東方先代録   作:パイマン

54 / 66
風神録編その九。


其の四十八「戦場」

「撃ち方、やめー!」

 

 夜の湖に号令が響き渡った。

 幼さのある声色は、勇ましいというよりも元気がいい。

 張り上げられたチルノの声に従って、橙とフランドールは放っていた弾幕を止めた。

 そして、チルノの待つ湖の畔へと降り立つ。

 

「うん! 二人ともなかなかスジがいいわねっ!!」

「本当、チルノ!?」

「……いや、割と真剣に本当? あんなので何が分かったの?」

 

 片やフランドールは素直に喜びながら、片や橙は胡散臭げに、チルノの称賛に対して反応した。

 先程していたことと言えば、空中で何の変哲もない弾幕を発射していただけである。標的を設定しているわけでもない為、射撃訓練にすらなっていない。

 橙に分かったことと言えば、フランドールの弾幕の量や密度が自身のそれよりも勝っているといった程度のものである。それさえ、地力の違いを顧みれば単純明快な話だった。

 

「あたいはあんたらを指導する立場なんだから、当然でしょ!」

 

 チルノは自信と確信に満ちた態度で答えた。

 自分では見えなかったものがチルノには見えているらしい。こいつは何時もそうだな、と橙は感心して呆れた。

 

「でも、あんなスペルカードでさえない弾幕なんか見たって……」

「何言ってんの、何事も基本が一番大切なのよ。お師匠が言ってたわ」

「そりゃあ、あの巫女は格闘系だから、動きを見ただけで技の錬度が分かったりするかもしれないけどさ。何、さっきの弾幕ってそういうつもりだったの?」

「フッ、橙にも分かったようね。あの弾幕で、あたいはあんたらの今の実力を見切ったわ」

「……いや、アンタそれ絶対ただの受け売りだよ! 分かってないのに真似してるだけでしょ!?」

「ち、違うわよ! あたい、ちゃんと分かってるもん!」

「そもそも、その『基本』ってヤツを見て何の意味があるのよ? どうせ、これからやる修行には何の関係もないんでしょ」

「あるよ!」

「じゃあ、この後どんな修行するつもりなのよ?」

「あたいと弾幕ごっこで勝負だ!」

「――やっぱ関係ないじゃないかー! それ、いつもやってることと変わらないじゃん!」

「うっ……うるさいうるさい! せっかく、あたいが修行をつけてやってるのに文句言うな!」

「偉そうに師匠ぶるなら、もっと普段と違うことやってみせろ!」

 

 チルノと橙は、互いの額を突き合わせて相手を睨んだ。

 二人にとって、この程度のいがみ合いは珍しいものではない。文字通り、子供の喧嘩のようなものなのだ。

 しかし、そんな事情を知らないフランドールは慌てて睨み合う二人の間に割って入った。

 

「け、ケンカはダメだよ!」

 

 フランドールに向かって『邪魔するな』とばかりにチルノが睨みつける。

 対して、橙は黙り込んだ。

 

「……喧嘩やめます」

「負けを認めたようね!」

 

 勝ち誇るチルノの後頭部を、橙が叩いた。

 猫の俊敏性を活かした眼にも留まらぬ一撃である。

 死角から飛んできたそれが橙の仕業だと気付かず、チルノは頭を抑えながら眼を白黒させて周囲を見回していた。

 

「ありがとう、橙」

「いえ、まあ……フランドール様の命令ですし」

「命令じゃなくて、お願いだったんだけどな。そんなに堅苦しくしないでいいよ」

「立場上、そういうわけには……」

「偉いのはわたしのお姉様の方なんだし、わたしのことは気遣わなくても大丈夫だって。チルノみたいに気軽に接してくれたら嬉しいな」

 

 フランドールは愛らしい笑顔を浮かべて、それこそ気軽に言った。本心からの言葉だった。

 しかし、それを真正面から受ける橙の方からすれば、無茶振りであり、ありがた迷惑な配慮以外のなにものでもないのだった。

 

 ――姉のレミリア・スカーレットって言ったら、紫様も認める幻想郷の有力者の一角じゃん。その妹様に無礼な真似なんて出来るわけないって!

 

 今回、チルノを介して初めてフランドール本人と実際に対面した橙は、内心気が気ではなかった。

『八雲の式の式』という立場上、幻想郷内における各勢力の情報は自然と耳に入ってくる。

 また、橙自身もそれらの情報を把握しようと、日頃から意識してきた。

 自らに課せられた役割への責任感と立場への自負から来る自主的な行動である。

 スペルカード・ルールを広める切っ掛けとなった異変を境に台頭し始めた紅魔館という勢力と、その主要メンバーについても事前に情報を収集してある。

 当主レミリア・スカーレットの妹、フランドール・スカーレットについても当然。

 そのあまりに危険な能力と、不安定な人格によって、当主の実妹でありながら地下室に封印されていた吸血鬼である。

 八雲紫自身によって、その情報が意図的に隠蔽されている為、詳しい部分までは分からなかったが、警戒すべき恐ろしい妖怪であることだけは橙も理解していた。

 同時に、自分の主人や更にその上の主人が関わる存在であり、格下の自分にはまず縁のない相手だろうとも考えていた。

 橙には自分が下っ端であるという自覚がある。

 下働きのような仕事や、日々の精進として妖精と弾幕ごっこをすることが日常の小物なのだ。

 自分などが幻想郷の勢力図について思案することは、星の動きに頭を悩ませるようなものだと思っていた。

 それが一体何を間違ったのか、今宵、この場の、この有様である。

 橙は普段から、夜でも昼でも特に時間帯を気にせず、チルノに会いにきていた。

 会って遊んだり、修行をしたりする。どちらでも、やることは大体一緒だ。

 それが今夜、霧の湖にはチルノと一緒にフランドールが居た。

 

「わたしもチルノに弾幕ごっこを鍛えてもらう立場なんだからさ。『橙と同じ』で!」

「は……ははっ、そっすね」

 

 橙はフランドールに力の無い愛想笑いを浮かべた。

 フランドールの要求する『気軽さ』を意識する余り、自分でもよく分からない口調になってしまっていた。

 狂える悪魔の妹を前にして、調子は狂いっぱなしである。

 これが事前の情報通りの人物だったのなら話は単純だった。

 少なくとも、格上の相手に小物らしく服従していればいい。表す感情も『恐怖』の一言だけで事足りた。

 しかし、こうして面と向かって話をする相手は、情報通りの凄まじい力を内包した存在感の中に、素直さと純真さを同居させた見た目通りの可憐な少女にしか見えなかった。

 狂っている?

 封印されていた?

 目の前の朗らかな笑顔を見て、そんな過去を連想することなどとても出来ない。

 

 ――噂と全然違うんじゃないかなぁ。

 

 結果、フランドールに対するスタンスを橙は未だに決めかねているのだった。

 

「えーと、とりあえず慣れるまでは敬語で許して下さい。やっぱり、わたしからすれば偉い人の妹様ですから」

 

 彼女が自分よりもずっと偉くて、重要な立場に居ることは間違いない。

 愛想が半分、残り半分は自分でもよく分からない笑みを橙は浮かべた。

 

「うん、分かった! いつでも、気楽に話しかけてくれていいからね!」

「光栄です」

「だって、わたし達トモダチだもん!」

「……光栄です。いや、ホント」

 

 胃が痛くなった。

 

「子分同士、仲良くなったようね」

 

 二人を見て、チルノが満足気に頷いた。

 

「……わたしはともかく、フランドール様はあんたの子分じゃないでしょーが」

「子分じゃなければ、弟子でもいいわ。まっ、あたいが弾幕を教えてあげるんだから、立場としてあたいが上なのは間違いないわね!」

「フランドール様、反論してくれていいんですよ?」

「うーん、でも実際にチルノに弾幕の修行を頼んだのはわたしの方だし、間違ってはいないよ」

 

 意外にも、フランドールはチルノの物言いに対して賛同していた。

 明らかに実力が格上にあるにも関わらず、彼女は真剣にチルノに師事しようとしている。

 橙には、その理由が分からなかった。

 もちろん、分からないと言えば妖精と吸血鬼の接点そのものが全く分からないのだが。

 

「からかうにしても、あいつは単純だから、ある程度は釘を刺しておかないと調子に乗りまくりますよ」

「別にからかってなんかいないよ。チルノが親分になりたいんなら、わたしは子分の立場でいいと思う」

「……本気で妖精の方が偉いと思ってるんですか?」

「妖精かどうかは関係ないし、偉いっていうのも少し違うかな。チルノが特別なんだよ。上手く言えないけど……チルノは、わたしを引っ張ってくれるんだ」

「引っ張る?」

「どうすればいいか分からない時に、やるべきことを決めて、教えてくれるんだ。橙もチルノの子分になったんなら、そういう心当たりない?」

「それは……あります」

「でしょう? それに実際、弾幕ごっこについてはわたしよりもチルノの方が経験も技術もあると思う。ずっと修行してたって話してたし」

「確かに、それも間違いありません。なんだかんだで、あいつはわたしよりも弾幕ごっこ強いですしね」

「それにチルノって小母様の――先代巫女様の一番弟子なんだって! 凄いよねっ!」

 

 フランドールは尊敬の眼差しをチルノに向けた。

 彼女が師事する一番の理由は、そこなのかもしれない。

 なんやかんや騒ぎながらも、こうしてチルノを中心に行動を共にしている自分も同類なのかもしれない、と。橙は納得がいったような、いかないような複雑な気分だった。

 

「――さあ、無駄話の時間は終わりよ! いよいよ、修行の第二段階に入るわ!!」

 

 スペルカードの準備を終えたチルノが、気合の入った声で言った。

 大げさな表現をしているが、先程も橙が言った通り弾幕ごっこをするだけである。

 この分では、何か特別なルールややり方を用いるワケでもないだろう。

 橙はため息を吐いた。

 逆に、フランドールはチルノと弾幕ごっこをするのは初めての経験だった。

 そもそも弾幕ごっこ自体あまりやった経験がない。

 チルノの言葉に従うように、フランドールは嬉々として、橙は渋々と、それぞれのスペルカードを準備した。

 その時だった。

 真夜中に弾幕ごっこをやろうなどという変わり者しかいない湖の畔に向かって、夜空の彼方から騒がしく飛んでくるものがあった。

 

「チルノォー!!」

 

 それはチルノの名を呼んで、真っ直ぐにやって来た。

 

「チルノ! やっと見つけたぁ!!」

「お空!?」

 

 突っ込むように目の前に着地した空の姿を見て、チルノは驚きの声を上げた。

 

「どうしたの? あんた、何で泣いてんの?」

 

 地底に住んでいるはずの友達が地上にやって来たことよりもチルノが気になったのは、その瞳から溢れ続ける涙だった。

 顔をクシャクシャに歪めた空は、答えようとして言葉にならない嗚咽を洩らした。

 チルノは戸惑いながらも、震える背中を擦ってやった。

 一方、空のことを知らない橙とフランドールの戸惑いはチルノ以上である。

 突然の事態に、呆気にとられて二人の様子を眺めていることしか出来ない。

 しばらくの間、空のしゃっくり上げる声だけが続いた。

 

「落ち着いた?」

「……うん」

 

 やがて、チルノが気遣うように囁いた。

 空が泣き腫らした顔を上げる。

 

「それで、どうしたのよ? 地底で何かあったの?」

 

 真剣な表情でチルノが訊ねた。

 一方で、『地底』という単語に反応して橙が顔を青褪めさせた。

 

「さとり様が、帰ってこないの」

「何、あのチビが!?」

「さとり様をバカにすんな!」

 

 空がチルノの顔面に頭突きを叩き込んだ。

 

「痛ぁ!! ――なによ、さとりが帰ってこないからどうしたってのよ!?」

「さとり様を呼び捨てにするな! さとり様が地上に出掛けてから、もう三日も帰ってこないのよ! 本当は一日で帰ってくるはずなのに……っ! わたし心配になって……でも、どうすればいいのか分からなくて……」

 

 最初は怒りに任せていた叫びも、不安を思い出したのか徐々に涙声になっていく。

 

「それで、何であたいの所に来たの?」

 

 チルノは頭突きを受けた額を擦る手を降ろした。

 不安に揺れる空の瞳を真っ直ぐに見据えて、訊ねる。

 空は震えながら口を開いた。

 

「た……」

 

 躊躇うように言葉が喉元で詰まる。

 唾を飲み、

 

「助けて、チルノ!」

 

 空は叫んだ。

 傍らの橙とフランドールの心にも刺さるような、悲痛な叫びだった。

 二人は思わず、チルノを見つめた。

 

「分かった! あたいに任せなさい!!」

 

 一秒も躊躇うことなく、チルノは答えた。

 清々しいほどの即断即決ぶりだった。

 あまりのチルノらしさにフランドールが思わず笑顔を浮かべ、橙が頭を抑えた。

 即答を受けて呆けた様子だった空も、徐々に安堵の笑顔へと変わっていく。

 

「ありがとう、チルノ……!」

「気にすんな!」

「うん! じゃあ、これからどうしよう?」

「さとりを探そう!」

「分かった。何処を探せばいい?」

「そんなこと、あたいが知るか!」

「駄目じゃん!」

 

 流れるように空は突っ込みを入れた。

 チルノが初めて困ったように口ごもった。

 

「そんなこと言われても、あたいもさとりが何処にいるかなんて分からないよ」

「わたしだって、地上のことは何処に何があるかも知らないもん。だから、チルノが詳しいと思って頼ったのに……」

「うむむっ、困った……」

 

 最初の勢いは何処へやら、二人は揃って唸ることしか出来なくなった。

 幾ら頭を捻っても、良い案が出てこない。

 早くも状況が行き詰る中、傍らで酷く緊張しながら様子を伺っていた橙が、諦めたように肩を落としてため息を吐いた。

 

「……分からなかったら人にきく」

「お?」

 

 視線が橙に集中する。

 

「チルノ。その妖怪を助けるのは、もうあんたの中で決定なのね?」

「当たり前よ!」

「じゃあ、地上と地底の間に結ばれた不可侵条約は知ってる?」

「えーと……勝手に地底に行っちゃ駄目だし、勝手に地上に来ても駄目ってやつ?」

「まあ、あんたは地底に行ったことあるから、その辺の取り決めは知ってるよね。そして、そこのウツホって奴は勝手に地底から出てきたワケだ」

「……橙! 親分からの命令よ、見逃しなさい!」

「別にいいけどさぁ……そいつが約束破った妖怪っていうのは変わらないんだよね。わたしじゃなくても、藍様や紫様が罰すると思うんだ。そんな奴を、まだ助けるつもりなの?」

「まだも何も、最初から迷っちゃいないわ! あたいは、お空を助ける!」

 

 本当に迷いのない答えだった。

 

「でも、どうやって助けるかまでは考えてないんだよね?」

「うん、全然何も思い浮かばない!」

「じゃあ、助けるのは無理なんじゃない?」

「分かんないけど、とにかく助ける!」

「そこはもう揺らがないのね……」

 

 橙は頭を掻いて、もう一度ため息を吐いた。

 

「――わたしが知っている限り、さとりって言えば、地霊殿の主で地底の管理者でもある大妖だね。最近、紫様からもよくその名前を聞くんだ。そして、この妖怪は地上の先代巫女と深い関わりがあるらしいって聞いたことがある」

 

 橙が自身の持つ情報を並べて整理するように口にしていくと、何かに気付いた空が不意に声を上げた。

 

「あっ、そうだ! あの巫女だ! さとり様、あの先代巫女って人間と博麗神社に行くって言ってたんだ!」

「お師匠も関係あるの!?」

 

 橙は言葉を続けた。

 

「その博麗神社だけどね、今朝の新聞に『倒壊した』って載ってたよ」

「どういうこと?」

「原因は不明だってさ。そして、神社に住んでいる博麗霊夢と何故か先代巫女の二人が行方不明になってるって」

「霊夢とお師匠がいなくなっちゃったの!?」

「ただし、霊夢の方は実は紫様の所に居るんだよね。これ、新聞にも載ってない秘密の情報だからね」

「お師匠は!?」

「さとり様は!?」

「その二人に関しては、わたしにも分からない。下っ端のわたしには教えてもらえないのか、それとも紫様達も分かっていないのか――」

 

 そこで橙は一呼吸の間を置き、意を決するように改めて口を開いた。

 

「そこで、古明地さとりと先代巫女の安否を確認する為の、わたしからの提案なんだけど――妖怪の山に行くのが良いと思う」

 

 チルノは唐突に出てきた場所に、空はそもそも知らない名前に、揃って首を傾げた。

 二人にも分かるよう、順序立てて橙が説明する。

 

「さっきも言ったでしょ、今朝の新聞に博麗神社のことが載ってたって。紫様を除いて、その新聞が幻想郷でも一番早く神社で起こった異変に気付いて、情報を調べ上げたんだよ。

 神社で起こった事件に古明地さとりと先代巫女が関わっている可能性が高い以上、その記事を書いた本人が二人の所在について一番情報を持っていると思う。だから、訪ねるんだよ。あの新聞を書いた妖怪を――」

「妖怪?」

「そう、妖怪の山に住む天狗。今朝の『文々。新聞』を書いた、鴉天狗の射命丸文をね」

 

 橙の話を理解して、チルノと空の表情が明るくなった。

 文字通り、希望の光が差したような輝きだった。

 行動の方針と決意を固めても具体的な案がなかった状況に、行くべき道筋が出来上がったのだ。

 元々、考えることは苦手な代わりに行動力だけは人並みはずれている二人は、俄然やる気を湧き立てられた。

 チルノにとって、射命丸文は友達である。会って話を聞くことに何の気負いもない。

 そして、そんなチルノを信頼する空にも不安などなかった。

 

「よしっ、妖怪の山に行って文に会えばいいのね!」

「行こう!」

「ちょっと待った!」

 

 すぐさま行動を開始しようとする二人を、橙が慌てて止める。

 

「行くにしても、色々と問題があるのよ」

「なんで? 妖怪の山の場所くらい、あたいも知ってるわよ」

「うん、山自体に辿り着くのは簡単だと思う。問題は、その先よ」

「先?」

「射命丸文に会うまでの間よ。天狗の住む集落は、山の奥にある。天狗は排他的な集団だからね、余所者はそう簡単に入れてもらえないのよ」

「余所者じゃないわよ。あたい、文とは友達だもん」

「どうかなぁ? 向こうはそう思ってないんじゃない。天狗が妖精相手に、真剣に取り合うとは思えないし」

「そんなことないもん!」

「わ、分かった。ごめん、泣かないでよ。射命丸文とチルノは友達なんだね」

「そうよ、頼めばきっと助けてくれるわ!」

「そうだとしても、会えるまでにまず他の天狗に門前払いを食らうと思う。集落周辺では、いつも哨戒の天狗が見張ってるって話だし、いきなり行っても事情すら聞いてもらえずに追い払われるだけだよ」

 

 橙の話は、全く現実的な内容だった。

 力を持つとはいえチルノは妖精。

 橙は八雲紫に関わる者とはいえ、実際の立場は部下の更に部下といった下っ端の身分だ。

 空に至っては、不可侵条約を破って地上に勝手にやって来た違反者である。

 三人が徒党を組んで乗り込んだところで、門前払いされるのがオチだった。話すら聞いてもらえないだろう。

 甚だ疑わしいが、チルノが本当に射命丸文と友好を結んでいることを前提として、その文と運よく他の天狗よりも先に出会えるという幸運に期待してもいいが――。

 

「仕方ない、強行突破ね! 邪魔する奴がいるなら、力づくで通るっ!」

「うにゅー! 戦うなら、わたしも頑張る!」

「人があれこれ案を考えてる横で気楽に暴走すんな、脳筋!」

 

 再び行動を開始しようとする二人を、今度は素早い足払いで転がして止めた。

 並んで倒れた二人の背中に片足ずつ乗せて、仁王立ちの姿勢で体重を掛ける。

 足元でじたばたと暴れるのを無視して、橙は腕を組みながら、これからどうするか頭を悩ませた。

 

「――ねえ、橙。わたしなら、役に立てるんじゃないかな?」

 

 それまでずっと、やりとりを見守っていたフランドールがおもむろに提案した。

 

「……フランドール様の力、ですか」

「橙なら多分思いついてたよね。わたしの立場と力なら、さすがに相手も無視出来ないと思うの」

「正直、考えてはいました。鬼の異変以降、紅魔館はもう幻想郷の一勢力として広く認められてますし、悪魔の妹の存在は一部の妖怪の中では有名です」

「あははっ、やっぱりわたしって恐れられてるんだ。噂って凄いなぁ」

「でも、フランドール様はそれでいいんですか? つまり、紅魔館の権威と自身の力で天狗を牽制するってことですよ」

「いいよ」

「……軽いですね」

「今夜は、夜明けまで自由にしていいってお姉様からお墨付きを貰ってるもん。だから、わたしの好きなようにする」

「さすがに、お姉様も天狗に喧嘩を売るとは想定してないと思いますけど」

「えぇ~? 普段から『運命が見える』とかしたり顔で言っちゃってるんだから、当然こんなのお見通しに決まってるよぉ~」

「ひょっとして、お姉様のことお嫌いで?」

「ううん、大好き!」

「そっすか」

 

 橙は理解することを放棄して、諦めたように息を吐いた。

 さっきから、似たようなため息を繰り返してばかりだ。

 自分が、これから何をしようとしているのか分かっている。

 分かっている、と思う。

 馬鹿なこと、拙いこと、気の進まないこと――なのに、やろうとしている自分がいる。

 奇しくも、方針が決まり、具体的な案が浮かび、それを実行する為の駒も揃ってしまった。

 自分の小賢しい頭で、これから目的達成の為の采配をしなければならないと思うと、橙は肩が重くて仕方がなかった。

 しかし、やるしかない。

 何故なら、やると決めてしまったバカな奴がいるからだ。

 そのバカと自分が無関係だと割り切ってこの場から立ち去ることが出来るなら、最初から悩んじゃいない。

 

「チルノ」

 

 橙は足をどけながら、言った。

 

「一応、作戦は決まったわ」

「おおっ! さすがね、橙! あたいはサイキョーだけど、あんたはサイコーだわ!」

 

 立ち上がりながら、チルノが笑う。

 その瞳に、曇りも迷いもない。

 向けられる視線が、自分への信頼なのか、単なる考えなしなのか、判断がつかなかった。

 橙は、またため息を吐く。

 

「それで、結局あたい達はこれからどうすればいい?」

「全員で妖怪の山へ行く。天狗に会ったら、そこでまずわたしが交渉をする。絶対に先に手を出しちゃ駄目だからね」

「分かった! お空も分かったわね?」

「うん! よろしくお願いします!」

 

 空が、橙とフランドールに向けて深く頭を下げた。

 そして、今度こそ二人は行動を開始した。

 チルノを先頭にして、妖怪の山へ向けて真っ直ぐに飛び出していく。

 少し出遅れて、フランドールと橙がそれを追った。

 

「……フランはチルノが『引っ張ってくれる』って言ったけど」

 

 敬語を使うのも面倒になるくらい疲れた橙は、ぼやくように独りごちた。

 

「わたしは違うと思うな。あいつがあまりにも考えなしだから、仕方なくついていってやってるんだ」

「そうかな?」

「そうだよ、あいつは考えなしだよ。普通、何か考えて、何をするか決めて、それから何か行動するでしょ。あいつはバカだから、『考え』の部分がごっそり抜けてるもん。だから、その結果が上手くいくわけないんだ」

「でも、今回は橙が代わりに考えてくれたんだから、きっと上手くいくよ」

「そう、そこがわたしにも分からない。なんで、わたしがあいつの代わりに頭を捻って考えなきゃいけないの? なんで、わたしはあいつの無茶がこんなに気になるんだろう?」

 

 真剣に自問する橙の様子を見て、フランドールはクスクスと笑った。

 

「チルノの師匠がそういう人だからじゃないかな」

 

 屈託のないフランドールの意見に、橙は思わず納得してしまった。

 

 

 

 

「――どうしよう。なんだか、大事になってきちゃった」

 

 チルノ達四人のやりとりを、妖夢は離れた場所で聞いていた。

 湖面の上に常に漂っている霧の中へ身を隠し、距離を取って、気配も殺している。

 本来ならば、互いの姿はもちろん声さえ聞こえない位置にいながら会話を盗み聞き出来たのは、妖夢だけが持つ半霊のおかげだった。

 文字通り自らの半身であるそれを飛ばし、共有する感覚で四人のやりとりを逐一捉えていたのだった。

 先んじて地底から地上へ飛び出した空を捕捉できたのも、この能力に因るところが大きい。

 燐の願いを受けて急ぎ空を追った妖夢だったが、地獄烏である空の方が飛行能力は上だった。

 地底に居る間に追いつくことは出来ず、地上でようやく発見した時には既に空はチルノ達と接触してしまっていた。

 会話の途中で乱入して無理矢理連れ戻すことも考えたが、妖夢はそれを思い直した。

 もしも、チルノだけだったならばそうしたかもしれない。妖精など歯牙に掛ける存在ではないからだ。

 しかし、そこには八雲紫の配下である橙と、レミリア・スカーレットの妹であるフランドールがいた。

 荒事にしていい相手ではない。

 何よりも、空に対して力づくで事に及ぶことを避けたかった。

 頼まれた燐に対してもそうだが、今の妖夢はさとりを中心とした地霊殿の住人全てに敬意を持っている。

 正確に言えば、無理を言って居候させてもらっている自分を、地霊殿のヒエラルキーにおける一番下だという、蔑みにも近い認識を抱いていた。

『なんとしても空を無事に連れ帰らなければいけない』という決意と共に『空に無理強いは出来ない』という躊躇いも抱えている。

 結局、妖夢は何も出来ないまま、四人の会話を聞き続けることしか出来なかった。

 

「妖怪の山、か」

 

 チルノを先頭にして、四人が湖から飛び立っていく。

 向かう先とそこでしようとしていることは分かっていたが、妖夢は追うことを躊躇っていた。

 もちろん、自分がやるべきことの為に、ここで四人の行動を見過ごすという選択肢がないことは分かっている。

 しかし、即決は出来なかった。

 妖怪の山に――そこに住む天狗に関わることがどういうことなのか、よく分かっていたからだった。

 あるいは橙以上に、四人の行動に対して危機感を覚えている。

 全ての事が上手く運べば、あの四人は情報を得て、何の諍いもなく妖怪の山から帰ってこれるかもしれない。そのタイミングで合流し、空に地底へ戻ることを提案すれば、彼女がそれに反対する理由は何もないだろう。

 当然ながら、妖夢にそのような楽観はなかった。

 想定する最悪の事態としては、妖怪の山でやはり何らかの問題が起こり、その被害が空に及ぶことだった。

 それはなんとしても防がなくてはならない。

 空の為に。

 燐の為に。

 さとりの為に。

 場合によっては、天狗と戦わなくてはならない。

 自分が――。

 戦い――。

 

「ぅ……く……っ」

 

 右手が、無意識の内に震えていた。

 妖夢は右手を左手で咄嗟に押さえた。

 しかし、身体の異常は手だけではなく、呼吸が上手く出来なくなって、軽い眩暈まで起こっていた。

 

 ――無理だ。戦うなんて。

 

 戦いの内容が『弾幕ごっこ』だったとしても、変わりはなかった。

 生命のやりとりではない、遊びのようなルール。安全で、ぬるい決闘。

 かつて、そうして軽視していた弾幕ごっこを想定しても、妖夢の震えは止まらなかった。

 戦いという形式そのもの――誰かを前にして、敵対する――それ自体に、躊躇いと恐怖を覚えて、竦んでしまうのだった。

 

 ――そもそも、私は今、刀を持っていない。だから、戦うなんて無理なんだ。

 

 妖夢は、自分の判断にそう理由を付けた。

 それがあまりに虚しい言い訳であると、何よりも本人が嫌と言うほど理解していた。

 結局、自分は戦うのが怖いだけなのだ。

 もう、誰であろうと目の前に敵として立たれるのが嫌なのだ。

 その敵と勝負して、勝たねばならないという状況に、もう耐えられなくなってしまったのだ。

 

「……とにかく、追わなきゃ」

 

 覚悟など出来ていない。

 しかし、黙って見過ごすことも自分には許されていない。

 空を助けなればならない――半ば強迫観念にも近い理由の後押しを受けて、妖夢は四人を追うべく飛び立った。

 何もしなければ、自分は居るべき場所を失ってしまう。

 さとり達に失望されて、最後に逃げる場所さえ無くなってしまう。

 それが怖かった。

 怖いから、やらなければいけなかった。

 それこそ、自分が誰かに助けて欲しかった。

 しかし、自分が助けを求められる者など誰もいないことくらい分かっていた。

 それが出来る数少ない内の一人である幽々子を自分から拒絶して、逃げてしまったのだから。

 相手に気付かれない位置と距離を取りながら、妖夢は四人を見失わないようにじっと見つめた。

 四人を見つけた当初、空自身が言っていたらしい『頼りになる友達』が本当に居たことに驚いていた。

 そして、彼女達はその信頼を違えることなく、突然やってきた地底の妖怪の為に無茶な行動をしようとしている。

 空の助けを求める声に、無条件で、躊躇いもなく、応えたのだ。

 あの四人は、本当に友達なのだ。

 不意に、かつて迷いの竹林で幽々子に言われたことが脳裏に蘇った。

 

 ――妖夢、貴女も友達を作りなさい。

 

 あの時は、単なる戯れだと思って真剣に取り合わなかった。

 しかし、あの時友達を助ける為に駆けつけたチルノが、今もまた別の友達を助ける為に奔走している。

 それらの事実が、妙に心に残った。

 

「いいなぁ……」

 

 妖夢は無意識に呟いていた。

 

 

 

 

 ――アレだ。ドラクエで言うところの『旅の扉』だな。

 

 私は青娥の使った移動手段をそんな風に理解していた。

 前世の知識っつーか、先駆者のアイデアってマジ万能。具体的な例があると、理屈が分かってない事柄でも把握しやすくていいね!

 

「本当に一瞬で着いたのか」

「感覚的なだけでなく、実際の時間も掛かっておりません。言ったでしょう? 御期待は裏切りませんわ」

 

 諏訪大社から移動した先にあった室内を、私は感心しながら見回した。

 一緒に移動してきた青娥が傍らで微笑む。

 相変わらず美人さんな笑顔だけど、それがドヤ顔に見えるのは間違いじゃないはずだ。

 青娥って自分の力を誇っているというか、褒めてもらいたい願望みたいなものがある気がするんだよね。

 なので、とりあえず『さすがだな』と相槌を打っておいた。

 実際に、さすがの一言である。

 守矢神社で青娥の用意した巫女服にすぐさま着替え終えたが、神奈子様達の移動スピードを考える限り、どう考えても普通に移動したのでは追いつけない差がついてしまっていた。

 神奈子様が事を起こすまでに間に合うのか――?

 具体的にはあの世から駆けつける悟空のような心境だった私。

 オラが行くまで持ちこたえてくれ、諏訪子様……!

 しかし、青娥が選んだ手段は私の小賢しい発想を超えるものだった。

 そう、あれは言うならば――何だろう?

 多分、具体的な仙人の術として確立したものなのだろうが、なんちゃって巫女である私には術の名前すら分からなかった。

 ただ目の前で青娥がやっていた行動とその結果を理解するだけである。

 まず、青娥が準備したのは自前のキャリーケースの中から取り出した水筒と、神社の中にあった大きな器だった。

 後者に関しては、どう見ても重要文化財っぽい大皿だった。っていうか、展示物だった。当然、青娥はそんなこと気にしない。私も全力で無視。

 とにかく、用意した器に水筒の中身を注いだ。

 一見すると、それはただの水だった。

 いや、本当に何の変哲もない水だったのかもしれない。

 重要なのは、その後で青娥がやってみせた術だ。

 ケースの中から更に取り出したのは、先端に装飾の付いた細長い棒――私の前世の知識にあった、原作で青娥がかんざし代わりに髪に差していた『どんなに硬い壁にも穴を開けられる鑿(のみ)』――だった。

 それを、器に張られた水の表面に向けた。

 青娥は低い声で何かを唱えながら、先端を水面につけ、こちらも何らかの模様か言葉のようなものを書き始める。

 不思議なことに、青娥が幾ら書いても、いったん水の表面に書かれた文字は、そのまま水の上に浮かんで、消えなかった。

 水の中で淡い光を放つ不思議な文字が、器の中を少しずつ埋め尽くしていく。

 その様子を同じく傍で見ていた早苗は何か理解しているかのように頷いていたが、一方の私は『うわー、すごく術っぽーい』と呆けたように見ているだけの馬鹿だった。

 そんなだから、青娥が手を止めて『出来ました』と言うまで、術が完成したことすら分からなかった。

 

 ――さあ、これで『道』は繋がりました。今、入り口を開けます。行きましょう。

 

 最後に青娥は鑿を水の中心に差し込み、促されるままに私はそこへ飛び込んだ。

 そして、気が付いた時にはここに到着していたのである。

 術の効果だけ見れば、テレポートの一種だと理解出来るが――うむ、ここは『仙術』とか『神仙術』とか呼んだ方が、らしいしカッコいいな。

 しかし、移動したのは分かったが……なんで見覚えのある風呂場なんだ?

 

「ここは、青娥の家か?」

「はい、そうです」

「何故、風呂場なんだ?」

「あの水筒に入っていた物は、ここの湯船に張っておいたものと同じ水なのですよ」

 

 言われて振り返ってみれば、確かに。私達は背後には、水の満たされたバスタブがあった。

 理屈は分からないが、私達は諏訪大社で術を施した水に飛び込んで、この風呂場の水から出てきたということなのだろう。

 

「元々、こうして戻る為の準備をしていたのか?」

 

 私が訊ねると、青娥は微笑んだ。

 

「ここは私の拠点ですから、色々と細工が出来るのですよ。もう戻るつもりはありませんでしたが、万が一の時の為に備えておりました。役に立って何よりです」

 

 本当にね、超助かりました。

 さすが青娥にゃん、『こんなこともあろうかと!』を素でやってしまうんだな。もしくは『それはどうかな?』と言えるデュエル。

 

「しかし、これで本当に神奈子様達の先回りが出来たのか?」

 

 風呂場から出ながら、私は青娥に訊いた。

 確かに一瞬で移動が出来たので、開いていた距離や時間の差は無くなり、むしろ先んじて目的地に辿り着けたことになる。

 ただし、それは神奈子様達の向かっていた場所がここだったらの話だ。

 これで見当違いな場所にやって来てしまっていたら、眼も当てられない。

 それに対して、青娥は落ち着き払って答えた。

 

「ええ。あの二柱が向かった方向、そして『人の多い、都心を目指している』という言葉からして、まず間違いありませんわ」

 

 確かに、諏訪子様がそう言っていた。

 私はそれが県内の市街地かと思っていたのだが、青娥の家までやって来たということは違うんだな。もっと別の場所だったか。

 

「はい。『都心』と言うのならば、より相応しい場所があります」

 

 青娥の言葉を聞きながら、私は家の玄関を開けた。

 途端、凄まじい風が吹き込み、顔を顰めた。

 叩きつけるような強風と雨が全身を襲う。

 外は嵐になっていた。

 諏訪の街を襲っていたものと同程度、同じ種類の嵐だ。

 

「……なるほど、これは間違いないな」

 

 この嵐は、神奈子様が近づいてきている証拠だ。

 しかし、気配の方は感じない。

 未だ、移動中というところか?

 

「いえ、正確な目的地はここではありません。私達も少し移動する必要があるでしょう」

「何処へ向かえばいい?」

「先代様、私達が初めて出会った場所を覚えていますか?」

 

 えっ、あそこなの!?

 ――なるほど。

 私は思わず納得してしまった。

 確かに、あそこはビルの林立する人口密集地だ。

 青娥の言うとおり『都心』として上げるならば、『あそこ』ほど相応しい場所はない。

 最初に幻想郷から『あそこ』に降り立った時には、情報も不足してて具体的な地名が分かっていなかった。

 そんなことを気にしている余裕はなかったし、漠然とした『近代的な街』という認識しかしていなかったのだ。

 神奈子様達に会いにいく為に色々と周辺地域を調べる過程で、自分の居る場所の名前を知った時は本当に驚いたものだ。

 日本でも代表的な『都会』だった。

 青娥の家は中心部から離れた住宅街の一角にあるが、それでもここを含めた一帯が神奈子様達の目指す『人の多い都心』の一部には違いない。

 そして、私とさとりが幻想入りした場所――まさか、その始まりの場所へ、終わりの時になって戻ることになるとは。

 感慨深いっつーか、なんつーか……。

 

「私の予想ですと、あそこから更に移動した方が良いと思います。神様も、きっと分かりやすい目印を目指して移動しているでしょうしね」

「『分かりやすい目印』だと?」

「ええ」

 

 青娥は言った。

 

「東京都庁です」

 

 

 

 

 ――最初、人々はそれを単なる異常気象だと思っていた。

 

 人と文明の結集する眠らない街。常に人工の光が満ちるその場所に、真の闇が訪れることはない。

 黒雲が僅かな月明かりさえ遮る深夜に、水を直接ぶちまけたかのような豪雨が降り注ぐ。

 夜の帳の上に、更にもう一枚の分厚い布を被せたような、一寸先の視界さえ確保出来ない嵐が街を襲っていた。

 それは突然の襲来だった。

 あらゆる情報機関が、このあまりに急激な天候の変化を予測することが出来なかった。

 あっという間に交通機関の一部が麻痺し、一部の地域には避難勧告が発令される。

 しかし、それでも街の住人達の危機感は薄かった。

 唐突な状況の変化に認識が追いついていないというのもあるかもしれない。

 深夜というのも影響している。大抵の人間が活発に出歩くような時間帯ではない。交通量は少なく、ほとんどの人間が屋内に居た。

 外で荒れ狂う激しい嵐に、一部の人間が睡眠を妨げられ、夜を活動時間とする一般的でない人間が仕事の中断を余儀なくされる。

 既に天候が悪化した状況の最中、ようやく様々なネットワークで送信され始めた情報を睨み、対応の遅さに悪態を吐く。

 心配性な人間や用心深い人間などの一部の者達が、危機感を抱き始める。

 しかし、その危機感すら現状ではズレたものでしかなかった。

 文明の利器に守られ、これまで平穏な日々を過ごしてきた都市の人々は、状況を正確に理解し、認識することが出来なかった。

 明日も『平穏』の範疇にある日常が来るのが当たり前だと思っていた。

 この自分の日常を襲う直接的な被害は、帰宅や出勤時間の遅れぐらいだと思っていた。

 仮に大きな事故が起こったとしても、それはパソコンやスマートフォンの画面越しに伝わる単なる災害情報に過ぎないと思っていた。

 実際に、その通りだった。

 街は広く、被害の範囲があまりに局所的だったので、多くの人々はそれを知ることさえなかった。

 しかし、確かに。

 その場に居合わせた不幸な人々は。

 見た。

 聞いた。

 感じた。

 思い出した。

 

 ――人間が圧倒的な力によって無造作に蹴散らされる恐怖を。

 

 最初に、風と雨が止んだ。

 何の前触れもない、突然としか言いようのない変化だった。

 アスファルトを抉るような雨の重い音と、コンクリート製の建物さえ震動させるような風の音が、同時に止んだ。

 訪れたのは完全な静寂だった。

 雨は一滴も落ちなくなり、大気は完全な無風となった。

 自然な現象とはとても思えない異常な事態を、しかし人々は常識的な思考で理解しようとした。

 台風の目と呼ばれるような天候の空洞に入ったことで、このような状況が起こったのではないかと考えた。

 それ以上の考察はなされなかった。

 状況は更に、そして矢継ぎ早に変化していった。

 時間が停止したかのような空白の中で、今度は地面が揺れた。

 地震か――と、身構えることはおろか、不安を感じる間もなかった。

 ビル群の間を伸びる道路の一部が盛り上がり、水泡のように膨れたそれは次の瞬間破裂した。

 砕けたアスファルトが周囲に飛び散り、ビルにぶつかって窓ガラスを割る。

 地殻変動による地面の隆起現象だと考える方が自然だが、実際の見た目では単純に地下で何かが爆発して衝撃が飛び出したようにしか見えない。いずれにしても常識では考えられない事態だった。

 しかし、現場に居た人間の大半は、突然の事態にただパニックになるだけで、そのような冷静な考察をする余裕などあるわけがなかった。

 そして、事態は更に続いた。

 地上で異常が起こったのとほぼ同時に、完全に嵐の沈静化していた上空から突風が吹き降ろしてきたのだ。

 いや、『風』ではなかった。

 それはもはや衝撃波だった。

 嵐によって発生したものだとしても明らかに異常な空気の塊が、丁度隆起の起こったビル群の間で炸裂し、周囲一帯を吹き飛ばした。

 ビルの窓は全て割れ、道路に沿って設置されていた街灯と街路樹が一本残らずへし折れた。路肩に駐車されていた乗用車が吹き飛ばされ、大型トラックが横転する。

 そこへ堰き止めていたダムが決壊したかのように、再び雨が濁流の如く降り注いだ。

 吹き荒れる風は、強さこそ先程と変わらないものの、何処から吹いてきているのか分からないほど滅茶苦茶だった。北か南か、東か西か。果ては真上から吹いてさえいる。

 それは『東京』と呼ばれる巨大な都市からすれば、ごく一部で起こった事態だった。

 しかし、それは確かに、居合わせた多くの人間を恐怖させた。

 唐突な。

 理不尽な。

 圧倒的な。

 人々はそれを恐るべき『災害』だと実感した。

 

 ――しかし、それが『神の怒り』であると理解する者はいなかった。

 

 

 

 

 東京都庁――それは東京という街の政(まつりごと)の中心となる場所である。

 密集するビル群の中でも一際巨大なその建物の真上で、神奈子は眼下を睥睨していた。

 嵐を率いて山を越え、稲妻と共に空を走って、ここまでやってきたのだ。

 渦巻く黒雲を背に、神奈子は空中に佇んでいた。

 周囲では風が唸り、稲光が瞬き、叩きつけるような雨が降り注いでいるが、神奈子の体は濡れもしなければ揺らぎもしない。

 彼女こそが、この嵐の中心だからだ。

 嵐は閉鎖空間のように、眼下の街だけを覆っていた。

 突然発生した超自然的な脅威に対して、街の住人がどのように反応しているのか、神奈子の眼には映っていた。

 驚き、戸惑い、不安になり、恐怖や危機感を感じている者がいる。

 しかし、それは思った以上に少なく、薄い反応だった。

 人々の心は、現在の状況に対してあまり動いていなかった。

 自分達の陥っている状況を、理屈で説明出来るものだと思っているからだ。

 自然の脅威を、自分達の力で防ぐことが出来ると信じているからだ。

 

 ――人はもはや神の力を恐れない。

 ――人はもはや神の力を信じはしない。

 

 神奈子は、瞼を閉じた。

 その静かな仕草に反応するように、周囲で荒れ狂っていた嵐が不意に止んだ。

 神の怒りが収まったかのようだった。

 

「……もはや、この国は神の住む国にあらず」

 

 神奈子が右手をゆっくりと頭上に掲げた。

 

「人が作り、人が支配し、人が動かす国。眼に見えるものしか存在せず、触れられるものしか認められない国」

 

 開いた右手の上に『力』が収束する。

 

「此処が、その国の中心となる場所ならば」

 

 力――そうとしか表現出来ないものだった。

 風と雨と雷が、形と色を変えて、純粋な無形無色の力となり、神奈子の右手に集まっていく。

 力の塊は、巨大な風船の如く膨張していった。

 

「今、此処で起こること――全て」

 

 閉ざしていた眼が開かれた。

 

「人よ! お前達が認めた現実に相違ないなぁ!!」

 

 叫び、神奈子は右手を振り下ろした。

 巨大な力の塊――人ならざる眼には白色の光の球体に見えるもの――が、眼下の街に向けて放たれた。

 街全体を覆うほどの嵐が一点に収束された塊である。炸裂すれば、どれ程の破壊をもたらすか容易に想像出来た。

 それが隕石の如く上空から地上の街の一角に飛来する。

 しかし、それが地面に到達することはなかった。

 着弾地点となる道路のアスファルトが砕け、その中から巨大な『手』が突き出てきたのだ。

 文字通り『手』としか言いようのない物体だった。

 ちょっとしたビルほどの長さと太さを持ち、五本の指も備えた『手』が、平手の形で地面から斜め上に突き出ていた。

 その『手』を形成する物は土くれだった。

 地上から突き出された『手』は、上空から飛来する力の塊を、掌で受け止めた。

 瞬間、眼に見えない大爆発が起こった。

 空中で炸裂した力が周囲に拡散し、ビルの窓は全て割れ、道路に沿って設置されていた街灯と街路樹が一本残らずへし折れた。路肩に駐車されていた乗用車が吹き飛ばされ、大型トラックが横転する。

 辺りの被害は甚大だった。

 しかし、それでも地上で炸裂することでもたらされる破壊に比べれば、幾分マシな被害だった。

 神奈子は目の前で起こった出来事を睨んだ。

 神の起こそうとした理不尽な破壊を、同じく理不尽に防いだもの――。

 

「――諏訪子」

 

 元々が土で形成されていた為か、破壊の力を受け止めたことでボロボロになった『手』の指先から、諏訪子が姿を現した。

 見上げる形で、上空の神奈子を睨みつける。

 

「邪魔をするな」

「嫌だね。わたしは邪魔をしに来たんだ」

「今更、神が人を守って何の意味がある? 人は理不尽に降りかかる災厄に対して、もう神に嘆きもしなければ、助けを乞うてもいない」

「神が人を理不尽に殺して、それこそ今更何の意味があるってんだ!」

 

 諏訪子は叫んだ。

 

「神奈子、あんたは言ったね。『人に神を思い出させてやる』と――。

 でも、本気じゃないんだろう? 本気で、そんなことが出来るなんて思っちゃいないんだろう?」

 

 神奈子は答えない。

 

「分かってるはずなんだ、嫌ってほど! あんたが自分で言ったじゃないか! もう、人は『神に嘆きもしなければ、乞いもしない』って!

 昔は、こういった理不尽な災害は神や妖怪の仕業だった。彼らは、わたし達に恨み言をぶつけた。そうやって恨まれることもまた神の役割だった。

 だけど、今はもう違う! 周りを見なよ! 理屈では説明出来ない異常気象が街を破壊して、起こるはずのない地震が起こって地面を割った挙句に、大勢の人が何の意味もなく死ぬ――この被害はなんて世の中に伝えられると思う?

 神の仕業か? 神様が怒って人間に理不尽な罰を下しましたって、朝のニュースで報道されるのか?

 ――そんなワケがないだろう!! どれだけ多くの物が壊されて、大勢が死んだとしても、人は自分達の理屈だけで納得するんだ! そこに『神の仕業』なんて言葉は欠片も挟まれない! もう、人は神を恨んだりなんてしないんだよ! 理不尽への嘆きは、科学的根拠を持った推論や他の偉い人間の責任にして処理されていくんだ!!」

 

 嵐にも掻き消されないほどの勢いで捲くし立てる諏訪子の言葉を、神奈子は黙って聞いていた。

 遠くから幾つものサイレンの音が近づいてくる。

 損壊した建物や車両の中から、人々の苦悶や助けを呼ぶ声が聞こえる。

 二柱の神には、それらが全て聞こえていた。

 

「神奈子、お前のやっていることは無意味だ」

 

 現実を理解させるように、諏訪子は断言した。

 それに応えるように、神奈子がゆっくりと口を開いた。

 

「いつまで続けられるんだ?」

「え?」

 

 唐突な問い掛けに、諏訪子は呆けた声を上げた。

 

「全ての災厄が人の因果によって生まれるわけじゃない。むしろ、人の関わらない理によって起こるものの方が多いんだ。そんな誰の責任でもない不幸に対して、誰かが責任を取り続け、人の理の中に納め続ける――そんなこと、いつまで続けられると思うんだ?」

「神奈子……」

「そして、それが破綻した時――その時は一体『誰』が責任を取ればいいんだ?」

 

 そう言って、神奈子は小さく微笑んだ。

 哀しみと、何よりも諦めを含んだ空虚な笑みだった。

 その笑みに秘められた神奈子の真意が一体どんなものなのか、諏訪子には分からなかった。

 しかし、ただ何も理解せずに錯乱している者の笑い方には思えなかった。

 

「なあ、諏訪子」

「――」

「私達に出来ることは、本当に何もないのか? この世界に、本当に神は不要か?」

 

 神奈子は笑みを隠すように片手で顔を覆い、

 

「私を止めたければ――」

 

 その手を降ろした時、神奈子の顔付きは元に戻っていた。

 街に破壊をもたらそうとした時の、無残なまでの覚悟の表情に。

 

「それを納得させてみせろ!」

 

 神奈子は諏訪子に向けて、収束した風の弾丸を撃ち放った。

 既に先の攻撃を受け止めたことで半壊していた土の手が、風弾を受けて粉々に砕け散る。

 飛び散った土くれは空中で消滅し、周囲の人々にはただ何かが爆発する音だけが聞こえていた。彼らは自分達のすぐ傍で神同士が争っているなど知りもしなかった。

 着弾の寸前で、諏訪子はその場から飛び上がり、攻撃を避けていた。

 彼女もまた幻想の力を用いて空を飛び、神奈子に襲い掛かった。

 何も持たない両手には、鉄輪が生み出される。

 諏訪子は叫んでいた。

 しかし、悪態と思われるそれは何処にも届かず、嵐の中に掻き消されていった。

 神奈子に対するものか。

 自分に対するものか。

 あるいは、別の誰へのものか。

 神が同じ神以外の誰に悪態を吐けるのか、分かりはしなかったが。

 

「神奈子――!」

「諏訪子――!」

 

 二つの叫びが空中で激突した。

 激しい嵐の最中、二柱の神格が付いては離れ、離れては付く。

 人の眼では嵐と区別がつくことはない、神の戦いだった。

 いや、果たしてそれを『戦い』と表現していいものか。

 人の道理で表せるものではなかった。

 拳を交えるわけでも、刃を打ち合うわけでもない。

 ただ力がぶつかり合い、それを無限に繰り返す。

 仮にそれを戦いの形で表すならば、神奈子と諏訪子の力は互角のはずだった。

 互いに信仰の薄れた現代で生き残ってきた神である。

 自らに残された力に差はほとんど無く、それを身を削るように引き出しながら戦っている点は同じだ。

 しかし、同じ条件の二人の間には有利と不利が生まれ始めていた。

 

「雲よ!」

 

 神奈子の呼びかけに応えるように、掲げた手の上に雷雲が集まり、そこから稲妻が諏訪子に向けて放たれた。

 咄嗟にそれを受け止めた鉄輪が、真っ黒に朽ちて、ボロボロと手から崩れ落ちる。

 

「くそっ、やっぱり駄目か!」

「お前では私には勝てんぞ!」

 

 無防備になった諏訪子へ、神奈子がぶつかるように急接近する。

 伸ばした右手が、細い首を掴んだ。

 そのまま勢いを殺さず、近くの高層ビルに諏訪子の体を叩きつける。

 強化ガラスの窓が大きくへこみ、無数の亀裂が走った。

 

「お前は一度、私に負けている。神話を塗り替えるほどの信仰が、今の自分にあると思っているのか」

 

 神奈子が獰猛に笑って、言った。

 かつて神代の頃に、諏訪子の国は神奈子によって攻め落とされ、支配されていた。

 その事実は、幻想の歴史として現代にも伝わっている。それが人々の信仰にも影響しているのだ。

 

 ――人々は、八坂神奈子が洩矢諏訪子に勝った神話を信じている。

 

 故に、この先何度戦っても諏訪子は神奈子には勝てない。そういう筋の通った道理なのだった。

 神自身の意思や力で、それを覆すことは出来ない。

 神話をなぞるまま、諏訪子の武器である鉄輪は、神奈子の力によって朽ち果ててしまった。時間と回数を重ねても、その結果は不変のままである。

 人の信仰に存在と力が左右される神にとって、逃れられない因果だった。

 

「お前のやろうとしていることこそ無意味だったな、諏訪子」

「神奈子……!」

「馬鹿な奴だ、早苗と一緒に行けばよかったものを。もう間に合わん。お前もここで、私と共に消える」

「はっ! わたしと心中する気はないんだろう?」

「ああ、だから先に逝け」

 

 神奈子が首を掴む手に力を込めた。

 絞り出された空気と共に、諏訪子の口から苦悶の声が吐き出される。

 人間のように窒息するわけではない。

 しかし、神による『殺す』という行為が、同じ神を死に至らしめるのだ。

 

「私がこれから殺す人間の怨嗟が、あるいは祟り神であるお前を生かすかもしれんな。もっとも――」

 

 空いたもう片方の腕を振り上げる。

 

「神を恨んでくれるといいがな!」

 

 神奈子の手には、地上に向けて放ったものと同じ種類の力が、今度は直接込められていた。

 神すらも殺し得る一撃が、諏訪子に向けて振り下ろされる。

 その一撃を、諏訪子は見開いた眼で睨んでいた。

 反撃のチャンスは――ない。

 心に諦めが浮かび、早苗の顔が脳裏に過ぎった。

 その瞬間。

 背後の窓が、ビルの内側から破られた。

 丁度、諏訪子の頭を挟む左右の位置から、二本の腕が飛び出してきたのだ。

 開いた掌には霊的な力が宿り、向かい合う神奈子に突きつけられる。

 

『波ぁぁぁーーーっ!!』

 

 両手から光の波動が放射され、神奈子の体は成す術も無く吹き飛ばされた。

 それでも体勢を立て直し、空中で停止する。

 突然にして強烈な不意打ちを食らい、神奈子は険しい目付きで再び前を見据えた。

 放たれた力の余波によって、両手の突き出ていた窓はもちろん、その隣に並ぶ窓や枠が根こそぎ内側から破壊されていた。

 一階層分の窓が軒並み破壊され、横長の穴がぽっかりと空いたビルの中には、一人の人間が佇んでいた。

 その両手には、開放された諏訪子を横抱きに抱えている。

 

「お前は……っ」

 

 予想外の横槍に、神奈子は驚愕していた。

 吹き荒れる風に、白い袖と赤い袴が揺れる。

 先程一撃を放った両手は、鍛錬の跡が無数の傷として刻まれた異形の物だ。

 その者の傍らには、陰陽の図を模した玉が一個浮いている。

 自身に向けられる視線と、その鋭さとは裏腹に秘められた信仰を感じ取って、神奈子は目の前に佇む現実を受け入れざるを得なくなった。

 

「先代巫女――!」

 

 嵐の中、神と巫女は対峙した。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告