其の四十「世界」
休日の日中だけあって、街には多くの人と車が行き交っていた。
巨大な街頭テレビから流れる音楽が、街の雑音に混じって無秩序な喧騒を生み出す。
広々とした青空とは対照的に、それが発達した文明の中で新たに生まれた自らの習性であるように、人々は限られた空間に狭苦しくひしめき合っていた。
そんな群衆の中を、女が歩いている。
妙に目を引く女だった。
別段派手な服装をしているわけではなく、目立つ歩き方をしているわけではない。
地味な色のジーンズを履き、シャツの上から革のジャンパーを羽織っている。
そのジャンパーのポケットに両手を入れ、右腕に持ち手を通して小さなコンビニ袋をぶら下げていた。
すれ違う通行人の邪魔にならない程度に、歩道の端を歩いていた。
歩く速さが周りの人間よりも少しばかり速いのは、彼女が急いでいるからではなく、ただ単に足が長い分歩幅があるせいだった。
大声で携帯電話と話しているわけでもなく、無言で静かに歩いている。
それでも、前から歩いてくる人間がその女に気付くと、ギョッとした顔で見上げ、すれ違った後で必ず振り返って確認するような目立ち方だった。
女にしては身体が大きい。
身長は日本人の平均身長を明らかに上回っており、群衆の中で頭一つ分飛び出ている。
ジャンパーに隠れて分かり辛いが、見る者が見れば、鍛えられた筋肉によって一回り膨れた体格が分かる。珍しい女性のアスリートか、プロレスラーかと思うかもしれない。
しかし、その女が人目を引くのはもっと別の理由からだった。
肩よりも少し長い黒髪を、紫色のリボンで結んで一つに束ね、それが一歩進む度に背中で揺れている。
頭には、ベースボールキャップを被っている。
正面から見れば鍔で目元が隠れてしまうような深い被り方だったが、もちろん顔の全てを隠せるわけではない。
何より、身長差から大抵の人間は彼女を見上げる形になり、顔が見えてしまうのだ。
人目を引くのは、その顔だった。
目に残るほど醜い顔なのではない。
むしろ、切れ長の瞳や形の良い鼻などが美人の部類に入る女性だ。もっと柔らかな体つきならば、背の高さもあってモデルにも見えたかもしれない。
問題は、その美しい顔に刻まれているものだった。
無数の小さな傷痕があり、中でも一際目を引くのが、左頬の目元まで届く裂傷だった。
既に治った古傷である。
しかし、一体どんな物に傷つけられればこんな風になってしまうのか。平和な日本に住む人間には見慣れない、異様に目立つ傷だった。
その傷が、整った顔に言い知れない『凄み』を持たせてしまっている。
口元を結んだ引き締まった表情に、使い込まれた刀のような鋭さと冷たさを印象付けるのだ。
その女の外見や印象からして争い事が原因のようにも思えるが、一般的なナイフなどの刃物でつけられるような傷ではない。
――何かの事故に遭ったのだろうか。
――それとも、やはり喧嘩か。
――まさか、獣か何かにでも襲われたのか。
すれ違う通行人達は、勝手な想像を働かせながら、心なしか忌避するようにその女から遠ざかっていった。
そして、当の本人は向けられる好奇の視線に気付いているのかいないのか、無言で歩を進めていくのである。
やがて女が辿り着いたのは、広い公園だった。
設備が整っており、真ん中の大きな池には遊具としてボートまで備えている。
やや傾いた午後の陽光が注ぎ、地面に、木の間から洩れた光の斑模様が出来ている。
入り口から中に足を踏み入れれば、それを境に街の喧騒から抜け、公園の外側とは違った時間が流れているような、ゆったりとした空気が満ちていた。
人の数が減り、居るのは老人や子連れの親子ばかりである。
穏やかな空間の中で、女に向けられる好奇の視線はずっと少なくなっていた。
公園に入って池の方へ向かうと、丁度木陰になるような場所にベンチが幾つも設置されている。
その内の一つに座っている人物の元へ、女は歩いていった。
座っているのは、まだ幼さの残る少女だった。
男っぽい服装をしている女と比べて、如何にも女らしいワンピースとカーディガンの組み合わせを着ている。
少女の細い体つきと端正な顔立ちも相まって、歳相応に可愛らしい。
涼しげな表情で両手で持った本に意識を集中しており、近づいてきた女には気を留めていない。
その少女の隣に、女は無言で腰を降ろした。
一つのベンチに二人が座るのは、奇妙な組み合わせに感じられる光景だった。
外見から推測する年齢からして、親子か歳の離れた姉妹のようにも見える。
しかし、体格はもちろん、顔立ちも全く似ていない。
このチグハグな二人の関係を不審に思う人間は、幸運なことに周りにはいなかった。
「ああ、どうも。ご苦労様」
女が何かを言う前に、少女は視線を本に落としたまま相槌を返した。
唐突な反応を、こちらも気にした風もなく、女が袋の中身を取り出す為にポケットから手を抜いた。
異様な手だった。
手の甲も平も傷だらけである。
指に至っては一度切断してから、また繋ぎ直したかのような有様だった。
骨折を何度も経験したのか、形も歪んでいる。
しかし、その見た目が痛ましい印象を与えるかというとそうではない。
無数の傷の下にあるのは、丸みを帯びた岩のような拳だった。
折れて、治ることを繰り返した結果太くなった骨を、引き締まった肉で包み、その上から分厚いゴムのような皮膚で覆った拳。
その表面を最後の仕上げとばかりに、まるで彩るように古傷が走っているのである。
一体どういう過程でこんな傷がついたのか、常人にはもはや想像すら出来ない領域にある手だった。
もしも、この両手をポケットに隠して歩いていなければ、顔の傷以上に人目を引いただろう。
どんな仕事をすれば、こんな手になるのか。
この手は、どんなことをする為に作られた手なのか。
見る者に強い好奇心と畏怖を抱かせるようなその手は、何のことはないコンビニの袋を開いた。
袋の中を検めながら女は口を開きかけ、
「オレンジジュースの方を下さい」
少女が先を制するように答えた。
女はまだ一言も喋っていない。
果たして、袋から出て来た物はオレンジの缶ジュースだった。
しおりを挟んでページを一旦閉じた少女は、それを受け取った。
受け取ってから、睨むようにじっと見つめる。
観察するように、何の変哲もない缶ジュースを様々な角度から見つめた。
やがて、少女は呟いた。
「……どうやって開けるんですか?」
神妙な表情で尋ねる少女に対して、様子を伺っていた女の仏頂面が僅かに綻んだ。
その微笑ましげな反応に不快そうに眉を顰めながらも、少女が無言で缶を差し出し、女がそれを受け取る。
タブを引っ張って口を開けてやると、缶を再び少女に返した。
「どうも……」
少女は恥ずかしそうに、缶に口をつけて中身を啜った。
それを確認して、女の方も袋から自分の分の飲み物を取り出した。
こちらは瓶に入った炭酸飲料である。飲み口も捻って開けるキャップ式の物だ。
女は、その瓶を何故か逆さまに持った。
そして、空いた手で瓶の底を握り、捻ったのである。
本来、そうして開けるべきキャップの部分は下の方にある。
しかし、ビキッというガラスが罅割れる音を立てて、瓶は開いてしまった。
握っていた瓶底の部分が、元々そういう構造になっていたかのように、綺麗に外れてしまっていた。
底の無くなった瓶の中身を、女は喉に流し込み、一息で飲み込んだ。
その一連の流れを、傍らの少女は驚いた風もなく、むしろ何処か呆れたように眺めていた。
「……炭酸一気飲みして喉が痛いって、アホですか」
「――」
「ノリで漫画の真似なんかするからです」
少女は呟いて、オレンジジュースを一口飲んだ。
女が大きくゲップをして、涙目になりながら痛む鼻を押さえているのを横目で見ながら、もう一口飲んだ。
缶を片手に、ぼんやりと目の前に広がる光景を眺める。
公園の池で釣りをする老人や、ボートに乗って遊ぶ親子連れが見えた。
空は青く澄み渡り、飛行機雲が一筋伸びている。
遠く聞こえる街の喧騒。
車の音。
多くの人の声。
――全て少女にとって馴染みのないものだった。
見たことのない風景。
聞いたことのない音。
そして、初めて経験する世界。
空の広さだけは何処までも変わらないのに、この公園でも感じる息苦しさ。狭苦しさ。
その少女――古明地さとりにとって、何もかもが不可解で理不尽に感じられた。
疲れたようにため息を吐く。
「……何故、こんなことになってしまったんでしょうね?」
「分からん」
さとりの呟きに答えたのは、傍らで同じように憮然と目の前の光景を眺めていた先代だった。
◆
「霊夢よう――」
博麗神社への階段を登りながら、萃香はぼやいていた。
その声を向ける相手は、実際には目の前にいない。
今、向かっている先で待っている霊夢に対して独り言として呟いたのだ。
「鬼に使い走りさせるなんて、お前さんくらいのもんだよ」
萃香は大きな風呂敷包みを背負っていた。
見た目は子供程度の体格しかない萃香と同じくらいの大きさの荷物である。
しかし、見た目ほど重い物でもない。
風呂敷の中身は二組の布団だった。
「おぉーい、れいむー」
階段を登りきった萃香は、境内を通って、縁側の方へと辿り着いた。
丁度、床の拭き掃除を終えた霊夢が顔を上げる。
「ただいま」
「おかえり」
返事をしてくれる霊夢に、少しだけ機嫌が良くなる。
いつでも神社に帰ってきた時に必ず交わすこのやりとりが、萃香は好きだった。
「布団は手に入った?」
「うん。でも、これ売れ残りの古い品物だって言ってたよ」
「タダでくれるって言うんだからいいじゃない」
萃香の背負っていた布団は、人里の布団屋から貰ってきた物だった。
事前に霊夢が交渉し、今日それを萃香が取りに行ってきたのだ。
「霊夢ってば、どういう交渉をしたんだか?」
「商売じゃなくて、あの店の人の厚意よ。博麗の巫女だからね」
「そういえば、この神社って金っ気が全然ないけど生活に不自由してる様子ないよね。巫女って、そういう特権があるの?」
「権力じゃないわ。さっきも言ったけど、里の人達の厚意よ。買い物でおまけしてもらったり、余分に採れた野菜やお肉をくれたりね。まあ、特別な妖怪退治の時なんかは報酬をお金で貰ったりもするから、金銭に無縁の生活をしてるわけじゃないけど」
風呂敷を広げると、霊夢は早速その布団を干し始めた。
物干し竿には、既に二組の布団が掛けられている。
持ってきた物を含めると、四人分の布団が並ぶ形になった。
博麗神社に住んでいるのは、霊夢と居候という形の萃香の二人だけである。
その萃香にしても、何の前触れもなくフラリと出掛けて夜にいないことが多く、いたとしても屋根の下で眠ることはほとんどない。
実質、布団を使っているのは霊夢だけだった。
「それにしてもさぁ、何で四つも布団が必要なんだい?」
日の光に晒される布団を眺めながら、萃香が疑問を呟いた。
「今日は先代が泊まりに来る日だって言うのは知ってるよ」
月に一度、霊夢の元へ母である先代巫女が訪れる習慣は、今も続いていた。
それを萃香も事前に聞いている。
「それでも元からあった二組の布団で間に合うだろう?」
「もう一つはあんたのよ。感謝しなさい」
「ええっ!? いや、ありがたいけど……でも、普段は二つ目の布団を使わせてくれなかったじゃん」
「あれは母さん専用のだから駄目」
「霊夢は優しいのかケチなのか分からんね」
「優しいに決まってるでしょ」
平然と言い切る霊夢を見て、萃香は無言で肩を竦めた。
磨かれたばかりの縁側に腰を降ろして、仰向けに寝転がる。
水の乾き始めた床が冷たく、気持ちよかった。
「じゃあ、最後の四つ目は?」
「母さんが連れてくる客も含めて、四人分よ」
「なるほどー」
答えながら、霊夢も縁側に腰を降ろした。
小さな柱を挟んだ、萃香のすぐ隣である。
いつの間にか、二人にとってこの近い距離が当たり前になる程度に親しくなっていた。
「霊夢はさぁ」
「うん?」
「お邪魔虫が二人もいて、煩わしくないの?」
「邪魔虫って?」
「だからさぁ、折角の親子水入らずなんだから、わたしとその客っていうのはいない方がいいんじゃないかってね」
「気を遣いすぎよ」
霊夢は苦笑した。
共に生活していて気付いたことだが、この鬼は意外と細かい気遣いをしてくる。
「あたしは、もう子供じゃないんだからさ」
霊夢は答えた。
無理はしていない。
自然と口から出てきた答えだ。
そんな霊夢の横顔を寝転がりながら眺めていた萃香は、やがて間にある柱の方へ視線と興味を移した。
「気になってたんだけどさ、この柱の傷って何?」
縁側の屋根を支える柱には、小さな横一文字の傷が何本も刻まれていた。
博麗神社は、何代もの巫女が住み続けた古い建物である。
柱に留まらず、建物の傷自体は珍しいものではない。
しかし、縁側に立つ何本かの柱の内、萃香の見る柱にだけ、この小さな傷が何本も集中して付いているのだった。
老朽化などの自然に出来たものには見えない。
誰かが刃物で故意に何度も傷つけたような跡だ。
しかも、丁度目盛りのように、縦に一定の幅を取って刻まれている。
その不自然さが、萃香の目に留まったのだ。
「ああ、それね」
萃香と同じものを見た霊夢は、口元を綻ばせた。
「それは昔、母さんがつけた傷よ」
「先代が?」
「そう。あたしがまだ小さな子供の頃にね、柱を使って背の高さを記録してたの」
「記録って……何の為に?」
「母さんは『成長の記録だ』って言ってたわ」
「背の高さを測るだけなら、わざわざ家の柱を傷つける必要ないんじゃない?」
「あたしもそう思った。でも、母さんがこだわってたのよね」
「そりゃまた何で?」
「さあ、分からないけど――」
霊夢は立ち上がって、柱と向かい合った。
柱の傷は、霊夢の身長と比べると腰の辺りに集中してついている。
「ここが十年前のあたし。ここが九年前のあたし」
その傷を下から一つ一つ指で順番に確かめる。
「こうして、昔の自分の背の高さを確かめると、なんか嬉しくなるのよね」
霊夢の顔には、綻ぶような小さな微笑が浮かんでいた。
わざわざ柱に傷をつけて背の高さを測る必要性と、それにこだわった母の真意は、今でも分からない。
しかし、かつて抱いていたその疑問は、今はもうほとんど薄れている。
今更、母に尋ねようとも思わない。
そういうものだと思う。
これはこれで、悪くないと思う。
必要があったのかは分からないが、意味はあったのだと霊夢は一人で納得していた。
成長し、柱の傷を見るたびに、それを実感するのだ。
「……そっか」
霊夢の言葉で説明出来ない心境を、浮かべる表情を見るだけで、萃香もなんとなく察した。
成長する人間とは違い、妖怪である萃香に霊夢と共感することは出来ない。
しかし、別のことならば分かる。
「霊夢にとっての財産っていうのは、金でも物でもなく、この家そのものなんだなぁ」
萃香は納得するように頷いた。
そして、にんまりとした笑みを浮かべた。
「霊夢ってば世捨て人みたいな雰囲気があったけど、ちゃんとそういった人間らしい執着や愛着が残ってたんだねぇ」
「それって褒めてんの?」
「もちろん! なんだい、可愛いところあるんじゃないか」
「……なんか腹立つわ」
「怒るな怒るな。茶化したように聞こえたなら、許しておくれよ。
わたしはね、妖怪退治をする時は情け容赦ない鬼みたいな霊夢の、母親が関わった時に見せるそういう普通の人間みたいな一面が好きなんだよ」
「あっそ」
ニコニコと笑う萃香の告白を、ただ単にからかわれていると判断した霊夢は、素っ気無く切り捨てた。
執着や愛着といったものは、自分自身ではよく分からない感覚である。
萃香の言う通りかもしれないし、勘違いかもしれない。
確かなことは、自分がこの神社を好きだということだけだった。
少し畳の荒れた居間を見れば、母から様々なことを学びながら過ごした日々が思い出せて好きだった。
葉の落ちた境内を見れば 母が箒で掃除をしている後ろ姿が思い出せて好きだった。
使い込まれたちゃぶ台を見れば、母と一緒にした食事の味を思い出せて好きだった。
自分の靴だけが置かれた玄関を見れば、母が出て行った時の寂しさを思い出せて好きだった。
この場所には、自分の大切なものが詰まっている。
そして、いずれ新しい自分の家族と過ごすかもしれない未来もここにあるのだ。
――霊夢にとっての財産っていうのは、この家そのものなんだなぁ。
財産というものについて、よく分からなかった。
人生の中で積み重ね、大切に守って、最期には誰かに託すもの。
人によって、それは金だったり、物だったりする。
そのいずれにも執着しない霊夢にとって、財産という概念は理解し辛いものだった。
しかし、萃香の言葉が、今はすんなりと納得出来る。
確かに、この神社は自分にとって掛け替えのない財産なのかもしれない。
母から受け継ぎ、大切に守っていくものなのだ。
「萃香」
「なに?」
「ありがとう」
「うん? まあ、どういたしまして」
よく分かっていない萃香の適当な相槌を聞いて、霊夢は一人苦笑した。
家族と言えば、この奇妙な居候も今は家族なのかもしれない。
萃香とはこれまで互いに気の合った時だけ共に食事をする程度だったが、今度からはこちらからちょっと誘ってみてもいいかもしれない――と、霊夢は考えていた。
他愛もない時間だった。
掃除を終え、布団も干し終えて、準備を済ませた後は母と客人の来訪をただ待つだけである。
「そういえばさぁ」
二人して縁側でぼんやりとしている中、再び萃香が口を開いた。
「先代が連れてくる四人目って誰?」
霊夢は答えた。
「古明地さとり」
◆
「ふぅむ」
さとりは書斎で一枚の紙を睨んでいた。
この部屋では、普段は地底管理の為の事務を一人で行っている。
書類を書いたり、逆に届いた書類を検分したりする為の部屋だ。
しかし、今さとりの手元にある紙に書かれているものは文字ではなかった。
人物の全身像を描いた絵である。
さとりがインクとペン一本で描いたラフ画だった。
「上手い……のかな?」
自信がなさそうに、さとりは呟いた。
そもそも『上手い』と『下手』の境界もよく分からないのだ。
この幻想郷においては見慣れない性質の絵だった。
絵の描き方には様々な種類があるが、さとりの描いた絵のタッチは描いた本人すら見たことがない。
言うなれば――『漫画的』なイラストと称すべきものである。
さとりは手元の絵以外に、机の上に置いた他数枚の紙を順に見つめた。
いずれも描かれている内容は人物画であり、それぞれモデルも違う。
しかし、同じ漫画的なタッチで描かれたイラストという点は全て共通している。
さとり自身が手慰みとして始めて、ここ一時間ほどで描き上げた作品達だった。
一通り完成した絵ではあるが、それらを見ても自画自賛はもちろん、完成度への納得も不満も感じない。
よく分からない、というのが本音である。
さとりがこういった絵を最初に描き始めたのは全て他人――具体的には先代――の影響によるものだった。
発端は、以前先代が地霊殿を訪れた時の話だ。
リアルシャドーとかいう、ワケの分からないとんでも修行を見せてもらった後、部屋でなんかグダグダしていた時の話である。
『うめぇ! さとりん、絵めっちゃうめぇ! 漫画家になれるんじゃね!?』
思い出すことすら出来ないほどどうでもいい切っ掛けで初めて描いた絵を、先代は大げさなくらい褒めまくったのである。
もちろん、心の声で。だからこそ、本心で褒められすぎて恥ずかしいくらいだったのだが。
今のところ、絵の評価は先代からしか聞いていないので、客観的な評価として本当に上手いのかどうか自信はないが、描いた題材が先代には特にウケたらしい。
具体的には、先代の記憶から見た漫画のイメージをそのまま紙に描き移したのだ。
それまで脳内で思い浮かべるしかなかった漫画が、実際に描かれた紙を見て興奮したらしい。
イメージだろうが実際の紙だろうが内容は同じだろうとさとりは思ったが、先代にとっては大いに違うようだった。
とにかく、凄いはしゃぎっぷりだったのだけは覚えている。
それをウザイと思いながらも、手放しで褒められれば悪い気もしない。
さとりは先代に乗せられるまま、何枚も絵を描き――そして、現在に至る。
当時の妙なノリは冷めたが、暇が出来た時、気がつくと手元で絵を描いていることが多くなった。
別段、絵を描くのが好きになったわけではないし、趣味にするつもりもない。
言うなれば、何かを確かめる為に描いている。
何を確かめるつもりなのかは、自分でもよく分からない。
本当に自分の絵が上手いのかどうか、気にはなる。
さとり自身はただイメージを紙に投影して、忠実にインクで線をなぞっている程度の感覚なので、あまり馴染みのないタッチの絵を改めて珍しく感じるというのもある。
しかし、また別の考えも最近浮かぶようになってきていた。
「これが、先代の記憶にある『私達』なのよね……」
漫画的な。
アニメ的な。
あるいは――ゲーム的な。
さとりは先代の記憶にある『東方Project』と呼称されて、世にゲームとして広まっている世界観に思いを馳せた。
世とはいっても、今自分が住むこの幻想郷ではない。
そして、おそらくこの幻想郷を一部とする外の世界そのものでもない。
言うなれば、異世界だ。
だが、しかし――『こことは異なる世界』とは、一体どういうものなのか?
ある町とある別の町ではなく、地上と地底でもなく、天国と地獄という違いでもない。
真に『異なる世界』だ。
先代の言葉を借りるならば『二次元』と『三次元』だ。
先代の心から初めて読み取った時、分析や考察を放棄した疑問が、こうして絵を見ていると自然と大きくなってくるのである。
――妖怪は人間の幻想から生まれる存在だと、自分は先代に説明した。
――幻想を現実的に考察することが、無駄だと切り捨てた。
――それで自分は納得していたし、今でも疑問はない。
――しかし、こうして見ていると考えてしまう。
――先代が『この世界』に来るまで、彼女にとって私達の存在は『この絵』と同じだったのだ。
紙に描かれた絵を見ていると、思考の渦に囚われていく。
こうして、自分が何気なく描いた人物の絵は、ただ紙とインクで構成された存在である。
その表現だけで完結する存在だ。
絵であり、モデルとなった人物そのものではない。
この絵の人物に個性があり、意思があり、ましてや生きる世界があるなどと普通は考えない。
しかし、自分は生きている。
自分以外の者も生きている。
生きる世界は、幻想郷として確かに存在している。
ならば――。
「世界とは、一体何なのかしら?」
さとりの独白は、誰もいない部屋の空気に溶けて消えた。
コンコン、とドアを叩く音が聞こえる。
ノックの音を聞いて、さとりは我に返った。
別段見られて困る物ではないが、慌てて手元の物と机に並べた絵を纏めながら、返事をした。
「誰ですか?」
「妖夢です。そろそろお出掛けになる時間になりましたので、お知らせに参りました」
扉越しに応えたのは、ここ数ヶ月間地霊殿に住んで、すっかりさとりの世話が身についた妖夢だった。
ドアを開けなかったのは、さとりが入室許可を出さなかった為である。
許可を出さなかった理由は特になく、単にさとりがうっかりしていただけだったが、妖夢は勝手に開けるような真似はしなかった。
元々、白玉楼で幽々子の世話をしていた為か、主人に対する礼節を十分過ぎるほど弁えている。
彼女が地霊殿で働くようになって、役に立ったことはあれど、問題を起こしたことは一度もない。
「あ、ああ……はい。今行きます。ありがとう」
「いえ。荷物は、既に玄関へ移動させておきました」
「……どうも」
静かにドアの前から妖夢の気配が立ち去るのを感じて、さとりはため息を吐いた。
妖夢の働きに問題があるとすれば、さとり自身がいつまで経っても慣れないことだった。
なんというか、真面目すぎるし、仕事も出来すぎるのだ。
ペットの世話をすることはあっても、誰かに世話をされることのなかったさとりには、妖夢は手に余る存在だった。
お燐などはペットの中で一番自分の役に立ってくれているが、本格的な従者などこれまで傍に置いた経験がない。
最初に妖夢を拾った時は、厄介事になると予感した。
予感は、すぐに現実になった。
事がひとまず過ぎた後で、自分の行動を深く後悔した。
妖夢の存在を煩わしくも思った。
そして、それから更に時が経って、現在は――。
「このままじゃ拙いっていうのは分かってるんだけど……複雑な気分ね」
さとりは、ぼやくように呟いた。
纏めた絵を手に持ったまま、椅子から立ち上がる。
今日は、妖夢の言ったとおり出掛ける予定があった。
地上へ、しかも一泊してから帰る予定なのだ。
今更ながら、非常に気は進まないが、もう決まってしまっていることなのだから仕方がない。
さとりはもう一度、面倒そうにため息を吐いた。
部屋を出る前に、手元の紙をクシャクシャに握り潰すと、ゴミ箱に放り投げた。
絵を眺めていた時に浮かんでいた様々な考えは、その時にはスッキリと頭の中から消えていた。
◆
「失礼しまーす」
誰もいないと分かっていながら、ついつい口に出してドアを開けてしまう。
主のいなくなったさとりの部屋へ、お燐は足を踏み入れた。
さとり当人が地霊殿を発ってから、数時間後のことである。
部屋に入ると、台車に載せてきた籠に、ゴミ箱の中身を放り込んだ。
定期的に地霊殿のゴミを収集して、処分するのはお燐の仕事だった。
部屋自体の掃除は、几帳面なさとりが小まめに行っている。
今日もまたいつものように、お燐はゴミを回収して、さっさと次の部屋へ行こうとした。
さとりの書斎のゴミは、仕事に関係する重要な書類も多い。
廃棄する書類を見てはいけないとは言われていないが、お燐は興味本位で余計なことをしない分別と主人への敬意をしっかりと持っていた。
故に、それは偶然だったのだ。
台車を押そうと、ふと視線を落とした時に、乱雑に混ざったゴミの中でその絵を見つけてしまったことは。
普段は、自分の頭ではよく理解出来ない文字の塊である書類のゴミばかりだったせいか、その絵は妙にお燐の目を引いた。
「これって……あたいかい?」
クシャクシャになった紙を広げてみれば、そこに描かれているのは見たこともないタッチで描かれた人物の絵だった。
しかも、特徴からして自分をモデルにしたものだとお燐は察した。
「ええっ、さとり様って絵を描くの!? うわぁ、意外ー……」
思わず、じっと見入ってしまう。
「しかも上手い。もったいないにゃぁ、さとり様ってば何で捨てちゃったんだろう?」
初めて見るタイプの絵だったが、お燐は一目で気に入ってしまった。
お世辞ではなく、本音で上手いと感じる。
自分をモデルに描いてくれたという点も嬉しい。
一纏めにして丸められていた紙を解して、他の絵も見てみると、いずれもお燐の知っている人物が同じように描かれていた。
勇儀はともかく、ほとんど親交のない橋姫や土蜘蛛の絵が描かれているのは不思議だったが、どの絵も上手く、お燐は仕事も忘れてその場で見入ってしまった。
さとりの意外な特技に感心しながら、同時に全く別の理由でも嬉しさを感じていた。
安堵にも近い嬉しさである。
先代巫女と関わって以来、主人に漠然と抱いていた不安が心の中から消えていった。
「へへっ、今度さとり様に頼んで、あたいの絵を新しく描いてもらおうかな?」
さすがに、さとりの捨てた物を勝手に貰おうとは思わなかった。
もったいないが、この絵はこのまま処分しよう。
後で、さとり本人に訊けばいい。
そんな風に考えながら、最後の絵を見た時だった。
「え――」
お燐の思考は凍りついた。
「これって……お空?」
お燐の呟きは、不確かな疑いを含んだものだった。
ここまでの絵は、全てお燐とさとりが知る共通の人物ばかりだった。
それが一目で分かるほどに、上手く描けていたし、よく似ていた。
今、見ている絵も、人物の特徴からしてお空のものでまず間違いない。
しかし、その絵は『似ている』『似ていない』といった判断基準を別にして、お燐の知るお空の姿とは異なる点が複数存在したのだ。
お空の背格好が、今よりも大きく成長したものだというのは、まだいい。
しかし、右腕の肘から伸びる巨大な棒は一体何なのか?
右足が溶けた鉄の塊のように変質しているのは何故なのか?
左足を覆う、得体の知れない物体は?
そして、胸の中央で開かれた不気味な一つ眼が意味するものは――?
「えっ、何……これ?」
お燐は震える手で口元を覆った。
異形に描かれたお空の姿。
自分の親友が、主人の目にはこのように映っているというのか。
消えかけていた不安と恐怖が、再び蘇っていた。
敬愛する主に対する、抱いてはならないはずの畏れである。
「さとり様……?」
お燐の縋るような言葉に、応える者は当然いない。
さとりが何を思ってこれを描いたのか、知るのが不安だった。
さとりがお空に対して何を考えているのか、知るのが怖かった。
しかし、もはや無視することは出来なかった。
主人がその胸の内に一体何を思い描いて日々を過ごしているのか、全く分からない。
この時期に突然地上へ向かったさとりの真意が、お燐は急に気になり始めていた。
「さとり様は、一体何をするつもりなの――」
◇
「具体的に何をするかというと、一言で表すならば『女子会』だ」
「……はあ。まあ、呼び方なんてどうでもいいんですけど」
もしくは『パジャマパーティー』でも可!
要するに、神社に泊まって皆でキャッキャッウフフってしましょうって話なわけよ。
一晩経てば、あら不思議! 地霊殿と博麗神社は、もうご近所さんも同然って寸法さ。
「そんな理想的な展開になりますかね?」
……さとり。そんな消極的じゃ、上手くいくものもいかないよ。
人との関わりは、大抵自分の気の持ち方次第なんだ。
「でもねぇ、私って色々誤解されてますし。誤解抜きにしても、嫌われ者ですし……」
言い訳してるんじゃないですか?
出来ないこと、無理だって、諦めてるんじゃないですか?
駄目だ駄目だ! 諦めちゃ駄目だ!
出来る! 出来る! 絶対に出来るんだから!
もっと熱くなれよ……!!
熱い血燃やしてけよ……!!
人間熱くなったときが、ホントの自分に出会えるんだッ!
だからッ、ネバーギブアップッ!!
「いや、人間じゃないですし……っていうか熱っ!? え、何これ本当に熱く感じる!? ちょっと、一人で盛り上がるの止めてください!」
おっと、さとりを前向きにする為に炎の妖精にあやかっていたら、興奮しすぎてしまったようだ。
落ち着く為に深呼吸をして、私は隣を歩くさとりから心なし距離を取った。
しかし、今回の件に関しては何よりもさとりのやる気がなければ始まらないのも事実なのだ。
提案したのは私だし、お膳立てもするけど、結局霊夢と上手く親交を深められるかどうかはさとり自身に掛かっているんだからね。
「分かってますよ。わざわざ地上まで来たんです、折角の機会を無駄にしては帰れません」
さとりの返答に、私は頷いた。
――私とさとりが一緒に向かっている場所は、博麗神社である。
目的は『神社に一泊する』というだけの、地底に住むさとりにすれば一泊二日の地上旅行みたいなものである。
ぶっちゃけ、それ以外に何かすることはない。
私も月一の訪問に合わせて霊夢の様子を見る為同行するので、博麗神社に私とさとりと霊夢と、もし居るのなら萃香も合わせて四人が一緒に一日過ごすことになるだろう。
そのことに一体何の意味があるかというと――それはさっきも言ったとおり、さとり次第となるのだ。
そもそもの始まりは、さとりから相談されたというか愚痴をこぼされたというか、とにかく彼女の抱える問題を聞いたことからだ。
さとりは私に『一部の権力者からの嫌われ具合と誤解のされ具合がヤバイ』といった悩みを話してきたのだ。
「『先代のせいで』が抜けてます。もしくは『先代の仕業で』が」
……それ、重要?
「すごく重要です」
いや……でも、私が原因かどうかなんてハッキリとは……。
「貴女と縁を切ったら、私の抱えている問題が半分以上解決しそうな気がするんですが、そっち試してみていいですか?」
私のせいで! さとりんが紫や永琳とかから凄い誤解されちゃったから、それをなんとかしたいって相談されましたッ!
そして、私の出した解決案が『じゃあ、まずは他の権力者と仲良くなって誤解を解いてもらえばいいんじゃね?』といったものです!
――ま、要するに地上での友好関係を広めようという話だ。
その方法の第一歩として挙がったのが、さとりに対して偏見のない霊夢だったのである。
「博麗霊夢が候補として適切なのは認めます。
立場的に博麗の巫女というのは文句なしですし、彼女の性質ならば私に対する噂や先入観などに囚われることもないでしょう。貴女を慕ってますから、初対面やその後の交流でフォローも入れやすいですしね」
そういえば、何気にさとりってば霊夢とは以前の宴会でちゃんと会話もしてなかったんだったか。
「実際に言葉を交わす機会はありませんでしたね」
だったら、霊夢と知り合うという意味だけでも、今回のお泊りは有意義なものだと思うよ。
なんせ、さとりと霊夢は将来起こるだろう地底の異変で戦うことが決定している。
この時に同じ敵対関係であっても、初対面か顔見知りかってだけで大分状況が違ってくるだろう。
具体的に言うと、うちの霊夢は知り合いが敵になっても容赦しないが、知らない奴が敵だったらもっと容赦しないと思う。
「確かに、親しくなっておいて損はしない相手ですね……」
上手くいけば、敵対そのものがなくなるかもしれない。
まあ、私としては、そんな損得勘定なんて抜いて純粋に霊夢とさとりには仲良くなってもらいたいなぁって思うけどね。
結果的に、それがさとりという人物を理解して、誤解を解くことに繋がるのだ。
「私としては、その打算の方を重視したいんですけどね。警戒されないように、わざわざ一人でやって来たんですから」
その『警戒されないように』って心構え自体が良くないんじゃないかな。
自然体でいいと思うよ。
さとりが私と付き合っている時のような普段通りの態度で、霊夢と接すれば、自然と分かり合えるはずだ。
「貴女には分かりませんよ。一方的に相手の心が見える会話というものが、どういったものなのか――」
さとりは、暗い笑みを浮かべながら俯いてしまった。
確かに私には分からない視点だ。
さとりが地底に潜り、その地底でも嫌われているのには、それなりの理由があるということなのだろう。
でも、だからといって後ろ向きに考えても仕方がない。
ここまで来たのだ。私も出来るだけ協力するから、さとりもこれまでの自分を変えるつもりで頑張ってみてくれぃ。
大丈夫! だって、霊夢は私の娘なんだよ!
私はさとりの肩にそっと手を置いた。
「……ええ、分かってます。貴女の善意と、娘さんへの信頼は痛いほど感じますよ」
そう言って私を見上げたさとりの顔には、先程とは違う笑顔が浮かんでいた。
うんうん、その調子だ。
難しく考える必要なんてない。
さっきも言ったように、これはつまり『お泊り会』であり『パジャマパーティー』であり『女子会』だ。
地上の管理者と地底の管理者が会議とかするわけじゃない。
一緒に食事して、お風呂入って、布団の中でなんか好きな子を教え合うようなお喋りをして夜更かししようぜって程度の話なのだ。
何も重要なことなんてない。
気楽にいこうよ。
霊夢と仲良くなってくれると私は嬉しいが、殊更それを意識する必要はない。
私だって、お膳立てだけじゃなく、さとりを加えた家族と一緒に過ごすっていうのは純粋に楽しみなんだからね。
かつて暮らしていたあの神社で、さとりに話してやりたい思い出話がたくさんあるんだ。
例えばね、霊夢がまだ小さな子供の頃の話なんだけど、背の高さを――。
「はいはい、それは今夜ゆっくり聞かせてもらいます。
しかし、気楽なのはいいんですが……八雲紫に話を通さなかったのは、今更ながら良かったんでしょうかね?」
うーん、さとりなら権力使って一人で地底から地上へ出られるしね。
立場的には紫と同等なんだから、許可云々って点なら問題ないと思うけど。
「また何か良からぬ企みか、と警戒されそうなんですが」
それって今更じゃね?
「……悲しくなってきますね」
変な横槍とか妨害とかされたら、それこそ霊夢との交流に支障が出るかもしれない。
さとり自身や私が何を言っても紫の誤解を解けないっていうのなら、とりあえず霊夢と仲良くなってから、第三者を挟んで改めて話し合った方がいいと思うのよ。
「それが一番ですか――見えてきましたね」
さとりに言われて視線を移すと、いつの間にか博麗神社の境内が見え始めていた。
◆
「おおっ、本当に来た。霊夢の勘は凄いなぁ」
何の前触れもなく神社の境内へ移動した霊夢を追ってきた萃香は、階段から見える来訪者二人を見つけて、感心するように頷いた。
石段をゆっくり登ってくる二人の内、最初に見えたのは背の高い先代である。
次に、遅れてさとりの小柄な姿を確認する。
珍しいものを見た萃香は、楽しそうに口笛を吹いた。
「古明地さとりが先代巫女と密通してるって話は本当だったんだねぇ」
「なんか不穏な表現ね」
「周りはそう思ってるってだけだよ。二人とも偉い立場にいる者同士なんだし、何か勘繰りたくなるのも当たり前でしょ」
「母さんは、もう引退した身よ」
「十分過ぎるほど分かってるよ」
「あんたも現場の中心にいたんだしね。……母さんに喧嘩吹っ掛けるんじゃないわよ?」
「あの決着に後悔も未練もないし、禍根だって残しちゃいないさ。遊びの決闘くらいならやってみたいって気持ちはあるがね」
かつて死闘を演じた末に敗北した先代を前にしても、萃香はスッキリとした顔で断言してみせた。
正確には、先代と戦ったのはこの場にいる伊吹萃香ではない。
彼女の力と肉体を分けたもう一人の萃香である。
その半身の敗北と死によって、萃香の力と魂の半分は失われてしまった。
それが萃香自身に、具体的にどういった変化をもたらしたのかは当人以外誰にも分からない。
萃香があの戦いを語る時、しみじみとした実感を見せることもあれば、他人事のように当時の心境を語ることもある。
少なくとも、現在の萃香が先代に対して良くも悪くも強い感情や執着を抱いていないことは確かなようだった。
霊夢は萃香の横顔をしばらく見つめると、やがて何かに納得したかのように視線を母の方へ戻した。
二人は階段を登りきり、境内に足を踏み入れたところだった。
そこから石畳の短い参道が、霊夢と萃香の待つ賽銭箱の前まで続いている。
「しっかし、今回のこと紫は知ってるのかい?」
先代が、霊夢達に向かって軽く手を振った。
「母さんがさとりを連れてくるっていうこと?」
さとりもそれに合わせるように手を振っている。
単なる挨拶のつもりなのか、愛想はない。
「そう。紫の奴、さとりに対して随分警戒してたみたいだからね」
霊夢は主に母に向けて、笑顔を浮かべながら手を振り返した。
「母さんは『親友だ』って言ってたわよ」
今度は言葉で挨拶が交わせそうな距離まで、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「実際のところ、どういう奴なのか知るにはいい機会よね」
母が近づいてきたので、霊夢は萃香との話を切り上げた。
口を開く。
いつものように『いらっしゃい、母さん』と言って、歓迎する。
そうしようとした。
その瞬間である。
「――母さんっ!」
霊夢の勘が、異変を察知した。
感じ取った絶対的な危機感を、霊夢は警告として叫んでいた。
現実に、それが起こったのは一瞬後のことだった。
地面が激震した。
地鳴りと共に、博麗神社に在るもの全てが揺れ動いた。
踏み締めていた大地が、唐突に崩壊でも始めたかのような凄まじい揺れである。
霊夢やさとりはもちろん、先代や萃香でさえ足元のおぼつかなくなるほど強大で、何より全く前触れのない突然の地震だった。
「な、何だこりゃ!? くそっ、誰が揺らしてんだ!?」
転倒を堪えながら、萃香が悪態を吐く。
霊夢は、それを間抜けな言葉だとは思わなかった。
むしろ、的を射ている。
一瞬の判断で空中に浮遊して地震の影響から逃れた霊夢は、冷静に状況を把握していた。
この地震は自然に発生したものとは異なり、全く前兆がなかった上に、周囲の様子を見る限り博麗神社を中心とした一定の範囲のみを局所的に襲っているのだ。
萃香の言うとおり、明らかに人為的に起こされたもので間違いなかった。
何が目的なのかまでは分からない。
しかし、今も続くこの地震を止めるには、これを起こしている元凶をどうにかするのが一番手っ取り早い。
地震に襲われてからのほんの僅かな時間で霊夢の思考は素早く廻り、最適な判断を下していた。
更に状況を分析する為に視線を走らせる。
萃香も、霊夢を見て気付いたのか空中に逃れようとしている。
母を見れば、揺れに耐え切れず、地面に手をついているが、少なくとも身の危険はない。
さとりが尻から転んでいるのは、まあどうでもいい。
見える範囲に敵の姿はない。
霊夢は更に視線を動かし――動揺に目を見開いた。
「神社が……っ!」
視界に映るのは、激しく揺れる博麗神社である。
まるで神社そのものを故意に狙っているかのような局所的な震動に、木造の家屋が嫌な音を立てて軋んでいる。
屋根の瓦が剥がれ、注連縄が千切れて落ちた。
その様は、博麗神社が苦痛に身を悶え、悲鳴を上げているかのようだった。
何もしなければ、すぐにでも神社は崩壊を始めるだろう。
「畜生!」
霊夢の口から、珍しい悪態が衝いて出た。
すぐさま持っている限りの札を放出し、神社全体に結界を張り巡らせる。
結界の完成度と、術を完成させるまでの速さは、その道の達人をして称賛するほどのものだった。
地震が建物に与える影響を、驚くほど相殺している。
しかし、それでも限界だった。
老朽化の進んだ木造建築物であり、何より建物は地面に根付いている。どれだけ周りを結界で固めようと、地震の衝撃は直に伝わってしまうのだ。
「萃香、あんたも手伝いなさいっ!」
霊夢は必死に叫んだ。
「何をしているの、霊夢!」
応えたのは、萃香ではなかった。
突如、空中からスキマを使って現れた紫だった。
異常を察知して、何処からか急いで駆けつけてきたらしい。
こちらも珍しい動揺と焦燥を顔に浮かべて、霊夢を鋭く睨んでいる。
神社を守ろうとする霊夢の行動と判断を、責めるような視線だった。
「紫! 力を貸して!」
「この地震は何らかの霊的な干渉によって起こされているわ。実際の揺れよりも、博麗大結界への影響の方が重大なのよ」
「だから、こうして抑えてるんでしょうが!」
「神社の方は諦めなさい。それよりも結界の方を――!」
「諦めろなんて、ふざけ――!」
紫と霊夢の意思はすれ違っていた。
博麗神社は、幻想郷と外の世界を隔てる博麗大結界の境目に建っている。
博麗の巫女が住む理由でもあり、重要な拠点であることに間違いはない。
しかし、この建物自体は結界の維持に必要な機能の一部ではないのだ。
神社の崩壊が、結界の破壊に直接繋がるわけではない。
故に、紫は結界を重視し、神社自体は軽視した。
その判断に対して、霊夢の認識は逆だったのだ。
しかし、口論は長くは続かなかった。
二人は同時に、更なる異変を察知した。
霊夢は紫の警告したとおり、博麗大結界に綻びが生じるのを感じた。
紫の扱うスキマとは違う、博麗の巫女にだけ分かる目に見えない『亀裂』のようなものが周囲の空間に走り始めている。
まだ深刻な段階ではない。
そして、おそらくこの地震の力で博麗大結界が破壊されることはない。
――その判断が、別に油断を生んだわけではなかった。
――しかし、ここに至っても尚、霊夢は神社を守ることに執着した。
結界の亀裂がほんの僅かに大きくなったのを目で追って、視線を移した時である。
未だに、その場から動けない母の姿が見えた。
丁度、その周囲の結界が小さく綻び始めているのも。
「――ッ! 母さん、離れて!!」
霊夢は悲鳴のように叫んでいた。
自らの勘が、かつてない程の警告を発していた。
咄嗟に、結界の維持が中断するのも構わず、手を伸ばした。
しかし、近いと思っていた距離が、この一瞬ではあまりに遠すぎる。
手は届かない。
代わりに、すぐ傍にいたさとりが先代の手を掴んでいた。
霊夢の心の叫びを聞いて、体が突き動かされたのか。
それとも、彼女自身も何らかの勘が働いたのか。
いずれにせよ、その行動は無意味な結果に終わった。
――霊夢の目の前で、先代とさとりの姿が何かに呑み込まれるように消失した。
霊夢は叫んだ。
今度こそ、紛れもない悲鳴だった。
霊夢の視線を追って、二人の姿が消える瞬間を目撃していた紫と萃香も驚愕に目を見開いていた。
何が起こったのか、その場の誰にも分からなかった。
しかし、目の前の現象に対して思考することはもちろん、反応さえする間もなく、最後に一際大きな地震の波が周囲一帯を襲った。
術の行使が中断された不完全な結界では、その最後の揺れを抑えることは出来なかった。
悲痛な音を立てて、博麗神社が崩壊する。
自分の住んでいた家が、そこに宿った思い出と共に崩れ去る音を背後で聞きながら、霊夢は呆然と見つめていた。
つい先程まで、母が居たはずの場所を。
今はもう、跡形もなく何処かへ消えてしまった母の姿を。
◇
これでも山あり谷ありの長い人生、結構波乱万丈に過ごしてきたんだ。
物心つく頃には、妖怪の棲む山で放置プレイ。
普通の人生では触れることさえない、非現実的な鍛錬を実際にこなした。
いつの間にやら、岩を素手で砕けるようになったり、手から何か光るパワーを撃てる様になったり。
それを使って色んな妖怪とも戦った。
死に掛けたことも、一度や二度じゃない。
何よりも、『現実の世界からゲームの世界に転生した』という一番ぶっ飛んだ経験が、私の根幹には存在する。
ここに至って、私を心底驚かせるものなんて早々ないだろう。
――そんな風に考えていた時期が、私にもありました。
「う……っ、一体何が起こって……?」
背後でさとりの声が聞こえた。
私と同じように、少しの間気絶していたらしい。
私も目が覚めたのは、つい先程のことだ。
あの神社を突然襲った地震から現在。
私の気絶する寸前の記憶は途切れている。
地震が起こった。
そして、その後で何かが起こった。
何が起こったのかは分からないが、私はその影響で気絶していたらしい。
覚醒した私がまず感じたのは、頬に当たる硬い地面の感触だった。
そこで私はいつの間にか自分が気絶して、倒れていたことを知ったのだ。
最初は、当然のように混乱していた。
いや、今も混乱している。
状況を把握する為に周囲を見回すまでもなく、上半身を起こした私はその時点で異常を感じ取ったのだ。
つい先程まで激しく揺れていた地震が、今はすっかり止まっていることはまだ良いとして、問題は――。
「……なんですか、この地面は?」
さとりも、まず自分の足元に違和感を感じたらしい。
硬い感触は、土や砂で出来たものではない。
かといって、博麗神社の境内である石畳でもない。
多分、さとりにはソレが何なのかさえ分からないだろう。
私が教えてやりたいが、正直私も混乱気味で普段回らない口がますます上手く動かせない。
だから、さとり。
もし、出来るなら私の心を読んで察してくれ。
これはな――『コンクリート』っていうんだ。
「……何処なんですか、ここは?」
周囲を見回したさとりは、自分の居る場所が全く分からずに混乱しているようだった。
場所を判別する為の目印がないのだから、仕方がない。
ここには博麗神社の周りにあった木が一本もない。
人もいない。
家屋もない。
そもそも今立っている場所以外に地面もない。
ここは高所に位置するのだ。見えるのは、頭上に広がる青空だけである。
その空を、一筋の不自然な雲が伸びている。
あれは『飛行機雲』だ。
「先代、何か言ってくれませんか」
「……聞こえないのか?」
歩み寄ってくるさとりに、私は尋ねた。
声が聞こえないほど距離が離れていたわけではない。
肩越しに振り返れば、徐々に不穏な状況を察してきたらしい、さとりは顔を強張らせていた。
「ええ、貴女の『心の声』が聞こえません」
その返答に、私は何も言葉を返すことが出来なかった。
逃げるように視線を前に、いや眼下に戻す。
私は今、コンクリートの地面が途切れた位置に立っていた。
私達の居る高所の境目だ。
落下を防ぐ為の鉄製の『フェンス』が、ぐるりと周りを囲んでいる。
見たこともない形の柵に恐る恐る触れながら、さとりは網目の隙間から私と同じように眼下を見下ろした。
「……何処なんですか、ここは?」
呆然と呟くさとりの二度目の問い掛けに、やはり私は答えることが出来なかった。
視界に映る光景が、理解出来ないわけじゃない。
ただ、言葉に出来ない。
そもそも信じられない。
さとり、落ち着いて聞いてくれ。
心が読めないって言ってたけど、とりあえず私自身が落ち着く為に聞いてくれ。
私達が今いるのは『ビルの屋上』だ。
そして、下に広がっているのは『市街地』だ。
アスファルトの道路を走っているのは『車』と『バイク』で、石の柱は『電柱』で、川もないのに伸びている橋みたいなのは『ハイウェイ』だ。
「何処なんですか、ここは……」
さとりが三度、力なく問いを繰り返していた。
混乱気味の私の頭でも、なんとなく、薄々、大まかに状況を把握し始めているが――でも、あえて言うぞ。さとり。
私にも、分からん。
っていうか……。
――なんじゃあ、こりゃぁあああああああああああっ!!?
「やかましい」
あ、近づくと心が読めるのね。
<元ネタ解説>
・瓶の底を空けて飲む。
グラップラー刃牙でよくやる行為。あの漫画のキャラは「蓋」という物を知らない。