東方先代録   作:パイマン

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風神録編の後日談。伏線多いです。



幕間「風神先代録」

【幻想少女達の青春】

 

 

「掃除よし、お茶よし、お菓子よし――」

 

 早苗は準備を一つ一つ確認していった。

 幻想郷に移り住んでから、家人以外を守矢神社に招くなど初めてのことである。

 更に言えば、外の世界でも『友達』が家に来るのは本当に久しぶりのことだった。

 

 ――友達。

 

 そう言ってよければ。

 いいと思う。

 ……いいんじゃないかな?

 

「と、とにかく! 準備オッケーです!」

 

 早苗は境内で仁王立ちをして、その時を待ち構えた。

 やがて、待ち人はやって来た。

 

「来たわよ、早苗」

「よう、お邪魔するぜ!」

「いらっしゃい! 霊夢さん。魔理沙さん」

 

 早苗は満面の笑顔で二人を迎えた。

 

「早苗。はい、これ」

「えっ、何ですか?」

「手土産よ。適当に食べて頂戴」

「わあ。わざわざありがとうございます」

「へえ、霊夢にしては気が利いてるじゃないか。……って、干し芋かよ! ギャハハッ、ババくせえ!」

「う、うっさいわね!」

「い、いや! 私、食べたことないですから、嬉しいですよ!」

「言っとくけど、あたしが用意したんじゃないからね! マミゾウが手ぶらじゃ失礼だって言って、無理矢理持たせたんだからね!」

「だよなー、普段のお前なら手ぶらだもんなー」

「ホント、気持ちだけでも嬉しいですから!」

 

 笑う魔理沙に対して、頬を膨らませる霊夢。それをフォローする早苗。

 三人は文字通り姦しく会話をしながら、神社の中へと入っていった。

 

「そういう魔理沙は何を持ってきたのよ?」

「ふふん、わたしのはちょっと凄いぜ」

「どうせ茸でしょ?」

「そうだけどな、きっと早苗は驚くと思うぜ」

 

 魔理沙の言葉通り、受け取った籠の中を覗き込んだ早苗は思わず声を上げた。

 

「こ、これって松茸じゃないですか! 凄いですよ!」

「……つまり、茸でしょ?」

「無知だな、霊夢。外の世界だと松茸ってのは高級品なんだぜ?」

「こんなにたくさん貰っていいんですか、魔理沙さん?」

「別にいいぜ。食用の茸なんて珍しくもないからな」

「さすがは幻想郷、常識に囚われていませんね」

 

 霊夢と魔理沙を居間に案内した早苗は、受け取った土産を置くついでに台所から事前に用意しておいたお茶とお菓子をお盆に載せて持ってきた。

 その間、居間のテーブルに腰を降ろした二人は、物珍しそうに室内を見回していた。

 部屋の作りは畳と障子張りの和室である。

 しかし、所々に見たこともない物が設置されている。

 

「なあ、早苗。天井からぶら下がってる奴って何なんだ?」

 

 好奇心旺盛な魔理沙が早速質問した。

 

「あれは蛍光灯です。簡単に言うと、火のない光源ですね」

「なるほど、『電気』ってやつか。初めて見るな」

「あ、やっぱり幻想郷って電気は普及してないんですね」

「わたしも名前だけで、具体的にどんなものなのかはよく知らないぜ。便利なエネルギーって言うのは聞いたことあるけどな」

「ふふっ、タイムスリップ物の映画みたいな気分ですね」

「それって外の世界の用語?」

 

 早苗が口にした不可解な単語に、霊夢が難しい表情を浮かべる。

 失礼だとは思いながらも、早苗は二人の反応が面白かった。

 二人にとって当たり前のことが自分にとって新鮮なように、自分にとって当たり前のことが二人には珍しいのだ。

 幻想郷に来て驚くようなことばかりだが、逆にこちらが驚かせることも出来る。

 それが妙に楽しかった。

 

「外観は普通の神社みたいだけど、やっぱりここは外の世界の建物なのかしら?」

「私も諏訪子様達から聞いた話なんですけど、この守矢神社は古いものと新しいものが混ざって生まれた神社らしいんですよ」

 

 早苗が二人に説明した。

 

「神社自体は外の世界にあった土地の記憶を元にして幻想郷で新しく作られたんですが、その記憶にも神代の古いものから現代に近い新しいものまであって、それらが合わさった結果、内装の一部が現代風になってしまったようなんです。その辺は、転移の際に術を行使した私の力や意識が影響したんじゃないかって言われてます」

「ふーん。まあ、生活する分には問題ないんでしょ?」

「むしろ、私にとっては生活しやすいですね。水道も使えますし」

「スイドウって何?」

「えーと、簡単に水を出せる装置です」

「何それ、地味に便利なんだけど」

「でも、それも外の世界みたいにそういう設備があるわけじゃなくて、諏訪子様の坤を創造する力によって水を引いているみたいです。この蛍光灯も電気で光ってるわけじゃなくて、別の力が働いているみたいですね。あくまで、この神社が外の世界を再現しているだけなんですよ」

「便利なら仕組みとかどうでもいいじゃない。羨ましいわねぇ、神社もうちより大きいし……」

 

 霊夢の恨めしげな目付きに、早苗は苦笑するしかなかった。

『隣の庭の芝生は青い』――という言葉が、外の世界にはある。

 今回、二人を守矢神社に誘った時も含めて、早苗は博麗神社に何度か訪れていたが、あれはあれで素晴らしい『家』だと思っていた。

 神社としての神聖な空気の他に、誰かが帰ってくるのを迎えるような温かな空気をあの空間から感じるのだ。

 霊夢は、子供の頃からずっとあの神社で生活しているという。

 現在は博麗の巫女を引退して別居している母と、共に過ごしていたという話も聞いた。

 きっと、子供の霊夢が帰ってきた時、あの神社で母が出迎えてくれたのだろう。

 家族が待っていてくれたのだろう。

 ずっと昔から、変わらず存在する、帰るべき場所。

 それはとても羨ましかった。

 

「霊夢さんの神社も、素敵だと思いますけどね。『おかえりなさい』って言ってくれる人がいるなら、きっと何処でも素敵な家ですよ」

「……そうだな」

 

 早苗の言葉に同調するように頷いたのは、魔理沙だった。

 魔理沙は、魔法の森で一人で暮らしている。

 自ら選んで、親元を離れた。

 それが二人にささやかな共感をもたらしたのだった。

 

「そういえばさ、霊夢。結局、あの狸の妖怪って博麗神社に居着いたのか?」

 

 話題を変えるように、魔理沙がマミゾウのことを挙げた。

 萃香に続き、博麗神社でよく見かけるようになった、外の世界から迷い込んだという狸の妖怪。

 先日初めて顔を合わせた際、彼女が博麗神社の倒壊を誤魔化す為に自分に幻術を仕掛けたという話も、魔理沙は聞いている。

 早苗もまた、神社を訪れた際にマミゾウと顔合わせを済ませていた。

 しかし、冷静に考えてみれば、二人にとっては顔と名前以外よく知らない相手である。

 

「……考えてみれば、いつの間にか神社に居たあいつは何なんだ? なんつーか、完全に家人面してあそこに居たんだが」

「えっ、あの人って霊夢さんの家族じゃないんですか?」

「違うだろ。だって、妖怪だぜ。おふくろさん以外に家族がいるなんて聞いたことないし」

「そうですけど、なんか『おばあちゃん』って感じがしたから」

「それは……言えてる」

 

 博麗神社の光景に違和感なく馴染んでいた妖怪の姿を思い浮かべて、二人は混乱した。

 

「別に、萃香と同じただの居候よ」

 

 霊夢は簡潔に答えた。

 しかし、そう言いながら、当人が何よりも納得してないような複雑な表情を浮かべていた。

 

「外の世界でも着の身着のままで暮らしてたらしいわ。特に帰る理由もなくて、幻想郷に興味も湧いたからここで生活するって」

「早苗と違って、随分と事情が軽いな」

「でも、どちらの世界でも問題なく暮らせるっていうのは凄いですよ。実は、物凄い大妖怪なんじゃないですか?」

 

 早苗の言葉に、霊夢は賛同しかねた。 

 確かに、マミゾウのこれまでの言動を顧みれば、その辺の木っ端妖怪とは明らかに違うことが分かる。

 八雲藍と張り合った妖怪としての実力を始め、八雲紫の屋敷でも自然体を崩さなかった胆力、そして住処を博麗神社に移した先で鬼の萃香と問題なく共同生活を続けられるという現状。

 幻想郷でもトップクラスの大妖怪達と渡り合えるほどの『格』を備えているとも言えるのだ。

 しかし、霊夢はまた別の見方を持っていた。

 フラフラと神社にやって来たので話を聞いてみれば、藍に屋敷から追い出されたのだと言う。

 宿無しになった身で『適当にその辺で寝泊りする』と気楽に野宿宣言などするものだから、つい招き入れてしまったのが、同居を始めた真相である。

 他人の家で図々しく生活を続けられる面の皮の厚さと、年中飲んだくれの鬼と意気投合出来る大雑把さ。

 まだ短い期間だが、共に生活していて気付く、気配りの細かさというか世話の焼きたがりというか――。

 只者でないことには同意するが、凄い奴とはとても思えない。

 ハッキリ言うと、言動に伴う威厳がない。

 霊夢は早苗の『大物』という評価を否定も肯定も出来ない気分だった。

 

「また妙な居候が増えたな」

「ええ、まったくね」

 

 悩む横から聞こえた魔理沙の的確な表現に、霊夢は思わず同意を示してしまった。

 一人前の博麗の巫女として認められた日から幾月か――別れ、出会い、失って、得た――博麗霊夢の若い人生は激動の日々を続けていた。

 それから三人は、お茶とお菓子を挟みながら雑談を楽しんだ。

 文字通り、住んでいた世界が違う者同士である。話題には事欠かない。

 外の世界の話に、大げさに驚く魔理沙と静かに聞き入る霊夢がバランスよく会話のリズムを保っている。

 早苗は早苗で、幻想郷の話に新鮮な驚きを感じながら『ああ、友達とお喋りなんかして、今の私ってば物凄く青春してる』といった別種の感動も味わっていた。

 三人にとって、平穏で有意義な時間だった。

 やがて、日が高くなった頃。

 

「もし――」

 

 不意に三人は声を掛けられた。

 声が聞こえたのは、玄関からではなく、縁側からである。

 早苗は、今居る部屋の障子を開けた。

 

「こちらに、博麗の巫女が居ると聞いて、伺わせていただきました」

 

 外には、女が一人立っていた。

 階段から石畳で繋がっている玄関ではなく、いきなり境内に現れたところを見ると、空を飛んできたらしい。

 宙に浮く羽衣を纏った、明らかに人間ではない美女だった。

 

「妖怪ですか?」

 

 早苗が訊ねた。

 いきなり身構えるような短絡さは、流石にもうない。

 

「失礼致しました。私は永江衣玖と申します。妖怪ではありますが、貴女方に敵意はありません」

 

 衣玖は簡潔に答えた。

 丁寧な物腰だが、同時に親しみも感じない事務的な言い方だった。

 確かに自分達に敵意はないらしい。興味もないようだが。

 

「あたしならここに居るけど」

 

 突然の訪問者に応対するどころか立ち上がろうともせず、茶菓子を口に運びながら霊夢が言った。

 

「誰に聞いたの?」

「最初は博麗神社に伺ったのですが、不在でしたので、そこに居ました二ッ岩マミゾウさんという方に所在をお聞きしました」

「マミゾウなら、今朝釣りに行くとか言ってたはずよ」

 

 霊夢が気になったのは、自分を訊ねてきた衣玖の目的などではなく、そんなどうでもいい疑問だった。

 興味のないものに対する淡泊さでならば、霊夢に並ぶ者はいない。

 敵ではないと分かった途端、衣玖への関心を失っていた。

 

「私が行った時には、捌いた魚を干す作業の最中でした」

「あのバカ……臭くなるから境内で干物作るなって、前に言ったのに」

「なんていうか、すっかり生活に馴染んでるなぁ」

「やっぱり、おばあちゃんですよ!」

「あの、話を続けて宜しいでしょうか……?」

 

 話題が逸れ始めたことに慌てて衣玖が口を挟んだ。

 

「ああ、それで? あたしに一体何の用なの?」

「私は本来、龍神様の御言葉を伝える仕事に就いておりますが、立場上天人は私の上司のようなものに当たります」

 

 天人――その言葉から何かを察した霊夢と魔理沙の表情が変わった。

 霊夢の瞳に剣呑な色が浮かび、そんな霊夢の変化を気遣うように魔理沙が視線を向ける。

 唯一、事情を知らない早苗が二人の様子に戸惑っていた。

 

「……比那名居天子に関わる内容なのね?」

「はい、その通りです」

「そう。それで、話は何?」

「話を聞いていただけるのですね」

「聞く耳持たないとでも思ってたの?」

「門前払いか、最悪諍いになるかもと思っていました」

「そこまで覚悟してたってことは、あたしとあの天人の間で何があったかは聞いているようね」

「天界であれほど長く、激しい争いが起こったのは初めてですからね」

 

 衣玖は視界を遮るように周囲を漂っていた羽衣の陰から、小さな籠を取り出した。

 

「私は名前を呼ぶことを許されておりません。総領娘様とお呼びしております。その方の遣いとして、今日はやって参りました」

 

 そう言って、籠を差し出した。

 

「これをお納め下さい」

 

 さすがに、この申し出を無視することは出来ない。

 霊夢は渋々立ち上がると、衣玖から籠を受け取った。

 籠の中には数個の桃が入っていた。

 色も形も美しい、絵に描いたような桃だった。自然でも、人の手によってでも、これほどの物を育てることは出来ないだろう。

 

「何、これ?」

「天界の桃でございます」

「そんなの見れば分かるわよ、妙な力を感じるし。あたしは何のつもりかって訊いてるの」

 

 霊夢が嫌悪感をあらわに訊ねる。

 その理由が、早苗には分からなかった。

 

「総領娘様からの贈り物です」

 

 衣玖は淡々と答えた。

 しかし、その額には小さな汗が一つ浮かんでいる。

 表情にこそ出していないが、内心には気まずさや後ろめたさがあったのだ。

 彼女には、霊夢が不機嫌な理由がよく分かっていた。

 

「贈り物、ね。物だけなの?」

「はい」

「手紙や伝言さえないわけ?」

「ありません。ただ……」

「何?」

「その……霊夢さんからの返事を、持ち帰るようにと言われております。あるいは、天界に直接来るのなら歓迎するとも」

 

 そう告げる衣玖の言葉が、実際の言葉をかなりオブラートに包んだものなのだと、比那名居天子を知る二人には察することが出来た。

 詰まるところ、この桃は霊夢に対する侘びなのである。

 衣玖に持ち帰るよう命じたものは、霊夢からの許しの言葉なのだろう。

 何処まで自覚しているのかは分からないが、少なくとも天子は霊夢に行った仕打ちに罪悪感を覚え、謝罪をしようとしている。

 その意図は分かる。

 しかし。

 しかし、である。

 

「――」

 

 霊夢はしばらくの間、沈黙していた。

 その顔からは感情というものが完全に抜け落ちていた。

 霊夢と付き合いの浅い早苗は本能的な恐怖を覚え、付き合いの長い魔理沙は霊夢の深く静かな怒りを感じ取っていた。

 衣玖も気まずそうに視線を逸らしている。

 天子のやっていることは、結局他人任せの謝罪なのだ。しかも、直接頭を下げるどころか言葉にして謝ることさえしていない。

 高価な物を送りつけて、間に他人を立たせた上に、相手の返答だけ貰おうとしているのである。

 誠意と呼ばれるものなど伝わるどころか、実際に爪の先ほどもなく、被害を被った霊夢からすれば馬鹿にされているとしか思えない行いであった。

 

「……早苗」

「は、はい!?」

「ちょっと筆と墨を貸してくれる?」

 

 霊夢に言われるまま、早苗は書く物を用意した。

 半ば無視されている衣玖は、黙って霊夢の行動を見守っている。

 天子が霊夢に行った仕打ちと現状やっていることを顧みれば、桃をぶつけられて追い返される展開くらいは覚悟していた。

 それを回避出来て、とりあえずは安堵している。

 衣玖の内心を尻目に、霊夢はさらさらと紙に筆を走らせてゆく。

 早苗と魔理沙が興味深げに、それを眺めている。

 

「わっ、霊夢さんって字綺麗ですねぇ」

「そう? 普通でしょ」

「そんなことないですよ。外の世界だったらコンクールで優勝出来ますよ」

「外の世界って字が綺麗なだけで褒められるの?」

 

 会話をしながらも、霊夢の筆は止まることがない。

 一方、字ではなく、書かれている文章に注目していた魔理沙は徐々に顔を引き攣らせていた。

 

「出来たわ」

 

 霊夢は筆を置いた。

 文の書かれた紙を折り畳み、衣玖に差し出す。

 

「これを比那名居天子に届けて頂戴」

「中身を検めてもよろしいでしょうか?」

「好きにすれば」

 

 衣玖は恐る恐る手紙を開いた。

 文章を読み進める内に、魔理沙と同じように顔を引き攣らせ、全てを読み終えると、まるで封印するように固く折り畳み直した。

 

「……分かりました。これを総領娘様にお届けします。他に何か、伝えることはありますか?」

「何も。言いたいことは、全部書いたわ」

「そうですか」

「桃はありがたく頂くわ。食べ物に罪はないしね」

「それはつまり――」

「何の意図もないわよ。手に入った食べ物を食べる、それだけのことよ」

 

 言外に『桃を受け取ったことは許すことと全く関係ない』と言っているのだった。

 既に背を向けた霊夢をしばらく見つめていた衣玖は、やがて諦めたように手紙を懐に仕舞うと、一礼して去っていった。

 表面上は平然としている霊夢と、そんな様子に若干不安を覚える魔理沙と早苗。

 再び三人だけになっていた。

 

「桃、三人で食べましょ。切ってくるから、台所借りるわよ」

 

 霊夢が部屋から出ていく。

 奇妙な緊張感から開放された魔理沙と早苗は、同時にため息を吐いた。

 

「……魔理沙さん、その天子さんっていう人のことなんですけど」

「ああ、お察しの通り、霊夢との仲は最悪だぜ。色々あってな」

「話、聞かない方がいいんでしょうね」

「博麗神社を建て直すハメになった元凶って言えば分かるだろ? 多分、霊夢が幻想郷で一番嫌ってる相手だぜ」

「ちょっと意外でした。霊夢さんって、妖怪と同居しても平然としてて、何でも受け入れるような懐の広さみたいものを感じてたんですけど。それでも相容れない人っているんですね」

「いやぁ、それはどうかな?」

 

 魔理沙は苦笑を返した。

 

「案外、あの天子のことも受け入れられるかもしれないぜ? 少なくとも、今回のことで可能性があるって分かったよ。ちょっと二人の関係の見方が変わった」

「そ、そうですか? 私から見ても、その天子さんが今回やった謝罪って、最悪の方法だったと思いますけど。実際、霊夢さん滅茶苦茶機嫌悪かったし」

「うん、確かに大失敗だったな。あれだけ露骨に他人を嫌う霊夢は、わたしも見たことがない」

「じゃあ、駄目じゃないですか」

「それが、そうでもないんだな。霊夢は興味のない相手にはとことん淡泊な奴なんだ」

 

 不思議そうな顔をする早苗に、魔理沙は意味深げに笑って答えた。

 

「言っただろ、『あれだけ他人を嫌う霊夢は見たことがない』って。出会いは最悪だったけど、そこから関係がどう変わるのか予想出来ないぜ。まあ、変わるにしても先は長いだろうけどな」

 

 

 

 

【非想非非想天の馬鹿娘】

 

 

「遅いわ」

「申し訳ありません」

 

 屋敷の前で、腕を組んで仁王立ちしていた天子の叱責に、衣玖は反論することもなく頭を下げた。

 今朝、この場で用事を仰せつかって、自分が発ってから一歩も動いていないように見える。

 だとすれば、それは何とも――可愛げよりも度し難い頑固さを感じた。

 

「それで、あいつがいないみたいだけど?」

 

 天子の中では、霊夢が来ることは既に決定済みだったらしい。

 不本意そのものといった表情で衣玖を責めるように睨んだ。

 

「同行はしていただけませんでした。代わりに、手紙を預かっています」

「ふんっ。まあ、許してあげるわ」

 

 それは誰を、何に対して許すのか?

 衣玖は空気を呼んで、余計なことを口にせず、手紙を差し出した。

 

「まったく、あいつは立場ってものが分かってないわね。天上から地上へ贈られる物は尽く尊い恵み。容易く枯れ果て荒む大地を潤す雨のように、どれほどありがたいものなのか身に染みて理解すべきね。それをわざわざ贈ってやった私の誠意に応えないなんて、さすがは下賎な地の民。礼というものを知らないわ。まっ、許してあげるけど」

 

 天子の口からだだ漏れる文句を、衣玖は素知らぬ顔で聞き流した。

 戒めようとも思わない。天子と霊夢、どちらに対してもそこまでの義理はないのだ。

 言葉とは裏腹に、天子は嬉々として封書を開いた。

 しかし、そこに書かれた文章を目で追う内に、にやけていた口元はへの字に歪み、目元は吊り上っていった。

 衣玖はこれから起こることを予想して、その場から数歩下がった。

 

「――な、なんなのよこれはァ!!?」

 

 天子の爆発した怒りは、天界の平穏を乱すかのように大きく響き渡った。

 手紙には簡潔な表現で贈られた桃を受け取ったこと、それはあらゆる意味で好意に基づくものではないこと、筋を通さぬ相手に与える許しはないこと、今回の行為を含めて天子が勘違いした馬鹿娘であること、そしてそんな馬鹿は出来れば速やかにくたばって欲しいことが、つらつらと書かれていた。

 書かれている内容にさえ目を瞑れば、格式高い天人でさえ賛嘆のため息を吐くような美しく整った文だった。霊夢の教養の高さが伺える。

 痛烈な文章を形作る綺麗な筆跡が、また尚のこと天子の癇に障った。

 

「なんなのよ、あいつはァ!!?」

 

 天子は怒りに任せて、手紙を足元に叩きつけた。

 衣玖は、そんな天子の自制心に内心で拍手をした。

 てっきり破り捨てるかと思ったのだ。

 

「どういうことなのよ、これはァ!!?」

「さあ、私に言われましても」

 

 案の定、鬼気迫る勢いで詰め寄ってくる天子に、衣玖は柔らかく応じた。

 こうした癇癪の受け流し方に長けているのも、天子の相手をさせられる理由である。

 

「ちゃんと桃は渡したんでしょうね!?」

「はい、渡しました」

「じゃあ、何でこんなふざけた返事が来るのよ!?」

「それは総領娘様を未だに許していないからではないでしょうか」

「何で許さないのよ!?」

「それは具体的な謝罪がなかったからではないでしょうか」

「私が人間如きに頭を下げろっていうの!?」

「さあ? どういった形の謝罪を望んでいるのかは私には分かりません。また、それで許して頂けるかどうかも分かりません。そもそも謝罪自体望んでいるのかどうかも」

「謝っても駄目ならどうしろっていうのよ!? あ、謝るつもりなんてないけどね!」

「一生許さないってことじゃないですかね?」

「じゃあ……じゃあ、どうすればいいのよっ!!?」

「さあ……?」

 

 要領を得ない返答ばかりが繰り返されて、天子は黙り込んだ。

 血の昇った頭が熱くなり、視界が僅かに歪んで見えた。

 そうだ。これは怒りのせいだ。涙なんかじゃない。

 足元の手紙を、恨めしげに睨みつける。

 

「……何よ、こんなもん!」

 

 苛立ちのまま、片足を振り上げる。

 そのまま踏み躙ろうとした。

 衣玖は口出しをせず、じっと見守っていた。

 片足を上げた体勢で止まったまま、天子は自分を罵倒叱責する文章が書かれた紙面を睨み続け、

 

「――ふんっ!」

 

 勢いよく元の位置に足を踏み降ろした。

 そして、素早く手紙を拾い上げる。

 

「衣玖!」

「はい、何でしょう?」

 

 返事をした後で『あんた』や『お前』ではなく、初めて天子から名前を呼ばれたことに気が付いた。

 

「あんたには、もう一度地上へ行ってもらうわ」

「はあ、また桃を持っていけばいいんでしょうか?」

「違うわよ。このふざけた手紙の返事を書くから、それを霊夢の奴に叩きつけてやるのよ!」

 

 今度は初めて霊夢の名前を呼んだな、と衣玖は思った。

 

「私の仕事は龍神様の言葉を伝えることであって、天人様のお遣いではないんですけどね。あまり頻繁に地上へ行っても、余計な混乱を招きますよ」

「私が地上へ行くよりかはマシでしょ。もっと余計な混乱が起きるわよ?」

「およよ? 案外、総領娘様も自覚というものがあるようで」

「あんたが私のお目付け役やってることくらい知ってるわ。面倒を起こしたくないなら、私の命令に従いなさい!」

 

 天子の横暴さに、衣玖は奇妙な面白味を感じていた。

 わがままで、頑なで、教養はあっても礼に欠く、傍迷惑な人物だ。

 しかし、見ている分には面白い。

 博麗霊夢という人間に関わってから、断然そう感じるようになった。

 

「仕方ありませんね」

 

 この二人の交流に興味が湧いたのだ。

 

「博麗霊夢との橋渡し役、やらせて頂きましょう」

「最初からそう言えばいいのよ。さっ、行くわよ」

「さて、どちらに?」

「私の家よ」

「私などが上がっても宜しいのですか?」

「特別に許可するわ」

「しかし、私が傍にいて、何をすれば宜しいのでしょう?」

「この低俗で下品な手紙に対して的確な仕返しをする為に、私の書いた手紙をあんたが校閲するのよ。私が受けた不愉快な思いを、万倍にして返してやるわ」

「この場合、相手を怒らせても仕方ないと思いますが……」

「うるさいわね! とにかく、手を貸しなさい!」

「はいはい、なんとか出来る限りフォローさせてもらいますよ」

「この気取った字の書き方も気に入らないわ。天人の教養はまさに格が違うということを教えてやるんだから。まずは最高級の紙と墨を用意して――」

 

 

 

 

【疾風に勁草を知る】

 

 

 文が玄関を潜ると、広く長い廊下が目に入った。

 相も変わらず荘厳な屋敷である。

 そう変わらず、天魔の屋敷はそこに在った。

 八坂神奈子によって破壊された屋敷は、他ならぬその神の力によって完璧に復元されたのだ。

 建て直しでも新築でもない。文字通りの復元である。

 あの日――。

 長を含めたあらゆる天狗を薙ぎ倒した荒ぶる神は、畏れる天狗達の信仰を力に変えて、最初の奇跡を示して見せた。

 神奈子は乾――つまりは天――を、諏訪子は坤――つまりは地――を、創造する力を持った神である。

 その二つの力を用いて、あっという間に破壊された屋敷を元に戻してしまったのだ。

 天狗の集落の象徴とも言える屋敷を、破壊したのも、元通りに直したのも、あの二柱の神である。

 その行為は、天狗全体への何よりの示威行為となった。

 

 ――お前達など、神の意思一つでどうとでも出来る。

 

 あの日以来、天狗の集落では水面下で混乱が続いている。

 下位の天狗達は守矢神社を畏れ、上位の天狗達はなんとかして取り入ろうと勝手に行動しようとする。

 その混乱を抑える役割を持つ天魔が、神奈子との戦いに敗れて傷を負い、臥せっているのだ。

 天狗の長ともなれば、代役など早々見つからない。

 先程も上げたように上層部の天狗は軒並み保身に走っている。彼らの中から代役を選び出すことは出来ないだろう。

 では、現状はどうなっているのか――?

 

「射命丸か。来い」

「はあ」

 

 文を迎えたのは大天狗だった。

 傍らには、以前と同じように椛が控えている。

 今回は大天狗の補佐をする役目だった。

 あの戦いで負傷したのは大天狗も同じである。本来ならば、彼もまた床に伏せていても不思議ではない深手だったはずだ。

 文は、大天狗が剣で右胸を貫かれたのを見ていた。

 

「それで、私に何の御用でしょうか?」

 

 先を歩く大天狗の足運びが平常時と全く変わらないことを確認して、内心で戦慄しながら文は訊ねた。

 本当は社交辞令も兼ねて傷の具合を伺いたかったが、きっと訊けば大天狗は不機嫌になるだろう。そういう性格である。

 

「お前を呼んだのは天魔様じゃ」

「天魔というと――」

「もちろん、あの『代役』ではない」

 

 大天狗が答えた瞬間、廊下の先で襖を破って、一人の天狗が飛び出してきた。

 というよりも、吹っ飛んで壁に激突した。

 続いて、破れた襖の奥からこれでもかという程の罵倒と悪態が響いてくる。

 それは文のよく知る声だった。

 

「……やはり間違いだったのでは? はたてに長の代役をやらせるなんて」

「老害どもの意見に押し潰されぬ胆力だけは認めてやっても良い」

 

 大天狗が気絶した天狗の体を跨ぎながら、淡々と歩を進めていく。

 それについて行きながら、倒れている天狗が以前の会合でも見たかなりのお偉いさんである事実を、文は頭の隅に追いやった。

 普通の天狗は上司の顔面に蹴りを入れたりしない。

 

「今の天狗に必要なものは、確固たる意志じゃ。長が降れば、天狗全てがあの神に屈することになる」

「まあ、確かにはたてはあの一件以来、二柱の神に対して完全に喧嘩腰になっちゃってますが」

「あやつは組織を率いるような器ではない。しかし、天魔様が復帰するまでの代役としては申し分ない。地位に執着がなく、判断に遠慮がないからな」

「周囲が格上ばかりという状況限定ですけどね」

 

 幹部天狗の嫌味混じりの具申を一蹴し、下っ端の入れたお茶を恐縮して受け取るはたての姿が容易に想像出来て、文は笑いを堪えた。

 辞めろと言われればさっさと今の立場から退散するだろうし、続けるつもりがないから上役達からの反感も気にしない。

 なるほど、意外と適役だ。

 納得しながら、文は屋敷の奥にある一室の前で足を止めた。

 

「ここで天魔様が臥せておられる。世話係の者は下がらせた。入るのはおぬしだけじゃ。くれぐれも粗相のないようにな」

「分かっています」

 

 文は頷いた。

 

「そういえば、大天狗様」

 

 少し躊躇ってから、思い切って言ってみることにした。

 

「これは要らぬお節介かもしれませんが」

「何じゃ?」

「左腕を動かさないよう、注意された方が宜しいと思います。動かない右腕が目立ちますので」

 

 言った後で、文は少し後悔した。

 やはり不機嫌にさせてしまったかもしれない。

 しかし、そんな不安とは裏腹に、大天狗は終始変えなかったしかめ面を、初めてほんの少しだけ和らげた。

 

「ふんっ。その忠告、聞いておいてやろう」

「お役に立てたなら幸いです」

「おべっかは要らぬ。さっさと入れ、天魔様がお待ちじゃ」

 

 心なしか柔らかくなったような気がする大天狗の言葉に押されて、文は部屋に足を踏み入れた。

 襖が閉じられる。

 廊下に居るのが自分達だけになると、大天狗はそれまで堪え続けていた痛みに、遂に屈するように震える左手で右胸を押さえた。

 右手は麻痺してほとんど動かない。

 膝が折れそうになるのを、すぐさま椛が支えた。

 

「ふっ、見抜かれたのが射命丸だけならば上々か……っ」

「大天狗様、やはりまだ横になっていた方が宜しいのでは?」

「要らぬ。死ぬのは当分先じゃ」

「しかし――」

「儂を案じるならば、まずはその無礼な口を閉じんか」

「……申し訳ありません」

 

 大天狗は鋼のような意志で苦痛を無視し、笑みを浮かべた。

 

「年寄りの意地じゃ。許せ」

「意地、ですか?」

「儂もまた老いて役に立たなくなった天狗よ。速やかに去るべきなんじゃろうが、長年の性根がそうさせてくれん」

「大天狗様は、必要な存在です」

「刀一本でこの地位まで上り詰めた。しかし、もはやこの体ではその刀が握れぬ」

「――」

「椛よ」

「はい」

「儂の跡を継がんか?」

 

 椛は大天狗の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 口から零れ出たような軽い言い方だったが、偽りや冗談の類ではないことは、一目見れば明らかだった。

 犬走椛は迷うことを知らない性格である。

 自らの信念や決意の下ならば、命すら迷いなく捨てることが出来る。

 しかし、その瞬間椛は鉄のような表情の下で僅かに苦悩した。

 

「……私には、それほどの才も器もありません」

 

 絞り出すように、椛は言った。

 苦渋の滲む答えに、大天狗が向けたものは穏やかな笑みだった。

 

「儂もそうじゃよ」

 

 ――襖越しに、大天狗と椛の足音が遠ざかっていく。

 それを聞きながら、文は横たわる天魔の枕元に正座した。

 緊張した文が何か声を掛けるまでもなく、天魔が瞼を開いた。

 

「射命丸か。よく来た」

「いえ、お招きいただいて光栄です」

「すまんが、横になったままで話させてもらうぞ」

「お気になさらず。御身を労わって下さい」

 

 文は丁寧に返した。

 さすがに、この時ばかりは内心にも不遜な考えなど隠していない。

 天魔に対して抱く敬意は本物である。ただ、無駄な緊張感や面倒事は遠慮したい性分なだけなのだ。

 それに今回は『命を救ってもらった相手』でもある。

 

「お前の方は、息災か?」

「はい。それもこれも、天魔様のおかげです」

「こんな時まで世辞はよい」

「いえ、本当です。あの時、あの場にいた者は全員天魔様に守っていただきました」

 

 神奈子が屋敷全体を巻き込むほどの攻撃した時である。

 あの瞬間、神奈子の狙いは間違いなく天魔一人だった。

 しかし、放たれた力はあまりにも強大すぎた。

 自分も含めて、同じ室内に居た者、既に戦いで気絶していた者など、余波に巻き込まれればただでは済まなかっただろう。

 それを天魔は自身の力によって守った。

 だが、その結果、天魔自身は攻撃を防ぎきれずに深手を負うことになってしまったのだ。

 

「私やはたて、椛がほとんど無傷でいられたのも、天魔様のおかげです」

「世辞はよいと言った――お前の助力がなければ、全員を守ることは叶わなかっただろう」

 

 天魔は、あの時文もまた周囲の者を守ろうと密かに力を行使していたことに気付いていた。

 文は気まずげに視線を逸らして、頬を掻いた。

 

「あの……それで、お話というのは?」

「図星を突かれると弱いのは相変わらずか」

 

 天魔は束の間、小さく声を上げて笑った。

 

「話というのは、他でもない」

 

 天魔は笑ったまま、文を見上げた。

 

「お前、俺の代わりに天狗の長の任に就いてみんか?」

「………はあ!?」

 

 文は聞き取った言葉を、衝撃で半ば停止した頭で吟味してから、ようやく声を上げた。

 

「な、な、な……何を仰るんデスか? ご乱心ですか?」

「俺は正気だ」

「だとしたら狂気ですよ!」

「俺は本気だぞ? 正式な後継として、すぐにでも手続きや宣言をしても良い」

 

 文は混乱した。

 決して冗談で口にして良い提案ではない。

 それでは、これは冗談ではなく本気だというのか。

 それはそれで非常に拙い。

 慌てて周囲を見回し、耳を澄ませて、他に誰もいないことを確認する。

 

「人払いはした。この場にいるのは俺とお前だけだ。返答も、お前の気持ち一つでいい。気楽に答えろ」

「気楽に答えろって……」

「断るのならば、それだけだ。この場で言ったことは全て忘れよう」

「じゃ、じゃあ……っ」

「だが、出来れば受けてもらいたいと考えている」

 

 天魔は真っ直ぐに文の瞳を見つめながら言った。

 強制するような意志や、何か含むような意図など存在しない、何処までも真摯な視線だった。

 だからこそ、本気の意志が伺えた。

 

「守矢神社の存在は、この山に吹いた新たな風だ」

 

 天魔は言った。

 

「長年不変であった我ら天狗の宿り木を薙ぎ倒さんばかりに吹き荒んだ凶風よ。しかし、風が吹かねば空気は淀むものだ。これもまた、良い機会なのだろう」

「……だから、長を辞めようと言うのですか?」

「新たな風を御すには、我らもまた新たな風を吹かせた方が良い。そう考えたのだ」

「だからって、私は器じゃありませんよ」

「そうかな?」

「ええ、そうです。私が長になったら、好き勝手やりますよ。他人なんて面倒見切れません。組織を私物化して、やりたい放題やって、やがて空中分解するでしょう」

「そうなれば、天狗は個として野に放たれることになるか……それも良いかもしれんな」

「……本気ですか?」

「存外、それで上手く回るかもしれん。古びた抜け殻が落ち、新たな形として生まれ変わるかもしれん。未来は常に新しいものよ。誰にも先は分からぬ」

 

 文は神妙な表情で、一番気になっていることを訊ねた。

 

「何故、私にそこまで期待されるんですか?」

「お前が自由に吹く風だからよ」

 

 そう言って、天魔は笑った。

 文は黙り込むことしか出来なかった。

 答えは、もう決まっている。

 そして、その答えを天魔もまた察しているような気がしていた。

 彼は自分を『自由に吹く風』だと言った。

 風は一箇所に留まらないものだ。

 文は無言で天魔の瞳を見つめ返した。

 それが返答の代わりだった。

 やがて、天魔の方から視線を外した。

 

「――今更だが」 

 

 再び瞼を閉じながら、天魔は告げた。

 

「かの先代巫女を育てた一件――よくやった。あやつこそ幻想郷に吹いた新しい風。その役目も終えた今、後はお前の好きにせよ。俺が長である限り、周りには何も言わせぬ」

 

 そして眠りに就いた天魔に深く頭を下げて、文は静かに退室した。

 

 

 

 

【火焔猫燐の決意】

 

 

 惨めな野良猫だった頃は、その黒い体が不吉だと忌み嫌われた。

 妖怪になった後も、死体を漁る姿がおぞましいと忌み嫌われた。

 恐れではなく、穢れから忌み嫌われた。

 何処でも。

 何時でも。

 石を投げられ、抗うことも出来ず、ただ追い払われるだけの存在だった。

 

 ――そんなあたいが最後に辿り着いた場所が、貴女の傍なんです。

 

「さとり様、御加減はいかがですか?」

 

 燐は食事の載った台車を押しながら、静かにさとりの部屋に入った。

 ベッドに横になったさとりが、片目を開けている。

 

「退屈であること以外は、おおむね良好ね」

「そりゃよかった。お食事の時間ですよ」

「やれやれ、食べる時が唯一の楽しみになるわね」

 

 そう言って、さとりが苦笑した。

 相槌を打つように、燐も笑って応える。

 しかし、それは繕った表情以外の何ものでもなかった。

 

「体、起こしますね」

「ええ」

 

 ベッドと背中の間に腕を通して、さとりの体を持ち上げる。

 枕の位置を調整して、そこへ寄りかかるように座る体勢へ動かした。

 ここまで、さとり自身の力はほとんど使っていない。

 

「スプーン、持てますか?」

 

 さとりの右手が、僅かに震えた。

 しかし、それだけだった。

 腕が持ち上がるどころか、指さえ曲げられない。

 

「……無理ね。昨日よりは動くようだけど」

「そうですか。まだまだ回復には時間が掛かりそうですねぇ。じゃあ、今日もあたいが食べさせてあげますよ!」

 

 燐は殊更明るく言った。

 もちろん、分かっている。

 さとりには表面だけ明るく取り繕っても意味がないことくらい。

 後悔に苛まれる内心が、さとりに筒抜けなことくらい。

 

「悪いわね」

 

 さとりはそう言って、笑った。

 元々快活に笑うような性格の人ではなかったが、今にも壊れてしまいそうな儚さを感じさせる笑みだった。

 一人で食事さえ出来なくなってしまった愛する主の世話をしながら、燐はこんなことになってしまった元凶とかつての自分を呪った。

 

 ――あの日。

 行方不明になっていたさとりは地霊殿に帰ってきた。

 泣きじゃくる空と消沈する妖夢に連れられて、起き上がることも出来ないほど衰弱した姿で。

 外の世界に長く居過ぎた影響で、さとりは文字通り生命を削られ、あれから一週間以上経った今でもベッドから出ることが出来ていない。

 最初の二日間は長い睡眠と短い覚醒を繰り返し、ようやく意識がハッキリとしてきたら、自力で身動きが取れないことが判明した。

 四肢はもちろん、首より下が全身麻痺したかのように動かないのだ。

 幸い回復自体は進んでおり、そのまま衰弱して死んでしまうなどという最悪の事態だけは避けられた。

 このまま安静にして、時間さえ掛ければ、またかつてのように動けるまで回復するかもしれない。

 しかし、それは燐にとって何の慰めにもならなかった。

 燐以外の地霊殿の住人にとっても同じだった。

 ペット達は人語を話すことこそ出来ないが、発する雰囲気から暗いものを感じる。さとりには、彼らの深く案じる気持ちが読み取れるだろう。

 空は悲嘆に暮れることこそしなくなったが、日々何処か上の空で、与えられた仕事をこなすことさえ難しい。寝たきりのさとりの為に出来ることだからと割り切って、なんとか動いているのが現状だ。

 代わりに妖夢が以前にも増して働いてくれているが、燐の目から見ても、それが可能な限り仕事以外のことを考えないようにしているのだと分かった。時折交わす視線には罪悪感や後ろめたさが滲んでいる。

 

 ――さとりが、こんな目に遭ったのは誰のせいなのか?

 

 さとりを事件に巻き込んだ先代巫女か。

 さとりを連れ戻せなかった空や妖夢か。

 考えればキリがなく、考えても意味のないことだと分かっている。

 それでも止められない。

 逆恨みだと分かっていても、燐は行き場のない怒りをぶつける先を探して、これまで様々なものを呪った。

 そして、その果てに落着した先は、

 

 ――自分だ。

 ――この火焔猫燐だ。

 ――誰かが愛する主に害を成し、誰かが愛する主を救えなかった。

 ――あの時、誰が何をどうするべきだったのかは分からない。

 ――だけど、一つだけハッキリしていることは。

 ――自分は、何もしなかった。

 ――お空のようにさとりの為に地上へ行かなかった。

 ――妖夢のようにそれを追わなかった。

 ――何もしなかった。

 ――最愛の主人が命の危険に晒されている時に、この恩知らずな畜生は何もしなかったんだ!

 

 燐は後悔していた。

 そして、憎悪していた。

 何よりも、かつての自分を。

 さとりに対して不信を、不安を抱き、恐れてしまったあの時の自分を。

 あの時の躊躇いが、愛する主をこんな目に遭わせてしまったのだ。

 燐はそう信じていた。

 

「ごちそうさま」

 

 さとりが食事を終えた。

 咀嚼し、飲み込む作業にも疲れを感じるらしく、今はまだスープのような簡単な物しか食べられない。

 そう言えば、さとり様は仕事の休憩に紅茶を飲むのが好きだったな――と、燐は思った。

 固形物であるお茶請けのクッキーなどは、しばらく食べられないだろう。

 しばらくとは、どれくらいなのだろうか?

 さとり様の好きな物なのに――。

 ほんの些細なことが目に付き、新たな後悔に繋がる。

 

「さとり様、何か欲しいものやして欲しいことはありますか?」

 

 食器を片付けながら、燐は訊いた。

 今の状態では出来ることなど限られているが、それでも訊かずにはいられない。

 

「本が読みたいわね」

「分かりました。じゃあ、枕元であたいが読んであげますね」

「別に声に出す必要はないわ。貴女が読んでくれれば、それを私が読み取るから」

「なるほど! じゃあ、早速本を持ってきます」

「簡単な本にしておきなさい。お燐に読めない本じゃ、意味がないしね」

「あっ、あたいを馬鹿にしてますね? 本くらいちゃんと読めますよ!」

「読む時はしっかり本に集中してね。雑念が混じると、私の方も読み取りにくくなるんだから」

「任せてください!」

 

 燐は胸を叩いて請け負ったが、内心ではさとりへの感謝が溢れていた。

 長い間、共に過ごしてきたのだ。心が読めなくてもさとりの真意は分かる。

 本を読むことだけに集中していれば、雑念は――ずっと繰り返している後悔の念は、幾らか薄らぐ。

 こんな時にも、さとりは自分の身を案じてくれているのだ。

 ……何故。

 何故、こんなに優しい主を自分は恐れてしまったのか。

 不可解な行動があったからといって、その真意が分からないからといって、疑っていい相手ではなかった。

 

 ――あたいは、もう迷わない。

 

 さとりの部屋を退室しながら、燐は一つの決意を固めていた。

 もう二度と、さとりを恐れるような真似などしない。

 その真意がどうあれ、主人が望むままに仕事をこなそう。

 その身を支えよう。

 守ろう。

 働こう。

 愛そう。

 尽くそう。

 この命を懸けて。

 

 かつては、その黒い体が不吉だと忌み嫌われた。

 死体を漁る姿がおぞましいと忌み嫌われた。

 恐れではなく、穢れから忌み嫌われた。

 何処でも。

 何時でも。

 石を投げられ、抗うことも出来ず、ただ追い払われるだけの存在だった。

 貴女の傍が、最後に辿り着いた場所。

 此処以外に行く場所はない。

 行くつもりもない。

 自分は、ここで死ぬ。

 貴女の傍で死ぬ。

 貴女の為に死ぬ。

 

 ――邪魔する者は、何人たりとも許さない。

 

 

 

 

【ある人里の群像】

 

 

 慧音は先代巫女の診療所へと向かっていた。

 途中で買った団子の包みを持っているが、もちろんそれは先代の下を訪れる為の口実の一つである。

 訪問の目的は、先代の様子を伺うことだった。

 三日間行方不明だった先代巫女が、人里に戻ってきて既に幾日か経っている。

 高名な人物の突然の失踪と帰還。その混乱と動揺から、住人達もようやく落ち着きを取り戻していた。

 かくいう慧音も、先代が不在の間は随分と気を揉んでいた。

 彼女が何かと騒動に巻き込まれやすいことは、長年の付き合いから重々承知している。

 しかし、だからといってそれに慣れたり、彼女が受難に遭うことを諦めたり出来るわけではない。

 今回もまた随分と大事に巻き込まれたようだ。

 慧音を含むごく一部の者にだけ、事の真相は伝えられていた。

 外の世界と、そこで行われた騒動。そして戦い。

 何食わぬ顔で帰ってきた先代には、これといって怪我や不調は見られなかったが、それでも心配ではある。

 周囲も落ち着いた今、慧音は私情として、改めて先代に会いに来たのだった。

 見慣れた診療所の前に着くと、慧音は呼びかけの為に口を開いた。

 

「――では、行ってくる。むっ、慧音か」

「先代!」

 

 丁度そのタイミングで先代が戸を開き、二人は鉢合わせする形になった。

 

「ひょっとして、今からお出掛けでしたか?」

「ああ。もしかして、慧音は私に用事があったのか?」

「いえ、用事というほどではありません。先代の様子が気になったので、少し顔を出そうと思っただけです」

「そうか」

「ご迷惑でなければいいんですが」

「いや、嬉しいよ。いつもありがとう、慧音」

 

 滅多に見せない微笑を浮かべる先代に釣られて、慧音も少女のように笑った。

 頬が少し赤くなっている。

 ようやく先代が帰ってきたのだという実感が湧いていた。

 

「しかし、外出されるとなると今日の診療所は休みですか?」

「いや、応対や簡単な診療は青娥に任せようと思う」

 

 慧音の笑みが、ほんの僅かに強張った。

 

「……せいが?」

 

 聞いたことのない名前だった。

 眉を顰める慧音の反応に、先代が口を開きかけ、

 

「先代様、荷物をお忘れですよ」

 

 背後から現れたのは、霍青娥その人だった。

 先代の背後――つまり、診療所の中から出てきたのである。

 青娥と慧音の目が合った。

 同じく初対面の相手を前にしながら、その反応は違っていた。

 きょとんとした表情の後すぐに柔らかな微笑を浮かべる青娥に対して、硬直した慧音は口元を引き攣ったように吊り上げた笑みとは言えないものを浮かべていた。

 

「あら、はじめまして。仙人の霍青娥と申します」

 

 仙人と名乗った通り、人の体臭とは違う甘い芳香が僅かに鼻をくすぐる女だった。

 ただ挨拶をするだけの仕草が、妙に色っぽい。

 

「は、はじめまして。私は上白沢慧音。人里で、寺子屋を営んでおります」

「先代様からお話は何度か聞いております。人里の代表者であり、ここに住むのならば話を通しておくべき相手だと。ご挨拶が遅れて、申し訳ありません」

「いえ、私はそのような大層な立場では……」

 

 言葉を交わしながらも、慧音が気にしている全く別のことだった。

 

 ――何度か聞いたとは、つまり何度か先代と会話をしたということか?

 ――何処で?

 ――何時?

 ――いや、何時から?

 ――一体、先代とはどういう関係なのか?

 

 内心に渦巻く疑念を抑えながら、先代を一瞥する。

 その視線の意味を半分理解し、半分誤解した先代は答えた。

 

「青娥は外の世界で随分と世話になった恩人だ」

「私も先代様と共に幻想郷へやって来たのですが、考えてみればこちらには住む家もなく、頼れる知人も居りません。なので、先日から先代様の下に身を寄せさせてもらっているのです」

「そ、それはつまり……同居、と?」

「はい。お世話になるのは、非常に心苦しいのですが」

「いや、青娥には本当に世話になった。これくらいさせてくれ」

 

 そう言って、先代は青娥に微笑んだ。

 滅多に見せないはずの表情だった。

 

「せめて、先代様の身の回りのお手伝いはさせていただいております」

 

 青娥の物腰は、丁寧で礼儀正しいものである。

 好感は抱いても、反感を持つような態度ではない。

 しかし、慧音は何か良くないことが起こっていると、本能的に感じていた。

 何故か全身が緊張して、脂汗が流れ出す。

 

「ところで先代様、お荷物を」

「ああ、すまない。着替えか?」

「はい。お泊りになるとのことなので、寝巻きの方も入れておきました」

「ありがとう」

 

 仲睦まじい――ように見える――やりとりを眺めながら、慧音は我に返った。

 

「そ……そういえば、先代は何処へ出掛けられるのですか?」

「地底だ」

 

 その返答は、青娥の存在よりも予想外なものではなかった。

 地底――正確には友人と公言する古明地さとりの所へ、先代が出掛けることは以前も時折あったことだからだ。

 やはり一部の者しか知らない話だが、さとりもまた先代と共に外の世界へ飛ばされ、一時期行方不明だったという。

 このタイミングで地底へ向かうのも、おそらくその件に絡んでのことだろう。

 慧音は納得した。

 ちなみに青娥の存在に関しては全く納得していない。

 

「では、人里の外まで見送ります」

「慧音も忙しいんじゃないか?」

「友人を見送る時間くらいはありますよ」

「そうか。なら、一緒に行こう」

「はい。……あと、これは手土産に持ってきた団子なのですが」

「ありがとう。帰ったら食べるよ。――青娥、いつもの場所に仕舞っておいてくれ」

「はい」

「では、行ってくる」

「お気をつけて、いってらっしゃいませ」

「留守を頼んだ」

「はい」

 

 二人のやりとりには、お互いへの気遣いはもちろん信頼も感じられた。

 外の世界で何があったのか、具体的なことを慧音は何も知らない。

 何かがあったのだ。

 先代が『恩人』と呼ぶほど助けられ、同居生活を断らないほど親しくなり、家族のように心を通わせるようになった『何か』が――。

 慧音は先代の隣を歩きながら、内心で悶々としていた。

 

「先代……」

 

 どう話を切り出すべきかも分からずに、ただ焦りのまま口を開いていた。

 

「その……色々と、あったようですね? 外の世界で……」

「ああ」

 

 その相槌に、付き合いの長い慧音だけが分かるような含みを感じた。

 

「色々あったよ。本当に」

「先代……どうしました?」

「慧音」

「はい」

「君にだけは話しておこうと思う」

 

 真面目な話だと理解はしていたが、『君にだけ』というフレーズに慧音は内心で歓喜した。

 現金である。

 

「霊夢が二十歳になったら、本格的に隠居するという話はしたな」

「はい。あの宴会の夜に、決意されたんですよね」

「隠居をしたら、人里の診療所を続けながら残りの人生を過ごそうと思っていた」

「ええ、それも聞きました。……違うのですか?」

「まだ先の話だが、診療所はいずれ閉じようと思う」

「……そうですか」

「すまない」

「先代、貴女は人里の為にもう十分働きました。何も気に病む必要はありません。誰に憚ることもなく、貴女の自由に生きればいいのです」

「――」

「いずれにせよ診療所も、これから先ずっと続けられるものではありません。最近は永遠亭の薬屋など、人里の医療に関しては昔よりも充実しています。実質的に問題もありません」

「ありがとう。そう言ってくれると、気が楽になる」

「私は、貴女が満足出来る余生を送れるのならばそれでいい。そのお手伝いをしたいんです」

「ありがとう、慧音」

 

 慧音はにっこりと笑った。

 色々と思うこともあったが、先代が自分にだけ打ち明けた悩みに対して、何一つ偽ることなく想いを伝えることが出来たのだ。

 そうだ。

 先代自身が言うとおり、きっと自分が知らない所で色々なことがあったのだろう。

 一本の道だけが人生ではない。

 生き方を変えることもある。

 それでも再びここへ戻って来てくれた。

 先程語ったことが、自分の全てだ。

 ただ彼女の傍に寄り添い、見守り、手伝っていきたい。

 慧音の心は迷いなく、晴れやかだった。

 

「実は、地底に移り住もうかと考えているんだ」

 

 笑顔が引き攣った。

 

「…………え゛?」

 

 

 

 

【今日の先代】

 

 

「さとり」

「何でしょう、先代?」

「実は今、ギャグを考えた」

「――」

「オリジナルギャグだ。考えたんだ」

「――」

「でもいいか……たった一度しかやらないからよく見ていろ。一度っきりだ。指を見ていろよ。今、指何本に見える?」

「……四本」

「そこちょっと、失礼(し・トゥ・れい)ィィィィィ~~~」

「――」

「つーギャグ……どよ?」

「ん~、なかなか面白かったです。かなり大爆笑」

「だろ? あとでもっとジワっと来んだよ。気に入ったからって、パクんなよ」

 

 ――フゥゥ~ッ、ジョジョごっこ超楽しいィィィ~。

 

 さとりの場合、私のやりたいことを読んで乗ってくれるから、自然に一連の流れを始められるんだよな。

 事前の打ち合わせをしなくていいから、本当に漫画の中のキャラに成りきってるみたいな感じがして楽しさ倍増だ!

 よしっ! それじゃあ、次は『チーズの歌』のくだりをやってみようか!?

 

「いや、もうやめましょうよ」

 

 え、嫌だった?

 違うシーンの方がいい?

 

「嫌じゃないですけど、わざわざ地霊殿まで来て何をしてるんだって気分になりませんか?」

 

 そう、私は現在地霊殿はさとりの私室に居る。

 高い枕に背を預けて座っているさとりの足元で、私は楽な体勢で寝そべっていた。

 ん~、そうだな。

 じゃあ、このシチュエーションからして第六部の会話ごっこやろうか?

『スタローンとジャン・クロード・バンダムはどっちが強い?』 とか。

 

「ジョジョごっこから離れませんか?」

 

 でも、さとりんってばずっと寝たきりで暇なんでしょ?

 こんな遊び、私達でしか出来ないんだし、結構楽しいと思うけど。

 

「確かに楽しいですけど……もっと建設的な話をしませんか? 貴女もここへ遊びに来たわけじゃないでしょう」

 

 確かに、さとりの言うとおりだった。

 私が地霊殿を訪れたのは、遊ぶ為じゃない。

 ……それも半分くらいあるが、さとりの今後のことを話し合う為にやって来たのだ。

 

「そう、それです。そこで気になってたんですが、地底に移住するつもりって本気ですか?」

 

 ああ、本気だ。

 もちろん、何もすぐに移住しようって話じゃない。

 だけど、将来的に引っ越すことも視野に入れている。

 

「引っ越し先は、この地霊殿。ここに住み込みながら、私の世話をするつもり――ですか」

 

 そうだ。

 さとり、今のお前には助けが必要だ。

 私も以前、下半身不随になった経験があるから、よく分かる。

 体が動かないっていうのは、ただ生活するだけでも大変な問題なんだ。

 そして、さとりの場合は更に立場がある。

 地底の管理者という偉い立場にある以上、平常時でも何かと危険が付き纏うだろう。鬼の異変でさとりに不満を持つ奴らが狙ってきたという話を聞いたのは、記憶に新しい。

 身の回りの世話なら、地霊殿の他の住人達もやってくれる。

 お空やお燐ではさとりを守れないと疑っているわけじゃない。

 でも、今はさとりを助ける為に少しでも力が必要だと思ったんだ。

 

「先代。それは――」

 

 分かってる。皆まで言うな。

 さとりに隠し事が無意味なことはよく知ってるよ。

 だから、建前の次は本心を言う。

 

 ――さとりが、こんなことになったのは私のせいだ。

 

 事実がどうかは関係ない。

 私がそう考えている。

 責任を感じている。

 だから、さとり。

 お前を助けたい。

 友達を助けたい。

 心配なんだ。

 本当に、どうしようもないくらい心配なんだ。

 さとりの為にすぐに駆けつけられる状態だったら、その心配が少しは薄れるんだ。

 だから、私はさとりの傍にいたい。

 

「……そうですか」

 

 私のぶちまけた本音に、さとりは一つだけ頷いた。

 ごめんよ、さとり。

 自分でも強引だって分かってる。

 普段ならば、さとりは迷惑だったり嫌だったりしたらハッキリと私にそう言うだろう。

 私も、それを受けて素直に引き下がるだろう。

 だけど、今は違う。

 私はどうあっても自分の意見を曲げるつもりはないし、さとりも無駄だと分かっているからあえて断ろうとしないのかもしれない。

 

「いえ、そんなことはないですよ。貴女の気持ちは、素直に嬉しいです」

 

 本当?

 

「私だって、今の自分の状態が平気なわけじゃないんです。信頼出来る人が傍にいることは、安心出来るんですよ」

 

 さとり……。

 

「もちろん、色々と思うところや悩むところはありますけどね。しかし、とりあえずは貴女の考えに異を唱えるつもりはありません。貴女自身が言うように、予定であり、先の話ですからね。ひょっとしたら、状況がまた変わるかもしれません。私の体が急に回復して、貴女の懸念がなくなるかもしれない」

 

 ……うん、そうだね!

 そうなったならそうなったで、最高の展開だ。さとりが元気になるのが一番だからね。

 それにさとりのことを抜きにしても『地底に移住する』という選択は、新鮮で、悪くないもののように思える。

 知人のいる地上からは離れることになるが、別に完全に隔絶するって話じゃない。それに、知人ならさとりも含めて地底にだっているんだしね。

 大体、引っ越しなんて、普通の人生でも何度かある出来事だろう。

 地上のことは一人前になった霊夢に任せ、隠居後の新たな生活として、新天地で過ごすというのも面白いと思うんだよな。

 ――っていうか、そもそも時期的に地霊殿の異変が近い。

 異変が起こった後は、地上と地底の行き来だって自由になるじゃないか。

 

「ああ、そういえばそんな時期でしたね。原因となる守矢神社が幻想郷にやって来たんですから」

 

 さとりが憂鬱そうな表情を浮かべた。

 手が動けば、額を押さえていることだろう。

 

「貴女から初めて話を聞いた時は、半信半疑だったり、遠い先のことだと思ってましたが――なるほど、成るように成るものですね。運命というものが実感出来ます」

 

 何かに納得するように、さとりは呟いた。

 どういうことだ?

 言葉から察するに、原作通りの異変に繋がる予兆や発端みたいなものを見つけたのか?

 

「心を読んでいると分かるんですよ、お空の心境の変化が。少し前までは、あの子が異変の中心になるなんて想像も出来ませんでしたが、確かに今なら八坂神奈子に取り入られる理由があります」

 

 ……ああ、なんとなく分かる。

 っていうか、気持ちが分かる。

 

「ええ。私の為です」

 

 地底で起こる異変。

 その原因は『守矢神社の神からもたらされた八咫烏(やたがらす)の力を宿したお空が暴走する』というものだ。

 これまでのお空を見る限り、この力を得る経緯が在り得ないとまでは言わないが少し苦しいと私達は考えていた。

 何故なら、異変の中心になるお空自身が、それを実行するような大それた野望を持っていないと分かっていたからだ。

 あの子の幼さと、何よりもさとりと共に生活する現状に満足している事実が、その根拠になっている。

 お空には八咫烏の力を欲する理由がない。

 かといって異変が起こらないという楽観はなく、お空が望まなくても無理矢理力を与えられる展開もあるのかと幾つか予想していたのだが――ここに至って、お空の心境に変化が起こってしまった。

 言うまでもなく、さとりが死に掛けたことである。

 あの日、さとりが死んだと誰もが思った時に泣き叫んだお空の悲痛な姿を、私も見ていた。

 本当に、お空の気持ちは痛いほど分かる。

 あの日のことを思い出す度に私が覚えるのは、大切な人を喪う恐怖と、もう二度とあんな想いをしたくないという後悔だ。

 今、お空が何を望んでいるのか?

 

 ――さとりを守ること。

 ――そして、その為に力を得ること。

 

 きっと、今のお空は与えられる力を拒まないだろう。

 

「そういうことです」

 

 確かに、これは運命というものの存在を考えてしまう。

 さとりが死にそうになったのは外の世界に行ってしまったからだが、その原因は原作通りの異変であり、そこに割り込んだ私というイレギュラーの存在でもあるのだ。

 そんなイレギュラーの起こした展開が、原作通りに事を運ぶ為の原因となっている。

 複雑に分岐しているようで、実は一本の道として繋がっているようだ。

 まったく、これはゲームや物語じゃなくて現実なんだぞ。

 

「……そうですね」

 

 ん、どったのさとりん?

 

「いえ、なんでも。とにかく、土台は勝手に整いつつあるということです。異変を回避することは、おそらく不可能でしょう」

 

 やっぱり原因が分かっているといっても、出来ることはないのかな?

 さとりがお空を説得してみるとか――。

 

「無理ですね。私に原因があるのに、私が説得しても通じません」

 

 だよね。

 私もさとりに『気にするな』って言われたって気にしちゃうし、現状がまさにその状態なんだもんね。

 

「お燐の方も、私の身を酷く案じているんですが、何を言っても解消出来ないんですよね。自己完結しちゃってます」

 

 ああ、お燐もかぁ。

 お空とはまた別のベクトルでさとりん慕ってるもんね。忠誠心高そう。

 

「っていうか、最近ちょっと思い詰めすぎてます。ヤンデレってやつです」

 

 なにそれこわい。

 

「こんな用語、知りたくありませんでした。ホント、怖いです。心読めちゃいますから」

 

 目の前で爆発予定の爆弾が着々と作られていく様を見る恐怖は如何ばかりか。心中お察しします。

 しかし、まあ少しは安心してくれていい。

 仮に原作通りに物事が進んでいくのなら、それは異変であり、いずれ解決する事案だ。

 さとりが危険に晒されることはないし、何よりも私がさせない。

 原作とは違う、様々な要素がある。

 この時の為にさとりはずっと早い段階で地上と関わりを持ち出したんだし、人脈も増やした。

 勇儀はさとりの味方だし、本来ならば地霊殿にいないはずの妖夢がさとりの為に働いている。

 お燐やお空だって、結局はさとりの為に何かをしたいと思って動いているのだ。

 決して、悪いことにはならないさ。

 何より――私がいる。

 

「ふふっ、期待していますよ」

 

 ああ、任せてくれ。

 もう二度と、さとりをあんな目には遭わせない。

 もう二度と、あんな想いはしたくない。

 嫌というほど理解した。

 失った後に垂れ流す、嘆きと涙。

 その無意味さ。

 その虚しさ。

 二度と。

 もう二度と。

 例え誰が相手であっても。

 

 ――何があっても、さとりは私が守る。

 

 

 

 

【今日のさとりん】

 

 

『何があっても、さとりは私が守る』

 

 さとりは第三の目に飛び込んできた、そのイメージの強烈さに嫌な予感を感じた。

 これまで聞いたこともないほど静かで、重く響く声でもある。先代の真剣さを感じる。

 しかし、不思議なことに安心感は湧いてこない。

 むしろ不安を煽られる。

 さとりは思った。

 

 ――あれ?

 ――本人自覚してないけど、先代の方も結構ヤンデレ気味じゃね?

 ――これちょっとヤバくね?

 

 ヤバかった。




<元ネタ解説>

・オリジナルギャグ「そこちょっと失礼(し・トゥ・れい)

 スティール・ボール・ランでジャイロが唐突にジョニィに披露したギャグ。
 最初に指を四本揃えて立てる→「し」で手を横に動かしながら→「トゥ」で指を二本に減らす→「れい」で人差し指と親指で輪を作り「零」を表現する。
 かなり大爆笑のギャグ。あとでもっとジワっと来るらしい。パクるなよ。

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