東方先代録   作:パイマン

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風神録編その八。


其の四十七「神祭」

 あの後――早苗は家に帰ると、いつものように先にお風呂に入って、夕食を家族で囲んで、部屋に戻った。

 毎日、当たり前のように過ごしていた日常。うんざりするほど繰り返していた習慣。しかし、その抗い難さに驚いていた。

 今日一日であんなにも衝撃的な出会いや経験、苦悩の果てに人生の岐路に立っているという確固たる自覚も抱いたのに、自分は明日の授業に備えて予習なんかしてしまっている。今日、早退した分の遅れを取り戻そうとしている。

 馬鹿げていると思った。

 ペンを持っている手に、力が篭もった。

 時計を見ると、既に深夜近い。

 窓に視線を移せば、いつの間にか雨が降り出している。

 これがすぐに嵐に変わるのだと、早苗には分かっていた。

 今日という『選択の日』は、もう二度と来ない。

 この嵐が過ぎれば、次の日の朝は天気予報どおりの快晴が広がり、昨日までと同じ日常が始まっていく。

 

 ――ずっと変化を望んでいた日常。

 ――だけど、平穏で安定した日々。

 

 踏み出す足が、しっかりと地面を踏み締めることが出来る安心感を、早苗は今更になって理解していた。

 一歩進むごとに足元が崩れ去るかもしれない、なんて不安はない。

 自分の進むべき道を、十分に舗装して標識まで付けてくれるこの世界の優しさをこれまで知らなかった。

 今夜、選択することは、そんな優しい世界から永遠に離れるということなのだ。

 見知らぬ世界で、自分だけの価値観に従いながら、常に自分で選びながら歩んでいかなくてはならない。

 安全は保証されていない。

 将来も保証されていない。

 正しさや、満足さえ――。

 

 ――『空を飛ぶ』とは、そういうこと。

 

 上も下も分からない無限に自由な空で、自分が行くべき道を自分で示し、辿り着いた場所に価値を見出すことさえ自分がやらなくてはならないのだ。

 途方もない話だった。

 早苗は、見慣れた自分の部屋を見回した。

 瞼を閉じ、耳を澄ませて自宅の音を聞こうとする。

 静寂だけが聞こえた。

 両親は、もう眠っているはずだった。

 閉じきった窓の外、徐々に強くなる雨音と風音だけが聞こえる。

 目を開けると、机のすぐ傍にある自分のベッドが視界に入った。

 勉強を終わらせて、ベッドに入って布団を被れば、それで全てが解決する。

 次に目を覚ますのは、明日の朝だ。

 いつものように両親に挨拶をして、用意された朝食を食べて、定められた一般教育を受ける為に行くべき場所へ行く。

 うんざりするけれど、迷いのない安定した日常が始まる。

 この世界には、生きる為に必要なものが全て揃っている。

 安全も。

 平和も。

 家族も。

 学校も。

 将来も。

 早苗は、もう一度窓の方を見た。

 雨はあっという間に嵐へと変わりつつあった。

 風はもう、轟々と唸るような勢いにまで強まっていた。

 この嵐の中へ、窓を開けて飛び出していくなんて、まったく常識外れな話だ。下手をしたら、途中で事故に遭ってしまうかもしれない。危険だ。

 しばらく外を眺めていた早苗は、やがて手元に視線を戻した。

 そして、ペンを握り直した。

 

 

 

 

「――退屈なのよね、この世界は。揺らぐことのない不動の大地。だから、変化と刺激が欲しいのよ」

 

 仰向けになったまま、天人の少女は呟いた。

 乱れた息を整えながら、魔理沙はその独白を聞いていた。

 一人は倒れ、一人は立っている。

 敗者と勝者の姿である。

 しかし、勝者であるはずの魔理沙の顔には達成感や喜びなど欠片も見えず、険しい眼つきで相手を睨んでいた。

 背後で二人の決闘を見守っていた咲夜もまた、魔理沙の勝利を確認しながらも油断なく敵を警戒していた。

 

「別に、私だって幻想郷に大地震を起こしたいワケじゃないの。天人の生活は退屈でねぇ。私だって地上のみんなみたいに遊びたいのよ。だから、こうやって地震の予兆を見せていれば、誰かが私を止めに来ると思ってね。そこでやってきたのが貴女達――」

 

 少女が起き上がった。

 手足を使わずに、ふわりと浮き上がって着地したのだ。

 まるで自分が敗北して倒れていた事実など存在しないかのような優雅で余裕のある仕草だった。

 

「最初は、どうにもこうにも頼りない人間だと思ったけれど、なかなかどうして……満足させてくれたじゃない?」

 

 そう言って、笑顔を浮かべた。

 喜色満面といった風で、少女特有のあどけなさまで含んだ屈託のない笑い方だった。

 しかし、その言動を顧みれば、好感など全く抱けない笑顔だった。

 魔理沙の眼つきはより一層険しくなり、歯を軋むほど噛み締めた。

 

「それだけのことで――」

 

 その声は怒りで震えていた。

 

「たったそれだけのことで、お前は霊夢の家をぶっ壊しやがったのか!?」

 

 ――魔理沙が博麗神社の倒壊を知ったのは、つい先日のことだった。

 

 天狗の新聞で、全てを知った。

 三日前に神社が謎の倒壊を起こしたこと。原因は不明。これと関連して、住人である博麗霊夢も所在不明。更に、これは関係があるのか不明だが、人里でも先代巫女が所在不明となっているという。

 短期間で驚くほど掻き集められたと分かる新聞に記載された情報と、自分だけが知る情報を統合して、魔理沙は様々な事実に行き着いていた。

 あの日、博麗神社には霊夢の母親が来る予定だった。

 そして当日、魔理沙は実際に神社を訪れている、

 あの時――霊夢の元を訪れた時、既に事は起こっていたのだ。

 原因は分からないが、神社が倒壊し、おそらく現場にいたであろう霊夢の前で母親が行方不明になった。

 それを霊夢は自分に隠していたのだ。

 事実を知った魔理沙は、慌てて博麗神社へ向かったが、そこに残っていたのは自分が見たのが幻だったのかと思えるほど無残に変わり果てた神社の跡だった。

 霊夢には会えなかった。

 事情を聞くことが出来なかった。

 しかし、一つだけ確信した。

 

 ――誰かが、何かをやった。

 ――そして、それが霊夢の、自分の親友の、大切な場所を壊したのだ。

 

 魔理沙の中で、かつてない怒りが燃え上がった。

 自分に何も言わなかった霊夢の水臭さへの怒りはもちろんあったが、それを遥かに凌駕するほどのドス黒い感情の炎が、ぶつけるべき先を探して荒れ狂っていた。

 その熱を力にして、魔理沙は幻想郷中を飛び回った。

 幻想郷で起こっている異常気象が何か関係があるとあたりをつけて、その軌跡を辿るように様々な場所を訪れて、休みなく飛び続けた結果ついにこの天界へと至ったのだ。

 この経過の途中で、咲夜が同行してきた理由は分からなかったが、すぐに気にならなくなった。

 異変の元凶である天人を前にした時、自分のやるべきことが決定した。

 

 ――こいつをぶちのめす!

 

 戦いを挑む魔理沙を、その少女は喜びすら浮かべて迎え撃った。

 敵は強かった。

 一度目は、手も足も出ずに負けた。

 敗北した魔理沙の代わりに、咲夜が勝負を挑み、彼女さえも負けてしまったのだ。

 しかし、天人の少女は敗北した魔理沙達に追撃をすることも、何かを要求することもなかった。

 ただ、失望したような冷めた目で見下ろしていた。

 魔理沙はすぐに立ち上がった。

 敗北によって意気が挫かれることもなく、悔しさと怒りに突き動かされるまま再び戦いを挑んだ。

 そして――。

 

「ふざけるなよ! お前には、霊夢に謝ってもらうぞ!!」

 

 魔理沙は勝った。

 少なくとも、決闘のルール上で勝利を収めたのは明らかに魔理沙だった。

 怒りを力にしながら、敗北から学び取る冷静さと一歩も退かない意志の強さが、魔理沙に勝利をもたらした。

 

「貴女には、もう満足したわ。さあ、次は後ろに控えている貴女よ。貴女はその白黒のように、劇的な逆転を魅せてくれるかしら? 私を、どんな形で刺激してくれるの?」

 

 天人の少女は、魔理沙を無視して咲夜にそう言った。

 自分に勝った者を認める仕草や、敗北したことへの悔しさが滲む表情など、そういった勝負が決した後に見せる反応を一切出していない。

 感情を隠しているわけではなかった。

 ましてや、堪えているわけでもない。

 本当に、何も感じていないのだった。

 彼女が見せているものは『自分が劇的に倒されたことへの満足感』――ただ、それだけしかなかった。

 

「バカヤロォォォーーーッ!!!」

 

 腹の底から絞り出すような怒号と共に、魔理沙は渾身のマスタースパークを放っていた。

 極大の魔力光が天人の少女を飲み込んだ。

 先程の勝負で決着をつけたのも、この技だった。

 破壊力という点においては、決闘のルールに配慮していた先程のものより遥かに上回っている。

 もはや、魔理沙に勝敗といった考えはなかった。

 ただ、目の前の存在を叩きのめしたいという怒りしかなかった。

 八卦炉から放出されていた魔力が尽き、光が治まっていく。

 光が消えた後には、天人の少女が立っていた。

 最初に立っていた場所から一歩も動かず、動かされず、姿勢さえ僅かにも変えずに平然と佇んでいた。

 

「――ねえ」

 

 少女が魔理沙の方を見た。

 興味を失ったものをもう一度見なければならなくなったような、酷く億劫そうな仕草だった。

 

「貴女、ひょっとして私との勝負に勝ったから、自分が私より強いって勘違いしちゃったの?」

「なんだと!?」

「本当に強い者は、勝つことも負けることも自由に選べるのよ」

 

 天人の少女は笑った。

 完全な嘲笑だった。

 

「しかし、弱い者は負け方しか選べない」

 

 渾身の一撃がダメージはおろか、服を汚すことすら出来なかった事実に、魔理沙は歯軋りした。

 先程の勝負が、相手にとって単なる遊びでしかなかったことは薄っすらと理解していた。

 悔しくはある。

 屈辱もある。

 歴然とした力の差が目の前に立ち塞がっている。

 

「だから、なんだ……っ!」

 

 魔法薬の入った瓶を数本取り出す。

 

「お前を許せないことに、変わりがあるか!!」

 

 魔法といっても、効果はほとんど爆薬みたいなものだ。当然、殺傷力も高い。

 弾幕ごっこやその亜種である決闘ルールの中では、普段は決して使わない護身用のそれを使う決意と覚悟を、魔理沙は固めていた。

 かつて、妖夢との勝負の最中で起こった感情の変化。

 濁った敵意を純粋な勝負への意欲に変えることが出来た、あの時とは全く逆の方向へ魔理沙は突き進もうとしていた。

 勝ち負けなど、もはやどうでもいい。

 ただ無性に、目の前の敵をぶちのめしたい。

 

「く――!」

「『くたばれ』とでも言うつもり?」

 

 振り下ろした魔理沙の手は空振りしていた。

 その手に握っていたはずの瓶が、いつの間にかなくなっている。

 慌てて背後を振り返れば、咲夜が魔法薬の瓶を持って佇んでいた。

 いつの間に、と口にしようとしてそれが間抜けな問い掛けだと魔理沙は気付いた。時間を止めたに決まっているのだ。

 

「貴女には似合わないわよ、魔理沙」

「返せよ!」

「大人しくこれを仕舞って、下がっているのなら返すわ」

「わたしが何しようが咲夜には関係ないだろ!?」

「あるわよ」

 

 咲夜は鼻が触れ合うほど顔を近づけて、魔理沙の瞳を見つめた。

 

「大いにあるわ」

「……勝ち目がないことくらい分かってる。だけど!」

「分かってないわよ。貴女には、こんな戦い方はして欲しくない」

「危ないから遊びだけで済ませとけってのか? わたしだってなぁ、はらわたが煮えくり返ることがあるんだよ!」

「だから、私がついてきたのよ。私が、代わりにやる為に――」

 

 瓶を押し付けると、そのまま咲夜は魔理沙よりも前に歩み出た。

 天人の少女と対峙する形になる。

 

「得意な奴がやった方がいいでしょう。こういうことは」

 

 咲夜の両手にはいつの間にかナイフが握られていた。

 鋭利な刃が、鈍い光を放っている。

 自身の弾幕にも咲夜はナイフを使う。最初の勝負の時にも使っていた。

 しかし、これはその勝負とは全く意味が違っている――と。魔理沙は直感した。

 咲夜は冷徹な殺意を持って、戦おうとしているのだ。

 

「へえ、貴女は『そういう戦い』をするつもりなのね」

 

 天人の少女は咲夜の変化を察した上で、余裕を保ったまま笑っていた。

 

「それもまた一興。せいぜい、私を楽しませて頂戴」

「先程の勝負で、貴女の身体にはナイフも歯が立たないことは分かったわ。鬼みたいな頑強さね」

「時間を操るだなんて人間には不相応な力よね。その非力さでは、天人である私の時を止めることは出来ても、生命を止めることは決して出来ないのだから」

「でも、まだ試していない箇所は多いわ。目や耳、口の中にも刺さらないのかしら?」

「うーん、それは確かに試したことはないわね。興味深いわ」

「なら、試してみましょう。得意なのよ、私そういうの」

 

 軽口の応酬を楽しむ天人に対して、咲夜の表情はもはや一ミリも動かなくなっていた。

 それが、魔理沙には咲夜の本気なのだと感じ取ることが出来た。

 咲夜は敵を殺すつもりで戦う気なのだ。

 

 ――やめろ。

 

 相手への怒りや憎しみは全く衰えていない。

 許せない、何処までもふざけた奴だと思う。

 どんなに言葉を飾って誤魔化しても、先程までの自分が相手を叩きのめして這い蹲らせてやりたいと考えていたのは間違いないのだ。

 しかし、魔理沙は咄嗟に咲夜を止めようとしていた。

 口を開いて、声を出し掛け――。

 

「やめなさい、咲夜。少なくとも、あたしの前ではね」

 

 頭上から聞こえた耳慣れた声に、魔理沙は思わず息を呑んで視線を走らせた。

 雲の上に広がる天界。そこに無数に浮遊する大地から目的の場所を選び出し、いつの間にか辿り着いていた。

 博麗の巫女が、そこにいた。

 

「霊夢――」

 

 すぐ傍に降り立った霊夢を、魔理沙は見つめた。

 霊夢もまた魔理沙を一瞥した。

 言いたいことは山ほどあった。

 

 ――心配したんだぜ。

 ――なんで、あの時わたしに隠したんだ。

 ――おふくろさんは大丈夫なのか。

 ――お前は、大丈夫なのか。

 

 あれだけ敵に対して抱いていた怒りや執着は、霊夢を目にした瞬間何もかもどうでもいいことのように消えていた。

 今、気がかりなのは霊夢のことだけだった。

 しかし、魔理沙は口を噤んだ。

 魔理沙から視線を外した霊夢が次に見据えたものが、今回の異変の犯人だったからだ。

 最も正当な怒りが、向けられるべき相手に向けられたのだ。

 

「魔理沙、ごめん。後で色々話すわ」

「……ああ、そうしてくれ。後は、お前に何もかも任せるぜ」

 

 そう答えて、魔理沙は大きく息を吐いた。

 肩から荷が降りるように、強張っていた全身から力が抜けていった。

 もう、自分がすべきことはない。

 霊夢の代わりに、敵を倒す必要も、怒る必要もないのだ。

 ただ、これから始まる戦いを最後まで見守るだけなのだと決めていた。

 霊夢が咲夜の所へ歩み寄る。

 

「代わるわ」

 

 咲夜は肩を竦めて、その場所を霊夢に譲った。

 霊夢と天人。

 二人が対峙する。

 互いが互いを敵同士であると認識しながら、二人は一切表情を変えずに相手の顔を見据えていた。

 

「あんたが地震を起こしたり、天候をおかしくした犯人ね?」

「異変解決の専門家ね。待ってたわ」

 

 天人の少女は笑いながら肯定した。

 相手が魔理沙であった時も、咲夜であった時も、そして今も。彼女は一貫して笑顔である。

 それが自分自身に抱く絶対の自信によって裏付けされた余裕であることは間違いなかった。

 

「何が待ってた、よ。まるで解決して欲しいかのようじゃない」

「異変解決ごっこは、何も妖怪相手じゃなくても良いでしょ?」

 

 怒りが再燃して、魔理沙は身を乗り出した。それを咲夜が無言で押さえ込む。

 神社を破壊された当人である霊夢を前にして、あまつさえ自らの所業を『異変解決ごっこ』などと称して笑っている。

 明確な目的も、信念もない。

 強者の行動であることを全ての根拠にして、遊んでいるのだ。

 第三者でありながら怒りをあらわにする魔理沙に反して、霊夢自身は一切の感情を表に出さないまま憎むべき敵を見据えていた。

 

「私は天界に住む比那名居の人。名前は天子よ」

 

 比那名居天子は謳うように名乗った。

 

「毎日、歌、歌、酒、踊り、歌の繰り返し。天界の生活はホント、のんびりしていてねぇ。退屈していた時に、貴女が地上で色々な妖怪相手に遊んでいるのを見たわ」

「遊んでいたワケじゃないけどね」

「特に、鬼が異変を起こした時が一番面白かったわ!」

 

 嬉々として発せられたその言葉に、霊夢の眉がほんの少しだけ動いた。

 

「あの日は一晩中退屈しなかったわ。幻想郷の何処を見ても楽しかった。最後の決闘の盛り上がりなんて最高よ! あの後の宴会には、私も思わず参加したくなっちゃったわね」

「――」

「それを見て思ったの。私も異変解決ごっこがしたいって。だから起こしちゃった、異変」

「……そう」

「ねえ、そう言えば」

「何?」

「貴女以外にもいるんでしょ? 異変を解決する巫女。貴女が負けたら、そいつも呼んできてくれない?」

 

 そう言って、天子はにっこりと笑った。

 一見すると、嫌味のない明け透けな笑顔だった。

 しかし、彼女のこれまでの言動を顧みれば、それが自らの寛容さを自負した態度なのだと理解出来た。

 自分は、周りにいる誰よりも高みにいて、見下ろしている。

 足元で何を言われても自分は許すし、だからこそ自らの行動も許される。

 ――そういった、揺るぎ無い自信と確信に裏付けされた態度だった。

 

「そうね。あたしに、勝てたらね」

 

 天子の素の言葉を、挑発とも受け取らずに霊夢は応じていた。

 淡々と、これから始まる決闘に備えて陰陽玉を周囲に浮遊させ、お払い棒を構える。

 表情にも行動にも、怒りや苛立ちは表れていなかった。

 少なくとも魔理沙には、霊夢が不思議なほどいつも通りの自然体に見えた。

 

「相手が天人だろうが変人だろうが、あたしの仕事は一つ。異変を起こす奴を退治することのみよ」

「うふふ。そうそう、その意気込みが欲しかったのよ!」

 

 天子もまた構えた。

 魔理沙の渾身のマスタースパークを受けた時も、咲夜と戦う寸前にまで行った時も、大地に突き刺したまま抜かなかった剣――緋想の剣――を構える。

 霊夢の実力を見誤るようなうぬぼれは持っていない。

 しかし、同時に自らが格上である確信もまた抱いていた。

 

「だけど、意気込みに態度が伴っていないのはいただけないわね。私を本当に退治するつもりなら、もっと必死になりなさい。感情を押し殺すことは、無我の境地とは言わないわ」

「別に、そんな境地を気取っているつもりはないわよ」

「貴女は真っ直ぐすぎるね。曲全、つまり曲がっているからこそ人生を全うできると心得よ――」

 

 そう告げる天子の姿は、天界から地上に降りて忠言を下す天人に相応しい威厳を放っていた。

 魔理沙と咲夜には、その言葉がこれまで自分のしてきたことを棚に上げた傲慢極まりない言い様だとしか感じられなかった。

 対して霊夢は、

 

「――安心しなさい。あんたのおかげで、あたしは曲がったわ」

 

 淡々と言った。

 

「はらわたが捻じ切れるほどにね」

 

 まずは決闘のルールに則って、二人は戦いを始めた。

 

 

 

 

 さとりの身体は冷たい床の上に横たえられていた。

 下に敷く布団のような物はなかった。代わりに、先代の脱いだジャケットを敷いている。

 眠っているのか起きているのか分からない、浅い呼吸を短い間隔で繰り返すさとりを、先代と青娥、そして諏訪子の三人が囲んでいた。

 

「神社なのに、まるで駆け込み寺だなこりゃ」

 

 四人がいるのは諏訪大社の内部だった。

 薄暗い室内を、蝋燭の火だけがぼんやりと照らしている。

 もちろん、無断で火を点けた物である。重要文化財に指定もされている建物の中に勝手に入り込み、火種まで持ち込んだと分かれば、すぐにでも警察がやって来るだろう。

 しかし、神社の内部の様子が外に伝わる心配はなかった。

 その外では、台風が直撃でもしたかのような風雨が荒れ狂っているからである。

 出歩くことに身の危険を覚えるほど激しい暴風雨だ。

 雨が激しく屋根と雨戸を叩き、風が木造の建物全体を軋ませている。

 屋内にいても恐怖を覚えるほどの勢いだったが、この場の者達にとってこの嵐はむしろ待ち望んだものであった。

 

「しかも、運び込まれたのが人じゃなくて妖怪なんだもんなぁ。まあ、仲間が妖怪って聞いた時点で怪しいとは思ってたよ。可哀想に、すっかり弱っちゃってまあ――」

「助かりますか、諏訪子様?」

 

 ――『諏訪子様』と来たかい。

 

 真剣な表情で訊ねてくる先代を一瞥して、諏訪子は内心で居心地の悪さを感じていた。

 初めて対面した時には気付かなかったが、こうして改めて向かい合ってみると、この人間の異質な部分が嫌でも感じ取れる。

 諏訪子を見る目が一片の曇りもない敬意に満ち、偉大な存在への畏怖が矛盾なく心の中で両立している。

 それは即ち、神への信仰であった。

 

 ――神奈子の言いたかったことが、今更になってよく分かるなぁ。

 

 諏訪子は、先代の真っ直ぐな視線を見返すことが出来なかった。

 気まずさと後ろめたさを混ぜたような気分になる。

 卑屈な言い方をすれば、彼女の視線は自分を酷く惨めな気分にさせるのだ。

 神としての力と威光を失って久しく、またそれを十分に自覚する諏訪子にとって、先代の向ける純粋な信仰は、かつての神代の栄華を思い出させると同時に落ちぶれた神の姿を嫌でも想起させるのだった。

 自分でもそうなのだ、神奈子は尚更だろう。

 

「ああ、うむ。まあ、そうだね」

 

 諏訪子は咳払いをして、なんとか神様らしい偉そうな口調で答えようとした。

 

「もうじき、幻想郷へ転移する準備が整う。安心するとよい」

 

 実際に出たのは、自分でも些かどうかと思える程滑稽な喋り方だった。

 

「ありがとうございます」

「うむ」

 

 深く頭を下げる先代に対して、半ばヤケになりながら大仰に頷いてみせる。

 こちらの心情を察しているのか、傍らでニヤニヤと笑う青娥がむかついた。

 

「嵐も大分激しくなってきたしね。ここにいても、町の住人の戸惑いや恐れが伝わるよ。転移の為の術式とかは全部事前に済ませてるんだ。あとは『機』を見るだけだね」

 

 諏訪子の説明を、理解しているのかしていないのか分からない仏頂面のまま先代は聞いていた。

 早苗以外の人間と話をするのは、実に久しぶりである。しかも、捉え方はどうあれ、相手が純粋な信仰を向ける人間であることに違いはない。

 少なくとも、神奈子ほどの拒否感は抱かなかった。

 自分の言葉に真剣に耳を傾ける先代を見て、諏訪子は少しだけいい気になっていた。

 いつの間にか気配はすれども姿が見えなくなっている神奈子や、その『機』が熟するまでいまだ少しの時間が要ることもあり、諏訪子は饒舌に語り続けた。

 

「あと必要な手順は、術式を起動する為のエネルギーを流し込んで、スイッチを入れるだけなんだ。ほら、映画であったよね。雷を使ってタイムマシンを動かすってヤツ。あ、幻想郷の住人だから知らないか」

「知ってます」

「え、マジで?」

「さすが先代様ですわ」

「もしかして、あんたも?」

「パート3まで全部観ましたわ」

「面白いよね! 続編がある映画って大抵二作目からこけるんだけどさあ――」

 

 嬉々として語ろうとした諏訪子は我に返った。

 

「あ、いや。そんなことはどうでもよろしい。つまり、そういうことだから」

「どういうことでしょう?」

「うっせー、ツッコむな! とにかく、その術式がこの神社を基点にして発動するんだよ。発動すれば、時間は掛からない。一瞬で幻想郷さ。だから、この覚妖怪もこのままの調子なら十分に間に合うよ」

 

 具体的な説明を受けて安堵する先代の傍らで、青娥が更に質問した。

 

「幻想郷には結界があるそうですが、そちらは大丈夫なのでしょうか?」

「うん、結界の性質についても事前に調べてあるよ。現と幻の境を隔てる結界だ。こういった類の結界は、昔は結構メジャーだったんだよね。抜け方は分かってる。幻想と一緒に渡ればいいんだよ」

「なるほど」

「――」

「先代はよく分かってないみたいだね。あんた、本当に巫女?」

「申し訳ありません」

「いや、そこまで恐縮しなくていいから。――わたし達は、この神社を含めた一帯の土地ごと幻想郷に転移するんだ。といっても、物理的に移動するわけじゃない。この諏訪大社が建てられる遥か昔から、洩矢神自体は存在し、人々の信仰も存在していた。人の歴史には残っていないが、神の時代でわたし達を祀る為に建てられた最古の神社が、この土地には記憶されている。今の世では幻想の存在となった場所として、結界を通り抜けるんだよ」

「幻想入り――」

「へえ、そう呼ぶのかい。ま、つまり大昔に失われて忘れられた建物や土地と一緒に『幻想入り』すんのさ。昔は、神社も湖ももっと小さかったからね。場所取り的な意味でも、あまり迷惑にはならないと思うよ」

 

 一通り喋り終えた諏訪子は、大きく息を吐いた。

 名残惜しげな表情が浮かんでいる。

 二人との会話が終わったことを惜んでいるわけではない。

 話を終えること自体を惜しんでいた。

 話している内に気付いていたのだ。

 機は既に熟している。

 時間だ。

 この世界から去る時間が、とうとうやって来たのだ。

 

「――じゃあ、そろそろ行こうか」

 

 顔を上げて、諏訪子は言った。

 潔い決断だった。

 迷いはない。しかし、何処か寂しげな笑みが口元に浮かんでいた。

 諏訪子は『よっこいしょ』と立ち上がった。

 そして、何かに気付いたかのように視線が動いた。

 先代の視線が同じ方向へ向けられたのは、ほとんど同時だった。

 近づいてくる気配を感じたのだ。

 雨音が激しく、常人には足音など聞こえなかったが、神と巫女の二人には捉えることが出来ていた。

 足音が部屋の前まで近づき、次の瞬間勢いよく雨戸が開かれた。

 

「早苗!?」

 

 ずぶ濡れで佇んでいる来訪者の顔を見て、諏訪子は驚愕の声を上げた。

 

「ど……どうしたの、その格好?」

 

 自分はなんて間抜けな質問をしているんだ、と諏訪子は思った。

 もっと他に訊くことはあるはずだった。

 早苗の服装は部屋にいた時の寝巻き姿から着替えてはいたものの、何故かセーラー服姿だった。

 雨具を身に着けていない理由くらいならば分かる。流石に私室に雨合羽を常備はしていないからだ。両親に気づかれず家から出る為に、玄関を通るわけにはいかない。

 おそらく嵐の中を走り通しだったのだろう、早苗は息を荒げながら恥ずかしげに笑った。

 

「あの、雨……凄いし。ずぶ濡れになることは分かってましたから、汚れてもいいような服を選んでたら自然とこれに……ははっ、馬鹿ですよね? もう着ることもないのに、お気に入りの服とか惜しんじゃって……」

 

 諏訪子は自分が問うまでもないことを察した。

 早苗がここにいる以上、全ての答えは出ているのだ。

 それでも、確かめる為に動揺を抑えながら口を開いた。

 

「……早苗、あんた自分が何をしているか分かってるの?」

「はい。私は、幻想郷へ行きます」

「落ちぶれた神様と一緒に、この世界から消えるってんだね? 家族も何もかも放って」

「違います」

「違う?」

「諏訪子様達と一緒に行くんじゃありません。私が、幻想郷に行く為の船に乗るんです」

「両親はどうする?」

「手紙を残してきました」

「手紙って……そんなもんで後悔しないのかい?」

「しますよ。きっと後悔します」

「だったら――!」

「どっちを選んでも後悔します! だったら、私の意思で選んだ道を行きます!!」

 

 早苗は震える声で叫んだ。

 頬を流れるものが濡れた髪から滴る雨水なのか、涙なのか、諏訪子には分からなかった。

 しかし、その揺れる瞳に確固たる意志が宿っていることだけは理解出来た。

 諏訪子の顔が一瞬だけ歪んだ。

 それこそ、今にも泣き出しそうな表情だった。

 

「幻想郷へ、行こうと決めた理由を訊いてもいいかい?」

「教えません」

「ケチだね」

「だって、私の勝手じゃないですか。諏訪子様達の為じゃなくて、自分の為に幻想郷へ行くんだから、何故行きたいかなんて私の勝手です。諏訪子様には教えません」

「やれやれ、神様を敬わない風祝だこと」

 

 二人はぎこちなく笑っていた。

 お互いに苦悩と迷いを抱えている。

 この選択が正しいかどうかなど、今は分からない。

 そもそも、相手に受け入れられているのか――。

 しかし、二人は笑い合っていた。

 かつて、早苗がまだ子供だった頃に浮かべていた、懐かしい笑顔だった。

 

「仕方ない」

 

 言葉とは裏腹に、諏訪子は嬉しそうに笑いながら早苗に歩み寄った。

 

「幻想郷行きの便に駆け込み一人追加だね。危ない真似をするもんだ」

「ギリギリまで悩みましたから。それでも、これが私の答えです」

 

 諏訪子は、自分よりも背の高い早苗を母親のような包容力で抱き締めた。

 身体が濡れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。

 数秒間、早苗の鼓動と冷えてしまった体温を感じ取って、身体を離した。

 

「――よしっ! 早苗の力があれば機を計る必要なんてないけど、タイミングも丁度いい。早速、術式を起動するよ。早苗も手伝って。分かるよね?」

「はい、もちろんです。昔、教わりましたら」

「英才教育はしとくもんだ」

 

 諏訪子の軽口に、早苗は苦笑した。

 室内に足を踏み入れ、この段階でようやく先代達の存在に意識を向けた。

 横たわるさとりを見て、さすがの早苗も驚いていた。

 

「さとりさん!? ど、どうしたんですか!?」

「わたし達と同じような理由で弱ってるんだよ。症状としては、こっちの方が深刻だけどね。でも、それもすぐに解決する」

 

 諏訪子が簡単に状況を説明した。

 それでも早苗は心配そうにしていたが、さとりを救う為にも急いで幻想郷へ行く必要があることは理解したようだった。

 動揺を抑えて、諏訪子を見つめる。

 

「分かりました、急ぎましょう。それで、神奈子様の御姿が見えませんが――」

「そういえば、あいつ何してるんだ? 早苗が来たことにだって気付いてるはずだけど」

 

 室内を見回した諏訪子は、早苗の開けた雨戸から外へ視線を投げた。

 夜の暗闇に雨が降りしきって、かなり視界を悪くしている。

 その中にぼんやりと人影が浮かんでいた。

 

「――神奈子?」

 

 諏訪子の言葉を聞いて、早苗もようやく気付いた。

 どしゃ降りの中で、神奈子は無造作に佇んでいた。

 風邪をひいてしまいますよ、と言おうとして早苗は口を噤んだ。

 自分が間抜けなことを言おうとしていることに気付いたからではない。

 激しい風雨の中にいながら、神奈子の服は濡れているようにも煽られているようにも見えなかった。

 それがハッキリと分からないほど視界が悪いという理由もあるかもしれない。

 しかし、まるで神奈子がこの嵐の影響を全く受けていないかのように――あるいは、溶け込んで同化しているかのように見えた。

 

「話はまとまったようだね」

 

 神奈子が呟いた。

 嵐のせいで酷く聞き取り辛かったが、確かに聞こえた。

 

「神奈子様……?」

「早苗、よくぞ決心した。諏訪子は色々と言っただろうが、ここまで来れば腹を括るだろう。そいつはな、お前の面倒を見る責任を負いきれなかっただけなのさ」

「……神奈子、何してんのよ?」

「今更、早苗の好きに生きろなんて無責任なことは言わないよ。お前の力と信仰は、間違いなく神の助けとなる。自らの思うまま、使命を全うするがいい。お前の献身に神は感謝し、報いるだろう」

「何を仰っているんですか……神奈子様、こちらへお越し下さい」

「そうだよ。術式を起動するのに、あんたの協力が必要なんだ。ぐだぐだやってないで、さっさと手伝いなよ」

「早苗が来た。私の力は必要ない」

 

 神奈子の返答に、諏訪子と早苗は顔色を青褪めさせた。

 傍でやりとりを見守っていた先代まで、不穏を察知して眉を顰めていた。

 神奈子が何を言わんとしているのか、ぼんやりと理解し始めたからだった。

 

「私は、幻想郷へは行かない」

 

 場に渦巻いていた不穏な気配を、明確な形にして神奈子は答えた。

 

「……ふざけないでよ」

 

 諏訪子が押し殺した声を洩らした。

 

「今更、何言ってんのよ! 早苗が来てくれたんだよ! それなのに、今更になって……っ!」

 

 今更――。

 本当にそうか?

 心の何処かで、神奈子のこの選択を予想していたのではないか。

 今感じている理不尽さの陰に、妙な納得を抱いているのではないか。

 神奈子がそう考えるのも仕方がない――と、理解出来てしまう自分がいる。

 

「何故ですか、神奈子様!?」

 

 早苗の悲痛な問い掛けに、神奈子は笑った。

 笑っているのが分かった。

 いつの間にか、神奈子の姿がハッキリと見えるのだ。

 嵐は止んではいない。しかし、神奈子の周囲だけに雨も風も届いていなかった。

 何かが風雨を遮っている様子ではない。

 まるで、雨が神奈子を避けているかのように、非自然的な軌道を描いて地面に落ちている。

 

「……少し前の私なら、きっと頷けただろう」

 

 神奈子の笑い方は空虚で自虐的なものだった。

 

「幻想郷に行くことに疑問はなかった。いや、行くことを拒む理由がなかった」

「まるで最初から乗り気ではなかったって聞こえるね」

「ああ、その通りだよ」

「自分勝手な奴だ。ただ流されるだけで、土壇場になって文句を言うなんて情けないんだよ」

「ああ、その通りだ。情けないんだよ」

 

 ほとんど睨み合うように、二人は視線を交わした。

 

「自分がな、情けなくって、惨めで……そんな自分からずっと目を逸らしてきたんだよ」

「今更弱音なんて――」

「お前は弱音を吐く気力さえ捨てちまったんだろう。そうなんだろうが、諏訪子!」

 

 責めるように叫ぶ神奈子の反応に、諏訪子は一瞬たじろいだ。

 神奈子の言動に対して、心の何処かで理解を示す自分がいる。

 そのもう一人の自分が、神奈子の糾弾を受け入れていた。

 

「諦めたんだ、お前は。それで楽になったんだろう? 自分は潔く引き際を弁えたと考えながら、足掻く私を見苦しいと蔑んでいたんだろう?」

「――」

「お前の私を見る目には、そういう色があったよ」

「……不快に感じていたなら、謝るよ。だけど、認めるべきだろう。もう、この世界は神なんて必要としていない」

「だから、ワケの分からん田舎に閉じ篭って静かに過ごそうというのか。老い先短い人間のように」

「それが不満なのかい?」

「お前はどうなんだ? 幻想郷へ行って、何をする? 何かを成そうという意欲はあるか? いや、この世界にいた時とは違う、新しい目標は持っているのか?」

「それは――」

「同じじゃないか。場所が違うだけだ。お前の方がよほど流されているだろうが。幻想郷に行けなくても、お前は一向に構わなかったはずだ。投げやりだった。だから、早苗の力を借りようと思わなかったし、突き放そうとしていた。お前はここで消えるつもりだったんだ!」

 

 早苗は思わず諏訪子の方を見つめた。

 諏訪子は唇を噛み締めて、震えていた。

 神奈子の決め付けに対して、否定の言葉が出てこなかった。

 図星だったのだ。

 

「幻想郷へ移り住んで、そこでなけなしの信仰を集めながら細々と生き永らえるだけなんて、私は耐えられない。確かに今更かもしれないな。だけど、私はようやく決めたよ。諏訪子、お前と無気力な余生を共にするなんて御免だ。心中と一緒なんだよ」

「早苗が……いるでしょう」

 

 諏訪子は必死に声を絞り出した。

 

「わたし達と共に来てくれるこの子の為に、この子の神で在り続けることは出来ないの?」

「人の親のようにか?」

 

 神奈子は嘲笑で返した。

 

「お前には早苗との血の繋がりがある。情が生きる理由にもなるだろう」

「あんたは違うっていうの?」

「私は、神だ」

「だからなんだ? 風祝である早苗を、家族とは思えないって言うのか!?」

「人の親のようには振舞えん。私が早苗に見せることが出来るのは、神としての姿だけだ」

 

 ふと、早苗は気付いた。

 嵐が弱まっている。

 あれだけ激しかった風雨が、いつの間にか静まりつつあるのだ。

 しかし、奇妙な感覚だった。

 ただ単純に嵐が治まり始めたといった様子ではない。

 依然、空には月を完全に覆い隠すほど分厚い黒雲が満ちている。時折、稲光すら見えるのだ。

 そこから降り注ぐはずの雨や風――凶暴な自然の力だけが、地上ではなく別の場所へ消えている。

 ならば、一体何処へ――。

 

「――待て、神奈子」

 

 諏訪子も同じく異変に気がついたらしい。

 戦慄に震えながら、唾を飲み込んだ。

 

「お前、何する気だ?」

「私は最期まで、何かを成して死ぬ」

 

 答える神奈子の顔には、壮絶な覚悟が刻まれていた。

 

「人が神を忘れ去るというのなら――」

 

 一瞬、音が完全に消えた。

 

「――思い出させてやる」

 

 爆音。

 そして、衝撃。

 文字通り、嵐の前の静けさだった。

 押さえ込まれていた静寂は、まるで風船が破裂するように凄まじい音を立てて破られた。

 突然発生した衝撃波にも近い突風を受けて、諏訪子達は建物の中へと吹き飛ばされた。

 治まりかけていた嵐が、神奈子を中心にして再開したかのようだった。

 上空の雲から降り注ぐものではない。何処から吹いているのかも分からない風と雨が荒れ狂い、すぐ傍で稲妻が轟く。

 狂乱は、しかしすぐに治まった。

 

「神奈子!」

 

 諏訪子が吹き飛んだ雨戸から再び外を見た時、既に神奈子の姿は消えていた。

 

 

 

 

 まるで嵐が去った後のようだった。

 いや、事実嵐が去ったのだ。

 嘘のように雨と風の止んだ外を眺めながら、諏訪子は呆然と佇んでいた。

 水浸しの地面だけが嵐の余韻を残している。

 小雨すら降っておらず、風は未だに吹いているが先程と比べればそよ風も同然だった。

 諏訪子は、神奈子が立っていた場所を呆然と見つめていた。

 突然、何かに気付いたかのように頭上を振り仰いだ。

 夜空を覆う黒雲が、異常な動きを示していた。

 

「……お前の」

 

 諏訪子は振り返った。

 先程の突風からさとりを守っていた先代を、激しく睨みつける。

 

「お前の――!」

 

 言いかけ、しかし堪えるように必死で口を噤んだ。

 

 ――お前のせいだ。

 

 その言葉を口にする前に、我に返ったのだ。

 途中で止めたのは、理不尽な言い掛かりだと思ったからではない。

 神が人に責任を転嫁するなど、あってはならないことだからだ。

 しかし、思うことは止められなかった。

 

 ――何故。

 ――何故お前は今更、神奈子の前に現れたんだ。

 ――何故、もっと早くではなく、もっと遅くでもなく、今になって現れたんだ。

 ――お前が、神奈子に過去を思い出させてしまった。

 ――お前の信仰が、神奈子に神としての自覚を蘇らせてしまった。

 ――何故、もっと早く現れて神奈子を支えてくれなかった。

 ――何故、全てが終わった後の新たな出会いとして現れてくれなかった。

 

 諏訪子自身にも整理のつかない、混沌とした胸の内が瞳に表れていた。

 突然の怒りを向けられて、先代は理由も分からず呆然としていた。

 所詮、八つ当たりなのだ。

 神が理不尽を人のせいにする。

 笑い話にもならない。

 顔を背け、震える拳を握り締めた。

 

「諏訪子様、神奈子様は一体何処へ……?」

 

 早苗の問い掛けに、諏訪子は苦渋の表情で答えた。

 

「人だ」

「え?」

「とにかく人の多い場所だ。町中……いや、あの様子だともっと大きな都心まで行くつもりか」

「この嵐が治まったことと、何か関係があるんですか?」

「治まったんじゃない。神奈子は『乾』――天を創造し、風雨を操る力を持った神だ。あいつは、あの嵐と同化してここから移動したんだ」

 

 早苗と、傍で聞いていた先代も絶句した。

 天を動かす――想像を絶する神の力だった。

 現世で信仰と共に力を失いつつあるという話が、嘘のように思える。

 

「だけど、嵐なんてずっと続くもんじゃない」

 

 諏訪子は言った。

 

「元々、夜明けまでに治まるはずだったんだ。嵐が止めば、神奈子も力尽きる」

「それは、どういう――」

「死ぬ気なんだよ、あいつは」

 

 再び、絶句。

 嫌な沈黙が流れた。

 嵐も止み、先程までの騒音とは打って変わって神社は静寂に包まれている。不気味ですらあった。

 早苗も先代も、言葉を発することが出来なかった。青娥は最初から会話に加わる気はないらしい。

 神奈子の取った行動は分かった。

 では、どうするのか?

 どうすればいいのか?

 二人はじっと諏訪子の言葉を待った。

 

「――ごめんよ、早苗」

 

 俯いて考え込んでいた諏訪子が、おもむろに顔を上げた。

 

「こんなことになったのは、わたしが中途半端だったせいだ。お前の家族にも、お前の神様にも、なれそうにないよ」

 

 悲壮な決意が浮かんでいた。

 

「諏訪子様、何を……?」

「わたしは、神奈子を止めに行く」

「止める?」

「あいつは、残った力を全て使い切るまで暴れるつもりだ。狂える神は災害と同じさ。放っておけば、きっと大勢の人間が死ぬ」

「そんな、どうして……」

「いいかい? 早苗はこのまま術式を起動して、そこの巫女達と一緒に幻想郷へ行くんだ。準備はしてある。早苗一人でも十分やれるはずだ」

「……無理です」

「わたしは一緒にいてやれない。神様としての責任があるからね、それを果たさなくちゃ」

「無理です! 私一人なんて――!」

「やるんだ、一人で! お前は、わたし達がいなくても幻想郷で生きていくだけの意義を見出したんだろう!?」

 

 早苗は泣き出しそうな表情で、それでも歯を食い縛った。

 突然の別れだった。

 全て、上手くいくと思っていた。

 それは諏訪子も同じだった。

 しかし、事態は変わってしまった。

 早苗も覚悟していなかったわけではない。

 事前に諏訪子から言われた通りだ。自らの意思で、幻想郷へ行く決意を固めた。

 ――しかし。

 あんまりではないか。

 こんな突然の別れだなんて、理不尽すぎるじゃないか――。

 

「……本当に、ごめん」

 

 嘆きたいのは諏訪子も同じだった。

 それを堪えるように、帽子のツバを深く下げた。

 踵を返す。

 外に向かって歩き始めた。

 行けば、二度と帰ってこない。

 それを直感的に理解しながら、早苗はその場から手を伸ばすことしか出来なかった。

 しがみ付いてでも、諏訪子を止めることが出来なかった。

 空中で彷徨う手が、小刻みに震えていた。

 その手の先で、諏訪子の背中がどんどん遠ざかっていく。

 

「お待ち下さい」

 

 そんな早苗の葛藤を察したのか、先代が代わりに諏訪子を呼び止めた。

 

「私も一緒に行きます」

「何故?」

 

 諏訪子は端的に訊ねた。

 

「神奈子様を止める為の力になれます」

「だから何故?」

「――」

「なんで、あんたがそこまでするのさ?」

「それは……神奈子様を無事に連れ戻すことが出来れば、皆が助かるからです」

「つまり、あんたは神奈子やわたしや早苗が全員で幻想郷へ行けるように助けようとしてくれているワケだ」

「はい」

「それは、何故?」

「私が、そうしたいからです」

「わたしと一緒に来れば、間に合わなくなるよ。その覚妖怪がね」

「――さとりが!?」

「幾ら猶予があるといっても、さすがに夜明けまではもたないだろうよ。悠長にしている暇はないと思うけどね。少しでも早く元の場所へ戻してやらなくちゃ、本当に死んじまうよ」

「――」

「そいつの命を懸けてまで、わたし達を助ける理由があんたにはあるかね?」

 

 先代は答えることが出来なかった。

 固く動かない表情の下に、見て取れるほどの葛藤が渦巻いている。

 しかし、結局先代はそれ以上何も言えず、行動することが出来なかった。

 早苗と同じように、口を噤み、その場に佇むだけになってしまった。

 諏訪子はその様子を見ても責めることはなく、逆に何処か安心したような笑顔を浮かべた。

 

「幻想郷に着いたら、早苗のこと世話してやってね。わたし達への貸しはそれで帳消しってことでいいよ。ありがとう」

 

 努めて明るく言うと、諏訪子は外へ跳び出した。

 文字通り、破られた雨戸から外へ跳んだのだ。

 水で多少ぬかるんでいるとはいえ、着地する場所は固い地面のはずである。

 しかし、諏訪子の両足は地面を踏み締めることなく、まるで水面に沈むように飲み込まれていった。

 あっという間に全身が地面に潜り込み、諏訪子は姿を消した。

 彼女もまた行ってしまったのだ。

 残された早苗と先代は、ただ呆然と神のいなくなった神社で佇んでいた。

 

 

 

 

 神奈子様を追い詰めたのは――私か。

 

 諏訪子様の言いたいことは分かっていた。

 神奈子様との会話や、私に向けた目付きで理解出来たのだ。

 具体的に何がどう作用したのかまでは分からない。だが、私の向ける何かが神奈子様の心を揺り動かした。とても悪い方向に。

 態度か、視線か、それとも喋り方が悪かったのか。

 ――いや。

 きっと、この知識のせいだ。

 私の中にある、この世界とそこで生きる住人への先入観が何かを起こしたのだ。

 この世界の誰を前にしても、私の視線はまず偶像への印象を通して相手を見てしまう。

 

「――東風谷早苗」

 

 諏訪子様がいなくなった後、しばらくして私は沈黙を破った。

 我に返った早苗が、私を見つめる。

 

「大変申し訳ないが、時間が押している。術式の起動を頼む」

 

 横たわるさとりの傍に歩み寄りながら、私は感情を殺して言った。

 後ろめたさのせいで、早苗の顔を見ることが出来なかった。

 

「わ、分かりました……」

 

 諏訪子様を追うことは出来なかった。

 言われたとおりだ。

 彼女を助けることを選べば、さとりが危なくなる。

 さとりの命を天秤に掛けるなんて、私にはそんなこと――出来ない。

 

「よろしいのですか?」

 

 私の葛藤を見透かしたかのように、青娥が訊いてきた。

 先程までのやりとりの中でも、まるで興味がないとばかりに傍観に徹していた彼女が、何故今になって私に問い掛けてくるのかは分からない。

 この事態を唯一深刻に捉えていない彼女は、微笑みながら言った。

 

「神様を説得することは難しいかもしれませんが、力づくでならなんとか出来るかもしれません。要は、幻想郷へ連れ込んでしまえばよいのです。早苗さんが術を行使出来るというのなら、無理矢理にでもこの場へ連れ戻し、術式を起動してしまえばよいでしょう」

「……私の力を過大評価しすぎだ。神の力に勝てるとは思えない」

「そうでしょうか? やってみなければ分かりませんわ」

「賭けに出ることなんて出来ない」

「さとり様が心配だからですね?」

「そうだ」

「しかし、全て上手くいく可能性はある」

「無理は出来ない。さとりの命が懸かっている」

「確かに困難な状況です。しかし、先代様。安全策を取って、諦めてしまってもよいのですか? 貴女が他人よりも優れた力を持っているのは、他人には出来ないことを成す為だとは思いませんか?」

 

 青娥の囁きは、まるで悪魔の誘惑だった。

 いや、それとも迷う私を正しい答えに導いてくれているのか。

 本音を言えば、諏訪子様も神奈子様も助けたい。言葉ではどう言っても、早苗の傍には二柱の神がいた方がいいのだ。

 だけど、それはさとりの命を天秤に掛けるほど価値のある理由か――?

 

「それほどの理由なんですよ」

 

 自問に対して答えたのは、私自身ではなくさとりだった。

 

「さとり! 気がついたのか!?」

「さあ? 意識があったりなかったり曖昧ですけど……とりあえず、色々と話は聞こえていました」

 

 ほとんど囁くような、掠れた小さい声だった。

 鼻先が触れ合うくらい顔を近づけて、口元で耳を澄ませば、ようやく私にだけ聞こえるくらいだ。

 しかし、受け答え自体はしっかりしている。

 思わず手を胸に抱くように握り締めた私を、仰向けになったままさとりは見上げていた。

 

「私は大丈夫です。さあ、悩んでないでさっさと行きなさい」

「……馬鹿なことを言うな」

「貴女の行動に巻き込まれることには慣れましたよ。仕方のない人ですね。あとで殴らせてもらいますからね」

「さとり、真剣な話をしているんだ!」

「じゃあ、これまでは真剣じゃなかったんですか?」

 

 私は思わず言葉に詰まった。

 

「違うでしょう。貴女は何時だって真剣だった。遊び半分に他人と関わろうとしなかった」

 

 さとりは弱々しく笑った。

 

「私は心を読む妖怪ですよ。本心を隠したって無駄です」

 

 ――分からないんだ。

 私にも、時々自分がよく分からない。

 いや、自分のことだからこそ分からない。

 そもそも、この世の中に自分のことを分かっている人間なんているのか。

 分からないからこそ、これまで精一杯やってきたはずだった。

 だけど、今回はそれが裏目に出てしまった。

 私のせいだ。

 私の頭の中に『東方Projectのキャラクター・八坂神奈子』という知識がなかったら、こんなことにはならなかったかもしれない。

 私が私でなければ、余計な問題なんて起こらなかったかもしれないんだ。

 

「それは、何を基準とした『余計』なんですかね。それこそ、ゲームの話ですよ」

 

 だけど、この世界にとって私は――。

 

「私なりにこの世界のことを色々と考察していました。貴女には、どうせ難しいから理解出来ないでしょうけどね。

 その上で、一つだけ結論が出せました。仮に、この世界がゲームの中の世界だとしても――私達が平面に描かれた創造物だったとしても――私にはどうでもいい、ということです」

 

 さとりは断言した。

 

「何故なら、貴女がいるからですよ。貴女があまりにも好き勝手に私の周りを引っ掻き回すから、地底で止まっていた私の周りの物事を動かし続けるから、こんな破天荒な話が定められた物語だなんてとても思えないからです」

 

 ……さとり。

 

「自分の前世の記憶が、現実を見る時にはフィルターになってしまう。その苦悩は分かります。

 でも、だからこそ貴女は目の前の相手を現実として捉える為に、積極的に触れ合おうとしてきた。貴女は確かにこの世界で生きている。だから、思うままに行動し、縁を紡げばいいのですよ。私とそうして出会ったように」

 

 私の、思うままに……か。

 

「……まあ、浅慮なのはいただけませんがね。貴女が馬鹿なのは、もう諦めてます」

 

 そう、小馬鹿にしたような目付きで私を皮肉るさとりは、弱っていてもいつも通りの姿に見えた。

 私の手を、さとりが握り返してくる感触が分かる。

 不安になるくらい弱々しいけれど、確かに分かる。

 まるで私を励ましているみたいだった。

 

「励ましているんですよ。本当、情けない人ですね。普通、こういう葛藤は自分で答えを出すものなんじゃないですか、小説の主人公みたいに。覚妖怪に心を読んでもらって答えを出すなんて、チートですよ。ズルです」

 

 ははっ、まったくだ。

 

「……でも、貴女がこれまで頑張ってきたのは知ってますからね。手助けしたくなりました」

 

 さとりは少し恥ずかしそうに笑って、

 

「友達ですからね」

 

 そう、言ってくれた。

 ――ありがとう。

 そして――決めたよ、さとり。

 

「さとり」

「はい」

「行ってくる」

「どうぞ。適当に頑張ってきてください」

「ここで待っていてくれ。必ず戻る」

「この世界が壊れたって、貴女の近くにいますよ」

 

 体力を消耗したのか、さとりは瞼を閉じた。

 まだ意識が残っているのかどうかも分からない。

 さとりの青褪めた顔色を見ていると、不安がぶり返してくる。

 いや……これは、恐怖か。

 私はさとりを喪うことが死ぬほど怖いんだ。

 自分一人だった時は、こんなに怖い思いをしたことはなかった。

 どんな危険な目に遭っても、その終わりは自分自身の死で完結させることが出来た。

 だけど、今は違う。

 私の行動とその結果で、さとりが死ぬかもしれない。

 それがたまらなく怖い。

 何よりも重い。

 だけど――。

 

「諏訪子様を追う」

 

 私は迷いを完全に振り切るように、自分の決意を言葉として口にした。

 

「神奈子様を止める」

 

 早苗が驚いた表情で私を見つめた。

 青娥が満足そうに笑っている。

 だけど今は誰かの為でも望みでもなく、何よりも私自身の意思で――!

 

「私は、往く」

 

 後悔は、結果が出てからすればいい。

 私は握り続けていたさとりの手を、そっと解いた。

 最後まで触れ合っていた人差し指が名残惜しげに離れた。

 

「早苗」

「は、はい」

「私が二人を連れ戻すまで、術の準備をして待っていてくれ」

「……はい! 御二人を、よろしくお願いします!」

 

 私は頷いた。

 さて、決意はあれども問題は山積みだ。

 まず、どうやって諏訪子様達に追いつくか――?

 

「先代様。さすがの貴女でも、足で追っては間に合いませんわ」

「青娥?」

「嵐と同化したという八坂神奈子の移動速度と距離。あれでは台風を追うようなものです」

「そうか……」

「なので、私が力を御貸ししましょう」

「……いいのか?」

 

 私は思わず訊ねていた。

 彼女の考えだけは、未だによく分からない。

 目の前の事態に対して傍観を選ぶのは、私達とは違って幻想郷へ行くことにそこまで執着してないからかもしれないが、だったら本当の目的が何処にあるのか、私には見当もつかなかった。

 私の行動を促したのは、決して神奈子様達を助ける為じゃないことくらいは分かるが――。

 

「最初に申しましたわ。私、貴女が何を成すのか見たいのです。その為の助力は惜しみません」

 

 子供みたいに楽しそうに笑う青娥。

 ……まあ、いいか。

 彼女の協力が凄く助かるのは間違いないわけだし。

 

「さあさあ、私に命じてください。大丈夫、御期待は裏切りません」

「分かった。考えはあるのか?」

「もちろんです」

「なら助けてくれ、青娥」

「あんっ、先代様にお願いされちゃった! ……ちょっと快・感」

 

 ……ごめん、今回はギャグ挟んでる余裕ないの。

 真面目にお願いしますよ、青娥さんんっ!!

 

「あの嵐の向かっている先は予測がつきますわ。大丈夫、十分に追いつけます。なので『出陣』の前に――こちらを」

 

 そう言って、青娥は一着の服を取り出した。

 見慣れた紅白の色合い。

 

「やはり、貴女の戦いには相応しい装束でなければ」

 

 それは、この世界に来て以来袖を通していなかった私の巫女服だった。

 

 

 

 

 朦朧とした意識の中で、さとりは思った。

 

 ――この世界は何処か曖昧だ。

 

 この世界が『東方Project』というゲームを基盤にして成り立っているという考えも、決して否定出来ない。

 外の世界に来て、幻想郷でならば知るはずのないことを知るほどに思う。

 現実に立っている世界なのに、酷くチグハグな箇所が多い。

 逆に、先代の記憶にあるだけの世界の方が、何処までも綿密な理屈の上に成り立っているのだ。

 現実の世界を突き詰めれば、どんどん曖昧な幻想となり。

 幻想の世界を突き詰めれば、どんどん強固な現実となる。

 この世界の曖昧さは、まるで物語の焦点が当たらない部分が一行だけの簡潔な文章で表現されている書き物のようだと思った。

 

 ――ならば、物語の主役として最も運命を背負わされているのは、きっと。

 

 自分が生きるだけならば、この世界の真実などどうでもよかった。

 仮に定められた運命があったとしても、大して不満は感じない。

 帰る家があり、友人が傍にいる今の生活に十分満足している。

 わざわざ運命に反逆するほどの理由はない。

 だけど。

 

 ――この世が一つの劇場に過ぎず、彼女が物語を進める為の舞台装置や道化の役だというならば。

 

「せめて……貴女には、悔いのない自由な選択を……」

 

 切実な想いを秘めた言葉は、しかしあまりにも弱々しく、誰にも聞こえずに消えた。

 

 

 

 

 ――その夜、諏訪市に住む者達の一部が異常に気が付いた。

 

 深夜まで起きていた者。

 あるいは、途中で目を覚ました者。

 彼らは、突然始まった嵐が、同じように突然止んだことに気付いて、思わず外の様子をうかがった。

 最初、視界に映るものは普段から見慣れたものばかりだった。

 激しい雨に濡れ、強い風に荒らされてはいたものの、いつも見る町の風景、いつも見る山々や諏訪湖の様子に違いなかった。

 やがて、誰かが気付いた。

 それは空の異常だった。

 

「なんだぁ、ありゃあ……」

 

 誰かが、あるいは誰もが、呆然と呟いた。

 嘘のように唐突に止んだ雨が、先程まで確かに降っていたことを証明するように、夜空には濃厚な雨雲が広がっていた。

 しかし、その雲の形が、動きが、明らかにおかしい。

 諏訪市の上空全体を覆うほど巨大な黒雲。

 それが面積はそのままに、細長く伸びていた。

 見上げる住人の誰もが理解し難い。例えるならば『黒い飛行機雲』と表現するのが一番分かりやすいかもしれない。

 

 ――何かが、雨雲を率いて飛んでいる。

 

 その『何か』が飛ぶ先に雲が引っ張られ、細く、長く伸びていくのだ。

 真っ直ぐではなく、うねるような不規則な軌道は、空を這う巨大な蛇を連想させた。

 黒い雲で形作られた蛇だ。

 その体のあちこちでは、雷鳴と共に無数の稲妻が走っている。

 蛇の頭は、山の向こう、地平の彼方へ行こうとしていた。

 

 ――これは異常気象なのか。

 ――まさか、神の仕業なのか。

 

 人々の恐怖と不安は錯綜した。

 その混乱の最中を、今度は地中から何かが通り抜けた。

 

「こ、今度は何だ!?」

「地震かぁ!?」

 

 空の異常の後に起こったのは、地の異常だった。

 突然、地面が揺れたのだ。

 しかし、それもまた、ただの地震と見るには不可解な部分が多かった。

 揺れたのは、ほんの一瞬だけである。それこそ、まるで通り過ぎるように地震は短時間で治まった。

 いや――文字通り『通り過ぎた』のだ。

 個人では把握出来ない全容。機械による計測結果を見た者だけが、その非科学的な現象をとりあえずは把握出来ただろう。

 地震の震源は、諏訪市を横断するように移動していた。

 そして、『それ』が向かう先は、空の『何か』が向かう先と同じ方向だった。

 空を飛ぶモノと、地中を通ってそれを追うモノ。

 いずれも、凄まじい速さだった。

 人智を超えた現象であり、存在だった。

 それらが向かう場所は、諏訪市を囲む山々を越えた先――より多くの人が住み、より高度な文明化が進んだ都会。

 その中心だった。




<元ネタ解説>

・雷を使ってタイムマシンを動かすってヤツ。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズのこと。諏訪子の言ったシーンは第一作目のクライマックスと思われる。三部作で完結。
先代録の世界では実写映画は、主人公の前世と同じように実在する。よって「コマンドー」も実在する。しかし、洋画の場合は吹き替えのパターンが複数あるので、主人公の肖った部分に気付いている者はいない。

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