東方先代録   作:パイマン

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風神録その十。


其の四十九「乾」

 清く正しい射命丸文らしからぬ一日だった。

 朝から晩まで自宅に篭もったまま、机と向かい合っていたのだ。

 特ダネは自分の足で稼ぐもの――そういったモットーを持つ文にとって、調子が良かろうが悪かろうが、とにかく外を飛び回って新しい出来事を探すのが日常である。

 長年、鴉天狗としての仕事をこなす上で、それだけは欠かしたことがない。必要性だけでなく、趣味でもあるからだ。

 それが出来なかった。

 やる気が起きなかった。

 文は机の前で悶々としていた。

 

「くそっ……それもこれも、あの先代巫女のせいだわ……」

 

 苛立ちは、自然と向くべき場所へ向けられた。

 理不尽な言い掛かりだとは思わなかった。

 少なくとも、文自身は今の自分が普段と違う調子である理由を先代巫女に見出している。

 彼女のことを考えると、モヤモヤとした形容し難い気分になるからだ。

 三日前に事件が起きた。

 博麗神社が突如、倒壊したのだ。

 事が起こった翌日、文はいつものように幻想郷を飛び回っていた。

 潰れた博麗神社を偶然発見して、その日の内に情報を掻き集め、倒壊の原因が極めて不自然なものであること、当時神社に居たはずの博麗霊夢が姿を消したこと、そして――先代巫女がその日神社を訪れる予定になっていたことを知った。

 その時、得体の知れない不安が文の胸の内に小さな染みのように湧いた。

 作業をする傍ら、気のせいだと思い込んでいたその染みは徐々に大きくなっていった。

 何とか記事にはしたものの、新聞を配り終えてやるべきことがひと段落ついた途端、抑えていたものが溢れ出したかのように体中を縛り、そして動けなくなった。

 発行した文々。新聞の出来は、決して満足のいくものではなかった。記事に話題性こそあったものの、肝心の情報が不足していた。次の新聞の為に、調べるべき事柄、追求すべき疑問は幾らでもある。

 神社が倒壊した本当の理由は何なのか?

 博麗霊夢は何処へ行ったのか?

 八雲紫はこの事を何処まで把握しているのか?

 そして――巻き込まれた先代巫女はどうなったのか?

 しかし、結局丸一日家から出られずに過ごした。

 考えれば考えるほど、腰が重くなった。

 知ることが、怖くなった。

 

 ――あの子のことを、より深く知ることが。

 

「どうして、今更……」

 

 先代巫女の過去について、自分ほど深く知る者はそうはいない。

 何せ、幼少時代から知っているのだ。

 あの八雲紫よりも先に、妖怪の山で幼かった彼女を見つけた。

 その成長に、不本意ながら関わりもした。

 何度も新聞の記事にした。

 仮に百歩譲って、今の自分が先代巫女の安否について案じているとしよう。

 しかし、彼女の無茶や無謀、その結果の負傷などは今に始まったことではない。昔から、幾度となくあった話だ。

 あの頃と現在の違いは何なのか。

 何時、変わり始めた。

 現役時代に妖怪の山で再会した時?

 引退後に地底でのスクープを知った時?

 鬼の異変で初めて彼女が命懸けで戦う姿を見た時?

 それとも、やはり――四季映姫に彼女の死後の秘密を聞いた時なのか?

 文には分からなかった。

 天狗としての長年の経験をもってしても解けない、初めての苦悩を持て余していた。

 

「――ああっ、イライラする! こんなの私じゃないわ!」

 

 意を決するように、重い腰を座りっぱなしだった椅子から持ち上げる。

 気分転換とはとてもいかないが、このまま無為に時間を過ごしても不毛であることくらいは分かっている。

 既に時間は深夜過ぎだった。

 机から立ち上がった文は振り返って、部屋に視線を移した。

 そこには、床に座り込んだ姿勢のまま眼を瞑って集中するはたての姿があった。

 

「……あんた、まだやってたの?」

「うるさい! 話し掛けないで、もう少しなのよ……っ!」

「丸一日そうやってたクセに何言ってんのよ。あんたも大概だわ」

 

 文々。新聞を読んだはたてが、先代の安否を確かめる為に文の所へ飛び込んできたのは今朝方のことだった。

 文字通り、窓を破って飛び込んできた。

 抗議する間もなく文は詰め寄られ、鬼気迫る勢いに洗いざらいの情報を教えたが、結局それらがはたての疑問と不安を解消することはなかった。

 文が知らないものを、はたてが知るはずもない。

 先代巫女の所在と安否を探る手段は、手詰まりとなった。

 しかし、はたては諦めていなかった。

 

「先代の居場所を念写する、って……やっぱり無理なのよ」

「まだまだ! あたしの集中力が足りないだけなのよ!」

 

 胡座をかき、両手で握ったカメラを、射抜くかのような目付きで睨んでいる。

 これが果たして何らかの成果を生んでいるのか、傍から見ている文には分からなかったが、丸一日この状態を続けていられる集中力については感嘆すべきものがあった。

 そして、僅かに期待してしまう部分もある。

 はたてが持つ念写の能力は『キーワードを思い浮かべることで関連する対象を写真に収める』というものである。

 かつて他人の視界を映す程度の曖昧な能力だったものを、カメラという媒体を通すことで具体的な形に完成させていた。

 はたての念写には未知数の部分が多い。写真に出来るのは、別段他人の視界や他のカメラが撮った画像に限らず、肉眼で確認出来ないものの実態でも撮影することが可能なのだ。

 仮に先代巫女が幻想郷以外の場所に居たとしても、はたての念写ならば捉えることが出来るのではないか――そんな淡い期待があった。

 

 ――はたてに期待する、か。やっぱり私らしくない。

 

 一心不乱に集中するはたての背中を見ていると、心にモヤモヤとした形容し難い苛立ちにも似た感情が湧き出てくる。

 普段は驚くほど頼りにならないはたてに頼ろうとている自分への苛立ち、だけではない。

 何のしがらみも躊躇いもなく、先代の安否を純粋に案じて、迷い無く助けようとするはたてへの苛立ちがあった。

 文自身は自覚していなかったが、それは嫉妬に近い感情だった。

 

「ふんぐががががっ! 見えろ視えろみえろミエロォォ~! 覚醒しろ、あたしの力! あの子の姿を映したまへぇぇぇっ!」

「――」

 

 傍から見れば滑稽にしか思えないような奇声と奇怪な動きで、それでも全力でやり遂げようとするはたてに対し、文は気付かれないようため息を吐いた。

 なんかムカつくから蹴ってやろうと思っていた足を引っ込める。

 

「まあいいか、これで先代巫女が見つかったら儲けものですしね」

 

 自分に言い訳するように呟いた。

 その時、玄関の扉を叩く音が聞こえた。

 文は窓の外を一瞥し、今が真夜中であることを改めて確認した。

 一般的な訪問と考えるには、おかしなタイミングである。

 次にはたての方に視線を移し、相変わらずの奇行を確認すると、肩を竦めて玄関に向かった。

 

「夜分、恐れ入ります」

 

 玄関を開けた先に立っていたのは、椛だった。

 思わず不機嫌さが表情に出てしまう。

 

「……本当に恐れ入る厚かましさね。今、何時なのか分かっているのかしら?」

「申し訳ありません」

 

 とりあえずの嫌味を言って落ち着く為の間を空け、文は改めて問い掛けた。

 

「それで、何か用?」

「面会を望む者がありましたので、内密に対応を伺いに参りました」

「は? 面会? 私に?」

「はい」

「こんな夜中に?」

「はい」

「偉い人?」

「判断しかねます」

「――」

 

 文は話の内容を吟味した。

 相も変わらず椛の口調は愛想が無い。しかし、同時に嘘や無駄が無いことも知っている。

 普段からやたらと自分に払われる謎の敬意から考えて、何の変哲も無い面会者を時間帯も弁えずに通すとは思えなかった。

 となると、椛が特別な配慮をするほどの『何か』がその訪問者にはあるのだ。

 

「……その訪問者は?」

「集落の外で待たせてあります」

「ということは、私に話を持ってきたのはあんたの独断ってことね」

「はい。処罰は後で如何様にも――」

「いや、しないから。相変わらず行動の一つ一つが重いわね、あんた」

「申し訳ありま――」

「人ん家の前で土下座しようとすんな! ああ、もうっ。分かったわよ、今行くわ」

 

 文は一旦、家の中へと引き返した。

 出掛けるとなると、部屋に陣取っているはたてにも声を掛ける必要がある。

 本来ならば家から追い出すところだが、状況的にそれは出来なかった。成果が出るにせよ出ないにせよ、はたて自身が満足するまでここから動こうとはしないだろう。

 そして、文も出来れば何らかの結果を出して欲しいと望んでいる。

 

「はたて、私はちょっと出掛けてくるからあんたは――」

 

 パキッ、と。割れるような乾いた音が聞こえた。

 部屋を覗き込んだ文の視界に、無言で肩を震わせるはたての背中が入った。

 

「はたて……?」

 

 勢い良くはたてが振り返った。

 その顔には歓喜の色が満面に浮かんでいた。

 あと、涙と鼻水と涎も出ていた。

 

「――ぃやった! やったわ、文! ついに念写出来たわよ!!」

 

 そう叫んで、はたては握っていたカメラを文の眼前に突きつけた。

 同じカメラであっても、文の持つ物とは大分形状や機能が異なる機械である。かなりの小型でボタンも多く、何より撮った写真をその場で備え付けの画面に映すことが可能なのだ。

 その画面を文は見た。

 はたての集中しすぎた力によって負荷を受けたのか、画面には斜めに大きな罅が走っている。

 画像自体もぼやけていて、イマイチはっきりと輪郭を掴めない。

 しかし、それでも大体の内容を把握することは出来た。

 その上で、文は訝しげな表情を浮かべた。

 

「これって、妖怪の山よね。でも……」

 

 写真には見慣れた妖怪の山が映っていた。

 それが具体的に何処に当たるのかも、長年住み続けている文には分かる。

 しかし、それはあくまで背景に過ぎなかった。

 

「この湖と神社は何なの?」

 

 写真には、山中にも関わらず広がる湖とその傍に建つ大きな神社が映っていた。

 

 

 

 

 ――嵐の決戦。

 

 言葉にするとカッコいいが、現場に立たされている身としてはシャレにならないくらいの緊張感が背筋に走っている。

 嵐という状況は、それだけで不利だ。

 まず吹き込んでくる雨が眼に入って痛い。

 っていうか、勢いが強すぎて顔とか、もう全身痛い。何コレ、鉛玉でも降ってんの? ってくらい雨粒が重い。

 まあ、目の前の大穴は自分で開けたんだけど。

 私は雨に負けないように足元を踏み締めながら、ゆっくりと抱き上げていた諏訪子様を床に降ろした。

 もちろん、神奈子様から視線は外さない。一瞬の油断が命取りだ。

 ビルの中に居ても感じる凄まじい風雨の中、神奈子様は空中で微動だにせずに仁王立ちしていた。

 先程私が放った、ビルに大穴を空ける程度の威力の博麗波を受けたはずだが、少なくとも外見からはダメージは微塵も感じさせなかった。

 分かってたけど、ラスボスの風格やべぇな。

 

「……どうして来たの?」

 

 傍らの諏訪子様が言った。

 忠告を無視してこの場へ駆けつけた私に向ける問い掛けだが、視線自体は私と同じように神奈子様から外していない。

 今、何を一番に警戒すべきか分かっているのだ。

 

「神奈子様を止め、諏訪子様と共に東風谷早苗の元へ連れ戻す為にやって来ました」

「あの妖怪のことは諦めたってわけ?」

「夜が明けるまでに事を収めれば間に合います」

「大した自信だね」

「自信はありません。これは賭けです」

「あんたの大切なものを賭ける価値はあると思う?」

「思います」

 

 諏訪子様の方を見ずに、私は即答した。

 

「……そっか」

 

 唸る風の音の中、諏訪子様の呟きがかろうじて聞こえた。

 ほっと息を吐くような、気のせいでなければ嬉しそうに感じる声色だった。

 

「分かった。なら、あんたに協力するよ。そして、あんたもあの妖怪も絶対に幻想郷へ帰してやる」

「そして、諏訪子様と神奈子様も」

「巫女が神様を気遣うなんて百年早いんだよ、バーカ」

 

 諏訪子様が小さく笑いながら言った。

 

「それで、多少の勝算はあってのことだよね?」

「はい。青娥が準備をしています」

 

 これは本当のことだった。

 あの家で、私は青娥と一旦別れている。

 彼女が言うには『神奈子様をここから諏訪大社へ移動させる為の仕込みを行う』という話だ。

 詳細は聞けなかったが、彼女の実績を考えれば任せても問題ないだろう。

 

「あの邪仙がねぇ……気は進まないけど、腕は信用してもいいかな」

 

 諏訪子様も同じような見解らしい。

 

「何にせよ、やっぱり前提として神奈子を大人しくさせる必要があるか」

「はい」

 

 つまり、ボス戦は不可避である。

 先程から一瞬たりとも意識は逸らさなかったが、改めて神奈子様との対峙に集中する。

 意外なことに、私と諏訪子様とのやりとりを見逃すように、神奈子様は不敵な笑みを浮かべながら黙ってこちらを眺めていた。

 

「――打ち合わせは終わったようだな」

 

 何気ない台詞に纏わり付く威圧感パネェ。

 しかし、気圧されるわけにはいかない。

 絶対に負けるわけにはいかないんだ。これまで楽な戦いをしてきたわけじゃないが、今はより一層そう思う。

 何せ、この戦いの行方にさとりの命が懸かっているのだから!

 

「覚悟も決まっている様子。ならば言葉は不要だ、先代巫女」

 

 ありがとうございます、神奈子様。

 では、御言葉に甘えまして――。

 

「来い!」

 

 定番の開幕ぶっぱ、させていただきます!!

 

 

 

 

 神奈子の言葉と共に、先代が奇妙な構えに入るのを、諏訪子は見た。

 片足を一歩分下げた半身となり、両手を腰の位置で向かい合わせるように持っていく。

 

「は」

 

 その構えに入った途端、両手の間に出来た空間に凄まじい勢いで力が集まり始めた。

 

「く」

 

 諏訪子は驚愕した。

 球状に形成され、圧縮されていく力は目の前の人間の体から生み出されたものである。

 

「れ」

 

 しかし、その量は桁違いだった。

 球体は光を放ち、肉眼でも確認出来るほどの密度で具現化している。

 幻想が否定される世界において、これほどの純粋な霊的エネルギーを人の身から生み出すことは、常識はもちろん法則すら無視していた。

 

「い」

 

 その異常の力が、外の嵐にも負けぬほどに手の中で荒れ狂っている。

 先代はそれを完全に制御し、真っ直ぐに標的を見据えていた。

 

「先代、あんたは――」

 

 言いかけ、諏訪子は我に返った。

 周囲の異変にようやく気付く。

 嵐が止んでいた。

 唐突に静止した時間に覚えのある前兆を感じ取り、慌てて神奈子の方へ視線を走らせる。

 神奈子の掲げた手の上には、眼下の街に大惨事を引き起こした破壊の巨弾が形成されていた。

 構えた先代に対応して、神奈子もまた全力の一撃で迎え撃つべく用意していたのだ。

 互いが集めた力の解放は、ほぼ同時だった。

 

「受けよ!」

「波あぁぁぁぁーーーっ!!」

 

 神奈子が巨大な光の球を解き放ち、先代が裂帛の気合いと共に光の波動を撃ち出す。

 計り知れない力は空中で激突した。

 そして、拮抗した。

 光の球はその形を崩すことなく波を押しのけ、光の波動は途切れることのない奔流となってそれを押し返す。

 激しい発光を伴った二つの力は、夜の闇を蹂躙しながら押し合いを続けた。

 

「――っ!? 危ない!」

 

 どちらが押し勝つのか見守っていた諏訪子は、いち早く危険に気付いた。

 全力で神奈子の攻撃に抵抗する先代の体を横から攫うように抱いて、跳んだ。

 ビルの奥へと逃げ込んだ瞬間、先程まで先代の居た場所を四本の柱が貫いていた。

 飛来した柱の正体を見て、先代が眼を見開く。

 

「電柱!?」

「オンバシラ代わりのつもりか、くそったれ!」

 

 力の激突が発する光に紛れ、死角から飛び込んできた攻撃だった。

 すぐさま視線を外に戻す。

 しかし、既に神奈子の姿はそこには無かった。

 二つの力の激突も途絶え、残滓は空中に掻き消えている。互いに力が途切れるタイミングは同じであり、対消滅し合う形で収まっていた。

 これが神奈子の意図した状況であることは間違いなかった。最初から狙っていたのだ。

 再び外は風と雨が渦巻いていた。

 先代と諏訪子の居るビルの階層は、全ての電灯が消えて暗闇に満ちている。

 人はもちろん、動く者の気配はない。

 ビルに空いた穴から風雨と共に音が入り込んでくるが、室内からは一切の音がしない、奇妙な形の静寂がそこにはあった。

 二人は寄り添うような立ち位置で周囲を警戒した。

 暗闇で視界は遮られ、嵐の音で聴覚も役に立たない為、本来ならば神奈子の動きを捉えるのは困難な状況だった。

 

「――上か!」

 

 しかし、まず先に先代が感付いた。

 振り仰ぐ暇もあらばこそ、今度は先代が諏訪子の体を抱いてその場を離れる。

 次の瞬間、天井を突き破って拳大の風弾が、二人の居た場所を抉った。

 今度の攻撃はそれで終わらなかった。間髪入れず、二人の移動した先へ更なる風弾が天井から降り注ぐ。

 姿の見えない神奈子の攻撃は、逃げ続ける二人を正確無比に追いかけた。

 

「天井越しにこっちが分かるのか!」

「神なんだから気配くらい読めるさ! あんたも神奈子の位置は分かるんでしょ、さっさと反撃して!」

「申し訳ありません。小技はちょっと……」

「何その意外な弱点!? しょうがないなぁ、もうっ!」

 

 遠距離攻撃の手段に乏しい先代に代わって、諏訪子が抱えられながらも頭上に向けて反撃した。

 手のひらから放つ光弾が天井を貫く。

 上の階層にいる神奈子を狙っているはずだった。

 しかし、降り注ぐ攻撃の勢いは一向に衰えを見せない。それどころか諏訪子の反撃は断続的で、手数では負けていた。

 

「もしかして、諏訪子様も――」

「変な仲間意識持たないでよ!? 力をそのまま撃ち出すっていうやり方は効率が悪いんだ。幻想を否定する作用が働くこの世界ではね」

「しかし、神奈子様の方は影響を受けているように見えません」

「現実の物質を介して力を使っているんだよ。さっきから撃ってるのは風を一点に集めた弾丸だ。雨粒でも同じことが出来るし、雷なら直接ぶつけてくるだろう。あいつには天に関わる要素を操る力がある。

 逆にわたしは地に関わる要素を操る。街中は相性として最悪さ、媒介に出来る大地がほとんど無い。高層ビルの中ってことはつまり人工物に囲まれた高所。厳密には空中と同じだからね」

「ならば、一度地上に降りますか?」

「いいや、わたしのことは構うな! さっさと離して、あんたは自分のことに集中するんだよっ!」

 

 諏訪子が先代の体を突き飛ばした。

 先代が離れた瞬間、天井から降り注いだ攻撃が諏訪子に直撃した。

 小さな体が何度も床を跳ねる。

 その光景を、先代は見開いた眼で見ていた。

 何かを叫ぼうと開きかけた口を堪えるように噛み締め、頭上を睨みつける。

 天井に遮られた視界の先に神奈子の姿を幻視し、それ目掛けて跳んだ。

 力を収束させた右拳を振り上げる。

 足元から拳まで全身の勢いを使った必殺の一撃が、天井を貫いて、その上に立つ神奈子の体を危うい所で掠めた。

 直撃こそしなかったものの、神奈子は同じ階層に降り立った先代を警戒するように間合いを取った。

 

「昇る竜が如き一撃――天に、即ち神仏に向ける拳の技か。無礼な」

 

 不敵な笑みを浮かべながらも、神奈子の額には冷たい汗が流れていた。

 胸を掠めた拳の軌道を撫でる。

 錯覚だと分かっていたが、裂傷を刻まれたような感覚がそこに残っていた。

 

「武道家ではないが、巫女とも思えぬ技と力だ。つくづく奇妙な奴だな。お前は一体何者だ?」

「私は武道家でも巫女でもない。私は貴女を倒す者だ!」

 

 先代巫女は拳を構えた。

 神奈子は高揚するように笑った。

 

 

 

 

「昇る竜が如き一撃――」

 

 さ、さすが神奈子様。技を一度見ただけでその本質を正確に見抜くとは!

 いや、これは技自体が名前を見事に体現しているからなのか。やっぱり偉大な技は違うな。

 

 ――そう、即ちこの技の名を『昇竜拳』と言う!

 

 技の構造自体はシンプルだが、その実態には単なるアッパーカットとは違う必殺の威力が秘められているのだ。

 当たれば、神と言えどもただでは済まない!

 ……当たらんかったけど。

 で、でもそれは使った私が未熟だっただけだし!

 本当なら神奈子様の胸に抉るような傷を刻んだはずだし!

 むしろ、外れてよかったかもしれない。神奈子様を連れ戻す必要があるのに、必殺の技を直撃させてどうするんだという話だ。

 とはいえ、ならば手加減して神奈子様を倒せるかというと全くそんな気にはなれない。

 最初に放った博麗波も、全力にも関わらず押し留められ、しかもその拮抗さえ相手の狙った隙だったのだ。

 戦いの読みにおいては、神奈子様に一手先んじられていると言わざるを得ない。

 加えて、遠距離攻撃をメインに据えた戦法は、私の戦闘スタイルと相性が悪かった。

 拳の届かない距離から攻撃する敵と戦った経験はある。しかし、そいつらは神奈子様レベルの実力者ではなかった。

 逆に神奈子様レベルの強敵に勝った経験はあるが、いずれも辛勝。しかも、勇儀と萃香は二人とも私の土俵で戦ってくれた。

 詰まるところ、私はこれまで経験したことのない戦いに挑まなくてはならないのだ。

 へへっ、不謹慎かもしれねぇけどよ。オラ、ワクワク……しねぇ!

 さとりの命が懸かってる時に、そんな余裕は持っていられない。

 楽に勝てるなんて思ってはいないが、負けはもちろん苦戦して長引くことも避けなければならない。

 同じ床に立ち、距離を詰めることが出来た現状――ここで一気に叩く!

 

「武道家ではないが、巫女とも思えぬ技と力だ。つくづく奇妙な奴だな。お前は一体何者だ?」

「私は武道家でも巫女でもない。私は貴女を倒す者だ!」

 

 そう言って見事敵を瞬殺してみせたフュージョン戦士にあやかって叫ぶ。

 ここは回避出来ない渾身の一撃で決めるぜ。

 っていうわけで、鉄板の――。

 

 百・式・観・音!

 

 次の瞬間、私の拳は神奈子様の顔面に突き刺さっていた。

 置き去りにされた音が、一瞬遅れて私の背後でパンッと空気が破裂したように鳴り響く。

 

 ――やったか!?

 

 あ、やべ。

 フラグ言っちゃった。

 

「……見事だ。今のはかわさなかったのではなく、かわせなかった」

 

 神奈子様は平然と喋った。

 額で受けたとか、ギリギリでスウェーしてたとかではなく、急所の『人中』に拳を受けながらも口元を小さく吊り上げている。

 素直な称賛の笑みだった。

 それがまた確実にノーダメージであることを物語っていた。

 おかしい……何だ、この手応えは!?

 

「しかし、ただの拳では神は倒せないぞ」

 

 じゃあ、ありったけの霊力を拳に込めてやる!

 攻撃は通じなかったが、得意の間合いである接近戦に持ち込んだ私は、抉るようなリバーブローを打ち込んだ。

 聖闘士(セイント)のように光り輝く拳が炸裂する。

 あばら三本は頂いたぁ!

 ……ダメージはおろか、体が揺るぎもしない。

 

「霊力も無駄だ」

 

 ――いやいやいや、いくらラスボスクラスだからってこんなの絶対おかしいよ!

 

 ダメージが全く無いのは、ボス戦ではよくある理不尽なので、この際良しとしよう。

 しかし、打撃の影響さえ受けていないというのは明らかに変だ。

 最低でも衝撃は伝わっているはずなのに、体勢が崩れるどころか皮膚や髪さえ震えないって在り得るのか!?

 結界などの見えない障壁で受けているのではなく、拳は間違いなく神奈子様の体に触れている。

 ただ、手応えが全く無かった。

 私の手に返ってくるはずの反動さえ感じられないのだ。

 拳の衝撃は、何らかの防御に遮られることも跳ね返されることもなく、完全に神奈子様の体に通っている。

 だが、まるでそのまま通り抜けてしまっているかのような――。

 

「実体を持たない今の私を、拳で捉えることは出来ない。忘れたか? ここは神の存在を否定する世界だぞ」

「――」

「そして、霊力は妖物を調伏する為の力だ。神霊に対して干渉は出来ても、脅かす力とはならない」

「なん……だと……?」

 

 私の得意とする『レベルを上げて物理で殴ればいい』が通じない……だと……?

 思わず死神顔になって戦慄してしまう私。

 いや、ちょっと待て! それこそ屁理屈でしょ!

 それじゃあ、実体を持たない神奈子様の方だって私を倒す手段が無――あったわ!!

 動揺から正気に戻った私は、神奈子様の繰り出した貫き手を慌てて回避した。

 受け止めようとも、受け流そうとも考えなかった。

 半身になってかわし、手首から先には触れないように脇で挟んで、腕を押さえ込む。

 

「見抜いたか!」

「似たような技を知っておりますので……!」

 

 神奈子様は手首から先に何らかの力を集中させていた。

 眼には見えないが、おそらく風を纏っているのだ。多分、漫画の『螺旋丸』や『旋風拳』みたいに回転する奴を!

 諏訪子様に事前に教えられていなければ、気付けなかった。

 相手は物質を介してこっちに攻撃を加えられる。

 逆にこっちは相手の本体にダメージを与える手段が無い。

 ……おい、どうすんだコレ!? 鬼とはまた別の意味で詰んでんぞ!

 内心でテンパりながらも、私は神奈子様の腕を必死で押さえ込み続けた。

 鬼のような剛力を持っていないことだけは幸いだった。

 とにかく距離を取られたらヤバイ!

 

「本当に奇妙な奴だ! 神や霊力の性質を知らぬ無知さがありながら、受けもしない技の本質を見抜く! お前のようなチグハグな人間は見たことがない!」

 

 額を突き合わせて、神奈子様が瞳を覗き込んでくる。

 そのまま私の心の奥まで射抜こうとするような鋭い視線だった。

 

「先程の天を打つ技にしてもそうだ、技自体は恐ろしいほどに洗練されている! しかし、狙いは甘く、実戦に組み込む経験が不足しているように見えた! 違うか!?」

 

 おっ……仰るとおりです。

 昇竜拳は、幻想郷で空を飛ぶ妖怪相手に使う対空技として習得したものだが、雑魚相手だと一撃で片付いてしまうので、そこから別の技へ繋げる修練を十分に積んでいない。

 神奈子様の言うとおり、私自身が欠点を見つけてアレンジするまでもなく、技自体の威力や完成度が高いから出てしまった弊害だった。

 ちなみに公式で『昇竜拳』に組み合わせる技である『竜巻旋風脚』については習得すら出来ていない。

 短時間とはいえ空を飛ぶような技を出来るわけがないからだ。

 

「そして、敵である私に対していまだに向けられる『神への信仰』だ! 何故、敵である私を憎まない!? 何故、敵の存在を疎まない!?」

「貴女は、敵ではない」

「いいや、敵だ! お前を害する敵だ!」

「貴女の本意ではないはずだ!」

「仮にそうだとしても、私は止まるつもりはない! お前を殺し――そして、取り残されたあの覚妖怪も死ぬ!」

「さとり……っ!?」

「そうだ、お前はあの妖怪を助けたいんだろう? 私は、それを妨げる敵だ!」

「……ならばこそ、貴女を止める!」

「いい加減にしろ!」

 

 膠着していた状態から、突如私の体は横殴りに吹き飛ばされた。

 空いていた片腕も、足の動きも警戒していた。

 私を襲った衝撃は、押さえ込んでいたはずの腕から発生したものだった。

 そうか……手に纏っていた風の力を解放して、それが爆風のように私を吹き飛ばしたのか!

 

「敵でなければ味方か!? 神か、鬼か、友か、仇か――!?」

 

 体勢を崩した私に、神奈子様自身が襲い掛かってくることはなかった。

 追撃は、足元から来た。

 床を突き破って、折れた電柱が飛び出してきたのだ。

 これは、最初に下の階層に飛んで来た四本の内の一本か!

 

「答えろ、半端者めっ!」

 

 鋭い斜角で迫り来るそれは、城門を破る破城槌も同然だった。

 かわすことが出来ないと悟って、咄嗟に両手のひらで受け止める。

 踏ん張ることまではしなかった。衝撃を逃がさなければ、例え受け止めることが出来ても体の何処かが壊れてしまう。

 しかし、代わりに私の体は勢いに押し出されるまま、後方へと吹き飛んでいた。

 ビルの窓を突き破り、外へと放り出された。

 

「お前にとって、私は一体何なんだ!?」

 

 空中に身を投げ出しながら、追ってくる神奈子様の姿を視界に捉える。

 ここは高層ビルの上階だ。

 地上は遠く、落下すれば即死する高さだ。

 しかし、落ちていく状況に関係なく私は追い詰められていた。

 いや、とにかく今は落下を止めないと……!

 でも、その後はどうする?

 これまでの戦いのセオリーが通じない相手だ。

 勝たなきゃいけないのは分かってる。

 負けるわけにはいかない。

 死ぬわけにはいかない。

 さとりの命が懸かっているんだ!

 だけど……っ!

 

 ――分からない! どうやって戦えばいいんだ!?

 

 

 

 

 ビルの中で激しい戦いを繰り広げる先代と神奈子の様子を、青娥は空中で見ていた。

 嵐の中、ビルと同じ高さの位置で自前のキャリーケースに腰掛けて、軽く頬杖をついている。

 ケースが特別な道具であるわけではない。ただ単に、自身と共にケースも術によって浮遊させているだけである。

 風が髪を弄り、雨が服を濡らしているが気にも留めていない。

 口元には薄い笑みが浮かび、明らかに楽しんでいるように見える。『見守る』というよりも『観戦している』といった表現の方が相応しい姿だった。

 

「こちらの『準備』は済んだけれど――」

 

 髪型を変えて、それを留めるかんざし代わりに差した鑿を触りながら、青娥は呟いた。

 

「ん~、どうしようかしら? 多分、このまま見ていても問題ないわよねぇ」

 

 青娥には先代が苦戦していることが分かっていた。

 しかし、それに対する危機感や不安は全く抱いていない。

 先代の実力に対する『信頼』――とは少し違っている。過剰な思い込みにも近い『期待』から来るものだった。

 

 ――先代ならば、きっと逆境の中でそれを覆す力を発揮するだろう。あるいは、新たに目覚めるだろう。

 

 青娥はそう考えていた。

 根拠は単なる勘や自身の感性のみだったが、それは驚くほど強固な根拠となっていた。

 初めて先代を見た時に感じたモノを、確信として抱いているのだ。

 

 ――先代は神に勝つ。

 ――だから、それを見たい。

 

 青娥が現在考えていることは、ただそれだけのシンプルなものである。

 

「でも、先代様に期待されちゃったしぃ」

 

 嬉しそうに微笑みながら、青娥は濡れた指先をケースのボタンに伸ばした。

 

「あの人に褒められるのって結構好きかも――というわけで、いってらっしゃい。芳香ちゃん♪」

 

 ロックを外す。

 ケースが勢い良く開き、その中に『折り畳まれて』詰め込まれていた物体が、嵐の中へと投下された。

 

 

 

 

 上の階で激しい戦いを繰り広げる先代と神奈子の様子を、諏訪子は感じ取っていた。

 痛む体に鞭を打ち、立ち上がる。

 

「死を感じる痛みっていうのは、こういうもんなのか……っ」

 

 脂汗を滲ませながら、諏訪子は引き攣ったような笑みを浮かべた。

 神として生まれ、長い年月を生きてきた中で『命の危険』というものはあまり感じたことがなかった。

 神が殺されることは、早々無い。信仰を失って徐々に消滅していく恐怖心はあっても、他者の殺意や敵意によって存在を脅かされるような状況は現代ではなかった。

 それこそ神奈子と争った時のような、神代の頃の話だ。

 

「こりゃあ、気を抜いたらあっという間にぽっくり逝っちゃうよ」

 

 神奈子の攻撃を、まともに受けた。

 しかし、それにしても威力に対して負ったダメージが大きすぎると感じた。

 原因は何か――。

 簡単だ。薄れた信仰によって実体化すらままならない神の肉体は、驚くほど脆くなっているのだ。

 そして、この状態は神奈子も同じはずだった。

 

「寝ている場合じゃない……っ、先代に力を貸さないと!」

 

 諏訪子は二つの事を懸念していた。

 一つは、先代にとって戦いが不利になることだ。

 半ば実体を失った神を相手に、生身の人間では有効打を持ち得ない。巫女としての神通力も、神霊である神奈子にはほとんど通じないだろう。

 先代は色々と謎の多い巫女だが、もしも彼女にこれまで見せた物以上の隠し技が無ければ、神奈子との勝負に勝ち目は無い。

 しかし、もしも彼女に神にも通じる技や力があった場合――それは神奈子にとって敗北よりも深刻な結末を引き起こすかもしれない。

 諏訪子の脳裏に、先代の放った巨大な光の波動が過ぎった。

 おそらく霊力とはまた違う、底知れぬ力が彼女の中には眠っている。

 果たして、先代巫女に神を殺し得るほどの力はあるのか――?

 

「神奈子は最初から捨て身だ。何があっても、戦い抜くつもりだろう」

 

 先代が死んでも、神奈子が死んでも、自分達にとって勝利ではない。

 

 ――この場の全員で幻想郷へ辿り着いてみせる。

 

 諏訪子は決意を秘めた瞳で、穴の空いた天井を見上げた。

 その時、足元に何かがぶつかった。

 

「……これは、先代が持っていた玉?」

 

 いつの間にか、陰陽玉がそこに転がっていた。

 当初は傍に従うように浮遊していた先代の道具だが、それも彼女自身の意思と力が作用してのものだ。

 全身全霊の博麗波を打ち出し、反撃を咄嗟に避けた時に意識が逸れて力を失った物だった。

 諏訪子は知らないことだが、元々先代の戦闘スタイルに陰陽玉の使用はあまり組み込まれていない。

 神奈子との接戦に集中するあまり、忘れられた道具だった。

 それが諏訪子の足元まで転がってきたのである。

 偶然そうなったように見えるが、別に床が傾いでいるわけではない。

 自然ではなく、何らかの意図的なものを感じる。

 諏訪子は思わずそれを手に取った。

 

《――洩矢諏訪子様ですね》

 

 陰陽玉から声が聞こえた。

 

「やっぱり、そういう道具か」

 

 諏訪子は驚くこともなく対応した。

 

「この玉を使って遠くから声を届けているんだね」

《はい。そちらの様子も分かるようになっています》

 

 陰陽玉の声が答えた。

 諏訪子が聞いた覚えのある声だった。

 

「お前は――諏訪大社に居る古明地さとりだな?」

《そうです》

 

 さとりは答えた。

 死に掛けているとは思えない、ハッキリとした声だった。

 

《こちらにある、もう一つの陰陽玉と通じています》

「なるほど。それで、わざわざ連絡なんかしてきて一体何の用?」

《お願いがあります》

「いくら神様でも、お願い聞いて上げられるほど楽な状況じゃあないんだけどね。こっちは」

《分かっています。その状況を覆す為のお願いです》

「へえ?」

 

 さとりは静かな声で言った。

 

《先代と話をする必要があります。諏訪子様には、その為の隙を作って欲しいのです》

 

 

 

 

 落下していく最中、私はビルの壁面に手を伸ばした。

 しかし、綺麗な平面で構成されたそこは取っ掛かりもなければ、流れる雨水によって非常に滑りやすくなっている。とても掴まることなんて出来ない。

 だが……しかしッ! 『波紋』!

 波紋を指先に集中して、壁にくっつけるッ!

 水鉄砲の出口が小さいほど水の勢いは強くなる理論によって、吸着力も倍増ッ!

 そして、私は落下の勢いを利用して、逆に三メートルもゲイン――出来ねぇ!?

 壁にくっついて落下を止めることが出来たと思った瞬間、全身に降り注ぐ雨粒が鉛玉のように重くなった。今度は比喩じゃない。本当に重い。

 急激に増加した重量のせいで、波紋でも支えきれずに再び落下していく。

 

「そのまま落ちろ」

 

 いつの間にか現れた神奈子様が、右手を私の方に向けていた。

 そういえば雨も操ることが出来るって言ってたっけ。

 っていうか、神奈子様……ビルの壁面にフツーに立ってる!?

 地面から垂直に立つビルに対して、更に垂直に立っているのだ。

 空飛ぶ人妖を散々見ておいて何だが、重力とか関係ないなオイ!

 いや、とにかく今は落下を何とかしないと……!

 全身を鉛玉と化した雨粒が文字通り叩く。

 軽い痣が出来る程度の威力に収まってるが、ガードしないと眼や口に入ったらヤバイ。痛ててっ、耳が千切れる!

 っつーか、重い! 落下を止められない!

 必死で打開策を考える最中、不意に空を掻いていた両足が硬い物を踏みつけた。

 ……落下が止まった?

 このビルに足場になるような出っ張りなんてあったのか?

 私は思わず足元に視線を落とし、そして驚きに眼を見開いた。

 足場となっていたのは『人間の体』だった。

 神奈子様と同じように、ビルの壁面に対して垂直に立った人の体の上に私は乗っかっていたのだ。

 一つ違う点は、神奈子様が地面と同じように自然と立っているのに対して、こいつは壁に足首までメリ込ませることで無理矢理垂直に立っている。

 こっちはこっちでデタラメな体勢だ。

 しかも、それは私も知っている人物だった。

 

「宮古芳香か!」

「おお、その通りだー。……あれぇ、何でお前がわたしを知っているのだ?」

 

 中華風の衣装と額に札。両手を前に突き出した、濁った瞳に青褪めた肌を持つ少女は、青娥が使役しているはずのキョンシーだった。

 もちろん、名前を含めたこれらの本来持ち得ない情報は前世の知識によるものである。

 

「青娥が助けに寄越してくれたのか?」

「それも分かるのかー、お前はすごいなー」

「そうだ。凄い」

「そうかー。じゃあ、助けるぞ」

「頼む」

 

 私の失言もスルーしてくれる芳香ちゃんよしよし。

 動く死体のせいか、頭の回転も鈍いらしい。

 なんにせよ、この状況で助っ人はありがたい限りだ。青娥にはまた借りが出来てしまったな。

 助けになるというお言葉に甘えて、芳香を足場にしたまま私は頭上を見上げた。

 神奈子様がビルの壁をゆっくりと歩きながら近づいてくる。

 

「ふん、あの邪仙か――」

 

 不愉快そうに吐き捨てると、右手を振った。

 それと同時に遠くの空で稲妻が走る。

 偶然ではない。間違いなく、神奈子様が操った雷だろう。

 落雷はここから離れた場所で起こったようだが、その意図は何なのだろうか?

 訝しげな私の表情に答えるように、神奈子様が笑った。

 

「観客気取りの不愉快な輩に、神の怒りを落としてやっただけだ」

「何……?」

「気にしている余裕があるのか? 次はお前に落とすかもしれんぞ」

 

 そう言いながら、もう一度右手を振り上げた。

 く……っ、本当に雷なんて落とされたら、どうやって防御すればいいのか分からんぞ。

 流石に、あれを回し受けで受けるとかは無茶だよね!?

 窮地に次ぐ窮地。

 しかし、神奈子様が手を振り下ろすよりも早く、ビルの窓を破って今度は諏訪子様が飛び出してきた。

 

「先代、これを使え!」

 

 投げ渡されたのは――陰陽玉!

 黒雲に稲光が瞬くと同時に、投げられた陰陽玉が私の元に辿り着く。

 私は反射的に霊力を流しながら『黄金長方形の軌道』で陰陽玉を回転させた。

 光の速さで襲い掛かる稲妻が、回転に飲み込まれて消滅する。

 か、間一髪……!

 諏訪子様、マジ神様。

 

「手長足長!」

 

 諏訪子様が胸の前でパンッと両手を合わせた。

 次の瞬間、体から四本の半透明な腕――手のようにも足のようにも見える――が、神奈子様に向けて伸びた。

 それが神奈子様の四肢を拘束する。

 動きを封じたか!

 だったら、私は――!

 

「先代、わたしが時間を稼ぐからあんたはさとりと話をするんだ!」

「さとり!?」

《ええ、私です。貴女の置いていった陰陽玉を使って語りかけています》

「さとり、大丈夫なのか!?」

《時間がありません。落ち着いて話が出来る状況を作ってください》

 

 陰陽玉から聞こえるのは、確かにさとりの声だった。

 抑揚はないが、同時にしっかりと安定している。

 最後に見た時の状態を顧みれば、安心していいのか訝しんだ方がいいのか分からない。

 衰弱してロクに話も出来なかったはずだ。

 しかし、とにかくさとり本人に間違いはなく、彼女が話せる状況を必要としていることは分かった。

 さとりが考えもなしにそんなことを言うはずがない。

 必要だと言うなら、それに従うまでだ!

 

「諏訪子様、お願いします!」

「おう! そっちの死人も、命令を受けてるんなら手伝え!」

「おー、邪魔をさせなければいいんだな。いいだろう。こっちにちーかよーるなー!」

「ええい、邪魔をするな!」

 

 この場を諏訪子様と宮古に任せて、私はすぐ傍の窓を破ってビルの中へと逃げ込んだ。

 ここもやはり無人で暗い。

 なるべく距離を取る為に、奥の方へと走りながら、私は陰陽玉越しにさとりへ問い掛けた。

 

「それで、話とは何だ?」

《八坂神奈子に力が通じず、貴女が焦っていることは分かっています》

 

 話が早い――のはいいけど、まるで心が読めているみたいに言うなぁ。

 でも、陰陽玉越しで能力が届くはずはないし……。

 

《詳しい話をしている暇はありません。とにかく、分かるんです》

 

 う……うん、まあその辺を追求してる時間がないのは同意。

 それで、何だ?

 状況を把握してくれているのは、説明が省けてありがたい。

 ひょっとして現状の打開策とかあったりするの?

 神奈子様に勝つ作戦とか、こっちの戦力をアップする手段とか――。

 

《あります》

 

 ほ、本当か!?

 教えてくれ、さとり!

 私はどうすればいい?

 どうすれば、神奈子様に勝てるんだ!?

 

《単刀直入に言います。貴女が自分の持つ力を使いこなせばいいんです》

 

 ……え、使いこなす?

 すまん。

 言ってる意味がよく分からない。

 

《例を挙げるならば、貴女が『百式観音』と呼ぶ技は、貴女がイメージするものと実際にやっているものとで見た目と効果が大分違いますね?》

 

 う……むぅ、まあ言いたいことは分かった。

 確かに、私の百式観音は『もどき』が付く技だ。本来ならば、千手観音像が具現化して攻撃する技だからね。特性だけを何とか真似しているに過ぎない。

 それを『使いこなしていない』と言うなら、確かにそうなのだろう。

 でも、それは仕方のないことなんだ。

 あの技を構成する力や法則は、あの漫画の世界にしか存在しない物だからだ。

 だから、それらが存在しないこの世界で完全に再現することは出来ない。

 結局、私が出来ることは『物真似』の領域を出ないのだろう。

 他の技にしても、確かに現状で十分使いこなせてるとは言えないかもしれないが、それでも今日までの修行の積み重ねによって限界まで鍛えてきたんだ。

 今後も鍛え続ければ、伸びしろはあるかもしれない。

 しかし、この土壇場でいきなりどうこう出来るとは思えない。

 

《いいえ、出来ます。問題が精神的な部分にあるからです。貴女は今、自分の技を『物真似』と言いましたが、それは自分自身で作った限界に過ぎません》

 

 何故か断言するさとり。

 いや、心が読めるさとりだからこそ断言出来るのだろうか?

 

《私は、貴女が他の漫画やアニメの技を再現出来るのは、貴女自身の能力が関係していると常々考察していました》

 

 私の能力?

 

《能力自体についての細かい考察は、今はやめましょう。とにかく、貴女の技の習得は能力に因っている所が大きい。特定の修行をした結果、特定の技を身に着ける――という、間の理屈を無視した過程がその証拠です》

 

 まあ、確かに元々は修行自体をやりたくて始めた行為だ。

 技の習得は、その結果に過ぎない。

 何故この修行をすれば、この技が出来るようになるのか? ――なんて深く考えたことはなかった。

 

《その間で、貴女の能力が何らかの作用をしているはずです。そして、私は能力が作用する切っ掛けが『思い込み』にあると考えました》

 

 思い込み!?

 

《地霊殿で貴女の『リアルシャドー』に協力した時に、私はこの結論に思い至りました。あれも理屈は一種の強烈な思い込みだからです。

 漫画の技を出来ると思い込むこと――言葉を変えるならば、漫画のキャラやその行動に『肖る』ことで、貴女の能力が発動し、技や力の再現を行っているのではないかと、私は考えます》

 

 ……おいおい、まさか。

 さとりの言う『力を使いこなせ』っていうのは、深く思い込むことで、より完全に技を再現したり、出来なかった技を使えるようになってみせろって言うこと!?

 

《その通りです》

 

 無理無理無理!

 絶対に無理っ!!

 っつーか、そもそもその考察は間違ってると思うよ!

 思い込み一つで漫画の技が出来るなら、全国のかめはめ波練習した子供や大きな子供は挫折を味わってないって!

 大体、さとりの理論が正しければ、私は思い込みだけで空を飛ぶことだって出来るようになってしまう。

 空を飛ぶ――これについては、私もかなり真剣に修行した。

 ドラゴンボールの武空術という例があるから、それを参考にイメージだってバッチリだったはずだ。

 しかし、結局出来なかった。

 あれだけの修行を経て不可能だったことが、単なる思い込み一つで出来るとはちょっと考えられない。

 

《それが既に『人が空を飛べるわけがない』と貴女が思い込んでいるからだったとしたら、どうですか?》

 

 え……?

 

《心には、意識して出来る思い込みと、無意識に根付いている思い込みの二種類があります。貴女の前世の記憶の中にある、人間としての常識が無意識に幾つかの限界の壁を作っているのではないでしょうか?》

 

 ――仮に、その推測が当たっていたとしても、だ。

 やっぱり、その限界を単なる思い込みで突破するなんて不可能だ。

 体を動かして、問題を解決するのとは勝手が違う。

 心をどうやって動かせばいいっていうんだ?

 出来るという思い込みが必要なのに、その為の根拠が無い。

 

《確かに、段階を踏まずに、いきなり成功をイメージすることは出来ない。しかし、貴女には根拠があります――長年の修行によって下積みを続けてきた紛れもない現実がある。その揺ぎ無い現実が根拠になるはずです。いえ、実際に貴女はそうして現在の力と技を身に着けてきた》

 

 そ、そうかもしれないけど……っ。

 いや……でも、なぁ?

 

《……仕方ありませんね。分かりました。私が段階を踏んで、導いてあげましょう》

 

 えっ、そんなことが出来るのか!?

 おいおい、そんなことが出来るなら最初から言ってよ!

 思い込みとか、自力でどうにかなる分野じゃないもんね。正直、私一人だったら、もう『最強の自分をイメージしろ!』っていうネタやるくらいしか思いつかなかったよ。

 さとりがやってくれるなら安心だ。

 さあ、早速やってくれ!

 

《勘違いしているようですが、これからすることは私の能力を使うものではありません。会話によって貴女の心を誘導する、マインドコントロールのようなものです》

 

 えっ!?

 そ……それだけなの?

 そんなことで、私の『思い込み』を変えることが出来るの?

 

《大丈夫、私は他人の心と付き合いの長い妖怪です。それに、貴女は自分が思っているよりずっと単純な人間ですよ》

 

 さらっと酷いことを言いながら、さとりはタイミングを計るように少しの間沈黙を置いた。

 

《――まず最初に言っておきます、先代。貴女はこれから『できるわけがない』という台詞を……四回だけ言っていい》

 

 ちょwおまwwwwそれはwwwwwww

 

 

 

 

「うぉのれー! やーらーれーたー」

 

 気の抜けるような悲鳴とは裏腹に、芳香の受けた攻撃は凄惨とさえ言えるものだった。

 左右から高速で回転しながら飛来した電柱に挟み込まれ、肉と骨が砕ける音が響く。

 生身の人間ならばそれだけでも致命傷だが、身動きが取れなくなったところへ三本目の電柱がミサイルのように飛来して顔面を打ち抜いた。

 歯が砕け、首の骨が折れる。

 両腕と首を力なく揺らしながら、芳香は落下した。

 

「使えないなぁ! 何の為にやって来たのさ!?」

 

 地面に激突する寸前で、滑り込むように飛んできた諏訪子が救出した。

 ガクガクと不安定に揺れる頭で、芳香は答えた。

 

「どうにもこうにも力が出ない。霊がいないから、傷も治せないのだ」

「げっ、そういう仕組みなの? 死体を動かしてるんだから何らかの施術がされてるとは思ったけど、霊を吸収して力に変えるのか」

「その通りだー」

「だああっ、本気で使えねー! 現世でなんて燃費の悪いモン使役してんだ! お前の主人は何を考えて、ここへ寄越したんだよ!?」

 

 悪態を吐きながらも、諏訪子は芳香を抱えた手を離さなかった。

 青娥の小賢しさだけは認めている。

 戦闘での補助以外に、何か別の役割を持っていると考えたのだ。

 

「お前らの手伝いをしろと言われたぞー」

「それ以外には?」

「そうだなー、他には手足や頭を潰されても治してあげるから、お腹だけは守りなさいって言われた」

「腹? 腹か――」

 

 諏訪子は芳香の腹に視線を落とし、

 

「――神奈子!」

 

 近づいてきた気配に、顔を上げた。

 神奈子が空中に佇んでいた。

 未だ衰えることなく続く嵐の中に在るその姿を見て、諏訪子は息を呑んだ。

 大木から切り出した『御柱』と、太く編んだ『注連縄』は神奈子の神としての象徴とも言える物である。 

 昔から神奈子は御柱を従え、輪を描く注連縄を背負って、神としての威光を示していた。

 しかし、今、諏訪子の眼に映る神奈子は違った。

 コンクリートで出来た四本の電柱を周囲に浮かせ、それらから伸びる千切れたケーブルが何本もグチャグチャに絡み合って黒い輪を作っている。

 神の威容の再現――そう言うにはあまりに歪で醜い、グロテスクにすら見える様相だった。

 

「ひでぇ格好だね」

 

 諏訪子は皮肉を口にして笑い、神奈子もまた同じ意味の笑みを浮かべた。

 

「排気ガスで汚れた大気は扱いにくいな。風すら淀んでいる」

 

 神奈子は言った。

 

「アスファルトで蓋をされた大地もそうだろう、諏訪子? ここではお前の力も十全に扱えまい」

「……ああ、そうだね」

「周りは何処も彼処も人の造った物で覆われている」

「――」

「まるで化け物の腹の中にいるようだ」

 

 遠くを見る神奈子の瞳が、一瞬死期に在る病人のそれになった。

 死に対する諦念と絶望。

 ふと気を抜けばあっという間に心を支配するそれらを、神奈子は苛烈な感情で押し殺しているのだ。

 諏訪子はそれを悟った。

 

「時代は変わった」

 

 諏訪子は呟くように言った。

 

「神も変わるべきだと思わないか?」

「……思わないな」

 

 神奈子は答えた。

 もう瞳は戻っていた。

 激しく燃える黒い火を宿した瞳に。

 

「神が変わってどうする。妥協してどうする。ならば、かつて私達に捧げられた多くの命は――畏敬し、信奉して捧げられた者達は何の為に死んだのか!? 死して神に捧げた者らの御霊に、顔向けできるのかっ!?」

 

 神奈子の周囲に浮いた四本の柱が動き、矢じりのように先端を同じ方向へ向けた。

 狙いは先代の居るビルだった。

 

「待て、神奈子!」

 

 諏訪子の制止も空しく、攻撃が放たれた。

 横一列に並んだ柱が同時に射出され、先代の居る階層を虱潰しに貫こうと迫る。

 その時だった。

 攻撃が到達するより先に、ビルの方から飛び出してくる人影があった。

 飛来する巨大な柱に対して、まるで迎え撃つように真っ直ぐと、飛ぶ。

 そして、空中で回し蹴りを繰り出した。

 

 ――真空

 

 いや、それは『回し蹴り』などというレベルではなかった。

 

 ――竜巻旋風脚!

 

 体を捻った半回転ではなく、体そのものを無限に回転させる。

 自分自身の体を軸に、高速で回転する竜巻のような蹴りだった。

 回転は比喩ではなく周囲に本物の竜巻を生み出した。

 それに飲み込まれた四本の電柱は、先端から削り取られて、粉々に破壊された。

 

「なんだと!?」

 

 神奈子は初めて戦慄した。

 竜巻が収まり、蹴りによってそれを起こした張本人が佇んでいる。

 神奈子達と同じように『空中に浮いている』のだ。

 

「……おいおい、とうとう空飛んじゃったよ。現代社会で何てことやらかしてんだ、あの人間」

 

 諏訪子の呟きは、驚きを通り越して呆れるに至ったものだった。

 神が人に向ける畏怖の視線――。

 その先に立つ者――。

 先代巫女は、再び神奈子と対峙した。

 

「貴様……変わったな」

 

 神奈子は直感的に先代の変化を感じ取った。

 先程までとは違う。

 何よりも『強さ』が違う。

 戦の神としても祭られる神奈子の勘が、そう告げるのだ。

 

「一体、何が起こった?」

 

 先代は不敵な笑みを浮かべて答えた。

 

「――LESSON4だ。『敬意を払え』」




<元ネタ解説>

・「できるわけがない」

漫画『スティール・ボール・ラン』でジャイロがジョニィに『黄金長方形の回転』を教える為に課したレッスン。
一連の流れは神展開なので、実際に読むことをおすすめする。
先代録本編では、出来るわけがないことが出来るようになる流れのこと。

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