東方先代録   作:パイマン

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風神録編その七。


其の四十六「開始」

 人を食らうのは獣や妖怪ばかりではない。

 神もまた人を食らうのだ。

 古代、人命は飢饉や災害で容易く失われるものであった。

 生命は、気まぐれな自然が与えるもので潤い、自然から奪われることで干上がった。

 かつて、自然が起こす災害は神の力によるものだったのだ。

 まだ人の力が弱かった時代。彼らを育み、守ったのは神の力であり――また同時に襲い、脅かしたものも神の力だった。

 絶対的な力に対して、人間は食物を、動物の命を、時には自らの命さえも捧げ祭った。

 生贄に選ばれた人間達は、ある者は理不尽に選ばれた犠牲として、またある者は尊崇する神への奉仕として、自らの命を捧げられた。

 かつて、人は神を心から敬い、それ以上に畏れていた。

 人は神に抗うことは出来ない。

 だからこそ、人は神を畏れる。

 何の前触れもなく襲い来る自然の猛威の陰に神の力を見て、その理不尽に嘆き、怒り、そして畏れる。

 何故なら、神は気紛れだからだ。

 奪うも与えるも、神の意思一つ。

 ささやかな奉仕に多大な見返りを与えることもあれば、どれ程深い嘆きと献身があっても無慈悲に奪われる時もある。

 しかし、人が神に逆らうことなど出来ない。

 それは天上に弓を引くに等しい。

 人の放つ矢など神には届かぬ。

 人の上げる声など神には届かぬ。

 ああ、神とはなんと残酷で理不尽な存在なのか――。

 しかし。

 そうでなくてはならない。

 神とは、残酷で理不尽でなくてはならない。

 自らを健気に敬う人々の命を気紛れに奪う理不尽な存在でなければならない。

 祈る者には必ず正当な報いを与えるような道理の通った存在であってはならない。

 何時如何なる場合であっても、神の行動を決めるのは神の意思一つでなければならないのだ。

 誰の心にも左右されることなく、誰の責任にもしてはならない。

 神の意思は、人にとって唯一絶対。

 そうではなくてはならない。

 だからこそ、人は神を敬うのだ。

 だからこそ、人は神を畏れるのだ。

 同族の命まで捧げて、届くかどうかも分からない祈りや願いを一心に続けてきたのだ。

 

 

 ――今は昔、古い時代の話である。

 

 

 

 

 神社の屋根の上に、神奈子は腰を降ろしていた。

 左足を投げ出し、右足を曲げて立てた膝の上に右腕を軽く乗せている。

 視線は、ただ漠然と前を見据えていた。

 高所から一望出来る町の夜景を眺めているようにも、虚空へ自分の記憶にある別の光景を浮かばせているようにも見える。

 神奈子の背後に、諏訪子が姿を現した。

 文字通り、何もない空間から滲み出すように実体が現れ、屋根の上にふわりと降り立ったのである。

 

「ここまで声が聞こえていたぞ」

 

 振り返らずに、神奈子は言った。

 

「早苗は、帰ったよ――」

 

 諏訪子は背中合わせになるように、神奈子の背後へ腰を降ろした。

 並んで座ると、お互いの表情が分かってしまう。それが今の諏訪子には嫌だった。

 しかし、背中が触れ合うことで、互いの存在感はしっかりと伝わってくる。

 この体勢は、わたし達の関係に似ているな。と、諏訪子は思った。

 

「明日、早苗は来るかな?」

 

 諏訪子は独り言のように呟いた。

 

「来るな、と言ったのはお前だろうが」

「うん、まあ来ない方がいいんだけどね」

「諏訪子。最初に言っておくが――」

「何?」

「私は、早苗に幻想郷のことは教えてないぞ」

「分かってるよ。……半分くらいは疑ってたけど」

「早苗への対応については、お前の意見を尊重してやってるだろう」

「早苗の力を利用しようとしてたくせに」

「利用じゃなくて協力だ。それに、あの子に強制するつもりもない。早苗の力を借りることが出来れば、時期や状況を選ばなくとも幻想郷への移住が可能なんだ。考えるくらいは当然だろうが」

「あの子の力をアテにしてる考えがそもそも気に入らないんだよ。これ以上『こちら側』に深入りさせてどうすんのさ」

「おい、あの子は『風祝』だぞ。私達を祭る巫女だ」

「いいや、違うね。あの子は高校生で、卒業したら大学生になって、結婚したらお嫁さんになって、いずれ母親になって死ぬのさ」

 

 反論する諏訪子の口調は、怒りを含んだ強いものだった。

 

「早苗の持つ力は、超能力だとか肉体の延長にある力じゃない。神掛かった力――神になる為の『素質』なんだ。

 身体なら鍛えればいいし、才能なら磨けばいいさ。それは他人に誇れることだし、生きがいにだって出来る。だけど、あの力は違う。あんなものを気軽に使っちゃいけない」

「あの子が持って生まれた力だぞ。目を背けさせてどうする」

「早苗に関して一つだけあんたと考えが合わない点があるとするなら、それは神奈子があの力をまるで奇跡のように扱うことだよ」

「そうだ、奇跡だ。長い年月を経て、薄れつつある『神の血筋』の中で早苗のような力を持つ娘が生まれたのは奇跡としか思えないだろう」

「奇跡じゃないよ。古い血が生んだ呪いさ」

「早苗はお前の子孫だろうが。諏訪子」

 

 神奈子は叱りつけるように言った。

 しかし、諏訪子は自虐的に笑うだけだった。

 早苗に自分の血が少しでも流れていることを責めているような顔だった。

 

「哀れな子だよ」

 

 諏訪子は言った。

 

「こんな時代に、なんてもんを抱えて生まれ落ちちまったんだ」

「早苗が生まれた時、お前は嬉しくなかったのか」

「――嬉しかったさ。神への信仰が薄れて人の目に映らなくなったわたし達の姿を、赤ん坊だったあの子が見つけて、小さな手を伸ばした時、震えるほど嬉しかった」

「私もだよ」

「早苗の誕生を心から祝福したし、感謝もした。神様はわたしの方だってのにね」

「ああ」

「だからさ」

「――」

「だから、長々とあの子の足を引っ張っちゃったんだ。わたし達の未練が、早苗自身の人生を邪魔し続けたんだ」

「だからか」

「ああ、だからさ。だから、明日に決めたんだよ。これまで計画をずっと先延ばしにしてきたけど、ようやく決めることが出来たんだ。わたし達は、ようやく早苗の歩む道の上から退くことが出来る」

 

 自らの決心を言葉にし終えた諏訪子は、いつの間にか強張っていた身体の力を抜きながら、大きく息を吐いた。

 安堵にも落胆にも聞こえる響きを持った、ため息だった。

 

「そういや、謝ってなかったね。ごめんよ、神奈子。あの時、勝手に計画の決行日を決めちゃって」

「あの場には私もいたんだ。だが、何も言わなかっただろう。文句なんてなかったさ」

「ありがとう」

「いいさ。タイミングもよかった。確かに、明日の嵐なら、早苗の力がなくても私達の力だけで幻想郷へ行けるだろう」

「本当は、早苗が何も知らない間に消えられればよかったんだけどね。やっぱ、早苗に余計なこと教えたのってあいつらの仲間かなー。あの二人以外に、もう一匹妖怪の仲間がいるみたいだったし」

 

 ぼやきながらも、その声には悪態と呼べるほどの感情は含まれていない。

 諏訪子の口元に浮かぶのは、苦笑に近いものだった。

 

「でも、わたしが決断する切っ掛けを持ってきてくれたのもあいつらなんだよなぁ。今回のことがなかったら、またグダグダと決断を先送りして、いずれ早苗の情に絆されちゃってたかもしれない」

 

 諏訪子の独り言に、神奈子は応えなかった。

 

「あいつら、本当に何者なんだろう? わたし達のことだけならともかくさ、計画まで知ってたなんて解せないよね。いくら幻想郷の住人だからってさ」

「――」

「でも、まあ……どうでもいっか。あいつらが隠してることになんて興味ないしね。神奈子もそうでしょ」

「――」

「移住する現地にコネが出来るってのは地味にありがたいかな。幻想郷って、実際にどんな所なのか見たことはないし。住み心地が良ければいいんだけど」

「――」

「幻想郷、行ったら何しよっかな~? わたし達二柱とも神格が無駄にデカイし、細々と生きてくのは無理かな。向こうも、多分迷惑なんだろうなぁ。ああ、どうしよ。行き当たりばったりすぎて、やりたいこと考えてなかったや」

「――」

「っていうか、いざ決まると自分でもびっくりするくらい投げやりだな。何でだろ? 神奈子は、何かしたいことある?」

 

 まるで他人事のように諏訪子は訊ねた。

 その質問さえ、放り投げるような適当さだった。

 神奈子は答えなかった。

 先程から、ずっと黙り込んだままである。

 

「……神奈子は、あいつらが何者か気になるの? 特に、あの『先代巫女』って名乗った人間」

 

 諏訪子は肩越しに振り返った。

 神奈子の方は全く姿勢を変えない為、顔を見ることは出来ない。

 しかし、その目はきっと何かを睨んでいるのだろう。

 それが諏訪子には分かる。

 背中越しに肌から肌へと、神奈子の内側で生じているものが伝わるのだ。

 それは、何か押し殺されたものであった。

 ハッキリとは分からない。

 震えのようにも、熱のようにも感じる。

 あるいは、両方なのかもしれない。

 神奈子の身体の内側で、空気を震わせるほどに激しく燃え滾っているものがあるようだと、諏訪子は漠然と感じていた。

 そして、その火を点けたのが、神奈子がずっと気にしているあの先代巫女という人間であることだけは確信していた。

 諏訪子は、それ以上何も言わずに口を閉ざした。

 お互いに長い付き合いである。言葉にしなくても、相手の言いたいことが伝わる時があるのだ。

 沈黙が、まるで無言の催促であるかのように神奈子へ向けられていた。

 

「――あいつの」

 

 神奈子は躊躇うように一度口を閉ざし、

 

「私を見る目が堪らない」

 

 苦痛を吐き出すように言った。

 

「お前にも、あの人間の異常さは分かっただろう」

「うん。あいつ、わたし達を『信仰』してたね」

 

 神にとって人の信仰とは力の源である。多いほど神としての力を強大化させ、少なければ存在の維持すら困難になっていく。

 物質的には見えず、エネルギーとしても感知出来ないものだが、神にとっては自分を形作る血肉そのものである。

 人が食物を胃や舌で感じ取れるように、神もまた独自の感覚で自身に向けられる信仰を認識出来るのだ。

 信仰には、大きさや強弱といった概念は存在しない。

 基準を設けるならば、それは数だ。

 多くの人が信仰すれば力となり、逆に少数の人間が深く神を信じたとしても大した力にはならない。

 先代巫女から向けられたものは信仰に間違いなかったが、やはりそれも一人の人間の信仰に変わりはなかった。

 

「確かに、不思議ではあるよ。事前にわたし達のような神がいることを知っていて、既に信仰心まで持っていたってことだからね。

 何を思って信仰心なんか持ったのかは分からないし、何処でわたし達を知ったのか分からなくて不気味だけど、『信仰は個人の自由』って言えばそこまでなんじゃないかな。信心深い性分ってだけなのかもしれないじゃない」

 

 諏訪子の見解に、しかし神奈子は同意を示さなかった。

 

「諏訪子。お前は、知らないんだ」

 

 まるで非難するように、神奈子は言葉を返した。

 

「一対一で対峙した時、あいつが私に向けた視線を知らないんだ」

「眼つきが気に入らないってのは、さすがに難癖つけすぎでしょ」

 

 神奈子は軽口には応じなかった。

 

「一片の曇りもない、真っ直ぐな視線だった。あいつの目は、完全に神を見る目だった。僅かな疑いもない信仰だったんだ」

 

 それは、喜ぶべきことである。

 自らの神社がある地元でさえ、文明化の波を受けて、目に見えない存在への信心が薄れて久しい中、心の底から神を信じて崇める存在と出会ったのだ。

 しかし、神奈子の吐き出す声に喜びや興奮はなかった。

 あるいはあったかもしれないそれらの感情を押し殺して余りある苦痛が、声色と表情に滲んでいるのだった。

 

「私が目の前に姿を現した時も、あいつの信仰は揺るがなかった。いや、むしろより確かなものとして強固になっていた。

 なあ、諏訪子。神が実体を見せるということの意味が、お前には分かるだろう。かつて、神の権威が溢れていた時代ならばいざ知らず、人が神の存在と力を疑い始め、更にそこから時を経た現代だ。

 人は、自分の目には現実しか映らないと信じている。明確な姿形を持った者が神を自称して現れたら、人はそれを神と信じない。神とは畏怖するに足る絶対的な存在なのだから、人の想像の及ばない姿でなければならない。人の『知』や『力』が増大した現代では、その認識を遥かに超えたものでなければ神の力は信じられない時代になってしまったんだ」

「……ああ」

 

 諏訪子は小さく頷いた。

 

「言いたいことは、分かるよ。もう『現実』と『幻想』が曖昧に共存していた時代じゃない」

「だけど、あいつは私の姿を見ても疑わなかったんだ。私を、神だと信じ抜いていた。いや、あいつにとって『私が神であることは当たり前』だった」

「そうか。神奈子には、それが分かったのか」

「分かったからこそ、分からないんだよ――。

 何故、あいつはあんなことが出来るんだ? ただ私の存在を知っていただけでは、あの信仰は説明がつかない。初対面だぞ。出会ったことのない相手に、何故あそこまで確固たる認識が持てる?」

「神奈子が、あいつと敵対しようとしたのって、それが理由?」

「ああ。だが、敵意を向けても、あいつの認識は変わらなかった――いや」

 

 神奈子は言い直す為に、首を振った。

 

「違う。私は、あいつに失望してもらいたかった。あの疑いのない目が、曇ればいいと思っていた」

「……なんだって?」

「理由も根拠も、どうでもいい。あいつは、私を信仰している。その事実だけが、私には何よりも重い」

 

 諏訪子は、神奈子の声の変化に気付いて、眉を顰めた。

 神奈子の声が震えていた。

 痛みか、あるいは激情を堪えるような震えだと感じた。

 

「堪らないんだ。あいつの目に、私の姿がどう映っているのか知るのが怖い。あの揺るぎ無い信仰には、間違いなく私への敬意と畏怖があった。あいつの思い描く私は、完璧な神様なんだ」

 

 神奈子は歯を食い縛って、自分の胸を強く握り締めた。

 胸の奥で、酷く冷たい痛みが疼くようだった。

 

「あいつの、今の私の姿を見る目が堪らない――」

 

 

 

 

 次の日の朝、早苗はいつものように目覚ましが鳴る前に起床した。

 いつものように母の作った朝食を食べ、父が仕事に出掛けるのを見送ってから、少し遅れて学校へ向かった。

 いつも通りの朝だった。

 一つだけ違うのは、今夜自分の信仰する神がこの世界から永遠に去ってしまうのを知った朝だったことだ。

 早苗は一時間目の授業を何とかこなしたが、ほとんどが上の空で教師の話など全く覚えていなかった。

 二時間目の最初に不調を訴えて、早退した。

 もちろん嘘だった。

 家にいるだろう母には連絡せず、そのまま帰ろうともしなかった。

 かといって、何処へ行けるというわけでもない。

 制服姿のままで町へ行けば補導されるだろうし、知人と鉢合わせするだけでも厄介だ。

 早苗は人目を避けることだけに集中して、あとはただぼんやりと彷徨い歩いていた。

 歩きながら、自分は何をしているのだろうと思った。

 

 ――何処か行きたい所があるのか。

 ――あるいは、誰か会いたい人がいるのか。

 

 妙な話だと自覚はしていた。

 どんな場所で、どんな人物なのか自分でも分からないのに、自分はそれを求めて彷徨っている。

 こんな曖昧な望みが叶うとしたら、それは奇跡以外の何物でもないだろう。

 それを分かっていながら、早苗は歩みを止めることが出来なかった。

 時間だけが、ただ無為に過ぎていく。

 信じる二柱の神――いや、自分にとって『大切な人達』との別れが、ただ無慈悲に近づいてくる。

 選択の時は近いが、答えはまだ出ていない。

 と――。

 曖昧になった感覚の中で、早苗は気付いた。

 前から歩いてくる人物に。

 

「――早苗さんじゃないですか」

 

 早苗は、信じられない気持ちで自分の名を呼ぶ相手を見下ろしていた。

 自分が何を求めていたのか、その瞬間あっさりと理解出来たような気がした。

 まさに奇跡だと思った。

 

「どうしたんですか?」

 

 呆然と佇む早苗の顔を、さとりが覗き込んでいた。

 

「さ、さとりさん……」

「はい、昨日ぶりですね」

「あの……」

「はい」

「え……と、そちらのお二人は?」

 

 若干混乱しながらも、早苗はまず気になっていることを訊ねた。

 さとりの傍には、見覚えのない二人の女性がいた。

 片方は、美人だがそれ以上に同性でも感じる色気が目立つ青い髪の女性である。

 さとりと同じ人外の存在なのだとすぐに分かった。姿以外では、巨大なキャリーケースを引いている点が目に付く。

 もう一人も美しい女性だったが、こちらは何よりも単純な身体の大きさがすぐに目に付いた。

 見上げるような背丈に、傷だらけの身体を包む男物の服装と、こちらも特徴的な姿である。

 そんな二人が、小学生のように小柄なさとりと並んで歩いているのだ。

 さとりが妖怪であることを知っている早苗からすれば、納得がいくような全くいかないような奇抜すぎる組み合わせの三人だった。

 

「私以外に、幻想郷に行く仲間がいることは話しましたっけ?」

「はい、昨日教えてもらいました」

「この二人がその仲間です。そうですね、少し移動しましょうか」

 

 さとりが提案した。

 

「落ち着いて話をする場所が必要なようですからね」

 

 呆気に取られる早苗を尻目に、さとりが先頭となって移動を始めた。

 なし崩しに、早苗も連れられる形になっていた。

 歩きながら、面識のない二人と簡単な紹介をし合った。

 仙人の霍青娥は穏やかに微笑みながらも、何故か妙に熱い視線を送ってくる。

 寡黙な先代巫女という女性の本名が少し気になったが、気になるだけで訊ねようという勇気は湧かなかった。

 初対面の相手との会話に悩む必要もなく、四人は落ち着いて話が出来そうな場所である人気のない小さな公園へと辿り着いていた。

 何か意味があって選んだ場所ではなく、適当に探した結果なのだろう。

 さとりは軽く見渡した後、公園内の一角に設置された屋根とテーブルと椅子だけの簡易的な休憩場所に腰を落ち着けることにした。

 さとりに促されるまま、早苗は三人と向かい合う形で座った。

 人数の偏った配置を見て、早苗は今更ながらに気付いた。

 さとりは、本当に自分と話をしてくれるつもりなのだ。

 

「あの、さとりさん――!」

「分かってますよ、相談したいことがあるんですね」

 

 勢い身を乗り出す早苗を眺めながら、さとりは若干呆れた口調で言った。

 さとりの心を読む能力を思い出して、早苗は僅かに赤面した。

 自分でも分からない悩みさえ、彼女はお見通しだったのだ。

 

「……相談したいことが、あるんです」

 

 早苗は改めて言葉という形にして、自分の中で燻っているものを吐き出した。

 

「さとりさんには、その内容も分かっているんですよね?」

「まあ、心が読めますからね」

「じゃあ、きっと答えも分かっているはずです」

「そうでしょうか?」

「だって、私の心が読めるんでしょう? 私が本心では『どちら』を選んでいるのか、さとりさんには分かっているはずです!」

「自分の心ならば、自分が誰よりも理解しているのでは?」

「自分が分からないから、訊いているんです!」

 

 掴みかからんばかりの勢いで、早苗は叫んでいた。

 周りに人がいれば、思わず目を向けてしまうような悲痛な声だった。

 しかし、さとりはそんな早苗の激情にも顔色一つ変えずに言った。

 

「仮に私がそれを答え、それに貴女が従って行動したとしても、後悔をしないかどうかまでは分かりませんよ?」

 

 早苗は、思わず沈黙した。

 

「私は、貴女の選択の責任を負うつもりはありません」

「そ、そんなことは……」

「私よりも、こちらの二人に相談した方が為になると思いますしね」

 

 意表を突かれたかのように、早苗は視線を移した。

 

「青娥さんは、早苗さんに強い興味を持ったみたいですし」

 

 青娥が好奇心に瞳を輝かせながら見つめていた。

 

「先代なら、きっと私よりもずっと真摯に貴女の悩みを受け止めてくれるでしょう」

 

 先代は一生変化がないのではないかと思うほど硬い仏頂面で真っ直ぐに見ていた。

 いずれも、早苗と真剣に向き合っていることだけは共通していた。

 早苗は一瞬さとりの方に視線を戻し、もう一度二人の顔を交互に見て、強張った身体から力を抜くように大きく息を吐いた。

 そして、ぽつりぽつりと話し始めた。

 昨日の夜、諏訪子に言われたこと。

 結果、自分が悩んでいること。

 自分が今抱えているものを、上手く言葉で表現して相談することは難しい。

 しかし、自分が今夜の期限までに取るべき行動は二つの選択肢として既に出来上がっていた。

 つまり。

 

 ――幻想郷へ二柱と共に行くのか、行かないのか。

 

 ただそれだけの、分けることは容易く、決断することは困難極まりない選択肢である。

 

「――月並みな言葉かもしれないが」

 

 早苗の話を聞き終え、まず先代が口を開いた。

 

「周りのことは気にせず、自分の望む道を選ぶのが一番だと思う」

 

 厳格な外見や口調とは裏腹に、優しい言葉だった。

 正しい大人が子供に示すような寛容さがあった。

 それを意外に思いながらも、早苗は首を振った。

 

「家族を蔑ろにしたくありません。これだって、私の望みです」

「しかし、まずは君の人生を第一に考えるべきだ」

「両親だって私の人生の一部です。家族の為に自分の望みを曲げることは、人間として正しいことじゃないですか?」

 

 早苗の問い掛けに、先代は黙り込んだ。

 自らを顧みて、その言葉に頷ける部分があると気付いたのだ。

 迷う先代の代わりに、今度は青娥が口を開いた。

 

「この際、どちらが正しくて間違ってるのかなんてくだらないことを考えるのはやめましょう」

 

 全く遠慮のない言い方だった。

 

「東風谷早苗さん、貴女にはなんだか凄く親近感が湧きます。あっ、話し方崩していいかしら? 失礼?」

「い、いえ、構いません。私の方が年下だと思いますし」

「ありがとう。うふふ、ごめんなさいね。私ったら嬉しくて。だって、ここ数日間で魅力的な人達に出会い続けてるんだもの」

「魅力的……ですか? 私が?」

「そうです、貴女。早苗さんって、凄い才能を秘めているのよ」

「は、はあ」

「そう、秘めているの。貴女が自覚している力はまだほんの一端に過ぎない。残りはたっぷりと貴女自身の中に眠っているのよ。既に完成されている先代様とは違うのね。私、貴女を見ていてとてもワクワクするわ」

「ワクワク、ですか?」

「そうよ。これは期待なの」

「期待……」

「ねぇ、早苗さん」

「はい」

「一緒に幻想郷へ行きましょうよ」

「はい!?」

「ねっ、行きましょう。そこでなら貴女の力を十分に引き出せるし、評価だってされるわ。貴女は幻想郷へ行った方がいい、間違いないわ!」

 

 青娥は身を乗り出して、早苗の両手を強く握り締めていた。瞳は爛々と輝いている。

 早苗自身の意思を尊重してくれた先代とは正反対だった。

 強引に選ぶべき道を押し付けてくる。

 しかし、早苗にとってそれは不快なことではなかった。

 確かに強引だが、そこに悪意はない。

 かといって善意も感じないが、そういった煩わしいもの全てを押しのける我の強さがあった。

 青娥には一切の迷いがない。自分の欲望のままに物事を決定し、行動をしているのだ。

 その強さは、今の早苗にとって尊敬と羨望にさえ値するものだった。

 

「でも、家族が……」

「確かに家族と別れて幻想郷で過ごす日々の中、いずれ後悔する時があるでしょう」

 

 青娥は透き通るような笑みを浮かべた。

 

「だけど、この世界に残ったら死ぬまで後悔し続けるわ」

 

 青娥は断言した。

 背筋の凍るような宣告だった。

 

「私には、貴女の気持ちが分かる。貴女はこの世界に退屈している。いえ、失望している」

「そんなこと……」

「このまま生活を続けても、人並みの幸せを手に入れることは出来ても、満たされることは決してないでしょう。だって、貴女の器は他人よりもずっと大きいのだから」

「――」

「周りと同じ幸福で自分を誤魔化せるかしら。貴女の力だけが届き得る、貴女だけの高みを目指したいとは思わない?」

「私、だけの」

「誰よりも高く飛ぶのよ。そして、他人は貴女を見上げるの」

 

 早苗は青娥の目を見つめた。

 呑み込まれそうなほど深い瞳だった。

 

「自らの望みの為に家族を捨ててもいいのよ。他の誰が許さなくても、私が許すわ。かつて、家族を騙して去った私が」

 

 網膜を通して、彼女の中でチロチロと燃えている黒い炎が見えるようだった。

 彼女は常にその熱に突き動かされているのだと、早苗は理解した。

 だから、青娥は迷わない。

 自身の欲望の熱に焦がされるまま、彼女は動き続ける。

 今の自分から完全に消えているものを、早苗は青娥から感じ取っていた。

 このまま言葉を聞き、瞳を覗き込んでいれば、自分にもこの火が乗り移るだろう。

 熱に浮かされ、言われるままに道を選んでしまいそうだった。

 しかし、不意に――。

 青娥の口元が緩んだ。

 鬼にも仏にも見えそうな強烈な笑みが、ただの淑女が浮かべる柔らかな笑みへと質を変えていた。

 

「――とはいえ、決めるのは貴女」

 

 青娥はそっと手を離した。

 

「貴女が決めるからこそ価値がある。私は力を操るよりも見る方が好きだから」

「は、はあ……ありがとうございます。色々と参考になりました」

「もし、幻想郷に移住することになったら、改めてお付き合いしましょう。色々と教えてあげるわ。誰も教えてくれない、ちょっとイケナイこともね」

 

 早苗は引き攣ったような笑みを浮かべて、曖昧に頷くしかなかった。

 ここまでの会話だけで、青娥に対する苦手意識がすっかり根付いてしまっている。

 しかし、同時に強く惹かれてもいた。

 早苗がこれまで会ったことのない女性だった。

 当たり前の倫理観を口にするだけの大人とは違う。彼女の言動には危険だが自由も感じた。

 悪いことだと分かっているのに、ついつい興味を持ってしまう。酒やタバコに対するそれに似ていた。

 青娥の人となりを知って、ますます三人の組み合わせを意外に思う。

 外見も性格も、何もかも反対に見える先代の方へと自然と視線が移った。

 

「……先程の話だが」

 

 それまで黙っていた先代が、不意に口を開いた。

 

「やはり、君は自分の望む道を行くべきだ」

 

 今までずっとそのことを考え続けていてくれたのか、と早苗は驚いた。

 

「私にも娘がいる」

「――えっ、お子さんがいるんですか!?」

「ああ。血は繋がっていないが、大切な娘だ」

 

 呆気にとられながらも、早苗は続く先代の話をなんとか聞いていた。

 

「私には君が本当に何を望んでいるかは分からないし、君の両親の気持ちを代弁するなんて無責任なことも出来ない」

 

 何処までも真摯に、先代は早苗と向かい合っていた。

 

「だから、私の母親としての考えを言わせてもらう」

「……はい」

「子供に気遣われることは、純粋に嬉しい。老後の世話をしてもらって、死ぬまで子供と一緒に暮らせるのは幸せなことだと思う」

 

 先代は頭の中で思い浮かべた光景に小さく微笑み、

 

「だけど、私は何よりも子供が幸福になることを願う」

 

 言った。

 

「その幸福が家族と一緒に暮らすことなら、こんなに嬉しいことはない。だが、それが何かに挑戦することであっても、その為に遠くへ旅立つことであっても、私なら子供の望むままにしてやりたい」

「……でも、親を悲しませたくないんです」

「子供が自立して親元を離れることは、自然の摂理なんだ。ただ、そこに色々な形があるだけさ。確かに別れは悲しくあるが、それ以上の喜びもあるんだ。どんな親だって同じさ。多分」

 

 しみじみと実感を噛み締めるような言葉だった。

 もちろん、早苗には先代の感じている親としての実感を理解することは出来ない。

 しかし、理解出来ないからこそ、まるで自分の親に言われているような説得力があった。

 その感覚さえ、自分にとって都合のいい錯覚なのではないかと疑ってしまう部分もある。

 それでも――。

 

「……あの、さとりさん」

 

 二人と話をしている間、ずっと黙り通しだったさとりの方を向く。

 頬杖をついて、暇そうにしていた。

 無関心だなんて意外と酷い人なんだなぁと思いながらも、早苗の口元には苦笑が浮かんでいた。

 

「ありがとうございました」

「別に私は何もしてませんよ。お礼は二人にして下さい」

 

 もちろん、早苗は先代と青娥にも深く頭を下げた。

 見上げた空は、いつの間にか赤く染まり始めている。

 学校を出て、彷徨っていた時間が長かったのか、あるいは話し込みすぎてしまったのか。

 家族は早退のことを知らないだろうが、そろそろ帰宅した方がいい時間帯ではある。

 家に帰れば、すぐに夜が来る。

 全てを決める夜が。

 未だに迷いは抱えていた。

 まだハッキリとどうするべきかは決めていない。

 今の気持ちは、両親と顔を合わせれば、また変わってしまうかもしれない。

 

「今夜、発たれるんですよね」

「ええ、予定通りならね」

「また会えるかどうかは分かりませんが――」

 

 早苗は、それ以上を言うのを躊躇った。

 ここで『また』と言うのも『さよなら』と言うのも、自分の選択を決めてしまう気がしたのだ。

 結局、それ以上何も言わずに早苗は立ち上がった。

 もう一度深く頭を下げて、家路へと向かう。

 公園から出る前に振り返ると、無言で自分を見送る先代と『待ってますよ~』と手を振る青娥の姿が見えた。

 

 

 

 

 ――現代入りして三日目。いよいよ今夜、私達は幻想郷へ帰還する!

 

 私達は、朝早くに泊まっていたホテルをチェックアウトした。

 思えば短いようで長い三日間だった。

 日数にしてみるとちょっとした旅行感覚な現代生活だったが、何の目処も立っていなかった当初は本当に途方に暮れたものだもんなぁ。

 しかし、様々な幸運と努力が重なって、こうして私達は無事に幻想郷へ帰れることになったのだ。

 やれやれ、これで一安心といったところか。

 まだ気が早い話だと分かってはいるのだが、これまで無意識に張り詰めていたものが緩んだような気分だった。

 具体的には、さとりのことがやはり最初からずっと気に掛かっていたのだ。

 私一人なら、本当にコンクリートジャングルでのサバイバル生活とかでもこなす自信はあったんだけどね。

 むしろ、エアマスターとかストリートファイターみたいな路上格闘生活をエンジョイしていたかもしれない。

 そんなのんきな気持ちになれなかったのは、さとりがいたからだった。

 なんつーか、こう自分の行動に対する責任感みたいなものを感じるのよね。

 なんせ、さとりは私の親友だから。

 親友、だから!(強調)

 とにかく、その責任がようやく少し軽くなったような気がした。

 まだ今夜、最大の山場が残ってはいるが、これに関してはもう私が頑張ってどうにかなる話ではない。

 神奈子様と諏訪子様の御力次第だ。せめて、私の信仰が少しでも助力となるよう祈ろう。

 早苗がどうなるのかだけが少し気になるが――それもやっぱり、私が下手に口を出す問題ではないか。

 

「これからどうしましょうか?」

 

 ホテルを出たところで、青娥が訊いてきた。

 それはいいんだけど、腕組むのやめてくんない?

 密着して柔らかい身体や胸が当たるのはまだいいとして、周りからかなり好奇の目を向けられるのよ。一応、私も女として認識可能な姿をしておりますので。

 しかし、無言の抗議は当然のように伝わらなかった。

 無視されたのかもしれないけど。

 

「特に考えはない」

「だったら、夜までホテルで過ごしていればよかったのに」

 

 すぐ隣を歩くさとりがぼやくように呟いた。

 ちなみに、初日の事故以来私が手を引いて歩くことにしている。

 確実に能力の範囲内に居れるという利点もあるしね。

 まあ、一番の理由は私達が『心友』だからなのだが。

 

「正確な時間が分からない以上、常に早めの行動をしておきたい」

 

 ホテルを出た理由を、私は答えた。

 さとりの考えも尤もなのだが、私としては万が一に備えて今日一日はいつでも自由に動ける状態になっておきたかったのだ。

 万が一って言っても具体的な事態なんて想定していないが、ホテルから出る時には多少の手間が掛かる。その手間を済ませておきたかった。

 無断でホテルから出てくとか、従業員さん達に迷惑が掛かると思うしね。

 立つ鳥跡を濁さずってやつだ。

 ……朝、今更ながらに放置された青娥の家について思い出したことが理由でもあった。

 本人は全然気にしてないけど、あれの扱いって今後どうなるんだ? そもそも青娥の戸籍とかは?

 考え始めるとキリがない。ああ、役所の皆さんごめんなさい――。

 そんなこんなで、半ば現実逃避するように外へ出たのだった。

 とりあえず、夜までの時間を潰す為にブラブラ歩いていた。

 腹が減ったら、その辺の店に寄ればいい。

 本当に旅行でもしているような気楽さである。

 カメラ持ってたら記念に撮ってたかもしれないな。

 青娥に頼めば買ってもらえるかもしれないけど、さすがに不必要な出費は……帰った時に霊夢とか紫に楽しんできたこと怒られそうだし。

 そうこう過ごしている内に、何の巡り会わせなのか、私達は偶然出会ったのである。

 東風谷早苗――。

 セーラー服姿の彼女が、私達の前にふらりと現れたのだ。

 実際に早苗と対面するのは初めてである私だったが、この時の驚きや感動は意外なほど少なかった。

 事前にさとりが彼女と会ったことや、その時話した内容を聞いていたからだろう。

 早苗について、出会いを感動するよりも、彼女の身の振り方が気に掛かっていたのだ。

 案の定、早苗から持ちかけられた相談は、今夜のことに関してだった。

 

 ――幻想郷へ、行くべきかなのかどうか。

 

 悩みを打ち明けた早苗の深刻そうな表情を見ながら、私はどう答えるべきか迷っていた。

 情けない話だが、私には月並みな言葉しか思いつかなかった。

 私なりの考えはある。

 東風谷早苗に向ける期待もある。

 しかし、自分自身に目を向けた時、それがあまりにも自分勝手で傲慢なものに思えて仕方がないのだ。

 この感覚は、これまでの人生で何度なく感じていた。

 そんな時、私は常に思う。

 

 ――私の持つ『前世の知識』という奴は存在しない方がいい。自分を含めた誰の為にもならない知識だ。

 

 もちろん、この知識を便利に感じることはあるし、命が助かるほどの感謝をした時もある。

 だけど、この世界に関する知識――『東方Project』という世界の情報――に限っては、苦悩の原因になることの方が多い。

 今回もそうだ。

 東方のキャラに出会う時、私には常に原作知識という前提が付き纏っている。

 どんなに自分に言い聞かせても、心の何処かで彼女達の人生や人格を知った気になっている。

 自分が、相手の未来を見透かしたり、行動を運命付けて考えているような気がして、堪らない気分になるのだ。

 原作では、早苗は神奈子様達と共に幻想郷へやって来る。

 しかし、その道に至るまでの間に苦悩して、選択しているのだ。

 目の前の彼女のように。

 そんな彼女に私が一体何を言えるだろうか。

 幻想郷へ行けと言えば、定められた運命をなぞるべきだと語っているように聞こえる。

 幻想郷へ行くなと言えば、ただ前世の知識を否定したいだけの安っぽい反発心のように感じる。

 自分の助言が、何を言っても無責任なものに感じてしまうのだ。

 

「考えすぎですよ」

 

 囁くような声が聞こえた。

 私の隣で、さとりが呟いたものだと気付いた。

 早苗と青娥が話している中で、私にだけ聞こえるような小さな声を発したのだ。

 

「出会いが平等かどうかなんて価値を比べて何の意味があるんですか。『知らなくてもいいことを知ってから』相手と接しなければいけないのは、何も貴女に限った話じゃありません」

 

 頬杖をついたまま、視線だけを動かして私を見上げる。

 

「貴女がこの世界とこの世界に住む者全てに、いつだって真剣に向き合おうとしていることは知っています」

 

 さとりは苦笑を浮かべた。

 

「私に言える確かなことは、それだけですね」

「さとり――」

 

 やがて、青娥の話が終わった。

 結局、私が早苗に言ってやれたことは、私自身の親としての気持ちくらいだった。

 私が霊夢に向ける想いを、ただ言葉にして教えてあげたに過ぎない。

 早苗は私達に礼を言っていたが、あまり役に立てた気がしない。

 彼女が今夜、少しでも悔いのない選択をしてくれるよう祈るばかりだ。

 早苗が立ち去った後、空を見上げると、もうそこは赤みが差し始めていた。

 日が暮れ始めている。

 もうじき、夜だ。

 雲ひとつない空だが、もうすぐ嵐が来るはずだった。

 

「これからどうしましょうか?」

 

 青娥が、聞いたことのある質問をしてきた。

 どうするかな。

 もう、神社の方へ向かってもいいかもしれない。

 いつ頃から雨が降り始めるのかは分からないが、嵐が来てから移動を始めたのではきっと濡れてしまうだろう。

 人気が残っているなら、こっそり忍び込めばいいのだ。

 そして、あとは時間まで待っていればいい。

 それに考えてみたら私達の中でさとりだけが神様達と面識がない。

 早めに行って、紹介を済ませておいた方がいいかもしれないしな。

 さとりの意見を訊こう。

 私は先程からずっと黙ったままのさとりを見た。

 

「さとり?」

 

 椅子に座ったまま、動かない。

 私は肩に手を掛けた。

 さとりが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「――先代」

 

 どうしたんだ?

 

「これは」

 

 どうして、そんなに弱々しい笑みを浮かべているんだ?

 どうして、そんな諦めたような笑い方をするんだ?

 

「間に合わないかも、しれません」

 

 ――さとり!?

 

「さとり!?」

 

 椅子から崩れ落ちたさとりの身体を、私は地面にぶつかる前に何とか掴むことに成功した。

 しかし、抱き上げたさとりの身体からはあらゆる力が抜けて、ぐったりとしていた。

 顔を見れば、苦しげな表情が浮かんでいる。

 その表情すらも弱々しい。

 痛みを感じているのではなく、何かを堪えているような様子だった。

 

「どうしたんだ!?」

 

 さとりの身に何が起こっているのか、全く分からなかった。

 何故、急に不調を訴えたんだ。

 何の前兆もなかったはずだ。

 そのはずだ。

 ――違うのか?

 

「これは、ちょっといけませんね」

「青娥、何か分かるのか!?」

 

 さとりの様子を覗き込む青娥に、私は咄嗟に問い掛けた。

 困ったように笑いながら、青娥は答えた。

 

「さとり様は幻想郷から外の世界へ出た影響を受けて、消滅しかかっているのです」

「……なんだと?」

「すみません。実は口止めをされておりました」

 

 私は、一瞬言葉の意味を理解出来なかった。

 消滅?

 それは、死ぬってことじゃないのか?

 何故、黙っていたんだ。

 いや、違う――なんで気付かなかったんだ、私は!!

 

「どうすればいい!?」

「一刻も早く、幻想郷へ戻るしかありません」

「……諏訪大社へ行くぞ」

「まだ時間ではありませんが」

「いいから、行くぞ!」

 

 もう一言も喋らないさとりを背負うと、私は駆け出した。

 青娥の言うとおり、まだ約束の時間にはなっていない。

 神社に辿り着いたとしても、幻想郷へ帰る手段は神任せだ。

 しかし、今の私にはもうこれくらいしかやれることが思いつかなかった。

 他には何も思いつかない。

 走るしかない。

 この役立たず。

 この無能。

 畜生。

 畜生。

 糞。

 糞。

 糞。

 空っぽの頭の中に、自分自身を罵る言葉だけは尽きることなく生まれていた。

 夕焼けの空には、未だに雲ひとつ流れていなかった。

 

 

 

 

 ――幻想郷の地底深く。

 古明地さとりが地上へ出掛けた為、主が不在となって三日目の地霊殿である。

 元々、さとりが不在となることは見越していた為、業務上の問題は今のところ起こっていない。

 しかし、今日。地霊殿の一角でちょっとした騒動が発生していた。

 

「さとり様に何かあったんだよ!」

「まだ、そうと決まったわけじゃないだろ!?」

 

 言い争っているのは、火焔猫燐と霊烏路空だった。

 元より、地霊殿には人語を解する妖怪や獣はほとんどいない。人の姿になれる者に限っては、二人だけだった。

 子供の癇癪のように喚く空を、燐がなだめているのである。

 

「だって、さとり様は本当は昨日帰ってくるはずだったんだよ? それが今日になっても帰ってこないなんておかしいよ!」

 

 空の反論は至極真っ当なものだった。

 何よりも燐自身が、その点については一番不可解に感じている。

 地上での用事は一泊二日の予定だと聞いていた。

 早ければ昨日の朝、遅くとも夜には地霊殿に戻っていたはずである。

 それが帰ってこない。

 三日目の朝を待って、昼を過ぎても音沙汰一つないのだ。

 もうじき、夜になる。

 もし、今日も帰ってこなかったら――。

 不安を感じているのは、燐も同じだった。

 

「やっぱり、さとり様に何かあったんだ……わたし、地上へ行ってくるよ!」

 

 しかし、空のこの考えには絶対に賛同出来なかった。

 

「行けるわけないだろ!」

「行けるよ、さとり様がはくれい神社って所に行ったのは知ってるもん!」

「具体的な場所を知らないだろって話! 大体、あんた地上の地理だって……」

「じゃあ、知っている奴にきく!」

「地底から来た妖怪だって分かったら、揉めるに決まってるだろ! っていうか、どうやって地上への結界を抜けるつもりなのさ!?」

「さとり様から、これ借りるもん!」

 

 空が自信満々に取り出した細長い紙を見て、燐は目の玉が飛び出るほど驚いた。

 地上への通行許可証として機能する符である。

 本来ならば、必要に応じて管理者から発行される物であり、手軽にはもちろん、金やコネなど不正な手段で手に入れられるような代物ではない。

 

「ちょ、おまっ……それ何処にあった!?」

「さとり様の机の中」

「アホかぁぁーーーっ!!」

 

 許可証を奪い返そうと燐が掴みかかった。

 空は小柄な体格を活かした予想外に素早い動きでこれを回避する。

 少し前まで、覚えたばかりの人型の姿で動くのがやっとだった空の身のこなしに、燐は意表を突かれた。

 

「へへんだ! わたしだって、さとり様を守れるように強くなってるんだもんね!」

「く……っ! だからって、地上へ行くのは無茶だよ!」

「どうして、お燐はそんなに反対するのさ!?」

「どうしてって……」

 

 ――地上が危険だからだ。

 

 そう、正直に答えることが出来なかった。

 燐には、かつて地上へ出た時に遭遇した恐怖が、未だに印象強く残っている。

 もしも、あの時の妖怪に空が出会ったら――。

 考えだけで、燐は背筋が凍るような思いだった。

 もし空が自分と同じような目に遭ったらと想像すると、あの時以上の恐怖を感じるのだ。

 空の身を案じている。

 その理由を話して、説得してやりたい。

 しかし、それをすれば空がますます地上へ出る決意を固めることが、燐には分かっていた。

 

「お燐も一緒に来ればいいでしょ! さとり様が心配じゃないの!?」

 

 燐は今度こそ、完全に言葉に詰まった。

 危険だと考えている地上へ、さとりは行ってしまったのだ。

 しかも、燐はさとりが向かった博麗神社がどんな所なのかも知っている。

 博麗の巫女――先代巫女がかつて住んでいた場所で、八雲紫にも関わりのある場所だ。

 危険なんてもんじゃない。

 厄介事の中心。何が起こるか予測不能な混沌の渦中だ。

 自分なら、絶対に関わりたくない恐ろしい場所だ。

 実のところ、さとりが出掛ける前からあの神社へ行くことには反対していた。

 いや、そもそも先代巫女との縁そのものを切って欲しかった。

 しかし、敬愛する主は行ってしまった。

 さとりを心配する気持ちは、既にその時から生まれている。

 空の言うとおりだ。

 本当は、さとりの為に地上へ行きたい。

 しかし――。

 

「さ、さとり様には……さとり様のお考えがあるんだよ……」

 

 空から目を逸らして、かろうじて絞り出すような声で言った。

 三日前、さとりの部屋で見つけたあの絵が。

 ずっと前に、先代巫女と密会していた時に見た主人の姿が。

 忘れられない記憶が、不安と共に脳裏に蘇っていた。

 それが燐に行動を躊躇わせるのだ。

 

「……もういいよ、わたし一人で行く! 地上には、お燐なんかよりも頼りになる友達だっているんだもんねっ!」

 

 燐が我に返った時にはもう遅かった。

 空は部屋から、文字通り飛び出していた。

 

「馬鹿、お空!」

 

 止める暇はなかった。

 翼を広げて、窓から直接地霊殿の外へ飛び出していってしまった。

 手には、しっかりと通行許可用の符を握っている。

 それを見て、燐は舌打ちした。

 地獄烏の妖怪である空に、飛行ではさすがに追いつけない。

 それでも追うべきだと思ったが、先に地上へ出られる可能性の方が高かった。

 当然、許可証を持っていない燐には結界を通り抜ける手段がないのだ。

 結界を出る前に追いつけなかった場合、手詰まりになってしまう。

 燐の逡巡は一瞬だった。

 知能ならば、空以上に優れた妖怪である。すぐさま判断して、駆け出した。

 

「お姉さん!」

 

 地底の妖怪では、結界を抜けることは出来ない。

 しかし、この地霊殿には現在一人だけ、地上へ出ることの出来る例外がいる。

 

「魂魄のお姉さん!」

「――お燐さん。どうかしましたか?」

 

 夕食の準備をしていた魂魄妖夢は、駆け込んできた燐を不思議そうに見つめた。

 

 

 

 

 かつて、博麗神社があった場所は更地となっていた。

 更地と言っても荒れているわけではない。

 そこに新しい神社を建てる為に、倒壊した建物の残骸を片付けて整地した場所となっているのだ。

 残骸を解体した結果出た一部の木材や瓦など、再利用出来そうな材料は纏めて置いてある。

 やろうと思えば、すぐにそこへ神社の再築が出来そうな状態になっていた。

 たった三日の間に、ここまでのことをやってくれたのは萃香である。

 正確には、異変の犯人を捜しに出掛けている萃香の分身達だった。

 頼めば、同じように彼女達が神社を建て直す作業を始めてくれるだろう。

 鬼の優れた建築技術ならば、新しく神社が建つまでそう時間は掛からない。

 しかし、霊夢はまだそれを頼まなかった。

 

「――行くか? 霊夢」

 

 地震が神社を襲ってから三日目。

 母が目の前から消えてから三日目。

 そして、博麗大結界に綻びが生じて三日目である。

 その結界の綻びを修復した霊夢は今、かつて博麗神社のあった場所に再び立っていた。

 

「ええ、行ってくるわ。マミゾウ」

 

 霊夢は振り返って、自分を見送ろうとするマミゾウの方を向いた。

 傍らには紫と萃香も立っている。

 霊夢は二人を順番に見つめた。

 

「紫、母さんの捜索は頼んだわよ」

「ええ、貴女は異変の解決に集中しなさい」

 

 紫は微笑みながら言った。

 

「萃香、犯人が『天界』にいるっていうのは間違いないのね?」

「ああ、移動もしてないよ。もう一人の私が、すぐ傍で見張っているからね」

「動く気配はなしってわけか」

「待ってるんだよ、自分を退治しに来る奴を」

「それは、異変を起こした動機と関係あるわけ?」

「わたしからは何とも言えない。霊夢自身が当人から確かめた方がいいな」

「なるほど。怒りは溜めとけ、ってことね」

「忠告するまでもないと思うけど、『正義は我にあり』なんて油断すんなよ。今回の敵は相当曲者だからね」

「分かってるわよ」

「それと、霊夢より先に紅魔館のメイドと白黒の魔法使いが着くみたいだ」

「魔理沙はなんとなく分かるけど、咲夜まで? 何で?」

「わたしが知るわけないだろ」

「それもそうか。まあ、あっちに着いたら本人に訊くわ」

 

 萃香の情報を確認して、霊夢は頷いた。

 博麗神社を襲った地震――ひいては、現在幻想郷の各所で起こっている異常気象の原因が、萃香の報告によって天界に住む天人の仕業だと分かったのは、つい先程のことだった。

 萃香の力ならば、もっと早くに情報を得ていたはずだが、それをすぐに伝えなかったのは結界の修復に集中する霊夢の気を逸らさない為だったのだろう。

 怒りに任せて職務を放棄し、敵に殴り込みをかける――などといった愚行を霊夢がするとは思えなかったが、彼女の動揺する姿を見た萃香としては一抹の不安を覚えていた。

 しかし、実際に霊夢と顔を合わせて、予想以上に落ち着いていることに驚いていた。

 紫が何かしらのフォローをしたのかと思ったが、それはないなとすぐに思い直した。

 友人でもある紫との付き合いは長い。どんな性格なのかは十分に分かっている。

 となると、要因となるのは、いつの間にか霊夢の傍に現れていた、見慣れないこの妖怪である。

 萃香は、マミゾウをこっそりと見上げた。

 

「『天界』という場所について、分かっておるのか?」

 

 改めて向かい合った霊夢に、マミゾウが訊ねた。

 外の世界については博識な彼女だったが、幻想郷のことについてはさすがに専門外である。

 

「話には聞いたことがあるわ。雲の上にある、天人の住む場所らしいわね。妖怪の山から空に昇っていけば辿り着けるって」

「ふむ、行き方が分かっておるのなら問題ないじゃろう。しかし、天人というのが儂の知るものと同じならば、かなり厄介な相手じゃな。単純に仙人よりも格上の存在じゃぞ」

「それも知ってる」

「準備は万端にな」

「大丈夫よ」

「場合によっては一時撤退も出来るように、冷静に」

「分かってる……っていうか、恥ずかしいからやめてよ」

 

 手櫛で髪を整えた後、襟元を直そうとするマミゾウの手を霊夢は押しのけた。

 

「いやぁ、すまんすまん。どうやら、おぬしよりも儂の方が緊張しとるみたいじゃの」

 

 恥ずかしそうに笑うマミゾウに釣られて、霊夢の口元にも小さな笑みが浮かんだ。

 ちょっとした気分転換をした霊夢は、空を見上げた。

 日が暮れて、夜が訪れつつある。

 雲の上にある天界も例外ではないだろう。

 闇夜の中の戦いになる。

 明日になるのを待って、日中に行動した方が有利なのかもしれないが――。

 

「じゃあ、行ってくるわ」

 

 霊夢はふわりと宙に浮かび上がった。

 

「霊夢」

 

 マミゾウに呼ばれて、振り返る。

 

「何が起こっても構わん。必ず戻って来て、儂に話してくれ」

「分かった」

 

 力強く頷き、霊夢は妖怪の山に向かって飛び立った。

 小さくなっていく霊夢の姿を、マミゾウと紫達は並んで見送っていた。

 やがて、完全に姿が見えなくなると、紫は視線だけを隣へ動かした。

 マミゾウは、まだ空を見上げていた。

 

「――三日間、共に過ごしましたけれど、貴女という妖怪がよく分かりませんわ」

 

 独り言のように紫は呟いた。

 

「特に、霊夢にそこまで親身になる理由が分かりません」

「それはおぬしが人間との付き合い方を知らんからじゃよ」

 

 空を見上げまま、マミゾウは答えた。

 

「妖怪としての知識や経験ならば、きっと儂よりもずっと上なのじゃろうな。しかしの、人間と関わった長さはきっと儂の方が上じゃよ。おぬしよりずっと近くで人と接してきた。何故なら狸が化かす相手というのは、大抵人間じゃからな」

「確かに、古今東西人間を化かした妖怪の逸話は多く存在します。そして、その結果退治された結末も」

「それも確かに。人間に殺された仲間の話は何度も聞くし、それで人間を見切る奴も多い。しかし、逆の奴もおるんじゃよ」

「それが、貴女であると?」

 

 マミゾウはニッカリと愛嬌のある笑顔を浮かべながら、紫を見返した。

 

「儂もな、そりゃあ化かした人間に痛い目に遭わされたもんよ。聞くも涙語るも涙、もしくは酒の肴の笑い話になるような経験じゃ」

 

 言葉とは裏腹に、誇るように胸を張っていた。

 

「ああ、そうじゃ。笑って話せるんじゃよ、儂が人間について語る時はな。

 人と関わって恥と失敗と重ねたが、その人と共に生きて成長した。男との惚れた腫れたも経験したし、何の間違いか人の子を育てたこともあったなぁ」

 

 遠い過去を眺めるように、マミゾウは再び空を見上げた。

 その横顔は、八雲紫をして老練な気配を感じさせた。

 単純な年月の積み重ねならば、紫の方が上である。

 人の寿命などせいぜい数十年だ。そんな人間との付き合いなど、刹那の時間に等しい。

 しかし、その刹那の間にどれほど多くの意味が込められているのか――。

 昔の自分ならば、一笑に付したかもしれない。

 だが、今なら分かる。

 マミゾウの言う『人間との付き合い方』を本当の意味で知り始めている今ならば。

 

「霊夢は良い子じゃなぁ。つい世話を焼きたくなる。なあ、紫殿よ」

「……ええ、そうね」

 

 紫はそっと目を伏せた。

 夕焼けに照らされながら、心地良い沈黙があたりに流れていた。

 やがて、辺りが薄暗くなり始めると、紫とマミゾウは屋敷へ戻る為にスキマを潜った。

 萃香の分身は役割を終えて、いつの間にか姿を消していた。

 

「――おい、貴様」

 

 屋敷に戻った二人を出迎えたのは、青筋を立てた藍だった。

 紫を丁寧に迎えた後、一変してマミゾウを敵意に満ちた瞳で睨みつける。

 この三日間で、別段珍しくもなくなった光景だった。

 

「ああ? なんじゃ、駄狐?」

「またやってくれたな」

「何の話じゃ?」

「これだ」

 

 藍がマミゾウの眼前に突きつけたのは、小さな瓶だった。

 中には緑色の粉末が入っている。

 

「調味料の棚に混ざっていた。何の真似だこれは?」

「何って、儂のお手製のふりかけじゃよ」

「炒めた茶殻と塩を混ぜただけだろうが! ふりかけなんぞ新しく買ってくればいい、貧乏臭い真似をするな!」

「貧乏臭いとはなんじゃ、エコと言えエコと! 大体、おぬしは無駄が多すぎるんじゃ!」

「貴様の嗜好なんぞ知らんがな、私の管理下にある屋敷で余計な真似はするな! 恐れ多くも紫様のお住まいだぞ、お前の行動は屋敷の品格を下げる! いや、お前の存在そのものが下げる!!」

「はっ、言われんでもおぬしの管理なんぞ受けたくないわい! 儂がそれを作ったのだって霊夢に食わせてやる為じゃ、誰がおぬしに食わすかい!」

「誰がこんなもの食うか! それと貴様、台所で勝手に漬物なんぞ作り出しおって――」

 

 言い争う二人を、傍から眺めながら紫は微笑んでいた。

 

「三日間、退屈はしなかったわね」

 

 

 

 

 天人の少女は、世界を見下ろしていた。

 どんな山よりも高く、雲よりも更に高みにある場所。

 そこが少女の住む地だった。

 様々なものを見下ろせる天空の大地である。

 少女にとって、目に映る生きとし生けるもの全ては『地を這うもの』でしかなかった。

 地を揺るがすものはあっても、天を揺るがすものはない。

 まさに磐石の世界。

 だからこそ――退屈である。

 

「退屈である」

 

 少女は想いを吐き出した。

 やってみて、それは存外虚しい行為なのだと理解した。

 

「退屈」

 

 重い息を吐き出しながらも、しかし少女はその場を動かなかった。

 注連縄が巻かれた尖った岩が地面に突き刺さり、その岩の上に腰を降ろしている。

 開いた両足の間に剣を突き立て、その柄に両手を重ねるように置いた姿勢だった。

 剣の刀身は、金属の反射光とは違う不思議な微光を自ら放っている。

 少女は、じっと動かなかった。

 じっと、何かを待っているようであった。

 待ち人――いや、獲物を待ち伏せる獣のような剣呑さを瞳の奥に隠し、ただひたすら待っているようだった。

 

「――は」

 

 やがて、少女の瞳が近づいてくる影を捉えた。

 日が暮れ、雲の上の空には月と星がハッキリと瞬いている。

 不思議なことに、それらの光だけでは説明がつかないほど周囲は暗闇が晴れていた。

 闇夜には違いないが、少女の姿も、足元の地面も、草も、木も、ハッキリと見えるのだ。

 まるで空に浮かぶこの幻想の大地そのものが、自らの存在を主張しているようであった。

 

「は」

 

 少女の口からは、断続的に笑い声が洩れていた。

 

「は」

 

 事実、少女は喜んでいた。

 待ちに待った瞬間が近づいているのだ。

 

「は」

 

 人影は、その姿を確認出来るほど近づいていた。

 向こうも、こちらを認識したらしい。真っ直ぐに向かってくる。

 二人。

 メイド服を着た人間と、魔法使いらしい格好をした人間だ。

 いずれも、本命として待っていた相手とは違うが、少女は一向に構わなかった。

 

「さあ――」

 

 少女は、満を持して立ち上がった。

 

「待ちに待った、刺激的な時間の始まりよ」


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