東方先代録   作:パイマン

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真・地霊殿編その一。


真・地霊殿編
其の五十三「力」


 諏訪子は早朝の時間帯が好きだった。それは外の世界に居た時も、この幻想郷へやって来た後も変わらない。

 特に妖怪の山の朝は気に入っていた。

 余計な雑音がないのがいい。何処も自然の音だけが聞こえる。

 目覚め、動き始める動物の音。

 虫の音。

 木々の音。 

 水の音。

 雑多な音の重なりの中には、どれ一つとして耳障りなものがない。それが自然の一部だと思えば、耳を通して心に溶け込んでくるようだった。

 音を立てて、膨大な水が切り立った崖の上から下へと流れ落ちている。

 見事な滝であった。

 水の流れ落ちた先にある滝壺は、ちょっとした湖と表現してもいい程に広い。

 崖の高さ、そこから落ちる水の量、そしてその勢いの強さはいずれも凄まじく、巻き上がる無数の水の粒が濃密な霧のようになって周辺を満たしていた。

 時折流れに運ばれた流木が落下し、滝壺の中で粉々に砕かれていく。

 もしも、あの中に人間が落ちればどうなるかは見るまでもない。

 溺れ死ぬよりも先に、全身の骨を砕かれて絶命するだろう。

 その恐ろしくも壮大な景観のすぐ傍に、諏訪子は居た。

 崖の淵ギリギリで無造作にしゃがみ込み、じっと眼下を見つめている。

 膨大な湯気が立ち込めているかのように白く染まった滝壺の底に、眼には映らない力と気配を感じ取っていた。

 その力が、突如膨れ上がった。

 

「――おぉ!?」

 

 諏訪子は思わず感嘆の声を上げていた。

 滝壺の中心から人の形をした影が勢い良く飛び出してくる。

 それは振り上げた拳によって、落下する膨大な水を掻き分け、岩壁を削りながら、滝を真っ二つに切り裂いて、一瞬で遥か上空にまで到達していた。

 まさに竜が滝を昇り、天にまで届こうとするかの如き『昇竜』の姿。

 諏訪子にも見覚えのあるそれは、先代巫女が繰り出した技だった。

 つま先から拳までを繋ぐ線が弧を描いた姿は、抜き放たれた刀身を連想させる。拳の勢いが消えて僅かな時間滞空する様は、まさに技の後の残心か。

 落下を始めるより先に、先代巫女は外の世界で習得した飛行能力を発揮して、諏訪子の傍に降り立った。

 

「いやぁ、お見事! 凄まじいものを見せてもらったよ!」

 

 称賛というよりも、子供が無邪気に面白がるように拍手をしながら諏訪子は言った。

 水浸しになった先代が、一礼して応える。

 

「おーい、タオル掛け。ちゃっちゃっと来い」

「わたしの名前は芳香だー」

 

 乾いたタオルが水気に触れないよう、離れた位置に居た芳香がやって来る。

 実際に諏訪子の言うとおり、生ける屍である芳香の肉体は関節が固まって曲がらず、前に伸ばした腕にタオルが引っ掛かっているだけの状態だった。

 手渡すことも出来ない芳香は、その腕を先代の前に差し出した。

 

「ありがとう」

 

 律儀に礼を言う先代に、芳香は満更でもなさそうな笑顔を浮かべた。

 

「しかし、先代はいつもあんなことやってるの?」

「あんなこと、とは?」

「拳で滝を割るなんて漫画みたいな修行」

 

 今回、諏訪子が先代の修行風景に立ち会えたのは全くの偶然だった。

 たまたま諏訪子が朝の散歩で、ここまで来ていたからに過ぎない。

 外の世界で神奈子と渡り合った戦いぶりから、先代巫女が只者ではないことは分かっていたが、人の身にここまで非常識な鍛錬を課していたとは予想外だった。

 

「先代はさ、生まれつき特別な力があったとか、何か特殊な血筋だったりとかした?」

「いえ、平凡な子供でした」

「へ、平凡かぁ……」

 

 到底信じられない話だった。

 

「最初からこんなことが出来たわけではありません。長年の修行の成果です」

「じゃあ、最初はやっぱり普通に体を鍛えてたりしたんだ」

「今でも普通に鍛えてますが」

「普通に鍛えただけで滝を割ったりできねーよ」

「あれはそういう技ですから」

「いや『技だから出来る』とかその理屈はおかしい」

 

 神様が人間にツッコミを入れるとか逆じゃね? と諏訪子は思った。

 

「そもそも平凡な子供だったんなら、何で修行しようなんて思い立ったのかね?」

「一つは、生き残る為でしたが――」

「……どういうこと?」

「私は、物心つく頃にはこの妖怪の山に捨てられていました」

「あ、ごめん」

「いえ。当時の記憶が曖昧なので、詳しくお話は出来ませんが」

「いや、それはいいんだけどね。……そっか、強くならなくちゃいけなかったのか」

「必要だったからだけではありません。何よりも、好きでやっていたことです」

「好き!? 修行が!?」

「はい」

「……死にそうな修行が?」

「はい」

「そうか」

「はい」

「一種の変態だね」

「――」

「冗談だよ」

「はい……」

 

 声色が心なしか落ち込んでいるように聞こえる先代を見上げて、諏訪子は楽しげに笑った。

 鉄のように動かない表情と鍛え抜かれた肉体が厳格な印象を与えるが、こうして実際に触れ合ってみると中々に可愛げのある内面を持っているような気がする。

 寡黙だが、実のところ口が回らないだけで、結構快活な性格をしているのではないだろうか。

 先代巫女の持つギャップが、諏訪子は好きになり始めていた。

 

「修行が好きって言っても、別に自分の体を痛めつけるのが好きなわけじゃないんだろう?」

「はい」

「生き残る為っていうのが理由の一つに過ぎないなら、修行して得られる『強さ』が一番の目的でもないわけだ」

「そうです」

「となると、何かへの『憧れ』かな?」

「その通りです」

「そっかそっか」

 

 諏訪子は楽しそうに笑いながら、頷いた。

 ある程度の納得は得られたが、肝心の『何に対する憧れ』かは分かっていない。

 修行によって近づける憧れとは、何なのか?

 

 ――訊かないでおこう。

 ――その方が、楽しそうだ。

 

 先代巫女の強さの秘密を追及することは、諏訪子にとってさして意味があることではない。

 修行に向ける彼女のひたむきさと、その元になっている感情が予想していたよりもずっと純朴であった事実に、既に好奇心は十分満足していた。

 

「本当に、あんたは知れば知るほど面白い人間だねぇ」

 

 諏訪子が先代を好ましく思うのは、何も強さや人柄だけではない。

 先代には、自分や早苗、そして神奈子を救ってもらった恩がある。

 先代がいなければ、こうして三人で幻想郷での新しい生活を始めることもなかっただろう。

 外の世界に絶望していた神奈子に、形はどうあれ新たな目的と活力を与えた。

 早苗は苦悩を乗り越えて新しい道を歩き出し、最近聞いた話では幻想郷で初めて出来た友人が先代の娘だという。

 これまで抱えていた様々な憂いを解消し、こうして自分が飄々とした神を気取っていられるのは、目の前の人間のおかげなのだ。

 なんとも奇妙な話だが、神が人間に恩義を感じているというわけだ。

 この恩は重い。

 だからこそ――。

 

「先代」

「何でしょう?」

「何か困ったことがあったら、わたしが力になるよ。なんてったって、神様だからね」

「突然、どうしました?」

「なんでもないよ。ただ覚えておいて欲しいんだ」

「……分かりました」

 

 諏訪子は、先代の抱える危うさに気付いていた。

 自分以外に気付いている者は、ごく少数しかいないだろう。

 少なくとも、先代が長年過ごしてきたこの幻想郷での知人達の中に、彼女の秘密を知る者はほとんどいないはずだ。唯一の例外は、さとりだけだろう。

 外の世界で先代と関わった者――正確には外の世界で先代が戦う姿を見ていた者――だけが、彼女の秘めた恐るべき力に気付いている。

 その脅威に身を晒し、死を覚悟したことは諏訪子自身の記憶にも新しい。

 

 ――神奈子との死闘の最中で垣間見せた黒い力。

 ――殺意が形になったかのような力。

 

 神奈子と自分を殺しかけたあの力が、先代の元々持っていた力だとは思えなかった。

 あれは、明らかに人の身に余る力だ。

 先程の修行風景を見て、諏訪子はその予想により一層確信を得ていた。

 滝を割ったあの技は、神奈子に致命傷を負わせた技と同種のものと見て間違いない。

 しかし、決して同一のものではなかった。

 確かに凄まじい威力だったが、それでも外の世界で見たものには及ばない。

 あの時の一撃には、単なる殺傷力や破壊力の値では測れない『おぞましさ』や『禍々しさ』が強く感じられた。

 錯覚ではない。それは『祟り』という負の力を操る諏訪子だからこそ分かる感覚である。

 技自体は同じかもしれない。しかし、そこに伴う力は全く別物だった。

 あの力は――。

 

「差し当たって、先代に一つ訊いておきたいことがあるんだ」

「何でしょう?」

 

 危険だ。

 何よりも、先代自身にとって。

 あんな得体の知れないものを、人の身に宿して安全なわけがない。

 諏訪子は、先代が自分自身はもちろん大切な者の生死を懸けてまで戦ってくれた意志の尊さを、よく理解していた。

 だからこそ、それまで決して目的を見失わなかった先代が、神奈子や自分を躊躇いなく殺そうとした際の豹変ぶりに強い違和感を感じていた。

 あの時、神奈子が先代を心身共に追い詰めていたことは間違いない。

 あれが切っ掛けではあったのだろう。

 しかし、先代の意志を殺意によって飲み込んだのは、もっと別の、濁流の如き圧倒的な何かだ。

 それが、あの黒い力ではないのか。

 あの力は、先代自身が望んで身に宿したものではなく、ましてや制御し得るものではない。宿主さえ脅かす危険な代物ではないのか――。

 

「この幻想郷で先代が最も信頼する人物を、わたしに教えて欲しい」

 

 もしも、あの時と同じことが繰り返されるのならば――止めなければならない。

 他の誰でもない、先代自身の為に。

 諏訪子は密かに決意を固めていた。

 

「そいつに協力することが、結果的に先代を助けることに繋がるんなら、わたしも会っておいた方が何かと通りがいいだろうしね」

 

 内心を欠片も表に出さず、無邪気に訊ねる諏訪子に対して、先代は僅かに悩み、

 

「信頼出来る友人は多くいますが、一番となると……やはり紫ですね」

「ゆかり? ……あー、ひょっとして八雲紫のこと?」

「はい。面識はありますか?」

「あるある。幻想入りした当日に、幻想郷の管理者だっつって顔見せに来たよ」

 

 友人だと言う先代の手前、露骨に態度には出せなかったが、それでも諏訪子は顔を顰めずにはいられなかった。

 

「そうか、友人……友人かぁ。よりによって、あいつがかぁ……」

 

 ハッキリ言って『死ぬほど胡散臭い妖怪』というのが、諏訪子の抱いた第一印象だった。

 実力は底知れず、使用する能力も不鮮明で、雰囲気は不気味――と、負の三拍子が揃っている。

 天狗との一件にあの妖怪が裏から関わっていただろうことは、状況を顧みて諏訪子も薄っすらと気付いていた。

 警戒に値する要素は幾らでもあるが、友好に値する要素は限りなく少ない。

 先代という接点がなければ、好んで近づきたくない相手だ。

 しかし、実力や立場、先代との関係を考慮すれば、相談する相手としては申し分ないのかもしれない。

 そういった理屈とは別に『こんな胡散臭い奴に先代の命運を任せられるか』という気持ちも湧いてきたりする。

 諏訪子はかつてない程苦悩した。

 

「うーん、そうか……よし! 分かったよ、先代。とりあえず、八雲紫と話してみるよ」

「よく分かりませんが、友人と仲良くしていただけるのなら幸いです」

「仲良くか……うん。何と言うか、うん、あれだ。ど、努力はするっ!」

 

 曖昧な笑顔を浮かべて、そう答えるのが精一杯だった。

 

 

 

 

 ――名付けて『肖る程度の能力』!

 

 私の精神状態によって発動が左右されるこの能力は、即ち漫画やアニメの技の再現度を高める為に、どれだけ強くイメージ出来るかが肝になる。

 つまり、『出来る』という思い込みだ!

 出来る! 出来る! 絶対に出来るんだから! 諦めんなよ――ってこれじゃあ別の人、肖っちゃうよ! 違う! えーと……いーとしーさとー、せーつなーさーと、こーこーろづよさとーぉおおおおおおおおっ!

 

 昇 竜 拳 ! !

 

 気合一閃。

 水流が荒れ狂う滝壺の中で溜めていた力を解放し、私は拳を天に向けて突き出した。

 イメージが導くままに、文字通り竜の如く水面を打ち破り、巨大な滝を叩き割って、上空へと飛び出す。

 高速で上昇する中、私を見守る諏訪子様の姿が視界を掠めるように映った。

 よしっ、見えた!

 諏訪子様、そんな短いスカートでしゃがみ座りなんて無防備な格好しちゃ駄目ぇぇぇ!!

 ……ふぅ。

 残心もとい賢者タイム。

 昇竜拳と共に滾るリビドーも虚空へ盛大に放出した後、私は諏訪子様の傍に着地した。

 

「いやぁ、お見事! 凄まじいものを見せてもらったよ!」

 

 ありがとうございます。

 最終的には『真・昇竜拳』にまで昇華させて空中移動要塞を撃墜したいです。

 

「おーい、タオル掛け。ちゃっちゃっと来い」

「わたしの名前は芳香だー」

 

 芳香からタオルを受け取って、私は礼を言った。芳香ちゃんよしよし。

 芳香が私の修行に同行するのは今回が初めてではない。

 幻想郷に戻って以来、同居するようになった青娥が普段から色々と世話を焼いてくれるのだが、その一環として人里から出る時にはお供として芳香を連れていくように勧められたのだ。

 人里の外限定なのは、芳香の性質ゆえにである。

 まあ、ぶっちゃけ動く死体だしね。衛生面から見ても、妖怪以上に人里内では忌避される存在だろう。

 同じ理由で診療所内に居る時は、人前に出さないように青娥も気を遣ってくれている。

 自分の置かれている窮屈な環境に、芳香自身は特に不満はないらしい。

 外の世界ではトランクに人形よろしく折り畳まれて詰め込まれてたらしいから、それに比べればまだマシなのだが、それでも私は不憫に感じていた。

 なので、自分の手伝いをさせるというよりは、芳香に少しでも自由に行動してもらいたくて、青娥の勧めを受け入れたのだった。

 正直、人里の外に出る機会ってほとんど修行の時だしね。芳香に手伝ってもらうことはあまりない。

 護衛とか必要ないし、ちょっとした荷持ちくらいだ。

 ……青娥は『頑丈ですし、修理も利きますから、修行の相手にしても構いません』とか言ってたけど。

 確かに、関節技の練習とかに相手がいたら便利なんだけど、芳香の場合関節が固い上に痛覚がないから、イマイチ練習にならないのよね。本気でやったら昆虫みたいに関節がもげそうだし。

 かといって、単なる攻撃の的にするのはさすがに気が引けるしなぁ。

 それを青娥に言ったら『可愛がってあげてください』とか妖しい笑顔で答えられたんだが……それは稽古的な意味での『かわいがり』だよね? 本当の意味での『可愛がり』じゃないのよね? 後者の場合、意味深すぎる。

 とにかく、芳香を文字通りのサンドバックにするなんて非道な真似はしない。

 従者というよりは、道中の暇潰しに付き合ってくれる話し相手として、外出の際には芳香を伴うようになったのだった。

 そして、今回は修行の場所で偶然にも諏訪子様と会ったのだ。

 

「修行が好きって言っても、別に自分の体を痛めつけるのが好きなわけじゃないんだろう?」

「はい」

「生き残る為っていうのが理由の一つに過ぎないなら、修行して得られる『強さ』が一番の目的でもないわけだ」

「そうです」

「となると、何かへの『憧れ』かな?」

 

 さすが諏訪子様、察しがいい。

 こうして思い返してみると、修行する理由ってあまり他人に訊かれた記憶がないなぁ。

 普通、修行ってものは何らかの目標を持ってやるわけだ。例えば『俺より強い奴に会いに行く!』とか。

 しかし、私の場合は違う。修行そのものをやりたいから始めた。

 漫画やアニメに登場する様々な人物に憧れ、彼らのやっていたことを自分もやってみたいと感じて、始めたことなのである。

 彼らのようになりたくて始めたわけでも、彼らの持つ力を身に着けたくて始めたわけでもない。

 言うなれば、行動そのものへの憧れだ。

 リアルシャドーなどが最たる例だろう。

 私は現実では不可能な修行を出来るようにする為に修行を重ねていたのだ!

 ……こうして言葉にしてみると、控え目に言っても、その、なんだ、昔の私は相当な馬鹿だな。うん。

 

「本当に、あんたは知れば知るほど面白い人間だねぇ」

 

 好意的に解釈してくれる諏訪子様マジ神様。

 他の皆が一目置いてくれている私の力は、結果的に得たものであって、目指して手に入れたものじゃないのよねぇ。

 しかし、今は違う。

 事情が変わった。

 最近の私は、修行を楽しむなんて無駄なことはせず、真面目な目標を定めている。

 シンプルな目標だ。

 

 ――もっと力を。

 

 英語で言うなら『I need more power』だ。某鬼ぃちゃんみたいな発音で。

 理由はもちろん、さとりを守る為である。

 神奈子様との戦いで痛感したが、私の敗北が最悪の結果を招く可能性もあるのだと分かった。

 これまでのように自己責任で全てが納まるなんて楽観はしていられない。

 さとりは近い将来、大きな騒動に巻き込まれる。いや、その中心となってしまう。

 今更言うまでもない、地底で起こる異変だ。

 実際に事を起こすのはお空だが、その飼い主であり、地霊殿の責任者であるさとりに何の害も及ばないはずがないのだ。

 私が知識として知るゲームのストーリーの裏側で、具体的にどのように事態が動くのか、皆目検討もつかない。

 風神録では、外の世界で神奈子様と死闘を繰り広げるハメになった。

 あれは戦闘に至る経緯で私自身にも原因があったが、今回はどうだ?

 私が何もしなければ、穏便に話は始まり、そして終わるのだろうか?

 しかし、この異変はある意味神奈子様が元凶だ。

 神奈子様がお空と接触する時、あるいはその後、原作にはない争いが起こり、それにさとりが巻き込まれる可能性もあるんじゃないのか。

 分からない。

 楽観なんて到底出来ない。

 備えるしかない。最悪の場合、もう一度神奈子様と戦う事態も想定して。

 そして、その最悪の事態を制する為には――力が必要だ。

 外の世界でかろうじて拾った勝利ではなく、確実に勝つ為の力が。

 私がしているのは、その為の修行だった。

 これまでの修行には、余分な遊びがありすぎた。

 もっと効率的に、使える技を選び、習得しなくてはいけない。

 自分の能力を有効に活用するんだ。

 あの時、瀕死だったはずの私が何故神奈子様を圧倒出来たのか?

 私には、その理由が分かっている。

 いや、漫画とかなら突然の力の覚醒なんて覚えてなくて『俺は一体どうしたんだ……?』って悩む展開なんだろうけど、普通に記憶あるし、あの力が何だったのか前世の記憶で知っている。味気もクソもないネタバレやね。

 

 ――あれは『殺意の波動』だ。

 

 私が使った『波動拳』『昇竜拳』『竜巻旋風脚』を用いる拳法に伝わる、暗黒の力である。

 何故、それが突然使えるようになったのか?

 その理由も分かる。

 私の能力の影響だ。

 私が使った波動拳などの拳法は、本来は鍛錬によって内に眠る殺意の波動を鎮める為のものだった。

 しかし皮肉なことに、その拳法を再現することで、設定的に繋がりのある殺意の波動まで私の能力はこの身に宿してしまったのだ。

 私の能力とはいえ、殺意の波動は簡単に制御出来る代物じゃない。

 制御出来ないからこそ、私はあの時圧倒的な力を振るえた。

 使えば暴走する力を正確に再現したからこそ、あれだけの力を使えたと言える。

 ややこしい上に、なんて難しい話なんだ。

 現状、殺意の波動は私にとって害にしかならない。

 下手に使えば、原作の豪鬼のように、ただ戦うだけの修羅と化してしまうだろう。

 あの時、自制が効かずに神奈子様や諏訪子様を殺しかけたことも、私はちゃんと覚えている。

 自分の力なのに、自分の意思ではどうにも出来なかった。

 本当ならば、殺意の波動はもちろん、それを刺激しない為に関連する技全てを封印した方がいいのだろう。

 だが。

 しかし。

 私には力が必要だ。

 波動拳も昇竜拳も竜巻旋風脚も、極めれば私はもっと強くなれる。

 そして――殺意の波動も。

 危険な力だ。危険、だが……決して制御出来ない力じゃない。少なくとも、原作では克服した先駆者がいる。

 だったら、私にも出来るんじゃあ――?

 

「先代、いつまでもそのままじゃ風邪ひいちゃうよ」

 

 諏訪子様に言われて、私は我に返った。

 おっと、いつの間にか考え込んでいたらしい。

 確かに、体を拭いたとはいえ、濡れた服まではどうしようもない。

 まあ、だからって風邪ひくほど柔な鍛え方はしてないんですけどね。

 しかし、そんな『服の下には筋肉を着ている』と表現してもいいようなマッチョ巫女を繊細な女扱いしてくれる諏訪子様はやはり神か。

 

「ねぇ、折角だからウチに寄ってかない?」

「守矢神社にですか?」

「そう。体も冷えてるだろうから、お風呂入ってってよ。その間に服も出来るだけ乾かすからさ」

 

 なんというご厚意。

 いや、確かに早朝の時間帯だし、まだ診療所開けるには時間あるけどさ。

 しかし、さすがに人の家にあがって朝風呂までいただくなんて、甘えすぎだろう。

 この水の冷たさも修行の一環である。

 修行場に滝を選んだのは、己の肉体と精神を引き締める為だったのだ。

 修行とは自分に厳しくあるもの。

 特に、昔とは違って楽しむ為ではなく、強くなる為に鍛えるのならば、尚のこと気の緩みは捨てなくてはならない。

 絶対に、自分を甘やかしたりなんかしない!(キリッ

 

「さすがにそこまでしていただくわけには……」

「ねぇ、いいでしょぉ? わたしなら全然迷惑じゃないからさぁ、先代に遊びに来て欲しいな?」

 

 私の腕に両手を絡ませ、体を摺り寄せながら、上目遣いで甘えるような声を洩らす諏訪子様。エロい。

 

「お世話になります」

「やった!」

 

 ロリ神様には、勝てなかったよ……。

 私の方がお邪魔するのに何故か諏訪子様のおねだり攻撃に耐えられず、守矢神社に行くことになってしまった。

 いや、嬉しいのは間違いないんだけどさ、何で諏訪子様こんなに親切なの?

 いつの間に私はここまで好感度を上げたんだ。隠しイベントか!?

 

「さっ、早く行こう! 歓迎するよ! おい、荷持ち。お前もさっさと来い」

「わたしの名前は芳香だー」

 

 祟り神なのに無邪気な笑顔。やはり天使、いや神か。

 外の世界での出来事からこっち、新たな出会いと共に、私の周囲の環境がまた一つ大きく変化したのを感じる。

 原作の時系列考えれば当たり前なんだけど、私の人生、後半から密度高すぎワロタ。

 

 

 

 

「早苗、ちょっと訊きたいんだけど」

「何でしょう?」

 

 居間に戻ってきた早苗に、霊夢が開口一番に訊ねた。

 

「『ケーワイ』って外の世界の用語よね?」

「ああ、アルファベットのKとYですね。KYは『空気が読めてない』もしくは『読めてない人』という意味で、相手を戒めたり、けなしたりする意味も持つ日本の俗語ですね」

「なるほどね」

「……天子さんへの手紙ですか?」

「うん。あいつKYよね」

「さ、さあ? それに通じないんじゃないですか?」

「あいつの性格からして絶対に調べるわよ」

 

 学んだ表現を早速文面に活かす霊夢を見て、早苗は引き攣った笑みを浮かべた。

 また壮絶な内容の手紙になりそうだ。

 早苗は慌てて話題を切り替えた。

 

「そ、それより霊夢さん! さっきの弾幕ごっこ、見ていてくれましたか!?」

 

 ここは博麗神社である。

 早苗は障子戸を開けた居間から一望出来る境内の真上で、先程まで弾幕ごっこを繰り広げていたのだった。

 

「いや、見てなかったわ」

 

 霊夢は顔も上げずに素っ気無く答えた。

 早苗がガックリと肩を落とす。

 

「私の新しいスペルカード見てなかったんですかぁ? 折角、勝負にも勝ったのに!」

「おめでとう」

「全然、心が篭もってません!」

「いやぁ、負けた負けた」

 

 弾幕ごっこの相手をしていたマミゾウが、頭を掻きながらやって来る。

 

「お疲れ、マミゾウ」

「いや、まったくじゃ。骨が折れたわ。それにしても、おぬし強いのう」

「そうでしょそうでしょ」

 

 マミゾウの素直な称賛に、早苗は大げさに胸を張った。

 実際のところ、その行為に負けたマミゾウを貶める意図はなく、興味なさげな霊夢に対するアピールのつもりだった。

 しかし、当人は天子への手紙を書くのに集中している。

 早苗は面白くなさそうに頬を膨らませた。

 

「霊夢さんは私と天子さん、どっちが大切なんですか!?」

「それ、どういう質問?」

「友達である私よりも、嫌いな相手への手紙の方に興味を向けるとはどういう了見かと訊いているのです!」

「……なんか誤解してない? あたしはあいつへの嫌がらせに手を抜きたくないだけよ」

「つまり執着してるってことですよね。私の新しいスペルカードには興味ないくせに……」

「そりゃ興味ないけどさ」

「ほらぁ、またそんなこと言う!」

「どうしろってのよ……」

 

 霊夢は珍しく途方に暮れたような表情を浮かべた。

 早苗はこれまで付き合ったことのないタイプの人間だった。

 それでいて他人のように無視も出来ない。気を遣ってしまう。

 早苗の言うとおり、友達だからだ。

 言動では分かり辛い霊夢の心境を目敏く察したマミゾウは、二人のやりとりを傍らで楽しんでいた。

 

「いや、しかし本当に見事な弾幕じゃった。どうかな? 霊夢が手紙を書き終えたら、二人で勝負をしてみるというのは?」

 

 マミゾウのフォローに、早苗は眼を輝かせ、霊夢は面倒臭そうに眼を細めた。

 

「いいですね。霊夢さん、勝負です。今度こそは、私が勝ちますよ!」

「分かったわよ、ちょっと待ってなさい」

「はい、待ちます!」

「ああ、もう。面倒臭い」

「そんなこと言って、どうせ今日は用事なんてないんでしょ?」

「あるわよ。境内の掃除とか、家事とか――」

「ああ、全部儂がやっとくわい。今日は一日、友達と遊んできなさい」

「マミゾウ、あんたはまた余計なことを――」

「霊夢さん! 弾幕ごっこが終わったら、一緒にお出掛けしましょう! 人里を案内して欲しいです!」

「……あぁ、もう」

 

 霊夢はため息を吐いた。

 ここ一月ほどの間に、自分を取り巻く環境が劇的に変化したのを実感する。

 ある日、突然自分の住む家を失った。

 これまでの人生で一度も経験したことのない出来事や出会いがあった。

 気がつけば、母や魔理沙以外に訪れる者などほとんどいなかった博麗神社には、いつの間にか居候が増え、来訪者も増えて、自分の周囲は賑やかになっていた。

 これまで自分は先を見据えることの出来る冷静な人間だと思っていたが、それは子供ゆえの未熟な思い上がりだったのだろうか。

 明日起こることさえ予想出来ない。

 そして、そんな一日の始まりを想って、明日は何が起こるのか少し楽しみだと考えながら、眠りに就く最近の自分がいる。

 母に認められ、本当の意味で独立した人生を歩み始めた若き博麗の巫女、博麗霊夢。

 人生の内で最も豊かな青春の日々を、彼女は無自覚に謳歌していた。

 

「人里は、まだ数えるくらいしか行ったことがないから楽しみです」

 

 そして、東風谷早苗。幻想郷で新たな人生を歩み始めた、若き風祝である彼女もまた――。

 

「土地勘もないですし、やっぱり余所者ですから気が引けちゃって」

「博麗の巫女のとりなしがあれば、人里にも早く馴染めるし、信仰を集める活動もやりやすいだろうって?」

「霊夢さん、そんな捻くれた考え方しちゃあいけませんよ」

「そういう打算は全然ないわけ?」

「……ちょびっと」

「だと思ったわ」

「で、でも誤解しないでください! 霊夢さんと一緒に人里を回りたいっていうのも本当なんです!」

「別に焦る必要はないでしょ。そもそも、あんた一番最初にこの神社へ来た時、何て言ってたか忘れたの?」

「いや、確かに信仰を集める使命も大切ですが、霊夢さんとも仲良くしたいんです!」

「これから勝負する相手なのに?」

「ライバルにもなりたいんです!」

 

 矛盾するような内容を、早苗は爽やかな笑顔で言い切った。

 天狗の新聞などにより、虚実入り混じってはいるが、守矢神社の存在は急速に人里で認知されつつある。

 既に十分な実績によって幻想郷に権威が根付いた博麗神社と、突如妖怪の山に現れた新進気鋭たる守矢神社。

 しかしてその実態は、ただ『敵対』の一言では片付けられない、複雑な関係が築かれつつあった。

 

「分からないわね。あんたも、守矢神社も」

「ライバルって、漫画みたいで燃えるじゃないですか。先代巫女様――霊夢さんのお母さんと、神奈子様だって、そんな関係なんだし」

「母さんが?」

 

 霊夢が眼つきを変えた。

 

「そういえば話に聞いたけど、あんたの所の神様と母さんは外の世界で戦ったらしいわね」

「はい。私も直接見てはいないですけど、激戦だったらしいですよ。しかも、神奈子様の方が負けてしまったとか」

「仕える神が負けて、早苗は不満じゃないの?」

「あの時は色々と事情が複雑でしたから。結果的に、先代様が勝ったおかげで私達は幻想郷に来ることが出来ました。それに、先代様は本当に凄い人ですからね」

 

 そう言う早苗の顔には、先代巫女への素直な尊敬の色が浮かんでいた。

 早苗にとって、先代は憎むべき敵でも打倒すべき仇でもなく、純粋な恩人だった。

 同じく尊敬する神の敗北という事実に対する無念は、先代の娘である霊夢を超えるという健全な向上心へと昇華されていた。

 

「神奈子様だって、負けたことを恨んでなんかいませんよ、きっと」

 

 肝心の神奈子自身が、先代巫女との勝負の結果を引き摺っていないことも、早苗の心を明るくしていた。

 幻想郷へ移り住んでからも、神奈子と諏訪子を含めた三人の間で外の世界での出来事は自然と話題に挙がる。

 話の内容が先代に移った時、神奈子の顔はむしろ嬉しそうにも誇らしそうにも見えた。

 

「外の世界にいた時よりも、なんだか元気になったように思えます。先代様というライバルと競う為に頑張っているからですね、私のように!」

 

 早苗の見解は、本人もそうと知らずに意外なほど真実を捉えていた。

 

「頑張る、ねぇ……妖怪の山では天狗相手に大立ち回りしたそうじゃない?」

「まだまだこれからですよ。今日だって、守矢神社の更なる発展の為に、わざわざ神奈子様自身が出向かれているんですから――」

 

 神奈子が心の内に秘めた、静かに燻る火種を除いて。

 

 

 

 

 そこは地獄であった。

 正確にはかつて地獄であった場所だ。

 旧地獄街道――地上を追いやられた妖怪達が集まり、地底の地獄跡に自然と出来上がった『旧い都』の一部である。

 地上の光も音も届かない地底深くで、無数に連なる行灯が辺りを照らし、行き交う妖怪達の喧騒が辺りを満たしている。

 まるで年中祭りをしているかのような賑やかさだった。

 活気と呼ぶには、些か物騒な空気や音が含まれた賑やかさである。

 しかし、その物騒さも長年地底に住む妖怪達には慣れ親しんだものとなっていた。

 毎日吸う、空気のようなものだ。

 もしも、その空気に異物が混ざったら。

 この場所に場違いな者がひょっこりと迷い込んだなら。

 それはすぐに分かる。

 誰もが、肌や舌でそれを感じ取ることが出来る。

 そういうものなのだ。

 かつて、妖精を伴った一人の人間がここへ足を踏み入れた時も同じだった。

 

 ――そして今、あの時と同じことが起こっていた。

 

 街道の入り口から、その違和感はゆっくりと伝播していった。

 街の外からやって来た者がいる。

 そいつは、余所者でありながら、我が物顔で道の真ん中を歩いていた。

 この旧都で、そういった歩き方をする者は少ない。

 喧嘩が日常茶飯事となっている場所である。自分の行く道を遮る者がいれば、それは喧嘩を始める十分な理由になる。

 それゆえに、地獄の往来の真ん中を歩くのは、強者にだけ許された権利だった。

 そいつは、それを、していた。

 地獄の空気を肩で切り、真っ直ぐに前を見据え、口元には僅かな笑みさえ浮かんでいる。

 自然と道が開いた。

 暴力を日常手段とする旧都の妖怪達は、自分達の前を通り過ぎていく者の圧倒的な存在感と、その内に秘められた濃密な強者の気配を正確に感じ取ったのだ。

 異質な存在感だった。どう見ても、そいつは妖怪ではない。

 街道も半ばまで来た頃、変化が起こった。

 そいつが向かう先の方で、同じように道をひしめいていた妖怪達が左右に分かれ始めたのである。

 

 ――自分と同じように、道の真ん中を歩いてくる者がいる。

 ――地獄の住人達が道を譲るような強者が。

 

 そいつの笑みが、より一層深くなった。

 牙を剥く、獣の笑みだった。

 歩みは止まらない。

 前から向かってくる気配に対して、挑むように堂々と歩を進めていく。

 そして、丁度道の半ばで、その二人は鉢合わせた。

 

「鬼か」

「鬼だよ」

 

 星熊勇儀は答えた。

 

「そういうあんたは、神か」

「如何にも、神だ」

 

 地上からやって来た神――八坂神奈子は答えた。

 

「鬼よ、名を名乗れ」

「地獄に迷い込んだって風でもなさそうだ。その豪気な性格、神の中でもあんたは戦に携わる神かね」

「名を、名乗れと言った」

 

 胸の前で腕を組みながら言い放つ神奈子の態度に、周囲の妖怪達が殺気立った。

 勇儀は旧都でも一番の実力者であり、顔役でもある存在だ。

 その勇儀を、明らかに格下扱いしている神奈子の態度が、旧都の住人達の敵意を煽らないわけがなかった。

 しかし、そんな敵地同然の状況でも、神奈子は涼しげな笑みを保っている。

 それを見て、勇儀も不快感など微塵も含んでいないような清々しい笑みで応えた。

 

「私は星熊勇儀ってもんだよ。あんたの名前も聞かせてもらえるかい?」

「八坂神奈子」

「知らないね」

「鬼に神の肩書きや立場など、通じるとは思っていない」

「そりゃあそうだ。私も興味があるのは、あんたが何者かではなく、何をしにここへ来たってことだけだよ」

「地底世界というものがどういうものなのか、色々と見ておきたくてな」

「それだけかい?」

「そして、その地底を支配する妖怪に会いにきた」

 

 その言葉に、周囲が一瞬ざわめいた。

 地底で一番強い妖怪が誰かと訊かれれば、それは目の前にいる星熊勇儀だと全員が断言する。

 しかし、地底を支配する妖怪が誰かと訊かれれば――。

 

「古明地さとり」

 

 神奈子の口にした名前を聞いて、勇儀の片方の眉がほんの僅かに跳ねた。

 

「そうか。話に聞いたとおり、本当に奴なのか――」

 

 神奈子が面白そうに笑った。

 

「この地底で一番強いのはどう見てもお前なのに、支配しているのは奴というわけだ」

「あんたは、さとりを知っているのかい?」

「知っているとも。奴が今、どういう状態でいるかもな」

「だったら、さっさと地上へ帰ることだ。あいつは今、余所者と会える状態じゃないよ」

「庇うのか?」

「何?」

「天下に名を馳せる妖怪たる鬼が、ちっぽけな覚妖怪の味方をしているわけだ」

「そうだよ。あいつは、私の友達だからね」

「友……あの妖怪が、友か。面白いな。これは面白い」

「何が面白いんだい?」

「お前と同じことを言う人間がいたんだよ」

 

 その言葉に、今度は勇儀の顔付きが変わった。

 周囲の者達には伝わらない意味を、勇儀だけが察したのである。

 短い会話の中で、その人間のことを表す情報や具体的な名前など少しも出てきていないのに、神奈子が思い浮かべていた人物と同じ姿が勇儀の脳裏にも自然と浮かんだのだ。

 勇儀と神奈子。

 種族も立場も全く違う二人の間に生まれた奇妙な共感だった。

 二人を繋いだのは、一人の人間の存在だった。

 

「――へえ」

 

 それまで神奈子の言動に一切動じず、穏やかに切り返していた勇儀の雰囲気が剣呑なものに変わった。

 巨大な山が、晴天から嵐へと急に天候を変えたかのような変化である。

 

「そういうことか。なんとなくね、あんたが他人じゃないような気がしていたんだ。ようやく合点がいったよ」

「私もだ。お前とは、話が通じやすいと感じたよ」

「確かにね、余計な理屈はいらないだろう。あんたの気持ちが、よく分かるからね」

「そうか。ならば、手っ取り早く話を進めよう」

「いいとも」

 

 周囲の妖怪達は、二人のやりとりを見守ることしか出来なかった。

 神奈子に向ける敵意はあれど、余計な手出しをしようと思う者は、もういない。

 二人の会話は、それほどの緊迫感と、他者を寄せ付けない独特の雰囲気を纏っていたからだ。

 

「私の道を邪魔しているぞ。そこを通してもらおうか」

「断る。通りたければ、力づくで通れ」

 

 互いに己の言い分を言い終えた。

 途端、始まってしまった。

 戦いが。

 殺し合いが。

 その門が、開いてしまった。

 神奈子が組んでいた両腕を解いた瞬間、傍らに巨大な柱が一本突如出現した。

 何もない虚空から丸太のような柱が現れ、地響きを立てて神奈子のすぐ傍に突き立ったのだ。

 表面を平たく削って多角形になるように加工し、注連縄を巻いた『御柱』である。

 槍のように長いが、同時に太い。手で掴むことは出来ず、腕で抱えるのがやっとの柱だ。棍棒として使うにしても巨大すぎる。

 しかし、勇儀を含めた妖怪達は、それが神奈子の――神の武器なのだと直感した。

 対する勇儀も、普段のように片手に盃など持たず、代わりに両手の拳を固く握り締めている。

 それがもう、鬼にとっての武器も同然だ。

 二人は、既に臨戦態勢に入ってしまったのだ。

 

 ――やるのか!?

 

 周囲の者達は動揺した。

 星熊勇儀が盃を持たず、本気で戦うのは、かつて地底に初めて先代巫女が現れた時以来である。

 あの時と違うのは、相手の神奈子の実力を誰もが見誤っていない点である。

 いけ好かない相手だが、強大な力を持つ神だということも理解している。

 そんな二人が、本気で戦おうとしている。

 

 ――いいのか、本当に?

 ――あの勇儀が負けるはずがない。

 ――だが。

 ――とんでもないことになるぞ!

 

 旧都では、暴れる者には暴れて迎えるのが礼儀だ。

 暴力による問題と解決が日常に浸透している旧都の住人だからこそ、物事の度合いが正確に分かっているのだ。

 そんな彼らが躊躇していた。

 目の前で始まろうとしている戦いは、それほどの大事なのだった。

 

「一つ、提案があるんだがね」

 

 勇儀が言った。

 

「聞こうか」

 

 意外にも、神奈子は素直に応えた。

 

「このまま私とあんたが本気で戦えば、色々と無事ではすまないだろう。私達自身も、周りもね」

「そうだな」

「スペルカード・ルールって奴が、この地底でもようやく浸透してきたんだ。知ってるかい? 弾幕ごっこ」

「ああ、八雲紫とやらに釘を刺されたよ。上手い方法だとも思う。私も何枚かスペルカードを作ったしね」

「私も、やってみるとこれがなかなか面白いもんだと思うようになったのさ」

「だが、ここの性分には合わなさそうだ」

「直接殴り合う方が好きな奴らが多いからね。極狭い身内の間では、未だに揉め事の解決にそういう方法を取っちゃいるよ」

「ふぅん」

「だからね、ここで私が本気の決闘なんか見せちまうと、折角広めたルールに重みがなくなっちまうのさ。それじゃあ、地底の管理者であるさとりに、私の面子が立たない」

「言いたいことは、分かる」

「だがしかし、遊びのある勝負の仕方じゃあ収まらないだろう。お互いにね。それだけのこだわりがあるはずだ」

「あるな」

「そこでだ――お互いに本気で、一発だけ交換し合うって勝負はどうかね?」

 

 そう言って、勇儀は自分の右拳を胸の前まで持ち上げた。

 握り締められたそれは石、あるいは鋼が凝り固まったような、大きな塊だった。

 勇儀の潔い提案に、神奈子は微笑した。

 

「いいだろう」

 

 神奈子はあっさりと賛同した。

 勝負の方法は決まった。

 周囲が固唾を呑む中、今度こそ本当に二人が、一撃に全てを懸けた戦闘態勢に入る。

 神と鬼。

 果たして、どちらが上なのか。

 もはや二人の内どちらが敵か味方かなど重要ではなく、ただその勝負の行方だけに、誰もが強く興味を引かれていた。

 興味を持っていないのは、戦う当人達だけだった。

 

「不思議な気分だな」

 

 一触即発の状況の中、お互いに緊張感が高まった状態にいるにも関わらず、勇儀は喋っていた。

 口にした通り、自分でも不思議だった。

 目の前の神が、かつてないほど強大な敵であることは確かなのに、何故自分で自分の集中を乱すような真似をしているのか。

 

「喧嘩の前だってのに、こんなに落ち着いちまってる。気が昂ぶらない」

「気持ちは分かる」

 

 神奈子もまたそれに応じた。

 勝負の最中で、気が抜けているとも取れるような笑みが浮かんでいる。

 

「この勝負の結果に、意味などない」

「そうだね。所詮、私達はお互い、同じ人間に敗れた身だ。どちらが上か決めたところで、テッペンはもう決まっちまってるのさ」

「だが、それでもこだわることはある」

「そうとも。私の上は、あいつ一人でいい」

「なるほど。お前の立ち位置は、もう固まっているようだな」

「あんたは違うのかい?」

「今一度、あの人間と戦い、かつての勝敗を覆したい――とは、少し違うかもしれんな」

「へえ?」

「私が神だから、そう思うのかもしれんが」

「いずれにせよ、そこが私とあんたとの一番の違いってことだ」

 

 会話を続けながらも、二人の纏う雰囲気は、帯電した空気が徐々に膨らんでいくように、緊迫感を高めていく。

 それが破裂する瞬間が、確実に近づいてきている。

 それに気付きながら、二人は平然と言葉をやりとりしていた。

 

「星熊勇儀、お前にとって先代巫女とは何だ?」

「我が生涯の友。この身が滅ぶまで、私はあいつの魂と共に在る」

「ならば、今ここで滅ぶがいい。■■の魂は、我が下に仕える」

「……何?」

 

 神奈子が最後に口にした言葉に、勇儀は一瞬気を取られた。

 たった二文字の言葉である。

 何らかの用語というよりは、誰かの名前のような響きがあった。

 名前。

 誰の名前なのか?

 まさか、彼女のことを指しているのか――?

 

「おい、そいつはもしかして■■■のことか?」

「ほう、そうか。あいつはお前には、そう名乗ったのか」

「何だと!?」

「面白いなぁ……本当に、お前という人間は面白いぞ! 先代巫女――!!」

 

 その瞬間、神奈子が仕掛けていた。

 ほんの僅かに出遅れた勇儀が、対応する形になった。

 お互い、渾身の力を込めた一撃が交差し合う。

 同時の攻撃。

 回避はない。

 防御はしない。

 目の前の存在を消すことだけを考えて繰り出した一撃が、互いの標的を捉える。

 そして、爆発した。

 比喩ではなく、二人の攻撃が交わった一点で、二つの力に圧迫された空気が弾けて、爆発を起こしたのだった。

 

 

 

 

「姉御!」

 

 最初に勇儀に駆け寄ってきたのは、同じ鬼の仲間だった。

 かつて萃香が起こした異変に参加し、生きて地底に戻ってきた数少ない鬼の一人だ。額に三本の角が生えている。

 三本角は、瓦礫に埋まった勇儀を掘り起こそうとした。

 勇儀の体が突っ込んだ家屋は完全に崩壊していたが、鬼の剛力に物を言わせて、邪魔な物をどかしていく。

 遅れてやってきた他の妖怪達が、それを手伝った。

 ここは、勇儀と神奈子が文字通り激突した地点から、遠く離れた旧都の端に位置する場所だった。

 あの時の激突で、勇儀はここまで吹き飛ばされてきたのだ。

 神奈子の方は、どうなったか分からない。

 二つの力がぶつかり合った際に生じた閃光と衝撃に、周囲の眼が眩んだ一瞬で起こった出来事だった。

 あの瞬間、二人は互いの攻撃を同時に受けた。

 そして、二人の姿は同時に消し飛んでいた。

 勇儀と同じように、神奈子もまた反対側へと遠く吹き飛ばされたのかもしれない。

 しかし、それを確かめるよりも、勇儀を救う方が優先された。

 

「――待ちな」

 

 瓦礫の中に突き刺さった巨大な御柱をどかそうと伸ばした手を、勇儀が掴んで止めた。

 

「そいつに触るな。火傷するぞ」

「姉御! 大丈夫っすか!?」

「いや、すっげえ効いた」

 

 自ら瓦礫を押しのけて体を起こした勇儀は、苦笑しながらも答えた。

 勇儀の全身が見えるようになった途端、周囲の者達は息を呑んだ。

 瓦礫の山に刺さっていたと思われた御柱は、その実、勇儀の腹を貫通して、彼女の体を壁に縫い付けていたのである。

 勇儀の体格が大きいとはいえ、柱もまた巨大である。下腹に突き刺さったそれは、内臓のほとんどを押し潰していた。

 妖怪であっても致命傷である。

 鬼の中でも別格である勇儀だからこそ生きていられるような状態だった。

 

「この柱、強い神気を帯びているようだね。こいつ一本でデカイ結界の基点に出来るくらいの力が込められてやがる。お前ら、触るなよ」

 

 勇儀は自力で柱を抜こうとしたが、ビクともしなかった。

 それどころか、触れた手のひらが熱した鉄を触ったかのように、音を立てて焼け爛れた。

 腹の傷口からも煙が上がっている。

 

「姉御、やばいっすよ! 俺も手伝いますから、早く抜いちまわないと!」

「だから、やめろって。死ぬぞ」

「姉御の方が死んじまいますよ!」

「私は、この程度じゃ死なねぇよ。この柱も、宿した力を失えば自然と消えるさ」

 

 口元の血を拭って、大きなため息を吐く。

 腹を貫かれたままで肩から力を抜くその仕草は、確かに余裕を感じさせた。

 周囲の者達も、それでようやく安堵する。

 

「しかし、困ったな。私の力で、この柱の力を打ち消し続けたとしても、完全に消えるまで二日か三日は掛かるだろう。それまで身動きが取れないねぇ」

 

 勇儀は困ったように笑った。

 

「あの神様も大したもんだ。おい、お前ら。分かってると思うが、あいつを追うなよ。敵う相手じゃない」

「姉御は、どうなんすか? あの勝負、勝ったと思いますか?」

「どうかね。負けたとは思わないが……まっ、痛み分けってことにしとくか」

 

 答えながら、勇儀は腹から伸びる柱を軽く叩いた。

 傷口を焼く熱と痛みは凄まじかったが、それを表情には欠片も出さない。

 やせ我慢ではなかった。

 少なくとも、勇儀自身はそう信じきっていた。

 この程度の傷では、自分を揺るがすに値しない。

 

「八坂神奈子。あいつは強いが――」

 

 下腹を貫く傷よりも上にある、胸の古傷に触れながら、勇儀は不敵に笑った。

 

「先代には及ばない」

 

 ――奴の力では、かつて先代が刻んだこの胸の傷を上塗りすることは出来ない。

 

 それが勇儀にとって、絶対の根拠だった。

 

「姉御。俺達に、他に何か出来ることはありますかい?」

「じゃあ、酒をじゃんじゃん持ってこい」

「酒っすか?」

「おう、酒だ。どうせ、ここからはしばらく動けないんだ。酒を飲みながら暇を潰すのさ」

「なるほど、分かりました。――おい、てめぇら! 姉御が酒を御所望だ! ここで宴会をやるぞ!」

「おお!」

「酒だ! ありったけの酒を持ってこい!」

「食い物もだ!」

「さっきの喧嘩は、いい肴になるぞぉ!」

 

 そういうことになった。

 にわかに周囲が騒ぎ立つのを眺めながら、勇儀は吹き飛ばした神奈子の行方を僅かに案じていた。

 その身を案じていたのではない。

 おそらく、自分と同じように生きているであろう彼女のその後の動向を案じたのだ。

 最初、神奈子が進んでいた方向は真っ直ぐに――地霊殿の方向だった。

 それを、来た道を引き返すように殴り飛ばした。

 現在の神奈子は、地霊殿とは正反対の方向にいるはずである。

 

 ――これで、あの神がさとり達と接触しなくなればいいが。

 

 しかし、今の状態では、これ以上どうすることも出来なかった。

 

 

 

 

 勇儀の一撃を受けた神奈子は、旧都の外まで吹き飛ばされ、地底の岩壁に叩きつけられていた。

 拳を受けた箇所は、奇しくも勇儀と同じ下腹である。

 打撃というよりも、腹で何かが爆発したかのように服と肉が抉られていた。

 

「実体を保てるというのも、考えものだな……っ」

 

 神奈子は血と共に悪態を吐き出した。

 外の世界とは違い、幻想郷では神としての姿形を自然な状態として維持出来る。

 しかし、肉体を持つということは同時に傷や痛みを抱えることと同義なのだ。

 勇儀の攻撃は、神奈子に対して大きなダメージを与えていた。

 

「先んじていなければ、胴体を両断されていた……」

 

 勇儀の拳は、神奈子の肉体に直接触れてはいなかった。

 神奈子の御柱が先に突き刺さり、拳に収束していた力もほんの僅かだが緩んだ。

 派手に吹き飛ばされはしたが、それは威力の分散を意味していた。

 それでも強力な一撃であったことに間違いはない。

 半ば崩れた壁にもたれ掛かったまま、神奈子は未だに立ち上がることが出来ないのだった。

 

「星熊勇儀。確かにお前は強い――」

 

 神奈子は血塗れの口元を、無理矢理笑みの形に歪めた。

 

「だが、先代には劣る」

 

 ――お前の力では、先代が刻んだこの胸の痛みを上塗りすることは出来ない。

 

 だから、私はお前には敗北しない。

 それが神奈子の抱く、絶対の根拠だった。

 しかし、気力は萎えずとも、体がそれについてはいかない。

 神奈子は少しでもダメージを回復する為に、力を抜いて、壁に背を預けた。

 しばらく動くことは出来そうにないが、考えることは幾らでもある。

 

「そうか。先代は、あれに勝ったのか」

 

 思い浮かべるのは、やはり先代巫女のことだった。

 先程の勝負、先代ならばどう戦っただろうか?

 渾身の一撃をぶつけ合う――それは人外の存在に許された、死を恐れぬ、ある意味傲慢な戦い方だ。

 人間である先代巫女ならば、きっと違う戦い方をする。

 あんな力任せの攻撃など、容易く受け流して、己の一撃のみを確実に当ててくるに違いない。

 妖怪が生来持つ力ではなく、信仰に大きく左右される神の力でもない、己の半生を懸けて磨き上げた技をぶつけてくるのだ。

 なるほど。

 負けない。

 そんな先代が、あの鬼に負けるはずがない。

 神奈子は疑いようもなく納得していた。

 

「さすがだ、先代。それでこそ、私を倒した人間に相応しい――」

 

 思わず洩れた呟きは、誇らしげですらあった。

 

「しかし、■■■か……■■ではなく」

 

 神奈子は二つの名前を反芻した。

 一つは、つい先程勇儀から聞き取ったもの。

 そして、もう一つは外の世界で偶然聞き取ったものである。

 いずれも、同じ一人の人間――先代巫女――を指す名前のはずだった。

 どちらが正しいのか。

 あるいは、どちらも正しいのか。

 

「まだまだ秘めたものがありそうだな、先代」

 

 外の世界で聞いた名前。

 それは先代に殺される寸前のことだった。

 あの時、先代が正気に戻る切っ掛けとなったのが、陰陽玉から聞こえた古明地さとりの呼び掛けだった。

 そこで、あの■■という名前が出たのだ。

 

「鍵を握るのは、やはりさとりか……」

 

 先代の行動原理には、常にさとりの存在があった。

 先代が幻想郷へ戻ろうと奔走していたのは、さとりを救う為。

 先代が自分と戦うことに迷っていたのも、さとりを案じた為。

 そして、先代が正気を失い、同時に正気を取り戻した切っ掛けにもさとりの存在が関わっていた。

 

 ――先代巫女と古明地さとりには、特別な繋がりがある。

 

 神奈子は、地底を訪れる前から抱いていた自身の考えが正しいことに、確かな手応えを感じた。

 全ては古明地さとりという妖怪の存在から始まる。

 先代巫女という人間の全てを曝け出す為に。

 彼女の抱える秘密、外の世界で見せた力の正体、それらを含めた全てを暴き、そしてその全てを手に入れる。

 

「必ず、お前を私の物にしてみせるぞ。先代ィ――!」

 

 神奈子の胸に刻まれた傷痕の奥で、あの日先代の点けた小さな火種が、絶えることなく燻り続けていた。

 

 

 

 

 霊烏路空は地底を彷徨っていた。

 住処である地霊殿からも、仕事場である灼熱地獄跡からも遠ざかり、旧都すら通り過ぎて、薄暗い地底の空間を行く先も定めずにフラフラと飛んでいたのである。

 一体、何時からこんなことをしているのか、もう自分でも分からない。

 何時まで続けるつもりなのかも。

 心ここに在らずの状態で、空は彷徨っていた。

 自分が、何をすべきなのか分からなかった。

 もちろん、課せられた仕事はある。

 それをやるべきなのだと分かっている。

 それが結果的にさとりの役に立つのだと分かっている。

 しかし、その仕事はずっと昔から変わらず自分が続けてきたことだ。

 それを繰り返しているだけでは、何も変わらない。

 さとりが危険な目に遭った時、何も出来なかった自分と。

 これまでの自分を変えたかった。

 これまでの弱い自分を変えなければいけないと思った。

 しかし、それが具体的にどういう方法なのか、どういう道なのか、まるで思いつかない。

 頭の悪い自分が、心底嫌になった。

 嫌気が差して、気がつけば飛び出していた。

 そして、辿り着いたのだ――無意識に、その場所へ。

 

「――何の用だ?」

 

 不意の呼び掛けに、空は我に返った。

 

「私を追ってきた、旧都の妖怪か?」

「うにゅ!?」

 

 そこにいたのは、空がこれまで見たこともない存在だった。

 妖怪ではない。しかし、人間でもない。

 深く傷ついているが、それでも圧倒的な力と気配は少しも揺るがない存在である。

 

「……なんだ、違うのか。ならば消えろ」

 

 その存在は、興味を失ったかのように空から視線を逸らした。

 

「あ、あなたは……誰?」

「私はただの神だよ」

「神様!?」

「そうだ。お前は何だ? 名を名乗れ」

「わたしは、地獄烏の霊烏路空……です」

「ふん。自称だとすれば、身の丈に似合わぬ大層な名前だな」

「ち、違うよ! さとり様につけてもらった、立派な名前だもん!」

 

 神の存在感に気圧されながらも、空は必死で言い返す。

 その言葉に、神は目付きを変えた。

 何かに気付いたような表情だった。

 気にも留めていなかった些事が、重要な核心に関わっていた。

 

「――そうか。貴様、あの時古明地さとりの傍にいた妖怪だな?」

 

 口元に笑みが浮かぶ。

 蛇のような笑みだった。

 

「おい、貴様。何か悩みがあるな?」

「えっ!? わ、分かるの……?」

「分かるさ、私は神だからね。悩む者、迷う者の願いを聞くのが仕事だ」

「願いを……?」

 

 苦悩に蝕まれていた空の心に、光明が差した。

 

「……本当に、お願いを聞いてくれるの?」

「もちろんだとも」

 

 迷い子を導くように、神は言った。

 

「お前の願いを言ってみなさい――詳しくな」

 

 

 

 

 ――風見幽香は夢を見る。

 

 その夢を何時から見るようになったのかは覚えていない。

 一年前か、十年前か、あるいは百年以上前からずっと繰り返している夢なのかもしれない。

 それとも、つい昨日見た夢なのか。

 現実とは違い、不鮮明で不安定な夢の輪郭を掴むことは出来ない。

 それが幽香を僅かに苛立たせる。

 

 ――風見幽香は夢を見る。

 

 その夢の中で、幽香は見知らぬ館に住んでいた。

 現実では見たこともない、記憶にない館のはずなのに、その全貌が夢の中で見れるのである。

 その館には住人が、三人いた。

 いずれも人間ではない。

 一人は、幼い容姿をした金髪の少女。

 一人は、白い帽子を被った同じく金髪の少女。

 一人は、館の主人である緑髪の女。

 驚いたことに、三人目の女は自分と同じ顔をしていた。

 そうだ。信じ難いことに、その女は自分だったのだ。

 風見幽香。

 いや、違う。

 ただの幽香。

 風見幽香は、夢の中で自分ではない自分を見ていた。

 

 ――風見幽香は夢を見る。

 

 夢の中の自分は、現実の自分とかけ離れていた。

 強者としての気迫はなく、のんびりとしており、何を考えているのか分からない間の抜けた表情を浮かべている。

 それが許せないわけではない。

 髪は長く伸ばし、服装もだらしのない寝巻き姿でいることが多い。

 それが許せないわけではない。

 名前も知らない他の住人二人と、当たり前のように共に暮らしている。

 それが許せないわけではない。

 だが。

 しかし。

 お前は、何をしているんだ?

 お前は、風見幽香なのだろう?

 お前は、私なのだろう?

 なのに。

 何故、私と違う姿をしている。 

 何故、私と違う生活をしている。

 何故、私と違う考え方をしている。

 何故、私と違う生き方をしている。

 何故、私と違う。

 それだけが、どうしても許せない。

 

 ――風見幽香は夢を見る。

 

 お前は私じゃない。

 私はお前じゃない。

 見れば分かる。

 なのに、私はお前の夢を見る。

 お前が生きている姿を夢に見る。

 それがさも自分が辿った軌跡であるかのように鮮明な夢を見る。

 お前は笑っている私が名前も知らない二人に笑い掛けている話し掛けているその内容が聞き取れないしかし確かに話している私は知らないその二人を知らないしかし確かに覚えているその二人を知っているだけど私じゃなお前は私わたしおまえわたおまわわたたおおおままえわたたタたしシシシ――。

 

 ――風見幽香は夢を見る。

 

 その夢を、何時から見るようになったのかは覚えていない。

 しかし、時折脳裏を過ぎることがある。

 これが本当に夢なのか?

 今見ているものは現実なのか?

 どちらが夢で、どちらが現実なのか?

 分からなくなる。

 目に見えるもの全てが曖昧になっていく感覚に襲われる時がある。

 夢の中の自分が本物なのだとしたら、今在る自分は一体何だというのか。

 そういった疑問が、常に苛立ちとなって胸の奥で燻っていた。

 自分に関わるもの全てが煩わしく感じる時があった。

 踏み締める大地さえも、不動とは思えない。

 世界そのものが、酷く不安定で、脆く、無価値に思えてしまう時がある。

 だから、幽香はいつも一人だった。

 一人で、花を育てて生きてきた。

 自分を見る者には、唯一不変である己の強さを見せ付けた。

 花の中でも、特に向日葵が好きだった。

 何時でも真っ直ぐに、太陽に顔を向けて生き続ける花。

 どんな時でも日は昇り、沈み、そしてまた昇る。

 それは日々変わらず繰り返される、世界の安定した姿だ。

 だから、幽香は向日葵が好きだった。

 向日葵に囲まれて過ごせば、安心して夢から覚めることが出来た。

 

 ――風見幽香は夢を見続ける。

 

 そして、ある日。

 一人の人間と出会った。

 

 ――風見幽香は夢を見ていた。

 

 

 

 

「アナタが風見幽香ね」

 

 それは問い掛けというよりも、確認に近かった。

 目の前の魔法使いは、自分のことを知っている。しかも、十分に風見幽香という妖怪を調べ上げている。

 この太陽の畑にやって来たことからも、それは明らかだ。

 自分の領域に足を踏み入れることがどういう意味を持つのか、全て理解した上でやっていることなのだろう。

 

「ええ、そうよ。そういう貴女は?」

 

 幽香は微笑みながら訊ねた。

 

「アリスよ。アリス=マーガトロイド」

「名前くらいならば、人里で聞いたことがあるわ。人形劇をやっているらしいわね」

「何処かで会ったことはないかしら?」

「……それって普通は私の方がするような質問じゃない?」

 

 アリスの不思議な質問に、幽香は意図が読めず、訝しげな表情を浮かべた。

 相手は、自分のことを事前に調べているはずである。

 出会ったことがあるかどうかなど、その段階で気付くはずだ。

 アリスの質問は、まるで自分の方に心当たりがないか期待しているかのようだった。

 

「まあ、会ったことはないわね。これが初対面よ」

「そう……残念だわ」

「妙な会話をする奴ね。貴女は、一体何が目的でやって来たのかしら?」

 

 幽香とアリス。 

 二人は太陽の畑の前で対峙していた。

 天気が良かったので、のんびりと歩きながら向日葵を眺めていた幽香の所へ、突然アリスが現れたのである。

 先程も言ったとおり、アリスとはこれが初対面だった。

 そもそも、この場所には誰かが迷い込むことはあれど、意図して入り込むことはほとんどない。

 風見幽香の住処として、恐れられているからだ。

 つまり、アリスは確固たる目的を持って、幽香に会いに来たということになる。

 

「そこが少しだけ気になるわ」

 

 幽香は改めて、目の前の人物を観察した。

 右手に大きなトランクを一つぶら下げているが、それ以外に武装の可能性がある荷物は持っていないし、自分に対する敵意はもちろん警戒さえ感じられない。

 かといって、友好的な雰囲気でもなかった。

 人形めいた気配の希薄さの中で、明確な意志を宿した瞳だけが輝いている。

 何を考えているのか、分からない。

 それが幽香の判断を慎重なものにしていた。

 

「私が興味を持っている内に話した方がいいわよ?」

 

 しかし、それも幽香にとっては気まぐれの範疇にある慎重さである。

 話が進まないのならば、無視するか、殺してもいい。

 その程度に考えていた。

 

「では、話させてもらうわ」

「ええ、どうぞ。飽きるまでは聞いてあげる」

 

 アリスは幽香をじっと見据えながら、話を切り出した。

 

「私はアナタを知る以前から、風見幽香という名前に――正確には『幽香』という名前に覚えがあったわ」

「へえ、だからあんな質問をしたのね」

「そうよ」

「でも、私が貴女とはもちろん、貴女も私と出会ったことはなかった。おかしな話ね」

「おかしいといえば、この世界そのものがおかしいわ」

「話が急に大きくなったわね」

「アナタはないのかしら?」

「なんですって?」

「この世界そのものに、違和感を感じたことが」

 

 言葉に詰まった。

 その時、幽香は間違いなく動揺していた。

 自分が見る夢について、誰にも話したことはない。

 しかし、それをアリスは知っているような気がしたのだ。

 

「私は、ある」

 

 アリスは続けた。

 

「私は時折夢を見るわ。私ではない私が、この世界ではない場所で生きている夢よ。そこには私が会ったことのないはずの人がいて、私の名を呼び、話しかけていたわ」

「――」

「見覚えのある人物もいた。『靈夢』や『魔理沙』と呼ばれる少女よ。私は幻想郷で生きる彼女達と接触し、観察したけれど、やはり似通っているだけで同一人物ではなかった」

「――」

「考えれば考えるほど、思い出そうとすればするほど、私の記憶は輪郭と境界を失っていく。正しいのは夢の方なのか、それとも現実の方なのか……」

「――」

「私は、それを確かめようと思っているわ」

 

 アリスの話を、幽香は黙って聞いていた。

 

「……それで、具体的にはどうしたいの?」

 

 幽香は抑揚のない声で訊ねた。

 いつの間にか口元の笑みは消え、無表情になっている。

 

「アナタには、私に協力してもらいたいと考えているわ」

「協力?」

「分かっているわ。アナタも、夢を見るんでしょう?」

「……ええ、そうね。貴女の言い分にも、心当たりがあるわ」

「ならば、夢から覚めた時の不安も分かるはず。アナタの場合は、苛立ちの方が強いかもしれないけど」

「――」

「この世界が何なのか? 私達が本当に生きるべき世界はどちらなのか? ――アナタも知りたいのではないかしら?」

 

 幽香はしばらくの間、口を開かなかった。

 アリスの話し方は、声に感情こそ込められていなかったものの、何処か自分の心を煽っているように感じられた。

 実際に、そういった意図があるのだろう。

 それが真実への興味にせよ、苛立ちにせよ、幽香をこの場から動かすことが出来ればアリスの目論見は成功である。

 アリスの問いに、幽香はまだ答えない。

 長い時間、黙り込んだまま前を見据えていた。

 何時間も経ったわけではないが、ただ返答を待つだけの状態では酷く長く感じる時間が経った。

 アリスは焦れず、じっと答えを待った。

 

「――驚いたわ」

 

 おもむろに、幽香が口を開いた。

 言葉の通り、本当に驚いたような表情になっていた。

 

「アリス。貴女の指摘したことは全て正しいわ。私がずっと気になっていた疑問を全部言い当てている」

「そう」

「だからね、少し真剣に考えてみたのよ。貴女の提案に乗って、協力をしようかどうか。この世界の真実がどうなっているのか。――そしたらね、ふふっ、本当にビックリよ」

 

 幽香は笑いを堪えるように俯き、小さく肩を震わせた後、改めてゆっくりと顔を上げた。

 

「全然興味がないのよ、私」

 

 その顔には、初めてアリスと対峙した時と同じ、そして普段通りの笑みが浮かんでいた。

 まさに風見幽香の微笑だった。

 

「いつの間にか、自分でも驚くくらいどうでもよくなっていたわ。この世界が夢か現実かなんて、微塵も確かめる気が湧かない」

 

 アリスはじっと幽香の目を見据え、その言葉が嘘やブラフではないか見極めようとした。

 しかし、それは無駄に終わった。

 幽香は本気で言っている。

 

「世界の真実は、貴女一人で暴きなさい。さようなら、アリス=マーガトロイド」

「この世界は一つの劇場なのかもしれない。そして、私達は舞台を演じる人形なのかもしれない。それでもアナタは何も疑問を感じず、不満も抱かないというの?」

「さっきも言ったでしょう? 私はね、そんなことはどうでもいいのよ」

 

 幽香の声に迷いはなかった。

 

「この世界が夢だろうが、劇場だろうが、私にとっては大した違いはない。私はここに立っている。そして――」

 

 幽香の笑みが、一瞬牙を剥く獣のそれに変わった。

 

「同じ大地に、先代巫女が立っている」

「――」

「今の私にとってはね、それでもう十分に意味のあることなのよ。私の視線が、声が、手が、届く場所に奴がいる。だったら、私はこの世界でいい。私が生きる世界は『此処』でいい」

「……だけど、先代巫女はいずれ死ぬでしょう?」

「その通りよ、私が必ず殺すわ。でも、絶対に勝てる保証なんてないことくらい分かってる。そして、その時は死によって私の世界が終わるだけよ」

「その考え方は矛盾しているわ」

「貴女にとってはそうかもね。私にとってはそうではない」

「――」

「確かなことは、いずれ私と先代が戦う日が来るということ。その日まで、私の世界は続く。それだけでいい。それ以外の真実に、私は興味はないわ」

 

 それで全てを言い終えたかのように、幽香は小さく息を吐いた。

 アリスを見る瞳には、もはや一切の感情が浮かんでいない。

 本当に、完全に興味を失くしていた。

 幽香は踵を返し、自身の家に戻ろうとした。

 

「なるほど。アナタの回答は把握したわ」

 

 小さく呟いたアリスの右手の中で、ひとりでにトランクが開いた。

 

「しかし、理解は出来ないし、了承も出来ない。アナタには、私に協力してもらう」

「――力づくというわけね。分かりやすくていいわ」

 

 幽香は楽しげに微笑んだ。

 アリスのトランクから出てきた物は、複数の人形のパーツだった。

 バラバラだったそれらが、アリスの左手から伸びる魔力の糸によって繋がれ、人の形を成していく。

 幽香には、アリスの意図が未だに読めない。

 目の前で形成されていく人形が単純な戦闘の為の物なのか、あるいはまた別の思惑があるのか。

 

「私も分かりやすく対応出来る」

 

 しかし、幽香はそれらに頓着しなかった。

 普段通りの優雅な足取りで、ゆっくりとアリスとの間合いを詰めていく。

 

「私の手が届く範囲まで近づいたら、その瞬間殺すわ。それまでに逃げるのなら、見逃してあげる」

 

 幽香は言った通りのことを偽りなく実行する為に、歩を進めていった。

 

「まずは一人目――」

 

 アリスの呟きに応えるように、幽香の目の前で一体の人形が完成した。

 小柄な体格の人形だった。

 金色の髪に白いリボンを結んだ、幼い少女の容姿。

 背中には羽が生えている。

 その少女は、幽香に向けて屈託のない笑顔を浮かべると、抱擁を求めるように両手を広げて駆け寄ってきた。

 幽香の脳裏に、鮮烈な記憶が蘇った。

 

 ――くるみ。

 

 それが目の前の少女の名前なのだと、何の根拠もなく確信した。

 夢で見た、一緒に館に住んでいた少女の名前が、今ようやく思い出せたのだ。

 駆け寄るくるみに、幽香もまた手を伸ばした。

 

「さようなら、くるみ」

 

 そして、無造作に人形の頭を握り潰した。

 血肉の感触はなく、ただ破片だけがパラパラと指の隙間から落ちていく。

 幽香は歩みを一瞬も止めることなく進んだ。

 

「では、二人目――」

 

 再び、幽香の前で一体の人形が立ち塞がった。

 くるみよりも長身で、同じ金髪だがこちらは巻き毛のショートカットである。

 白い帽子を被り、肩には巨大な鎌を担いでいる。

 しかし、その刃を幽香に向けることはなく、代わりに優しげな笑顔を浮かべていた。

 夢で見た、二人目の少女である。

 

 ――エリー。

 

 幽香の脳裏に、再び蘇る記憶があった。

 ああ、そうだ。

 先程のくるみと、目の前のエリーと、そして自分の三人で暮らしていた。

 館の名前は『夢幻館』

 ここではない何処かにあった館だ。

 そこで自分達は暮らしていた。

 その世界で自分は生きていた。

 全てを思い出した幽香は、エリーに優しく微笑み返した。

 

「お別れよ、エリー」

 

 手刀の一閃で、首を斬り飛ばした。

 地面に転がった頭には、顔はもちろん髪すらなく、ただの人形のパーツに戻っていた。

 幽香はそのまま進み続けた。

 

「三人目――」

 

 既に当初の半分以下にまで距離の縮まった幽香とアリスの間に、再度人形が立ち塞がる。

 もはや言うまでもない。

 三体目の人形は、幽香自身だった。

 同じ顔。

 同じ体。

 唯一違う、長い緑髪。

 かつて別の世界で生きていた自分の姿。

 記憶にある、もう一人の自分。

 躊躇いはなかった。

 

「お前は私じゃない」

 

 幽香は目の前の存在を、文字通り消し飛ばした。

 歩みは止まらない。

 幽香は進み続ける。

 躊躇いなく。

 迷いもなく。

 アリスに告げた言葉のまま、幽香は自身の記憶にさえ囚われず、ただ一つの目的の為に突き進んでいるのだった。

 

「もう、誰も私を止めることは出来ないわ」

 

 あと三歩。

 アリスに近づくにつれて、幽香の纏う空気が鋭利な刃のようなものに変わっていく。

 あと二歩。

 その笑みも種類を変え、瞳には殺気が宿る。

 あと一歩。

 そして、幽香はアリスの命を毟り取るべく手を伸ばし――。

 

「本命の四人目よ――」

 

 手が、止まった。

 足もまた止まった。

 間合いギリギリで出現した最後の人形を前にして、遂に幽香の歩みは止まったのだった。

 幽香は完全に意表を突かれた表情で、その人形を見つめていた。

 

「先代……」

 

 それは本物と見紛うばかりに精巧に再現された先代巫女の人形だった。

 そうだ。

 目の前のこれは、人形だ。

 生きた気配はしない、ただ見た目だけを似せた贋物だ。

 先程のように、目の前の人形を破壊し、そして背後に隠れたふざけた人形師を八つ裂きにしてやればいい。

 幽香は、そう考えた。

 そして――考えるだけで、実行に移すことは出来なかった。

 

「やはり、アナタにこの人形を破壊することは出来ないようね」

 

 アリスは言った。

 最初の時と同じ、感情の篭もらない平坦な声だった。

 幽香は諦めたように肩の力を抜いた。

 

「……どうやら、最初から全て見切られていたようね」

「これが切り札だったわ」

「つまり、予想の範囲内だったということでしょう」

 

 くるみにも、エリーにも、そして自分自身にも幽香を止めることは出来ないと、アリスは読んでいた。

 そして、先代の人形を最初から切り札として用意していたのだ。

 確かに、自分にはこの人形を壊すことは出来ない。

 もし、それをすれば、自分は少なからず満足してしまうだろう。

 例えそういった意識がなくとも、これまで打ち勝つことだけを生きがいにしてきた相手の姿似を壊すことで、長年抱き続けてきた渇望をほんの僅かとはいえ癒してしまう。

 それは絶対に許されることではなかった。

 人形で自らを慰めるという、度し難い愚かさだけではない。

 この渇きや飢えこそが、先代と戦う時には力となる。己の生涯で最大の敵を打倒する為に、自らが持ち得る全ての力を、ほんの僅かでも無駄に消費するわけにはいかなかった。

 それすらも惜しんでこその、全身全霊である。

 それでも勝てるとは限らない。

 だからこそ、手は出せない。

 アリスが、それを何処まで見抜いていたかは分からない。

 しかし、確かに、

 

 ――一本取られた。

 

 幽香は素直にそれを認めた。

 

「風見幽香。先程の続きよ」

 

 失意の間隙を突くように、アリスは話を滑り込ませた。

 

「アナタがこの世界に意義を見出したとしても、私は違う。私はこの世界の真実を暴きたい。その為の具体的な方針と計画は、もう定めている」

「そう。それで?」

「鍵を握るのは――古明地さとり。私は、まず彼女に会う必要があると考えているわ」

「……さとり、ですって?」

「そうよ。御執心な先代巫女と深い関わりがある、謎多き地底の管理者よ」

 

 ようやく興味を僅かに取り戻した幽香の瞳を見返しながら、アリスは言った。

 

「アナタにとっても興味深い真実が明らかになるかもね。どう?」

 

 人形のように変化のなかった表情を、初めて不敵な笑みに変えて。

 

「私と一緒に地底潜入と洒落込んでみない――?」


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