東方先代録   作:パイマン

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真・地霊殿編その四。


其の五十六「熔解」

 諏訪子の視界には、広大な庭と、そこに林立する桜の木が映っていた。

 蕾は全て花開き、庭全体をその彩で埋め尽くさんばかりである。

 しかし、散った花びらが雪のように地面に落ちる前に消えていく様は、淡く、儚さすら感じさせる。

 この世のものとは思えない光景だった。

 

「そりゃそうだ。この世のものじゃないんだから」

 

 自分が現在冥界にいることを思い出して、諏訪子は苦笑を浮かべた。

 開いた障子戸から外に向けていた視線を、室内に戻す。

 この屋敷の主である西行寺幽々子と彼女の親友であり幻想郷の管理者である八雲紫が座っていた。

 

「いや、なかなか見事な庭だね。外の世界じゃ、ちょっと見れない」

 

 幽々子に微笑みながら、賛辞と冗談を交えて言った。

 

「なかなか洒落っ気のある神様ね」

 

 幽々子の方も、そういった皮肉を楽しめる性格である。

 初対面同士だったが、お互いが抱く第一印象は良好だった。

 飄々とした性格が、何処か似ているのだ。

 

「しかし、少しばかり手入れが行き届いていないようだね?」

 

 そう指摘して諏訪子が視線を向けた先には、一本の桜の木があった。

 その枝の一つが、半ばから不自然に切られている。

 全体の景観が一つの画のように完成されているだけに、最後の点を欠くようなその一点が嫌でも目に付いてしまう。

 剪定しようとして失敗した跡に違いなかった。

 諏訪子は再び視線を室内に戻すと、床の間に置かれた花瓶に差された一本の桜の枝を見つめた。

 

「私が誤って切ってしまったのよ」

 

 今はまだ花を残しているその枝を申し訳無さそうに見ながら、幽々子は答えた。

 

「へえ。主人自身が、庭の手入れもしているの?」

「本当は専属の庭師がいるんだけど、今は暇を出しているから。あの子がいない間は、私が代わりに仕事をやってみようと思ったんだけど……」

 

 ほんの一瞬物思いに耽って、寂しげに微笑む。

 

「駄目ね。あの子のやっていたことをなぞってみれば、何かが理解出来るかもしれないと思ったけれど――結局分かったのは、私は不器用だったってことくらい。自分では、もうちょっと要領よく物事をこなせると思ってたんだけどね」

 

 自嘲気味な幽々子の呟きを聞きながら、諏訪子は困ったように頭を掻いた。

 

「余計な話題を振っちゃったらしい」

「こちらとしても客人に出せるほど楽しい話ではないわね」

「家庭の問題かな?」

「あら、相談に乗ってくれるのかしら?」

「家族についての悩みなら、個人的に共感出来るしね。時間があれば、色々話も聞いてあげたいんだけど」

「そうね。また今度ね」

 

 二人は程よいところで会話を切り上げた。

 

「さて、八雲紫よい。本題を始めようか」

 

 ここまでずっと無言だった紫に、諏訪子が水を向けるように言った。

 元々、諏訪子は紫と話をする為にやってきたのだ。

 誰も邪魔の入らない――盗み聞きや第三者の介入の心配のない――二人が密会出来る場所として、白玉楼が提供されたに過ぎない。

 本来ならば、幽々子が同席することさえなかったはずである。

 しかし、諏訪子が訪れた時、何の説明もなく幽々子は紫の傍に座っていた。

 予想外の事態に対して、諏訪子は露骨に動揺を表すことも問い質すこともせず、黙ってその場に腰を降ろした。

 先程の穏やかな会話の裏には、ちょっとした牽制の意味合いも隠されていたのである。

 

「まずは、そちらの話から聞こうか?」

 

 幽々子の存在をもはや無いものとして扱って、諏訪子は紫に言った。

 

「予定にないことが起こったようだからね」

 

 幽々子がこの場にいる理由を、そう判断した。

 諏訪子としては、この場で話し合う内容は、紫でさえ把握しきれていない外の世界での出来事を踏まえた先代巫女のこと以外にない。

 事前に、そのことを伝えておいたからこそ、紫も密会に応じたのだ。

 しかし、実際にこうして顔を合わせる数日の間に何かが起こった。

 それが現在の状況を生んだ。

 

「その手紙、誰からのだい?」

 

 諏訪子は紫の手元にある一枚の手紙に視線を落とした。

 

「今朝、古明地さとりの使いから渡されたものです」

 

 紫は偽ることなく答えた。

 

「さとり……」

 

 幽々子の顔付きが、僅かに強張る。

 

「それで、内容は?」

 

 諏訪子に促された紫が小さく頷き、

 

「洩矢諏訪子様。貴女にも――いえ、守矢神社にも関係のある内容ですわ」

 

 そう前置きをして語ったのは、おおよそ次のようなことだった。

 守矢神社の八坂神奈子が信仰獲得の一環として立てた計画の内容。

 それは地霊殿を巻き込む大規模なものである。

 この計画自体に対しては、地霊殿側が守矢神社側の要求を呑むことで摩擦無く収めようと考えている。

 しかし、この事態の余波が別の問題に発展する可能性が高い。

 具体的には、神の力を与えられた霊烏路空が暴走する可能性である。

 よって、これを異変と予測認定し、すぐさま博麗の巫女を派遣するよう、地底の管理者古明地さとりは地上の管理者八雲紫に強く要請する――。

 

「――と、いったことが書かれています」

 

 話の間、一切表情を変えなかった諏訪子に、紫は言った。

 

「ここに書かれている八坂神奈子様の計画、間違いはないでしょうか?」

 

 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その口調と視線には虚偽を許さない鋭さが隠されていた。

 

「……ハッキリ言って、あいつの計画って奴はわたしにもよく分からない」

 

 諏訪子は人差し指で軽く頬を掻いた。

 

「同じ社で祀られる神でありながら、相手の考えは把握出来ていないと?」

「わたしとあいつじゃ、立場というか考え方が違うんだ。そりゃあ、わたしも神社の発展や信仰が増えることが嬉しくないわけじゃないよ。うちには健気な巫女もいるからね。向けられる祈りには、神として積極的に応えていきたいと思う。だけど――」

「何か?」

「あいつは……神奈子は、積極的なんて生易しいもんじゃない。あいつが抱えている物は、野心に近い」

 

 探るような紫の視線を、諏訪子が睨むように見返す。

 

「その辺のところは、あんたも重々把握しているはずだがね」

 

 それは暗に、天狗の集落での出来事を見ていたことを指しているのだった。

 あの事態に八雲紫が密かに介入していたことを、今や諏訪子と神奈子も見抜いている。

 

「ええ、確かに」

 

 悪びれることもなく紫は頷いた。

 諏訪子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「その手紙に書かれていた計画については、わたしも初耳だよ。だけど、三日前に何処かへ出掛けたことは知ってる。そして、次の日に手傷を負って帰ってきたこともね。あの時、既に事を起こしていたというなら、確かに辻褄は合うかもね」

「そのことについて追求はしなかったのですか?」

「隠そうとしてたからね。早苗に余計な心配はさせたくなかったから、わたしとしてもあの場で追求する理由がなかった」

「では、後から追求するつもりではあったのですか?」

「仮にあいつが何か企んでいたとして、それがわたしにとって都合の悪いことかどうかは分からないだろう」

「まあ、それは確かに」

 

 神奈子の計画は、利益を求めた、ある意味純粋なものだ。

 幻想郷に無意味な混乱をもたらすようなものでも、悪意を振り撒くようなものでもない。

 信仰という名の力を得る――結局のところ、計画の目的はそこに行き着くのだ。

 

「わたしも、もちろん早苗も、神奈子の計画には関わっていないし、知らされてもいない。詳しいことも分からない。だけど――」

 

 諏訪子は真偽を測ろうとする紫の眼を見据え、

 

「今の神奈子ならやりかねない。あいつは力を欲している。その理由は、先代巫女に拘っているからだ」

 

 断言した。

 

「とりあえず、これだけは言えるよ」

「なるほど。それはまた……」

「先代も厄介な奴に眼を付けられたもんだよね」

「あら、同じ守矢神社の神である貴女がそう言ってくださるのですか?」

「付き合いがあるからこそ、あいつが面倒臭い奴だってのは嫌って程分かってるんだよ。それに、わたしは先代の味方だからね」

「それは心強いですわ」

「こっちも腹を割ったんだから、あんたも腹に隠しているもん見せてもらおうか?」

「私は別に、貴女達の共謀を疑ってはいませんわ」

「いや、そうじゃない。あんたが疑ってるのは、古明地さとりの方だろう?」

 

 諏訪子が眼を細めて、言った。

 紫は微笑を浮かべたまま、無言だった。

 

「あんたが探ろうとしていたのは、わたしが神奈子と繋がっていることじゃない。神奈子がさとりと繋がっていることだ。違うかい?」

「その通りですわ」

 

 紫はあっさりと頷いた。

 

「古明地さとりという妖怪に対して、随分と思うところがあるみたいだね」

「貴女の眼には、彼女はどのように映っているのでしょうか?」

「人間との稀有な友情を結んだちょっと変わった妖怪って程度かな。先代が親友だって言ってたしね」

「ええ。先代は、そう言っています」

「なるほど、そこも疑っているのか。詰まるところ、あんたは古明地さとりに関する何もかもを疑っているわけだ」

「単刀直入に言って、彼女を危険な存在だと感じています」

「ふぅん。あんたほどの妖怪が、そこまで言うのかい」

「立場は対等。能力は未知数。考えは読めません。それに――」

 

 紫は幽々子の方を一瞥し、

 

「気が付いた時には、懐深くまで踏み込まれていました。そちらにとっても、思い当たる点があると思いますが?」

 

 諏訪子の方にも意味深げな視線を送った。

 紫は先代巫女。

 幽々子は妖夢。

 そして、諏訪子は早苗。

 いずれも親しい者が、古明地さとりと接触し、彼女との深い友好関係を結んでいる。

 

「なるほどね」

 

 諏訪子も幽々子と妖夢の事情までは知らない。

 しかし、何故彼女がこの場に同席しているのかだけは察した。

 

「あんたの意図は、何となく分かったよ」

 

 先代巫女という接点を経て、同じような境遇である諏訪子を、味方として取り込もうとしているのだ。

 古明地さとりに対抗する仲間として。

 

「正直言うと、わたしはあんたがそこまで古明地さとりを警戒する理由が分からない。外の世界で死に掛けていた、弱々しい印象が強いからね」

「そうですか」

「だけど、まああんたほどの妖怪が警戒するんだ。それなりの根拠があるのは確かなんだろう」

「貴女が先代の味方だと言うならば、いずれ分かると思いますわ」

「うん。結局、あんたは古明地さとりに近しい先代の身を案じるからこそ、そこまで警戒を強めるわけだ。そして、それを踏まえた上でわたしの見解を述べさせてもらうと、だ」

 

 諏訪子は真っ直ぐに紫を見据えた。

 

「わたしからすれば、あんたも同じだ。先代にとって警戒に値する存在だよ」

 

 向けられる懐疑の視線を、紫は静かに受け止めた。

 

「あんたはさとりと先代の関係を疑っているようだが、わたしから見ればあんたと先代の関係も同じさ」

「――」

「あんたみたいな胡散臭い妖怪と、あの誠実な人間が対等な友人であるなんて、ちょっと信じられない。あんたが先代を利用しているって考える方が、よほどしっくり来る」

「――」

「多分、あんたは同じような疑いをさとりに対して抱いてるんだろう。その疑いを弁護してやれるほど、わたしもさとりを信じちゃいないよ。だけど、心しておいて欲しいんだ。わたしはそれ以上にあんたを信じちゃいない」

「――」

「言い過ぎかもしれないけれど、あんたは『そういう妖怪』だとわたしは思う。八雲紫。あんたは優れた力と知恵を持っている。だけどそれは、信じることではなく、疑うことに優れた能力だ。目の前にいる相手の表を信じず、裏を知ろうとする思考だ」

「そうですね。その通りですわ」

「先代とはあらゆる面で真逆だよ。あんたが疑う分だけ、周りからも疑われるんだ。あんたのような胡散臭い妖怪と先代の間で友情が成立しているのは、先代の好意に依っている所が大きい」

「ええ、その通りです。全く……全く以ってその通りですわ」

 

 諏訪子の厳しい指摘に対して、紫は否定はおろか不服さや不機嫌さを表に出すことさえしなかった。

 それどころか全面的に肯定するようにしみじみと言った。

 

「先代は、好意を真っ直ぐな言葉にしすぎるのです」

 

 あの夜――。

 伊吹萃香の異変が解決し、永遠亭からの帰り道として迷いの竹林を歩いていた、あの時――。

 全ては、あそこで決した。

 あの時、当人を前にして、自分がこれまで行ってきたこと、そこにある真意を、初めて告白した。

 懺悔のつもりはなかった。

 だが、ずっと後ろめたさを感じていた。

 間違ったことをしてきたとは思っていなかった。

 だが、ずっと後悔していた。

 だから、あの夜全てを嘘偽りなく話したのだ。

 

「始め、私は確かに先代を利用しようとしていました」

 

 本来は、あそこで先代巫女と決別するつもりだった。

 これまでが異常だったのだ。

 彼女には恩もあるし、借りもある。しかし、それらは友情や絆と同一視すべきものではない。

 何より、自分にそんな資格は無い。

 人間と妖怪の正しい関係に戻すつもりだった。

 

「しかし、今はもう違います」

 

 紫が離れようとした分の距離を、先代は踏み込んできた。

 そこで、更に離れるべきだった。

 突き放すべきだった。

 それがお互いの為だと考えていた。

 

 ――しかし、出来なかった。

 

 幻想郷を安定させる為に彼女と奔走した日々を、偽りと罪を重ねた時間ではなく、掛け替えのない思い出に変えてくれた。

 打算で裏付けされた関係を、煩わしい駆け引きなど必要のない、ただ純粋な友情へと変えてくれた。

 あの時、自分を許した彼女の言葉があまりにも心地よくて、ついに拒むことが出来なかったのだ。

 あれが最後の境界線だった。

 あの瞬間、自分は本当に心底彼女に参ってしまったのだ。

 

「改心した、それとも情に絆されたとでも言うつもりかな?」

 

 諏訪子は紫に冷笑を向けた。

 

「どうとでも受け取っていただいて構いませんわ」

「あんたの先代に向ける情が本物だったとして、だ。それでもわたしがあんたを好きになれない理由は、あんたが先代と対等になろうとしてないからだよ」

「――」

「自分を利用していたあんたを、先代は許したのかもしれない。その上で、友人だと思っているのかもしれない。

 だけど、それは全て先代の大きな器にあんたが甘えて寄りかかっているだけの形なんだ。表面だけ繕って、本当の意味で心を開いていない。

 もちろん、あんたには私情だけに走れない立場や責任ってものがあるんだろう。でも、それはつまり立場を優先する為に、先代と深い所で通じ合うのを避けているということなんだ。中途半端なんだよ。それでいて、古明地さとりに嫉妬までしている」

「嫉妬……ですか?」

「自覚くらいあるんだろ。あんたがさとりを疑うのは、そうあって欲しいという願望も含んでるからだ。同じ立場なのに、先代と心を通じ合ったさとりが妬ましくて、だから疎ましいんだ」

 

 紫には諏訪子の言葉がまるでメスのように感じられた。

 痛みもなく心を解剖し、その内側を明らかにしていくのだ。

 いや、痛みは――。

 

「あんたはずるい奴だよ、八雲紫」

 

 諏訪子の持つ人の眼と帽子に付いた人ならざる眼の二対が、じっと睨むように紫を見つめた。

 紫の表情は変わっていないように見える。

 口元にはあるかないかの薄い微笑が浮かび、眼元は動揺など欠片もないかのように涼しげだ。

 しかし、諏訪子の眼力はその口と眼の端に僅かな強張りがあることを見逃さなかった。

 紫が右手に持った扇を開こうとして、何を思い直したのか再び閉める音が『パチリ』と、手元で小さく鳴った。

 諏訪子が観察する間、紫は虚空に視線を置いたままじっと黙り込んでいた。

 

「……ちぇっ」

 

 やがて諏訪子はつまらなさそうに声を上げた。

 

「その傷ついた様子が演技だと分かれば、話は簡単だったのにな」

 

 いつの間にか、紫に対して挑むように前屈みになっていた姿勢を戻して、背伸びをするように両手を上げる。

 傍らで見守っていた幽々子の吐く安堵混じりのため息が、妙に大きく聞こえた。

 

「悪かったよ」

「……何がですか?」

「ちょっと意地の悪いやり方だった。わたしも偉そうなこと言える立場じゃないんだ。わたしもあんたと同じ、相手を疑うタイプだからね。そういう意味じゃ、神奈子の方がよっぽど先代に近しいよ。あいつは気難しいけど、信じたものに対しては一途な所があるからね」

「そうですか」

「まっ、ちょっとは八雲紫っていう奴のことが分かったかな」

 

 諏訪子は言って、笑った。

 

「わたしは先代の味方だよ。だけど、決してあんたの味方じゃない」

「ええ、分かっていますわ。そして、それで良いと思います。そのまま味方として、先代を手助けしてください」

「言われるまでもないよ。わたしも、あんたが先代の味方だという点だけは信用しよう。あんたを突き動かすものが、純粋な友情なのか、後ろめたさなのか、それともまた別の感情なのかは知らないけどね。精々、彼女の助けになってもらおうか」

「言われるまでもありませんわ」

 

 諏訪子と紫は、互いに不敵な笑みを交し合った。

 二人の間に、決して友好的な雰囲気はない。

 しかし、奇妙な信頼関係が生まれていた。

 少なくとも先代巫女という人間に対して、目の前の相手は敵となる存在ではない。

 

「――それじゃあ、今度はわたしの用件を話そうか。どうやら、あんたになら相談しても問題なさそうだしね」

 

 そう言って、諏訪子は外の世界で先代巫女と八坂神奈子が戦った時の出来事を話し始めた。

 

 

 

 

 妖夢は小さな居酒屋の隅にある席に座っていた。

 木製のテーブルを挟んだ向かいには、三本角の鬼が座っている。

 二人が向かい合って座ればそれっきりの狭い席だが、お互いに視線を合わせることなく、じっと手元を見つめていた。

 

「飲まねぇのか?」

 

 おもむろに鬼が訊ねた。

 妖夢の手元には、たっぷりと中身の注がれた酒枡が置かれていたが、まだ一口も手をつけていなかった。

 

「……お酒、飲んだことないです」

 

 妖夢は正直に答えた。

 居酒屋自体、初めて足を踏み入れた場所である。

 狭い店内に狭い席。そこに信じられないくらい客が密集して、雑多な会話やら食器の甲高い音やらが独特の臭気と一緒くたに撹拌され、煮詰められている。

 生者の存在しない静かな屋敷で、幽々子と二人だけで長年過ごしていた妖夢にとっては未知の空間だった。

 

「そうか」

 

 気のない相槌を返しながら、鬼は自分の手元にある酒を一気に呷った。

 空になった器に、無言で酒を注ぐ。

 注文した一升瓶は既に中身が半分まで減っていたが、全て鬼が飲んだものだった。

 それでいて無骨な顔には赤み一つ差していない。

 

「酒も飲んだことのねぇ小娘か」

「すみません」

「別に、悪いことじゃねぇさ。ただ意外なだけだ」

「意外、ですか?」

「鬼を斬れるほどの猛者には見えねぇってことだ。見た目は小娘、酒も飲まねぇ、おまけに雰囲気が決定的に合わねぇ」

「雰囲気……」

「気配が弱々しいのさ。その辺の野良犬にも負けちまいそうに見えるぜ。だから、あんな酔っ払いの屑にまで絡まれるんだ」

 

 その言葉を、妖夢は否定出来ずに俯いた。

 

「お前の腕前は疑っちゃいねぇ。あの(おきな)を斬ったんだからな」

 

 妖夢の反応に対して、バツの悪そうに鬼は言い繕った。

 

「伊吹の(かしら)が言ったんだ。だから、間違いねぇんだろうさ」

「伊吹……伊吹萃香ですか?」

「そうだ、異変を先導した鬼だよ。あの人はな、地上で死んだ仲間の死に際を全部見届けて、それを生き残った俺達に教えてくれたのさ」

 

 伊吹萃香は、疎を操ることによって、自らの肉体を無数の分身や霧に変えることが可能である。

 実際に、異変の最中では萃香の分身が複数の場所で同時に確認されている。

 当時の妖夢は気付いていなかったが、あの場にも萃香の分身は存在し、翁の死に際を見届けていたのだった。

 

「だから、翁を斬った半人半霊の剣士のことは、鬼だけじゃねぇ、旧都の住人全員が知ってる。お前の斬ったジジイは、地獄でもそれだけ名の通った鬼だったのさ」

 

 その話を、妖夢は酷く気まずい思いの中で聞いていた。

 あの時トドメを刺したのは確かに自分だが、おそらくそこに至るまでの過程については伝わっていないのだ。

 しかし、自分から真実を告白する勇気も持てず、妖夢は唇を噛み締めた。

 

「お前が、何で地霊殿を出てこんな所をフラついてたのか知らねぇし、これからどうするつもりかも知らねぇが、地底で暮らしてくつもりなら、このことは隠さずにいた方が都合がいいだろうぜ」

 

 不意の言葉に、妖夢は思わず顔を上げた。

 

「ここではな、強ぇ奴が幅を利かせられる。俺達、鬼が一目置かれてるのもその為だ。その鬼を斬ったって言えば、大抵の奴はびびるさ。金でも食い物でも、好きに巻き上げりゃいい。それだけで生きていける」

「そんなの、山賊か強盗じゃないですか」

「働いて暮らしてぇなら、そこでも役に立つさ。ここでは強ぇってことは便利なんだ。鬼を斬ったって事実は、いい箔になるぜ」

「……信じてもらえれば、ですけど」

「疑う奴には、俺が肯定してやる。俺だけじゃねぇ、ここに住んでる鬼は誰もお前がやったことを疑っちゃいねぇよ。皆、地上で負けて帰ってきたんだ。自分の負けを誤魔化す奴は、鬼の中には一人もいねぇ」

 

 強く断言して、鬼は再び酒を呷った。

 

「貴方は、それでいいんですか?」

 

 妖夢はたまらずに問い掛けた。

 

「貴方が父親みたいだと言った鬼を、野良犬にも負けそうだと評した私が斬った、と。そう吹聴して回って、好き勝手横暴をする様を見ても何とも思わないんですか? そんなことが許せるんですか?」

「許せるね」

 

 妖夢が言葉を区切るより早く、被せるように鬼は即答していた。

 

「斬ったことを謝られるよりも、遥かにマシだ」

「――」

「鬼の首を獲ったってのは、それだけの偉業なんだよ。俺達鬼は、そう自負してるんだ。どんな形であれ、誇って欲しいんだ。負けた奴が、勝った奴に望めるのはそれくらいなんだよ。あのジジイは強かった。その証明を、横暴だろうが何だろうが、勝ったお前自身にして欲しいんだよ」

 

 最後の部分は、懇願するような響きが含まれていた。

 言い終えてから、思わず言うつもりではなかったことを口走ってしまった自分に気付いたかのように、鬼は小さく舌打ちした。

 誤魔化すように、三度酒を呷る。

 空になった器に酒を注ぐ。

 もう一度呷る。

 その間、妖夢は何かに耐えるように押し黙ったままだった。

 

「――勝った奴は、逃げちゃいけねぇんだ」

 

 不意に、鬼が口走った。

 妖夢が顔を上げると、睨むように鬼が見ていた。

 

「お前が刀を持ってない理由なんて知らねぇ。けどな、お前が刀を捨てたのか、刀から逃げたのかで話は変わる」

「――」

「刀を捨てたんなら、俺から言うことは何も無ぇ。お前は勝負を捨てたってことだ。もう一生戦わないってことだ。そんな奴に言えることは何も無ぇ。だが逃げただけなら、まだあるぜ」

「逃げたなんて、そんな……私はただ」

「翁を斬った刀を、お前どうしたんだ? 折ったのか? それとも誰かに売ったか? ドブにでも捨てたかよ?」

「……私は、もう刀を抜けないんです」

「抜こうと一度でも思ったんなら、それは捨てちゃいねぇんだよ。逃げたって言うんだよ」

 

 妖夢は言葉を失った。

 鬼の指摘が、心臓に深く突き刺さるように感じたのだ。

 

「勝った奴は、勝負から逃げちゃいけねぇんだ」

 

 最初の言葉を、今一度噛み締めるように口にする。

 

「逃げられやしねぇんだ。勝った奴の後ろには、負けた奴らがいるんだよ。そいつらが道を塞いでんだ。そいつらを振り切って逃げるなんて、許されねぇんだよ」

「違うんです。あの勝負は、本当は――」

「お前の事情なんて知らねぇよ。俺は事実しか知らねぇ」

「――」

「お前は、鬼を斬ったんだ。斬ってのけたんだ。お前は強ぇんだよ。だから、逃げちゃいけねぇんだ」

「――」

「逃げねぇでくれよ。頼む」

「私は――」

 

 そこまで言って、妖夢は言葉を切った。

 次の言葉が出てこなかった。

 何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。

 鬼が口にした話は、全て手前勝手な理屈である。

 こちらの事情も知らず、ただ自身の理屈を強引に押し付けてきたのだ。

 しかし、不思議なことに反発する気持ちは欠片も湧いてこなかった。

 幾らでも言い返すことが出来たはずだ。

 

 ――勝手なことを言うな。

 ――その理屈の通りなら、私は逃げてもいい。

 ――何故なら私は負けたからだ。

 ――あの鬼を本当に倒したのは魔理沙で、自分はそのおこぼれに与った負け犬なんだ。

 ――だから、逃げて何が悪いんだ。

 

 相手の知らない事情を説明して、納得させられる反論が出来たはずだ。

 そして、放っておいてくれ、と。関わらないでくれ、と。この場から逃げ去ることも出来たはずである。

 だが、やらなかった。

 何故だ。

 それは――。

 それは自分がまだ本当の負け犬ではないからだ。

 その屑のような言い訳を許さないだけの意地が、まだ自分の中に残っていたからだ。

 確かに、自分は戦いから逃げた。

 しかし、まだ捨ててはいないのだ。

 妖夢は、ようやくそれに気付いた。

 

「私は、まだ――」

 

 冷え切っていた心と体の奥が、カッと熱くなったような気がした。

 妖夢は俯いていた顔を上げた。

 

 ――まだ。

 ――まだ、間に合うか。

 ――まだ、ここから進めるか。

 ――逃げてしまった分の道を、もう一度引き返せるか。

 

 向かい合う鬼には、妖夢の気配が変わったことが感じ取れた。

 先程までの彼女は腑抜けだった。

 屍が動いていたようなものだ。

 しかし、今はもう違う。

 少なくとも、今の彼女を動かすものは生きることへの惰性ではなく熱であった。

 

「……そうかよ」

 

 鬼は納得したように呟いた。

 

「それなら、それでいいんだ」

 

 これから、妖夢がどうするつもりは分からない。

 事情など知らない。

 ただ、鬼は少し満足そうに苦笑して、酒を一口啜った。

 

「おい、一つ教えといてやるよ」

 

 思いついたように、鬼が言った。

 

「お前が働いていた地霊殿な、ちと厄介事に巻き込まれてるかもしれねぇぜ」

「どういうことですか?」

「二日ほど前にな、古明地さとりに用があるって、地上から八坂神奈子とかいう神がやって来てたんだよ。勇儀の姉御が追い返したが、ありゃどう見ても何か企みがあってのことだろうぜ。それとな、その神と関わったらしい地獄鴉のガキを、この間地霊殿に運び込んだ」

 

 妖夢の脳裏に込み上げてきたのは、変わり果てた姿で見つかった空の姿だった。

 彼女に何が起こったのか、さとりは説明してくれなかった。

 結局、自分が出て行く時まで、空も目を覚まさなかった。

 それらの心配事に後ろ髪を引かれる思いだったが、もう地霊殿の住人ではなくなった自分には関わることの出来ないことなのだと――。

 しかし、今の妖夢は、そんな言い訳染みた考えを自身に許さなかった。

 世話になったさとり達に、自分はまだ何一つ恩を返していないのだ。

 その義理さえ果たさずに、何処へも行けるものか――。

 

「すみません。やるべきことが出来ました」

 

 妖夢は立ち上がった。

 もはや行動に迷いはなかった。

 

「地霊殿に戻るのか?」

「はい」

「じゃあ、こいつを持ってけ」

 

 すぐ傍の壁に立て掛けていた刀を放り渡した。

 妖夢に絡んできた妖怪が持っていた刀だ。

 何処で拾ったのかは知らないが、あんな素人の所持物では碌な手入れさえ期待出来ない。ナマクラか、それ以下の代物だろう。

 しかし、今の自分には十分だと妖夢は思った。

 

「刀がないから戦えないなんて言い訳は、もう通用しねぇぜ」

 

 意地の悪い笑みを浮かべる鬼に向けて、妖夢も小さく笑い返した。

 

「とっとと行けよ。負け犬の愚痴に付き合せて悪かったな」

「いいえ。今度会う時は、お酒も飲めるようになっておきますから」

「もう二度と会わねぇよ」

 

 鬼は、もう妖夢の方を見てはいなかった。

 空になった器に視線を落として、酒を注いでいる。

 構わずに、妖夢は鬼に向かって深く頭を下げた。

 そして、すぐさま居酒屋から飛び出すと、風のように駆けた。

 地霊殿に向けて。

 

 

 

 

 仮に太陽が弾幕を放つとしたらこうなるのではないか――橙はそう思った。

 晴天の日、空から降り注ぐ陽光がもしも弾丸の形を取ったら、この圧倒的にして絶望的な光景が生まれるのかもしれない。

 その絶望の中を、諦めることなくチルノは飛んでいる。

 橙には、ただそれを見守ることしか出来なかった。

 

「どうしたのさ、チルノ?」

 

 (うつほ)は黒い太陽、弾幕は破壊の陽光だった。

 

「最強なんでしょ?」

 

 大小様々な火の玉が、無数に周囲を乱舞する。

 スペルカード・ルールに則っている以上、何らかの規則性や構成があるはずだが、主観で捉えるその弾幕はただただ視界を埋め尽くさんばかりの暴雨にしか見えなかった。

 

「さっきまでの大口はどうしたんだよぉ、チィルゥゥノォォオオオッ!!」

 

 空の昂ぶりに連動するように、放たれる弾幕は更にその激しさを増した。

 単純な弾数だけではない。

 その一つ一つが超高熱の火の玉である。それが埋め尽くす空間の温度は、異常なまでに上昇していた。

 熱風が吹き抜ける度に、呼吸すらままならなくなる。

 地上から見上げる自分でさえこうなのだ。弾幕ごっこの最中にある上空が一体どんな空間になっているのか、橙には想像も出来なかった。

 しかし、頭の中で鳴り響く不吉の鐘の音だけは確かに、途切れることなく聞こえている。

 想像を絶する空間の中で、チルノは戦い続けているのだ。

 

「こんな単純な弾幕で、あたいがやられるか!」

 

 もはや炎の壁と化した空の弾幕を、チルノは僅かな間隙からすり抜けるように回避した。

 傍から見れば危ういところで被弾しそうな、しかし実際には決して一か八かの賭けではない正確な分析により導き出された軌道だった。

 チルノは、空の弾幕の構成を完全に把握していた。

 これまで積み重ねてきた弾幕ごっこの経験が、妖精にあるまじき優れた洞察力と判断力を培ったのである。

 

「猪口才なんだよ、チルノォ!」

「チョコなんか持ってないわ! 溶けるでしょ、バーカ!」

「馬鹿はお前だァ!」

 

 空の弾幕を回避しつつ、射線を確保したチルノは『ショット』を放った。

 八咫烏の力を火球の弾幕として放出する空とは対照的に、チルノが放つのは氷の弾丸である。

 正確な射撃が空を確実に捉え――飛来する最中で氷の弾丸がみるみる溶けて小さくなり、標的に辿り着く前に消滅した。

 

「んな……っ!?」

 

 驚愕しながらも、チルノは射撃の手を休めなかった。

 しかし、撃った弾の全てが、空の体に着弾するより先に蒸発して消えてしまう。

 その理由は至極単純だった。

 空の放つ熱波を潜る中で、氷の弾が溶けてしまうのだ。

 

「き、汚いわよ、お空!」

「あっはははははは!! 何がぁ!? 私は別に何も卑怯なことはしてないよ!」

 

 動揺によって、チルノの動きが乱れた。

 そのほんの僅かな隙に雪崩れ込むように大量の弾幕が押し寄せ、慌てて退避する。

 決死の覚悟で埋めた彼我の距離が、これでまた開いてしまった。

 

「チルノの攻撃が届かないのは、簡単な理由だよ――弱いからだ! ただただお前が弱いからだよ!」

「何!?」

「私がただ無意識に身に纏っているだけの熱さえ、チルノの力じゃ破れないんだ! あははっ、これって卑怯かな? 私の方が強すぎるって理不尽な勝負かなぁ? もっと手加減した方がフェアかなぁ、チルノ!?」

「へん! まだまだ勝負はこれからよ!」

「終わりだよ! たかが氷の妖精が、太陽の力を手に入れた私に届くはずがないんだ!」

「いいや、届くね!」

「今の私とチルノには、それだけの差があるんだ!」

「大した差じゃないわ! 待ってろ、今そこに行ってやる!!」

 

 チルノは再び、目前にまで迫る弾幕の突破を試みた。

 肺を焼くような灼熱の空気を呼吸し、肌を焦がすような熱風の中を突き進む。

 実際のところ、チルノの体力は限界だった。

 肉体にも異常が起こっていた。全身から枯れることなく流れ続ける冷たい液体は決して汗などではない。

 水分以外の、生命そのものが溶けて流れ出しているかのような酷い虚脱感が全身を襲い、それは流れる量が増えるごとにどんどん酷くなっていった。

 頭を繰り返し殴りつけられているような頭痛が止まない。

 意識が朦朧とする。

 致命的な瞬間が近づいていることを本能的に感じていた。

 しかし、それを分かっていてもチルノは飛ぶことを止めなかった。

 彼女にとって幸であり不幸であったのは、脆弱な妖精の身でありながら、その身の限界を超える方法を知っていたことだった。

 かつて彼女の目の前で同じように窮地に追いやられながらも、己の限界を超えて立ち上がった人間の姿を記憶に焼き付け、それを目標とし続けていたことだった。

 いつの間にか、チルノは吠えていた。

 唸りを上げて飛来する無数の火球に飲み込まれまいと裂帛の気合を吐き出して、矢のように飛んだ。

 絶望的だった距離が縮まる。

 空の姿が迫る。

 チルノは手を伸ばした。

 空はそれを無視した。

 そこから放たれる攻撃は決して自分に届きはしない――そう判断したからだった。

 代わりに新たなスペルカードを切った。

 

 ――核熱『ニュークリアフュージョン』

 

 一際巨大な火の玉が、近づく二人の間を塞ぐように出現した。

 限界を超えて感覚の研ぎ澄まされたチルノは、それさえも回避してみせる。

 ゆっくりと迫る火球を迂回するように避けて飛び、

 

「ぎゃぁあああああっ!!」

 

 耳を覆いたくなるような悲鳴が上がった。

 左手で右肩を押さえたチルノが空中で失速し、墜落を始めていた。

 本来は肩ではなく、腕を押さえようとしたのだろう。

 しかし、その右腕が無くなっていた。

 右肩から下。そして、右脚の膝から先が消失していた。

 溶けたのだ。

 火傷という段階を飛び越して、手と足が崩れるように溶けて蒸発した。

 橙は、そのおぞましい瞬間を目撃してしまった。

 

「――『飛翔韋駄天』!」

 

 弾けるように橙は跳んだ。

 本来ならば主人である藍の許可無しに使ってはいけない式神としての機能を発動し、強化した身体能力によって、落下するチルノの元へ瞬時に辿り着く。

 しかし、そこはいまだ空の弾幕の最中にあった。

 ぐったりとしたチルノの体を抱えた橙は、殺到する無数の火球を避けられずに被弾した。

 痛みと衝撃で、一瞬足の止まった橙に、追い打ちのように弾幕が次々と当たっていく。

 

「ちぇん、逃げて……っ!」

「嫌だ!」

 

 かろうじて意識を保っているチルノの言葉に首を振る。

 背中の肉を焼かれながらも、橙はチルノを庇い続けた。

 

「友達を見捨てるもんか!」

 

 不意に、被弾の衝撃と熱が途絶えた。

 橙が振り返ると、そこには盾となって飛来する弾幕を受け止める赤鬼の巨体があった。

 

「ぅお熱ぃいいいいいいいい!!? 何やってんだ俺はぁぁああ!?」

 

 赤鬼は錯乱しながらも両手を広げてチルノと橙に届く全ての弾幕を防ぎきった。

 しかし、着弾の衝撃や勢いまでは止めきれず、押し流されて、落ちていく。

 足が着いた途端、橙は膝を折ってチルノ共々地面に倒れ込んだ。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

 赤鬼の案じる声に答える余裕はない。背中を焼く痛みに歯を食い縛って耐えている。

 小さな背中が、見るも無残に焼け爛れていた。

 チルノに至っては手足を溶かされているのだ。

 赤鬼自身も、弾幕を受けた箇所にハッキリとした痛みとダメージを感じている。

 非殺傷を想定しているはずの――いわば手加減した攻撃である――弾幕で、鬼の頑強な肉体に傷を負わせたのだ。

 相手はその気になれば、この場の全員を文字通り消滅させられるだけの力を持っている。

 上空で悠然と佇む空を、赤鬼は戦慄を伴う視線で見上げた。

 

「化け物が……っ!」

「違う!」

 

 大声で否定し、チルノは立ち上がろうとした。

 しかし、立てるはずがなかった。片足が無くなっているのだ。

 バランスを崩して、再び地面に転がる。

 

「お空は化け物なんかじゃない!!」

 

 残された左腕で体を支えて、必死に叫ぶ。

 

「今、あたいがそれを証明してやる……!」

「おい、やめろ! 馬鹿か、てめぇ!? もう勝負になんかならねぇんだよ!」

「まだだ! 足がないなら飛べばいいんだ!」

「分からねぇのか! お前の弾はあいつにゃ届かねぇ。避けるどころか防ごうとすらしてねぇ。お前の弾が勝手に届かねぇだけなんだ! おまけに、お前はさっきの弾幕をしっかりと避けてた。掠ってすらいなかった。お前の体は、あいつの攻撃の余波を受けただけで溶けちまったんだよ! 勝負がどうこうってレベルじゃねぇ! お前とあいつには、もう同じ場所に立つことすら出来ねぇほどの違いがあるんだよ!!」

 

 ――実力差を超えた、存在や立場そのものの差。

 

 種族の中でも格下として生き続けてきた赤鬼には、二人を隔絶する壁が如何なるものか痛感出来るのだった。

 自分も含めて、もはや空に敵う者はいない。

 

「とっとと逃げんぞ!」

「嫌だ!」

「うるせぇ、お前の意見なんか知ったことか!」

 

 赤鬼はチルノと橙をそれぞれ両腕に抱え上げた。

 その時、頭上が赤く輝いた。同時に強烈な熱風が吹き降ろしてくる。

 恐る恐る視線を持ち上げてみれば、それまで弾幕を止めて沈黙を保ってたはずの空が左手を真上に掲げている。

 その指先には、これまでで最大級の火球が形成されていた。

 

「お……おいおいおいっ! ちょっと待て、もう弾幕ごっこは終わっただろうが!? お前の勝ちだよ! 俺達はさっさと退散するから、もうやめろ! スペルカードじゃねぇだろ、そりゃあ!?」

 

 叫びながらも、それが意味のない抗議だと分かっていた。

 放たれれば着弾地点周辺を全て灰に変えるだろう火球が、弾幕ごっこに用いられるものであるはずがないことなど一目で分かる。

 先程までチルノに対して激情をあらわにしていた空の顔からは、最初に見つけた時のように表情が抜け落ち、焦点の合わない瞳からは意思というものが消えていた。

 代わりに胸の目玉が動き、眼下の三人を捉えた。

 赤鬼の背筋に絶望と死が走り抜けた。

 無慈悲なまでに淡々と、隕石の如き火の玉が落とされる。

 逃げられるはずがなかった。

 立ち竦むしかない赤鬼の腕の中で、迫り来る火球を睨みながら、チルノは震える手を伸ばした。その先にいる空に向けて。

 灼熱の光が視界を埋め尽くす。

 

 ――その最中を、一筋の白光が走り抜けた。

 

 その光が走った直線を境目にして、火球は二つに分断されていた。

 二つに分かれた炎の塊は急激に力と熱を失い、地面に落ちる前に空中で霧散した。

 一瞬の内に目の前で起こった現象は信じ難いものだった。

 あの巨大な熱量の塊を真っ二つに両断した衝撃はもちろん、その余波に至るまで完全に消滅させたのは一体如何なる方法なのか。

 唖然とする赤鬼の前に、一人の少女が降り立った。

 遅れて金属質な音が小さく鳴り響く。

 刀を鞘に納める際に鳴る鍔の音。

 魂魄妖夢は、残心を終えると改めて上空の空を睨み上げた。

 

「……何故なんですか?」

 

 震える声で問い掛ける。

 

「何故なんですか、お空さん!?」

 

 必死の呼び掛けにも空は答えなかった。

 未だ何処にも定まっていない焦点のまま、妖夢達に向けて再び火球を放つ。

 

「貴女達は、友達なんじゃなかったんですか!?」

 

 苦々しげに叫びながらも、神速の抜刀によって刀を振り抜く。

 再び一筋の白光が走り抜け、それが描いた直線を正確になぞるように、飛来する火球が切り裂かれた。

 膨大な熱量を、単なる鉄の刀を振るだけで消滅させる――如何なる原理か。

 その光景は『斬った』としか表現出来ないものだった。

 

「貴女は、こんなことをする為に力を求めたんですか!? お空さん――!」

 

 それでも空は答えない。

 再び火球が生み出された。しかも、先程の倍は大きい。

 そして数が、四つ。

 地霊殿を含む、周囲一帯を焼き払わんばかりの火力だった。

 

「……お、おい。あれも斬れるよな?」

「分かりません」

 

 赤鬼の問い掛けに、妖夢は険しい表情で答えた。

 空の掲げた手が、今まさに振り下ろされんとする。

 

「――があっ!?」

 

 その手が、完全に振り抜かれる途中で止まった。

 空が自分の意思で止めたのではない。

 不自然な止まり方だった。

 手首と指が、奇妙な角度に曲がっている。

 突然、筋肉が引き攣ったかのように、腕があらぬ方向に捻じ曲がった。

 関節が軋みを上げ、あとほんの少し動かせば腕が折れる、といった異常な角度である。

 自分の意思で曲げられるような角度ではない。見えない力によって無理矢理捻られているようだった。

 実際に、空は腕に走る激痛で正気を取り戻し、苦悶の表情を浮かべている。

 ついには耐え切れなくなり、空を飛ぶことも出来ずに落下した。

 地面に倒れた後も、腕はあらぬ方向に曲げられたままである。

 それどころか捻られた腕に引っ張られて、背筋も反り上がり、まともに立つことすら出来ない状態になっていた。

 

「一体、何が……?」

 

 何者かが、空の動きを封じたことは妖夢も察することが出来た。

 しかし、誰が、どうやって――?

 その疑問に答えるように、地霊殿の扉がゆっくりと開いた。

 

「さとりさん――!」

 

 僅かに軋んだ車輪の回る音が、静まり返った周囲の空気の中で響き渡る。

 押す者のいない車椅子に乗ったさとりが、開いた扉の暗がりから幽鬼のように現れた。

 

「動けなかった、はずじゃ……」

 

 ひょっとして体調が回復したのか――そんな楽観は、僅かに浮かんだ瞬間妖夢の頭の中から消え失せた。

 妖夢だけではない。

 さとりの姿を見た、その場にいる全ての者が、ただ一つの感情に支配されていた。

 

 ――恐怖。

 

 体の内から湧き上がる強烈な感情は、肉体すらも支配して動きを縛る。

 誰もが凍りついたかのように動けない中、さとりの三つの瞳が一人一人をゆっくりと見つめていく。

 

「さ……さとり様、ごめんなさい……」

 

 瞳に意思の光を取り戻し、それ以前に抱いていた激情も忘れて、空は叱られた子供のように震えながら許しを乞うた。

 しかし、さとりはそれを完全に無視した。

 次に、さとりに見つめられた妖夢は戦慄した。

 短い間とはいえさとりの下で働いていた妖夢が一度も見たことのない、冷酷な眼つきだった。

 

「友愛」

 

 ため息を吐くように、さとりが呟いた。

 

「信頼」

 

 冷たい声だった。

 

「絶望」

 

 誰も聞いたことのない、

 

「憎悪」

 

 妖夢はもちろん空でさえ、

 

「君達はでこぼこだ。余計なものが多過ぎる」

 

 これまで見てきた姿が偶像だったのではないかと思える程、誰も見たことのない『古明地さとり』がそこにいた。

 

「道具ですらいられぬのならば、今ここでもろとも先に逝け」

 

 ――殺される!

 

 誰もがそう確信した。

 これから自分達は殺される。

 抵抗の余地なく死ぬ。

 限りなく残酷な方法で殺される。

 絶対にだ。

 全ての理屈を抜きにして、そう悟らせるほどの殺気が叩きつけられていた。

 

「そこまでだよ、お姉ちゃん」

 

 張り詰めた空気の中、酷くあどけない声が響いた。

 いつの間にか――そうとしか表現出来ないタイミングで、さとりの傍らに一人の少女が現れていた。

 物陰や死角から出てきたわけではない。

 その場の全員が注目していたさとりの傍らに、全員が気付かない内に立っていたのだ。

 

「今ここで殺しちゃったらさぁ、きっと後悔すると思うな」

 

 さとりによく似た顔立ちと姿形をした少女だった。

 覚妖怪だけが持つ、第三の眼の器官さえ持っている。

 しかし、その少女の第三の眼は固く閉ざされていた。

 

「こ、こいしさま……」

 

 さとりに向けるものとは、また別種の怯えを含んだ声色で空が呟いた。

 名前を呼ばれた古明地こいしは、にっこりと笑った。

 

「ちょっとはしゃぎすぎちゃったね、お空。お姉ちゃんを助けたいって気持ちはいいんだけどさ、少し勝手にやりすぎたんじゃないかなぁ?」

「ごめんなさい……」

「お姉ちゃんの言うとおり、余計なものが多すぎる。ただひとつ、お姉ちゃんへの崇敬さえあればいいはずでしょ」

 

 こいしは、先程のさとりを真似るように冷たく囁いた。

 聞く者に怖気を走らせるような、狂信的な言葉だった。

 妖夢達が息を呑む中、空は『はい』とかろうじて答えて項垂れた。

 

「貴女達も命拾いしたね」

 

 こいしの笑顔が、妖夢達の方を向いた。

 

「でも、大した差ではないわ。何も知らず即死していた方が幸せだったかもしれない」

「……どういうことですか?」

「神を喰らったお空の力は見たでしょ?」

 

 妖夢の問い掛けに、こいしは答えた。

 

「お姉ちゃんはやるわ」

 

 沈黙を続ける姉の言葉を代弁するように、こいしは謳った。

 

「八咫烏の力を利用して、地上を火の海に沈めるつもりよ」

「馬鹿な!?」

「馬鹿げたことかどうかは、実際に異変が起こってから思い知ればいいんじゃないかなぁ」

「本当なんですか、さとりさん!?」

 

 さとりは答えなかった。

 先程の強烈な殺気は嘘のように消え失せ、まるで眠っているかのように静かだった。

 僅かに俯いた顔から、その表情を伺うことは出来ない。

 

「すぐに分かるよ。地上に新しい灼熱地獄が生まれた時にね」

 

 こいしはさとりの乗った車椅子を押して、ゆっくりと地霊殿の中へと戻っていった。

 いつの間にか自由に動けるようになった空も、慌ててその後に付いて行く。

 それをチルノが止めることは、もうなかった。

 彼女は既に気を失っていた。

 

「止めたければ止めればいい。異変は解決するものなんでしょ。それが地上のルールならさ。でも――」

 

 これから先に待つものを心の底から楽しむように、こいしは笑った。

 

「どうせ、お姉ちゃんには誰も勝てない」

 

 

 

 

 ――時を少し遡る。

 

 ベッドの上で、さとりはうなされていた。

 頬は上気し、皺の刻まれた額には珠のような汗が幾つも浮いている。

 呼吸すらままならないかのように、喘ぐような荒い寝息を繰り返していた。

 これほどまでに彼女を苦しめるものは、一体何なのか。

 彼女が見ているものは、一体如何なる悪夢なのか――?

 

「――熱っつ! なにこれ熱っつゥィ!!?」

 

 蒸篭(せいろ)の中で蒸される中華饅頭になる夢を見ていたさとりは、悲鳴を上げて眼を覚ました。

 しかし、覚醒しても尚、悪夢から逃れることは出来なかった。

 夢の中の話だけではない。部屋の温度が異常なまでに上がっていたのだ。

 それこそ寝汗を掻くどころではない、皮膚に痛みすら感じるほど空気が加熱されていた。

 

「ちょ……っ、死ぬ! 死んじゃう!」

 

 さとりは慌てて部屋から逃げようとしたが、体を起こすことさえ出来なかった。

 相も変わらず、麻痺した手足はピクリとも動かない。

 空気が煮立つような空間で身動き一つ出来ないのだ。拷問も同然である。

 このまま放置された場合の自身の末路を想像して、上気した頬が一気に青褪めた。

 

「お、お燐! おりーん! お空でもいいわ、誰か助けて!?」

 

 唯一動く首から上を駆使して、大声で周囲に呼びかけたが、応える者は誰もいなかった。

 それどころか、異常事態がこの部屋だけではなく、地霊殿全体で起こっていることを察知してしまう。

 逃げる為の体力すら奪われ、衰弱して動けなくなったペット達の助けを呼ぶ心の声が、屋敷のあちこちから聞こえた。

 しかし、助けが必要なのはさとりも同じである。

 如何に妖怪とはいえ、身体能力が人間並であるさとりには死に至る状況だった。

 助けは来ない。

 体は動かない。

 選択の余地はなかった。

 

「ええいっ、想起――!」

 

 文字通り命懸けの状況で、追い詰められたさとりはかつてない集中を以って能力を発動させた。

 第三の眼が輝き、その身にトラウマが再現される。

 瞬き一つした後、さとりは変貌していた。

 暑さと息苦しさに歪んでいた顔は、表情が溶けて流れ落ちたかのように感情を失った。

 指一本動かせなかった体が、不自然な体勢と勢いで起き上がる。

 もはや、そこに先程までの『古明地さとり』はいなかった。

 

 ――想起『レガート・ブルーサマーズ』

 

 ベッドから降りたさとりは、部屋の入り口まで歩み寄ると、無造作に扉を蹴り飛ばした。

 細身からは想像も出来ない威力によって、金具が吹き飛び、真っ二つに割れた扉が廊下の壁に激突する。

 そのまま部屋を出ようとしたさとりは、蹴った方の足を踏み出した途端、体重を支えきれずに倒れ込んだ。

 限界を超えた脚力を発揮したことで、筋肉が痙攣を起こしていた。

 相応の痛みも走っているはずだが、今のさとりはそれを気にしてはいなかった。感じてはいたが、それに頓着するような精神状態ではなくなっていたのだ。

 無視して、無理矢理立ち上がろうとする。

 さとりの身を案じて、それを止める者も、支える者もこの場にはいない。

 ――と、

 

「危なかったぁ。ちょっと油断して寝入っちゃってたわ」

 

 ベッドの下から、ゴロゴロと転がりながらこいしが現れた。

 さとりが眼を覚ました瞬間、素早く隠れていたのだ。

 

「でも、お姉ちゃんがすぐに『想起』を使ってくれて助かったわ。普段のお姉ちゃんならわたしに気付いちゃうけど、今のなりきってる(・・・・・・)お姉ちゃんは、また別物だもんね」

 

 こいしは床の上で足掻くさとりに近づくと、その体を支えて、車椅子に座らせた。

 言葉の通り、一連の行動の間でさとりがこいしの存在に気付いた様子はなかった。

 一変したさとりの雰囲気は、近づくだけで命の危険を感じる程恐ろしげなものだったが、その意識自体はここに在らずといった様子で、中身を伴わない空虚さを伴っていた。

 濁った瞳は虚空を見据えるだけである。

 

「意思はあるけど意識はない。新しい能力のメリットとデメリットに気付かないと、どんどん深みに嵌っちゃうよ。お姉ちゃん」

 

 こいしは笑いながらさとりの耳元で囁いた。

 もちろん、この忠告がさとりに聞こえていないことを理解した上での行為である。

 こいしは、今の状況を楽しんでいた。

 

「まあ、でもとりあえずはこの状況をなんとかしないとね。ペットとかどうでもいいけど、話が進まなくなっちゃう」

 

 さとりの乗った車椅子を押して、こいしは部屋を後にした。

 向かう先は、地霊殿の外。

 空とチルノ達が繰り広げる修羅場だ。

 

「だけど、想起したキャラクターのチョイスが微妙に合ってないのが残念かなぁ。ラスボスはお姉ちゃんの役なのに、その腹心っぽい立ち位置のキャラじゃあ状況に言動が合わないと思うんだよね。その辺は、わたしがフォローするしかないかぁ。同じ漫画のトラウマなら同じラスボスの方を想起した方がしっくり来るのに。アレ再現したら『人間友好度:極低』じゃ済まなくなるだろうけど。原作の異変とか吹き飛んで、全員で力を合わせてお姉ちゃんを倒す展開になっちゃう。あはは、ウケる」

 

 自分で言いながら、可笑しそうに笑う。

 

「今はまだお膳立ての段階だよね。安心してよ、お姉ちゃん。原作通りにしっかり進めておくから」

 

 舞台を回す道化のように、こいしは言った。

 

「だから、クライマックスには最高のアドリブをお願いね」

 

 客席から巻き起こる爆笑の渦。

 悲劇を装った完璧な喜劇。

 暗転。

 そして、閉幕。

 

「この世界は全部冗談だけれど、オチくらいは予想外のものを見てみたいもん」




<元ネタ解説>

・同じ漫画のラスボス。人間友好度:激低

 レガートが崇敬する『ミリオンズ・ナイブズ』のこと。
 人間友好度とは、東方の書籍『東方求聞史紀』で書かれた幻想郷の人妖への評価の一部。文字通り人間への友好度を差す。
 ナイブズの人間への意識は原作漫画を読めば嫌というほど分かる。

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