東方先代録   作:パイマン

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花映塚編、始まります!


終わります!


花映塚編
其の三十九「花映塚」


 この世の理を知っている。

 

 死んだ人間は肉体を捨てて魂だけの存在となり、三途の河へと導かれる。

 その河から死神によって彼岸へと渡され、閻魔の前で生前の行いを裁かれる。

 裁かれた死者の行く先は幾つかあるが、その道中の長さと内容に違いはあれど、いずれ一本の道へ戻ってくる。

 転生し、再び現世へと生れ落ちるのだ。

 少なくとも、これが幻想郷に生きる者の理である。

 自分は、この理を知っている。

 しかし、物の道理すら知らないほど幼い子供の頃、母からまた別の話を聞かされたことがあった。

 

 ――人は死ぬと、花になるんだよ。

 

 そう教えた母の理屈が、幼い子供に死という概念を柔らかく伝える為に噛み砕いた作り話であることは分かっている。

 自分事ながら非常に可愛げのない子供だったと思うが、その話を信じていたのは一年にも満たなかった。

 母が改めて教えるまでもなく、自分は現実の摂理を知っていった。

 だけど、母のしてくれた話を疎かに捉えたり馬鹿にしたことは、成長した今でも一度としてない。

 この世を彷徨う幽霊の宿った植物が花を咲かせるという現象は、実際に存在もするのだ。その事実を知って、母の博識さに感心したことさえある。

 ……やはり、自分はあの人にとって可愛げのない子供のようだ。

 それでも――あの時母が教えてくれたことを、単なる子供の頃の出来事として色褪せるままにしておくことはなかった。

 時折、他愛もなく疑問に思うのだ。

 人は死ぬと花になる、という。

 でも、人も花も種類は一つじゃない。

 

 ――もし、本当に人が死んで花になるのなら、一体どんな花になるんだろう?

 

 

 

 

 眼を開ければ、そこは川辺だった。

 長い河が視界を横切っている。

 対岸は遠く、見えない。

 何故、自分がこんな所に立っているのか、最初は分からなかった。

 しかし、足元を見て、すぐに理解した。

 足がない。

 立っているのではなく、浮いているのだ。

 そして、ようやく理解した。

 

 ――自分は死んで、御霊となったのだ。

 

 理解した瞬間、ここが何処なのかも分かった。

 ここは死んだ者がやって来る場所――『三途の河』なのだ。

 

「おぉい、こっちだよー」

 

 自分を呼ぶ声が聞こえて、幽霊は視線を移した。

 もはや肉体を失い、眼も耳もなくなっていたが、とにかく『聞こえた』から声の主を『見た』のである。

 不思議な感覚だったが、とにかくそう感じるのだから仕方がない。

 三途の河の川辺に小船を寄せて、その上に一人の女性が立っていた。

 人懐っこい笑みを浮かべた、美しい女性である。

 自然とその女性に手招きされるまま、近づいていった。

 

「やあ、どうも。あんたは、自分が今どんな状態か理解しているかい?」

 

 女性の質問に、死者は頷いた。

 当然、頭も首もない状態だったが、とにかく頷いた。

 生前の形を失い、魂だけの存在となった者のその仕草が、しかし目の前の女性には分かるらしい。

 

「そうか、そりゃあよかった。無事に往生できたようだね」

 

 そう言って、満足そうに笑った。

 

「あたいの名前は小野塚小町。あんたを彼岸に送る舟渡し役の死神だよ」

 

 小町と名乗った女性の説明を聞き、その幽霊は驚いた。

 しかし、言われてみれば『なるほど』と納得出来るものである。

 小町は肩に大きな鎌を担いでいた。

 これが噂に聞く『死神の鎌』なのだ、と。納得と共に感動もしていた。

 そんな死者の魂の反応に、小町は気づかれずに苦笑した。

 実は、この鎌がこんな風に迎える死者を納得させる為のサービスの一環でしかないことは企業秘密なのである。

 

「さあ、納得してもらったところで舟に乗っておくれ。この三途の河を渡って、閻魔様の所へ送ろう」

 

 小町に促されるまま、死者の魂は舟に乗った。

 ここに至るまで、声による会話は成されていない。

 しかし、死神である小町とこの魂との間にはしっかりとした意志の疎通が成立していた。

 

「ああ、そうだ。舟の渡し賃をいただくよ」

 

 小町が促すまでもなく、死者が生前の『徳』を表す、あの世の銭を渡した。

 渡したというよりも、勝手にそうなった。

 小町の手のひらには、いつの間にか銭が握られていた。

 生前に犯した罪の多さによって三途の河の対岸は長くなり、それを縮める為に渡し守の死神へ銭を渡して距離を縮めてもらうのだ。

 そして、その銭の数は、生前の善行に左右される。

 徳のない悪人は、当然銭など持っていない。

 彼岸までの長い距離を縮めてもらうことも出来ず、いつまでも三途の河を渡りきることが出来ないのだ。

 逆に、善人はあっという間に彼岸に辿り着ける。

 そして、今回小町が受け取った銭の数は十分なものだった。

 

「あいよ、確かにいただいた。あんた、一角の人間としてしっかり生きたようだね」

 

 小町はにっこりと笑って、舟を漕ぎ出した。

 死者の魂を乗せ、死神の舟が三途の河を渡っていく。

 

「あんたなら、この河を渡りきるのも、そう長い時間掛からないだろうよ」

 

 河を渡りながら、小町は饒舌に話しかける。

 

「あたいは結構話好きでね。こうして、河を渡っている間に話をして暇を潰すのが好きなんだ。煩わしかったら、御免よ。

 ――ん、そんなことはないかい? ははっ、そうか。あんたも暇か。じゃあ、なんか生きてた頃の話でもしておくれよ。あたいは、話をするのも、聞くのも好きだからね」

 

 この人懐っこい死神は、どうやら聞き上手でもあるらしかった。

 見た目も美しく、可愛げのある女性である。

 話を振られて、不快に感じる人間などそうはいない。

 その死者の魂は、楽しげに小町に話し始めた。

 生前に経験した出来事を。

 愛する仲間や家族と築いた一角の人間としての生活を。

 己の人生の中で、最も苦難に溢れ、そして輝かしかった時代の話を――。

 

「――なるほど。あんたも、同じ時代を生きた人間だったんだねぇ」

 

 話を聞く内に、小町は感慨深く呟いていた。

 

「いやね、似たような話をこの前送った魂も話していたなぁって思ってね。世代交代ってやつか。多分、あんたの同輩だったんだろうね」

 

 病気や事故に遭うこともなく、人間としての天寿を全うしたのならば、ある程度死期も重なってくる。

 小町は、ここのところ何度かそういった同じ年代の死者の魂を送った経験があるのだった。

 皆、いずれも一角の人生を真っ当に生きた人間達だった。

 多くの人間が、多くの生き方を経て、多くの死に方に辿り着く。

 善人も多ければ、悪人も当然に多い。

 幸福な者もいれば、不幸に塗れた者もいるのだ。

 小町はそうして、多くの死者を彼岸へ送ってきた。

 そして、小町はここ最近送った者達の話の中から一つの共通点を見つけたのである。

 

「他の人間もね、同じようにある人物を持ち上げるんだ。聞く限り、大した人物みたいだねぇ――その『先代巫女』ってのは」

 

 

 

 

 ――幻想郷が蘇生した。

 

 冬の白色は春の日差しに彩られ、幻想郷は完全に生の色を取り戻していた。

 冬の間眠っていた色の力が目覚め、幻想郷を覆う。

 花と同時に妖精達も騒がしくなる。

 その異常な美しさの自然は、幻想郷に住む者全てを驚かせた。

 桜、向日葵、野菊、桔梗――まだ春だというのに、一年中全ての花が同時に咲き出していたのだ。

 多くの人間と全ての妖精は、自然からのプレゼントと受け取って暫くその光景に浮かれていた。

 

 しかし、どんなにのんきな者でもいずれ事態の重大さに気付く。

 これは、幻想郷全体に及ぶほどの異常現象――『異変』である、と。

 

 

 

 

「――まあ、ネタ晴らしすると、異変じゃないんだけどね」

 

 霊夢は気の抜けた声で、魔理沙に告げた。

 縁側に腰掛け、のんきにお茶を飲んでいる。

 神社の外に広がる色とりどりに咲き乱れる花の数々を眺めて、楽しんですらいるようだった。

 その視界を遮るように真正面で仁王立ちしていた魔理沙は、予想外の答えに眼を丸くしていた。

 

「いや、異変だろ! 見ろよ、この光景!」

 

 花の咲く植物ならば全て片っ端から咲いている、といった状況を指して、魔理沙が声を荒げる。

 

「花だけじゃない。ここに来るまでに妖精の群れに何度も喧嘩を売られたんだ。どう見ても普通じゃないぜ」

「その喧嘩を、律儀に全部買ってたわね」

 

 博麗神社に来るまでに合流した咲夜が言った。

 こちらは、霊夢の告げた内容にも憎らしいほど動揺を見せていない。

 普段通りの瀟洒な佇まいのまま、手元で何かを弄っている。

 

「当たり前だぜ。妖精なんかに舐められたくないからな」

「それに、弾幕ごっこのいい練習にもなるしね」

 

 咲夜にあっさりと本心を言い当てられ、魔理沙は僅かに頬を赤くした。

 常日頃の地道な努力を他人に知られることを恥と考えている魔理沙にとって、そういった事実は明かされたくないものなのだ。

 

「さ、咲夜も何か言えよ! これが異変じゃないなんて、どう考えてもおかしいだろ!?」

「魔理沙」

「何だよ!?」

「はい、プレゼント」

 

 咲夜は微笑みながらトレードマークである黒いトンガリ帽子を取って、魔理沙の頭に花の冠を載せた。

 先程から、手ごろな野草の花を使って作っていたらしい。 

 

「あら、可愛い」

 

 魔理沙の呆けた顔を、咲夜と霊夢は微笑ましげに見つめた。

 完全にからかわれていると察した魔理沙が、慌てて帽子を奪い返して、頭の上の花冠を隠すように被る。

 

「なんだよ!? わたしは真面目な話をしてるんだぞ!」

「こっちも真面目に答えてるのよ。これは異変じゃない」

 

 お茶を乾して、空になった湯飲みを傍らに置きながら、霊夢が言った。

 

「六十年に一度の間隔で、外の世界で発生する幽霊が増加するのよ。そして、今日が丁度その日なの」

「それは……まさに異変じゃないのか?」

「違うわ。これは自然に起こってしまうことであって、人為的に起こされていることじゃないもの。

 三途の河の案内人である死神の仕事の許容量を超える数の幽霊が、幻想郷に溢れかえってしまった状況なのよ」

「花が咲き乱れているのは?」

「その溢れた幽霊が花に憑依して、季節に関係なく咲いてしまっているってわけね。妖精が興奮しているのは、不自然な花に釣られているだけなの。

 つまり、今回の出来事に関しては傍観が正解ってわけ。放置しておいても死神がちゃんと仕事していれば、次第に咲いている花も減って、いずれは解決するわよ」

「なるほど」

 

 納得の言葉を呟いたのは咲夜だけだった。

 霊夢の明瞭な説明に対して、魔理沙だけは何処か不満気な表情を浮かべている。

 この説明について、信用していないわけではない。

 むしろ、逆だった。

 異変解決の為に意気込んでいたところに、あっさりと真相を明かされて、気持ちの整理がつかないのだ。

 今回の出来事が異変だと感じて、真っ先に博麗神社へと向かったのは、霊夢に会う為である。

 どちらが先に異変を解決出来るのか、勝負する為に来たのだ。

 しかし、実際にやって来てみれば、告げられたのは事の真相。

 落ち着き払って事態を把握していた霊夢に対して、気持ちも行動も空回っていただけだった自分が酷く恥ずかしく感じた。

 何か反論したいが、何も言えない。

 黙り込んでしまった魔理沙の内心を見抜いた咲夜は、小さく微笑んだ。

 

「事態は把握したわ。さして問題がないのならば、折角だから楽しみましょう?」

「楽しむって……」

 

 俯いていた顔を上げた魔理沙に、咲夜は周囲を見るように促す。

 

「四季折々の花が一度に楽しめるのよ。これらが消えてしまうまでに、楽しんでおかなければ損でしょう?」

「あんたも大概のんきね」

 

 霊夢が呆れたように呟くのを、ウィンク一つで返す。

 咲夜は湯飲みと一緒に置かれた急須を手に取って、縁側から神社に上がった。

 

「お茶、新しく入れるわね。あと二つくらい湯呑みはあるでしょう」

「勝手に探して頂戴。あと、棚にあるお煎餅取ってきて」

「分かったわ」

「魔理沙。あんたもそんな所で突っ立ってないで、座りなさいよ」

「……うん」

 

 霊夢の座る隣をぽんぽんと叩かれ、魔理沙は戸惑いながらも腰を降ろした。

 咲夜が部屋の奥へと去っていく。

 残された二人は、外の彩られた風景をぼんやりと眺めていた。

 

「お前さ」

「うん」

「ちょっと性格変わったんじゃないか?」

「そうかしら」

「元々マイペースなやつだったけど、のんきになったな」

「……それって何か違いある?」

「あ、いや……難しいんだけど、なんていうか柔らかくなったっていうか」

「ふーん」

 

 霊夢は気のない返事をする。

 その横顔を眺めながら、魔理沙は呟いた。

 

「うん、そうだな。前よりものんびりしているように見えるな」

「じゃあ、前のあたしって焦ってたり緊張してるように見えてたわけ?」

「……ああ。そうかもしれない」

「そう」

 

 魔理沙の根拠のない言葉に、しかし霊夢は何処か納得したように小さく頷いた。

 本当に、自分が変わったかどうかなんて分からない。

 しかし、何時、何処で、どんな切っ掛けがあったかは心当たりがある。

 今の霊夢の中にある落ち着きは、一つの達成感から生まれているものだと本人も自覚していた。

 

「そうかもしれないわね」

「でも、いざ異変って時にのんきになり過ぎないか不安だぜ」

「本当の異変だったら、ちゃんと本気出すわよ」

「妖しいもんだ。しかし、霊夢は何でも知ってるよな」

「何でもは知らないわよ」

「でも、今回のことだって見抜いてたんだろ。わたしはもちろん、咲夜だって知らなかったんだ。六十年に一度の出来事なんて、長生きの年寄りか妖怪ぐらいしか知らないと思うぜ」

「あたしだって、母さんに教えてもらわなきゃ知らなかったわよ。きっと」

「今回のこと、おふくろさんに教えてもらったのか?」

「そうよ、子供の頃にね」

「それでか……」

「事前に知ってなければ、あたしも異変だと勘違いしたかもね」

「……フォローはいらないぜ」

「別にそういうわけじゃないけど……」

 

 自然と、二人は黙り込んだ。

 再び風景を眺める。

 

「そういえば、霊夢のおふくろさんってああ見えて長生きなんだよな」

「そうね」

「六十年前に、同じような出来事があったから知ってたのかな?」

「さあ……」

 

 そもそも、自分は母親の正確な年齢すら知らないのだ。

 霊夢はふと、そんなことを思いついていた。

 他愛もない疑問である。

 心に留めておくほどの内容でもない。

 この母娘にとって、何の問題にもならない謎だからだ。

 博麗の巫女にそんなささやかな思いつきだけを残して、この幻想郷を覆う奇妙な現象は『異変』と認定されることなく見送られたのである。

 

 

 

 

「これは異変に間違いないわ!」

「なんですって、それは本当ですか!? チルノさん!」

 

 胸を張って断言するチルノに、文は殊更驚いてみせた。

 

「周りを見てみれば分かるわ。あそこで咲いてる花なんて、本当は秋にしか咲かないのよ!」

「なんと。チルノさんは博識ですねぇ」

「えへへ……ハクシキって何?」

「物知りってことです」

「うん! けーねの所でいっぱい勉強したからね!」

 

 チルノの満面の笑顔を、文はすかさず写真に収めた。

 続いて、チルノが促した周囲の風景も撮っていく。

 二人のいる霧の湖の周辺は、花をつける種類の植物は全て、その辺の雑草に至るまで花を咲かせていた。

 実際のところ、リアクションに反して文はこれらの異常現象に対して驚きはない。

 チルノを尋ねてここへ来るまでに、妖怪の山や道中で嫌というほど見てきたからだ。

 本来ならば今の時期に咲かない花が、チルノの指した秋の花以外にも多種多様に咲いているという事実も最初から知っている。

 その原因についても幾らか心当たりがあり、少なくともチルノよりは多くの物事を察していた。

 それでも感心してみせたのは、チルノをおだてて、乗せる為である。

 

「しかし、異変だと言うのならば解決しなければいけませんね」

「だったら、あたいが解決してみせるわ!」

 

 チルノのシンプルな返答は、話題を誘導しようとしていた文にとって嬉しい誤算だった。

 

「しかし、異変を解決するのは博麗の巫女の仕事では?」

 

 浮かびそうになる笑みを殺して、何食わぬ顔で問い掛ける。

 

「そんなの早いもの勝ちよ! あたいが霊夢より先に異変を解決してみせる!」

「おお、凄い自信ですね。さすがは、先代巫女様の一番弟子のチルノさんです!」

「へへっ、当然よ! この前の異変みたいに、今度はあたいが異変を解決してお師匠に一人前って認めてもらうんだ!」

 

 ほう、と。文は今度は本当に驚いていた。

 思慮の浅い妖精から、あまりに真っ当でひたむきな目的意識が感じられたからだ。

 チルノの言う『前の異変』とは、幻想郷中を揺るがした鬼の異変である。

 あの異変の解決によって、霊夢が正当な博麗の巫女として先代巫女を含めた周囲の者達に認められたことは間違いない。

 文自身もその場に立会い、新聞として記録に残した。

 長年続けてきた文々。新聞の中でも、一二を争う大反響を呼んだ記事だった。

 あれから冬を越え、事件の衝撃も人々の記憶となって薄れ始めている。

 あの後、文々。新聞は何度か発行しているが、当然のこととして当時のインパクトを超えるような記事は作れていない。

 今回の花の騒動についても、ネタ探しを兼ねて妖怪の山から出てきたのである。

 

 ――妖精達も興奮しているみたいだし、力の強いチルノなら何か普通より大きなことをしてくれると踏んだんだけどね。

 

 この異常現象に疑問を感じていたとは意外だった。

 単純なチルノが誰かに喧嘩を売って、弾幕ごっこをしている光景を幾つか撮れれば十分だと思っていた。

 しかし、良い意味で予想外の事態に発展しようとしている。

 更にその理由が、妖精らしからぬ理性的なものであることに、文は少しばかり感心したのだった。

 

「いやはや、やっぱりチルノさんはそこらの妖精とは違いますね。楽しませてくれます」

「あたいは、サイキョーだからね」

「まさにその通り」

 

 文は愛想笑いを浮かべながらチルノに合わせた。

 内心では、妖精如きの自負など鼻にも掛けていない。

 しかし、以前よりも僅かに、チルノに対する評価は上がっていた。

 チルノがもはやただの妖精などというカテゴリーに収まっていないことは、これまでの付き合いで分かっていることである。

 真相はどうあれ、肩書きはあの先代巫女の『一番弟子』である。

 何処まで本気か分からないが、それは先代当人も認めている。

 思えば、文がチルノに対する印象を変えたのは、先代巫女との関わりを知ってからだった。

 

 ――あやや、何か妙な既視感を感じると思ったら。

 

 不意に気付いた文は、内心で苦笑した。

 以前の春雪異変を記事にした後も、こうして次のネタを探してチルノの元へやって来て、そして地底で先代の起こした騒動を知ったのだ。

 あの時と状況がよく似ている。

 地底で起こした鬼との戦いに驚き、それを制した先代に戦慄し、勇儀と酒を飲み交わすという緊張を味わった。

 当時のことを思い出して、また妙な期待と不安を抱いてしまう。

 これから先に待つものに、尻込みすると同時に好奇心も湧いてくる。

 

「チルノさんの異変解決に、私もお供しますよ。では、まず何処へ行きましょう?」

「実は、この異変の犯人についてもう分かってるのよ。花の異変……つまり、犯人は幽香で間違いないわ!」

「なるほど! 素晴らしい推理です!」

「ふふん。さあ、幽香を退治しにいくわよ!」

 

 想定する限り最も面白い相手と戦うことを選んだチルノを、内心で称賛しながら文は後をついていく。

 奇しくも相手は、先代巫女と因縁の深い相手だ。

 チルノと向かう先に何が待っているのか、実に興味深い。

 やはり先代の――あの娘の関わる何かの騒動やその種が待っているのだろうか。

 あの娘を妖怪の山で初めて見つけて以来、いつも驚かされてきた。

 彼女の行動には、いつも期待と不安を感じている。

 言葉では言い表せない、妙な心境になってしまう。

 

 ――また、貴女について予想外な事実が明らかになっちゃったりするのかしら?

 

 脳裏に浮かべた先代の姿に向けて、文は呟いた。

 

 

 

 

 ――私は、目の前の男に間違いなく負ける。そして殺される。

 

 私の前に現れた敵は、そういう男だった。

 私の生涯で最大最強の敵だと断言出来る。

 実際に死闘を繰り広げた幻想郷の妖怪達を差し置いてでも、そう断言出来てしまう。

 こうして現実に相対するのは初めてだが、この男の力を私自身がよく知っているからだった。

 身長は、長身の私が軽く見上げるほど。

 服装は黒のカンフー服で、その下には『鍛え抜かれた』という形容詞そのものといった肉体が収まっている。

 髪はまるでライオンのたてがみ、顔は悪魔か鬼の風貌だ。

 そこに刻まれた表情は、戦闘態勢を取った私を前にして全く揺るがない笑みの形。

 私の知る姿そのままに、その男は目の前に現れたのだ。

 この男を一言で表現するのならば――『地上最強の生物』

 比喩でも何でもなく、例えこの幻想郷の妖怪や神を含めても、私はそう考えている。

 いや、奇妙な話だが、そう『信じている』と言ってもよかった。

 私の知る誰よりも強い。

 誰にも負けない。

 そんな信仰にすら近い想いを抱く相手と、しかし私は今まさに戦おうとしているのだった。

 本当に奇妙な話だ。

 私は、自分で絶対に勝てないと信じているような相手に、勝負を挑もうとしている。

 なんて矛盾だ。

 しかも、私から望んでこうなったのだ。

 勇儀や萃香と戦う状況になった時も、全て成り行きであり、望んだものではなかった。

 なのに、それ以上の強敵と、敗北と死さえ覚悟しながら戦いたがっている。

 それどころか、喜びさえ感じているのだ。

 自分のことなのに信じられない。

 敗北はともかく、死という結果がどういうものなのか私は想像出来ていないのか?

 つまり、目の前にある巨大な力を内包した肉体が、私の肉体を破壊しに来るということなんだぞ。

 手羽先を食う時みたいに関節を捻り折られたり、目玉を抉り取られたり、生きたまま顔の皮を剥がされたりするんだ。

 私は、その光景を自分に置き換えてリアルに想像できる。

 何故なら、全て目の前の男がやったことだからだ。

 私はそれを知っている。

 全部、見ている。

 それなのに……。

 

 ――嬉しい。

 ――興奮が恐怖を凌駕している。

 ――絶対に実現しないと思っていた、目の前の男へ挑戦するという行為が、もう嬉しくて仕方がない!

 

 構える私に対して、目の前の敵は無造作にポケットに手を突っ込んだまま。

 それなのに、もうどう攻めればいいのか全く分からなくなっていた私は、覚悟を決めて勝負を仕掛けた。

 作戦など何も考えていない。

 ただ、初撃から全身全霊を込めて繰り出す。

 

「じゃっ!!」

 

 狙いは顔面だ。

 足元を狙うとか、フェイントを掛けるだとか、そんな小手先の技は使わない。

 というか、絶対に通じない。

 ただ私の信じる最高の一撃を、急所に向けて振り抜くしかない。

 これまでの人生で鍛え続けてきた己の集大成とも言える拳の一撃が、男の顔面目掛けて飛んだ。

 一万回の正拳突きで得た、この一撃。

 反応出来るか――!?

 

「くっ」

 

 男が上げたのは小さな呻き声だけだった。

 苦しげな呻き声ではない。

 笑いを堪えようとして、つい洩れてしまったような小さな小さな呻き声だ。

 次の瞬間、私の胴体のど真ん中に男の拳が叩き込まれていた。

 私の攻撃より速い。

 そして、私の攻撃より重い。

 胸骨は完全に砕かれた。

 内臓は潰れた。

 押し潰された分の体積が血反吐となって口からポンプのような勢いで吹き出した。

 致命傷だ。

 私は、朦朧とした意識でぼんやりと男を見上げる。

 男は変わらぬ笑みのまま、片足を振り被っていた。

 信じられないほど柔軟で、力強い開脚だ。

 踵が天を突いている。

 ああ、あれが振り下ろされるのか。

 あの踵が脳天に当たれば、頭蓋骨なんて粉々だろうな。

 私はきっと即死する。

 つまり、たった二発で勝負は決してしまったわけだ。

 ついさっき繰り出そうとした渾身の一撃の行方なんて、もう何処に行ったのか分からない。

 攻撃を仕掛けたのは私の方なのに、一瞬で私の方が殺されようとしている。

 理不尽――とは、全く思わなかった。

 こうなると思っていた。

 いや、信じていた。

 やっぱり――。

 やっぱり、強いや――。

 私が恐れたままの。

 私が憧れたままの、圧倒的な強さだ。

 男の踵が、振り下ろされる。

 すげえ。

 怖え。

 感動だ。

 

「これが『範馬勇次郎』の攻撃かぁ……」

 

 私は、恍惚とした気持ちで頭を砕かれた。

 こりゃぁ、やっぱり即死やね。

 私は――死んだ。

 

 

 

 

 幻想郷中に様々な花が咲き乱れ、その彩りはいささか混沌とも感じる。

 そんな異常現象の中に在って『太陽の畑』だけは普段通りの光景を保っていた。

 向日葵の色だけが、まるで統率されているかのように、一帯を支配している。

 いや、比喩ではなく、この場所を一つの意志の下に統率して支配しているのは風見幽香という妖怪に他ならなかった。

 その幽香と、空中で対峙しているのはチルノである。

 

「あたいの――勝ちだ!」

 

 幽香の瞳を真っ直ぐに見据えて、チルノは宣言した。

 対する幽香は、つい先程撃ち切ったばかりのスペルカードを手元で玩びながら微笑を浮かべる。

 

「……そうね。貴女の勝ちよ」

「やったっ!!」

 

 チルノは満面の笑みを浮かべて、両腕を天に突き上げた。

 喜びを全身で表すかのように空中を飛び回るチルノを尻目に、幽香はゆっくりと地上へ降り立った。

 下から見上げれば、チルノはまだはしゃぎ回っている。

 ここへやって来た当初の目的など、すっかり忘れてしまっているようだ。

 幽香は苦笑を浮かべた。

 

「いやはや、意外とお優しい方だったんですね」

 

 何かを含むような言い方で、幽香に近づいてきたのは文である。

 幽香とチルノの弾幕ごっこを、離れた位置で見守っていたのだ。

 もちろん、随所で写真も撮っている。

 

「優しい?」

 

 幽香は笑みの形を変えぬまま、文を見つめた。

 それはつまり、チルノと文に対する認識に違いがないことを意味している。

 幽香にとって、妖精も天狗も相手にする上で差はないのだ。

 不満と不快を感じたが、その内心を隠して、文は言葉を続けた。

 

「弾幕ごっこの勝敗ですよ。勝ちを譲ったんでしょう?」

「いいえ」

「ほう? とすると、フラワーマスターとも呼ばれる大妖怪が、まさか妖精に勝負で負けたと?」

「そうね」

「なんと、それは大事件ですねぇ。いい記事になりそうです」

「あら、そう」

 

 幽香の受け答えは、何処までも無感動なものだった。

 逆に、文の方が一瞬言葉に詰まってしまう。

 

「……チルノさんと親しいから、手心を加えたんでしょう?」

「貴女は、どうあっても先程の勝負に何かを含ませたいようね?」

「正直言って、意外な展開ですからね。貴女がチルノさんの弾幕ごっこに応じたことも、それに負けたことも――」

「仮に将棋をして、負けたとするわね」

「はい?」

「負けた後で、テーブルごと将棋盤を素手で叩き割って『私はこんなに力が強い』と言う。滑稽だと思わない?」

「――」

「弾幕ごっこはチルノの勝ちよ。新聞にはどうとでも書きなさい」

 

 幽香の笑みは、全く崩れることはなかった。

 強者の揺るがぬ自負が支える、余裕の笑みである。

 風見幽香という妖怪に対して抱いていた危険な印象とは打って変わって、落ち着きと貫禄を目の前の実物から文は感じていた。

 

「幽香さんって、意外とやり辛い方なんですねぇ」

「敵意や殺気を向けた方が分かりやすかったかしら?」

「最初は、そういうのを予想してました」

「以前の私なら、そうして手っ取り早く追い払おうとしていたでしょうね」

「何かいいことでもありました?」

「秘密よ」

「うーん、なんとも可愛らしいお返事で」

「話のネタなら代わりのを上げるから、さっさとチルノを連れてここから出て行きなさい」

「やっぱり、今回の異変の元凶は幽香さんではないのですね」

 

 あらかじめ予想していた文の言葉に、幽香もまた頷いて返した。

 幽香には花を操る能力があるが、今回の出来事にこの能力は全くの無関係である。

 そのことは、文も何となく予想していた。

 

「外的に何らかの存在が宿ることで花が咲いている。ただ、その数が膨大なだけ――その程度のことは、貴女も分かっているでしょう?」

「ええ」

「宿っているものは外の世界から来た幽霊よ」

「ほほう。『外の世界の幽霊』というのは予想してませんでしたね」

「原因を探るなら『再思の道』を通って『無縁塚』へ行きなさい」

「そこに、此度の出来事の真相が待っているのですね?」

「貴女が欲しているのは真相よりもネタでしょう」

「まあ、どっちも同じようなものです」

「さっさと行きなさい」

 

 もはや語ることはない、とばかりに幽香は文から背を向けた。

 文も、これ以上食い下がることはない。

 記者としての経験も長く、引き際は十分に心得ているからだ。

 上空のチルノを呼ぶ文の声を背中で聞きながら、幽香は足元に咲く小さな花を見下ろしていた。

 見た目では分からないだろうが、この太陽の畑にある向日葵は今回の異常現象の影響を受けていない。

 ただ普段通りのまま、ここで咲いている。

 しかし、この足元の花は違う。

 自然に咲いたものではない。

 自然の力が咲かせたものではなく、別のモノが咲かせた花なのだ。

 幽香は能力によって、それを知っていた。

 

「先代、例えば貴女が死んだら――」

 

 幽香は虚空に呟いた。

 

「どんな花を咲かせるのかしら?」

 

 

 

 

 新聞のネタを探していた文にとって、チルノとの道中は退屈しないものだった。

 正直、此度の異常現象の原因究明や解決などどうでもよかった。

 過去に似たような現象を見た記憶があり、概要も大まかにだが把握出来ている。

 それ以上は、特に追求する意欲もない。

 文は記者として――悪く言えば単なる野次馬として――邁進するチルノの後をついて、シャッターを切り続けた。

 結局のところ、チルノの行動はシンプルなものである。

 倒すべき敵を探し、弾幕ごっこでそれに勝利しながら、黒幕を探して進み続ける。

 風見幽香との勝負を予想外の勝利で収めた後、異変に興奮した妖精達の群れや、途中で遭遇した妖怪などを、チルノは破竹の勢いで蹴散らしていった。

 スペルカード・ルール上の戦いとはいえ、勝ち続けるチルノの実力は文をして驚嘆すべきものである。

 先代巫女に師事したからなどという建前で納得出来る範疇の話ではない。

 チルノの力は、妖精という枠組みから完全に逸脱している。

 一体、何者なのか――?

 文は疑問を感じた。

 疑問を感じて、すぐに『いや、どうでもいいか』と放り捨てた。

 

 ――妖怪を打ち破り、異変を解決する妖精。

 

 それが良い新聞のネタになると喜んだだけだった。

 ひたむきに進み続けるチルノと、その姿を撮ることが目的である文の二人が、元凶のいない異変を解決する為に奔走する。

 様々な種類の花が二人の道中を彩り、やがてその色は赤一色へと変わっていく。

 それは秋に咲くはずの彼岸花だった。

 彼岸花に埋め尽くされた道である。

 二人は幽香に示された『再思の道』を通って、ついに『無縁塚』へと辿り着いたのだ。

 

「一面に彼岸花。チルノさん、決戦の時は近いですよ」

「桜も咲いてる。ここが『むえんづか』なの?」

「その通りです。幻想郷には無縁の者が眠る墓場ってね。はてさて、ここに一体何が待ち構えているのか――?」

 

 妖しげな紫の桜が散ると共に、周囲には多くの幽霊が彷徨っている。

 文はそれらを羽虫のように払い除けた。

 分かりやすい黒幕は存在しないだろうが、今回の件に関する何かしらの原因がここにはあるはずである。

 それを写真に収めるべく、文は周囲を見回した。

 

「ここで待つものは罪です。これまで貴女が犯してきた」 

 

 声が聞こえた。

 

「紫の桜は罪を集め、花を咲かす。誰にも言えない罪も、本人が自覚していない罪でも、桜の前では関係ない」

 

 文の視線が声の主を捉えた。

 

「紫の桜は、全ての罪を見てきているのです」

「……あのー、どちら様でしょうか?」

 

 文は戸惑いながら尋ねた。

 二人の前に現れたのは、一人の女性だった。

 人間ではない。

 しかし、妖怪でもない。

 かといって、神や霊の類かといえば、そういう気配でもない。

 これまで感じたことのない静かな圧力を放つ、荘厳な雰囲気を纏う女性だった。

 美しいが、恐ろしい。

 長い年月を生きた文をして無意識に畏怖を抱いてしまう、得体の知れない大物だった。

 

 ――まさか、本当に黒幕がいた?

 

 文は知らず、唾を飲み込んだ。

 

「四季映姫と言います。私は霊の罪の重さを量る者――そう、閻魔です」

 

 映姫と名乗った女の言葉に、文は眼を剥いた。

 

「え、閻魔様ですって!? 何でこの様な片田舎に?」

「閻魔……」

 

 分かりやすく狼狽する文に対して、静かに呟くチルノの方へ、映姫は視線を移した。

 死という概念を持たない妖精にとって、死後の存在である閻魔は最も疎遠な存在である。

 その役割さえ知らないことが普通なのだ。

 しかし、じっと見つめるチルノの瞳には理解の色があった。

 

「あたい、知ってるわ。閻魔は、人間が死んだ後に会う存在だって」

「よく知っていますね」

「勉強したからね!」

 

 胸を張って答えるチルノを、映姫が推し量るように見つめる。

 

「ねえ、閻魔。あんたが、異変を起こしたの?」

「いいえ、違います。幻想郷中の花が咲いたことなら、これの原因は大量発生した幽霊にあります。

 地震、噴火、津波、戦争――原因が何かは判らないけど、外の世界の死者はたまに大幅に増える時があります。大体六十年に一度くらいの周期で増えるのです。丁度、今年がその時期なのですよ」

「そうなんですか……そういえば季節外れの花が咲いたことって、過去に何度もあった気もしますね。でも、六十年周期じゃ、昔過ぎて忘れても仕方がないわね」

 

 何処か言い訳染みた文の独り言だった。

 文自身がそんな風に自覚してしまっている。

 無知を装う自分を、映姫の澄んだ瞳は全て見透かしているように思えるのだ。

 いや、実際に閻魔には全てお見通しなのだろう。

 しかし、文は取り繕った面の皮を一切動かさなかった。

 文の背中には、小さな汗がふつふつと浮き始めている。

 映姫と対面して以来、原因の分からない緊張に全身が支配されていた。

 目の前の存在に、畏怖を感じる。

 強さに対する恐れではない。

 立場と権力に対する畏れとも違う。

 言うなれば『自分の罪』に対する恐怖だった。

 映姫に見つめられるだけで、胸の中に罪悪感が巣食い、眼を合わせている時間の分だけそれが際限なく大きくなっていくのである。

 天狗として長い年月を生きた中でこれまで犯した大きな禁忌や、ささやかな嘘も、全て含めて罪状として目の前に並べ立てられているような気分になるのだ。

 

 ――嘘、か。

 

 意図せず脳裏に幼い先代巫女の姿が浮かび上がり、文は慌ててそれを振り払った。

 その一瞬のイメージさえ、映姫に読み取られるような気がしたのだ。

 それは酷く拙い、弱味になるような気がした。

 何故、自分があの娘を思い浮かべたのか、疑問を抱く余裕はなかった。

 

「じゃあさ、結局異変を起こした奴はいないってことなの?」

 

 今まさに裁判に立たされているような文と映姫の緊迫した対峙の時間は、不意に終わった。

 長かったのか短かったのかも分からない時間が経って、痺れを切らしたチルノが割って入ったのである。

 

「その通りです。いずれ幽霊の数も減り、それに合わせて幻想郷も正常な状態になります。あとは、死神の仕事ですよ」

「なぁんだ……じゃあ、ここに来た意味ないじゃない!」

 

 チルノは空中で地団太を踏んだ。

 空振りに終わった落胆から、虚しく肩を落とす。

 

「墓場になんかいたくないし、あたいもう帰る……」

「待ちなさい」

 

 ここに至るまでの勢いをすっかり無くして、引き返そうとするチルノを、映姫が呼び止めていた。

 視線が外れたのを幸いとばかりに、文がこっそり距離を取る。

 しかし、両手は抜け目なくカメラを構えていた。

 この場の雰囲気に呑まれていないチルノが、どういったやりとりを展開するのか興味があった。

 

「別件で此岸まで訪れただけですが――ここに、罪深い妖精を見かけたから放ってはおけません」

「えっ、あたいって何か悪いことしたの!?」

「ほう。妖精である貴女に善悪の区別がつきますか?」

「バカにしないでよ! 善いことと悪いことの区別くらいつくわ!」

「……そうですか。それは、とても素晴らしいことです。貴女には、良い教えを授けてくれる人がいるようですね」

 

 注意深く見れば分かる程度の小さなものだったが、映姫はそこで初めて表情を変えて、口元に笑みを浮かべた。

 

「うん! サイキョーのお師匠と、友達がいるからねっ!」

 

 多くの人の顔を思い浮かべて、チルノは誇らしげに胸を張った。

 思い浮かべた人物の中に自分がいることなど露も知らず、文は傍らでこっそりとその姿を写真に撮っていた。

 

「善行を積極的に行い、悪行を理性的に制するのは意志の力が要ることです。これを成すことは人間でも難しい。チルノ、貴女は他の妖精が持っていない力と知識を持ち得ています」

「つまり、あたいってばサイキョー……!」

「しかし、それは自分のテリトリーを大きく外れていることを意味しています」

 

 映姫が笑みを消して、言った。

 

「妖精は、時として残酷な仕打ちをする。しかし、そこに悪意はありません。

 自然が、生きる者を時に傷つけることと同じです。自然の具現である妖精の行動は全て邪気のないものであり、その行動の過程や結果を善悪で判断するのは他者の価値観によるものです。そこに罪は存在しない」

「え、えーと……」

「チルノ。忘れてはいけません、貴女は妖精なのです。本来は罪を持たない、自然(じねん)のものなのです」

「――」

「そのままでは、貴方は自然の力で元に戻れないダメージを負うかもしれない」

「――」

「すなわちそれは死、という意味です。貴女が死ねば、きっと私達が貴女を裁く。その時は、天界に行くか、地獄に行くか――まだそこまでは判らないけどね」

「……あたいは」

「そう、貴女は少し力を持ちすぎている」

 

 映姫の話を、チルノはじっと聞いていた。

 話の全てを理解しているわけではない。

 顔には困惑の色も幾分浮かんでいる。

 しかし、何とか内容を飲み込もうと苦心している様子が傍から見ていてもよく分かった。

 他の妖精にはない聡明さと真面目さを、先程の映姫の話とも照らし合わせて、文は複雑な気分で見つめていた。

 

「……そうか」

 

 やがて、チルノがゆっくりと顔を上げた。

 

「このままだと、あたいは妖精じゃなくなって、死ぬようになるのか」

「その通りです」

 

 自分なりに理解出来たことを呟くチルノに対して、映姫は頷いた。

 厳かな肯定の仕草だった。

 

「じゃあ――」

 

 チルノは映姫を真っ直ぐに見つめ返し、

 

「お師匠と、おんなじだ」

 

 嬉しそうに笑った。

 

「あたいは、お師匠と同じ所に行けるかもしれないんだね」

「――」

「あたいは、一度悪いことをしているんだ。それが間違ったことだって分かった時は、すごく悲しくて、悔しかった。

 だけど、間違ったことを反省して正しいことをすると、お師匠や他の人達は許してくれたり、褒めてくれたりする。それが、すごく嬉しかった。だから、あたいはもっと善いことをしたいし、知りたいんだ」

「――」

「あたいが死んだら、あたいのやってきたことがよかったのか悪かったのか、あんたがちゃんと教えてくれるんだね」

「……罪深い、ことですね」

 

 映姫の口から誰に向けたものか分からない呟きが漏れた。

 その小さな呟きがチルノに届くことはなかった。

 

「えーきって言ったよね?」

「はい」

「あんたは、あたいのことを心配してくれてるんだよね?」

「ええ、そうですね」

「えへへっ、ありがとう!」

「そう思うのなら、妖精としての領分を守りなさい。矛盾していますが、賢い貴女なら分かることです。これ以上妖精の枠組みから外れるのは間違ったこと――悪いこと、なのですよ」

「うん、分かるよ」

「ならば、やめなさい。もし死ねば、貴女はまずその罪を裁かれることになるでしょう」

「でも、あたいは今の自分をやめられないよ。だって、嬉しいからね」

「嬉しい?」

「そうやって、えーきに心配してもらったり、叱ってもらったりするのがね」

 

 映姫は眼を丸くした。

 僅かだが、この厳格な閻魔は意表を突かれて驚いたのである。

 文はその貴重な一面を写真に収めることに成功していた。

 

「あたいがフツーの妖精のままだったら、えーきはきっとそんなことをしないんでしょう」

「……ええ」

「だって、その辺の木や石を叱ったりなんてしないもんね」

「そうですね」

「あたいは今よりも強くなりたいし、賢くなりたい。あの時みたいに、もう間違ったことはしたくないんだ。あの時のあたいは、本当にバカだった。バカのままなんて嫌だ。それが妖精じゃなくなるっていうことなら、あたいはそれでいい。死んだ後で、あんたにうんと叱ってもらうよ」

「――」

「とりあえず……」

 

 呆気にとられる映姫に対して、すっかり普段の調子を取り戻したチルノは、片腕を突きつけた。

 その手には、スペルカードが一枚握られていた。

 

「あんたと友達になりたくなったわ! あたいと遊ぼう、えーきっ!」

 

 チルノは堂々と宣戦布告した。

 

 

 

 

「いやはや、『無知は罪』とも言いますが――」

 

 笑いながら文は映姫へと近づいていった。

 卑しい笑みである。

 もちろん、そういう風にあえて装ったものだった。

 映姫に対して抱いていた畏怖は消え、すっかり普段の調子に戻っている。

 

「『怖いもの知らず』を勇ましさと見ることも出来ますね」

 

 映姫の視線が文に向けられる。

 相変わらず鋼が突き刺さるような視線だったが、文はもう怯まなかった。

 ニヤニヤと笑いながら、視線を下に移す。

 映姫の腕の中には、気絶したチルノが抱えられていた。

 弾幕ごっこに負けて、地面に落下しそうになったところを映姫が救ったのである。

 文の挑発染みた言葉に取り合わず、映姫は静かに地面へと降り立った。

 手頃な桜の木の下へ、チルノの体を寄り掛からせるようにして降ろす。

 まるで母親が子供にするような、優しさと慈しみに溢れた仕草だった。

 

「チルノさんは手強かったですか?」

「勝敗が意味を持つ戦いではありませんでしたよ」

 

 映姫は無難な答えを返した。

 

「しかし、弾幕ごっこというものを初めて経験しましたが、なかなか悪くありませんでした。八雲紫も、たまには良いことを考えますね」

 

 小さく呟きながら、口元にあるかないかの微笑が浮かぶ。

 生涯で二度目に見た閻魔の笑顔を、文はすかさず写真に収めた。

 それを咎めることもなく、無視しながら映姫が立ち上がる。

 

「チルノに伝えておいて下さい。楽しかった、と」

「もう行かれますか?」

「ええ、これから仕事が急がしくなりそうですしね」

「チルノさんが眼を覚ますまで待って、ご自身で直接伝えられてはどうでしょう? きっと、チルノさんも喜びますよ」

「そして、貴女はその様子を記事にするというわけですね」

「あややや……」

「貴女は少し好奇心が旺盛すぎる」

 

 何気ない説教が、重く腹の中に残る。

 文は乾いた唇を軽く舐めた。

 大人しく引き下がることは簡単だ。

 しかし、今まさに見抜かれたとおり、湧き上がる好奇心を抑えることが出来なかった。

 

「閻魔様。幻想郷の人間は、誰しも死ねば貴女に裁かれる。そこに例外はない。そうですね?」

 

 立ち去る映姫の背中に、文は声を掛けていた。

 振り返らず、足も止めず、答えた。

 

「そうです」

「仮に『先代巫女』であったとしても」

 

 足が止まった。

 

「博麗の巫女であった頃から現在に至るまで、彼女が幻想郷で数多くの功績を残したことはご存知のはずです。

 彼女は多くの人命を守り、救ってきましたが、同時に無数の妖怪の命を絶ち、人間の領分を越えるほどの力を身に着けました。

 これらの所業が善か悪か――私にはとても判じることなど出来ません。そこで、閻魔様にお尋ねしたいのです。現在までの先代巫女の所業は、果たして『白』でしょうか? それとも『黒』でしょうか?」

 

 そう尋ねた時の文の心境は、本当に好奇心以外の何物でもなかった。

 映姫とチルノのやりとりを聞いていた時に、不意に思いついた疑問である。

 先代が残した数多くの偉業が閻魔の前ではどのように評価されるのか、気になったのだ。

 人里の百人に訊けば、百人が彼女を讃えるだろう。

 しかし、英雄の所業には常に二面性がある。

 先代は人間という同じ種族を守る為に、妖怪という異種族を殺してきたと見ることも出来る。

 圧倒的な力を身に着ける代わりに、何十年生きても若い肉体を保つという摂理に反した生き方をしていると見ることも出来る。

 閻魔の裁判とは、そういった一つの所業の陰にあるもう一つの面も含めて、行われるのだ。

 鬼の異変を経て、先代は本格的に引退した。

 この一つの節目に、彼女がこれまで行ってきた偉業に閻魔がどんな審判を下すのか、文は純粋に興味を抱いたのだった。

 

 ――他の人間や妖怪のように、彼女の所業を褒め称えるのか。

 ――全く反対に、彼女のこれまでの行いを非難し、悔い改めるよう説教をするのか。

 ――真面目に『閻魔の裁判は生前に行うものではありません』とか言って、はぐらかされるのが一番ありそうだな。

 

 好き勝手に予想を巡らせながら、文は逸る気持ちで映姫の返事を待った。

 しばしの沈黙の後に、映姫は口を開いた。

 

「『白』も『黒』もありません。彼女を私が裁くことはないのですから」

 

 全く予想外の答えだった。

 え? と、思わず口から洩れた呟きは、声にならずに消えた。

 

「彼女が死んでも、その生前の行いを閻魔が裁くことはありません」

 

 上手く内容を呑み込めない文に、わざわざ噛み砕くように映姫は説明した。

 

「ど……どういうことですか?」

「どう、とは?」

「その、つまり……先代の所業は裁くことが出来ないほど悪いものだと?」

「いいえ、裁けないのです」

「彼女は、死なないのですか? 例えば、実はもう仙人や天人と同じような存在になっていて――」

「違います。死んだ後に、裁かれることがないということです」

「何故ですか!?」

 

 知らず、文は声を荒げていた。

 胸が酷く騒いでいた。

 

「彼女は彼岸へ辿り着けないからです」

 

 映姫は言った。

 

「もっと正確に言いますと、死後に彼女の魂が三途の河を渡って彼岸へ送られることは、おそらくありません。何故なら、彼女は幻想郷の人間ではないからです」

「……馬鹿な」

「私は幻想郷の閻魔です。また、私の所属する是非曲直庁も幻想郷の組織です。管轄から外れている者を裁くことは出来ません」

「そんな馬鹿な! 先代は――あの子は幻想郷の人間ですよ!」

「いいえ、違います。少なくとも、幻想郷で生まれ、生きる人間ではありません」

「生きているじゃないですか、今でも!」

「ええ、知っています。しかし、幻想郷の人間として生きてはいないのです。故に彼女の生前の行いは存在せず、それが裁かれることもまたありません」

「な――」

「分かるのです。閻魔である、私には」

 

 有無を言わせぬ口調で、映姫は断言した。

 だからこそ、文にとっては混乱を呼び込む言葉でしかなかった。

 どう反論すべきかも分からず、片手で顔を覆う。

 寒気を感じるのに、じっとりとした汗が全身から滲み出ていた。

 

「……何十年も前に、妖怪の山であの子を見つけました」

 

 自らの記憶を確認するように、文は呟いた。

 

「それから、ずっとあの子を見てきました。崖から落ちて大怪我をしたこともあれば、病気で死に掛けたこともあります」

「――」

「あの子は、生きています」

「――」

「生きているんですよっ! 幻想郷で、息をしているんです! 色んな事件に巻き込まれたり、解決したり、幻想郷の人間なら誰だって知っているんですよ! 私がしっかりと新聞の記事にしてきたんです! 私がっ、訊いているのはっ、それらの所業がどのように裁かれるのかってことだけなんですっ!!」

 

 鬼気迫る形相で、文は詰め寄った。

 映姫は表情を変えない。

 その不動の様子が、彼女の告げた内容に強い真実味を持たせていた。

 文は、それを必死で無視した。

 

「先代が地獄行きなら、ハッキリとそう言って下さい!」

「彼女は地獄には行きません。いえ、死後の魂が何処へ行くのかさえ、私にも分からないのです」

 

 映姫は言った。

 

 ――転生は出来ず。

 ――天界や冥界、果ては地獄にすら行けず。

 ――魂が幻想郷を彷徨うことすらない。

 

 先代が死ねば、その魂は、彼岸はおろか花にさえ辿り着けないかもしれないのだ。

 新たな事実は、文の顔を青褪めさせるのに十分な衝撃を持っていた。

 映姫は続ける。

 

「始まりは、おそらく六十年前です」

「……え?」

「貴女達が『先代巫女』と呼ぶ人間の存在を、私達が正式に確認出来た時期は現世でのそれとそう変わりありません。

 私達が知った当時の彼女の年齢から逆算して、六十年前の、丁度今回と同じ出来事が起こった時期が全ての始まりでしょう。

 外の世界で大量の死者が発生し、今回のように幽霊が幻想郷へと雪崩れ込みました。彼岸が死者の魂で溢れ返る混迷の中、紛れ込むように彼女は幻想郷に現れた――と、私達は考えています」

「じゃあ……!」

「しかし、外の世界の人間でもありません。貴女は彼女が、生まれる瞬間かあるいはこちらへ現れる瞬間に立ち会いましたか?」

「……いえ」

「私達の方でも、彼女の生まれは把握出来ていませんでした。おそらく幻想郷に現れた彼女の姿を最初に現実のものとして捉えたのは貴女です」

 

 文はかつての記憶を必死に掘り起こした。

 妖怪の山で、子供だった先代を見つけたのが最初の出会いである。

 そう、子供だった。

 生れ落ちたばかりの赤子ではない。

 周りに両親もいない。

 かつても感じたが、今考えても不自然なことばかりだ。

 彼女が有名になるに連れて、自然と出自を探り、親も捜そうとしたが、結局見つからなかった。

 自分は、彼女が『何処』で『誰』から生まれたのか知らない。

 誰が生んだのか?

 誰が育てたのか?

 誰があの場所まで連れてきたのか?

 何故――?

 

「どんな悪人でも、地獄で生前の罪を償えば、転生して新たな命として再び幻想郷に生まれます」

 

 俯き、黙り込んだ文から、映姫はゆっくりと離れ始めた。

 文はそれを止めることが出来なかった。

 

「しかし、彼女がどうなるかは、私には分かりません。彼女の存在は、私のヤマザナドゥ――『幻想郷の閻魔』としての領分を越えています。死後に介入する私では、どうすることも出来ません」

 

 映姫の声が遠くなっていく。

 文が顔を上げると、いつの間にか映姫の姿は遥か遠くにあった。

 歩いているのに、まるで距離そのものが伸びているかのように、どんどん遠ざかっていく。

 それなのに、声だけはハッキリと聞こえる。

 

「だから、貴女の質問に答えました。私が出来るのはここまでです。どうするかは、貴女次第」

 

 既に遠くにありながら、肩越しに振り返る映姫の横顔を文は見たような気がした。

 

「偶然の出会いと、気まぐれの行動とはいえ、自ら選んだことです。途中で放棄した責任を、今こそ最後まで果たしなさい」

 

 生涯三度目に見る、閻魔の微笑だった。

 

「出来なければ、それこそ貴女の方が地獄行き。仮にも母親であるのなら、それが貴女の積める善行よ――」

 

 その言葉を最後に、映姫の声と姿が消えた。

 後に残されたのは文と眠り続けるチルノだけである。

 紫の桜の花びらが風に乗って舞うのに合わせて、辺り一面の彼岸花がゆらゆらと揺れていた。

 

 

 

 

 ――私は死んだ。スイーツ(笑)

 

「随分と……余裕じゃあないですか」

 

 仰向けに倒れた私を見下ろして、さとりが呟いた。

 視線には冷たいものが混じっている。

 ごめん。心配させといて、さすがに不謹慎でした。

 

「別に心配なんてしてませんけどね」

「ツンデレ乙」

 

 起き上がろうとする私の顔を、さとりが無言で踏みつける。

 ごめんなさい! ごめんなさい! 冗談だから、やめて! 変な性癖に目覚めちゃうっ!

 慌てて起き上がった私は、すぐ傍にある椅子へ向かい合って腰掛けた。

 間のテーブルには、すっかり冷めた紅茶が二つ、載っている。

 気がつけば、大分時間が経っていたらしい。

 ここは地霊殿にあるさとりの私室である。

 私とさとり以外、他には誰もいない。

 つい先程まで私が向かい合っていたはずの男の姿はもちろん、私が体験したはずの死闘の形跡は何一つ存在しなかった。

 

「それで、どうでしたか?」

 

 冷めた紅茶を飲みながら、さとりが尋ねてくる。

 

「貴女の持つ漫画の知識から引き出した『強敵』との戦いは――」

「完敗だった。二発で打ち殺された」

 

 いや、本当にね。瞬殺でしたよ。

 あの人に勝つイメージなんて欠片も浮かばなかったが、善戦する程度のイメージならあった。

 しかし、実際には拳の一発も当てることなく、こっちが殺される始末だ。

 自分のイメージなのに、思い通りにいかずに負けちゃうんだぜ。

 これが無意識ってやつなのか。

 今でも胴体と脳天に受けた衝撃と痛みが鮮明に思い出せるぜ……。

 

「ああ、もう。楽しそうに思い返さないで下さい。私にもイメージが視えちゃうんですから」

「すまない」

「脳天を叩き割られて、嬉しいんですか?」

「ああ」

 

 だって、あの『範馬勇次郎』の踵落としを食らったんだよ! かめはめ波で太陽まで吹き飛ばされるのと同じくらいの感動だね!

 プロレスで悪役レスラーのファンが、そのレスラーから殴れて喜ぶ心理が今なら理解出来る。

 

「いや、比べられてもどっちも感動の度合いとか分かりませんけどね」

 

 ぬぅ……この感動が分からないか。もったいない。

 漫画の中の修行に憧れて、それを現実に行ってしまった私からすれば、一人でこなす修行ではなく『漫画の中のキャラを相手に戦う』という状況は最高の興奮と感動を与えてくれる体験なんだけどな。

 そんな夢のような体験――現実ではなく脳内での出来事だったので、あながち間違いではないが――を実現したのが、さとりの協力によって可能となった修行方法の一つ。

 

 ――シャドーボクシングの究極形『リアルシャドー』だった。

 

 私が、紫の許可と協力を得て地霊殿を訪れたのは数時間前である。

 以前訪れたのは鬼の異変が解決した後日だった。

 あれから冬を越えて、既に何度目かの地霊殿への来訪である。

 地上との不可侵条約とは何だったのか、と言いたくなるような気安さだが、実際に私自身ももう完全に開き直って、友達の家に遊びに行くくらいの軽い気持ちでやって来ている。

 顔を合わせる度にさとりが嫌味を言ってくるが、それだって慣れたものだ。

 だって、紫がいいって言うんだもん! 私、悪くないもん!

 ……いや、本当に紫に頼んだら了承してくれてるだけで、内心でどう思ってるか分からないから何気に不安ではあるんだけどね。

 話に聞いただけだが、あの妖夢に関する一件は意外にも地霊殿に滞在するという結論で終わったらしい。

 つまり、地霊殿には現在妖夢が居る。

 そして反対に白玉楼には幽々子一人だけしかいない。

 これってヤバくね?

 って感じに、さとりに訊いたら『ヤバイ』って言われた。

 そうか、ヤバイのか……どうすんの?

 私を地底に送り届けた後、紫はさとりとも妖夢とも言葉を交わすこともなく地底を去っている。

 なんつーか、無言の中に様々な含むものがあるような気がして、私の方から話題を振ることも出来なかったのだった。

 うむ、そのことに関しては……分からん。

 さとりも不安は感じているが、どう判断すればいいのかよく分からないらしい。

 正直、今すぐどうにか出来るようなものじゃないと思う。

 そんな結論を、さとりとの雑談の中で下したのだった。

 まあ、ここまでは余談だ。

 本題は別にある。

 切っ掛けは、そういった会話の中での思いつきの一つだった。

 妖夢の一件で、さとりが紫と幽々子を相手に『想起』を使った時の話である。

 なんと、さとりは私の記憶の中にある『トラウマになる程の漫画の悪役』を能力によって、想起したというのだ!

 想起――原作で言うと、他のキャラの弾幕を再現する技のことである。

 でも、これって弾幕という媒介がない場合にどういう効果を発揮する技なのか、イマイチ分からないのよね。

 二次創作の作品によっては、相手の技や能力まで再現する一種のコピー技として使われる場合もあった。

 もし、そうならスゲー強力な能力だ。

 バトル物の漫画で必ず出るタイプの技だな。

 

「まあ、実際は気配や雰囲気を真似て、相手に伝える程度なんですけどね」

 

 ――と、本物はそれが限界らしい。

 原作通り弾幕に利用も出来るが、スペルカードを再現することと能力を再現することは言うまでもなく難易度が全く違う。

 つまり、さとりが現実に出来るのは『凄い似ている物真似』って感じか。

 まあ、考えてみれば心を読む能力自体、精神攻撃を前提とした力だしね。

 覚という妖怪だって、鬼みたいに力が強いから恐れられたわけじゃない。相手の心に訴える怖さなのだ。

 そして、何より教えてもらった『想起』の効果から、私は今回の『リアルシャドー』への利用を思いつくことが出来たのだ。

 即ち――さとりに、私の記憶にある漫画のキャラを再現してもらって、それと相対することで『リアルシャドー』に足りない己のイメージ不足を補う! ということである。

 この目論見は、見事成功。

 私は、イメージとはいえ伝説のオーガと戦うことが出来たのだった。

 ありがとう、さとりのおかげだ!

 

「いえ、本当に凄いのは貴女ですよ。本当にイメージだけで再現出来るとは――」

 

 さとりは私の額を見つめていた。

 そこに何があるかは、見えない私にも感じる鈍痛が教えてくれる。

 打撲によるものと思われる痣が浮かんでいるはずだった。

 もちろん、最初からついていたものではないし、倒れた時についたものでもない。 

 そこは、イメージの中で踵落としを受けた箇所だった。

 あの時受けたダメージが、現実の傷となって肉体に刻まれたのだ。

 同じように胸からも痛みを感じる。

 

「本物は、こんなものじゃない」

「でしょうね」

 

 実際に血が出るからね。

 っていうか、肉体にダメージが反映されるだけじゃなく、第三者にも相手の姿が見えちゃったりする。

 挙句の果てには、巨大なカマキリとさえ戦えたりするのだ。

 

「だが、コツは掴めたような気がする」

「そうですか。じゃあ、あとは勝手にやって下さい」

 

 ああ! 目指す目標は『エア味噌汁』だぜっ!!

 完成したら、まずさとりにごちそうするよ。

 私が胸に掲げた志を読み取ったのか、さとりは心底うんざりしたような表情を浮かべた。

 フフフ、ギャグみたいだろ?

 超真面目なんだぜ。

 そうだ、私は久しぶりに本気なのだ。

 イメージとはいえ、漫画のキャラと戦えるんだよ。こんなに凄い修行方法はない! 必ずものにしてみせるぜ!!

 修行方法を習得する為に修行するというワケの分からない意欲がモリモリ湧いてくる。

 長いこと感じていなかった情熱だった。

 霊夢を拾ってからは、修行だけに熱中するってことがずっとなかったからね。

 

「あの鬼の異変を切っ掛けに、少し変わったんじゃないですかね?」

「そう思うか?」

「ええ、頭がおかしいのは変わってませんが」

「……酷い」

「ただ、前よりも考え方が気楽になりましたね」

 

 そうかもしれない。

 自分ではよく分からないが、心を読むさとりが分析するなら、それで正しいんだろう。

 実際に、今の私は何か肩の荷が降りたような気分だった。

 現在、地上では四季の花が一斉に咲き乱れるという異変――ぶっちゃけると原作で言う『東方花映塚』の時期になっている。

 もちろん、その真相について私は知っているし、その知識を事前に霊夢へそれとなく伝えておいた。

 その後、霊夢がどう判断して、どう行動するかまでは分からないが、それに関する心配や不安といったものは全く抱いていない。

 以前の私ならば、知識として知りながらも、異変のこと――主にそれに関わる娘のこと――を常に心配してただろう。

 しかし、今回はそれがない。

 いや、きっと今回に限らず、もう私は不要な心配をすることはないはずだ。

 あの鬼の異変が解決した夜に、私は霊夢に全てを託したからだ。

 霊夢を一人前だと認めたのだ。

 私は安心して、全て任せることが出来る。

 だから、こうして地底で友人とダベりながら、馬鹿みたいなことをやっていられるのだ。

 今更ながら初心に返って、好きな修行に熱が入り始めた理由はその辺りにあるのだろう。

 

「まあ……つまり、年甲斐もなく自重しなくなったってことですよね」

 

 さとりがオチをつけるように言った。

 否定出来ない……。

 でも、実際に一つの節目を経て、心境の変化があったのは確かだ。

 妖怪の山から始まったサバイバルな子供時代を生き延びて、博麗の巫女となってからは激動の時代を生きた。

 霊夢という娘を得て、初めての子育てや教育に悪戦苦闘の日々だった。

 現役を引退したはずなのに、何故かやたらとトラブルに巻き込まれ続けて――そして、今ようやく一息つけた感じだ。

 どれくらいの年月が過ぎただろう?

 数十年……数十……具体的に何年だ? やべっ、自分の年齢分からん!

 と、とにかく! 私も、もういい歳だ。

 あとどれくらい生きられるか分からない。

 すぐに死ぬつもりはないが、これといって心残りもない。

 だったら、残りの人生を初志を極めるのに費やすのも悪くないだろう。

 元は、漫画の中でしか出来ない無茶苦茶な修行に憧れて始めたんだ。

 私の全てはここから始まったのだから。

 さあ、まずは自力でリアルシャドーが出来るように頑張ろう。

 

 

 私 の 修 行 は こ れ か ら だ !

 

 

 

 

 

「……最終回じゃないぞよ。もうちっとだけ続くんじゃ……で、いいですか?」

 

 合いの手ありがとう、さとりん!




<元ネタ解説>

「リアルシャドー」

・バキで登場する架空のトレーニング方法。強く思い込むことで、イメージトレーニングで受けるダメージを肉体で再現出来るようになる(打撲や切り傷など)
 極めると、現実に存在しない相手と戦えたり、イメージが第三者に見えたりもする。

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