【地上に残った鬼の一例】
――どうして、こんなことになっちまったんだ?
その鬼は嘆いていた。
あの夜からずっと『こんなはずじゃなかった』という後悔が、頭の中を渦巻いている。
こんなはずじゃなかった――。
自分は、若くて力も弱い鬼である。
地底にいた頃は、同じ鬼の仲間からも格下の青二才扱いで、旧都を練り歩いては自分よりも弱い妖怪を脅して、痛めつけて、酒にありつく日々を過ごしていた。
鬱屈としていたが、そこまで不満のない面白おかしい生活だった。
ケチの付け始めは、地上から一人の人間がやって来た時だ。
妖精を連れたその人間に、娯楽半分の気分でちょっかいを掛けた。
そしたら、ワケの分からない内に緑髪の妖怪に黒焦げにされて、吹っ飛ばされていた。
怪我が治るまで随分と掛かった。
それ以来、あの時遭遇した一人の人間と一匹の妖精と、あの緑髪の妖怪を忘れたことはなかった。
憎い。
許さねえ。
仕返ししてやりたいっ!
……でも、敵うわけない。
後で聞いたところ、あの人間は星熊勇儀と戦って、勝ったという。
そんな奴と喧嘩して勝てるわけがない。
実際にぶっ飛ばされたあの妖怪相手ならば、言うまでもない。
あのクソ生意気な妖精だったら、なんとかなるかもしれないが――。
そんなことを考えながら、悶々とした日々を過ごしていた。
そして、あの夜の出来事だ。
星熊勇儀に並ぶ鬼の中の鬼である伊吹萃香が、仲間を率いて地上に侵攻しようとしたのだ。
自分は、その案に乗った。
目的は、もちろんあの人間や妖怪への復讐――ではなく、戦いの後に残るおこぼれをあずかる為である。
なにせ、伊吹萃香を筆頭に鬼の中でも腕の立つ者を含めて百の軍勢で襲い掛かろうと言うのだ。
鬼の存在を忘れた地上の者達に対抗する術はない。
これは勝てる戦なのだ。
そう確信していた。
伊吹萃香は戦う上で『好きにしろ』と言ってくれた。
もちろんだ。
好きにするつもりだった。
とりあえず人間を襲い、新鮮な女子供から好き勝手に食らって、地上の旨い酒を浴びるように飲む。
妖怪の山で我が物顔をしているらしい天狗どもを、こき使ってやるのも楽しみだ。
地上にはあの強い人間や妖怪がいると分かっていたが、逆に他の鬼が奴らの内の誰かを打ち倒すところを見れるかもしれないという期待さえ抱いていた。
あの緑髪の妖怪は確かに強いが、今回同伴する仲間の中には勝てそうな奴が何人かいる。
例え星熊勇儀を倒した人間だろうと、あの伊吹萃香ならば勝てる可能性は十分にある。
そうだ。連れていた妖精に関しては、探し出して自らの手で痛めつけてやるのもいい。
いいぞ、実に楽しみだ。
そんなことを考えながら、意気揚々と他の鬼について地上へと乗り込んでいった。
そして。
そして――。
「どうして、こんなことになっちまったんだ……?」
「ん、何か言った?」
「なんでもねぇよ」
「こらっ、敬語!」
「……なんでもありやせんよ、お嬢」
「『ご主人様』!」
「ごっ……ごしゅぅじぃ、ん……っ!」
「ん! まあ、よろしい」
鬼は、自分の腰ほどしかない体格の化け猫の小娘が大仰に頷くのを見て、強い苛立ちを感じた。
というよりも、実際に頭に血が昇って殴りかかろうとしていた。
その次の瞬間、鬼の全身を凄まじい激痛が襲った。
「ぐぎゃぁあああああっ!!?」
体中の肉という肉を捻って、血を絞り出そうとした時に感じるような痛みだった。
突然、悲鳴を上げて倒れた鬼を見て、化け猫の娘――その鬼の主となった橙――は、叱るように言った。
「あー、また反抗的なこと考えたのね? 反省しなさい!」
「すんません! すんません! 俺が悪かったです、助けて下さい御主人んんっ!!」
「もうっ、これからは逆らっちゃ駄目だよ!」
地面をのた打ち回る鬼に対して、橙が片手を掲げて短い呪を呟くと、激痛は嘘のように消えていった。
「痛い目に遭いたくなかったら馬鹿なこと考えちゃ駄目! 藍様の施した『式』は完璧なんだから、すぐに反応しちゃうよ?」
「す、すんません……か、か、感謝します、御主人」
「ほら、大人しくついてきなさい」
ぺこぺこと頭を下げつつ、先を行く橙の後に今度こそ大人しくついていく。
痛みから解放された鬼は、しかし表面上は恐縮した態度を取りながら、内心では忌々しげに唸っていた。
自分の身に施された『式』という術は、目の前の取るに足らない化け猫を主人と定めているらしく、彼女への過度な反逆心や敵意を感知すると先程のように激痛を走らせるのだ。
実質、自分を縛る鎖も同然である。
そして、己の実力では、この鎖を破るどころか緩めることすら出来ないのだった。
おまけに、この施された『式』とやらの影響なのか、体にも変化が起こっている。
まず、体の色が赤くなった。
いわゆる『赤鬼』となったのだが、ただ単に色が変わって、それでお終いだ。意図が分からない。
自分以外に『青鬼』という、こちらは擬似的に紙で鬼を模した式神を元から従えているらしいが、まさかそれとの対比のつもりか。
だとしたら、これ以上くだらない理由はない。
鬼は、深く考えないようにした。
他には、施された術式の効果で以前の自分より遥かに力が増した。
それ自体は良いこととしても、その力を振るえるのは主である化け猫の許可がある時のみ。それがない時はむしろ弱体化し、その辺の木っ端妖怪にも劣る程度の力しか出せないのだ。
こんな状態では、逃げようにも逃げられないではないか。
つまり、今の自分は目の前の小娘に顎で使われる手下も同じである。
本当に、どうして――。
「どうして、こんなことになっちまったんだ……」
その鬼は、あの夜――成す術もなく狐の化け物に殺されかけて、文字通り命だけは助かった時以来ずっと繰り返している自問を再び呟いていた。
ただし、今度は橙に聞こえない程度にしっかりと声量を抑えている。
そんな風に我が身可愛さに弁えてしまう自分が情けないやら惨めやらで、鬼はますます肩を落とした。
「あ、チルノー!」
やがて、橙は霧の立ち込める湖の畔へと辿り着いた。
見た目に相応な子供らしい明るい声を上げ、見つけた相手に大きく手を振る。
付き添う形になる鬼は、思わずその先に視線を走らせた。
「――げっ!?」
忘れるはずもない、見覚えのある妖精の姿があった。
「あれ、橙じゃない。どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ。あんたが住んでる所知らなかったから、探したんだからね」
橙は笑顔でチルノの元へと駆け寄った。
当然、それについて行くしかない。
「そいつ、鬼じゃない?」
見上げるような体格の鬼を、全く恐れた様子もなくチルノはじっと見つめた。
見られている鬼の方は、内心で冷や汗ものである。
自分が、かつて地底で喧嘩を仕掛けてきた鬼だとバレれば、何を言われるか分かったものではない。
今の状態では、目の前の妖精を痛めつけるどころか、逆に何をされても抵抗さえロクに出来ないのだ。
そんな鬼の事情など知らない橙は、チルノの質問に胸を張って答えた。
「そう! この鬼はね、わたしの式神になったのよ!」
「しきがみ?」
「ふふん、チルノには難しくて分からないかな? 要するに、わたしの部下ってこと。つまり、わたしはこの鬼を従えているってことなのよ!」
そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうな胸の張りようである。
式神となった鬼は、何故橙が自分を伴って出掛けたのか、ようやくその理由を理解した。
ただ単に、チルノに自慢したくて仕方がなかったのだ。
――自分が従っているのは、この小娘の上司らしい狐の妖怪が施した術に屈したわけであって、決して矮小な化け猫程度に屈したわけではない!
そんな自尊心と反発心が当然のように燃え上がったが、それに式が反応するより先に『くだらねえ』という呆れの気持ちが勝って、怒りはあっさりと萎えた。
「……あんた、どっかで会った?」
橙への反応もそこそこに、尋ねる。
妖精とは思えない記憶力を発揮するチルノの問い掛けに、鬼は必死で首を横に振った。
「ねえ、橙。こいつ、どこから連れてきたの?」
「うーん、知らない。この前の異変で、藍様が捕まえた一匹だって言ってた」
「……なんだ、つまりこれってあんたの主人にもらったものなんじゃない!」
「う……っ! そ、そうだけど……でも、今はわたしの式神だもん!」
「あたい、知ってるわ。そういうのを、虎の威を借る狐っていうのよ!」
「う、うるさい! 狐なのは藍様で、わたしは猫だい!」
あっさりと話題の移った二人のやりとりを見て、鬼はこっそりと安堵のため息を吐いていた。
しかし、話の中でごく自然に物扱いされたことを思い出して、再び落ち込んだ。
自他共に認める、落ちぶれた鬼の姿である。
「ところでさー」
チルノが再び鬼を何気なく見上げた。
「つまり、こいつは橙の子分ってことよね」
「そうとも言うね」
「つまり、あたいの子分ってことよね」
「なんでそうなるの!?」
「なんでそうなるんだ!?」
唐突な物言いに、初めて主従の意思が一致した。
詰め寄る橙と鬼に対して、チルノが平然と言い放つ。
「だって、あの異変で橙もあたいの子分になったじゃない」
鬼は責めるように橙を睨み付けた。
その視線から、橙は冷や汗を流して顔を背けた。
「そ……そんなこと言った覚えはないなー」
「えー、あんなちょっと前のことも覚えてないなんて、あんたバカね!」
「馬鹿じゃない! 覚えてるもん、確かに言った!」
「やっぱりね!」
「……あ」
「つまり、あたいはあんたの親分。その鬼はあんたの子分。あたいは、その鬼の親分の親分って計算よ!」
「そんな!? そ、そんな……」
「いや、反論してくれよ! 御主人!?」
鬼は思わず訴えかけるように叫んでいたが、一応の筋が通った理論に橙は唸ることしか出来なかった。
少なくとも、強く反論するほど必死な気持ちにはなれなかった。
「うーん……そっかぁ。それもそうね」
「納得すんなよ!」
「じゃあ、たまにチルノに貸してあげようか?」
「貸すなよ!」
「いらない。あたい、修行で忙しいし」
「興味無さそうにすんなよ!」
「今から修行?」
「うん。弾幕ごっこ、橙もやる?」
「やるやる!」
「よーし、勝負だ!」
「話、聞けよぉ!!」
二人は楽しげに笑い合いながら、霧の湖の上空へと弾幕ごっこをする為に飛び上がっていった。
その様子は、修行というよりも遊びのようである。
喚き散らす自分のことなど、既に眼中に無い二人に対して鬼が抱いたものは苛立ちや怒りではなかった。
ただひたすら、飽きることなく繰り返した自問だけである。
「ほらほら、あんたを組み込んだ新しいスペルカードも作ったんだから、早くついてきなさいよー」
「へえ、面白い! 鬼が相手だろうと、あたいは負けないわ!」
「わたしだって、負けないよ!」
鬼は、歯を食い縛って二人を睨み上げた。
しかし、悲しいかな。従わなかった結果どうなるか十分に理解している己の理性が、体を動かす。
橙に呼ばれるまま、鬼は飛んだ。
「ち、畜生っ! どうして、こんなことになっちまったんだぁぁーー!?」
鬼の嘆きは、幻想郷の空の彼方に空しく消えていった。
◇
【今日の先代】
地霊殿へとやって来た私は今、勇儀と二人だけで向かい合って座っていた。
この部屋には他に誰もいない。
「――そうかぁ。あの後で、そんなことがあったのか」
あの夜の出来事を話し終えた私は、目の前の勇儀が感慨深げにそう呟くのを聞いた。
あの夜の出来事というのは、萃香との決闘と、その果てに残った二つの決着についても含めて全てである。
私の目の前で、萃香の半身が死んだことも話した。
「萃香は……」
「うん?」
「自分の力と魂の半分が死んで、もう戻ってこないと言っていた。具体的には、どういう意味なんだ?」
私はずっと気になっていたことを、勇儀に尋ねた。
萃香の旧知であり、能力の詳細も知っているであろう勇儀ならば、本当のところが分かると思ったのだ。
「さあて、さすがに初めてのことだから今の萃香がどんな状態なのか、ハッキリとは分からないよ。
ただ、おそらく以前よりも弱くはなっていると思う。力を失ったっていうのは、先代が戦った鬼としての剛力や頑丈さを失ったってことだろう。魂に関しては……分からん。寿命でも縮まったかな」
「――」
「先代、お前さんが気に病む必要は全くないよ」
「ああ」
私は素直に頷いた。
勇儀が私への遠慮や気遣いではなく、本心で言ってくれたのだとよく分かっている。
幾度かの付き合いで、鬼というものがどういう種族なのか理解したつもりだ。……ほとんど『殺し合い』という名の触れ合いだったけど。
まあ、実際に私がトドメを刺したのではなく、萃香が自分で自分の首を斬り落としたんだしね。
俺は悪くぬぇー! と、責任を全面否定するつもりはないが、あの勝負の決着は私の敗北による死以外では避けられないものだったのだと納得もしていた。
しかし、その一方で萃香に対して気が引けるというのも確かである。
勇儀の言う弱体化の度合いがよく分からないんだが、実際どれくらい弱くなっちゃったんだろ?
二つに分かれた神様と大魔王くらいか?
だとしたらやべぇな、私の罪は相当重い。なんせ、後半の戦闘力インフレについていけない!
「むしろ、人間のお前さんからしたら災難なことばかりだろう。鬼に関わって、碌な目に遭ってない」
勇儀が苦笑しながら言った。
かつての勇儀自身との出会いも含めて、鬼と戦って負った傷や命の危険に晒されたことを指しているのだろう。
ちなみに、あの戦いからまだ一週間経っていないから、腕はギプスで固定されたままである。
でも、頬の傷はほとんど治りました。もうガーゼすら貼ってません。
ゆうかりんの薬草すげえ。
「いや、萃香との戦いで得たものもあった」
「そうかい? 私も同じ鬼だ。文句なら代わりに幾らでも聞くよ」
「お前に言う文句なんてない。勇儀との出会いは、私にとって感謝すべきことさ」
私の言葉に、勇儀はちょっと驚いたような顔をして、すぐに満面の笑みを浮かべた。
ふっ、ちょいとカッコつけた言い方だったかな?
でも、勇儀の笑顔が男前すぎて、私の台詞なんか霞んで消し飛んでる。
「私も、お前との出会いは生涯の宝だ」
そして、返す言葉まで男前である。
やだ、もうっ。勇儀さん、抱いて!
「傷の具合はどうだい?」
「順調に回復している」
「左腕はどうだ? まさか、動かせないなんてことは……」
「医者の話では、問題なく治るとのことだ」
「そうか。それはよかった」
「ただ、頬の傷は見ての通り痕が残った。これ以上は小さくならない」
「ああ、かなり目立つね」
「見苦しいか?」
「まさか! お前さんほどの女ならば、その傷はむしろ美しさを増す要素になるよ。新しい髪形も似合ってる」
勇儀の指が自然な動きで、左頬の傷痕を撫で、そのまま短くなった髪を梳いた。
萃香に食い千切られた髪は、今は切り揃えて、はたてから貰ったリボンで一つに束ねてある。
友人知人は皆揃って『似合う』とか褒めてくれてたけど、嘘を言わないことに定評のある勇儀に断言されると、また別の安心感があるね。
……っつか、勇儀さんよ。その自然な仕草一つとっても男前なところはなんとかしてくれ。
ときめいてまうやろーっ!
キャッキャッウフフって感じの雰囲気だが、傍から見たら大柄な女二人が男臭く笑い合ってる光景になっているという不思議。
「今日は、他に何か用事があるのかい?」
「いや。紫がさとりに話があるそうだから、ついでに同伴させてもらっただけだ」
「じゃあ、これから特に予定はないわけだ。飯でも食いに行かないか?」
「ああ。酒も少しは飲める」
「そいつは嬉しいね。思い返してみれば、あの時の宴会ではお前さんと一緒に飲めなかった」
「そういえばそうだ」
「早速、行こうか」
「ああ、行こう」
そういうことになった。
勇儀に背を押されるまま、私達は相も変わらず賑やかな旧都へと繰り出すことにしたのだった。
他に誰も伴っていないが、別にいいだろう。
紫やさとりは何やら難しい話し合いをしているみたいだから、誘っても無駄だろうしね。
今回地底へと共にやって来たのは、私と紫の他にもう一人いる。
なんと、幽々子だ。
私も数日前に初めて知ったのだが、あの鬼の異変でどういう巡り合わせがあったのか、妖夢がさとりに連れられて地霊殿に居るらしい。
なんつーか、全く予想出来ない人選である。
さとりと妖夢って一体どういう組み合わせなの?
詳細はよく分からないが、とにかくその妖夢を冥界へ連れて帰る為に、幽々子と共に地霊殿へとやって来たのだ。
もちろん、その件に私は無関係である。
むしろ、事情も知らんのに顔突っ込んだら邪魔にしかならないだろう。
たった今も、さとりと紫と幽々子の三人が別室で話し合いをしている。そこに妖夢もいるかもしれない。
――まあ、だからどうしたって話なんだけどね。
人質の引渡しってワケじゃあるまいし、幽々子自身がいるのなら『帰りましょう』と言って、妖夢の『はい』という返事で終わるだけのことだ。
さとりがどうやって妖夢と関わり、地霊殿に連れて来るに至ったのかだけが謎だが、その辺の詳しい話は後でさとり本人からでも聞けばいい。
地上へ帰る前に一度顔を合わせるつもりだしね。
さとりのことだから『話し合いで疲れたからさっさと帰って』くらいは言いそうだけど、それならそれで大人しく帰ろう。
でも、今はそんなことどうでもいいんだ。重要なことじゃない。
勇儀と肩を並べて旧地獄街道を歩きながら、私の意識は友人との楽しい食事の方にすっかり向いてしまっているのだった。
◆
【静かなる悪意】
八雲紫は傍らに友人の幽々子を置き、テーブルを挟んでさとりと向かい合って座っていた。
さとりの傍らには妖夢が座っている。
そこまで広くはない部屋だが、四人ならば窮屈に感じることもない空間だった。
この部屋には、紫自身の手で事前に結界を張ってあるので、この場にいる者以外の誰にも盗み聞かれることはないし、見られることもない。
まさに密談の為の空間が出来上がっていた。
さとりの能力を防ぐ為に、自身と幽々子にも境界操作を施してある。
事前に出来る準備の全てを万全にこなして、紫はさとりとの会談に臨んだのである。
一方で、幽々子にはさとりに対して楽観があると感じていた。
自らの従者――あの夜から行方の知れなかった妖夢――を、迎えに行く、ちょっとした遠出くらいの気持ちしか抱いていないようだった。
だからといって、それをあまり強く戒める気にもならなかった。
警戒することと、疑心暗鬼になることは全く違う。
紫には、自身がさとりに抱くものがそのどちらなのか判断がつかなかった。
不穏な予感と緊張を胸の内に隠しながら、紫はさとりと妖夢の待つ地霊殿へと訪れたのだ。
妖夢がさとりの元にいるという情報は、そのさとり自身が紫に報せたことである。
何故、妖夢がさとりの元にいるのか、理由は分からない。
妖夢が自ら望んでさとりの元にいるのならば、その理由は何か。
さとりの方が妖夢を自らの元へ導いたのならば、その理由は何か。
後者ならば、妖夢がその誘いに乗った理由は何か。
この話し合いは、何らかの交渉事なのか。
それとも、ただ単に主人が従者を迎えにいくというだけのことなのか。
何も分からない。
何も分からないまま、四人の話し合いは始まった。
「古明地さとりさん。まず、お礼を言わせていただきます。この度は、私の従者を何日も預かっていただいて、ありがとうございます」
密かな警戒を抱く紫とは違い、幽々子は穏やかに頭を下げた。
少しばかり率直に過ぎるような気がしたが、この打算のない言動はむしろ正解だと紫は判断した。
自分では、どうしても警戒が混じる。
ここは黙って見守る方がいいだろう。
「本日は、その妖夢を迎えに参りました」
「そうですか。では、どうぞ。連れて行ってください」
さとりの返答は、拍子抜けするほど簡単なものだった。
含むものなど何もない。
それ以上は何も言わずに『後は当人同士でどうぞ』と言わんばかりに、口を閉ざしてしまった。
妖夢のことを厄介払いでもするかのようである。
そんなさとりの態度に幽々子は気を悪くした風もなく、もう一度『お世話になりました』と頭を下げて、妖夢に向き直った。
「さっ、妖夢。帰りましょう」
幽々子が笑顔で促した。
それを妖夢が断る理由などない。
いや、そもそも幽々子の命令を妖夢が拒むはずがないのだ。
しかし――。
「……妖夢?」
妖夢は応えなかった。
顔を俯かせたまま、頑なに幽々子と眼を合わせようとすらとしなかった。
気まずい沈黙の中、やがて妖夢が傍らに立て掛けていた物を手に取った。
鞘に納められた二振りの刀――楼観剣と白楼剣である。
それを黙って、テーブルの上に置いた。
「これを、お返しします」
「え?」
「白玉楼には、この二振りのみをお持ち帰り下さい。私は……魂魄妖夢は、しばらくの間お暇をいただきます」
魂魄家の家宝である二本の刀だけを差し出して、妖夢はそう告げたのである。
そうして欲しいという要求ではなかった。
断言であった。
全く予想外の衝撃を受けた幽々子は、言葉を失っていた。
驚いているようにも、傷ついているようにも見える。
長い付き合いの紫でさえ初めて見るような表情を浮かべていた。
「よ、妖夢……?」
「申し訳ありません」
「どうして? 理由を話してくれないかしら?」
「話せません」
「私の眼を見て……」
「合わせる顔がありません」
「――」
「御引き取り下さい。お願いします」
「でも……」
「お願いします」
妖夢の最後の言葉は、懇願にすら聞こえた。
ただ頑なに顔を俯かせたまま、幽々子を拒絶していた。
口を挟むことも出来ず、ただ見守るしかない紫にも、幽々子が困惑し、何よりもショックを受けていることがよく分かった。
幽々子は、妖夢のことを従者であると同時に家族のように見ていた。
あの死者の世界でたった二人、長い時間を共に過ごしていたのである。
いつも妖夢を見守ってきた。
日々の修練も、霊夢との勝負に敗北して壁にぶつかったことも、そこから立ち直ったことも知っている。
妖夢のことなら何でも分かるのだ。
多くの経験が、妖夢の為になると信じていた。
これからも、その成長を見守るつもりだった。
しかし、ここに至って直視した現実は、幽々子がこれまで見守ってきたものを虚像に、分かっていたことを錯覚に変えてしまった。
もはや、ここを訪れる前にあった楽観や余裕は完全に消え失せている。
幽々子は助けを求めるように視線を彷徨わせ、やがてさとりに向けた。
「あの……っ」
「何ですか?」
「妖夢を、返して――」
まるで許しを乞うような声だった。
紫も、自然と責めるような視線を向ける。
しかし、一体何を責めろというのか。
少なくとも、ここまでのやりとりにさとりは一切口を挟んでいない。
彼女が妖夢を引き止めたわけでもなければ、何からの交渉を仕掛けたわけではないのだ。
何も言えずにただ見つめる紫と幽々子の視線を受けて、さとりはため息を吐いた。
「妖夢さん、帰ってもらえませんか?」
さとりは端的に告げた。
その口調も仕草も、やはり何の意図も感じない。面倒臭そうですらある。
裏でさとりが妖夢をかどわかしていたのではないかと疑っていた紫は、逆に困惑した。
「正直、貴女がここに居ると面倒事になるのです。だから、帰って下さい」
「――」
「ええ、まあ貴女の心は読めますから、何を望んでいるかは分かるんですけどね。
じゃあ、言い方を変えましょう。『お願いします。どうか、ここから出て行ってください』――これでどうですか?」
厳しく冷たい、全く遠慮のない言い方だった。
しかし、むしろ紫にとってはありがたいとすら感じる言葉だった。
ここまでハッキリと突き放されても、妖夢が帰らない理由があるだろうか。
妖夢が幽々子の元へ戻りたくないと思う何らかの理由があるのは確かだが、ここまで明確に拒絶されれば、その理由を棚上げして少なくともここから出ようとは思うはずだ。
妖夢の性格からして、他人に疎まれて迷惑を掛けることを承知で我を通すとは思えない。
そう考えていた紫は、妖夢の取った行動に眼を見開いた。
「……お願いします、さとりさん」
妖夢はその場で膝を着き、頭を下げていた。
床に額を擦り付けて、土下座したのである。
「ここに置いて下さい」
「本気ですか?」
「お願いします」
「本気ですね」
妖夢の心を読んだのか、さとりは諦めたように呟いた。
紫もまた、何も言うことが出来なくなっていた。
そこまでの――そこまでしての、決意である。
もはや、どうあっても妖夢を連れて帰ることなど出来ないと悟ってしまった。
一連のやりとりを見た幽々子は放心していた。
彼女の楽観的な予想は、最悪の形で裏切られたのだ。
「どうします?」
妖夢の懇願と茫然自失となった幽々子を見て、さとりは誰にともなく尋ねた。
答えは分かりきっている。
しかし、この結果に対するさとりの策謀を疑う紫の思考とは裏腹に、当人の様子は何処までも面倒臭そうだった。
上手く隠しているのか、それとも本心なのか――。
いずれにせよ、答えは一つしかない。
返事をする余裕すらない幽々子に代わって、紫はさとりに答えた。
「彼女のことを、今しばらくお願いできますでしょうか?」
「力尽くで連れて行くという案は駄目ですか?」
――分かって言ってるのか?
さとりの提案に悪意を感じた紫は、僅かに睨み付けた。
それを返答と受け取り、さとりは如何にも不承不承といった様子で肩を竦めた。
「分かりました。彼女は今しばらく預かりますよ。その刀だけ持って帰って下さい」
さとりが押し退けるように、楼観剣と白楼剣を幽々子の前に差し出した。
それを見て我に返った幽々子の体が、怯えるように震えた。
弱々しい視線がさとりから紫へと流れ、そして最後に妖夢の横顔を見つめる。
再び座り直した妖夢は、やはり幽々子と眼を合わせようとしなかった。
幽々子は泣きそうな表情を浮かべながら、震える手で二本の刀を受け取った。
それが精一杯だった。
もうこれ以上、話すことさえ出来ないだろう。
普段の落ち着いた物腰など見る影もない。
しかし、それを責めることなど出来ない。
こんな結果は、紫でさえ欠片も予想していなかったのだから。
――こいつは、一体何が目的なの?
紫はさとりをじっと睨み付けた。
もちろん、幾ら見通そうとしてもその心を読むことなど出来ない。
しかし、紫が今最も必要としているものは目の前の妖怪の心を読み取る能力だった。
皮肉な話だった。
――何処までが謀られたことで、何処までが偶然なの?
古明地さとりの策謀を疑う要素は幾らでもあるのに、断定する材料は一つとして無い。
思い返せば、鬼達が起こした異変に関してもそうだ。
あの襲撃は、公の場で伊吹萃香自身が自らの意思だと宣言していた。
しかし、異変が解決して、結局一番得をしたのは誰か?
古明地さとりだ。
旧都の鬼の多くが地上で死に、必然的に彼女の脅威や障害となる存在が減ったのだ。
他にも、先代巫女との関係を始めとして、不鮮明で疑わしい案件が幾つも残っている。
そこに加えて、今回の妖夢の問題と、その予想外の決着だ。
もはや断定の必要もなく、疑いのままで構わないから、とにかく目の前の妖怪をたった今この場で消し去ってしまいたい衝動に紫は駆られた。
短絡的だが、それで全てが解決するかもしれない。
もう、ここで全ての懸念を切り捨ててしまいたい。
しかし――もはや、それも出来ない。
知らず、強張っていた頬を解すように、紫は小さくため息を吐いた。
ここでさとりを消せば、妖夢がどうなるか分からない。
彼女の抱える問題を解決するどころか、幽々子を更に追い詰めることになるかもしれない。
実質、妖夢の存在を人質に取られたも同然だった。
それに、先代のこともある。
ここに至るまでの全てが後手に回り、もはや手の出せない状態に陥ったのだと思い知った。
紫は得体の知れない敗北感に包まれていた。
「古明地さとり」
「はい、何でしょう?」
さとりの呆けたような表情から何も探れず、内心で苛立ちながら紫は口を開いた。
「貴女は、一体何が目的なの?」
そう問い掛けて、具体性を欠いた質問の仕方に紫は虚しさすら感じた。
この質問で、一体何が得られるというのか。
どうとでも誤魔化せる質問だった。
あっさりとはぐらかされ、揚げ足を取ることも出来る訊き方だ。
自分を間抜けだとすら感じる。
思案するように黙り込んださとりを見て、紫は既に諦めたような気持ちになり――。
「私はね、ただ静かに暮らしたいんですよ……」
次の瞬間、一変したさとりの雰囲気に紫は呑み込まれた。
◆
【古明地さとりは静かに暮らしたい】
さとりは、既に投げやりな気持ちになっていた。
――帰って欲しい。ホント、もう帰って欲しい。
この部屋にいる自分以外の三人に対して、思うことはそれ一つである。
嫌な予感はあった。
妖夢を地霊殿に連れてきた時から、この先に面倒事が待っていると、ある程度覚悟はしていた。
連れてきた当初、妖夢は半ば廃人も同然であり、自主的に動こうとしない彼女の世話をお燐やお空にほとんど投げっぱなしにしていた。
とりあえず、風呂に入らせ、ご飯を食べさせ、ぐっすり眠らせて、人心地つかせるとある程度受け答えも出来るようになった。
しかし、さとりは極力妖夢に関わろうとしなかった。
言葉を交わさずとも能力によって考えが読めるというのもあるが、それ以上に関わりたくないという消極的な気持ちが大きかった為である。
時間が経ち、冷静になって考え直したのだが、やはりこの魂魄妖夢を連れてきたことは間違いだと悟ったのだ。
さとりは、妖夢が地霊殿にいることをすぐに紫に報せると、後は余計なことをせずにじっと待つことにした。
そして、今日。待望の迎えがやって来たのである。
八雲紫はもちろん、冥界の姫である西行寺幽々子も含めて、全く歓迎したくない面子ではあったが、とりあえずそれは棚上げにして、さっさと問題を解決してもらおうと迎え入れた。
幽々子が妖夢を連れ帰って、それで終了である。
心の問題については、彼女達の絆だとか信頼だとかで何とかしてもらおう。
もう、それでいい。
いいことにする。
同伴する八雲紫から、また何やら疑いと警戒の視線を向けられ、以前の異変での問答の続きをやらされるかもしれないが、とにかく今は目の前の問題を片付けるのが先決である。
迎えに来た幽々子へ、完全に厄介払いのつもりで妖夢を促し――。
「……お願いします、さとりさん。ここに置いて下さい」
――ようやく積極的に喋ったかと思ったら、それかい!
悪態を口に出して吐かなかったのは、ちょっとした奇跡だった。
心を読めば分かってしまうことだが、それでも僅かな期待に賭け、せっかく友好的な幽々子にも嫌われるのを覚悟の上で厳しくハッキリと出て行くように、妖夢へ告げた。
そしたら、今度は土下座までする始末である。
「本気ですか?」
「お願いします」
「本気ですね」
心を読めば、嫌でも分かることだった。
さとりは思考を放棄した。
周りへの配慮も放棄した。
完全な投げやりである。
「分かりました。彼女は今しばらく預かりますよ」
紫に言われるまま、妖夢が地霊殿に残ることを認めたのである。
もう、どうでもよかった。
案の定、自分を観察するように凝視する紫が内心でどんなことを考えているのか分からなかったが、どうせ碌なことではない。
肝心な相手に対してだけ、自分の能力が通じないのだ。
どうしろというのか。
どうしようもない。
どうにでもなれ。
――とりあえず、先代は殴ろう。そうしよう。
たった一つだけ、固く決意したのだった。
幽々子が黙り込み、妖夢ももはや何も話さず、奇妙な拮抗状態に陥ってしまった空間の中で、さて今度はどんな風に話が展開するのかと、さとりは他人事のようにぼんやりと考えていた。
「古明地さとり」
「はい、何でしょう?」
半ば思考放棄して呆けていたさとりは、感情の抜けた声で紫に応えた。
「貴女は、一体何が目的なの?」
――あんたらをさっさと追い出して、静かに過ごしたいのよ。
もう何もかもぶちまけてやろうかという自暴自棄な考えが、一瞬頭を過ぎった。
そこで、不意に我に返った。
本音を全て吐き出す――それは、存外悪くない方法ではないのか。
そもそも、自分にとって最も深刻な問題は八雲紫を始めとした多くの有力者に勘違い――正確には無駄な警戒――をされていることである。
妖夢が厄種となるのも、彼女を預かることで幽々子とその友人の紫から要らぬ疑いや敵意を向けられるからだ。
何故、そんなものを向けられるのか?
それは、自分が何かを企んでいると勘違いされているからである。
誤解。
何もかも誤解だ。
自分は何も企んでいないし、大それた野望や悪意を抱くような器ではない。
その一点さえ明確にすれば、この複雑な状況も改善されるのではないか――!
紫の質問は、全ての勘違いを正す唯一無二のチャンスだった。
この質問、正直に答えよう。
自分が望むもの――それは、ただ相応な立場で余計なトラブルに巻き込まれず、穏やかに、静かに過ごすことだけである。
ちょっと前まで、実現出来ていたことである。
具体的には、先代と関わる前までの生活である。
そう答えればいい。
一切の嘘偽りのない返答だ。
疑う余地などない。
それさえ信じてもらえれば――信じて、もらえるだろうか?
さとりの中に無視出来ない不安が過ぎった。
これまで繰り返してきたように、その段階でまた妙な勘違いや意思のすれ違いが起こるような気がしてならないのだ。
そもそも、紫は最初から自分を疑って掛かっている。
これまで抱いた印象と比較して、自分の平凡な答えを嘘や建前などと考えるのではないか。
――あ、ヤバイ。なんか、スゴイ未来見える。
さとりは、自分の能力で見れないはずのものをハッキリと見たような気がした。
ただ答えるだけでは駄目だ。
この答えに説得力を持たせなければ、きっと信じてもらえない。
しかし、ただの本音にこれ以上説得力を持たせるなんて、一体どうすれば――。
そして、さとりは閃いた。
自分よりも格上の相手を、言葉で動かす方法。
話術では翻弄出来ない妖怪の賢者の心を奮わせることを、既に実現している者を知っている。
さとりは紫に気づかれぬよう、ひっそりと能力を発動した。
大丈夫なはずだ。
今からすることは、相手に仕掛けるものではない。
自分自身に施すもの。
あの先代から読み取った記憶――その中に眠る、この幻想郷の誰も知らない『トラウマ』をこの身に降ろして、再現する。
――『想起』
そして、さとりは変貌した。
「私はね、ただ静かに暮らしたいんですよ……」
さとりはゆっくりと、落ち着いた口調を装って言った。
不思議と装うだけでなく、本当に心が落ち着いていくような気がした。
これも記憶の人物を再現している影響なのか分からないが、好都合である。
逆に紫は眼に見えて、さとりの一変した雰囲気に圧されていた。
「激しい『喜び』はいらない……そのかわり深い『絶望』もない……『植物の心』のような人生を………そんな『平穏な生活』こそ、私の目標なんですよ」
他人の台詞に肖りながら、そこに自身の本音を込めてさとりは紫にハッキリと告げた。
本当に、一片の曇りも偽りも迷いもない、切実な思いである。
それでいて、相手に懇願するような弱さではなく、強い決意を感じる言い方である。
さとりは、自らの意志が紫に通じる手応えを感じた。
さとりが想起したものは、先代の記憶にあった漫画のキャラクターそのものである。
初めてその人物の話を先代から聞き、第三の眼を通じて映像として見た時、何よりも共感したのを覚えている。
その人物は、いわゆる殺人鬼であった。
狂気と残酷さを秘め、それでいて冷静で理性的であり、行動力と決断力に優れる。架空の存在でありながら先代の中でトラウマとなるほどの悪役だった。
しかし、自分と同じ『穏やかな生活』を渇望し、その為に前向きに努力する姿にさとりは密かに感銘を受けていたのだ。
『彼』の持つ強い意志は、目の前の大妖怪を納得させるだけの力がある。
さとりは、その力を借りたのだった。
「それが……貴女の、本当の望みなの? 古明地さとり……」
案の定、紫はさとりの答えに食い付くように問い返していた。
ただ平穏に暮らしたい――その何の変哲もない望みに、これ以上ない本気を感じ取ったのだ。
さとりは、自然と笑みを浮かべていた。
「『闘争』は、私が目指す『平穏な人生』とは相反しているから嫌いです。
一つの『闘い』に勝利する事は簡単です。しかし、次の『闘い』のためにストレスがたまる……愚かな行為です。他人と争うのは、キリがなく虚しい行為なんですよ」
想起した人物の心境に合わせるまま、饒舌に語ってしまう。
しかし、これも間違いではない。
紫に自分は争い事を好まない、無害な存在だとアピール出来るからだ。
この人物は、なんて素晴らしい考え方を持っているのだろう。尊敬に値する。
もはや、さとりの中に不安や動揺は一片もない。
溢れるような自信と前向きな気持ちが湧いてきていた。
能力を使った『想起』による記憶の再現は、過去何度も行っているが、こんなに良い気分になるのは初めてだった。
「私の望み、理解していただけましたか?」
「……ええ。理解致しましたわ」
「ありがとう。これで今夜も、安心して熟睡出来ます」
神妙に答える紫の様子から、自分の言葉が本当に理解されたのだと確信を得て、さとりは心の底から穏やかな笑みを浮かべた。
――勝った。
――私は、この苦境に打ち勝ったのだ!
さとりは、内心で激しくガッツポーズを決めた。
そんな心境も知らず、紫は神妙な表情のまま言葉を続けた。
「貴女は、自らの平穏の為にどんなことでもやる覚悟があるのね」
――ん?
「その強固な意志、確かに理解致しましたわ。貴女はもはや、一片も侮ることが許されない存在。私と『対等の存在』であると、認めましょう」
表立った敵意はなく、かといって好意など欠片もない、厳かな口調で紫は真っ直ぐに告げたのだった。
その宣告を聞き届けたさとりは、ようやく違和感を感じ始めた。
違和感の正体を掴もうとして、紫の口にした台詞を一から確認し直している間に、二人は部屋から退室していった。
残されたさとりは、同じく残った傍らの妖夢を一瞥し、それからしばらく頭に手を当てて考え、そして思った。
――あれ? なんかおかしくない?
◆
【半人半霊の半人前】
妖夢が我に返った時、そこは既に地霊殿の一室だった。
僅かに記憶の混乱があったが、何故自分がここに居るのかすぐに思い出すことが出来た。
必然的にあの勝負の決着も――。
そして、妖夢は心を閉ざした。
もちろん『心を閉ざす』とは、単なる表現だ。
生きている以上、本当に何も感じず、何も考えないでいられることなど出来ない。
それは思考を放棄するのではなく、鍛えることで至れる境地なのだから。
ただ、妖夢は周囲からの干渉全てを拒絶した。
幸いなことに、さとりと妖夢の思惑は一致していた。
さとりは妖夢に話し掛けようと思わず、妖夢もまた誰とも話したくはなかったのだ。
――誰とも話したくない。
――誰にも、何も、事情を訊いて欲しくない。
そうして怯える妖夢の心を、さとりは能力によって直に読み取っていた。
何も言わずとも自分を理解してくれるさとりの存在は、妖夢にとって心底ありがたかった。
結果は同じにせよ、そこに至るまでに自分の言葉で相手に伝えなければいけないという耐え難い苦痛を避けることが出来たからだ。
さとりを除けば、この地霊殿にいるのはペットのみである。
人の心の機微を知らず、頓着もしない動物達は、妖怪化したお燐やお空も含めて、妖夢に対して明け透けに接した。
妖夢が拒めば、それ以上踏み込まない。
単純に納得だけをする。
それもまたありがたかった。
単調で、しかし静かな日々がしばらく続いた。
魔理沙との勝負で打ちのめされた妖夢にとっては、穏やかで休まる時間だった。
自分が今、後ろ向きな考えに陥っていることは自覚している。
これは、単なる逃げだ。
現実から眼を背け、心配してくれる大切な人を突き放す行為なのだと分かっていた。
分かっていたが――。
『話せません』
――貴女に知られるのが怖い。
『合わせる顔がありません』
――貴女の気遣いが辛い。
『御引き取り下さい。お願いします』
――そんな風に感じてしまう、今の自分が死ぬ程嫌い。
妖夢は、地霊殿に残ることになった。
必死だった。
必死に眼を閉じて、耳を塞いで、この逃げ場にしがみ付いていた。
去り際に一瞬見えた、幽々子の苦しげで悲しげな表情が、眼に焼きついて離れなかった。
「あの、さとり……様」
「『さん』でいいですよ。別に私の従者になったわけじゃありませんし」
紫と幽々子が去った後、思わず声を掛けた妖夢に対して、さとりは他人行儀な敬語のまま言った。
心が読めなくとも不機嫌さが伝わってくる、憮然とした表情である。
自分のことを疎ましく思っているのだと、今の妖夢にもよく分かった。
「さとりさん……あの」
「ええ、迷惑ですよ。何故、わざわざ確認するんですか? 迷惑だから出て行ってくれと言ったら、貴女は素直に出て行くんですか?」
「それは……」
「はいはい、分かってます。行く所ないんですね。イチイチ言葉にしなくて結構。もう黙ってなさい」
「……はい」
妖夢は恐縮して、言われるままに黙り込むしかなかった。
心の中には、さとりに対する申し訳ないという気持ちと、それ以上の感謝がある。
理由はどうあれ、こうして自分を置いてくれるのだ。
「さて、ここで暮らす以上は貴女にも何かしら働いてもらいますからね。無駄飯を食わせる余裕はありません。何より気に入りませんし」
さとりの遠慮のない言い方は、むしろ妖夢には心地良かった。
今の自分は役立たずだ。
唯一の取り柄である刀を自ら手放し、心も腑抜けきっている。
雑用でも何でもいい。
必要とされることが嬉しかった。
「はあ、そうですか。それじゃあ、お望みのまま、コキ使わせていただきましょう」
「はい」
「別に、貴女の剣術とか期待してないですしね。というか、ここでは必要ないです。むしろ、やらないで下さい。余計なトラブルになるので」
「……はい」
本当に、妖夢には何も期待していない。
そして、それ故に失望もしない。
それは妖夢にとって安心出来ることだった。
妖夢がぶつかっている問題を、心を読んで具体的に把握しているはずなのに、その為の助言も激励もしようとしなかった。
結果的に、それが疲れ果てた妖夢の心を落ち着かせてくれるのだ。
――これは、単なる逃避だ。
妖夢は自分に言い聞かせた。
今の状態が、正しいものだと思ってはいない。
思ってはいけない。
しかし、間違っているからといって、すぐに立ち上がることなど出来なかった。
これからどうすればいいのか。
こんなことを、いつまで続けられるのか。
分からなかった。
自分の心は、未だにあの墜ちた場所で蹲りながら震えているのだ。
あそこから、自分はまた立ち上がれるのか。
自分は、前に進めるのか。
分からなかった。
分からなかったが――少なくとも、誰にも急かされることなく、駆り立てられることなく、留まれる場所がここにある。
「あの、さとりさん……」
「イチイチ言葉にしなくていい、と言ったはずですけど」
「はい。でも、どうしても言っておきたくて」
「――」
「ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」
「ええ、よろしく。短い間になることを祈りますよ」
相も変らぬつっけんどんな態度に、妖夢は小さく苦笑した。
あの夜以来、初めて浮かべる笑みだった。
◆
【博麗神社には鬼が棲む】
「コラッ、あんた何やってんの!」
霊夢の怒鳴り声が聞こえて、神社の屋根の上で昼寝をしていた萃香は眼を覚ました。
自分が怒られているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
声は境内から聞こえる。
寝起きに一度背伸びをして、萃香はふわりとその場に降り立った。
「ありゃ、お前かい」
賽銭箱を挟んで霊夢と対峙する見慣れた相手に、萃香は思わず声を掛けていた。
萃香の呼び掛けに振り返ったのは、踵まで届く長い白髪を揺らした華奢な少女。
しかし、その顔は半ば皮膚と一体化した恐ろしげな鬼の面で覆われている。
以前の異変で霊夢とも戦ったことのある鬼の少女だった。
少女は、萃香を見つけると粛々としたお辞儀を返した。
「萃香、あんたの差し金なの?」
「何が?」
「これよ!」
怒りの矛先を萃香に向けた霊夢が、賽銭箱を指差した。
お賽銭――ではなく、猪の死体が箱の上に置かれている。
当然、賽銭箱には入らない。
血ぐらいは中に滴っているかもしれないが。
「おおっ、立派な猪だ。獲ってきてくれたのかい?」
萃香の問い掛けに、鬼の少女は頷いて返した。
無視される形になった霊夢の額に青筋が浮く。
「神社の賽銭箱に動物の死体を置くのは、鬼流の呪いの儀式なの?」
「いや、誤解だよ。そいつは、きっと奉納のつもりだったんだ」
「鬼の贈り物は、猪って決まってるわけ?」
「鍋にすると美味いんだよ。皆で囲んで食えるし、酒も進む。わたしも昔から好物なんだ」
萃香が笑って答えると、表情を変えようもない鬼面の少女も、何処か嬉しげな気配を漂わせた。
これはつまり、神社への供物ではなく萃香個人への贈り物だったのではないか、と。自宅前に死体を置かれた霊夢はますます不機嫌になった。
「怒んなよう、霊夢。今夜はごちそうになったじゃない」
「誰が捌くと思ってんのよ……血抜きとか手間が掛かるし、臭うから神社の中でやれないし、加えてあんたは食うだけで手伝いしないし」
「えへへ、臭いを散らすくらいはやるからさ」
ぶつぶつと文句を呟く霊夢をなだめながら、萃香は改めて鬼の少女に向き直った。
「ありがとうよ、美味しくいただかせてもらう。けどよう、これからはあんまり義理立てしなくていいよ?」
少女は小さく首を横に振った。
「そっかぁ。まあ、好きにすればいいさ。ただ、次からはもうちょっと大人しめな物で頼む」
「っていうか、この素敵なお賽銭箱に入れる物として正しい物を持ってきなさい」
暗に賽銭を入れていけと催促する霊夢。
それが聞こえているのかいないのか。言葉による返答を返さずに、鬼の少女は今一度深いお辞儀をして、そのまま空を飛んで境内を去った。
遠くなっていく姿を、萃香が笑いながら、霊夢が忌々しげに見送った。
「何処からあんな猪を獲ってきたのかしら?」
「霊夢は、地上に残ったあいつが何処に住んでるか知らなかったっけ?」
「知らないわよ。人里じゃないことだけは確かでしょ」
「妖怪の山だよ。人を襲わずに、獣を狩って暮らしてるんだってさ」
「天狗と揉め事を起こしたりしてないでしょうね?」
「幸い、天狗のテリトリーからは外れた所に都合よく住処を見つけたらしいよ。川の近くで見つけた洞穴で、大分昔に人が住んでた形跡もあったから、結構住みやすいらしい」
「離れているとはいえ、同じ山の中に鬼が居るなんて天狗どもも居心地悪そうだけど」
「別に、そこまで過剰に反応はしないんじゃないかな。あいつってさ、実は純粋な鬼じゃないんだよね」
「そうなの?」
「うん。昔ねー、なんかどっかに祭られてた鬼のお面を誤って着けちゃって、それで呪われて外れなくなったらしいよ。
そんで、家からも追い出されて、泣きながら彷徨ってたところをわたしが拾ったんだ。適当に育ててやったら、お面の力なのかそれとも周りに鬼しかいない環境だったからなのか知らないけど、人間から鬼へ本格的に変化して、あとなんか慕われるようになっちゃった」
霊夢は説明を聞いて、あの少女が萃香に向ける感情が何なのか理解した。
恩義と、そしておそらく親子の情だ。
彼女は助けてくれた萃香に親の姿を重ね見ていたのかもしれない。
しかし、当の萃香は、その軽い調子の口ぶりからしてあの少女にそれほど深い愛情や絆は抱いていないらしい。
もちろん、それは不自然なことではない。
何故なら伊吹萃香は妖怪で、生粋の鬼だからだ。
「未だに義理立てして、色々尽くしてくれるんだけどねぇ」
「嫌なの?」
「うーん、っていうかもっと好きにすればいいのにって思う。助けた恩義にしたって何百年前の話だよ、いい加減期限切れだろ。わたしのことは放っておいていいんだよ、わたしも放っとくから」
萃香の返答が混じりっ気のない本心であると理解した霊夢は、妖怪と人間の違いを改めて認識した。
あの娘に対する萃香のストイックな考え方を、別段責めるつもりはない。
しかし、血の繋がらない二人の関係に対し、自分を照らし合わせて思うところはあるのだった。
霊夢は急に、得体の知れない寂しさを覚えた。
自分の母親との関係に対する寂しさである。
あの宴の夜、母と交わした会話は二人の絆が一歩進んだことを実感させた。
一人前と認められ、ただ誇らしさがあった。
しかし、今になって僅かな寂しさも覚えている。
立場の違いや理由はどうあれ、かつて育てた子供が自分の元から離れていくことを是とする親の姿を見たからかもしれない。
自分の母も、同じように子が離れることを望むだろうか?
もちろん、子供から大人になる上で、親から自立していくことが自然の流れであると理屈では理解している。
時を経て、親と子の距離が離れることは、決して絆が断たれることと同義ではない。
しかし――。
――もう、一月ごとにあの人はここへ来ないかもしれない。
――そして、自分はそれをずっと一人で待つことになるのかもしれない。
そんなことが気になって、どうしようもなく不安で仕方がないのだった。
「霊夢、どうした?」
黙り込んだ霊夢の顔を、萃香が不思議そうに見上げていた。
「何が?」
「なんか、寂しそうに見えたよ」
「気のせいよ」
「おっと、鬼に嘘は通じないよ」
「大丈夫よ。誤魔化してるだけだから」
「そう来たか」
苦笑する萃香を、霊夢はじっと見つめた。
「萃香、あんたは何の為に地上に残ったの?」
不意に、霊夢は尋ねていた。
あの鬼の少女が、萃香の為に地上に残ったのは間違いない。
では、その萃香は?
「何の為って――」
「地上の、しかもこの博麗神社に住む目的よ。どうして?」
霊夢の問いに、萃香はしばらく黙っていた。
答えを返せないわけではなかった。
どういった言葉を使うべきか、悩んでいるようだった。
「正確にはさ、霊夢の傍にいる為に地上に残って、ここに住むことにしたんだよ」
萃香は真っ直ぐに霊夢を見返して答えた。
「あたしの傍に?」
「うん」
「また、勝負でもしようっての?」
「違うよ。逆だ、もう霊夢とは勝負出来ないって悟ったからね。遊びでやるならともかく真剣なら、やる前からわたしの気持ちは負けちゃってるのさ」
「だから?」
「うん。だから、わたしに勝った霊夢の行く先を見届けたいと思ってね」
いや違うな、と。萃香は自分で語った内容を、自分で修正した。
「鬼に勝ったこの新しい時代を、最期まで見届けたいと思ったのさ」
萃香は、まるで自分にも言い聞かせるように語った。
あの決闘の夜、霊夢と戦う中で自身の答えを手に入れようとした時のように、たった今問われたことで自分がここに居る意味を見つけ出したかのようだった。
鬼というのは、まず理屈で考えるのではなく、直感で動いてから考えるような行き当たりばったりなところがある。
「それって、あたしが死ぬまで付き纏うってこと?」
霊夢は意地悪く言った。
「そうだね。霊夢の生き様を見届けたら、次はその子供の人生を見届けようかな。それが終わったら次の人生を。そして、次を――わたしの命が許す限り、見ていたい」
「気の長い話ね」
「妖怪なんだから、仕方がないさ。長い間腹に溜めていたものはこの前の戦いで全部スッキリ吐き出しちまったから、今のところ他にやりたいこともないしね」
「同じ負けたにしても、母さんに負けた勇儀とは随分違うわね」
「あいつはさ、多分先代が死んだら、残りの時間をその墓守でもして過ごす気なんじゃないかな。生涯を懸けて義を尽くす相手を見つけたんだ」
「――」
「あいつはたった一人を。わたしは霊夢から始まる多くの命の連なりを。違うとすれば、そこなんだと思うよ」
「そう――」
霊夢は曖昧に頷いた。
萃香が当たり前のように口にした『自分の子供の人生』に思いを馳せていた。
この自分が、母親になる。自分の母親のように――。
想像はしていた。
しかし、その将来を具体的に考えたことも、現実の可能性として捉えたこともなかった。
自分にとっての家族は、当たり前のようにあの人で、そこで全てが完結していた。
それ以外の誰かが加わるなど、思いもしていなかった。
多分、それは自分がまだ子供だったからだ。
生きている現在を当たり前として、先に待つ未来を思い描いていなかったからだ。
その未来を、萃香は見届けたいと言っている。
更に、その先まで。
霊夢は眼の覚める思いだった。
――もう、子供ではない。
胸に巣食っていた寂しさは、いつの間にか消えていた。
もちろん、ふとした時にその感情を思い出すことはあるだろう。
しかし、もう自分は子供ではない。
母親に一人前と認められた、一角の人間なのだ。
「じゃあ、長い付き合いになりそうね」
霊夢の胸の内に、晴れやかな気持ちが広がっていった。
その変化を察知したのか、萃香もまた楽しげな笑みを浮かべた。
「それは霊夢次第だけどね」
「子供が出来るかどうかってこと?」
「まず嫁の貰い手がいるかどうかってことじゃない?」
「鬼が憑いてる巫女とか、確かに貰い手はいなさそうね」
「いやいや、一番の問題は霊夢の性格だよ」
「うるさい。……母さんみたいに、子供拾おうかしら」
「鬼に憑かれる宿命を背負った不幸な子供だねぇ」
「自分で言うな」
「あと、霊夢自身も出来るだけ長生きしてね」
「さあね。そんなの分からないわよ」
「長生きしないと、死んだ後でわたしが死体を食っちゃうからね」
「じゃあ、長生きするわ。食べる所もない皺くちゃの骨と皮だけのおばあちゃんになって、重い病気に掛かってから死ぬことにする」
「うへぇ、不味そう」
「いい気味よ」
霊夢と萃香は笑い合った。
その夜は、牡丹鍋を囲んで、二人で酒を飲んだ。
これから日常となる、巫女と鬼が住む博麗神社の新しい生活風景だった。
<元ネタ解説>
「さとりの肖った殺人鬼」
・ジョジョの奇妙な冒険(第四部)に登場するラスボス『吉良吉影』