東方先代録   作:パイマン

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風神録編その二。


其の四十一「邪」

 かつて博麗神社のあった場所は瓦礫の山となっていた。

 折れて積み重なった木材の上に、傾いた屋根が覆い被さっている。

 それが、以前は博麗神社と呼ばれていた物の全てだ。

 倒壊した神社の前に、霊夢は立っていた。

 そのすぐ後ろでは、萃香と紫が向かい合って立っている。

 

「――なるほど。そういう経緯だったのね」

 

 萃香から事情を聞いた紫は、静かに呟いた。

 萃香と霊夢の二人が共通して知り得る、これまでの全ての事情である。

 

「先代の方からさとりの同行を求めたというのは、間違いないのね?」

「少なくともわたし達は、先代から『当日さとりも連れて行きたい』っていう提案を聞いたよ」

「そう」

 

 紫は短く相槌を打って、しばし沈黙した。

 博麗神社を襲った異常事態に対して、紫が『古明地さとり』というキーワードに何かしら思うところ、含むものがあることは明白だった。

 萃香としては、その疑念に何か口を挟むつもりはない。

 その真意や本性を理解する前に、さとりは自分達の前から消えてしまった。

 今回の出来事は、あのさとり自身にとっても予想外に降り掛かった災難のように思える。

 いずれにせよ、何者かの手によって博麗神社は破壊され、先代とさとりの二人が何処かへ消えてしまったのだ。

 萃香は霊夢の方を一瞥した。

 先程から倒壊した神社の方を向いたまま動かない霊夢は、丁度背中を向ける形になっている為、表情が見えない。

 何を考え、何を思っているのかは分からなかった。

 必死の抵抗も空しく、目の前でこれまで住んでいた家が壊され、母親が消えてしまったのだ。

 普通の人間ならば、ショックで茫然自失となってもおかしくない。

 しかし、彼女は博麗霊夢である。

 萃香は意味のない慰めの言葉を呑み込んで、再び紫に向き直った。

 

「あの地震は明らかに普通じゃなかった。人間はもちろん、その辺の妖怪にだって出来る芸当じゃないよ」

「ええ、分かっています」

「ただ神社を壊すんじゃなくて『神社の真下に地震を起こした』っていうのが曲者だ。あんな芸当は、わたしにだって出来ない。多分、紫にもね」

「そして、その地震自体も単なる地面の震えではない」

「地震が起こった時にも言っていたけど、わたしには分からなかったことが紫には見えていたんだろう? 結界が如何こうっていう話は、一体どういう意味があったんだい?」

 

 萃香の問い掛けに、紫は少しの間沈黙した。

 博麗神社を襲った事態に直面したのは紫自身を含む三人だけだ。

 他の誰も、この異常事態を知らない。

 ――今のところは。

 博麗神社の倒壊はもちろん、地底の管理者である古明地さとりと生きながら伝説とまでなった先代巫女の失踪という事件は、早ければ今日中にでも周知のものとなるだろう。

 そこから派生する様々な影響を、紫は懸念していた。

 古明地さとりには立場がある。

 先代巫女には人望がある。

 彼女達の周囲の者が少なからず混乱を起こすだろう。

 事態への対処と同時に、情報も規制しなければならない。

 紫は、萃香に対して何処まで情報を明け渡すか悩んでいるのだった。

 

「――あの地震は、幻想郷を覆う博麗大結界にも干渉していたわ」

 

 悩んだ時間は僅かだった。

 萃香を信頼出来る協力者として、紫は分かっている情報全てを教えることにした。

 

「神社と結界、どちらが本命の狙いだったのかは分からない。しかし、いずれにせよ犯人は最初から破壊目的であの地震を起こしたのでしょうね」

「それで、神社は見ての通りだけど、結界まで壊されちゃったのかい?」

「一部に綻びが生じた程度の損傷を受けたわ。もちろん、これに関しては修復が可能よ」

「そいつは良かった」

「良くはないわ。決して無視出来ない範疇の被害よ」

 

 萃香は結界に関しては門外漢である。

 顎に手を当てて、小さく唸った。

 

「つまり結界っていうのは外の世界と幻想郷を隔てる壁で、今回生じた綻びってのはその壁の亀裂みたいなもんなんだろう」

「そう考えてくれて、構わないわ」

「うん。じゃあ、先代とさとりが消えちまったのは、その亀裂から外の世界にでも飛び出しちまったんじゃないのかい?」

 

 萃香は深く考えず、自分の感じたままの意見を口にした。

 二人の存在が消失した現象を『死』や『消滅』と捉えなかったのは単なる感覚による判断だったが、紫はそれを否定しなかった。

 

「二人が何処かへ飛ばされたという考えは、合っているわ」

 

 紫は言葉を濁して答えた。

 

「紫にも何処へ飛ばされたのか分からないんだな」

「……今回の出来事は、不可解な点が多すぎる」

「そりゃもちろん、犯人の正体も目的もさっぱりなんだからね」

「それもあるけれど、起こった現象についてもよ。本来ならば、二人が何処か――可能性として一番高い外の世界としておきましょう――に、飛ばされるはずはなかった」

「……どういうこと?」

「結界の機能から考えて、異常が起こったからといって近くにある存在を外の世界へ弾き飛ばすような現象は起きないということよ。なにより、あの時生じた綻びはそこまで周囲に影響を与えるほど大きくはなかった」

 

 紫は珍しく内心の困惑と動揺を表情として表していた。

 気心の知れた相手にだけ見せる油断である。

 それが分かるだけに、萃香も紫が本当に状況を把握出来ていないのだと分かった。

 事態は、予想よりもずっと深刻なようだ。

 

「じゃあ、それも地震を起こした犯人が先代達を狙って何かしたってことのなのかな?」

「いえ、むしろ原因は先代の方にあるような――」

「え?」

「――いえ。何でもないわ」

 

 紫は途中まで口にした憶測を、自らの判断で遮った。

 萃香に現段階で分かっていること全てを話す気持ちは変わらない。

 つまり、これは分かっていることではないのだ。

 知識のある自分にも分からないことを、知識のない萃香に話して、無駄に混乱を招くことを防ぐ為だ。

 目の前で起こった現象とその分析を、紫自身も疑っていた。

 

 ――あの時、先代の近くに生じた結界の綻び。

 ――本来ならば、人体には何の影響も与えない程度の小さな亀裂。

 ――それが先代と重なった時『何か』が起こった。

 ――先代達が消えた時、小さかった亀裂は確かに周囲に影響を与えるほどに大きくなっていた。

 ――しかし、順番が違う。

 ――『亀裂が大きくなって先代を呑み込んだ』のではない。『先代が呑み込まれたせいで亀裂が大きくなった』のだ。

 

 まるで博麗大結界が先代の存在を異物として吐き出したように見えた。

 少なくとも、紫の眼にはそう映った。

 だからこそ、在り得ない現象を見て、眼を疑った。

 その通り間違いだった、と判断することは簡単である。

 しかし、無視は出来なかった。

 この地震は何者かが故意に起こしたものである。

 そこは間違いない。相手の悪意すら感じる。

 ただ、先代とさとりが消えてしまったのは、先代自身が原因となっているのかもしれない。

 紫は拭いきれない疑念を、一先ず胸の奥に仕舞い込んだ。

 

「今は、とにかく問題の解決を急ぎましょう」

 

 紫は指を三本立てた。

 

「現状の課題は三つ。結界を修復し、消えた二人を捜索し、今回の首謀者を退治する」

「じゃ、どれを優先する?」

「全部よ」

 

 即答する紫に、萃香は満足気に頷いた。

 私情を交えて、先代達の捜索を第一に考える甘さはない。

 かといって、私情を殺して機械的に判断する冷たさもない。

 萃香の一番好む解答だった。

 しかし、一つ抜けている――と。

 萃香は視線を霊夢と神社の跡地に向けて、表情を曇らせた。

 

「それと、代わりの神社を建ててやんなきゃ。今夜、霊夢の寝る場所がなくなっちまうよ」

 

 言いながら、本当は代わりなどないのだと分かっていた。

 霊夢から神社にまつわる思い出話を聞いたのは、家が壊されるほんの少し前だったのだ。

 彼女は、目の前で大切な宝物を失ってしまった。

 未だ無言のまま佇み続ける霊夢の後ろ姿が、痛ましくてならなかった。

 

「それは後回しよ」

 

 しかし、紫は冷たく告げた。

 抗議するような萃香の視線を無視して、霊夢の方に話を向ける。

 

「霊夢、貴女は今夜から私の家に住みなさい。結界の修復を手伝ってもらうわ」

「――」

「二人掛かりなら、三日もあれば作業は完了するでしょう。それが終われば、貴女の好きにすればいい」

 

 残る二つの問題――『首謀者を退治する』『先代とさとりを捜す』のいずれかを解決する為に動けばいい。

 どちらを優先するのか、紫は暗に選択を迫っているのだった。

 博麗神社の崩壊と結界の破損。

 これは、もはや『異変』である。

 その為に必要な行動は何か。

 選択に義務はない。

 しかし、紫は霊夢の判断を試していた。

 萃香は何かを言いかけ、やめた。

 冷たく感じる二人の関係に、口を挟む権利が自分にあるのか分からなかった。

 紫と霊夢。

 本来は間に先代を挟むことで穏便に成り立っている二人の関係が本当はどういったものなのか、知る者はいない。

 

「修復作業の為の準備をしておくわ。昼になったら迎えに来るから、それまでに貴女も準備を済ませておきなさい」

 

 一方的に告げると、紫は返事も待たずにスキマの中へと消えていった。

 後には、萃香と霊夢だけが残された。

 萃香は困ったように頭を掻いた。

 紫から何も言われていないが、長い付き合いの友人が自分に望んでいる役割は分かっている。

 結界の修復について自分は全く手を出せないし、異変を解決するのは博麗の巫女の仕事だ。

 そして、紫の霊夢に対する一方的な物言いに隠された真意も分かっていた。

 紫は言葉のまま、霊夢に『準備』をする時間をくれたのだ。

 

「あのな、霊夢。紫は――」

「分かってるわよ」

 

 それまで沈黙を続けていた霊夢は、あっさりと言葉を返した。

 

「話も全部聞いてた。萃香は自分のやるべきことをやって」

 

 眺めているだけだった瓦礫の山に歩み寄っていく。

 剥がれ落ちた瓦や折れた木材を踏み締めて、かつて居間があった場所へ辿り着くと、足元を掘り始めた。

 無事な物を探し出す為だ。

 陰陽玉などの異変解決に必要な道具と、そして出来れば私物を。

 瓦礫をどけるのに手間は掛かるが、探すこと自体に大した問題はない。

 何処に何があるのか、手に取るように分かる。

 例え潰れてしまっても、長年住み続けてきた家なのだから。

 萃香は思わず手を伸ばしかけ、

 

「霊夢……」

 

 すぐに自分に手伝えることなどないのだと悟って、手を下ろした

 

「わたしは、犯人を捜しにいくよ」

「頼んだわ」

「多分、すぐに見つかると思う。今回のやり口に、ちょっと心当たりがあるんだ」

「そう」

 

 霊夢は相槌を返しながら、作業を続けていた。

 一貫して背を向けた状態の為、表情は見えない。

 萃香は霊夢の背中をじっと見つめた。

 母親が目の前で消える瞬間に上げた悲鳴以来、胸の奥に隠したまま一度も見せようとしない今の感情を推し量ろうとした。

 何も感じないはずがない。

 冷静であろうとしているだけだ。

 一体、どれ程の精神力を浪費してそれを行っているのか計り知れない。

 

「霊夢は、前に『憎しみは何も実らせない』って言ったよね」

 

 ぼそりと言った。

 霊夢の動きが止まった。

 

「でも『酒で憎しみを追い出すんだ』とも言った。つまり、あの先代巫女でさえ憎しみを殺すことは出来なかったんだ。理不尽なことをされて、敵を憎く思ったり、悪態を吐きたくなるのは当たり前のことなんだよ」

「何が言いたいの?」

「目の前で大切なもんぶっ壊されて、黙ってる必要なんてないってことさ」

「――」

「こんなことを仕出かした奴を、わたしは絶対に見つけてやるよ。そしたら、霊夢――」

「……何?」

「そいつを、どうする?」

 

 萃香は尋ねた。

 実際に、霊夢が犯人を前にした時どんな行動を取るかは分からない。

 煽るつもりで、こんなことを言っているわけでもない。

 ただ今は、胸の奥へ無理に押し込んだ悪態の一つでも吐き出して、それを聞いてやりたかった。

 黙って待つ萃香に対して、霊夢は小さくため息を吐いた。

 

「難しいもんね」

 

 依然、背は向けたまま小さく呟く声が聞こえる。

 

「憎しみが如何こうって悟ったように言っておきながら、自分が経験すればこの有様なんだから……」

「霊夢」

 

 萃香は遮った。

 自分自身を責めて欲しいわけじゃない。

 

「どうする?」

 

 もう一度、尋ね直した。

 霊夢が肩越しに振り返った。

 初めて、その顔が露わになる。

 霊夢の瞳を見た萃香の背筋に、冷たいものが走り抜けた。

 

「――殺すに決まってるでしょ」

 

 鬼の萃香をして寒気を感じる程底冷えする声で、霊夢はそう答えた。

 

 

 

 

 広い空が頭上に広がっている。

 青い空だった。

 穏やかな雰囲気が漂っている。

 すぐ下にある街の様々な騒音が、ここでは遠く聞こえるのだ。

 そうか……都会のぐしゃぐしゃから逃げたければ、ここに来ればいいんだ。

 ここでは青空がおかずだ。

 

「現実逃避から戻ってきてください、ゴローちゃん」

 

 ……がーんだな、出鼻を挫かれた。

 でも、さとりの言うとおり現実へ戻ろう。

 視線を上から前に戻すと、丁度さとりが私の差し出したおにぎりを食べ終えたところだった。

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 

 水筒を手渡して、代わりに空になったおにぎりの包みを受け取る。

 空の包みを閉じて、すぐにもう一度開いてみた。

 ある意味当然のことだが、開いた包みの中身は空のままである。

 しかし、私は小さくため息を吐いた。

 予想してたけど、この鬼からもらった素敵アイテム『減らないおにぎり』も機能を停止してしまっているらしい。

 

「仕組みは分かりませんけれど、神秘の力を源にしていることは間違いないですからね。『ここ』では機能しないでしょう」

 

 うーむ、偶然手放さなかった手荷物の中にこいつがあった時は最低限の食糧問題は解決したかと思ったんだが、さすがに楽観が過ぎたか。

 私は包みを畳んで仕舞った。

 もちろん捨てることなんてしない。こいつは博麗家の家宝だし、幻想郷に戻れば機能も回復するはずだからだ。

 

 ――さて、一息つけたところで改めて状況を整理しよう。

 

 私とさとりが現在居る場所は、とある街のとあるビルの屋上である。

 博麗神社で地震に襲われて、気がついた時にはここへ転移していた。

 そして、周囲には明らかに幻想郷ではない近代都市の風景。

 そう、私達はいわゆる『現代入り』をしたらしいのだ。

 現代入り――それは幻想郷から外の世界へと転移することの通称である。

 当初の動揺から立ち直ってこの結論を導き出すまで、さして時間や手間が掛からなかったのはひとえに当事者が私とさとりの二人だったからだろう。

 これが霊夢や魔理沙など、生粋の幻想郷の住人だったら状況把握までの混乱と迷走は避けられない。

 私達だったから、ここまでスムーズに状況を理解出来たのだ。

 生前は現代社会で生活していた(と思う)記憶を持つ私と、そんな私の心を読み続けて学習したさとりだからこそ――。

 

「とはいえ、だからこそ状況の拙さも嫌というほど実感するんですけどね」

 

 水筒を私に返しながら、さとりは言った。

 その表情はお世辞にも明るいものではない。

 今後のことを考えて、その前途多難ぶりに頭を悩ませているのがよく分かった。

 それは私も同じである。

 

「私達が『ここ』へ来てしまった理由や原因は、この際置いておきましょう」

「そうだな。もっと重要なことがある」

 

 私は異を唱えることなく頷いた。

 まあ、原因について心当たりがないわけじゃないんだけどね。それはさとりも心を読んで分かっているだろう。

 この事態の発端が『地震』という点がミソだ。

 原作の時系列的に考えて、まだ起こっていない異変の中で当て嵌まるものが一つある。

 てんこちゃんマジトラブルメーカー。

 しかし、少なくとも私の持つ原作知識ではこんな現象は起こっていないし、さとりの言うとおり原因を分析したところで現状が打開されるわけではない。

 これは、ひとまず棚上げしておく問題だろう。

 

「現在最優先で解決すべき問題は、『どうやって幻想郷に戻るか?』ですね」

 

 そして、一番大きな問題でもあるのよね……。

 とりあえず、ここに至るまでに判明したものや整理した情報を挙げていくとしようか。

 

「そうですね。とにかく、分かっている情報を一つずつ確認していきましょう。何か新しいことや方針が見つかるかもしれません」

 

 まずは、一番基本的な『ここが何処なのか?』という疑問だ。

 幻想郷内じゃないことは、言うまでもない。

 眼下の街の様子からして、少なくとも九十年代以降の――まあ、簡単に言うと現代の日本の何処かの街って感じである。

 私の前世の知識と照らし合わせて、それは間違いない。

 ただ、ここで答えが二つに分かれるのだ。

 

 ――果たして、ここは『幻想郷の外の世界』なのか、それとも『東方Projectの外の世界』なのか?

 

 この二つの世界が似ているようで決定的に違うものだということは、私もさとりも分かっている。

 前者は、即ち幻想郷とは地続きの世界である。

 博麗大結界によって遮られた、一つの世界にある二つの場所だ。

 これだと話がシンプルになる。私達は何らかの拍子で結界から外に出てしまった状態なのだろう。

 しかし、もしも後者だった場合は、もはや完全な異世界である。

 幻想郷という場所が『東方Project』というシューティングゲームの中に存在する二次元の世界なのだ。

 これがややこしい。私達は言うなれば、画面の中から飛び出してきたゲームのキャラクターってことになる。

 私が『現実から東方の世界へ転生してきた人間』という前例を持っている以上、この可能性も決して否定出来ないのだ。

 今の段階では、ここが二つの世界の内どちらなのか判断がつかない。

 そして、どちらであるかで解決すべき問題の内容が大きく変わってくる。

 

「それを確かめることが、まず一つ目のやるべきことですね」

 

 さとりが冷静に結論を述べてくれた。

 正直、その冷静さが私にはありがたい。

 いや、ホント。さとりが一緒に居なかったら、私もここまで冷静に物事を考えられなかったと思う。

 ここが現実の世界かもしれない、というのは最悪の可能性の一つだが、その可能性を考慮する余裕すら作れなかっただろう。

 あの地震の時、気を失う一瞬前にさとりが私の手を掴んでくれたことだけはハッキリと覚えている。

 多分、私達が幻想郷からここへ飛ばされたのはあの瞬間だ。

 つまり、さとりは私に巻き込まれる形になってしまったのだろう。

 厄介事に巻き込んでしまったと申し訳なく思う反面、不可抗力とはいえさとりが一緒に来てくれて本当にありがたいと思うよ。

 

「今回ばかりは貴女が元凶というワケでもないでしょう。貴女を責めても意味はありませんよ」

 

 ごめんね。

 ありがとう。

 必ず、さとりを幻想郷に帰してみせるからね!

 

「はいはい、意気込むのはいいですから話を進めましょう。勢いだけで動いても事態は好転しませんよ」

 

 さとりんマジクール。

 でも、確かにまずは情報の整理を続けよう。

 さて、もしここが『外の世界』であった場合は、幻想郷への帰還方法には幾つか心当たりがある。

 地震の現場にいた紫が、全ての事態を察知して私達の場所を見つけ出し、迎えに来てくれるのを待つという消極的かつ楽観的な考えは捨てる。

 座して待つ以外の方法の一つが『外の世界の博麗神社から帰る』という方法だ。

 私の持つ原作知識によると、博麗神社は外の世界にも実在する建物である。

 そいつを見つけ出して、なんとかして辿り着けば『現代入り』とは逆に、幻想郷へと転移する『幻想入り』という形で戻れる……かもしれない。

 でも、実際一番現実的な方法だ。

 紫のような世界の境界を操る力なんて持たない私達が幻想郷との接点を得られる場所として非常に有力なのは間違いない。

 ただし、ここで新しく問題になるのは『外の世界の博麗神社』をどうやって見つけるかってことなのよね。

 当たり前だけど、私は『外の世界の博麗神社』なんて知らないし、原作でも幻想郷の神社と違って『人目につかない所にあって、荒れ放題の場所』って設定だったしね。

 そもそも、もしもここが『現実の世界』だった場合、この方法は意味を成さなくなる。

 ほとんどお手上げだ。私達自身が出来ることはもちろん、紫が無敵のスキマパワーで何とかしてくれるという他力本願すら難しいだろう。

 あと、更に現実的な問題として現在地が何処なのか分からん。

 街中なのは分かるけど、どの県のどの都市なのか細かい情報が分からないのだ。

 よって、ここまで情報を整理した結果、まず必要なのは『現在地の把握』と出た。

 色んな意味で、ここが何処なのか知る必要がある。

 まず第一歩として、そこからだな。

 

「異論はありません」

 

 私の結論に、さとりも頷いてくれた。

 うん。まずは方法が現実的なものから、一つずつ片付けていこう。

 例えば『ここが現実の世界だった場合の帰還方法』など、全く目処の立てられない場合もあるが、それも現段階では可能性の問題だ。とりあえず、後回しにしておこうと思う。

 そして、次は状態の確認だ。

 さとり、ぶっちゃけ体調の方はどう?

 隠す意味なんてないと思うけど、正直に話してくれ。頼む。

 

「心配してくれて、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。特に体調が悪いということはありません。幻想郷にいる時と同じような状態です」

 

 さとりの答えを聞いて、私は安堵のため息を吐いた。

 正直、これが一番気がかりだった。

 幻想郷と外の世界の違いが具体的にはどういったものなのか、実のところ解釈は様々だ。

 原作の設定としては『幻想郷とは外の世界で否定された妖怪や、物が流れ込む世界である』とされている。

 これがさとりのような妖怪にとって、実際にどんな意味を持つのか私には分からなかった。

 人間である私はいい。文化は違えど、同じ人間の生きる場所ならば私もまた生きていける。

 しかし、妖怪の場合は事情が異なってくる。

 最悪の想定として、外の世界とは妖怪が存在出来ない世界――言うなれば、空気や水が存在しないような文字通り妖怪の生きていけない環境なのではないかとも考えていたのだ。

 ここへ来た時点で判明した、さとりの能力の低下もその不安を煽る原因だった。

 

 ――ここに留まることは、さとりの命を削ることになるのではないか?

 

 そんな不安があった。

 しかし、とりあえず今すぐに悪影響を受けるような危機的状況ではないらしい。

 その事実に私は大きく安堵したのだった。

 

「それで、能力の方は?」

「この距離が限界ですね。これ以上離れると、貴女の心が読めません」

「範囲は三メートルほどか……」

 

 現在、私とさとりは声で会話をするのに自然な距離で向かい合っている。

 さとりを中心に約三メートルの範囲――それが今のさとりの『心を読む程度の能力』の限界だった。

 地霊殿に居た時は、部屋の奥から外の廊下まで集中しなくても心が読めてしまうと言っていた。

 随分、弱体化してしまったものだと思う。

 おまけに能力だけじゃない。

 これまでに色々と試してみたが、空を飛んだり、弾幕を放ったりといった幻想郷的な力は全て使えなくなっているようなのだ。

 つまり、今のさとりは見た目相応な少女の力しか持っていないことになる。

 試すつもりもないが、人間と同じように傷ついて、死んでしまう状態にまで弱くなっているんじゃないだろうか。

 ……なんか急に不安になってきた。

 原因は分からんけど、やっぱり絶対この世界はさとりの身体に悪いって!

 重力が十倍に感じるとか、空気に触れた皮膚が溶け始めてるとか、そういうの本当にない!?

 

「なにそれこわい……。

 いや、本当に大丈夫です。周囲の心の声が聞こえないせいで、妙な違和感はありますけど、別に体が重いとかそういうのもないですよ」

 

 そ、そうか……。

 

「それで、貴女の方はどうなんですか? 何か支障は出ていませんか?」

 

 うむ、そのことなんだけどね――。

 私は巫女服の袖から野球ボール程の玉を取り出した。

 博麗ご用達の陰陽玉だ。

 ちなみに、霖之助が新しく作ってくれた物である。反対側の袖にもう一つ入っている。

 おにぎりの入った手荷物と共に、運良くこちらの世界へ一緒に飛ばされてきたものだった。

 その玉が、仰向けに差し出した私の手のひらの上で回転を始めた。

 

「この通りだ」

「ふむ。回転の技は問題なく使えるようですね」

「陰陽玉を浮かすことも出来る。そもそも、波紋の呼吸の効果が切れていない」

「つまり、貴女の能力に関しては何ら変化は起こっていないと」

 

 多分筋力とかも落ちてないんじゃないかな。さすがにその辺の壁を殴って試すわけにもいかんけど。

 さとりだけが弱体化して、私の能力が何の影響も受けていない理由は分からない。

 でも、逆に考えると私が弱体化する理由もないのよね。

 何故なら私の持つ力は全て鍛錬によって身に着けた能力(物理)だから!

 

「……本当に、そんな単純な話なのでしょうか?」

 

 さとりは何処か納得のいかない表情で思案している様子だった。

 まあ、確かに純粋な身体能力はともかく、波紋や霊力なんてさとりの能力と同じカテゴリーに属する幻想の力だしね。

 それが私だけ使えるというのは、確かにおかしい。

 しかし、実際に私の力や技が使えるという事実は変わらない。

 そして、それは私達にとって大きなプラスとなる要素なのだ。

 この世界では戸籍も住む家も金さえもない完全に孤立無援の状態で、シンプルな『力』ってヤツは役に立つ。

 言うなれば『腕力家』だ。

 

「税関も素通り出来る武器ですか。漫画みたいに総理大臣官邸でも襲撃してみます?」

 

 い……いや、さすがに地上最強の生物みたいな生活するつもりはないけど。

 っつーか、役に立つとは言ったけど、この力を使った強盗とかの犯罪行為は出来るだけ避けたいね。

『法律って何それ食えんの?』って感じの幻想郷で暮らしていた時には全く気にしていなかったが、こうして現代社会に身を置くと、私の中の前世の記憶が現代人としての常識や感性と共に蘇ってくるようだった。

 

「最終手段とはいえ、最後の一線を守れるという保証があるのは安心しますよ。こんな何処とも知れない土地で野垂れ死ぬなんて御免ですからね」

 

 波紋が使えることが判明した為、私に関しては食事も睡眠も心配は要らない。

 しかし、さとりは違うのだ。

 幻想郷に帰ることはもちろん必要だが、その目的を完遂するまでの間生き残ることも必要である。

 人間としての戸籍や権利がないどころか存在の否定された妖怪であるさとりが、この世界で生きる為の環境を手に入れなければならない。

 先程、さとりに私の持っていたおにぎりを優先して食べさせたのもその為だ。

 ここに留まっているだけでは、事態が改善するどころかジリ貧である。

 いつの間にか、頭上の空は赤く染まり始めていた。

 どれだけこの屋上にいたのかは分からないが、そろそろ日が沈もうとしている。

 もうすぐで夜になる。

 そしたら、行動を開始するとしよう。

 馬鹿正直にビルから出ることは出来ないが、波紋を使ってビルの壁を伝いながら降りれば、誰にも見つからないはずだ。

 なるべく目立たないように、暗くなってからここを出る。

 そして、当面の目標として現在地を把握する。

 それから――どうするかは、まだ考えていない。

 どうやって博麗神社を探すのか?

 見つけたとして、どうやってそこへ行くのか?

 あるいは、他に何か帰る方法はないのか?

 正直、今後の見通しはあまり良くない。

 幻想郷で数多くの苦難を越えてきた私だが、今回のそれは全く未踏の領域だ。

 果たして、無事幻想郷に帰り着けるのか不安だが――。

 

「まあ、大丈夫でしょう。少なくとも、ここは地獄よりはマシな場所です」

 

 さとりはそう言って、私の背中を軽く叩いた。

 比較するもののスケールが凄すぎる上に、実際に旧地獄の管理者だから説得力もすげえ。

 不安を感じる点が大分ズレてると思うが、さとりの言葉に私は無駄に安心してしまうのだった。

 

 

 

 

 街は夜になっても明るかった。

 一定間隔で設置された街灯や周囲を囲む建物、道路を行き過ぎる車のヘッドライトが光を放っているからである。

 そんな街中を歩く人の数も、日中と比べて減った様子は見えない。

 もちろん、夜に出歩く人間は昼間よりも限られているが、どちらかというと人の種類が昼から夜へとシフトしただけで、全体の数自体はそう変わらないように見えるのだ。

 昼には昼の。

 夜には夜の、街の顔がある。

 この街に住む人間には見慣れた顔だった。

 しかし、そんな街を今夜は見慣れない奇妙な人間が歩いていた。

 目立つ二人組だった。

 一人は、こんな夜の時間帯に外を出歩くのは少々拙いのではないかと思うほど小柄で幼い少女だ。

 それだけならば、未成年の夜遊びと多少悪目立ちする程度の光景だったが、すぐ傍を歩くもう一人が問題だった。

 傍らの少女とは性別以外の全てが反比例するような大柄な女だった。

 ただ体が大きいだけではない。顔や剥き出しの肩は大小無数の傷痕が走っている。

 その傷痕の下には、女性とは思えないほど鍛え込まれた筋肉が備わっているのだ。

 少女が少し後ろを歩き、女がそれを先導するように、言い知れぬ静かな迫力を纏って歩道を進んでいく。

 同じ道を歩く通行人達は、自然とその二人組に道を譲る形になっていた。

 言うまでもないが、その二人組とは先代とさとりである。

 

 ――先代の言うとおり、夜に行動を始めて正解でしたね。

 

 さとりは周囲の心を読むまでもなく、自分達が異様なまでに目立っていることを自覚していた。

 暗くなった今でもここまで目立つのだ。

 日のある内に街へ出ていたら、どれだけ人目を引いたか分からない。

 

 ――しかし、それでも気休めですか。

 

 周囲の人工的な光源を眺めて、さとりは些かうんざりとしたため息を吐いた。

 先代の心を見るようになって以来、全く知らなかった外の世界について幾らか知識を得ることが出来た。

 年中日の昇らない地底や幻想郷の人里とも違う、高度な文明によって造られた都市の光景を、彼女の心から見て取ったこともある。

 しかし、実際にこうしてその中に身を置いてみると元居た場所との環境の違いに驚くばかりだった。

 幻想郷の地上を覆う雅な闇や地底に篭もる陰鬱な暗がりは、ここには存在しない。

 明るすぎる。

 うるさすぎる。

 そして、人が多すぎる。

 この世界に来て以来、聞き慣れた他者の心の声は聞こえなくなったが、それとはまた違った周囲を満たす聞き慣れない騒がしさが不快で仕方なかった。

 何故、ここの人間達はこの止むことのない騒音に耐えられるのだろう?

 そして何故、こんな狭苦しい空間に好んで集まって暮らすのだろう?

 幻想郷では在り得ないほど人口密度の高い道を進みながら、自分に向けられる好奇の視線と感情を無視しようと努力する。

 随分狭くなったはずの能力の範囲内に踏み込んでは足早に立ち去っていく人々の一瞬の心を読み取り、さとりは何故自分達がこうまで目立つのか理解し始めていた。

 まず何より最初に注意を引くのは先代である。

 大柄で体中に傷があり、何よりもその雰囲気や迫力が恐ろしいらしい。

 そんな先代の傍を幼い少女に見える自分が付き添うように歩くのが、更に奇妙に映るようだ。

 加えて、二人とも格好自体が周囲から浮いている。

 さとりの何処か一般的なファッションからズレた服装はともかく、先代に関しては巫女服である。

 これに関しては、自分よりも先代の方が自覚しているらしい。

 

 ――そんなにおかしな格好ですかね?

 

 さとりは少し前を行く、大きな背中を見上げた。

 周囲の反応など眼もくれず、堂々とした態度で歩みを続けている彼女だが、その内心が全く以ってテンパりまくっていることをさとりだけが知っている。

 

 ――ヤバイ、超見られてる。凄い写メ撮られてる。

 ――筋肉モリモリマッチョウーマンがコスプレして歩いてたら、そりゃ目立つわ!

 ――恥ずかしいを飛び越えて怖い。どうか職務質問されませんように!

 ――っつーか、さとりんを連れて歩いている時点で幼女誘拐とか誤解されるかもしれん! 親子で誤魔化せ……無理だッ!!

 

 とか内心で半ば混乱している思考が見えていた。

 他にも『やっぱり便所スリッパ』とか『園児服』とか、服装に関して何やら単語が錯綜していたが、さとりには意味が分からなかった。

 しかし、とりあえず不快だった。

 奇抜な格好なのに注目を集めるだけで、誰もが声を掛けるのを躊躇うのは先代のあまりに堂々とした歩み方のおかげだったが、その実態は立ち止まるのが怖くて恥ずかしいだけである。

 天下無敵の先代巫女が恐れる『ショクムシツモン』というものが何なのか、さとりは一人不思議に思いながら、後をついて行った。

 もちろん、先代も視線から逃れる為だけに闇雲に歩いているわけではない。

 目立つことを覚悟の上で街中に踏み入った以上、具体的な目的地はあらかじめ定めてある。

 

 ――確か『こんびに』という店ですか。こういった街には、必ずあるらしいですけどね。

 

 先代の話では、街の各所に点在し、その店が取り扱う商品はかなり幅広いらしい。

 雑貨屋と呼ぶにしても扱う品種が多すぎる、幻想郷では見かけないタイプの店だ。

 さとりにとって全く馴染みのない未知の存在だったが、先代が言うにはそこで現在地を含めた様々なことを調べられるとの話だった。

 新聞や地図、エリア情報誌と呼ばれる地域を紹介する書物も置いてある。しかも、その場で読めばお金も掛からない。

 街中には必ず存在し、しかも数が多い為すぐに探せるというのがこの店を最初の目的地に選んだ理由だった。

 街の表立った通りに出て、まだ数分程度。

 たった数分で、既に酷い目立ちようだったが、しかし先代の言葉もまた事実だった。

 

「見つけた――」

 

 言葉にして呟いた先代の声を、さとりは聞いた。

 心の中では歓声を上げている。よほど安心したらしい。

 先代の視線を辿ってみれば、道路を挟んで向かいの歩道沿いに『こんびに』とやらが見えた。

 正直、さとりにはその『こんびに』も周囲の建物も全く見分けることが出来なかったが、とにかく目的地で間違いはないらしい。

 先代と違い、さとりはそれを見つけても安堵など感じなかった。

 あの店に入ることも、このまま道を歩くことも、何処も同じように思える。

 見慣れない物ばかりの光景や、途切れることのない喧騒が耳障りだった。

 視界を常に横切り、遮り続ける人間の数に強いストレスを感じていた。

 目と耳を塞いで、蹲りたくなる。

 方向転換をした先代を見失わないように、必死で歩を進めた。

 濁った水の中を進んでいるような不自由さを感じる。

 足取りが重かった。

 酷く気分が悪い。

 普段聞こえている心の声が聞こえない代わりに、普段聞かない声や音が嫌でも耳に入ってくるのだ。

 

 ――世界が違うとは、こういうことですか。

 

 今更になって実感した。

 ここは、自分の住む世界とは違うのだと。

 自分の周りに存在するもの。

 周囲を構成するもの。

 環境そのものが違う。

 まるで、夢か幻の中を歩いているような気分だった。

 足が地面を踏み締めている感覚はあるのに、自分が何処を歩いているのか分からない。

 いや、それはある意味正解なのかもしれない。

 ここは、自分が本来存在してはいけない世界なのだから――。

 

「――さとりっ!!」

 

 先代が呼ぶ声を聞いて、さとりは我に返った。

 いつの間にか距離を離され、一足先に向かいの歩道へ辿り着いた先代が、振り返って自分を見ているのに気付いた。

 珍しく焦ったような表情で、自分に向かって叫んでいる。

 さとりは、彼女が何故焦っているのか分からなかった。

 心が読めない――それに気付いて、今更ながら自分の能力が弱体化していることを思い出した。

 そうか。

 だから、聞こえないのか。

 周りの妙な静けさは、そのせいか。

 何故『妙な静けさ』なのかというと、それは同時にうるさくもあるからだった。

 心の声は聞こえない。

 だけど、騒音はしっかりと聞こえる。

 聞いたこともない轟々と唸るような音が、どんどん大きくなってくる。

 いや。

 近づいてくる。

 さとりは思わず、音のする方向へ視線を走らせていた。

 自分が、何処を歩いているのか分かっていなかった。

 さとりは横断歩道の真ん中に立っていた。

 歩行者用信号はいつの間にか赤になっている。

 さとりは緑から赤への変化に気付かなかった。

 いや、そもそもその変化が持つ意味に思い当たらなかった。

 危機感もなく、呆然と佇む。

 そのさとり目掛けて、心を持たずに動く巨大な無機物――大型トラック――が、迫っていた。

 耳をつんざくようなブレーキとクラクションの音が響き渡り、さとりは眼を見開いた。

 

 

 

 

 交通事故の現場はいつものように野次馬でごった返していた。

 横断歩道の前に、事故の原因である大型トラックが停車している。

 幸いなことに道路は広い四車線であり、交通整理の人員が到着する前でも他の車両が立ち往生するような事態にはなっていなかった。

 しかし、一番最初に現場に到着した制服姿の巡査二人は、目の当たりにした状況に戸惑っていた。

 新人ではない。何度かこういった交通事故の現場も経験したベテランである。

 横断歩道で起こった、歩行者の信号無視による人身事故のはずだった。

 しかも、轢いたのが大型トラックだ。

 パトロール中に報告を受けて、駆けつける間に凄惨な光景を予想していた。

 確かに、大型トラックは停まっていた。

 ブレーキを掛けたタイヤの跡も残っている。

 間違いなく、通報を受けた事故現場である。

 しかし、肝心の被害者の姿が何処にもなかった。

 

「本当なんですよ、信じてくださいっ!」

 

 今、巡査の一人の前で半ば悲鳴のように叫んでいるのは、事故の当事者であるトラックの運転手だ。

 首の後ろを手で押さえながら、戸惑いと混乱をあらわにして、それでも必死に何かを伝えようと捲くし立てている。

 しかし、当の巡査には支離滅裂な話にしか思えなかった。

 目の前の運転手が、人を轢いたはずである。

 証言からして、小学生くらいの女の子らしい。

 成人男性なら生き残れるわけでもないだろうが、子供が大型トラックに轢かれたのなら、まず助からないはずだ。

 自分が子供を殺してしまった事実に、錯乱しているのかとも思った。

 

「分かりましたから、落ち着いてください」

「分かってない! あんた、何も分かってないんだ! 本当なんだ!」

 

 運転手は必死の形相で叫び続けた。

 それを抑えながら、巡査は改めて事故現場を見渡した。

 集まった野次馬が遠巻きに見つめる中、横断歩道には子供の死体はおろか血痕一つさえ残っていない。

 代わりに、トラックの方を見れば、事故の痕跡が残っていた。

 車体前部のバンパーが見事にひしゃげていた。

 人間を轢いた時につくような小さなヘコみではない。

 まるで同じ大きさのトラックと正面衝突したかのような在り得ない破損具合だ。

 しかし、もちろん他に車両など存在しない。

 間違いなく、これは人間とトラックがぶつかり合った人身事故のはずなのだ。

 なおも喋り続ける運転手の男を片手間にあしらって、巡査はトラックの破損箇所に目を凝らした。

 車体前部を押し潰し、フロントガラスが割れるほど広がった衝撃は、元は小さな一点から始まったもののようだった。

 破壊されたバンパーの中心が、一際大きく陥没している。

 しかも、その跡は――。

 

「手の跡……か?」

「だから言っただろう!」

 

 運転手は、ほとんど悲鳴のように言った。

 

「子供を轢いてしまうと思った! 慌ててブレーキを踏んだんだ! だけど、間に合わないって分かってた!

 そしたら……そしたら、突然女が車の前に飛び出してきて、素手でトラックを止めたんだよッ!!」

 

 何度聞いても信じられないことを、真に迫る勢いで運転手は繰り返した。

 ロクに減速も出来なかった大型トラックの突進を掌底で止め、その衝撃で逆に車体を半壊させたという話だ。

 運転手が痛めた首は、激突の衝撃によるむち打ちである。

 大型トラックの交通事故で、唯一の怪我人がそのトラックを運転していた人間だったというわけだ。

 当然、そんな与太話を警官が信じるはずがない。

 警官以前に、常識のある人間ならば、まず信じない。

 しかし、不可解な現場と――何よりも無数の目撃者がここには存在していた。

 

「おい、どうだった?」

 

 周囲の聞き込みから戻ってきた同僚の巡査に尋ねた。

 互いに戸惑った表情を浮かべたままである。

 

「何人かに聞いてみたが、皆同じだ。巫女服を来た大柄な女が、トラックを殴って止めた後、女の子を抱えて逃げたって」

「……信じられん」

「子供の方も変わった格好をしていたそうだ。ここから少し離れた路地から、二人で並んで歩いている姿を確認している。気になったから追いかけて、事故現場を見たっていう人もいたよ」

「そりゃそうだろう。そんな格好をしてたら目立つさ」

「携帯で撮ったっていう写真もある。頼んで借りてきた」

「おい、それは……」

「いいから、見ろって!」

 

 有無を言わせぬほど強く促されて、運転手の話を聞いていた方の巡査は、差し出された携帯の画面に視線を落とした。

 そこに映っているものを見て、驚愕に目を見開いた。

 ここに至っても尚、その巡査は全てを信じられなかった。

 画面に映るものが、あまりに非現実的すぎたからだった。

 

「女はトラックを止めた後、その場から信号機の上までジャンプして、次はビルの壁へ……屋上の辺りで見失ったそうだ」

 

 画面には、小学生くらいの女の子を脇に抱えたまま、垂直の壁を駆け上がる巫女服姿の女の背中が映っていた。

 

 

 

 

 ――逃げるんだよォォォォーーーッ!!

 

 私はかつてないほど全力で逃げていた。

 通行人の頭上を駆け抜け、建物から建物へと跳び移っていく。

 どっかの映画のエージェントじゃあるまいし、こんな滅茶苦茶なルートを警察が追ってくるはずがないと分かっていたが、駆り立てられるように私は逃げ続けた。

 やがて現場から十分に離れたことを実感すると、ビルとビルが隣接した狭い隙間に身を投げ出した。

 波紋を使うまでもない。両手はさとりを胸の前で抱えたまま、両足を広げて左右の壁に押し付ける。

 その摩擦で落下の速度を調整しながら、路地の奥へと無事に着地した。

 人気の全くない、ビルとビルの谷間の狭い空間である。

 賑やかな大通りから離れた為か、路地の外からも人の気配はしない。

 それを確認して、私はようやく一息つくことが出来たのだった。

 

「先代、降ろしてください」

 

 ああ、そうだった。

 私は慌ててさとりを地面に降ろした。

 咄嗟に抱きかかえて、あの場から逃げ出してしまった。

 その判断が間違っていたとは思わない。

 あれだけの騒ぎが起こったのだから、すぐに警察がやって来るだろうし、さとりや私があの場に残る意味もない。

 ……それでも、やっちまったという後悔が湧いてくる。

 やべえよ。

 周りから見たら、どう考えても私ってば幼女誘拐犯だよ。

 っつーか、幼女抱えてビルまで跳んで逃げるとか、もう怪人だよ。

 いや、それ以前に素手でトラックを殴って止めてるんだから巫女のコスプレしたキングコングか何かか。

 目撃者多数いるだろうし、完全に都市伝説と化すだろう。

 

「……すみません。私のせいですね」

 

 混乱気味の私の思考を読んだのか、さとりが沈んだ様子で呟いた。

 そんなことはない――とは、言えないんだよね。さすがに。

 私が咄嗟にトラックの前に飛び出したのは、さとりが轢かれそうだったから。

 これが運転手の不注意とかだったなら、まだ擁護出来る。

 しかし、事の原因はどう考えてもさとりにあった。

 さとりは信号が赤になっているのに、のんきなほどゆっくりと横断歩道を歩いていた。

 さとりが信号について知っていると思い込んでいた私も悪いんだろうが、それにしてもあの時の彼女はあまりに注意力散漫だったような気がする。

 周囲の状況に対して、無頓着にすら見えた。

 同じように歩いている人がいないとか、近づいてくるトラックの音とか、周りの異常や危険に気付けなかったものだろうか?

 平和ボケした日本人じゃあるまいし、幻想郷の地底で生きてきたさとりがそこまで危機に対して鈍いってのも考えづらいんだが――。

 

「いえ、確かに鈍っていたようです。言い訳も出来ません。完全に私の注意力の欠如が原因ですよ」

 

 あー、いや。そこまで自分を責めなくてもいいんだけど……。

 

「違うんです。本当に、今の私は鈍っているみたいなんですよ。

 第三の眼を失い、本来の目と耳だけになった自分がここまで周囲を把握出来なくなるとは思いませんでした」

 

 ――そうか。

 考えてみれば、今のさとりは目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりするのと同じ、本来在る一つの感覚が失われている状態なんだ。

 さとりの『心を読む程度の能力』は、ON・OFFを切り替えられるものではなく、常時発動している。

 嫌でも周囲の心が読めてしまうのであり、逆に言うとさとりにとって『心を読む』というのは『見る』『聞く』などと同じ自分の周囲の物事を読み取る為の自然な状態のことなのだ。

 例えば、誰かが近づいてくるのを、五感で察知するよりも先に第三の眼で捉えるのが普段のさとりなのである。

 ここでは、それがほぼ失われている。

 加えて、車自体は心のない無機物であり、高速で走る物体だ。

 運転手の心を読める距離にまで近づいたら、その段階で既に手遅れ。とっくに轢かれている。

 クソッ、迂闊だった……!

 今のさとりにとって、街中は予想以上に危険な場所だったのだ。

 

「貴女が迂闊なわけじゃありません。さっきも言いましたが、これは完全に私自身が原因です。本当に、すみません」

 

 私に対して頭を下げるさとりは、ひょっとしたら初めて見るかもしれない、しおらしい様子だった。

 い、いや! こればっかりはしょうがないって!

 ホラ、昔話でも焚き火や竹の籠が原因で退治されたり、覚妖怪って心を読めない物や状況が弱点みたいなイメージあるからさ。

 

「それが理由であっても、私が貴女の足を引っ張ったことは間違いありません。実際、これからどうします?」

 

 沈んだ表情のまま尋ねるさとりに、私は思わず返答に詰まっていた。

 うーむ……さとりを責めたくはないのだが、非常に拙い状況に陥ってしまったことは誤魔化せない。

 さとりを助ける為とはいえ、あれだけの衆目の中で派手なことをやりすぎた。

 大型トラックを素手で止める女とか、目撃者が少数なら誰も信じないホラ話だが、見てた人多かったからなぁ。

 それに幻想郷と違って、お手軽に写真を撮れる文明の利器もある。

 下手したら、音声付の動画まで撮られているかもしれない。

 どうかな、警察ってそういうの見て信じるのかな……?

 いずれにせよ、もう表立って街中を歩けないのは間違いない。

 今度は『コスプレした大女と幼女の奇妙な二人組』なんて生易しい目立ち方ではない。

 危険人物として、確実に通報される。

 まさか指名手配まではされないと思うが、顔を覚えるまでもなく格好が特徴的すぎるしね。まず見違えられることはないだろう。

 事故現場付近はもちろん、この街も――いや、この市内一帯は表立って出歩けないかもしれない。

 かなり行動が制限されることになってしまったのだ。

 

「すみません……」

「さとり、もう済んだことだ」

 

 まだ謝ろうとするさとりを、私は遮った。

 前向きに考えようよ。

 私があの時飛び出して得たものは『さとりを助けることが出来た』という最良の結果だ。

 その結果から、ちょっぴり悪い状況に繋がってしまった。

 それだけのことなんだ。

 さとりんが無事なことが大前提。

 それ以外の問題は、これから対処していけばいいんだよ。二人で力を合わせてね!

 

「……そうですね。分かりました、私も頑張ります」

 

 そう言って、さとりはようやく笑ってくれた。

 さとりんマジ天使。

 

「キモいですね」

 

 はい、笑顔で冷たいツッコミいただきました!

 ふぅ……何を焦っていたんだろうな、私は。

 別に国家権力とか今の私には怖くも何ともないし。

 さとりのおかげで、私自身も落ち着きを取り戻していた。別名、賢者タイム。

 

「しかし、動き辛くなったというのは間違いないですよ。貴女の言う『こんびに』とやらにも、迂闊に入れなくなったみたいですが」

 

 まあ、元々この格好のせいでどうせ堂々と行動は出来なかったのだ。

 コンビニの客や店員に『変な人』ってスルーされるか、通報されるかは実際賭けだったしな。

 更に夜が更けるまで待って、本格的に人気がなくなったところで適当な建物にでも忍び込むか?

 地図のある書店とか、あるいはネット環境がある場所。店なら個人経営だと侵入も楽そうだ。

 あるいは、思い切ってこの街を離れてみてもいい。

 ここ結構都会っぽいし、真っ直ぐに進んでいけば、また別の市街地に突き当たる可能性も高いだろう。

 騒ぎの及んでいないそこで改めて行動してもいいね。

 さて――っと!

 

「誰だ?」

 

 私は咄嗟にさとりを庇うように振り返っていた。

 近づいてくる人の気配を感じたのだ。

 表通りから、この狭い路地に入ってくる入り口の辺りに、その気配がある。

 姿が見えないということは、隠れているのだ。

 私の呼び掛けにも反応しない。

 一気に不穏な空気を感じた。

 

「出てこい、いるのは分かっている」

 

 脅すように言いながら、ふと我に返った。

 警戒しているのは私の方だが、相手だって同じかもしれないじゃないか。

 たまたま覗いた夜の路地裏に、幼女と向き合ったマッチョ巫女がいたら、犯罪現場に直面したかとビビるのも当然だ。

 ……やべっ。また逃げるか!?

 

「あら、分かるんですか。凄いですね」

 

 一転してテンパる私を尻目に、気配の主はあっさりと姿を現していた。

 若い女性だった。

 髪の一部を頭頂部で結えている。

 落ち着いた青を基調とした服装の、穏やかな雰囲気としっとりとした色気を纏う美人さんだった。

 むっ、なんとなく優しそうな人だ。

 少なくとも、いきなり警察に通報するような人ではないらしい。

 あと、多分人妻だ。

 いや、特に根拠はないけど、なんつーか特有の色気がね。

 

「夜中にこんな路地裏で、一体どうしたんですか? そちらの女の子は、貴女のお子さんかしら?」

 

 その女性は、物腰も口調も穏やかにゆっくりと問い掛けてきた。

 この状況、この構図で、さとりと私を親子連れと勘違いしてくれるなんて、発想が善良すぎだろ。

 これは、ひょっとしたら思わぬ助けが来たのかもしれない。

 

「何か事情があるのでしょう。よろしかったら、私の家へ来ませんか? お話をするにしても、こんな所ではなんですから」

 

 さて、どうやって話を切り出そうかと悩んでいた私より先に、そんな素敵過ぎる提案まで出してくれた。

 おいおい、なんだこの女性。

 天使の助けか何かですか!?

 

「この場合、天使よりも悪魔と疑うべきだと思いますけどね」

 

 意味深げな言葉と共に私達の会話へ割り込んできたのはさとりだった。

 おもむろに私の背後から姿を現し、目の前の女性へと歩み寄っていく。

 無造作に見える行動だった。

 しかし、我に返った私はさとりの狙いを察した。

 さとりは、あの女性の心を読むつもりなのだ。

 

「――なるほど」

 

 一定の距離を開けて立ち止まり、さとりは頷いた。

 

「あら、何かしら?」

「貴女は、どうやって路地裏にいる私達に気付いたのでしょう?」

「ええ、話し声が聞こえて……」

「事故現場から跡をつけてきた――と、考えましたね」

 

 そこで初めて、女性の優しげな顔付きが変わった。

 自然に浮かんでいた柔和な微笑みが、不自然に強張る。

 

「あの現場に居合わせたこと自体は、偶然ですか」

「――」

「大型トラックを素手で止めた人間の力に興味を持ち、接触する機会を伺っていたというわけですね」

「――」

「私が何者か、ですか。それよりも、まず貴女の正体を教えてください。ああ、言いたくないなら結構。もう『考えた』ようですからね」

 

 私の目の前で、相手の言葉を必要としない一方的な会話が成立していた。

 こうして見ると、さとりの能力ってば凶悪だねー。

 あと、あの女性の代わりに私は能力の範囲から出たから、この際失礼なこと考えちゃうけど――さとり、それは誰からも嫌われるわ。

 計算してのことなのか、それともただ単に素なのかは分からないが、一方的に話すさとりの顔には嫌らしい笑みが浮かんでいた。

 さとりの話を横から聞く限り、どうもこの女性は見た目通りに素直な優しい人とはいかないようだが、それでもさとりの方が悪いように見えてしまう意地の悪さを感じる。

 完全に悪役の顔付きと雰囲気やで、さとりん。

 紫達に誤解されるのも、さもありなん。

 

「先代」

「なんだ」

 

 唐突に名前を呼ばれて、内心でビビりながら私は応えた。

 さ、さっき考えたこと聞こえてなかったよね?

 

「問題が一つ解決しました。ここは『外の世界』で間違いありません」

「……どういうことだ?」

 

 私の疑問に対して、

 

「この女性は人間ではありません。仙人です。そうですね――霍青娥(かくせいが)さん」

 

 そんな全く予想外の答えが返ってきた。

 思わず、女性――青娥の方を凝視する。

 知識にある霍青娥というキャラクターの姿とは違う。

 でも、それも当たり前か。

 私達がそうであるように、現代社会で生きるのならゲームのような格好は目立つだけだ。

 じゃあ、本当に?

 この人が未来の異変である『東方神霊廟』で登場する霍青娥?

 今は現代社会に溶け込んで生活している、幻想郷に来る前の彼女だというのか?

 

「……そう、心が読めるのね」

 

 さすがに、青娥の方もさとりのやったことを理解したらしい。

 納得するように小さく一つ頷く。

 その仕草の中で一体どんな心を読んだのか、さとりは不機嫌そうに眉をしかめた。

 逆に、青娥の方は頬を赤らめて微笑み、

 

「二人とも、ス・テ・キ」

 

 熱い吐息のような言葉を吐き出した。

 浮かべる笑みは、先程までの優しげな微笑ではない。

 しかし、これまでの笑顔が単に装う為だけの仮面であったのだと分かるほど――本心から嬉しそうで、楽しそうな表情だった。


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