で登場したのって、東方紅魔郷からだよね。

 つまり、この間あった紅霧異変がそれであって……。

 

「……そういえば、あんた。この間、あたいが負けた紅白の巫女に格好とか似てるわね」

 

 やっぱりかー!

 このチルノは霊夢と交戦済みだったらしい。しかも完敗してるっぽい。

 となると、これからチルノがどういう行動を取るのか簡単に予想出来る。

 案の定、難しい表情からだんだんと怒った顔つきになって、いきなりスペルカードを取り出した。

 

「ちょうどいいわ、あんたであいつを倒す予行練習してやるっ! さあ、カードを出しなさい!」

 

 これは本格的に困ったことになったぞ。

 出せと言われても、私はスペルカード自体持ってないし。

 弾幕ごっこって互いの同意がなかったら成立しないよね? このまま全力疾走で逃げてしまえばいいのかな?

 遠距離攻撃の類を弾幕と言い張って勝負する方法も取れないことはないが、威力がヤバすぎるから絶対駄目。

 妖精が死んでも復活する性質を持っていることは知っているし、この世界で生きる以上何度も目の当たりにしたこともあるが、好んで受け入れられるものじゃないしね。

 あと、私。今、手荷物があるんだよね。

 中身は遠出の為の水筒とかお弁当とか、書状も入ってる。湖の上じゃ手放せないから、その点でも勝負はしたくないなぁ。

 そんな風にいろいろ悩んで黙り込んでしまった私に対して、チルノは苛立ったかのように叫んだ。

 

「どうしたの、あたいが怖い? 勝負するつもりがないなら、負けを認める? 弱っちい奴倒しても意味ないしね!」

 

 ほう……。

 チルノは挑発のつもりだろうが、残念ながら私には通用しない。

 何故なら、負けを認めて話が済むなら喜んで認めさせてもらうからだ!

 フフフ、私を侮っていたようだな。私はもう博麗の巫女でも何でもないから、別に個人的な勝敗にはこだわらないのだ。

 弾幕ごっこ出来ないんだから、そもそも勝負以前の問題だしね。

 ここは一つ、チルノに勘弁してもらって――。

 

『羽虫も同然の妖精が、随分と粋がっているものね。雑魚は雑魚らしく身の程を弁えなさい』

「な、なにをー!?」

 

 …………え?

 い、いや! 違うって、今のは私が言ったんじゃないし!

 

「あたいは虫じゃない!」

『なら、身の程知らずの馬鹿って呼んであげるわ。弱いのはあなたの方でしょう?

 惨めな敗者が強者の周りをうろつかないで頂戴。とても鬱陶しいわ。早く巣に帰りなさいな』

「よくも、バカっていったなー!」

 

 この声は……私のすぐ傍、耳元辺りから聞こえる。

 あっ、髪に挿した白い花からだ!

 

「幽香か!?」

『言ったわよねぇ、自覚を持ちなさいって。

 何をやっているの? 一体、あんなゴミに何を好き勝手やらせているの、貴女は。さっさと黙らせなさい』

 

 顔を真っ赤にして怒っているチルノとは対照的に、花を介して聞こえる幽香の声からは地獄から響くような静かな怒りが感じられた。

 ちょっ、やめて! 耳元でそんな声出されたら背筋冷たくなるから!

 

「スペルカード・ルールを破るつもりはない」

『ふん、そんなことだろうと思ったわ。だけど、どんな理由であれ、貴女には勝負を投げることなんて許さない。

 その場凌ぎとはいえ、たかが妖精相手に負けを認めるなんて許される立場だと思っているの? そこまで認識が甘いのなら、今から改めて貴女を殺しに行ってあげましょうか?』

 

 いや、許されないって……何故にアナタ様の許可が必要になってくるのでしょうか?

 そんな風にもちろん尋ねられない私は、苛立たしげな幽香の言葉に黙り込むしかなかった。

 実際、じゃあどうしろっていうのよ?

 私、弾幕は出せないし空も飛べないんだよ?

 

『勝負を受けなさい。飛行と弾幕に関しては、私がこの花を媒介にして能力を与えるわ』

 

 えっ、マジっすか!?

 まさかのゆうかりん支援キャラ化!

 思わぬ提案に驚いている間に、勝手に体が空中へと浮き上がって二度目の驚愕が走り抜けた。

 と、飛べる! 私は……この空を飛べる! って光の巨人になったみたいな感想。

 でも本当に感動。

 私ってば、空飛んじゃってますよ!

 

「おい、本気か!?」

『あらあら、貴女の驚く声なんて初めて聞いたわ。戯れの提案だったけれど、面白くなってきたわね』

「やっとやる気になったのね? なんかムカつく奴がついてるみたいだから、一緒にとっちめてやるわ!」

 

 少し冷静になってみれば、飛んでるというか幽香の力で浮いているだけというかなり不安定な状態だ。

 加えて、相対するチルノは幽香の挑発で必要以上にやる気に満ちている。

 

『さあ、あの調子に乗った妖精を墜としなさい。もちろん、万が一にでも負けたら殺すわ』

 

 通信機的な花を介しての言葉なのに、物凄く冷たさを感じる声で囁いてくる幽香。

 あのぉ……アナタ、一応私の支援キャラ的位置にいるんですよね?

 予想もしていなかった弾幕ごっこによる勝負。

 もちろん、私には初めての体験だ。

 本来なら、生死を賭けたものではない遊びに近い感覚の決闘方法だが、私に限っては敗北は死に繋がるらしい。

 ……あら? これって、意外と厳しい状況なのではないかしらん?

 私は久しぶりに内心で冷や汗が流れるのを感じていた。

 そんな私の緊迫感を感じ取って、幽香は気遣っているのか更に追い込んでいるのか分からないことを言ってきた。

 

『そんなに気を張る必要もないでしょう。私のサポートが心配なのかしら?』

 

 

「大丈夫だ、問題ない」

 

 

 ――って、偶然だろうけどゆうかりんが絶妙な台詞言ってくるもんだから、つい反射的に答えちゃったじゃないですか!

 やだーっ!!




<元ネタ解説>

「もしもそうなったら~」

コミック「トライガン・マキシマム」の主人公ヴァッシュの台詞。

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