東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編、今度こそ終わり。


其の三十八「幻想郷」

『萃まる夢、幻、そして百鬼夜行』

 

 先代巫女が禁じられた地底世界で成し遂げた『鬼退治』に関しては、記憶にも新しい。

 その先代巫女が向かった地底から、今度は鬼が地上の方へとやって来た。(鬼の恐ろしさは本紙のバックナンバーを参照して欲しい)

 しかも、その目的は現在幻想郷で適応されている『スペルカード・ルール』を完全に無視した、直接的侵攻だったのだ。

 百の鬼が集団となって襲い掛かる緊急事態に、博麗の巫女だけではなく、現役を退いた先代巫女、更には幻想郷の管理者である八雲紫本人を含んだ多くの妖怪が総出で迎え撃つこととなった。

 この前代未聞の大異変を解決するべく動き出した先代巫女に、本紙も取材の為、勇気を持って危険な現場へと同行した。

 そこで待っていたのは、鬼の首魁である『伊吹萃香』と博麗の巫女との壮絶な決闘であった。

 凄まじい戦いの末に勝利を収めたのは博麗の巫女。(詳細は後述の記事を参照のこと)

 その後、見事伊吹萃香を弾幕ごっこによって降した当代博麗の巫女である『博麗霊夢』によって、生き残った鬼と地上との間に和解案が提示された。

 鬼と人妖を交えた大宴会が、人里にて開催されたのである。

 たった一晩の夢のような宴は、様々な様相を見せながら夜明けまで続けられた。

 今回の本紙の記事は全て、それら当時の様子を詳細に記したものである――。

 

 

 ――『文々。新聞』より一部抜粋。

 

 

 

 

 魔理沙は深呼吸を一つして、覚悟を決めた。

 周りは多くの喧騒に満ちている。

 知っている者もいれば、知らない者もいる。

 しかし、今の魔理沙の眼に留まっているのは一人だけだった。

 霊夢がいる。

 この宴会を始めた張本人は、喧騒から一人外れるように、龍神像に背をもたれて飲んでいた。

 人間と妖怪が集う幻想郷の縮図のような光景を見守っている、と。そう考えるのは、さすがに持ち上げすぎだろうか?

 今から、その霊夢の目の前まで歩み寄って、何気ない風を装って『よっ』とでも声を掛ける――。

 それだけのことが、なんだか妙に緊張してしまっていた。

 

 ――そうだ、緊張することなんてないし、気まずく思う必要もない。

 ――何故なら、わたしは鬼だって倒した女だからだ。

 ――これは、その辺の人間にはちょっと出来ないことだぜ。

 ――だから、胸を張って会えばいい。

 

 何故『だから』なのか、魔理沙の思考は繋がっていなかったが、疑問に思うことはなかった。

 霊夢に近づくにつれて、逸る気持ちだけが心を占めていく。

 不思議だった。

 あれだけ躊躇っていたのに、早く霊夢と話がしたくて仕方がなくなっていた。

 

「よっ」

 

 魔理沙は酒の入ったコップを片手に、気軽な気持ちで霊夢に声を掛けた。

 

「派手にやったみたいだな」

「あんたもね、魔理沙。まさか、鬼と勝負して勝つなんて思わなかったわ」

「ふふん、見直したか?」

「うん、かなり」

「わたしを、弱っちい奴だと思っていたな?」

「思ってた」

「だけど、今は見直したな?」

「見直したわ」

「いいぜ、許してやる」

「いや、何をよ?」

 

 霊夢の問いには答えず、魔理沙は自分の中だけで完結した満足感を味わっていた。

 

「お前も、凄いことをやったじゃないか」

「それが仕事だからね」

「仕事か……じゃあ、楽しくなかったか?」

「楽しい?」

「弾幕ごっこがさ。仕事なのに楽しむなんて不謹慎、なんて考えるほど真面目じゃないだろ?」

「何が言いたいの?」

「だから、あの伊吹萃香って鬼との弾幕ごっこは、楽しかったのかって話だよ」

 

 霊夢は、何故魔理沙がそんなことを気にするのか分からなかった。

 分からなかったが、霊夢は素直に答えた。

 

「まあ、緊張感はあったわ。ちょっと、楽しかったわね」

「……そうか。『ちょっと』か」

「なんで嬉しそうなの?」

「うん。いやな、『ちょっと』よりも『結構』の方が楽しさは上だよなぁって思ってさ」

「?」

「わたしの勝ちだぜ」

「何がよ?」

「こっちの話さ」

 

 意味が理解出来ず、訝しげな霊夢の肩を気安く叩いて、魔理沙は笑顔で去っていった。

 何かに満足したのは分かったが、何をしに来たのかが分からない。

 魔理沙はそのまま、意気揚々とした足取りでレミリア達の所へと行ってしまった。

 初めて他人のペースに巻き込まれた戸惑いを感じながら、霊夢はその背中を見つめていた。

 

 

 

 

「あっれぇ、魔理沙じゃない! 飲んでるぅ~!?」

「……出来上がってるなぁ、おい」

 

 盃を片手に、陽気に笑い掛ける美鈴を見て、魔理沙は苦笑を浮かべた。

 普段から明るい性格だとは思っていたが、この浮かれ具合はハッキリ言って異常だ。

 酔いが人格を破壊する典型的な例を見た魔理沙は、同じように苦笑を浮かべて美鈴を見守る咲夜達に歩み寄った。

 

「あいつって、お酒弱かったのか?」

「いいえ。ただ単に飲みすぎただけよ」

「節度を持った、真面目な門番だと思ってたんだけどな。自制も効かないくらい飲む理由あったか? まさか、お嬢様が無理矢理飲ませたんじゃないよな?」

「人聞きの悪いこと言うんじゃないわよ」

 

 咲夜に代わって、レミリアが答えた。

 周りが日本酒を飲む中、一人、博麗神社から取り寄せたワインをグラス片手に飲んでいる。

 優雅に立ち飲む姿が、まるで貴族のパーティーにでも出席した令嬢のように様になっていたが、この場ではただ単に浮いているだけだった。

 

「何か良いことがあったみたいでね。お酒が入る前から妙に浮かれっぱなしだったわ」

「大方、先代絡みでしょうけどね」

 

 咲夜とレミリアの説明に、魔理沙は改めて美鈴を見た。

 今度はパチュリーに笑顔で絡んでいる。

 当のパチュリーは、一応の付き合いとして酒の入ったグラスを持っているが、やはりそれほど飲んではいない。

 ほとんど素面の状態で、美鈴の酒臭い息に顔を顰めていた。

 上手く標的から外れた小悪魔が、ニヤニヤと二人のやりとりを眺めている。

 

「両手とか、傷だらけだったんですけどね」

「自分でも納得がいくくらい健闘出来たんでしょ」

 

 心配そうな咲夜に、レミリアは気楽に言った。

 確かに、よく見れば美鈴は体の至る所に擦り傷や痣を作り、特に両手は指先まで包帯が巻かれていた。

 咲夜が施したものだろう。

 包帯には血が滲み、指の形が歪んでいるのか盃の持ち方も何処かぎこちない。

 咲夜が心配するほどの傷だったのだ。

 しかし、当の本人は傷の痛みなど、どうでもいいことのように陽気に笑っている。

 

「……分かるぜ」

 

 魔理沙は微笑みながら、自身の右の耳に触れた。

 布が当てられ、包帯で固定されている。

 こちらは藍が施してくれた治療だった。

 優しさなど欠片もない手つきだったが、正確で早かった。

 

「負傷したの、魔理沙?」

「ああ、名誉の負傷さ」

 

 案じる咲夜に、魔理沙は笑顔で答えた。

 

「多分、美鈴と同じだよ」

「……そう。なら、良かったわね」

「ああ」

「今度、お茶でも飲みながら、話を聞かせてね」

「もちろんさ。遊びにいくぜ」

「ええ、待ってるわ」

「咲夜」

「何?」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 魔理沙と咲夜は顔を合わせ、自然と笑い合った。

 神社で振り切るように別れた時のぎこちなさは、もう無い。

 今回の異変では、たくさんの痛い目を見てきたが、代わりに心に抱えていた多くの問題が解決した。

 その点に関しては、むしろ感謝すらしている。

 魔理沙には、異変解決後の宴会で一際浮かれる美鈴の気持ちが良く分かるのだった。

 

「……なんか、妙に蚊帳の外ね」

 

 友情を確かめ合う二人を眺めながら、レミリアは憮然とした表情で呟くしかなかった。

 視線を移せば、パチュリーにキスをしようとした美鈴が、その赤い顔を何処からともなく取り出した分厚い魔道書の角で殴られている。

 呆れながらも自然と笑顔が浮かび、レミリアは再び視線を移した。

 紅魔館のメンバーの中で、唯一フランドールだけが、この場を離れている。

 彼女の向かった先は、もちろん分かっていた。

 

 

 

 

「うー、変な味……」

「あんたにお酒は百年早いわ! これでも飲んでるのね!」

「わたしだってワインなら飲めるもん! ……これオイシイ!」

 

 チルノから渡されたジュースを飲んだフランドールは、一変して顔を輝かせた。

 ジュースと言っても、りんごを摩り卸しただけの果汁である。

 しかし、お子様二人の舌には合ったらしい。

 子供らしい笑顔のフランドールと、何故か自信満々なチルノの二人を微笑ましげに眺めながら、妹紅がそっと飲みかけの盃を受け取った。

 先代が一口だけ飲んだ物をフランドールが片付けようとして、結局飲めなかった物である。

 

「やはり、私が飲もう」

「駄目だよ、師匠。本当なら、水じゃなくて薬を飲んでもらいたいくらいだ」

 

 妹紅は目の前の先代に言った。

 包帯や傷痕が痛々しいが、それに関する心配は妹紅を含めて一通りの知人がしている。

 本音を言えば、すぐにでも永遠亭辺りに駆け込んで欲しかったが、本人の希望を叶えているのだ。

 もちろん、この場に先代が居て、嬉しくないわけでは決してない。

 容態が比較的軽いこともあり、とりあえず心配を棚に上げて、妹紅は素直に宴会を楽しんでいた。

 

「その水を飲み終えたら、もういい加減に医者に行ってよ? あんなに激しい戦いだったんだから」

「見ていたのか?」

「もちろん。私は、弟子だからね」

 

 妹紅とその周りに集まった者達は、先代と萃香の死闘を最後まで見届けた数少ない目撃者の一部だった。

 他にもつい先ほどまで、戦った先代の身を案じ、また同時に博麗の巫女としての務めを果たしてくれたことに感謝をする為に、人里の住人が何人か会いにやって来ていた。

 いずれも、現役時代から先代を知る、今は年老いた者達だった。

 激動の時代を先代巫女と共に生きた住人達。

 彼らは、老体を労わる家族に連れられて、今は宴会の席から退出している。

 一角の人間として家庭を築き、今日まで生きてこれたことを彼らは先代に感謝していた。

 先代の博麗の巫女に対する信奉は、彼らの代で途絶えるだろう。

 代わりに、博麗霊夢が新たな博麗の巫女として、今夜認められたのだ。

 めでたいことである。

 しかし、妹紅はそれを祝う気持ちと同じくらい、今夜の先代の戦いを忘れまいとする気持ちを抱いていた。

 古い時代と共に去る者の感謝と、これから来る新しい時代と共に生きる者の感謝――両立出来るのは、きっと素晴らしいことだ。

 妹紅は、自分が蓬莱人であったことに初めて感謝した。

 

「特に最後の一撃、凄かったよね。霧になった鬼の体を打ち抜いてた」

「妹紅も、いずれ出来るようになるさ」

「本当?」

「極めれば、ね。あれって『穿心』でしょ?」

 

 横合いから口を出しながら、てゐが妹紅の持っていた盃をひょいと奪い取った。

 一口飲んで、ぷはーっと酒臭い息を吐く。

 見た目は少女そのものだが、妙に貫禄のある仕草だった。

 

「分かるのか、てゐ!?」

「うむ。あの時、先代が使った技は――」

「いや、解説はいい」

「ええっ、詳しく説明してやろうと思ったのに」

「お前、たまにでたらめ言うだろ。今のも、適当な嘘で解説しようとしたな?」

「うん。嘘ウサ」

 

 てゐは悪びれもせず、笑顔で舌を出した。

 

「てゐは、ここに残っていていいの?」

 

 宴会に参加していない永遠亭の者達を指して、妹紅が訊いた。

 

「いいんじゃない? 別に身内ってわけじゃないし。実は出身地からして繋がりないんだよね」

「冷たい奴だな。輝夜達の仲間じゃないのか?」

「仲間意識がないわけじゃないんだけどね。それは妹紅達も同じだしさ」

「へえ、じゃあお前は輝夜達よりも私達と一緒に居ることを選んだわけだ?」

「うん。お前ら好きだしね」

「――」

「顔が赤くなってるねぇ」

「なってない。嘘を言うな」

「あれっ、妹紅まさか……泣いてる!?」

「な、泣いてない! からかうな!」

「ごめんね、あたしゃ嘘吐けない性格だからさ」

「嘘吐け!」

 

 妹紅とてゐのやりとりを笑顔で眺めていた先代は、チラリと視線を移した。

 先ほどから、視界の片隅にずっと気になっている物が映っている。

 背中を向けて蹲った慧音だった。

 両手で必死に頭を隠しているが、指の間からはみ出た角と、何よりも尻から伸びる尻尾が全く隠せていない。

 しかし、本人が真剣であることは痛いほど伝わってきたので、声を掛けられないのだった。

 

「……先生さぁ」

「よせ、私に話しかけるな!」

「本気で隠れるつもりなら、歴史を食べるくらいしようや」

 

 妹紅をからかうのを止めたてゐが、いい加減呆れたような口調で告げた。

 

「何故、隠れる必要があるんだ?」

 

 先代が尋ねたが、慧音は背中を向けたまま答えなかった。

 代わりに、ジュースを飲み終えたチルノとフランドールが抱きつくように寄ってくる。

 

「けーねはね、お師匠に今の格好を見られたくないんだって!」

「そういえば、けーね先生、前に見た時と姿が違うね。どうして?」

「けーねは、満月になると変身して強くなるのよ!」

「スゴイ! わたし達、吸血鬼みたい!」

「それにカッコいいしね!」

「うんっ! その角、カッコいい!」

「何で隠すの?」

「そうだよ、隠さなくていいよ!」

 

 二人の純粋無垢な言葉と視線が突き刺さり、慧音は肩を震わせた。

 

「――だってさ」

「本当に気にしなくていいと思うよ、慧音」

「……しかし、なぁ」

 

 てゐと妹紅にも促され、慧音が肩越しに恐る恐る振り返る。

 自分を見下ろす先代と眼が合い、顔を真っ赤にして再び俯いてしまった。

 

「何故、眼を逸らすんだ? 慧音」

「は、恥ずかしいからです! 貴女には、この異形の姿を見せたくなかった……」

「半人半獣であることも、満月の日に変身することも、慧音自身から話してもらっている」

「語ることと、見せることは違うのです。こんな、醜い……」

「そんなことはないさ」

 

 徐々に意気消沈して、声の小さくなっていく慧音の肩を掴み、先代は少し強引に振り向かせた。

 

「慧音は、今も美しい」

 

 先代は真剣な表情で断言した。

 振り返った先に、尊敬する人物の凛とした顔付きと真っ直ぐな視線があり、その上で囁くように告げられた言葉である。

 言われた内容を理解するのに、しばらくの時間を要したが、やがて慧音は止まっていた思考の再開と同時に顔を真っ赤に紅潮させた。

 口をパクパクとさせて、声にならぬ声を出そうと必死になっている。

 単純な喜びでも、羞恥でもない。

 感極まった表情だった。

 

「あ……ありがとう、ございます」

 

 やがて慧音は、かろうじてそう応えた。

 表情も落ち着いている。

 だらしなく緩みきった笑顔である。

 

「……妹紅殿」

「何じゃ、てゐ殿」

「お主の友人。あれは真性にござるか?」

「分からぬ。常日頃から、師匠に対する尊敬の念は並々ならぬものと伺っておったが」

「同性愛は非生産的でござる。寺子屋の教師としても、道徳的に如何なるものかと」

「……お前んとこの薬師に頼んで、性転換する薬とか調合してもらえないかな?」

「男性器生やす薬は見たことあるけど」

「マジで? じゃあ、問題解決じゃない」

「いや、新たな問題としてどっちが飲むか――」

「コラ、そこぉ!!」

 

 慧音はてゐと妹紅の胸倉を掴み上げると、強烈な頭突きを一発ずつ叩き込んだ。

 ハクタク化した身体能力は伊達ではなく、凄まじい音が二人の頭蓋骨から鳴り響いた。

 

「子供もいるんだぞ、冗談にしても自重しろ!」

 

 慧音は叱りつけたが、既にてゐと妹紅は気絶していた。

 冗談と言いながらも、顔は赤いままである。

 加えて、二人の囁くような話し声が聞こえたのは、変身によって五感の鋭敏化した慧音だけであり、チルノとフランドールは不思議そうな表情で一連の出来事を眺めているだけだった。

 ぐったりとしたてゐと妹紅を放り捨てると、慧音は咳払い一つを挟んで、改めて先代と向かい合った。

 当然、彼女も二人のやりとりは聞こえていない。

 もし、聞こえていた上でそんな反応を見せれば、自分は自殺していただろう、と慧音は密かに安堵していた。

 

「とにかく、ありがとうございます。私はもう二度と、この姿を恥じることはしません」

「ああ」

「それよりも、先代。そろそろ、体を休めた方が良いでしょう」

「分かっている。後で、紫に永遠亭まで送ってもらうつもりだ」

「まだ何か用事が?」

「ああ、一つだけ」

 

 答えて、先代は視線を移した。

 その先を辿った慧音が、驚いたような表情を浮かべる。

 

「では、行ってくる。また明日、人里で会おう」

「――お気をつけて」

 

 立ち去る先代を、慧音は案じるように見送った。

 先代の向かった先には、風見幽香がいた。

 

 

 

 

 幽香は、空になったグラスを片手で玩んでいた。

 酒は飲み終えた。

 周りの喧騒に馴染むつもりはないし、人間とも妖怪とも馴れ合う気はない。

 

 ――なのに、何故自分はここに残っているのか?

 

 答えの出ない自問をしながら、しかし一つだけ断言した。

 それは決して――たった今自分の所へノコノコと歩み寄ってくる間抜けを待っていたわけではない、ということだ。

 空のグラスに視線を落としながら、その表面に屈折して映る先代の姿を、幽香は見て見ぬ振りをしていた。

 

「幽香」

 

 先代の呼びかけに、さも今気付いたといった調子で幽香が顔を上げる。

 

「腕は大丈夫か?」

「お前に言われたくないわね」

 

 幽香は鼻で笑った。

 奇しくも、お互いに片腕を負傷している。

 

 ――もしも、ここで戦うなら条件は五分か。

 

 ふと思い浮かんだそんな考えに、幽香は内心で呆れたように笑った。

 別段、笑うほど悪い思いつきではない。

 自分の最も優先すべき目的は、先代と戦って勝つことだからだ。

 これまで散々はぐらかされてきたのだから、戦うチャンスがあるのなら、どんなタイミングでも歓迎する。

 しかし、今はなんだか酷く未練がましい考えのように思えて仕方がなかった。

 

「勝ったわね」

 

 幽香は自分で話題を逸らせるように、伊吹萃香との戦いについて話した。

 

「見ていたのか」

「ええ。その後で、暇だったから娘の方の戦いも見たわ」

「どうだった?」

「別に、どうもしないわ。あの娘に興味は無いわね」

「そうか」

「何? 自分の娘と私を争わせたいの?」

「いや……幽香は、今でも私と戦いたいと思っているのか?」

「当たり前よ」

 

 今更何を言っているのか、と。幽香は憮然とした表情で返した。

 その決意は、今日に至るまで一度も萎えたことはない。

 今でこそ、気分が乗らない状態だが、もしもそれが許される状況になったのなら喜んで受け入れるだろう。

 スペルカード・ルールなど知ったことではない。

 霊夢が覚悟と行動によって示した幻想郷の理は、唯一この花の妖怪にだけは通用しなかったのだ。

 返答を受けて黙り込む先代の意図が分からず、幽香は訝しげな視線を向けたまま、次の言葉を待った。

 

「――分かった。なら、戦おう」

 

 先代の口から飛び出した予想外の言葉に、幽香は眼を見開いた。

 

「……なんですって?」

 

 一瞬、耳を疑った。

 あれだけ自分の挑発をかわし、逃げ続けていた先代が『戦おう』と言ったのだ。

 冗談――と疑うほど、幽香は目の前の人間を侮ってはいない。

 何よりも、自分を見据える瞳にはよく知る光が宿っている。

 揺ぎ無い意志の光だ。

 

「弾幕ごっこで、かしら?」

「違う。真剣勝負だ」

「伊吹萃香とやったような?」

「そうだ。萃香とやったような戦いだ」

「――」

「そういう戦いが望みだったんだろう?」

 

 幽香は小さく唾を飲んだ。

 

「そうよ」

 

 先代が本気であることを理解し、それがゆっくりと全身に行き渡った。

 気付かぬ内に震える声で繰り返す。

 

「その通りよ」

 

 何かが腹の奥から湧き上がってくる。

 それが全身を細かく震わせている。

 幽香は必死で堪えようとした。

 しかし、押さえきれない衝動が口元に笑みとして表れ、持っていたグラスを粉々に握り潰していた。

 

「今、ここで?」

「さすがにそれは無理だ」

「でしょうね。ええ、それくらい分かっているわ」

 

 口ではそう言いながら、自分が僅かな落胆を感じていることに気付いた幽香は、内心で恥じた。

 先代に気づかれないように、ゆっくりと浅く長い深呼吸を一つ挟む。

 なんとか心を落ち着けた幽香は、改めて先代を見据えた。

 

「心境が変わった切欠は、やはり娘のことかしら?」

 

 半ば以上確信した予測を口にした。

 

「ああ。あの子は、もう一人前だ。今日、それを改めて実感した」

「だから、もう思い残すことなく死ねるというわけかしらね」

「少し違う。今日、決めたことだが、私は霊夢が二十歳になったら波紋を止めようと思っている」

「何故、二十歳なの?」

「私自身の勝手なこだわりだ。あまり気にするな」

「ふぅん……まあいいわ」

 

 幽香は言われたとおり、全く気にしなかった。

 そんなことは、本当はどうでもよかったのだ。

 

「つまり、その日に私と戦うということでいいのね?」

「そうだ」

「波紋を止めた日から、貴女は徐々に老い衰えていく」

「そうだ」

「だから、その日こそが貴女にとって最盛期となる」

「そうだ」

 

 幽香は、最後に確かめるように尋ねた。

 

「生涯で最高の力を振るえる日を、私との殺し合いに使うということね?」

「そうだ」

 

 先代は一瞬の躊躇いもなく答えた。

 幽香は『ふぅん』と相槌を打った。

 何かを考える振りをしながら、更に『そう』と相槌を打った。

 その実、何も考えていなかった。

 頭の中は真っ白だった。

 ただ一つ、歓喜の色のみに染まっていた。

 それを絶対に表に出さないように力を尽くしていた為、しばらくの間意味のない相槌と仕草を繰り返すだけだった。

 やがて、幽香は先代の左の頬に彷徨わせていた視線を留めた。

 萃香に刻まれた深い傷が赤々と残っている。

 僅かな思案の後、幽香はおもむろに能力を発動した。

 

「先代」

「なんだ?」

「傷に薬を塗ってあげるわ」

 

 何もない手のひらに薬草を生み出し、その葉を指で磨り潰す。

 

「絶対に動いちゃ駄目よ?」

「分かった」

 

 先代の返答に満足そうに笑って、幽香は腕を伸ばした。

 ゆっくりと抉り込むような手つきだった。

 薬を塗るというよりも、傷口に捻じ込むといった方が正しいような力の込めようである。

 しかも、何度も指を捻るといった念の入りようだ。

 幽香はそれを涼しげな微笑を浮かべたままやっていた。

 当然、やられた方は拷問にも等しい激痛が走る。

 しかし、先代は言われたとおり表情すら動かさずに耐えていた。

 傷口が開き、新しい血が流れ始めたところで幽香はその行為をやめた。

 血のついた指を懐のハンカチで拭い、ついでとばかりに先代の頬の血も拭う。

 

「よく効く薬よ」

「ありがとう」

 

 血で汚れたハンカチを仕舞う幽香に、先代は礼を言った。

 

「その日を――」

 

 誰にも邪魔されない、先代との殺し合いが約束された日。

 

「楽しみに待っているわ」

「ああ」

「約束を破ったら殺すわよ?」

「破らない」

「その日までに、誰かに負けたらやっぱり殺すわ」

「私は、もう戦わない」

「何、寝惚けたこと言っているの?」

 

 至極真面目な先代の返答に対して、幽香は可笑しそうに笑った。

 

「お前が戦わずに済むはずがないでしょう。

 予言してあげる。例え、娘が一人前になろうが、博麗の巫女を本格的に引退しようが――お前は戦い続けるわ。望まなくても、勝手にそういう機会がやって来る。そういう星の下に生まれたのよ、お前は」

 

 冗談とも本気ともつかない口調で、幽香は言った。

 

「でも、もういいわ。お前が何処の有象無象と殺し合おうが、私はもう気にしない。

 ただ、そいつらを相手に勝ち続け、そして、一番最後に私の前に立っていればいい――」

 

 幽香はそう言って、先代の前から立ち去った。

 去り際に残していったものは、眩暈がするほど美しい笑顔だった。

 

 

 

 

「あら?」

 

 幽々子がそれに気付いたのは、なかなか進まない酒を三分の一ほども飲んだ時だった。

 酒だけではなんとなく口が寂しい、と。辺りに視線を彷徨わせていた時である。

 宴会の賑やかさの中で、先代巫女と風見幽香が向かい合って何やら話しているところを見かけた。

 そこから逆に辿るように、傍らの紫へと視線を戻す。

 案の定、紫はそんな二人を――正確には先代を――じっと見つめていた。

 紫が、ずっと先代のことを気に掛けていたことは知っている。

 それこそ、伊吹萃香との戦いが始まる前から彼女を見ていた。

 戦いに勝利した後も、倒れそうになった先代を一番に支えたかったに違いない。

 しかし、紫はそうしなかった。

 あの時、幽々子は紫の心境を察して何も言わなかった。

 代わりに、全てが終わった今、幽々子は思い煩う親友に声を掛けることにした。

 

「――先代、ね」

「何?」

 

 ポツリと呟いた言葉にすぐさま反応する紫を見て、幽々子は苦笑した。

 

「あの話が終わったら、お医者さんに連れて行った方がいいわ」

「ええ、分かってるわ」

「間違って冥界に連れて行っちゃ駄目よ?」

「幽々子」

「冗談よ、睨まないで」

「あの時のことは、先代にも謝ったわ」

「じゃあ、また別のわだかまりがあるのかしら?」

「……ええ」

 

 頷く紫の声は、何処か力がなかった。

 

「ずっと昔のね」

「そう」

「今更、思い出したわ」

「だったら、そのことについても話してきなさい」

「――」

「ゆっくり、ね。夜が明ければ、宴会の方は多分勝手にお開きになるわ」

 

 そうこう話す内に、二人の視界の先で先代の前から幽香が立ち去った。

 残された先代は、それ以上誰かと話すこともなく、佇んでいる。

 幽々子は視線で紫を促した。

 

「それじゃあ、先代を永遠亭に連れていくわ」

「頑張ってね」

 

 意味ありげに笑って手を振る幽々子を、恨めしげに一睨みした後、紫は先代の元へ近づいていった。

 それを見送った後、一人残った幽々子は改めて辺りを見回した。

 騒がしい夜だった。

 そして、同じくらい愉快な夜だった。

 生の先に死はあっても、死の先には何も無いように、変化の無い冥界とは違って現世は色んなことが起こる。

 亡霊である自分にとって、様々な出来事が新鮮で楽しい。

 不謹慎かもしれないが、親友である紫の悩みも、幽々子にとっては微笑ましく映るのだった。

 異変も宴会も、一通り楽しんだ幽々子は、そろそろ帰ることを考え始め――。

 

「そういえば、妖夢ってば何処にいるのかしら?」

 

 ぼんやりと感じていた疑問を、今更になって呟いた。

 

 

 

 

 伊吹萃香を中心とした鬼達は、一塊となって酒を飲んでいた。

 やはり、そう簡単に周囲に馴染むことは出来ない。

 幻想郷の住人達は、ほとんどの者達が鬼に対して遺恨を残している。

 この宴会に感じる戸惑いという点では、異変の張本人である鬼達が最も大きかった。

 自分達の命が繋がったことは分かる。

 しかし、元より負けた後の保身を踏まえて、この異変を起こしたわけではない。

 自分達が許されたことは分かる。

 しかし、まだ受け入れられたわけではないのだ。

 そもそも、自分自身が未だに受け入れられない。

 酷く複雑な心境が、鬼達の顔にも表れていた。

 淡々と盃を空けているのは、萃香と彼女の傍で酌をする鬼の面の少女だけである。

 

「――これで、良かったんですかね? 頭」

 

 注がれた酒をじっと見つめていた鬼の一人が、おもむろに呟いた。

 囲むように座り込んだ鬼達は、いずれも大柄な者達だったが、肩を落としたその姿は萃香よりも小さく見える。

 

「何が?」

 

 萃香は、あえて素っ気無く問い返した。

 

「いや、だって……俺達、酒飲んじまってるし」

「酒は飲むもんだろ」

「そうじゃねぇっすよ、その……」

「ハッキリ言え、馬鹿」

「だって……その、仲間ァ皆死んじまって……」

「納得づくで始めた喧嘩だろ? 誰も後悔しちゃいねぇよ」

「……後悔してんのは、俺達じゃないですか。俺達、生き残っちまって……宴会で、酒まで飲んで」

「――」

「本当に、良かったんすか? こんな終わり方で……」

 

 いつの間にか、その鬼の言葉に、萃香を含めた仲間の誰もが耳を傾けていた。

 今の状況を心の底から否定するわけでも、かといって肯定するわけでもない。

 酷く戸惑いを含んだ、拙い話し方だった。

 しかし、その様子も含めて、この場の全員の心境を代弁しているかのように響いていた。

 

 ――誰も後悔しない。

 

 地底で異変を起こす算段を立てた時、鬼の誰もがそう思っていた。

 幻想郷という新しい時代の舞台そのものを相手した、一世一代の大勝負には違いなかったが、その先に待つ勝利にも敗北にも決して後悔しないという決意があった。

 勝てば、言うまでもない。

 そして、負けたとしても、潔く死んでいこう。

 古い時代からやって来た傍迷惑な鬼達は、見事退治されて御伽噺はお終い。めでたし。

 そのはずだった。

 だから、こんな結果になった時にどうすればいいのか考えていなかった。

 負けた時に死ぬ覚悟はあったのだ。

 だけど、負けた時に生きる覚悟なんてしてこなかった。

 

「生き残っちまったもんは、しょうがねぇだろ」

 

 萃香は諦めたような笑みを浮かべた。

 自分も、全力で戦った結果負けた。

 己の半身は死に、その力も魂も、もう戻ってはこない。

 そして、自分達を生かした霊夢の判断が、善意や好意によるものではないということも分かっていた。

 彼女の判断に、感謝することなんて出来ない。

 いっそ、全ての鬼の首を見せしめとして切り落としてくれた方が、誰もが一番収まりがついたはずだ。

 その結果、正当な報復は成され、鬼の討伐は完了する――。

 少なくとも、生き残った自分達以外は、そうして鬼としての生を全うした。

 

「だけど……」

 

 ――何故、自分達だけが?

 

 残された者は、そう思わずにはいられないのだった。

 

「じゃあ、ここでやっちまえよ」

「やる、って……」

「その手に持ってるもんひっくり返して、トチ狂ったように喚きまくって、適当な人間でもぶっ殺すのさ。そんで何も考えずに暴れまくれば、今度こそ博麗の巫女は容赦しない。きっちり『退治』してくれるよ」

 

 萃香の言葉に、鬼は手に持った盃に視線を落とした。

 間を置くほど、悩む必要はなかった。

 

「――無理っすよ。そんなこと、出来るわけないっす」

「どうして?」

「だって、もう決着はついちまってるじゃないですか。

 これがまだ決着のついてない勝負なら、どこまでも足掻きたい。見苦しくったって、最期まで地面をのた打ち回ってやりますよ。

 だけど、俺ァもう負けちまったから。金髪のね、若い小娘なんですよ。細っこい体して、すげぇ肝の据わった奴で。力勝負じゃなかったけど、俺ァあいつとの勝負で、もう心の底から『負けた』って思っちまったんですよ」

「そこできっちり首の一つでも獲ってくれりゃよかったのにな」

「そうなんすよ。俺の首なんて興味もねぇって言って、生き恥晒さすなんて、本当ひでぇや。

 ……けど、だからこそ。もう、あの娘にこれ以上みっともない姿見せられないじゃないっすか。勝ち負けでは足掻いても、引き際だけは潔くいきたいじゃないっすか」

 

 話している内に感極まったのか、声は震え、その無骨な顔には涙が流れていた。

 悲しいからであり、悔しいからでもある。無念の涙だった。

 他の鬼達も、涙こそ流していないが、皆一様に同じやるせない気持ちだった。

 誰もが手に持った盃の中に視線を落としたまま、黙り込んでいた。

 

「だったら、呑み込むしかねぇだろ」

 

 萃香が言った。

 堅い眼をしていた。

 

「自害も出来ねぇってんなら、生きるしかねぇ。地上に残っても、地底に帰ってもいい。いつか自分を退治する奴が現れるか、時間が磨り潰しに来るまで、待つしかねぇよ」

「……気の遠くなる話っすね」

「しょぉがねえよ、負けたんだからっ!」

 

 やけくそのように笑って、萃香は景気よく盃を一気に煽った。

 口元を拭い、空になった盃を見つめたまま、呟く。

 

「わたしは、地上に残るつもりだ」

 

 全員が萃香を見つめた。

 しかし、何も訊こうとはしなかった。

 

「お前らも、好きにしろ」

「――」

「いつだってそうさ。鬼なんだから、好きにすればいい」

「……はい」

 

 ぽつりと答えた。

 そうして、鬼達の間にまた沈黙があった。

 空になった萃香の盃に、鬼の少女が黙って新しい酒を注ぐ。

 今の心境でどう感じるかはともかく、旨い酒だった。

 人里の酒屋が作ったらしい。

 大切な商売道具だろうに、この唐突な宴会に惜しげもなく提供した。

 萃香は頭の中と心に中に様々なものを浮かべながら、何も考えずにその酒を見つめていた。

 

「少なくとも、死んでいった奴らは、この酒を飲めない」

「……確かに旨い酒っすけど、慰めになるほどの理由じゃないっすね」

 

 疲れたように相槌を返しながら、それでも鬼は小さく笑って酒を飲み干した。

 

 

 

 

 ――以上が、鬼の襲撃からその解決に至るまでの一連の出来事である。

 この後の生き残った鬼達の動向は二通りに分かれる。

 大部分は地底へと戻り、今後地上へと出ることを八雲紫当人から固く禁じられた。

 しかし、僅かに生き残った鬼の中で更にごく一部の者達は地上に残ることを希望し、スペルカード・ルールの遵守を条件にそれを許されている。

 扱いとしては他の妖怪と同等であり、また更に一部の鬼は他者の管理下にあるので安心して欲しい。もっとも、人間の皆さんは妖怪を警戒して然るべきだが。

 最後に、地上に残った鬼の所在地などを可能な限り詳細に明記しておく。

 

 まず、伊吹萃香は博麗神社での滞在を希望し、博麗霊夢が監視を兼ね――。

 

 

 

 

 初めて先代が訪れた時と比べれば、永遠亭の内装は随分と様変わりしていた。

 外界との関わりを持ち始めた故にである。

 医者が患者を診察する為の『診察室』としての形を整えた部屋で、先代と永琳は向かい合って座っていた。

 

「治療はこれで完了よ」

 

 カルテを書き込みながら、永琳は告げた。

 その言葉を受けた先代は、包帯まみれで真っ白な姿である。

 しかし、真新しい包帯が負傷した箇所に的確に巻かれた姿は、確かに治療が完璧であることを示していた。

 最も重傷であった左腕も、ギプスで厳重に固定されている。

 全ての処置が神掛かったほどに正確で早かった。

 

「頬の傷は相当深かったようだけど、事前の治療が良かったのね。既に治り始めているわ」

「そうか」

「でも、傷痕はどうしても残るわね。消せないこともないわよ?」

「今更だ」

「他の古傷と比べても、おそらくかなり目立つ形になるわ。それに、位置が顔よ」

 

 永琳は女として案じるように忠告した。

 しかし、先代は当てられた布越しに軽く傷を撫でて、小さく笑った。

 

「いや、このままでいい」

「……そう」

 

 永琳はそれ以上言及しなかった。

 その傷に対して、何か思うところがあるのだろう。

 それは当人の勝手だ。

 

 ――そんな記憶が、彼女の古傷の一つ一つには宿っているのだろうか?

 

 永琳は他愛もないことを考えた。

 

「次にその左腕に関してだけど、改めて確認するわね?」

 

 気を取り直して、尋ねた。

 おおまかな負傷の経緯は、治療の最中に聞き及んでいる。

 

「伊吹萃香との戦闘で、攻撃を受け止める形で左腕を肘の部分から骨折。その後、戦闘の最中で『波紋』を使い、傷の痛みを和らげると同時に骨折箇所を一時的に接合。伊吹萃香を全力で殴った結果、反動で再度骨折――合ってるかしら?」

「その通りだ」

 

 頷く先代を、永琳はじっと見つめた。

 

「馬鹿じゃないの」

 

 淡々と罵った。

 

「ただの複雑骨折じゃなくて、一度折れた箇所がまた折れているんじゃないの」

「……すまない」

「私に謝っても仕方がないわ。

 今日中にここへやって来たのは正解だったわね。下手に放置して、自力で治癒していたら、おそらく正常な形に骨が繋がらなかったでしょう」

「助かったよ、永琳」

「こっちは頭が痛いわ」

 

 永琳は頭痛を堪えるような仕草をした。

 先代の謝礼は皮肉や言葉だけのものではなく、純粋で素直な感謝の気持ちなのだと分かっていたが、だからこそ余計に頭痛の種となった。

 蓬莱人でもないくせに、目の前の人間には身の危険に対する深刻さというものが足りない。

 永琳は、責めるような眼つきで先代を軽く睨んだ。

 

「以前、私が話したことは覚えているわね?」

「ああ」

「もう少し、自愛しなさい」

「努力する」

「……努力が必要なのね」

「すまない。いつも、気がつくとこうなっているんだ」

 

 冗談なのかと疑うほど真顔で、先代は淡々と応えた。

 その返答がどういう意図を含ませたものなのか測りかね、思索の無駄を悟って、ため息を吐く。

 

「当分は、左腕を使わないでおきなさい」

「当分とは?」

「知らないわ。貴女の回復力を計算するなんて馬鹿らしいもの」

「永琳……」

「冗談よ。一週間後に、もう一度診せにきなさい」

 

 先代が困ったような声を出すと、永琳は苦笑を浮かべた。

 ようやく、ほんの僅かだが眼に見えて分かる程度に先代が表情を崩したことに溜飲を下げたのだった。

 治療を終え、帰ろうとする先代を見送る為に永琳は共に立ち上がった。

 永遠亭の門までの、短い距離を歩く。

 未だに夜は明けていない。

 人里では賑やかな宴会が続いているはずだが、遠く離れた迷いの竹林の中にある永遠亭には、その喧騒も無縁のものだ。

 しかし、周囲はまた別の意味で騒がしく、慌しかった。

 因幡てゐに似た人型を取れる妖怪兎達が、走り回っている。

 それを指揮するのは鈴仙だった。

 

「ここも、鬼に襲撃されたと聞いたが――」

 

 所々破壊された屋内を眺めながら、先代は呟いた。

 まるで何かが暴れたような跡がある。

 そして、今夜に限ってその暴れた『何か』の正体はハッキリしていた。

 永遠亭の中には、強い血の臭いも漂っている。

 

「ええ、イナバが何匹か食われたわ」

「そうか……」

「貴女も兎肉は食べるでしょう」

 

 淡泊な言葉を返しながら、永琳は『駆除』された鬼の死体が積み上がる中庭の縁側を通り過ぎた。

 

「何か、手伝えることはあるか?」

「何も無いわ。怪我を治すことだけ考えていなさい」

「治療の礼だ」

「それは、もう八雲紫に貰っているわ。鬼の死体の処理よ。家屋の修理はともかく、あれの処分は難しいからね」

「そうか」

「気持ちだけ受け取っておくわ」

 

 先代の善意を、打算の返答でやんわりと受け流す。

 永琳にとって、先代巫女は接し方の難しい相手だった。

 単純に『興味のある人間』『好意のある友人』と捉えるには、立場も知り合った経緯も複雑すぎる。

 何より、彼女に自分は一度弱味を見せてしまっている。

 あまりこちらに関わって欲しくないのだ。

 永遠亭全体と自分個人の平穏を考えるならば、それが一番だろう。

 

 ――この人間に、深入りするのは危険だ。

 

 そんな警戒とも不安ともつかない考えを内心へ完璧に隠しながら、永琳は先代を見送った。

 彼女をここへ連れてきた紫と共に、夜の闇の中、ゆっくりと永遠亭から遠ざかっていく。

 やがて二人の背中が完全に見えなくなると、永琳はその場を動かないまま、背後の気配に向かって口を開いた。

 

「行ったわよ、輝夜」

 

 門の影から、輝夜がひょっこりと顔を出した。

 端正な顔が、形容し難い表情で歪んでいる。

 

「……迂闊だったわ。先代が、ここへ来るなんて」

「彼女と何かあったの?」

「いや、何もないけど……」

「だったら、別に隠れる必要もないでしょう。堂々としていればよかったのに」

「それじゃあ、先代と顔を合わせるかもしれないでしょ!」

 

 矛盾した輝夜の八つ当たりに、永琳は呆れたようにため息を吐いた。

 どう見ても、輝夜は先代と会うことを気まずく感じている。

 つまり、何かあったのだ。

 永遠亭が鬼の襲撃を受けた時、偶然妹紅達に連れ出されて人里まで向かったことは輝夜本人から聞いていたが、そこで何があったかまでは説明されていない。

 おそらく、そこで先代に何らかの形で関わったのだろう。

 そして、その出来事が輝夜の先代に対する複雑な心境を、更に捻って歪めてもつれさせてしまったのだ。

 奇しくも、主従二人揃って、似たような印象をあの人間に対して抱いたことになる。

 まるで、偶然まで味方しているようだ。

 

 ――やはり、深入りするには危険な相手ね。

 

 改めて先代に対する懸念を抱きながらも、永琳の表情は警戒というよりも困ったような苦笑を浮かべていた。

 

「私情だけなら好きになれそうな相手なんだけどね」

「嫌い。あんな奴なんて、死んでも好きにならないんだから」

「貴女、死なないでしょ」

 

 

 

 

 ――永琳の治療を受け、永遠亭を出た私は今日という日を振り返ってみた。

 

 楽しみにしていた宴会が突然の鬼の襲撃によって潰され、その鬼の退治を巡って人里で大立ち回りを演じ、挙句の果てにあの伊吹萃香と命懸けの死闘を繰り広げたが何とか勝利を収め、こうして生き残ったし宴会も出来た。

 

 ――信じられるか? たった一晩の出来事なんだぜ、これ……。

 

 激動の一日と言う他無い。

 それでも最終的には、地底での戦いに比べて随分と軽傷で済んだし、この騒動で得たものも多かった。

 結果オーライってのは、まさにこのことなのかもしれない。

 特に、霊夢の成長をこの眼でしっかりと見届けられたことは、大げさな話ではなく私の人生にとって大きな意味を持つものだった。

 春雪異変でも、冥界で霊夢の活躍を見たことがある。

 あの時感じた霊夢の成長が一時的な感動ならば、今回のそれは私の認識を改める一つの節目だった。

 霊夢はまだ大人じゃない。

 だけど、もう子供でもない。

 本当の意味で、一人前の博麗の巫女として立派にやっていける、と。そう確信する体験だった。

 その納得が、親として少し寂しい。

 しかし、それ以上に満たされる。

 霊夢には、もう私の助けなど必要ないだろう。

 母親として、一つの仕事を終えた気分だった。

 だから、なのかもしれない。

 

 ――幽香との殺し合いの約束しちゃったのは。

 

 あー、やっちゃったなー。

 私、やっちゃったナー。

 今更になって、若干の後悔を感じる。

 去り際のね、ゆうかりんのふつくしい笑顔を見たらああ勇気を出して言ってみてよかったなぁって思うかバカ! あの時の私のバカ!!

 確かに綺麗な笑顔だったけど、かつてない程の寒気を感じたわ!

 ヤバイよ、あれ。殺気とかそういうの完全に超越してたよ……。

 あと、機嫌が良くなったのか薬を塗ってくれたけど、あれは何なの? 新手の拷問なの?

 もうちょっとで悲鳴上げながらのた打ち回るところだったわ。

 単なる悪意ではなく、本当によく効く薬だったのがまた分からん。

 まさか、あれってゆうかりんなりのデレだったんじゃないだろうな。

 とりあえず、その日までの安息は約束されたが、同時に逃げられない決戦の日まで決まってしまった。

 霊夢が二十歳になったその日、私は寿命よりも先に命を懸けて戦いに挑まなければならない――!

 今更ゆうかりんに『お前とは最後に戦うと言ったな? あれは嘘だ』とか言おうものなら、私の方が崖から逆さまに落とされかねない。

 その日に備えて、覚悟を決めるしかないのだった。

 うーむ、波紋を止める日を具体的に決めた勢いで、心残りも清算しておこうって思ったのが悪かったかなぁ?

 まあ、幽香との関係については、いずれハッキリさせとかないといけないって前々から思ってたから、来るべくして来たことなのかもしれん。

 それは、私が波紋を止める日についても同じだった。

 これまで、漠然と『霊夢が大人になったら、残りの人生は自然のままに委ねよう』と考えていた。

 霊夢が大人になる――それをどういった節目で判断するのか、ずっと決めていなかったのだ。

 そして、今回の異変が起こった。

 私は霊夢が一人前になったことを悟り、本格的に一線を退く決意をしたのだった。

 決意した上で、更に『二十歳まで』という期間を作ったのは、私の中の前世の記憶から、やはり『大人』としての具体的な年齢が二十歳だからだろう。

 深い意味はない。

 正直、今の私に心残りってあんまりないのよね。

 でも別に、私はさっさと死にたいわけじゃない。

 ただ人の踏み込める領域から外れた力や技術を使って、ましてや人以外の存在に変わってまで、生き永らえようと思う理由がないだけだ。

 普通に生きて、その結果長生き出来るならそれに越したことはない。

 もっとも、それに関しては永琳先生から早死にするってお墨付き貰ってるけどね。

 けど、そういった無茶のツケも、承知の上で生きた私の人生の一部だから。

 そんな私の新しい人生の方針を決めた上でも、今夜は重要な一日だった――。

 

「先代」

 

 隣の紫に声を掛けられて、私は束の間の回想から戻ってきた。

 スキマで永遠亭まで直行してくれた紫は、私に付き添うように一緒に歩いている。

 

「傷の具合はどうだったの?」

「軽傷だ」

「とても、そうは見えないけれど」

「以前の怪我に比べたら、遥かにマシだ」

 

 ちょっと責めるような眼つきだったので茶化して答えると、紫は苦笑を浮かべた。

 でも、マジでごめん。

 毎度、心配掛けてばっかりだね。

 

「心配させてすまない」

「まったくよ。でも、いいわ。もう慣れました」

「付き合いも長いからな」

「そうね」

 

 その時、紫は何故か一瞬物憂げな表情を浮かべたように見えた。

 

「……この竹林を歩いて抜けるのは面倒ね。スキマで人里まで送るわ」

 

 ここに至るまでずっと歩いていたが、言葉の調子から『ここでお別れ』といった雰囲気を感じた私は、思わずそれを制していた。

 確かに、案内人もなしに迷いの竹林を歩いて抜けるのは面倒だ。

 っていうか、私は帰り道知らん。

 でも――。

 

「もう少し、歩かないか?」

 

 私の提案に、紫は驚いたように眼を丸くした。

 やだ、もう。ゆかりんったら、不意打ちでそんな無防備な顔を見せるなんて、それこそ私が驚くわ。

 昔から変わらず、紫は超絶美人さんである。

 もう、どんな表情してても様になる。

 普段の妖艶な微笑も好きだが、この表情もレアだぜ! 脳内にセーブ!

 そんな風に私がはしゃいでいる間に、紫は余裕の笑みを取り戻していた。

 

「帰り道は分かるのかしら?」

 

 もちろん、分かりません。

 紫がスキマを生み出そうとしていた手のひらを返すと、そこに一匹の蝶が現れた。

 幽々子の弾幕に似ているが、こちらは電灯のように強い光を纏っている。

 その蝶がふわりと紫の手から離れ、先導する道案内よろしく飛びながら、自らの光によって行く先を照らしていった。

 

「あれを目印に進めばいいわ」

「分かった」

 

 私と紫は、再び連れ立って夜の竹林を歩き始めた。

 何処を見ても同じような、単調な光景が続く。

 蝶の光と、頭上の月だけが暗闇を照らしていた。

 辺りは静かだ。

 迷いの竹林には、妖精や妖獣も棲んでいると聞いたが、動く者の気配すら感じない。

 ま、私の隣には恐れ多い大妖怪がいるんだから、どんな奴だって息を潜めるしかなくなるだろう。

 しばらくの間、私と紫は無言で歩き続けた。

 ふーむ、こうして静かに歩くのもいいが、折角の二人きりだし紫と何か話したいな。

 定番だと『いい天気だね』とか当たり障りのない話題で始められるが、生憎の夜だ。

 代わりに月が綺麗なので、とりあえずそれを話の切欠にでもしようかしら?

 

「――霊夢が二十歳になったら、普通に生きると言っていたのは本当かしら?」

 

 しかし、私より先に紫が口を開いていた。

 

「幽香との話を聞いていたのか?」

「ええ。なんだか、とんでもない約束をしていたようだけどね」

「そうだな」

「別に貴女が殺されるとは思っていないわ。そちらはどうでもいいの」

 

 当然といった調子で断言する紫は、私の勝利を微塵も疑っていないらしい。

 ありがとう、紫。

 でも、幽香ってかなりシャレにならん相手だからね?

 私の実力を信頼してるのか、幽香を侮ってるのかは分からんけど。

 あと、言外に『幽香が死ぬのはどうでもいい』って言ってるような気がするけど気のせい?

 

「貴女が、そう決めたのは霊夢の成長を見届けたからかしら?」

「ああ。今夜、ハッキリと見せてもらった」

「そうね。私も見届けたわ」

「あの子は、もう立派な博麗の巫女だ。私の役割は、本当に終わった」

 

 私はしみじみと呟いた。

 これで、もうバトル三昧な日々とはおさらばすることになるだろう。

 そう考えると、ちょっと名残惜しい気もするね。

 ……幽香の予言染みた忠告は、あえて無視する方向で。

 来るなよ!? トラブル、絶対に来るなよ!?

 

「――そうね。感慨深いわ」

 

 紫はまた、あの物憂げな表情を浮かべていた。

 

「私と貴女が出会って、もう何年経つかしら?」

「長いな。四十年は経つ」

「妖怪の山で初めて貴女を見つけた時は、まだ幼さの残る女の子だったわね」

「ああ。正確な年齢までは分からないが」

「今の霊夢よりも子供だったことは確かよ。ふふっ、貴女は突然目の前に現れた私を全く恐れていなかった」

 

 当時の過酷な環境と修行によって鉄面皮が形成されつつあったことを紫は知らない。

 あと、八雲紫だと理解した途端、驚きや不安なんぞ消し飛ぶテンションにもなってたな。

 今思えば、あれは私と紫の運命の出会いだったのかもしれない――なんつって!

 

「あの時、私は貴女が修行している光景をしばらく見ていたのよ」

「そうだったのか?」

「ええ。そして確信した。貴女の力と素質があれば、当時の幻想郷を大きく変えられると」

「だから、博麗の巫女に任命したのか」

「そうよ。そして、貴女は私の期待に十二分に応えてくれたわ。

 当時の博麗の巫女が死に、妖怪が人間を襲う頻度が増して、その影響で人間同士の間にも不信や不和が大きくなりつつあった――そんな不安定な時代を、貴女が力で変えたのよ」

 

 ただ単にレベルを上げて物理で殴り続けただけとも言えるけどね。

 どちらかというと、そんな私の行動を紫が上手く利用した結果が平穏に繋がったんだと思う。

 しかし、微笑む紫に無粋な口を挟む気にもならず、私は素直に称賛を受け止めることにした。

 紫の期待に応えられたんなら、幸いです。

 

「……でもね、先代。私が貴女に期待したのは、その力だけだったのよ」

 

 不意に、紫が呟いた。

 

「自分の見出した貴女の力に、期待もしたし信頼もしていた。

 でも、それだけだったの。それ以外の何も、私は貴女に望まなかった。気に掛けることもしなかった。無駄だと思ったから」

「――」

「私、貴女に博麗の術についてあまり教えなかったでしょう? 貴女には『向いてない』と説明したわ。もちろん、それも間違いない。

 だけど、それ以上に私は、貴女に今の霊夢のような結界を管理する博麗の巫女としての役割を期待していなかったのよ。私はただ、貴女が武力を行使してくれればよかった」

 

 黙って聞く私に、紫は喋り続けた。

 

「初めて、貴女が新しい博麗の巫女だと人里に発表した時のことを覚えているかしら? 最初の内は評価も最低だったわね」

「ああ。だが、仕方がない」

「ふふっ、そうね。まだ幼い子供で、出来ることと言ったら妖怪を殴って殺すことくらい。

 人里にさえ妖怪が襲撃に来るような状況だというのに、結界はもちろん、護身用の御札さえ作れない貴女に、住人は揃って失望したわ。今では信じられないことだけど、当時は誰も貴女に期待しなかったし、協力もしなかったわね」

「ああ」

「だって、私もそんなこと貴女に期待しなかったもの。だから、協力もしなかったのよ」

 

 いつの間にか、紫は足を止めていた。

 私も立ち止まり、黙って向き合う。

 

「私が貴女に期待したのは、単なる刃となることよ。壊死し始めた幻想郷にメスを入れる為の刃物。それを利用して、私は幻想郷を立て直すつもりだった」

「……そうか」

「私の期待に応えてくれる貴女に、満足していたわ。

 その力を振るって妖怪を退治する度に、人々の失望が畏怖へと変わって、貴女を忌避するようになった時も、私は何の憂いもなく満足していた」

「――」

「畏怖はやがて信頼へと変わり、貴女は人々の信奉を得るようになったけれど――それは、私が意図したものではない。貴女が自力で手にしたものよ。

 私は、そんなこと期待していなかったし、その為の協力もしなかった。貴女の人間関係がどうなろうが気にしなかった。仲間も、友人も、家族も、貴女が作れるように私は配慮しなかった。何一つ、気にも掛けなかった――」

 

 紫は胸の内から全てを吐き出すように言った。

 

「貴女が死んだり動けなくなったりしたら、本来の役割に適した博麗の巫女を探そうと考えてたのよ」

 

 話し終えた紫は、にっこりと笑った。

 今にも泣き出しそうな笑顔だった。

 私と紫は、しばらくの間無言のまま見つめ合った。

 紫の数十年越しの告白に、私も様々なことを感じている。

 そして、紫がそんな私の返答を受け入れようと待っていることも分かっていた。

 私は頭の中を整理して、何やら悲壮な様子の紫に、このポンコツな言語機能でも誤解なく正確に意思が伝わるよう言葉を選び、口を開いた。

 

「でも、今の私には家族がいる」

「え?」

「さっきも話しただろう。霊夢は自慢の娘だし、私は親として立派に育てられたと思う」

「え、ええ。そうね」

「最高の家族が出来た。それに、今は仲間もたくさんいる。友人だって、目の前にいる」

「……私が?」

「違うのか?」

「いいえ、そんなことはないわ。でも、私は……」

「紫が昔、どう考えていたかは分かった。だが、今はどうだ?」

「――」

「手に入らないと予想していた仲間も、友人も、家族も、私は手に入れたわけだが」

「……ええ」

「見直しただろ?」

 

 私はニヤリと笑って、言ってやった。

 最初は私の言葉にポカンと呆けたような表情を浮かべていた紫だったが、やがてゆっくりと本当の意味での笑顔を取り戻していった。

 

「――ええ、見直したわ」

 

 文字通り花の咲くような笑みを見て、私も微笑み返した。

 でも涼しげなのは顔だけです。内心、お祭り騒ぎ。

 ゆかりんが可愛すぎて生きるのが辛い……!

 嘘。過去の紫がどうだったか知らんし、私が苦労したのも事実だが、超楽しい。

 決めた。結婚しよ。っていうか既に私の嫁だけど。

 

「なら、許してやる」

「ふふっ、許されたわ」

 

 ゆかりんマジ少女なスマイルを浮かべた紫を伴って、私達は再び歩き始めた。

 心なしか、先程よりも足取りが軽い。

 紫と二人で並んで歩くだけのことが、懐かしいような、逆に新鮮なような気もする。

 話が終わって、私達のどちらも喋ることはなかったが、沈黙など全く気まずくは感じなかった。

 それでも、内心浮かれた私は、夜空を仰いで思わず紫に掛ける言葉を口にしていた。

 

「紫、見ろ」

「何かしら?」

「月が綺麗だ」

 

 私がそう言った途端、紫は歩みを止めていた。

 何事かと振り返ると、眼を丸くするという、さっきも見たレアな表情を浮かべたまま紫が固まっていた。

 

「……先代、その言葉の意味分かってる?」

 

 え、何が?

 何故か咎めるような口調で言われて、私は改めて月を見上げた。

 

「いや、月が綺麗だろう? 違うのか?」

 

 答える代わりに、紫は大きくため息を吐いた。

 

「ばか」

 

 諦めたように呟いた紫の頬は、ほんの少し赤かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――出来た」

 

 アリスは完成した人形を作業用テーブルの上に置いた。

 手のひらサイズの人形とはいえ、僅か数時間の作業で作った物である。完成度も高い。

 人里での戦いを見届けた後、宴会には参加せずに人知れず帰宅し、その足で作業に向かった結果だ。

 もっとも、他の人形とは違って魔法を施すことを前提としていない完全なインテリアであり、ある程度形が出来上がっていたというのもあった。

 作りかけだった作品を、未だ夜が明けないこの一晩の間に完成させたのだ。

 アリスはその人形をじっと見つめた。

 造形の善し悪しはともかく、欠けていたパーツが埋め合わされたような完成度を自画自賛ながら感じる。

 ――いや、違う。

 自画自賛ではない。

 これは自分がデザインした形ではないのだ。

 記憶の中のイメージに従い、本来在るべき姿になったと表現した方が正しい。

 

「神綺」

 

 アリスは呟いた。

 その一言だけで、目の前の人形の完成度が更に上がったような気がした。

 

「そうよ。アナタは神綺よ」

 

 更に、噛み締めるように呟いた。

 人形を使う魔法使いとして、多くの人形を作ってきたが、完成に際してこれほどの衝撃と感動は味わったことがなかった。

 その人形――赤い衣服に身を包み、長い銀髪を持った美しい女性。しかし、その背中には悪魔のような黒い羽が六枚も生えている。

 人間をモデルにした物ではない。

 かといって、アリスの知る限りこのような姿の妖怪は幻想郷にはいない。

 ずっと探していたのだから、まず間違いない。

 これまで、アリスはこの女性を自分の想像の産物だと思っていた。

 作り始めた時は、全体像が頭の中に思い浮かばず、作業半ばで止まっていたのだ。

 

 ――この人形のデザインは単なるイメージで、インスピレーションが止まった為に未完成のままとなっている。

 

 ずっと、そう思い込んでいた。

 思い込もうとしていた。

 しかし、今夜の宴会で得た経験が、どうしても見つけ出せなかったパーツを唐突に脳内へ送り込んでくれたのだ。

 全ての切欠は『名前』だった。

 この実在しないはずの女性の名前だった。

 

「神綺……魔界の神」

 

 アリスは脳を介さずに、直接口から滑り出た単語を忘れずに記憶した。

 奇妙な話だった。

 記憶にないものが、自分の口から言葉として飛び出してくる。

 

 ――魔界。

 ――神。

 ――神綺。

 

 頭の中で何度も反芻しながら、アリスは立ち上がっていた。

 完成したばかりの『神綺』の人形を手に取り、自宅の隠し部屋へと移動する。

 何度も家に招いた魔理沙も含めて、誰にも知られていない秘密の場所だ。

 魔法による隠蔽すら施されたそこは、アリスの心の中も同然の部屋だった。

 中に入り、灯りを点ける。

 小さな部屋だった。

 家具もなく、部屋の中央に置いてあるのは大きな台のみ。

 壁には無数のデッサン画が、乱雑に貼り付けられていた。

 整理整頓されたアリスの家の中で、この部屋だけが明らかに異質な、雑多な様相を呈している。

 描かれた絵は、幻想郷の何処でもない場所、幻想郷に住む誰でもない人物――。

 台の上には、未完成の人形が数体置かれていた。

 しかし、未完成にしては奇妙な部分が目立った。

 骨組みだけであったり、衣服が完成していなかったりするといった本来の作業過程をなぞった上での未完成ではない。

 顔の部分だけが作りこまれていないもの――。

 衣服の上着の部分が出来ていないもの――。

 左腕と右足だけが作られていないもの――。

 作っている最中なのではなく、肝心のパーツが存在しないような状態だった。

 それは、今夜完成した『神綺』の人形の以前と状態と同じだった。

 そう、同じなのだ。

 これら未完成品のパーツが、アリスの頭の中には存在しない。

 

「そうよ、アナタはここよ」

 

 アリスは、それら未完成の人形の中央に『神綺』の人形を置いた。

 全ての中心。

 この人形こそが、これらの存在の要――あるいは『神』――であると感じた為だった。

 アリスは目の前に並ぶ人形達をじっと見つめた。

 何度も――。

 何度も、こうして見つめている。

 この命も持たず、動くことすらしない人形達から、何かとても尊いものを感じて、それが何なのか見極める為に見つめている。

 何日もそれを繰り返している。

 何年もそれを繰り返している。

 

 ――一体いつから?

 

 そんな自問に答えることも出来ない程、昔から。

 いや、それは本当か?

 いつからなのか思い出せないのは、遠い過去だからではなく、存在しない過去だからではないのか。

 この幻想郷で暮らしていたアリス・マーガトロイドという魔法使いは、元々存在していなかったのではないか。

 いや、そもそもこの世界そのものが単なる舞台で、生きる者達は役割を演じる人形で――そして、目の前に並ぶ未完成の人形達こそが自分の知る生きた存在であり世界ではないのか。

 この世は一つの劇場に過ぎぬ――。

 そんなことを考えるようになっていた。

 

 ――一体いつから?

 

 答えることも、出来ない。

 この世界は、常に奇妙な既視感に包まれている。

 

「まだ、他にも名前があるはず……」

 

 アリスは、未完成の人形一つ一つを睨むように見つめながら、確信を持った声で呟いた。

 その瞳には、普段の冷めきった感情の色ではなく、強烈な意志が宿っていた。

 

「この人形、全てに名前と形があるはず。それを知らなければ――」

 

 アリスの脳裏に浮かぶのは、一人の妖怪だった。

 これまでずっと止まっていた作業を、たった一言で再開させ、人形の完成へと導いた。

 きっと、いや間違いなく、彼女は自分自身でも分からないアリス・マーガトロイドの秘密を知っている。

 

「古明地さとり」

 

 今一度、会わなければならない。

 何があっても。

 どんな手段を使ってでも。

 

「暴いてやる。この世界の秘密を――!」

 

 幻想郷で一人、アリス・マーガトロイドは異形の決意を固めていた。




<元ネタ解説>

「月が綺麗だ」

漫画ではなく文学。
夏目漱石が英語教師をしていたとき、生徒が"I love you"を「我君を愛す」と訳したのを聞き、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言ったという逸話から。(ただし、後世の創作という可能性もある)
遠回しな愛の告白として使われる。
別の著名な小説家の翻訳として「死んでもいいわ」というのもある。

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