つまり、心残りなしの一番のハッピーエンド。
――紫、見ろ。月が綺麗だ。
そう、先代が夜空を見上げながら囁くのを聞いて、紫の胸は大きく高鳴った。
思わず傍らに立つ長年の友人の横顔を見つめる。
手を伸ばせば、すぐに届く所に彼女はいる。
つい先程まで全く意識していなかった距離の近さが、妙に気恥ずかしく感じた。
「……先代、その言葉の意味分かってる?」
動揺を押し隠しながら尋ねてみれば、不思議そうな表情で自分を見返してくる。
その自然な態度に、紫は落胆を感じた。
予想していなかったといえば、嘘になる。
というよりも十中八九、先程の台詞に秘められた意味を先代が理解した上で口にしたのではないだろうと分かっていた。
ただ本当に月が綺麗だと思ったから、彼女は自分にそう言ったのだろう。
「いや、月が綺麗だろう? 違うのか?」
紫の感情の起伏を敏感に感じ取ったのか、僅かに慌てた様子で先代が問い返してくる。
肝心なところで疎いくせに、妙なところで鋭い。
しかし、これはこれで普段仏頂面で通している彼女の貴重な一面を見れた――紫は、そう自身の落胆を慰めた。
それでも、少しばかり拗ねた気持ちになって『ばか』と返事を返そうとした。
口を開いて、そこでふと思いついた。
魔が差したと言ってもいい。
「……紫?」
結局何も言わずに口を閉ざした紫は、先代の方をじっと見つめたまま黙り込んでいた。
何かを思案するような、あるいは迷うような戸惑いの表情が浮かんでいる。
同じ黙って様子を伺う先代に対して、やがて紫は真っ直ぐに視線を合わせた。
「先代」
「なんだ?」
紫は言った。
「――私、死んでもいいわ」
恥ずかしそうに頬を赤く染めて、それでも紫は少女のように微笑んだ。
突然の言葉に、先代は眼を白黒させている。
単純な意味だけを取れば、前の会話と繋がっていない言葉だ。
混乱するのも無理はない。
自分の告げた言葉が持つ別の側面を、先代はきっと知らないだろうし――紫はそれを理解した上で告げたのだ。
むしろ、知らないからこそ、こんなことが口に出来たのだとも言える。
今更になって恥ずかしくなった紫は、自然な仕草で先代から視線を外した。
顔が熱くて、胸もドキドキしている。少し気まずい。
そして、無自覚に自分を動揺させた先代にやり返せたことが、少し痛快だった。
混乱する先代の様子を楽しみながら、それでも心の何処かに残った僅かな期待と落胆を隠して、紫は微笑み続けた。
二人の頭上で、月は変わらず浮かんでいた。
◇
「それって『愛の告白』だったんじゃないですか?」
「なん……だと……?」
さとりのサラッと告げた衝撃の真実に、私はかつてない驚愕を感じて固まった。
あの鬼の異変からしばらく経ち、すっかり春となった時期に改めて地霊殿へとやって来たのである。
以前訪れた時は、勇儀とは話せたけど、さとりとは話す余裕がなかったからね。
余裕っていうか、何故かさとりに拒否された上に、紫に執拗に促されてさっさと地上に戻ることになったからなのだが――。
幽々子は先に地上へ帰ってたし、あの時一体何が起こっていたのか、未だに分からない。
まあ、それについてはとりあえず置いておこう。
地霊殿を訪れるまではそのことも気になっていたが、今のさとりの発言で全部ぶっ飛んでしまった。
ちょ……ちょっと待って下さい、さとりさん。
状況を整理させて!
「整理するも何も、貴女が訊いてきたんでしょう?」
う……うん。
確かに訊いたよ。
あの宴会の夜、紫の言った『死んでもいいわ』って言葉の意味が気になって、さとりに相談してみた。
まさか紫が本当に自殺とか考えてるわけもないし、きっと何か暗喩的な意味が隠してあるんだろうって考えたんだよね。
さとりになら分かるって期待があったわけじゃないけど読書家で博識だし、本当に何気なく尋ねてみたのだ。
そしたら、答えがアレですよ。
ねっ、混乱するのも当然でしょ?
いやはや、さとりんってば唐突に性質の悪い冗談を……。
「いや、ですからそれは八雲紫の『愛の告白』だったんじゃないですかって言ってるんですよ」
だからっ、何サラッと爆弾発言してんの、この子ぉぉぉーーーッ!!?
おま、紫が私に愛の告白って……お前は何を言っているんだ?
思わずミルコな姿勢を取って凄んでしまう私。
しかし、内面を読み取れるさとりには全く通じなかった。
「当時の状況を説明してもらいましたが、事前に貴女が『月が綺麗だ』と言って、八雲紫が『死んでもいいわ』と返したんでしょう?」
読書片手間の投げやりな態度で、さとりが確認した。
私は頷いて返す。
うん、そうだ。
それで間違いない。
でも、その会話の何処に『愛の告白』なんて要素が隠されているのか、全く分からないので小一時間ばかり説明してほしい。
「一分で済みます。『月が綺麗だ』というのは、外の世界の著名な小説家が『I love you』をそう訳したとされる逸話から来る愛の告白のことですよ」
なん……やて……?
「また、別の小説家が同じ英語を『死んでもいいわ』と訳していて、この二つをセットにして愛の告白のやりとりを暗喩する表現となっているようですね。以前読んだ、外の世界の本に書いてありました」
嘘……だろ……?
「少なくとも、幻想郷の外を行き来できる八雲紫ならば、それぞれの言葉のそういった逸話と意味も知っているでしょう。知った上で、無自覚だった貴女をからかう為にそう返したのか、あるいは本気だったのかまでは分かりませんが――」
な……っ!?
「驚愕しているのは分かりましたから、その同じ表情で同じような台詞繰り返すのやめてもらませんか?」
うんざりするように告げられて、私はようやく我に返った。
しかし、動揺が収まったわけではない。
当時の会話に隠された意味を、今更になって理解してしまったのだ。
しかも、それが『実は紫からの愛の告白だった!』なんて、冷静になれという方が無理である。
だって、あの紫だよ?
東方キャラ最強の一角で、黒幕で、超絶美人さんで、偉くて、怖くて、可愛くて、長生きで、でも十七歳で――なんていうか、とにかく凄い大妖怪なのだ。
それに――。
それに、私の親友じゃないか。
紫と何年の付き合いだと思ってるんだ。
あいつと一緒に過ごした時間は、霊夢よりも長いんだ。
博麗の巫女として働いていた現役時代、未熟だった私を支えてくれて、苦楽を共にした仲なんだ。
私が仲間の中で誰を一番信頼しているかって訊かれたら、紫だって答える。
そんな親友から、いきなり愛の告白だなんて……。
「本気かどうかまでは分かりませんけどね。あと、ちょっと心の声が大きくなってますよ。興奮しないで下さい」
そ、そうさ!
は……ははっ、なに真剣に悩んでるんだ?
あの時のやりとりが、私の無自覚な言葉から偶然始まったものだということは分かってるんだ。
きっと、紫もワルノリして合いの手を入れたに決まってる。
まったく、紫ってばマジおちゃーめさん!
胡散臭さに定評のあるスキマ妖怪なだけはあるねっ!
――って、んなワケあるかーい!!
「ぐっ……だから、声が大き……!」
長年の付き合いだって言っただろうが!
恥ずかしげもなく『親友だ』なんて言える程度の根拠は、共に過ごした日々で積み重ねているんだ。
本気と冗談の見極めくらい、私には出来るさ。
普段の紫とは様子が違っていた。
その違和感を気のせいだって誤魔化せるくらいなら、最初からこんなに動揺したりはしない。
あの時、紫は本気だった。
決して冗談や洒落じゃない気配があった。
少なくとも、普段の余裕のある仕草なんて欠片も見せなかった。
何か真剣に私に伝えようとして、それが無理だと分かってしまっているような、切ない表情を浮かべていたんだ。
あの時、そんな印象を感じながらも読み取ることの出来なかった彼女の真意が、言葉の意味を知った途端に分かったんだ。
――今更。
そうだ、今更だ。
あれからどれだけ時間が経った?
何日――何ヶ月前の話だ?
紫の告白を受けて、私はそれを無自覚に、どれだけの時間無視してきたんだ!?
「ちょ、ちょっと落ち着きなさ……!」
湧き上がる衝動に突き動かされるように、私は勢い良く立ち上がった。
反動で、椅子が吹っ飛んで壁に激突し、粉々に砕け散ったがそんなこと気にも留めない。
「ああ、椅子が……」
私の何気ない言葉に『愛の告白』という一面があることを知っていて、それが無自覚に出たものだと理解した上で、それでも紫はああ答えた。
紫、お前は私のことを――。
確かめなければならない。
遅すぎるのかもしれないが、だからといってこのまま何事もなかったかのように無視するなんて出来ない。
それは、私も紫に対して思うことがあるからだ。
――いや、違う!
そんな曖昧な表現で自分を誤魔化すな!
心の何処かに、これが『自分の勘違いだったら恥ずかしい』なんて保険を残すな!
紫から愛の告白されたと理解して、自分がどう感じたか!?
妖怪だから嫌悪したか?
同性愛だから気持ち悪くなったか?
そんなわけないだろっ!
私が!
紫を!
嫌いなわけないだろぉぉぉーーーっ!!
「こ、声が聞こえるんですよ! 先代、心の声が大きすぎ……っ!?」
そうだ!
どうせ聞こえるなら、聞かせてやるさ!
紫!
好きだァー! 紫! 愛しているんだ! 紫ぃー!
あの言葉は無自覚だったけど、好きだったんだ!
好きなんてもんじゃない! 紫のことはもっと知りたいんだ!
紫のことはみんな、ぜーんぶ知っておきたい!
紫を抱き締めたいんだぁ! 潰しちゃうくらい抱き締めたーい!
心の声は、心の叫びでかき消してやる!
紫ッ! 好きだ!
紫ーーーっ! 愛しているんだよ!
私のこの心の内の叫びを聞いてくれー! 紫さーん!
博麗の巫女になってから、紫を知ってから、私はお前の虜になってしまったんだ!
愛してるってこと!
好きだってこと!
私に振り向いて!
紫が私に振り向いてくれれば、私はこんなに苦しまなくってすむんです。
優しい貴女なら、私の心の内を知ってくれて、私に応えてくれるでしょう。
私はお前を私のものにしたいんだ! その美しい心と美しいすべてを!
誰が邪魔をしようとも奪ってみせる!
恋敵がいるなら、今すぐ出てこい! 相手になってやる!
でも、ゆかりんが私の愛に応えてくれれば戦いません。私は紫を抱き締めるだけです! 貴女の心の奥底にまでキスをします!
力一杯のキスをどこにもここにもしてみせます!
キスだけじゃない! 心から貴女に尽くします! それが私の喜びなんだから!
喜びを分かち合えるのなら、もっと深いキスを、どこまでも、どこまでも、させてもらいます!
紫! お前が灼熱地獄の中に素っ裸で出ろというのなら、やってもみせる!
◆
心の中で叫びながら、先代はさとりの部屋から飛び出していった。
興奮のあまり、周りが見えなくなっていたのだろう。
完全に自らの衝動だけに突き動かされ、無意識に行動を起こしていた。
さとりに別れも告げず、ドアを粉砕して、嵐のように走り去ってしまったのだ。
後に残されたさとりは、テーブルに突っ伏したまま、ピクリとも動かなかった。
心の声は、そこに込められた想いが強いほど大きな音量となる。
先代の心の叫びを聞いたさとりは、その音波兵器の域にまで達する大音量を直に受けて、途中で気絶していた。
地霊殿の床を踏み抜く程の脚力で走り去った先代に気付き、慌てて駆けつけたお燐が、泡を吹いて倒れている主人を見つけたのは、そのすぐ後のことだった。
◇
湧き上がる紫への想いを夢中で叫んでいたら、いつの間にか地霊殿から飛び出していた。
さとりに何も言わず、立ち去ることになってしまったが、今は何よりも優先すべきことがある。
――紫に会わなくっちゃ!
会って、何を言えばいいのか分からないが、とにかく会わなきゃいけない。
あの夜のことなんて、もう忘れているかもしれないが、重要なのは紫の気持ちを聞き出すことじゃないんだ。
まず、私の気持ちを伝えるんだ。
あの時、私は何も知らずに愛の言葉を口にした。
もう一度、今の気持ちを込めて紫に伝えるんだ。
その後で、例え私の勘違いで恥をかいたとしても、あるいは想いが玉砕したとしても、それは結果だ。
今は何よりも、行動あるのみ!
……紫が何処にいるのか分からんけど。
でも、とりあえず地底ではないことは確かなので、まずは地上へ帰る。全速力で!
私は脇目も振らず走って、旧地獄街道を駆け抜けようとした。
物凄い勢いと形相で走っているだろう私は、通行人ならぬ妖怪に驚いた顔で見られる。
しかし、当然それらは無視だ。
どけどけ! 私の行く手を阻む奴は、吹き飛ばすぞ!
凄むまでもなく、勇儀を倒した実績のある私の進路を阻む妖怪はいない。
自然と群集が割れて出来上がる道を、私は一直線に走った。
「――待ちな」
突然、進路上に割り込むものがあった。
私は足を止めた。
そのまま目の前の障害を避けて走り抜けなかったのは、立ち塞がったのが横幅も大きい巨漢だったということ以外に、明らかに好戦的な気配を発していたというのもある。
私の前に立ち塞がったのは、巨人のような妖怪だった。
「貴様、先代巫女だな?」
私は無言で相手を睨み付けた。
獣臭――!
私とその妖怪の間の空間が『グニャァァ』と歪んだような気がした。
こいつ、強いぞ。
「随分と急いでいるようだなぁ」
「……そうだ。そこをどいてくれ」
「嫌だね」
不敵に笑いながら、その妖怪はゆっくりと両腕を持ち上げる。
かつて戦った鬼に勝るとも劣らないくらい迫力のある筋肉が、更に盛り上がって、軋んだような音を立てた。
凄まじい圧迫感を放っている。
「ふふふっ……お前さん、この旧都の星熊勇儀を倒した人間なんだってな?」
「それがどうした」
「俺がいずれ倒そうと思っていた鬼を、お前が倒してしまったということさ」
「何!?」
「つまり、俺が最強を証明するにはお前を倒す必要があるわけだ」
それは、明らかに私に対する宣戦布告だった。
地底で有名な勇儀を恐れることもなく、逆に倒すつもりだったとは……こいつ、やはり只者じゃない。
少なくとも、その自信に見合う程度の実力は感じ取れる。
くそっ、こんな時に厄介な相手に絡まれてしまった。
長々と時間を掛けていられないっていうのに――!
「私と戦うつもりか?」
「その通りだ」
「いいだろう、掛かって来い」
「ふっ、勘違いするな。俺がお前に挑むんじゃない、逆だ。まずはお前の立場というものを理解させてやろう」
「いいから、さっさと掛かって来い」
「俺は『他人の能力を喰らう程度の能力』を持つ。俺は、俺がこれまで倒してきた妖怪や人間の能力を全て使えるのだ! その数、実に百を超える! 見せてやろう、まずは第一の能力を――!」
……そんな、百個も悠長に見てられるかぁぁぁっ!
いいからさっさと掛かって来いって言ってんだろうが、邪魔じゃボケ!!
「ハリケーンボルト!!!」
早く始めようと言っているのに、イチイチ話を長引かせようとするその妖怪目掛けて、私は全力の拳を叩き込んだ。
っていうか、要するに先手必勝の百式観音だ。技名は単なる気分だ。
当然、避けられるはずもない。
ゲェーッ! とばかりに天高くぶっ飛ばされた名称不明の妖怪は、そのまま頭から地面に落下した。
グシャァッという凄惨な音と、血袋を破裂させたような鮮血を周囲に飛び散らせる。
どう見ても死んでるっぽい描写だが、手足がピクピク痙攣しているので、とりあえず大丈夫(?)そうだ。
立ち上がる様子のないその妖怪を無視して、私は再び駆け出した。
結局、あいつが何者なのか分からなかったが、なんていうか今は激しくどうでもいい。
早く地上へ戻らなければ。
待っていてくれ、紫!
◇
「霊夢! ここに紫は来ているか!?」
「……母さん?」
地上へ戻った私がまず向かった場所は、博麗神社だった。
紫の居る場所として、一番可能性があるのは彼女の棲家だが、生憎とその場所は『幻想郷の境目』という曖昧な情報しかなく、どうやって辿り着けばいいかも分からない。
よって、紫が顔を出しそうな場所として博麗神社を選んだのだ。
……でも、正直ここも幾つかの候補の中で一番マシって程度で、可能性自体は低いのよね。
なんせ、ここに住む当代の博麗の巫女である霊夢と紫は結構仲が悪いのだ。
霊夢は会いたいと思ってないだろうし、当然紫の方も顔を出す理由があんまりない。
案の定、境内に駆け込んだ私の視界に入ったものは、掃除をする霊夢の姿だけで、それ以外は人っ子一人見当たらなかった。
気配を探っても、紫の存在は探知出来ない。
「あのスキマ妖怪なら、来てないけど。何か約束でもしてたの?」
「いや……」
霊夢の答えも聞き、私は僅かに落胆した。
ここじゃなかったか。
じゃあ、何処だって話になるが……何処だろう?
そう簡単に次の候補先なんて思いつかないよ。
「霊夢、紫の居る場所に心当たりはないか? 勘でもいいんだ」
私は思わず霊夢に尋ねていた。
霊夢の天性の勘ならば、下手な心当たりよりもずっと可能性がある。
私の問い掛けに、しかし霊夢は黙ったままじっと見返すだけだった。
「どうして、あの妖怪を捜しているの?」
霊夢が持っていた箒を地面に置いた。
「今、あたしの勘はこう言ってるのよ」
代わりに手に取ったのは、数枚のお札だった。
「母さんを、あいつに会わせない方が良いって――!」
「霊夢!?」
私は思わず後退っていた。
霊夢は私に対して、明らかに戦闘態勢を取っていたのだ。
えっ、なんで!?
「……何故、邪魔をするんだ?」
「母さんをあの妖怪に会わせたくないからよ」
理由は分からない。
しかし、霊夢の顔付きは真剣そのもので、その瞳には決して譲らない意志が映っていた。
わ……分からん。
紫に会いたいだけなのに、何故霊夢と戦う状況になっているのか。
分からない――が。
「私を、行かせないつもりか?」
「あの妖怪に会いに行くなら、あたしを倒してから行って」
霊夢が限りなく本気なのは分かった。
霊夢――。
愛する娘と戦うなんて、もちろん嫌だ。
しかも、霊夢は本気なのだ。
本気になった霊夢の実力は、全く侮れない。
霊夢自身の言うとおり、紫を捜しにいく為に戦って倒さなければならないというのなら、いくら私でも手加減なんてする余裕はない。
私の娘は、そこまで強くなったのだ。
本気の霊夢と、本気で戦わなければならない。
親子喧嘩なんてレベルじゃないんだ。
よほどの理由がない限り、普段なら私から引き下がる事態だが――。
「……分かった。ならば、お前を倒す。霊夢!」
よほどの理由が、今はあるんだっ!
「そこまでして、あいつに会いたいのね」
「そうだ」
「だったら……本気で止めるわ。母さん!」
私の宣戦布告に対して、霊夢は一瞬だけ悲しげな表情を浮かべ、それをすぐさま決意の表情で塗り潰した。
霊夢。
私は今、お前を悲しませてしまっているようだ。
お前にとって、私が紫と会うことはそこまで気に入らないことなのか。
分かった。
私の気持ちを分かってくれとは言わないが、お前の気持ちは私にはよく分かった。
もはや、言葉は不要。
私は、お前を倒してでも紫に会う。
手加減は一切無しだ。
偉大なる母の全力全開を、見せてやる!
「夢想――!」
「スペシャルローリングサンダー!!!」
先制攻撃を仕掛けようとする霊夢目掛けて、更にその先を取った私は全力の拳を叩き込んだ
っていうか、要するに先手必勝の百式観音だ。技名は単なる気分だ。
当然、避けられるはずもない。
天高くぶっ飛ばされた霊夢は、そのまま頭から地面に落下――する寸前で、その地点に急速に霧が集まって、クッションのように受け止めた。
霧が形を整えて、人型になっていく。
私の事前の予想通り、霊夢を助けたのは萃香だった。
霊夢は、抱えられた腕の中で気絶している。
「ふっ、どうやら母親の方が一枚上手だったみたいだね」
私と同じように霊夢の無事を確認した萃香が、こちらを見ながら小さく笑った。
うむ。手加減は出来なかったが、勝負の結果は私の思い通りになったようだ。
完勝と言えるだろう。
……でも、霊夢ってばいきなり無敵技の『夢想天生』を使おうとしたんだよね。
百式観音のおかげで初動に割り込めたが、もしあの攻撃が成功していたら成す術もなくやられるところだった。
いや、もしほんの少しでも技を躊躇っていたら、百式観音でも間に合わなかったかもしれない。
実は結構ギリギリの勝負だったのである。
先にやったもん勝ちとか、勝負の分かれ目が極端なんだよ!
あー、緊張した……。
「萃香。霊夢を頼む」
「分かってるよ。先代は、紫を捜してるんだろう?」
「ああ。心当たりはあるか?」
「いや、生憎とわたしにもないね。でも、行くならさっさと行った方がいい。霊夢が眼を覚ましたら、また面倒なことになる」
「……分かった」
私は霊夢のことを萃香に任せると、踵を返して神社を後にした。
すまない、霊夢。
今は、母さんを行かせてくれ。
どうしても会わなきゃいけない人がいるんだ。
待っていてくれ、紫!
◆
あっという間に見えなくなった先代の後ろ姿を、萃香は笑いながら見送っていた。
随分と急いでいるらしい。
初めて見た時から今日まで、先代巫女とはそこまで長い付き合いではないが、実に珍しい一面を見た気がした。
彼女は、八雲紫に会う為に必死になっているのだ。
理由は分からない。
しかし、その本気の想いだけは十分に伝わってくる。
先程までの親子二人のやりとりを見ていた萃香は、何故霊夢が愛する母親と敵対してまで止めようと思ったのか、何となく分かるような気がした。
「――霊夢」
結局、勝負に負けて、母親を行かせてしまった霊夢を微笑ましげに見下ろす。
「紫のことを『お義母さん』って呼ぶハメになったらどうすぐぶぇ!!?」
意地悪く笑いながら尋ねた萃香の顔面に、気絶したままの霊夢が拳を叩き込んでいた。
◇
「慧音、いるか!?」
暴走特急の如きスピードで博麗神社から人里に到着した私は、寺子屋の戸を勢いよく開いた。
予想通り、そこには慧音がいた。
もちろん、授業中だったなんてトラブルもない。
ちゃんと計算した上で、慧音を尋ねたのだ。
「えっ、先代!?」
突然の来訪に驚く慧音の目の前まで一気に詰め寄る。
そのまま、ガシッと両肩を掴んで、鼻が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。
「あっ、い……いけません、先代! こんな日の高いうちから……っ!」
「紫の住んでいる場所を知っているか!?」
「…………へっ?」
何故か顔を赤くして眼を瞑っていた慧音は、私の問い掛けに呆けたような表情を浮かべた。
ああっと、すまない。
理由も言わずに、いきなりこんなこと訊かれても混乱するよな。
「紫に会いたいんだ」
私は端的に説明した。
「……なんですって?」
そしたら、慧音の顔付きが一気に険悪になった件について。
あれ、これってデジャヴじゃね?
「先代」
「なんだ?」
「何故、八雲紫に会いたいのか理由は知りません」
「ああ、それは……」
「しかし、貴女が真剣であることは分かります」
「そうだ。だから……」
「貴女とは長い付き合いです。だから、貴女が本当に心の底から八雲紫と会いたがっているというのがヒシヒシと伝わります」
「話が早くて助かるよ。だから……」
「嫌です」
「え?」
「具体的に何がかは説明出来ませんが、とにかく嫌です」
「いや、何が……」
「全部です。貴女が私に八雲紫の居場所を訊こうとしていることも、八雲紫と会おうとしていることも……全部嫌です」
あの、慧音さん……?
最初の内は私の方が慧音に迫っているような体勢だったが、気がついたら私の方が押される形になっていた。
どんどん凄くなっていく慧音の顔付きと迫力に、後退りをしているうちに寺子屋から外へ出戻ってしまう。
「八雲紫の居場所は、私も知りません」
「そ、そうか……なら、私はこれで」
「行かせません」
何故に!?
「八雲紫に会いに行くのなら、私を倒してから行ってください」
って、おおい! またこのパターンかい!?
霊夢の時と同じ展開に、私は内心で混乱しまくっていた。
まさか慧音にまで同じ対応をされるとは思わなかった。
二人は、私の行動のどの辺が気に入らないのだろう。
とにかく、慧音からは霊夢の時と同じ本気を感じる。
私と敵対してでも、私の行動を止めようとする気概だ。
というか、いつの間にか距離を取って、既に戦闘態勢を取ってしまっている。
「貴女を、あんな胡散臭い妖怪に連れて行かせるわけにはいかない!」
いや、連れて行かれるんじゃなくて、私が会いに行くだけなんですけど!
しかし、慧音はもう聞く耳持たずといった感じである。
「慧音、邪魔をしないでくれ!」
「貴女の邪魔などしたくない! しかし、認めるわけにはいかないんだ――!」
慧音は問答無用で私に襲い掛かってきた。
どうしてこんなことに……!
うぅ……うわぁああああっ!!
「ジェットアッパー!!!」
突進してくる慧音目掛けて、咄嗟に私は全力の拳を叩き込んだ
っていうか、要するに先手必勝の百式観音だ。技名は単なる気分だ。
当然、避けられるはずもない。
天高くぶっ飛ばされた慧音は、そのまま頭から地面に落下した。
……といっても、さすがに慧音相手に殺意の波動全開で攻撃なんてするわけないので、気絶させただけである。
殴り飛ばした高度もそこまで高くないので、半獣である慧音の耐久力ならば大した落下ダメージはないだろう。
念の為、倒れた慧音の状態を調べると、深刻な外傷はなく、気絶しているだけだった。
しかし、慧音自身に大事はなくても、周囲の状況は大事になりつつあった。
いきなり人里の中で私と慧音が争い出したのだから、騒ぎになるのも当然だ。
皆の誤解を解きたかったし、慧音のことも心配だったが、それ以上にここで時間を取られるわけにはいかなかった。
手近な人間に慧音のことを頼み、私は周囲の視線を振り切るように走り出した。
慧音を置いて――。
すまない、慧音。
だけど、私には優先すべきことがある。
私は、そっちを選んだのだ。
慧音を置いてでも、私は行かなければならないのだ。
待っていてくれ、紫!
◆
「慧音! しっかりして!」
「うぅ……妹紅か……」
妹紅に抱き起こされた慧音は、かろうじて意識を取り戻していた。
先代が走り去った後、偶然にも人里を訪れていた妹紅が騒ぎを聞きつけてやって来たのだ。
何故、慧音が倒れているのか。
その理由は目撃者達が説明してくれた。
しかし、妹紅は混乱の極みにあった。
「慧音……師匠にやられたって、本当なの?」
「……ああ」
慧音は苦しげに頷いた。
妹紅の顔が苦悶に歪む。
肯定して欲しくない事実だった。
理由も、切っ掛けも分からない。
単なるちょっとした諍いなのか、それとも深刻な仲違いなのか――。
しかし、いずれにせよ現実として、自分の親しい者達が傷つけ合ってしまったのだ。
妹紅の悲しみと嘆きは計り知れないものだった。
「どうして……こんなことにっ!?」
慧音ではなく、かといってここから去った先代にでもなく、妹紅はこの世の不条理を問うように叫んでいた。
その疑問に対して、慧音が苦笑を浮かべながら口を開く。
「あ……」
「慧音?」
掠れた声で伝えようとする慧音に、妹紅は必死で耳を傾けた。
「愛ゆえに、だ……」
「……誰か、早くお医者さん呼んでーっ!!」
意味不明なことを口走って再び気絶した慧音を抱え、妹紅は泣きながら助けを呼んだ。
◇
私は、一体いつの間にこんな遠い所まで来てしまっていたのだろう……。
霊夢を倒し。
慧音を倒し。
家族を、友人を打ち倒して、次は一体誰を犠牲にするというのか――。
しかし、それでも私は行かねばならない。
幾多の屍を踏み越えてでも、私は、紫に会うんだああああっ!
「あら、殺されに来たの? 先代」
そして、次の犠牲は多分私だ。
「幽香……」
「ふふふっ、なかなか面白い雰囲気を纏っているわね」
太陽の畑までやって来た私は今、幽香と真正面から対峙していた。
その幽香は冷酷な視線と笑みを私に向けている。
今にも殺しに掛かってきそうな気配だ。
うむっ、いつも通り!
……いや、本当に。思えば何故こんな遠くまで来てしまったのでしょ?
紫を捜して幻想郷中を駆けずり回っている過程で、私は死地へ足を踏み入れてしまったのだった。
とはいえ、何も考えずに立ち寄ったわけではない。
「紫の居場所を知らないか?」
「八雲紫のこと?」
「そうだ」
私は思い切って幽香にも尋ねてみた。
人間の世界も妖怪の世界も含めて、世間からは隔絶した姿勢を取っている幽香である。
正直、あんまり事情通には見えない。
しかし、だからこそ、その測り切れない底知れぬ部分に期待も抱くのだ。
紫と同じ大妖怪である幽香なら、ひょっとしたら何か知っているかもしれない。
「あの妖怪に会う為に、そこまで切羽詰った雰囲気を纏っているのかしら?」
幽香は面白そうに笑いながら言った。
切羽詰っているかどうかは自分では分からないが、紫にどうしても会いたいという点は当たっている。
私は真面目に頷いた。
「なら、まずは私を倒してみなさい」
ま あ わ か っ て た 。
話の前後が全く繋がっていないように見えるが、正直幽香に何かを要求した時点でこう返されることは予想していた。
だって、幽香はいつだって私を殺すことに全力な頑張り屋さんな乙女なんだもん!
……とりあえず、無駄と分かっていても言葉で交渉してみる。
「幽香との勝負は、もう約束したはずだが」
「分かっているわよ。約束の日を前倒ししようだなんて、子供染みた真似はしないわ。
今回の件を、ただ利用させてもらうだけよ。現時点でお前との実力差がどれほどあるのか――それを測らせてもらうわ」
なるほど、そういうことか。
戦うことには変わりないが、幽香にしてはなかなか穏便な提案だ。
殺し合いじゃないっていうなら、適当にお茶を濁して――。
「ちなみに、隙あらば遠慮なく殺させてもらうから、せいぜい全力で掛かってくるのね」
ですよねー!
暗黒闘気としか思えないような禍々しい力を立ち昇らせながら、完全に本気の眼つきで幽香が私を見据えている。
様子見や手加減といった緩い気配は欠片もない。
なんてプレッシャーだ。
幽香が怖いのは昔から分かっていたことだが、一体いつの間にこれほどの力を身に着けたのか。
スカウターがなくても、かつての幽香よりも戦闘力が増していることが肌で分かる。
む、むぅ……この脅威、まともに戦ったらどうなるか分からない。
となると、時間もあまり掛けられない以上、対妖怪の鉄則に従って先手必勝の一撃で片をつけるのが一番だ。
でも、そうすると初めて幽香と会った時の焼き直しみたいになるんだよなぁ。
「……幽香。最初に言っておくが」
「何も言わなくていい」
「――」
「全力よ」
「――」
「お前が私から感じた脅威。それを退けられると思うだけの力と技を使いなさい。後は――」
更に鋭くなった幽香の視線に射抜かれた瞬間、私の背筋に悪寒が走り抜けた。
それも『かつてない』ほどのものだ。
「私、次第よ!」
幽香が動く。
咄嗟に、私も行動を起こしていた。
生半可な攻撃では、今の幽香を倒すことなんて無理だ。
渾身の一撃しかない!
プラス『黄金長方形の回転』!
うぉおおおおおっ! 燃え上がれ、私の小宇宙(コスモ)!!
「ギャラクティカマグナム!!!」
動き出そうとした幽香目掛けて、咄嗟に私は全力の拳を叩き込んだ
っていうか、要するに先手必勝の百式観音だ。技名は単なる気分だ。
当然、避けられるはずもない。
天高くぶっ飛ばされた幽香は、血飛沫を撒き散らしながら頭から地面に落下した。
や、やっちまった……。
手加減なしというか、力と技を尽くした最高の一撃である。
勇儀さえ倒した黄金の回転による無限のパワーまで込めた拳を、叩き込んだのだ。
ミス・ユーカ……ユーは、もう立てないダロウ。
何故か、ボクシングチャンプ風。
しかし、まあ物凄い手応えだったので、気絶しているのは間違いない。
勝つには勝ったが、幽香から紫の居場所を教えてもらうことは出来なくなったわけだ。
仕方ない、また別の場所を当たろう。
私は倒れた幽香から背を向けた。
奇しくも、初めて出会った頃と同じ光景である。
今回のことも含めて、幽香にはまた更に恨まれることになるのだろうか。
憂鬱な気分だが、今はそれを振り切ってでも急がなければならない理由がある。
すまない、幽香。
そして、待っていてくれ、紫!
「――待ちなさい、先代」
背後から聞こえた、地を這うような呼び声に、一瞬心臓が止まりそうになった。
聞き間違えようもない、幽香の声だった。
◆
先代が振り返った時、幽香は既に立ち上がっていた。
打撃と落下の衝撃でダメージを受けた首の調子を確かめながら、折れた鼻の角度を指で無理矢理戻す。
鼻の奥に絡んでいたものを、鼻からの息で、外に出した。
片方を押さえた鼻の穴から地面に飛び出したものは、どす黒く、粘着質な、ゼリーのような大量の血の塊だった。
次に口からも同じくらいの量の血を吐き出す。その中には折れた歯も混じっていた。
顔面からの出血が、白いシャツの襟元を赤黒く汚している。
元々が美しい顔つきであるだけに、より無残さを際立たせる有様である。
しかし、幽香の瞳には一切衰えることのない意志の炎が燃え続けていた。
「幽香……!」
「なんて顔してんのよ。まさか立てるとは思わなかった、って?」
驚愕の表情で自分を見つめる先代に対して、愉快そうに笑い掛ける。
「まあ、立っているので精一杯なのは確かよ。勝負は、私の負けでいいわ」
既に幽香から立ち昇る闘志は消えている。
しかし、それはダメージを受けて戦意喪失したからではない。
幽香の中には、敗北を認めた悔しさと同じくらいの満足感があった。
「あの時とは、違うでしょう?」
幽香が満足しているのは、自分を見据える先代の真剣な眼つきだった。
見慣れた鉄のような仏頂面には、内からの緊張感が滲み出ている。
立ち上がった自分を、警戒しているのだ。
未だに敵としての脅威を感じているのだ。
――あの時とは違う。
――歯牙にも掛けられず、伸ばした手も、絞り出した声も届かずに無言で立ち去られたあの時の自分とは違う。
幽香は、その事実に満足していた。
「私を無視したまま、歩き去ることなんて出来ないでしょう?」
「……まだ続けるつもりか、幽香?」
「いいえ、負けを認めたでしょ。二度も言わせないで。屈辱的だわ」
「すまない」
「別に、トドメを刺しにきたいのなら、それでもいいわよ?」
「いや、遠慮しておく」
「残念。ここで死力を尽くすのも悪くないと思っていたのに」
冗談とも本気ともつかないことを口にしながら、幽香はおもむろにあらぬ方向を指差した。
その先を視線で追いながら、先代が疑問を口にする。
「何だ?」
「私の指した方向へ進みなさい。あとは、行く先の植物が道を示すわ」
「――紫の居場所か!?」
「いい喰いつきね」
幽香は鼻で笑った。
「さっさと行きなさい」
「恩に着る」
深々と頭を下げた先代が顔を上げた時、既に幽香は興味を失ったかのように背を向けていた。
その背に向けて何かを言いかけ、しかし拒絶するような気配を感じ取った先代は、結局それ以上何も告げずに踵を返した。
幽香の指差した方向へ、全速力で走り去っていく。
もう振り返ることはない。
代わりに、先代の足音が十分に遠ざかった時点で、幽香が振り返った。
既に遠くなった先代の背中を見つめる。
「――『行くな』って言ったら、貴女止まる?」
決して届かないように抑えた小さな声で、幽香はその背中に問い掛けた。
もちろん、答えは返ってこない。
幽香の口元には、ほんの僅かに寂しさを感じる笑みが浮かんでいた。
◇
言われるままに、幽香が指差した方向へ真っ直ぐに進んで行ったら林に突き当たったワケだが、そこで『植物が道を示す』という言葉の意味をようやく理解した。
私が足を踏み入れた途端、何もしてないのに茂みや木の枝が勝手に私を避けるように動いて、道を作ったのだ。
なにこれすごい。
これって幽香が操作してんの?
それとも、幽香の命令に従って植物が勝手に動いてるとか?
いずれにせよ、能力の効果と範囲半端ねぇな。
ゆうかりんマジ植物の女王。
私が一歩進む度に、周囲の植物が新しい道を空けてくれるので、その方向へ進路を取って更に進んでいくだけでよかった。
たまに振り返ってみれば、そこには既に進んできた道などなくなっている。
凄い便利だけど、ちょっと怖いね。
これ植物の道しるべがなくなったら遭難確実じゃない。
当然後戻りも出来ないので、ひたすら前に進み続けていく。
そうすると、やがて開けた場所に出た。
視界に広がるのは、不可思議な空間だった。
いや、そこが異次元だったとかそういう類の不可思議さじゃない。
ここに至るまで野生の木々が生い茂る林だったのに、いきなり平たい土壌になり、そこには池が設けられ、植栽などが施されていたのだ。
明らかに人工の庭園だった。
しかも、私の足元から続く長い石畳の先には巨大な屋敷まで建っている。
思わず振り返れば、やはり背後に道はない。
引き返して林の中に踏み込み、数歩進んでもう一度振り返ったら、今度は屋敷どころか庭園の光景すら見えなくなっているような――空間の隙間に出来ているかのような場所だった。
幻想郷の境目。
ここが、紫の住む場所。
そして、先に見えるあの屋敷にこそ、紫が居るに違いない。
ついに辿り着いたのだ。
私は喜び勇んで、屋敷の中へ駆け込もうとした。
「――どうやって、此処までやって来た?」
その行く手を遮る者がいた。
これまで、私の家族や友人がそうしてきたように、最後の最後でまたも障害が現れたのだ。
予想通り、それは藍だった。
「いや、それよりも何の用だ?」
「……紫に、会いにきた」
「紫様に?」
私の返答に、藍は一瞬訝しげな表情を浮かべ、しかし更なる説明を聞く必要もなく、理解を示した。
「そうか」
氷のように冷たい視線が私を射抜く。
「いずれ、このような事態が訪れるだろうと、懸念はしていた」
ああ、畜生。
ある程度覚悟はしていたけど、やっぱりだ。
「紫様は聡明にして理性ある御方だ。自ら過ちを犯すことなど決してない。
しかし、その紫様の御心を乱しに、貴様が此処へ現れる日をずっと警戒していた」
藍、お前とは分かり合えないんだな。
これまで僅かな希望を持ち続けていたけど、たった今確信した。
お前は、今の私が紫と会って話すことさえ絶対に認めてくれないだろう。
「先代巫女。貴様に二つの選択肢をやる」
「何だ?」
「黙って踵を返し、紫様に会うことなく此処から去れ」
「それは出来ない」
「ならば、我らの同胞となれ。人の身を捨て、妖として生きる道を取れ。そして、紫様ただ一人の為に生きろ。守れ。傍に寄り添え。裏切るな。そして――愛せ」
私の眼を真っ直ぐに見据えて、藍は告げた。
厳しい口調だった。
その視線の冷たさも変わらない。
藍が私のことを嫌っていて、紫にとって害悪にしかならない存在だと捉えていることがよく分かる。
しかし、だからこそ何処までも紫の為を想って行動していることも理解出来た。
今の言葉も、藍にとっては私情を排して、可能な限り譲歩した選択肢だったのだ。
門前払いせずにいてくれて、ありがとう。藍。
お前の言うことも尤もだ。
今更、中途半端な気持ちで、ただ紫に会うだけのつもりなんて私もないよ。
腹は括ってきた。
お前の言った内容の、後半部分には全面的に同意する。
でもな――。
「人の身を捨てることだけは出来ない」
「ならば、去れ」
「断る」
「此処から消えろ」
「紫に会わせてもらう」
私は自らの要求だけを、一切譲らずに突きつけた。
「紫様には会わせん」
藍から不穏な気配と妖気が滲み出す。
明らかに私を殺す気だ。
殺気という点で見るならば、それは幽香の放つものよりも濃密で巨大な気配だった。
「我が主は、比類なき偉大な御方だ。それが、貴様のようなたかが人間程度に玩ばれるなど――」
――玩ぶ?
私が、遊びでこんなことやってると思うのか。
ふざけんな!
「貴様を取り巻く有象無象どもの一角に紫様を貶めるなど、許されんことだ!」
私の周りにいるのは、誰一人として『有象無象』なんてどうでもいい括りで仕舞える存在なんかじゃない。
家族も、友人も、仲間も――皆、掛け替えのない存在なんだ。
そんな大切な人達を、私はここへ来るまでに振り切ってきた。
邪魔する者を打ち倒してきた。
生半可な覚悟でやって来てるんじゃねぇんだよ!
さあ、そこをどいてもらうぞ。藍。
お前を倒して、私は紫に会うっ!
「貴様に、紫様に会う資格はない! ここで死ね――!」
るせぇぇぇーーーーーーーーっ!!
「ブーメランテリオス!!!」
攻撃態勢に入った瞬間の藍目掛けて、私は怒りの豪拳を叩き込んだ
っていうか、要するに先手必勝の百式観音だ。技名は単なる気分だ。
当然、避けられるはずもない。
天高くぶっ飛ばされた藍は、血飛沫を撒き散らしながら頭から地面に落下した。
悪は去った!!!
……いや、冷静に考えて主人想いなだけの藍が悪なんてことは絶対にないんだけどね。
でも、藍が色々と煽ってくるもんだから、つい気持ちを爆発させちゃいましたよ。
普段なら、相手が藍ということもあって怯んだり、引き下がったりするんだろうが、今の私は違うのだ。
鬼に会っては鬼を斬り、神に会っては神を斬る。
何人たりとも、私の行く手を遮らせん。
倒れ伏した藍の横を、無言で歩き去る。
幽香のように、藍が立ち上がることはなかった。
そして、私が倒れた藍の身を案じて、歩みを躊躇うこともなかった。
――霊夢も。
――慧音も。
――幽香も、倒して。
大切な皆を振り切って、私はここまでやって来たんだ。
屋敷の玄関まで辿り着いた私は、戸を開けた。
屋敷の中は静かだった。
一撃で勝負が決まったとはいえ、玄関先で戦闘を行ったというのに、騒ぎを聞きつけて紫がやって来ることもない。
おそらく、藍の配慮で、外の騒ぎを遮断していたのだろう。
紫に気づかれずに、私を始末するつもりだったのだ。
私は、屋敷の中に踏み込むと、足早に進んでいった。
行くべき場所は、正確に分かっている。
長年傍で感じていた紫の気配を、私が間違えるはずがないのだ。
気がつけば、走っていた。
もうすぐだ。
もうすぐ、紫に会える。
なあ、紫。
お前はあの夜、馬鹿で無知な私の無自覚な言葉に対して、どういうつもりであんな言葉を返したんだ。
さとりの言うとおり、冗談だったのか。
もしそうだったら、別にいいんだ。
お前が私をからかって、後で意味の分かる悪戯を仕掛けただけっていうなら、言うことはない。
私が馬鹿を見て、終わりだ。
だけど、もし本気だったのなら――。
私は、お前を長い時間苦しめていたことになる。
そんなことは許されない。
だから、紫。
これは償いじゃなく、誤魔化しじゃなく――聞いてくれ、私の想いを!
廊下を駆け抜けた私は、最後の襖を思いっきり開いて、心の底から叫んだ。
「紫ー! 私だー! 結婚してくれぇーっ!!」
「……へ?」
座ってお茶を飲んでいた紫は、突然の事態に眼を丸くして私を見つめた。
そして、私の言葉の意味を理解して、顔を真っ赤にした。
◆
――二人がこの後どうなったか。
深く語ることはやめよう。
少なくとも、問題は数多く残った。
二人だけの間にも、性別の壁、種族の溝、寿命の差――多くの障害が待ち構えている。
彼女達を取り巻く環境や人妖の関係も、また複雑に絡んでいく。
母を奪われた娘がどう思うか。
主を奪われた式がどう思うか。
他にも多くの慕う者達が、唐突に告げられた彼女達の新しい関係をどう思うか。
感情が一本の紐ならば、二人の周りには何本もの紐が重なり、絡み、解くことは容易ではない。
あるいは、一生解けぬものも多くあるのかもしれない。
問題は多く残った。
そして、彼女達の行く末にも多くの問題が待ち受けている。
しかし――。
それらは、全て解決し得た。
万能に近い能力と知恵を持つ妖怪の賢者の傍に、彼女にとって唯一の弱味となる巫女が寄り添い、力を貸しているのだ。
新たな絆で結ばれた二人に、解決出来ない問題などなかった。
それは、巫女自身が持つ過去の謎や、世界そのものの謎についても、例外ではない。
険しいことは数多くあるだろう。
しかし、最も大きな山を乗り越えた二人にとって、それ以外の問題は全て力を合わせて越えられるものだった。
故に、これ以上深くは語るまい。
既に約束された結末について、詳細に語っても面白味はない。
ただ一つ――二人が末永く幸せに暮らして、物語は『めでたしめでたし』と終わるのだから。
【Ending No.3】
◇
――イイハナシダナー。
って、私と紫の話なんですけどね。
私と紫が出会ってからあった色々なことを、思い出していた。
本当に色々なことがあったなぁ。
こうして二人で、縁側から月を見ていると、自然と思い出すのだ。
あの夜を思い出すような、満月の夜だった。
隣には紫が座っている。
静かな、二人だけの夜だった。
「いい夜だな、紫」
「ええ、そうね」
何気ない私の呟きに、紫が優しく相槌を打つ。
ああ、似たような会話を昔したことがあったなぁ。
今夜に限らず、紫と一緒にいると最近よく昔のことを思い出す。
その理由は、なんとなく分かっている。
永琳の診立ては正しかったのだ。
元より、私と紫は人間と妖怪。
種族の違いがあって、寿命の差も大きいことは覚悟していた。
寝たきりのおばあちゃんになった私を、若くて綺麗なままの紫に看取らせてしまう未来を想像して、昔は心苦しく思っていたものだが――実際には、そこまでの猶予はなかったんだよね。
歳を取る間もなかったよ。
寿命よりも、長年酷使してきた体にガタが来る方が早かった。
特に心臓がヤバイらしい。
いつ止まるか分からないそうだ。
別に病気や怪我ってワケじゃないから、薬も出せないらしいしね。
あと数日もつかどうか――そう診断されたのが数日前だ。
私の死期は近い。
だから、ふとした時に昔を思い出すのだろう。
ゆっくり見る走馬灯ってところか。
今も、こうして思い出す。
ああ、本当に色々なことがあったなぁ。
……具体的にどんな内容だったっけ?
やべ、肝心の部分がよく思い出せん。
そういえば、脳にも障害が出てるとか言われてたな。
なんてこった。
折角紫が隣にいるのに、昔話も出来ないとは、残念すぎる。
このまま黙って月を眺めるのもいいが、さっきから一度も会話してないのは実にもったいない。
仕方がないので、私は定番の話題で切り出した。
「いい夜だなぁ、紫」
「……ええ、そうね」
何気ない私の呟きに、紫が優しく相槌を打つ。
ああ、似たような会話を昔したことがあったなぁ。
今夜に限らず、紫と一緒にいると最近よく昔のことを思い出す。
なんでだろう?
……分からん。
まあ、いいや。
気分は悪くないしね。
むしろ、すごくいい。
だって、隣に紫がいて、思い出すことも紫のことなんだから。
そりゃ、いい気分に決まってる。
まるで夢見心地って奴だ。
見上げる先にある淡い月が、あまりに幻想的だから、尚の事そう思うのかもしれない。
思い出すなぁ。
えーと、何を思い出すんだっけ……。
あっ、そうだそうだ。
あの夜の月を思い出すんだ。
あの夜ってどんな夜だ?
具体的な日時までは思い出せないが、確か、こんな風に紫と二人で月を見上げていたと思う。
うん、間違いない。
そして、私はこう言ったんだ。
――月が綺麗だ。
あの時の私は、本当に馬鹿だったよね。
意味も知らずに、そんなこと言ったんだもん。
でも、今の私は違うよ。
ちゃんと意味は分かってる。
そうだ。
折角だから、今改めて紫に言おう。
今度は無自覚なんかじゃないよ。
ちゃんと意味を込めて言うからな。
なあ、紫。
「なあ、紫」
見ろ。
「見ろ」
月が綺麗だ――。
◆
「なあ、紫。見ろ……」
静かに語り掛けていた先代は、その言葉を途中で止めたまま、黙り込んだ。
そのまま沈黙が続く。
紫は先代に促されたまま、月を見上げていた。
不意に、その肩に重みが圧し掛かった。
先代の頭だった。
口を閉ざした先代が、紫の肩に寄り掛かるようにして、頭を預けているのだ。
その体からは力が抜けていた。
持っていた盃が、手から零れ落ちて、縁側の下を転がっていった。
まるで、喋っている最中に急な眠気に誘われて、眠ってしまったかのようだった。
紫の肩に顔を預けたまま、全てを委ねるように動かない。
瞼は完全に閉ざされてはおらず、瞳がぼんやりと虚空を見据えている。
寝息は聞こえず、静かだった。
呼吸も。
心臓の鼓動も。
触れ合う程に近い紫にも聞こえなかった。
しばらくそのまま月を見上げていた紫は、やがてゆっくりと、先代の方へ視線を戻した。
肩に乗った先代の顔には、口元が小さな笑みを形作った、安らかな表情が浮かんでいた。
それを見た紫も小さく微笑んだ。
力を失った先代の体に手を回し、そっと抱き寄せる。
肩に乗ったまま動かない先代の頭に、自らの頬を寄せて、紫は再び月を見上げた。
「――月が綺麗ね」
<クリア特典>
主人公の秘密その三。
「実は、主人公は幻想郷ひいてはこの世界では死んでも転生できない。しかし、今回は紫の尽力によってその問題は解決している」