東方先代録   作:パイマン

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風神録編はあと一話で終了します。


其の五十一「奇跡」

 あの時見せた空虚な表情は一体何だったのか――?

 

 そう疑問を感じる程の猛攻を、天子は受けていた。

 戦いが始まって長い時間が経ち、体力も精神力さえも磨り減り続けているはずだ。加えて、どれだけ優れた才覚を持っていても身体能力は人間の範疇である。天人とは限界の値が違う。

 ――しかし。

 しかし、霊夢の攻撃は衰えるどころか、ここへ来て一気に苛烈さを増していた。

 残りの体力を考慮して無駄な消耗を極限まで削いだ攻撃は、結果として恐るべき鋭さを生み出していた。

 一撃一撃が、回避を無視して的確に目標を捉え、防御をすり抜け、意識の空白を突いて無防備な箇所に深く刺さる。

 理想的な攻撃だった。相手を確実に殺す為の。

 殺意や敵意といった感情さえ排した、ただひたすらに正確無比な攻撃が天子を追い詰めていく。

 もはや余裕はない。初めて生命の危機を感じる。

 

「何よ……!」

 

 しかし、天子がまず何よりも抱いている感情は戸惑いだった。

 自分を攻撃する霊夢の顔を睨みつける。

 

「何なのよ、その面は……!?」

 

 そこに浮かぶ表情は、依然として変わらないものだった。

 冷静にして圧倒的な攻撃を放ちながら、霊夢の顔に滲むように浮かんでいるのは何かを堪えるような苦悶の表情だった。

 まるで攻撃をする度に、追い詰められているのが自分自身であるかのように、口元を強く引き結び、その下で歯を食い縛っているのだ。

 霊夢の右足が鞭のようにしなり、胴体を両断するような鋭さで天子の横腹に叩き込まれる。

 天子の口から洩れる苦悶の声を聞いた。

 

 ――その時、脳裏に浮かんだのは母が神社の居間で裁縫をしている姿だった。

 

 緋想の剣が横薙ぎに振り抜かれようとするよりも早く反応し、手首を掴んで動きを止め、その肘に対して自らの肘を叩き込んだ。

 骨が軋む。天人の肉体でなければ、確実に腕を折っていただろう。

 天子の顔が苦痛に歪むのを見た。

 

 ――その時、脳裏に浮かんだのは母が神社の柱に刻まれた傷を見て、背が高くなったことを褒めてくれる姿だった。

 

 取り落としたと見せかけ、無事な方の手で緋想の剣を掴んだ天子は、そのまま刀身を地面に突き立てた。

 自分に刃が向けられたわけではなかった為、霊夢も反応が一瞬遅れる。

 次の瞬間、剣の突き刺さった一点で地面が爆発し、自爆覚悟で発生した爆風が霊夢と天子を同時に襲った。

 霊夢は最小限の結界で爆発の衝撃を抑え、無数の破片が全身を傷つけることも構わず、強引に前へ踏み込んだ。

 無謀な判断の根拠には、天子への殺意があった。

 

 ――その時、脳裏に浮かんだのは夜中に寝返りを打てばすぐに見ることが出来た、そして傍に居ると分かって安心することが出来た母の眠る姿だった。

 

 傷だらけになりながらも躊躇無く前進してくる霊夢に逆に意表を突かれ、隙だらけの天子の全身へ余すところなく繰り出される連撃。

 爆発を防いだ結界とは別に持っていた攻撃用の霊符を喉元に打ち込み、肋骨の隙間から内臓へ貫き手を突き刺し、頭突きで鼻柱をへし折る。

 背筋が凍るほど的確で鋭利な攻撃が、次から次へと天子の肉体を襲った。

 長時間の戦いによって消耗していたのは霊夢だけではない。

 天人五衰。限界を超えたダメージを受けて血を流し、痛みを感じるようになった今の状態の天子はほとんど人間と変わらない。鋼のような硬度を誇る肉体の加護は、一時的にだが失われている。

 それを見抜いているかのように、霊夢はここぞとばかりに天子を攻め立てた。

 怒涛の攻撃だった。

 追い詰めている。

 自分の大切な物を壊した憎むべき敵を、今まさに死の一歩手前まで追い詰めている。

 この敵を倒すことが出来れば。

 こいつを殺すことが出来れば。

 何を――。

 得られるのだろう?

 何が――。

 戻ってくるのだろう?

 何も――。

 

 ――その時、霊夢の脳裏に浮かんだのは神社の前で微笑みながら自分を待つ母の姿だった。

 

 何も。

 何一つ。

 失われたものは。

 失ったものは――戻らない。

 呪うべき相手は目の前にいる。

 しかし、返してくれる相手はいないのだ。

 霊夢の中で、堪えに堪えていた何かが千切れる音がした。

 

「うわぁああああああああああああっ!!!」

 

 霊夢は絶叫を上げながら、天子に渾身の霊撃を叩き込んだ。

 吹き飛ばされた天子は地面を転がり、やがて止まった。

 それ以上の追撃はなかった。

 霊夢は肩で息をしながら、倒れた天子を睨みつけるだけである。

 その視線の先で、天子が再び立ち上がろうとしていた。

 しかし、さすがに人外の耐久力も、とうに尽きている。

 力の入らない両足は震え、かろうじて立っているだけの状態だった。

 もはや精神力だけが天子を支えていた。

 

「……何なのよ、さっきから」

 

 潰れかけた喉で掠れた声を絞り出し、血塗れの顔で霊夢を睨む。

 そこに死闘の中で傷つきながらも全てを楽しんでいた笑みはない。

 天子は苛立っていた。

 

「ボロボロにやられてるのは私の方だってのに、何であんたの方が辛そうな顔してんのよ!?」

 

 霊夢は今にも泣きそうな表情で、天子を見つめていた。

 その眼つきには、もはや『睨む』というほどの力強さはなかった。

 

「……気分なんか良くならない」

 

 霊夢は声を絞り出すように答えた。

 

「あんたを、幾ら痛めつけたって……スッキリしない。きっと、この戦いに勝ったって、何一つ得られるものなんてない。意味なんてない。くだらない……!」

「散々、容赦なく人をぶちのめしておいて、今更腑抜けたこと言ってくれるわね。何? あんた、もう私が憎くないっていうの?」

「憎いわよ。あんたは、あたしの大切な物をぶち壊した」

「じゃあ、やることがあるでしょうが。腹の中に、煮え滾るものがあるでしょうが。それを――」

「あたしが勝ったら、あんたはあたしに何もかも返してくれるって言うの!? 全部元通りにしてくれるの!!?」

 

 霊夢は絶叫した。

 あまりの迫力に天子は思わず目を見開いて、口をつぐんだ。

 悪態とも恨み言とも、少し違う。

 霊夢が吐き出したものは、感情という名の血だった。

 痛みを伴う叫びだった。

 

「あんたをどれだけ痛めつけても、例え土下座させても……殺したとしても……何も、何も戻ってこないのよ……っ」

 

 震える声でぶつけられる叱責に対して、天子は何も応えることが出来なかった。

 本来ならば、何とでも言い返せたはずである。

 霊夢の必死な訴えに対して、鼻で笑ってもいいし、逆にこれまでのように挑発で返してもいい。

 それを受けて、彼女はまた戦意を漲らせるかもしれない。

 しかし、天子にはそれが出来なかった。

 今更、恨まれることに怯んだわけではない。

 ただ――無視をするには、霊夢の叫びは悲痛すぎた。

 もはや天子個人に向ける恨み辛みの感情を越えて、霊夢は現実を悟ってしまっていた。

 敵を恨むことの虚しさ。

 戦いで自身の激情を晴らそうとすることへの虚しさ。

 どんな結果になっても変わらない虚しさ。

 全てが空虚に思えた。

 天子は霊夢の言動から様々なことを感じ取り、そして自らもまた悟った。

 

 ――こいつは、もう自分との戦いに何の意味も見出していない。

 

 そう悟った時、天子の胸の内に走ったのは紛れもない痛みだった。

 初めて感じる心の痛みだった。

 

「な……何よ?」

 

 天子は必死に強がろうと口を開いたが、出てきた言葉は動揺で震えていた。

 

「今更、弱音なんて吐いてんじゃないわよ。ねぇ、続きをやりましょうよ? この戦い、今ならあんたが勝てそうじゃない?」

「くだらないわ……」

「何がくだらないのよ!? あんた、私が憎いんでしょう!」

「憎いわよ……」

「だったら――!」

「うるさい。あんたなんか、大嫌いよ。顔を見るのも嫌よ。死ね。あんたなんか……っ」

 

 冷徹にして苛烈な姿は、もはや見る影もない。

 天子に向けられる罵倒さえ、言葉を紡ぐ途中で力を失っていく。

 

「……返してよ、あたしの……」

 

 言葉は続かない。

 既に、霊夢の戦意は完全に萎えていた。

 死闘を続けていた天子を前にして、もはや完全に戦闘態勢を解き、俯いた顔を手で隠して、弱々しく罵倒を吐き続けるだけである。

 その姿に、天子はただ呆然と佇むことしか出来なかった。

 無防備な霊夢に攻撃を仕掛けようなどという発想は何処にもない。

 殴られ、蹴られ、弾幕を叩き込まれて、死を感じる程の攻撃を受けても天子の心を昂ぶらせるだけだった。

 しかし、命を懸けた死闘を『くだらない』と放棄した霊夢の姿は、天子からも戦いへの意義と熱意を奪ってしまったのだ。

 力なくぶつけられた『大嫌い』という言葉が、どんな攻撃よりも深く胸に刺さり、重く腹に残った。

 何の感情も篭もらない、もはや視線すら自分に向けようとしない霊夢の態度に、経験したことのない息苦しさを感じていた。

 

「霊夢」

 

 奇妙な空気が流れる中、霊夢の震える体を後ろから抱き締めたのは魔理沙だった。

 

「悪い、霊夢。わたしが間違ってたぜ。お前に任せておけば、全部解決すると思ってたんだ」

「魔理沙……っ」

「お前があいつを叩きのめして、報いを受けて、それで解決だと思ってた。間違ってたよ、ごめん。止めるべきだった。こんなこと、何もお前の為にならなかったんだ」

「――」

「もう、帰ろうぜ。こんな奴と戦う意味なんてない」

「……うん」

 

 肩を抱いて促す魔理沙に、霊夢は抵抗しなかった。

 本当に、この場から去ろうとする二人を、天子が慌てて呼び止める。

 

「ちょ、ちょっと! 何処へ行くのよ、私はまだ戦えるわよ!」

「一人で戦ってろよ」

「異変解決はどうするのよ!? 私を退治しないのなら、また異変を――」

「お前がやったことは『異変』じゃねぇ」

 

 魔理沙は何処までも冷たく返した。振り返りもしない。

 霊夢に至っては反応すら見せなかった。

 もはや天子の存在など無いものかのように扱って、未練も躊躇もなく離れていく。

 その後ろ姿を呆然と見送っている間に、二人は天子の視界からあっという間に消えてしまった。

 天子は動くことが出来なかった。

 戦いに勝つことも負けることもなく、敵意さえ向けられず、遂にはただ『無視された』という決着に、どう対処すればいいのか分からなかった。

 残っている咲夜の存在に気付いていないかのように、立ち竦むだけである。

 霊夢と魔理沙が天界から去っていくのを見送った咲夜は、天子の方へと視線を移した。

 途方に暮れる姿に、ほんの僅かだが憐憫を覚えた。

 博麗神社を襲った出来事の元凶が、比那名居天子であることは言うまでもない。自らの仕出かしたことに対して、どんな応報を受けようがそれは完全な自業自得だ。

 彼女は自らの享楽の為に霊夢の心を深く傷つけた。

 そんな天子に対して、咲夜も好意的な感情は何一つ抱いていない。

 しかし――きっと『事情』はあったのだろう。

 咲夜は天子と邂逅して以来見てきたもの、察したものを統合して、そう結論を出した。

 霊夢との長く、激しい戦いの最中、咲夜は気付いていたのだ。

 ここには当然ながら天子以外にも天人が住んでいる。

 天界の一角で盛大な戦いを繰り広げ、更にそれを夜通し続けながら、他の天人に気付かれないはずがない。

 案の定、二人の戦闘を遠巻きに眺める天人の姿を咲夜は何人か見掛けていた。

 戦いを止めにくるのか。邪魔をしに来るのか。最悪天子の味方として加勢に来るかもしれないと密かに身構えていた咲夜は、しかし肩透かしを受けることになった。

 天人達は、本当に少しの間だけ天子達の戦いを眺めると、僅かに顔を顰め、すぐに立ち去ってしまったのだ。

 誰もが同じ見て見ぬ対応で、そそくさと去っていった。

 戦闘の影響を恐れた様子ではなかった。

 天界への侵入者である自分達はもちろん、天子自身も含めた戦いに関わる者全てを、まるで汚らわしいものであるかのように遠巻きに一瞥して、足早に離れていったのだ。

 咲夜は、それで察した。

 

 ――そうか。天人とは、本来『こういうもの』なのか。

 

 争いはなく、いがみ合いもない、天人達がただ遊んで暮らす世界。

 それが天界なのである。

 それが天人達の住む楽園なのである。

 誰も競わず、争わず、こういった騒動には関わることなく、ただ愚かなものを見るように遠ざかっていく。

 平穏を乱すものには向き合わず、声高く訴える者には取り合わず、緩やかに無視をして通り過ぎてゆく。

 

 ――天子は、ずっと『こんな場所』で暮らしてきたのか。

 

 そう察して、咲夜は目の前の敵にほんの僅かだけだが憐れみを抱いたのだった。

 

「……まあ、あれね」

 

 とはいえ、敵である天子に対してそれ以上の感情を抱くこともなかったのだが。

 

「アナタも苦労してるわね」

 

 他人事のように素っ気無い言葉だけを残して、咲夜もまた二人の後を追うように天界を去っていった。

 天子は移り行く状況から取り残されたかのように、独り佇んでいた。

 

「……何よ」

 

 ようやく湧き上がってきた悪態が、口からポツリと零れ出た。

 握っていた緋想の剣を、苛立ちに任せるまま足元に投げつける。

 それは思いの他、弱々しく地面を転がった。

 

「一体、何なのよ……!」

 

 天子は下唇を噛み締めて、腹の底に残った奇妙に重みのあるものに耐えた。

 その複雑な感情の正体が何なのか、自分にも分からなかったし、教えてくれる人もいなかった。

 

 

 

 

「ねー、何で空を飛ばないのよ? あたい、もう何処をどう歩いたか分からなくなっちゃったわ」

「チルノ、声が大きいよ。天狗のテリトリーにいる間は、わたし達は侵入者扱いなんだからさ、見つからない為なの」

「地理については、射命丸さん達がちゃんと分かってるから問題ないよ。だから、もう少し頑張って歩いてね」

「チルノってば、もう疲れたの? だらしないわね」

「違う! あたいってば、まだまだ元気一杯よ!」

 

 愚痴を零すチルノに対して、橙が分かりやすく説明をする。そのフォローにフランドールも加わり、鼻で笑う空にチルノが食って掛かる。

 しっかりと音量を抑えながらも賑やかな四人のやりとりを背後で聞き、集団を先導する天狗組の一人であるはたては感心したように頷いていた。

 

「なんだか滅茶苦茶な組み合わせだと思ったけど、案外上手くバランスが取れてるのね」

「そうね」

 

 並んで歩く文が相槌を返した。

 

「微笑ましいよね」

「面白いとは思うわね。紅魔館の吸血鬼が妖精と仲が良いとか、下っ端とはいえ八雲に連なる妖怪と親交を持つとか、挙句に地底から来た妖怪。事実と推測を混ぜて、デカイ記事が三つは作れるわね」

「あんたって、何でそう……」

 

 嫌らしい笑みが浮かぶ文の横顔を見て、はたては大きくため息を吐いた。

 そんな二人やチルノ達のやりとりに関わらず、ただ黙々と椛が先頭を歩いている。

 山中を進むこの奇妙な集団を先導する役割を負っているのが、彼女だった。

 当然ながら、これは哨戒天狗としての仕事ではない。むしろ、その職務を放棄した勝手な行動である。

 しかし、椛は不満を言葉にも表情にも出さずにこなしていた。

 

「――間もなく、目的地です」

 

 唐突に、椛が言った。

 その仕事柄、妖怪の山の地形については完璧に把握している。

 椛の言う『目的地』とは、はたてが念写した『湖と神社が映る妖怪の山の一角』である。

 

「ふむ、やっぱり神社なんてないわよね」

 

 足を止め、周囲を見回しながら文が呟いた。

 山の中なので当然だが、何処を見ても木々が生い茂る風景である。

 

「はい。この先に、それらしい建造物や水源は確認出来ません」

 

 椛がそこに付け加えた。

 千里眼の能力を持つ彼女が断言するのならば、それは間違いのないことである。

 二人の言葉を聞いて、はたては焦ったような声を上げた。

 

「い、いや! でも、あたしの念写に間違いないし! ……ハズだし」

 

 先代巫女と古明地さとりの情報を求めてやってきたチルノ達を連れて、こんな場所までやって来たそもそもの理由ははたての念写にあった。

 同じく先代巫女を探す為に能力を行使し、その結果得られたこの一枚の写真を手がかりとして、ここまでやって来たのだ。

 チルノ達の期待や、同じ天狗の仲間達の目を掻い潜ってきた苦労を思えば、何の成果も得られない事態だけは避けたい。

 

「でも……その……間違ってたら、ごめんなさい」

 

 別段責めるような意図は込められていないのだが、周囲の視線に晒されて、はたては顔を青褪めさせながら俯いてしまった。

 落ちた肩が小刻みに震えている。

 緊張から来る嘔吐の前兆だった。

 

「気にすんな、誰にでも失敗はある!」

「チルノちゃん……」

「そうだよ。はたてさんが真剣に探そうとしてくれてることは、ちゃんと分かってるから」

「フランちゃん……ありがとう!」

「でも、さとり様はまだ見つからないんだよね……」

「ごめんねごめんねあたしが不甲斐ないからそんな目で見ないぅおぼぇええええ!」

「みぎゃーっ!? 吐いた! っていうか、服にちょっと掛かったぁ!」

「コラ、お空! はたてをイジメんな!」

 

 見た目は子供のような四人に慰められる同僚の姿を見て、文はこめかみを押さえた。

 すぐさま椛が介護に回る。

 見慣れた光景を眺めながら『何をやっているんだか』とため息を吐いた。

 

「……とりあえず、上空からもう一度周囲を確認してみましょうか」

 

 騒ぎが収まるのを待って、文は提案した。

 

「この周辺はもう天狗のテリトリーじゃないから、飛んでも大丈夫。はたての念写に映った以上、ここにはきっと何か意味があるはずよ」

 

 普段、どれだけ憎まれ口を叩いていても、能力評価という点において文は公平であり的確だった。

 はたての能力には想像もつかないような未知数な部分が多いが、常に一定の成果を挙げている。長年の付き合いである文は、それを認めていた。

 この場所が念写に映ったということは、何かがあるのだ。

 あるいは、何かが起こる場所なのだ。

 あの写真は、その『何か』が起こった結果を映したものなのではないか――。

 すっかり自信を喪失したはたてとは反対に、半ば確信を抱いている文は、すぐさま上空へと飛び上がった。

 朝日が顔を出し始めていた。

 見慣れた妖怪の山の風景が、光に照らされて、鮮明に映し出されていく。

 

「朝だ」

「いつの間にか、夜が明けてたんだね」

「フラン、大丈夫?」

「正直、ちょっとキツイかも」

 

 気遣う橙に、フランドールが顔を顰めながら答えた。

 朝日は夜の闇を払う光である。並の吸血鬼ならば、浴びた途端に灰になってしまう神聖な力があるのだ。

 吸血鬼として高い潜在能力を持つフランドールであっても、激痛と共に大きく体力を削がれ、無防備に浴び続けば死さえ在り得る光だった。

 

「フラン、わたしの翼の影に入って」

「ありがとう、お空」

「気にしないで。だって、わたし達友達じゃん」

「……うん」

 

 全身を酷い脱力感と苦痛に蝕まれながらも、フランは嬉しそうに微笑んだ。

 釣られるように、チルノと橙も笑う。

 それを見ていたはたてが『種族を越えた友情よねぇ』と感涙していた。

 先程から吐いたり泣いたりと、情緒不安定にも見える。いや、それはいつものことか。

 文は納得して、改めて周囲を見渡した。

 上空から眼下を見下ろすと、より一層の確信が持てた。

 この一帯は、はたての念写で映っていた場所に間違いない。

 あの写真と異なる点は、湖と神社が存在しないことくらいだ。あとは全て一致している。

 そう、全てだ。

 木々の配置から、光の加減まで、全て視界にある光景をそのまま切り抜いたかのように、あの写真と同じだった。

 朝日が昇り、日が差すこのタイミングさえも、あの念写された場所の中のそれと一致するのではないか。

 つまり、この時間帯、ここで。

 

 ――『何か』が起こる。

 

「おや」

 

 慎重に周囲を観察していた文は、近づいてくるものに気付いた。

 

「これは、レミリアさん。ご機嫌麗しゅう」

 

 朝日の中を日傘を差して飛んできた場違いな吸血鬼の姿を見つけ、文は殊更丁寧に会釈をした。

 

「こんな所で何をしているのかしら?」

 

 腰の低さに隠された文の不遜な本心を見抜き、レミリアは憮然としながら訊ねた。

 

「それはこちらの台詞ですな。少なくとも、早朝に妖怪の山へやって来た吸血鬼よりは場違いではないと自負しております」

「ふんっ、どうやってか知らないけれど、お前も事態を嗅ぎ付けたようね」

「……やはり、ここに何かがあるんですね?」

「そうよ。これから起こるわ」

 

 レミリアは断言した。

 

「あー! お姉様、どうしてここに!?」

「どうしてって、決まってるでしょ」

 

 日傘を差す方とは反対の腕に持っていたもう一本の傘を、フランドールに投げ渡す。

 

「『運命』が見えたからよ」

 

 呆気にとられるフランドールに対して、レミリアは自信たっぷりに答えた。

 

「――さすがは、レミリア・スカーレットですわ」

「あやや、これはいよいよ大事になってきましたね」

 

 更に、この場にはいないはずの者の声が響いた。

 声のした方向にいる人物を認めて、最も大きく動揺を表したのは橙だった。

 そこにいたのは八雲紫だった。

 移動に使用したであろうスキマの淵に腰掛けて、いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべていた。

 

「妖怪の賢者様までお出ましとなれば、これはもう確定ですかな?」

 

 レミリアと紫が、この時間、この場所で邂逅したこと。

 そして、はたての念写が映した光景。

 全てが偶然であるわけがなかった。

 ここで何かが起こりつつある。

 この示し合わせたような集まりは、その発端なのだ。

 文は紫に負けじと不敵に笑ってみせた。

 

「それはこちらの台詞ね。私も、貴女を見て確信したわ」

「へぇ、それは一体何の話でしょう? 生憎と、私は運命も理の隙間も見る力など持ってはいませんが」

「だけど、貴女には縁がある。先代巫女に関する深い『縁』が」

 

 紫の口から出てきた思わぬ意味深げな言葉に、文は眉を顰めた

 元より、文の八雲紫に抱く感情は良いものではない。

 あの鬼の異変以降、拭えない不信感が根付いてしまっている。

 文は表情と口調に不快さを滲ませつつも、慎重に口を開いた。

 

「……何故、そこであの子の名前が?」

「レミリアの言葉を借りるならば『運命』とやらに、貴女は導かれたのかもしれないわね。貴女の同僚が未来を念写したのも、橙達が貴女の所を訪ねたのも、全てが貴女と先代を繋ぐ運命――」

「分かりやすく言ってもらえませんか?」

「私がここへ来たのは、消えた先代を探した結果辿り着いたのよ。彼女が外の世界へ飛ばされた可能性が高いことは分かっていた。そして、先代の軌跡を追っている間に、私は外の世界で起こっている異変に気付いたのよ」

 

 先代巫女達の行方はもちろん、全ての原因である出来事についてすら何も知らなかった文達にとって、無造作に告げられたその情報は寝耳に水だった。

 訊いた文本人はもちろん、突然現れた八雲紫を畏れて様子を伺うことしか出来なかった者達は、黙って説明に聞き入るしかない。

 ある者は先代巫女の、またある者は古明地さとりの、それぞれの安否を第一に想うが故に平静ではいられないのだ。

 自らの能力である程度事情を見抜いているレミリアと、逆に多くのことを分かってはいないが一番重要な部分だけは理解しているチルノだけが、紫の雰囲気に呑まれずにいる。

 ちなみに、紫の登場に一番度肝を抜かれているのは橙だった。自分がここにいる理由とこれまでの行動を顧みて、青褪めている。

 しかし、紫はそんな橙の様子や事情に頓着していないかのように悠然と微笑んでいた。

 

「もうすぐ、何者かが外の世界からここへ転移してくる」

 

 紫が視線で指した先を、全員が釣られるように見つめた。

 はたての念写に映っていた湖と神社のある地点。

 その上空だった。

 そこに、いつの間にか黒い霧のようなものが発生し、漂っている。

 

「レミリア、丁度貴女達がかつてこの幻想郷へやって来た時と同じものよ」

「分かっているわ。私は、その新参者の顔を見にきたのよ」

 

 レミリアが鼻を鳴らして応じた。

 黒い霧は、濃度を上げながら空に広がっていく。

 もはや、それは霧ではなく重厚な雨雲だった。

 雷鳴轟く黒雲が、妖怪の山の上空に不自然な程の早さで形成されていくのだ。明らかに自然の現象ではない。

 

「外の世界の異変を察知した時は、この忙しい時にまた別の厄介事が起こるのかと少し辟易したけれど――」

 

 何を思い浮かべたのか、紫は苦笑した。

 

「彼女を探した先で厄介事に突き当たるなんて、考えてみれば当然のことよね。だって、彼女を中心に厄介事が集まるんだから」

 

 妖怪の山の一角だけを覆う奇妙な黒雲は、今にも嵐を起こしそうな力のうねりを伴って、完全に具現化していた。

 と、その時、地を揺るがせるかのような凄まじい雷が轟き渡り、巨大な一筋の稲妻が山へと降り注いだ。

 いや、果たしてそれは本当に稲光だったのか。刹那の瞬きにしては、あまりに圧倒的な濁流の如き光の量だった。

 閃光と轟音が、一瞬全ての感覚を麻痺させる。

 周囲の状況を隔絶した空白の時間。

 それが過ぎた後、徐々に戻る視界に映ったものは――。

 

「これは……」

 

 文は呆然と呟いた。

 視界に映る光景は、つい先程までとは一変していた。

 上空にあったはずの黒雲は、あの稲光一つで全ての力を使い果たしたかのように消え去っている。

 再び晴れ渡った青空の下、見慣れた妖怪の山で、見慣れない――しかし、記憶には新しい見覚えのある光景が広がっていた。

 まるで先程の轟雷が空に穴を空け、そこから落ちてきたかのように。

 それは突然、地上に出現していた。

 そこに在ったものは、はたてが念写したものと同じ湖と神社だった。

 

 

 

 

 閉じた瞼越しに強い日差しが射すのを感じて、早苗は小さく呻き声を上げた。

 束の間、意識を失っていたらしい。

 いや、果たして本当に束の間だったのか?

 本当は、気の遠くなるような時間が過ぎているのではないか。

 あるいは、自分は実は死んでいて、この世にはいないのではないか。

 そんな突拍子もない考えが浮かんだのは、目覚めた早苗の心に恐れが生まれていたからだった。

 目を開けるのが怖い。

 開いた目で、自分の居る世界を見るのが怖かった。

 しかし、早苗は目を開けた。

 

「――」

 

 新しい世界が、広がっていた。

 爽やかな朝日と風が、早苗を出迎えた。

 山の上から見渡された自然は何処までも広く、頭上の空は底抜けに青く澄み渡っている。

 ビルや背の高い建物はもちろん、人の手が入った人工物は一つも見受けられない。木々や川が何もかも自然のままそこにあり、遮られる物のない視界は何処までも遠くを見通すことが出来そうだった。

 雄大な景色に息をするのを忘れるほど心を奪われ、思い出したように大きく息を吸い込めば、澄んだ空気が全身を満たした。

 町の空気とは明らかに違う。これがこの世界の空気ならば、自分は今まで煙でも吸って呼吸をしていたとでも言うのか。

 ただ呼吸をするだけで、自分の体に霊的な力が漲るのを感じた。

 それをハッキリと認識出来る。

 これが幻想の存在が住む秘境――幻想郷。

 神や妖怪が当たり前のように存在する――存在が許容される――世界だというのも頷ける。

 まさに神秘の世界だと、早苗は実感した。

 だから。

 だからこそ。

 同時に理解したのだった。

 

「……そうか」

 

 ポツリと呟いた早苗の声には、新たな世界への感動よりも、かつての世界に向ける悲しみが滲んでいた。

 

「私はこれで、もう、本当に――」

 

 ――住んでいた世界から、永遠に離れてしまったのか。

 

 早苗は胸元を押さえて、蹲った。

 理解していた。

 覚悟していた。

 何もかも承知の上で決断したはずだった。

 しかし、この時早苗を襲った胸の痛みは、到底耐えられるものではなかった。

 声にならない声が自然と喉から溢れ、両目が熱くなって涙が零れそうになる。強張った肩が震えて、足には力が入らなかった。

 生まれた町で過ごした十数年間の記憶が頭の中で幾つも渦巻き、早苗の心を掻き乱した。

 残っているのは、この思い出だけだ。

 これまで持っていたものは、皆あっちに置いてきてしまった。

 抱いてはいけない疑問。

 感じてはいけない後悔。

 囚われてはいけない望郷。

 押し潰そうとしてくるそれらを跳ね除けて、立たねばならなかった。

 そうでなければ、本当に全てが無意味になってしまう。

 嘆いてる暇はない。

 これからは、この新しい世界で生きていかなければならないのだ。

 立ち上がらなければ――。

 

「とりあえず、幻想郷へようこそ」

 

 不意に頭上から降りかかった声に、早苗は思わず顔を上げた。

 

「あ――」

 

 人が、空を飛んでいた。

 自分と同じくらいの年齢に見える黒髪の少女が、軽く見上げる程度の高さに浮いていたのである。

 朝日を後光のように背負ったその姿は、纏った巫女装束と何よりも少女自身の雰囲気が相まって、神秘的な美しさに満ちていた。

 早苗は己の内に抱えていた苦悩を全て忘れ去って、ただそれに見惚れていた。

 

「あたしは博麗霊夢。博麗の巫女よ」

「あ……あっ!? す、すみません! 私は東風谷早苗と言います!」

「早苗、ね。変わった格好をしているけど、あんたがこの神社の巫女なわけ?」

 

 霊夢が早苗の目の前に降り立って、訊ねた。

 地面に足をつけた途端、目の前の少女が神秘的な存在から自分と同じ人間へと変わったような気がした。

 

「巫女というか、私は神奈子様と諏訪子様を祭る風祝でして」

 

 慌てて立ち上がった早苗は、周囲を見渡して状況の把握に努めた。

 

「ええと、この神社は……何だろう?」

 

 今更ながら、早苗は自分が神社の境内に居ることに気づいた。

 幻想郷への転移の瞬間まで、社内に居たはずである。

 しかし、気がつけば屋外。一緒にいたはずの神奈子達の姿も見えない。

 そして、目に映っている神社は明らかに諏訪大社ではなかった。

 所々に諏訪大社の面影を感じさせる外観を持ってはいるが、建物の作りが酷く真新しい。

 まるで、つい先程建てられたばかりのような新品の神社である。

 

「……そうか。土地の記憶と共に幻想入りするっていうのは、こういうことなんだ」

 

 この神社は、正確には外の世界に在った神社ではない。

 かつてあの土地に存在した神社の記憶を元にして、この幻想郷の要素で再構築された建物なのだ。

 過去と現在が合わさって新生された『守矢神社』だった。

 

「それで、つまりこの神社は何なの?」

 

 霊夢に再び問い掛けられ、考えに耽っていた早苗は我に返った。

 

「えっと、つまりこの神社は……守矢神社です。八坂神奈子様と洩矢諏訪子様、二柱の神様が住まわれる神社です」

「ふーん。外の世界からやって来たのは、その神様とあんた、そしてこの神社で終わりなのね? 他にいないの?」

「外の世界って、分かるんですか?」

「外来人が迷い込むっていうのは、たまにあるしね。それと似た感覚がしたから。さすがに住んでる場所ごとやって来るっていうのは珍しいけど」

「す、すみません」

「いいわよ、前例がないわけじゃないし。それで、あんた達は何の目的で幻想郷に来たの? 侵略?」

「いやいや! なんで一番にそんな物騒な考えが浮かぶんですか!?」

「前例がそうだったから。ちなみに、その侵略者は当時の博麗の巫女にぶっ飛ばされたから。あんたも覚悟して答えなさい」

 

 そう言った途端、発せられた霊夢の気迫に圧されて、早苗は息を呑んだ。

 身構えたわけではなく、表情すら変わっていなかったが、明確に纏う雰囲気が変化していた。

 外の世界の平穏な日常に慣れた早苗では、相対するだけで身動きすら取れなくなるような『戦いの気配』である。

 よく観察してみれば、霊夢の体はつい先程こさえてきたかのような生傷だらけだった。服も破れ、血が滲んでいる。

 その姿が痛々しさよりも先に、日常の中で当たり前のように戦いがあるという壮絶な事実を伝えていた。

 そして、その事実の中で揺るぎ無く立つ人間の力強さも。

 早苗は一瞬、霊夢の姿を恐れると同時に憧れた。

 

「し……侵略なんかじゃ、ないです。目的は、移住です」

「移住ねぇ。なんか商売敵になりそうだから、あたしにとっては侵略と同じような気がしないでもないけど」

「巫女は商売じゃないと思うんですけど……博麗の巫女って、違うんですか? 役職としては幻想郷の管理者だって聞いてましたけど」

「へぇ、幻想郷のこと少しは分かってるんじゃない。誰に聞いたの?」

 

 警戒を解いた霊夢が訊ねた。

 圧迫感から開放され、落ち着いた早苗も思い出す。見知らぬ土地で自分の身元を保障するコネがあることを。

 

「はい。古明地さとりさんと、貴女の先任である元博麗の巫女の先代さんが――あれ? どうしました?」

 

 ポカンと口を開けて、呆然とした表情のまま固まる霊夢に、早苗が不安そうに訊ねた。

 しかし、何の反応も返ってこない。

 一体、自分の何が霊夢をそこまで驚かせてしまったのか。

 呆気にとられたまま動かない霊夢と、それに対してオロオロとうろたえることしか出来ない早苗。

 そんな二人に向かって、偶然にも同時に別々の声が掛かった。

 

「おーい、霊夢ー! 急に先に行くなんてずるいぜ!」 

「おーい、早苗ー! そんな所にいたのか、探したよ!」

 

 上空から霊夢を追ってやってきた魔理沙と咲夜。

 そして、神社の裏手から早苗を見つけて駆け寄ってくる諏訪子だった。

 

 

 

 

「あやや、これは驚きました。何がやって来たかと思ったら神ですか」

 

 守矢神社を一望しながら、文は神妙な顔付きで呟いた。

 ただの神ならば、幻想郷ではさほど珍しい存在ではない。

 元々、八百万は居ると言われる神々だ。それこそ、道端の小さな社にさえ神が宿っていることもある。

 しかし、眼下から感じられる『神気』は、妖怪の文でさえハッキリと分かるほど大物のものだった。

 

「一瞬で神社が出現したことくらいでは驚きませんが、土地を無理矢理切り開いた感じはしませんね。むしろ、自然です。元から山の一部であったかのように神社が建っている」

 

 守矢神社は博麗神社と比べて幾分か大きい建物だった。それに比するように境内も広く、敷地を取られている。

 何よりも、その神社のすぐ傍には大きな湖が存在するのだ。

 土地として、この神社と湖が一つのセットになっているのだろう。

 それだけの面積が突如、山の中へ割り込むように現れ、しかし違和感なく馴染んでしまっている。

 地形が明らかに変化していたが、それが元々の山の形であったかのように自然なのだ。

 

「地を操る程の力ともなれば、これは並の神ではありませんよ」

 

 独り言のように呟かれた言葉は、実質紫に向けられたものだった。

 外の世界から追いやられた神や妖怪が、幻想郷を訪れるのは珍しいことではない。

 しかし、今回の件は、それら有象無象と一緒くたにするには大仰すぎる出来事だった。

 幻想郷が成立して以来、これほど大きな力を持つ神を迎え入れた経験はない。

 しかし、紫は涼しげな横顔を見せたまま、神社を見下ろしていた。

 

「――ねぇ、文。探りを入れるのはいいんだけどさ、どっちかというとこれって私らの方が深刻なんじゃない? だって、ここ妖怪の山よ?」

 

 はたての入れた横槍に、文はほんの少しだけ顔を引き攣らせた。

 目を逸らしていた事実だからだった。

 天狗の集落から離れているとはいえ、同じ妖怪の山に強大な勢力が突然出現したのだ。

 相手の意図がどうあれ、その存在そのものが天狗という種族にとってプレッシャーとなる。

 もっとハッキリ言えば、これほどの力を持つ神が同じ山に住むことは『脅威』だった。

 新たに現れたこの勢力と、一体どういう関係を築いていくのか――。

 穏便に済む可能性も険悪な方向へ進んでいく可能性も十分に考えられるだけに、一介の鴉天狗として頭が痛くなる思いだった。

 

「さて? では、彼女達がどういった目的でやって来たのか。それもついでに確認しておきましょう」

 

 文の動揺を見抜いているのかいないのか。紫は意趣返しとも取れる呟きを洩らした。

 その瞳は、既に守矢神社とその周辺の様子を把握し終えている。

 タイミング良く、天界から戻ってきた霊夢達が神社の近くにいる少女の下へ降り立つのが見えた。

 そこに駆け寄るもう一つの人影は、おそらくこの神社に住む神の一柱である。

 そして、位置的には境内から少し離れ、湖の畔付近。

 そこにまた別の気配があった。

 もう一柱の神の気配。

 そして――。

 

「お師匠!? あれ、お師匠だ!」

「えっ、小母様!? どこどこ!?」

「さとり様だ! さとり様もいるぅー!」

「わっ、ちょっと待って! 少し様子も見なきゃ駄目だってば、何が起こってるのか分からないんだから!」

 

 チルノに釣られて同じ方向を見たフランドールと空が逸って飛び出そうとするのを、橙が慌てて引き止める。

 未熟だと思っていた式神の冷静な判断に、紫は評価を改めた。

 苦労を被って成長するタイプね。と、内心でほくそ笑む。

 しかし、すぐに意識を眼下に戻した。

 

 ――二柱の神と先代の間にどんな出会いや経緯があって、共にこの幻想郷へやって来たのか?

 

 その詳細までは、さすがの紫にも分からない。

 しかし、とにかく先代の無事な姿を再び見ることが出来た。

 紫は密かに安堵していた。

 そのほんの僅かな気の緩みせいで、紫は気づけなかった。他にも安堵を隠していた者が何人かいたことを。

 

「とりあえず、様子を見るにしてもこのままでは埒が明きませんわ。私は幻想郷の代表としてあちらに伺うつもりですけれど、もし宜しければ皆さんもご一緒に――」

 

 紫は慎重な文達と意気込むチルノ達の両方へ、無難な行動を提案した。

 

 

 

 

 早苗が辿り着いた世界を認識したように、そうして幻想郷へやって来た者の存在を文達が認識したように、神奈子もまた目を覚ました。

 いつの間にか、地面の上で大の字に寝転がっていた。

 直前まで居たはずの諏訪大社は建物自体が外の世界に置き去りにされたのだとあらかじめ分かっていたから、屋外に居ることに疑問は湧かなかった。

 一緒に居たはずの早苗と諏訪子の姿に近くに見えないことも、転移の場所がズレた結果だと考えれば納得出来る。

 暴走を起こすほど凄まじい力が、あの瞬間炸裂したのだ。

 目的地へ無事に辿り着けるかどうかさえ、定かではなかった。

 力の中心にいた、あの場の全員が散り散りに飛ばされても不思議ではなかった。

 この程度の誤差で済んだのは、ちょっとした奇跡だ。

 神奈子は仰向けに倒れたまま、しばらくの間青く澄み渡った空を見上げていた。

 足元が妙に冷たい。水に浸かっている感触がある。

 ゆっくりと体を起こした。

 自分は大きな湖の畔で寝ていたらしい。

 そこは諏訪湖に間違いなかった。

 大きいと言っても本来のそれと比べれば随分と小さくなり、山の地形に合わせて形も変わっていたが、それらの理屈を無視して神奈子には直感出来た。

 時代が進むと共に汚染され、澱みが目立つようになった湖面は、しかし今は底抜けに青く輝き渡っている。

 加えて、湖には何本もの柱が立っていた。

 外の世界の諏訪湖には存在しなかった、木を丸ごと一本削り出して注連縄を巻いた『御柱』である。

 それはかつて、遠い遠い昔――神々の時代に存在した、まだ『諏訪』という名が付く前の湖の姿だった。

 片膝を立て、そこに腕を置いて、神奈子は広がる光景をじっと眺めていた。

 体が軽く、呼吸が楽だった。

 傷つき、疲れ切ったはずの肉体に、ただ呼吸を繰り返すだけで力が少しずつ満ちていくのを感じる。

 奇しくも早苗と同じように、神奈子もまた自らが新たな世界へ辿り着いたことを実感していた。

 ただ一つ違うのは、神奈子が感傷を抱いてはいないことだった。

 自らを否定する世界から離れ、滅びの運命からも逃れ得たことへの達成感はない。

 あるいはあったのかもしれないそれを、胸に走る疼くような痛みが掻き消す。

 この胸に、先代巫女が刻んだ傷が――。

 ほんのついさっきまで繰り広げていた、死闘と敗北の記憶が――。

 

「先代――」

 

 神奈子は自分に向けられる複数の視線に気付いていた。

 上空から近づいてきた、紫や文達の視線である。

 加えて、こちらに気付いたらしい、神社の方から近づいてくる早苗と諏訪子、そして見知らぬ三つの気配にも気付いている。

 青娥の所在だけは掴めなかったが、同じく転移してきた以上、近くに居ることは間違いない。

 新たな土地で考えるべきこと、対応すべきことは幾らでもあった。

 しかし、神奈子は何よりもまず先代巫女の姿を探した。

 視線を動かした先。

 歩いて近づける程度の、そう遠くない位置に先代とさとりの姿を見つけることが出来た。

 転移の際、神奈子と同じように諏訪大社の中から湖の近くへと位置がズレたらしい。

 湖の畔よりも更に少し入り込んだ、半身が水に浸かる程の浅瀬で二人は身を寄せ合っていた。

 神奈子から見て、先代の方は背を向ける形になっている為、表情や様子を伺うことは出来ない。

 しかし、さとりの方は確認出来た。

 彼女は先代の腕に抱え上げられ、腰から下を水の中に浸していた。

 濡れた髪が額に張り付き、瞼は閉ざされている。

 力なく垂れ下がった片腕が、やはり半ばまで水に浸かっていた。

 冷たい水の中で、先代も、さとりも、身動き一つしようとしない。

 

「……そうか」

 

 神奈子は全てを察したかのように、小さく呟いた。

 

「間に合わなかったか」

 

 

 

 

 私は目を覚ました。

 辺りを見回すと、外だった。

 神社の中に居たはずだが、目に映るのは土と木、青い空、青い水面――湖、何処までも自然だけだった。

 たった数日離れていただけなのに、凄く懐かしく感じる。

 幻想郷だ。

 私は、幻想郷にちゃんと帰ってきたんだ。

 

「……さとり」

 

 地面に野ざらしで一人放り出されて、最初に気になったのはまずさとりの安否だった。

 他の皆のことも、もちろん気になる。

 だけど、一番はさとりだった。

 光が溢れ、転移が始まる瞬間抱き締めた彼女の体が何処にもない。

 気配を探るのも忘れて、私は手当たり次第に辺りを見渡した。

 そして、見つけた。

 少し離れた湖の畔に、さとりの体が横たわっている。

 かろうじて顔だけが水面から浮かぶ程度にまで水に沈み、四肢が力なく揺れていた。

 私は慌てて駆け寄り、さとりを水の中から抱き上げた。

 

「さとり」

 

 私の声に、さとりは応えない。

 

「さとり」

 

 瞼を開けないのは、呼び掛けが弱いからだ。

 

「さとり!」

 

 体が冷たいのは、ずっと水に浸かっていたからだ。

 

「さとり、目を開けろ!」

 

 すぐに探せなかったのは、私が気配を探るのを忘れていたからだ。

 

「お願いだ、目を開けてくれ!」

 

 決して。

 

「頼む。頼む。頼むから……!」

 

 決して、何も感じ取れなかったからじゃない。

 生命の気配を、さとりの体から感じ取れなかったからじゃない。

 こうして抱き上げた今も、彼女の息遣いや鼓動が聞こえないのは――。

 

「そうか」

 

 背後で呟かれた、神奈子様の小さな呟きが、

 

「間に合わなかったか」

 

 静まり返った空間の中で、妙に鮮明に聞こえた。

 

 

 

 

 事情を知る者。

 事情を知らぬ者。

 しかし、集まった誰もが、その光景の意味だけは正しく理解していた。

 境内から駆けつけ、先代の悲痛な叫びを聞いて足を止めた早苗や霊夢達。

 さとりを抱きかかえた先代の様子を遠巻きに見つめていた文や紫達。

 そして、険しい目付きで現実を見据える神奈子。

 誰も、何も、言葉を発せず、手も出せず――ただその光景を眺めることしか出来なかった。

 

「さとり様――!」

 

 空が、さとりの下へ飛び出していく。

 今度は橙も止めることが出来なかった。止めようとも思えなかった。

 

「さとり様! さとり様、起きてよ!」

 

 空がさとりの体にしがみ付いて、何度も揺さぶった。何度も呼び掛けた。

 しかし、さとりは目を開かない。

 空は助けを求めるように、先代の顔を見上げた。

 チルノの顔を見、フランドールの顔を、橙の顔を――自分の知っている顔も知らない顔も、その場に居合わせた全員の顔に縋るような視線を向けた。

 さとりを助けてくれるのならば、誰でも構わない。

 妖怪でも、神でも、人間でも。

 しかし、誰一人としてその願いに応えてくれる者はいなかった。

 

「さとりさまが、しんじゃった……」

 

 空が泣きながら叫んだ。

 

「さとり様が死んじゃったよぉ! うわぁあああああああん!!」

 

 聞く者全ての心に痛みを感じさせるような嘆きが、辺り一帯に響き渡った。

 橙が苦悩に歪んだ表情を隠すように手で顔を覆い、フランドールが唇を噛み、チルノは拳を握り締めていた。

 幼子の悲痛な泣き声に応えるものは、何もなかった。

 

「――お前は嘆かないのか、先代」

 

 さとりに胸に顔を埋めて泣き伏せる空とは対照的に、身じろぎ一つしない先代の背中へ、おもむろに神奈子が問い掛けた。

 空と先代以外の視線が、神奈子に集中する。

 

「憎まないのか、私を」

 

 早苗と諏訪子は、その言葉の意味を理解していた。

 それ以外の事情を知らない者も、おぼろげながら理解した。

 さとりの死の遠因は、神奈子にある。

 神奈子との戦いが幻想郷への帰還を先延ばしにし、結果さとりの抱えていた生命のタイムリミットを過ぎてしまったのだ。

 

「『お前のせいだ』と、私を責めないのか――」

 

 神奈子は、そう言って小さく笑った。

 嘲るような響きを含んだ声色だった。

 先代がゆっくりと立ち上がる。

 振り返って、静かに神奈子の方を見た。

 伺うことの出来なかった先代の顔が瞳に映り、神奈子の眉が僅かに跳ね上がった。

 状況を見守っていた者達は、先代の横顔に浮かぶ感情を見て、息を呑んだ。

 そこには何も浮かんでいなかった。

 怒りにも嘆きにも顔は歪まず、神奈子に向けられた瞳の中には何も映っていない。

 感情はおろか意思さえ感じさせない能面のような顔には、ただ一筋、頬を伝う涙だけがあった。

 血の涙だった。

 何も感じていないわけではない。

 言葉に出来ない程多くの感情に心を食い荒らされながら、それを一切外へ出そうせず、全て己の内に向けているのだ。

 まるで、自分への罰であるかのように。

 責めるべきは他人ではなく、自分であるかのように。

 押さえきれない激情のほんの一部が、目から溢れた。

 ただそれだけの――虚無という感情を形にした顔だった。

 

「――」

 

 神奈子は言葉を失った。

 先代は、誰を責めるわけでも、何を嘆くわけでもなく、全てを自らの内に抱え込んで自壊しようとしている。

 先代と親しい者の中には、彼女の心境を鋭く察することが出来る者がいた。

 霊夢は、母を止めようとした。

 紫は、親友を抑えようとした。

 チルノは、師を支えようとした。

 今まさに心が死のうとしている彼女を助ける為、咄嗟に行動しようとした。

 しかし、彼女達の中で誰よりも早く、動く者がいた。

 先代の傍に駆けつけようと、はたてが身を乗り出した時、既に文はその場から風のように飛び出していた。

 

「このっ、馬鹿!」

 

 一瞬で先代の下に辿り着くと、横面を思い切り殴りつけた。

 無防備に拳を受け、水飛沫を盛大に上げて倒れる。

 

「何をしているの……!?」

 

 先代が立ち上がるよりも早く、胸倉を掴んで水の中から引き上げた。

 

「さっさと泣きなさい!」

 

 呆然とする先代の顔を睨みつけて、文は怒鳴った。

 

「泣き叫んで、吐き出すのよ! あんたが感じた納得のいかないこと、理不尽に思ったこと、押さえ込まずに出しなさい! 人にでも物にでも当たり散らせばいい! 少しでも理由があるのなら、誰かを罵ればいい! 自分の中だけで完結させるな!!」

 

 目の前で捲くし立てる文と、彼女が抱く怒りの理由が分からず、何も映っていなかった先代の瞳に『困惑』という色が浮かび上がった。

 震える唇が、かろうじて言葉を紡ぎ出す。

 

「……そんなの、何の……意味も……ない」

「ええ、そうね。何の意味もないわ」

「さとりは……もう……」

「どれだけ嘆いても、現実は変えられない」

「だったら――」

「嘆いても変わらないんなら、嘆いたっていいでしょうが!」

 

 叩きつけるように、文は叫んだ。

 

「どんなに泣いても、どんなに願っても、誰かを責めても、何も変わらないのよ! ただ虚しいだけ、失ったものは戻らない!

 ――だからこそ、叫ばなきゃいけないでしょう! 何、口を閉ざして抱え込んでんのよ!? 自分一人で全部抱え込めるなんて、甘ったれたガキの考えなのよ! ふざけるな!」

「……ふ、ふざけてるのは、どっちだ……」

 

 先代の戸惑うような表情が、徐々に険しくなっていく。

 腹の底から沸々と怒りが込み上げてきていた。

 

「いきなり……怒鳴って、何の意味もないって分かってることを……」

「ボソボソと喋るな! 聞こえないのよ!」

「勝手な……勝手なことを言――!」

 

 苛立ちのまま文に向けて叫ぼうとした先代は、そこで我に返った。

 ただ自責の念だけに囚われ、胸の奥に封じたまま何処にも向けるつもりのなかった激情が、喉元まで出掛かっていることに気付いたのだった。

 誰のせいでもないと思っていた。

 自分のせいだと責めていた。

 先代は、改めて文を見つめた。

 真摯な眼差しが、じっとこちらを見つめ返していた。

 

「――泣けばいい。後のことは、何も考えなくていいから」

 

 子供に言い聞かせるようにゆっくりと優しく、文が告げた。

 胸倉を掴んでいた手が解かれる。

 自由になった先代は、戸惑うように彷徨う視線を、やがて静かにさとりの方へ落とした。

 物言わぬ彼女の傍に再び腰を降ろし、力の入らない手をそっと握り締める。

 さとりがその手を握り返すことはなかった。

 当たり前のことだった。

 そうする前から、理解していたことだった。

 しかし――。

 

「さとり」

 

 先代は呼び掛けた。

 無駄だと分かっていながら、何度も名前を呼んだ。

 

「逝かないでくれ……」

 

 さとりの頭を掻き抱いて、額に頬を寄せながら何度も繰り返す。

 

「頼む。誰か。誰か、助けてくれ。さとりを助けてくれ。お願いだ。助けてくれ。誰か」

 

 あの雄々しく、凛々しい先代巫女が。

 これほどまでに切に願う姿を、誰も見たことはなかった。

 

「誰か」

 

 これほどまでに縋る声を、聞いたことはなかった。

 

「誰か」

 

 誰一人として、その願いに応えることは出来なかった。

 無力感に苛まれながら、佇むことしか出来なかった。

 

「――神様、お願いだ」

 

 消え入りそうな声で呟かれた言葉を聞き取り、神奈子は目を見開いた。

 疼いていた傷の痛みを忘れるほどの衝撃が、新たに胸を貫く。

 得体の知れない衝動が体を突き動かし、神奈子は先代に向かって無意識に手を伸ばそうとしていた。

 彼女が助けを求めて差し出した手を取ろうとした。

 しかし、伸ばした自らの手はあまりにも弱々しかった。

 その弱さに絶望すら覚え、神奈子は苦々しげに歯噛みしながら、何も掴むことの出来なかった手を虚空で握り締めた。

 先代は嗚咽の混じり始めた声で、何度も言葉を繰り返していた。

 思いつく限りの願いや嘆きを吐き出すことで、その内の一つにでも何か応じるものがあるのではないかと試しているかのようだった。

 目を開けてくれ。

 誰か助けてくれ。

 お願いだ。

 頼む。

 神様。

 どうして。

 こんな。

 何故。

 畜生。

 誰が。

 何が。

 何を。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 どう――。

 

「ぁ……嗚呼ああああああああああああああああああ゛あ゛あ゛――ッ!!!」

 

 ついに言葉としての形すら保てなくなった声が、涙と共に先代の中から溢れ出した。

 獣が吠えるような慟哭が、辺りに響き渡る。

 そこには誰もが知る先代巫女の姿はなかった。

 無力でちっぽけな人間がいるだけだった。

 文だけが、子供のように泣き叫ぶ先代の姿を真っ直ぐに見つめていた。

 幾つもの死闘を制し、幾つもの困難を乗り越えてきた先代巫女が、初めて吐き出した心の底からの嘆きは、しかし目の前の現実を揺るがせることはない。

 やがて声が枯れ、涙を出し尽くした時、そこに残るのは諦めと虚しさだけである。

 

 ――そのはずだった。

 

 

 

 

「五月蝿いですね」

 

 

 

 

「……え?」

 

 その場違いな程に間の抜けた声は、誰が洩らしたものだったのか。

 誰もが呆けたように顔を上げて、聞こえるはずのない声の主を見つめた。

 

「目覚ましにしても、酷すぎね。なんて声出すんですか。本当に、もう」

 

 先代が見下ろす先で、開くはずのない目が開いていた。

 瞼は半分しか上がっておらず、今にも再び閉ざされそうなほど重い仕草だったが、それでも目を開いて、先代を見たのだ。

 

「……さとり?」

 

 泣き腫らした先代の顔を見上げて、さとりは可笑しそうに微笑んだ。

 

「寝起きにそんな顔を見せるなんて、ホント貴女って、やること成すこと全部最悪――」

 

 信じられないことが、目の前で起こっている。

 しかし、現実は揺るがない。

 握り返されるはずのない手が、弱々しくも確かに握り返されているのを感じた。

 混乱した頭の中に、理解がゆっくりと染み渡り、やがてそれを受け入れた。

 すぐ傍で、空が先程までとは意味を全く逆にして、再び大声で泣き始めたが、それは先代の耳には入ってこなかった。

 ただ体を突き動かす衝動のままに、さとりの体を抱き締めた。

 思考は纏まらず、声は言葉にならない。視界は涙でグシャグシャだ。

 抱き締める力が強すぎて、さとりが抗議の声を上げている。

 しかし、構うことはなかった。

 

 

 

 

 湖に立った幾本もの御柱の内一つの陰に、青娥は身を隠していた。

 気配も完全に絶っている。優れた察知能力を持つ霊夢や紫にさえ、その存在を悟らせていない。

 先代達の方に意識が向いていることも理由としてあるが、それを差し引いても見事な『陰形』であった。

 幻想郷への転移を確認した時点で、青娥は人知れず姿を隠す為の行動に出ていたのだ。

 未踏の地とそこに住む者達を警戒しての判断だった。

 幻想郷の有力者である先代達と友好関係にあったとしても――否、あるからこそ――密かに様子を探る必要があった。

 そして、案の定。青娥の価値観で『お近づきになりたくない相手』を何人か見つけた。

 八雲紫などは、その最たるものだった。

 観察した結果得られた情報だけではない。直感的にも、あの妖怪とはソリが合わないと断言出来る。

 それは、先代に向ける目付きを見て、一層の確信となった。

 

 ――ああ、なんという強大な力。恐ろしい気配。不気味な存在感。

 ――これほどの脅威を感じる相手は、自分の記憶にも思い当たらない。

 ――まさに大妖怪。

 ――反吐が出る。

 ――求めもせず、望みもせず、ただ生まれつき与えられた台座の高さから見下ろすことしか出来ない不毛な存在のクセに。

 ――身の程も弁えず、なんて物欲しげな顔で先代様を見るのかしら。

 

 しかし、そんな嫌悪感が綯い交ぜになった警戒心も、すぐにどうでもよくなった。

 先代の慟哭が響き渡る。

 さとりの亡骸を抱き、子供のように泣き叫んでいる。

 その声を聞いた時。

 その姿を見た時。

 青娥の体の芯に、電流のような感覚が走り抜けた。

 熱い、痛みさえ伴う情動だった。

 

「ああっ、先代様――!」

 

 思わず洩れた声が辺りに響かぬよう、青娥は自らの指を噛み締めた。

 しかし、胸の奥で疼く感情までは抑え切れない。

 ああ、先代様。

 なんという声で泣くの。

 なんという顔で嘆くの。

 貴女のそんな姿は、想像も出来なかった。

 戦神と互角以上に渡り合った、あの雄々しい姿からはとても連想出来ない。

 寒気がする程の殺意と力を奮った、あの禍々しい姿からはまるで考えられない。

 貴女が。

 強い貴女が。

 最強の貴女が。

 こんなにも弱い一面を持っていただなんて。

 こんなにも脆い側面を持っていただなんて。

 安心して下さい。

 その姿を見て、私が失望するなどということはありません。

 むしろ、その逆。

 貴女が、より一層愛しい。

 貴女が誰よりも強いことは、これまで私自身の目で見てきたことです。

 そして今、私は貴女が弱いことも知った。

 貴女は決して無敵の存在ではない。

 どうしようもないくらい人間です。

 だからこそ、素晴らしい。

 だからこそ、美しい。

 貴女はきっと不滅ではないのでしょう。

 いずれ死んでゆく人間なのでしょう。

 だからこそ。

 だからこそ、貴女は滅びる最期の瞬間まで不敗でなければならない――!

 

「素敵ですわ、先代様。本当に素敵」

「せいがー、嬉しそーだなー」

 

 小脇に抱えた芳香に、青娥は満面の笑みを向けた。

 

「芳香、幻想郷では忙しくなりそうよ」

 

 先代様の強さを、私が支えなければ。

 先代様の弱さを、私が守らなければ。

 

「これからは私が、先代様の御力にならなければいけないわ♪」

 

 

 

 

「……よかった」

 

 隠れていた木に背を預け、妖夢はホッと胸を撫で下ろした。

 さとりが死んだ、と。空が泣き叫んだ時は、心臓が凍りつく思いだった。

 恐怖や後悔――様々な感情が胸に去来した。

 さとりを救う為に何か行動を起こさなければいけない――焦燥感に駆られながらも、頭は回らず、体は震えて、その場から一歩も動くことが出来なかったのだ。

 結局、妖夢に出来たのは事の成り行きを凝視し続けることだけだった。

 そして、妖夢が関与しないところで事態は無事に収束した。

 理由は分からないが、さとりが生き返ったのだ。

 この際、そこにどんな力や理が作用したのかはどうでもよかった。

 とにかく、さとりは助かった。

 妖夢は、その事実だけに安堵した。

 

「だけど……私は、一体何をしていたんだ」

 

 次に湧き上がったのは、自分への失望とどうしようもない無力感だった。

 本当に、何も出来なかった。

 いや、何もしようとさえしなかった。

 

「何の為に、ここまでやってきたんだ……」

 

 空の無茶な行動を防ぐ為、連れ戻す為にやって来たはずだった。

 それが『慎重』という言葉を建前にして、自分の姿を現すことさえ出来ず、挙句恩人であるさとりの窮地にただ突っ立っていただけ。

 何も出来なかったかもしれない。

 だけど、何か出来たかもしれない。

 ただ、何もしなかっただけ。

 これでは、例え我武者羅でも主の為に地上へ飛び出すという行動に思い切った空の方が、ずっと上等ではないか。

 自分の情けなさに、涙が出そうだった。

 

「これからどうしよう?」

 

 一体、どの面を下げて彼女達の前に出ていけばいいのだろう。

 そして、この期に及んでも、紫を始めとする自分の知己と顔を合わせるのが辛いと感じている。逃げたいと思っている。

 

 ――本当に、なんてどうしようもない奴なんだ。私は。

 

 妖夢はその場に座り込んで、膝に顔を埋めた。

 

「ごめんなさい、さとりさん……」

「あー、いけないなぁ。そんなネガティブな考え方じゃあ、落ちるところまで落ちちゃうよ? 気楽に行こうよ」

「無理です。さとりさんとお空さんに顔向けできない」

「いいじゃん、お姉ちゃんも無事だったんだし。結果オーライだよ」

「無事だったのは、私が何かしたわけじゃありません」

「それを言うなら、あの時誰も、何も出来なかったよ。お姉ちゃんは助かるべくして助かった。そう納得すればいいんじゃないかなぁ」

「そんなの、納得出来ません。じゃあ、あの時何が起こったって言うんですか?」

「うーん、奇跡? もしくは、デウス・エクス・マキナかしら? 悲劇を喜劇で終わらせる為に力を貸してくれたの。物語の流れに補正は付き物よ」

「何ですか、それ……ワケが分かりません」

「分からなくていいわ。でも、分かってもいいわ。っていうか、どうでもいいわ。重要なのは、アナタがお姉ちゃんのことを本当に心配してくれたってことよ」

「想うことしか出来ない私に、何の意味があるっていうんですか?」

「十分じゃない。想いって大切よ? 特に、わたし達のような心を読む妖怪にはね。誰からも好かれない妖怪だもの、心の底から想われて悪い気はしないわ。お姉ちゃんも、口では素直に言えないけれど、きっと心では喜んでいる。あの先代巫女さんのことだって、傍に居ることがずっと救いになってるはずなんだから。自覚はないんだろうけどね、自分の心は読めないし」

「……そういうものでしょうか?」

「そうよ、ツンデレって奴よ。やだもう、お姉ちゃんったら可愛くなーい。そこがいいんだけどね!」

「はあ……」

 

 曖昧な返事を返したところで、ふと妖夢は我に返った。

 顔を上げて、周囲を見回す。

 誰もいない。

 当たり前だった。誰かに見つかっては困るのだ。

 いや、そもそも何故『見つかって困る』などという発想に行き着くのか。

 

 ――別に誰かと話していたわけでもないのに。


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