東方先代録   作:パイマン

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前回、あと一話で終わると言ったな?
あれは嘘だ。
……もう一話だけ続きますん。


其の三十七「決着」

「かあさん、だいじょうぶ?」

 

 妖怪退治の仕事から帰り、自分で傷の治療をしていると、障子をそっと開けて幼い霊夢が私を見ていた。

 ふっ、問題ないさ。

 霊夢の優しさによって、たった今完治したからね!

 心配してくれる嬉しさから、そんな親バカ丸出しのテンションになった私だったが、相変わらずそれが顔面と声色に反映されることはない。

 私はニコリともせずに、霊夢を見つめた。

 

「夜も遅い。寝ていなさい、霊夢」

「うん……ごめんなさい」

 

 いや、ち……違うのよ?

 私は霊夢が心配なのよ?

 まだまだ子供である霊夢の健全な成長が阻害されないように、睡眠は十分にとって欲しいという親心――しかし、悲しいかな、そんな想いは欠片も口調に表れず、なんかちょっと叱るような言い方になってしまったのだった。

 く……くそっ、この万年機能不全を起こした口め! 霊夢が落ち込んじゃったじゃないか!

 毎度のことだが、上手くいかない親子のコミュニケーションにうんざりしてしまう。

 きっと『厳しい母親』って、霊夢の眼には映ってるんだろうなぁ。

 内心で沈みながら、私はせめてものフォローとして、立ち竦む霊夢を手招いた。

 

「こっちに来なさい」

 

 私の言葉に、霊夢は小さく笑顔を浮かべて、すぐ隣に座った。

 やだ、何この天使。

 一体、誰のお子さんなのかしら?

 私のだよ! ふひひっ。

 

「つよい妖怪だったの?」

「いや……」

 

 最近、妙に私の仕事に興味を持ち始めた霊夢の質問を、言葉少なに返す。

 これは意図して無愛想に返答したのだ。

 今回の負傷は、完全に自業自得だったからね。

 博麗の巫女の仕事として、妖怪退治を長年続けてきて経験も多く積んだ。

 今更、雑魚相手に万が一にも不覚なんて取らないし、今回の敵も例に洩れずその雑魚だったが――。

 

 ――珍しく人型で、人間サイズの妖怪だったから『虎王』と各種関節技の訓練も兼ねて戦っちゃったよ。

 

 自業自得っていうか、油断と慢心だね。格下とはいえ妖怪の素の攻撃力舐めてたわ。

 カウンターに失敗して、受けなくてもいいダメージを何度か受けてしまった。

 まあ、それもこれも自分を殺す気の相手に未完成の技を何度も掛けようとした私が悪いんだが……。

 しかし、おかげで概要を頭で把握しているだけだった技を、実地で鍛え上げることが出来た。

 こっちも手痛い反撃は食らったが、敵の四肢を捻じ曲げて、最後は顎ごと頭を蹴り潰してやった。

 ふふふっ、この『虎王』さえあれば、例え相手が鬼であっても負ける気がしない!

 ……実際に鬼と戦うなんて絶対御免だけどね。

 包帯を巻き終えた私は、あらかじめ卓の上に置いておいた酒瓶とコップを手に取った。

 一杯分だけ注ぐ。

 霊夢を拾う以前からずっと続けてきた、妖怪退治の後の儀式みたいなものだ。

 

「……かあさん、仕事から帰ってくるといつもそれ飲んでるよね」

 

 霊夢が不思議そうに呟いた。

 この子の前でお酒を飲んだのは、まだ更に幼い頃に数回程度だったが、それらを全て覚えていたらしい。

 やだ、何この天才。

 一体、誰のお子さんなのかしら?

 私のだよ! うへへっ。

 

「お水?」

「いや、これは酒という物だ」

「おいしいの?」

「旨いという人もいるだろう」

「かあさんは?」

「あまり旨いとは思わない」

 

 これは私の本音だった。

 飲めないほど嫌いってわけでもないが、酒の旨さがよく分からないのだ。

 あんまり強くないし、波紋の呼吸も乱れやすくなるしね。

 なので、この酒瓶も自前で買ってきたものではない。

 この博麗神社に奉納された物品の一つである。

 東方原作では参拝者のいない神社とされていたこの場所だが、誰も訪れないというわけでもなかった。

 少なくとも、私が博麗の巫女に就任してからしばらくして、時折こういったお供え物を持って、人がやって来るようになったのだ。

 人里から離れてるし、道中も妖怪などで危険だから、やはり頻度は少ないがそれでも十分凄いことである。

 妖怪退治しまくって私自身が妖怪から恐れられるようになり、神社には危険な奴らは近づかなくったから昔よりは安全度も上がっている。

 あと、最近霊夢に修行をつけ始めてるんだが、その一環として神社の付近とか道中の石段に練習用の結界を張りまくっているのだ。

 おかげで、この辺一帯が霊夢の結界でガチガチ。まだ未熟な術とはいえ、木っ端妖怪では近づくことも出来ない要塞と化しつつある。

 まあ、そんなこと参拝する人は知らないだろうから、勇気のある行動であることは変わりないけど。

 それと、凄いのはまだ子供なのに才能の片鱗を見せ始めてる霊夢自身とこの子を密かに教えている紫であって、私はあまり関係ない。

 ……母親なのに。

 一応、博麗の巫女なのに。

 

「おいしくないのに、飲むの?」

 

 勝手に内心で沈んでいる私を尻目に、霊夢は子供らしい純粋な疑問を口にしていた。

 私自身も、旨さ以前に負傷時の飲酒があまり体に良くないということは知っている。

 それでも、私は昔から妖怪退治の後で一杯のお酒を欠かさなかった。

 

「――戦った後に残る濁った憎しみを、酒で追い出すのさ」

 

 私は霊夢に答えた。

 この言葉は、とある漫画で復讐に駆られた男が口にした台詞である。

 でも、漫画の受け売りだからって、霊夢の疑問に茶化して返答したわけじゃない。

 この言葉にあやかるのは、私なりに真剣な理由があってのことだった。

 

「さけで追い出す?」

「そうだ」

「にくしみを残したらいけないの?」

「ああ、いけない」

 

 この世界はゲームの中に存在するわけじゃないし、私が妖怪を退治するのはスコアを稼ぐ為じゃない。

 そこに犠牲があったからだ。

 妖怪は、悪さをしたから退治される。

 今回もそうだった。

 私が退治した妖怪は、人里から離れた集落で、幻想郷のルールを無視して無差別に人を殺した。

 食べる為じゃない、楽しむ為に人を虐殺したのだ。

 姿形が人に似ていたせいか、あるいは邪悪だから人に似たのか――どっちでもいいが、本能ではなく理性で動く分、残忍で悪辣な妖怪だった。

 子供一人を残して、一家皆殺し。

 残された子供は村に保護されたが、あの子の将来を考えると痛ましくて堪らない。

 そして、それを起こした妖怪への憎しみも――。

 私は技の実験台にしたと言ったが、そこには敵を痛めつけてぶっ殺してやろうというドス黒い感情も含まれていたのだ。

 だからといって、妖怪を殺すことに何の抵抗がないわけでもない。

 相手が人間じゃないからといって、言葉を話し、感情も表す妖怪を殺して平気なわけじゃない。

 この世界に名無しのモブキャラなんて存在しないのだ。

 私の目の前で起こる出来事を、モニター越しのように眺めて、平静でなんていられない。

 もうずっと昔に体感し、今日まで繰り返してきたことだ。

 命が奪われ、命を奪う日常。

 好きな修行に明け暮れ、日々を能天気に過ごしながらも、ふとした時に直面する避けられない現実の厳しさを前にした時、私を正しく導いてくれたのが前世の知識だった。

 

「憎しみは、何も実らせないからな」

 

 この言葉も、同じ漫画の中の台詞である。

 しかし、私の人生をずっと支えてくれた偉大な言葉だ。

 前世の私は、何を想ってこの言葉を捉えていただろう。

 リアリティの無いフィクションの言葉か?

 だけど、非現実的な現実の世界に生きる私にとっては、この上なく心に響く言葉だ。

 私は、これらの言葉をお手本にして、今日も真っ直ぐに生きていけるのだ――。

 

「なにも実らせない……」

「そうだ。覚えておけ、霊夢」

「うん。……はいっ」

 

 霊夢は珍しく真剣な表情を浮かべ、ハッキリとした声で応えてくれた。

 子供の教育にもバッチリ使える名言! さすがやで!

 ……惜しむらくは、全部受け売りだってことか。

 いや、偉人の言葉から学ぶというのは教育の基本だけど、母親として複雑っつーか……私も自分の言葉でビシッと霊夢に教育出来れば一番いいんだけどね。なんせ、口が上手く回らんから。

 結局、自分の言葉で表現出来ない私は、行動や背中で語るしかないのだった。

 それすらも伝わってるかどうか微妙だけど……。

 

「かあさん」

「なんだ?」

「あたしも、お酒飲んでみたい」

「駄目」

 

 おもむろに伸ばしてきた霊夢の手から離すように、私はコップを持ち上げた。

 

「ケチ」

「ケチで結構」

 

 不満そうに頬を膨らます霊夢に内心で悶えながら、鋼鉄の意志と顔で答える。

 さすがに、今の霊夢にお酒は早いだろう。

 でも、原作だとまだ明らかに未成年って年頃でお酒飲んでるのよね。皆で宴会とか頻繁に開いちゃってるし。

 将来のことを思うと、そういった流れに霊夢だけ乗り遅れないように、お酒の味に慣れさせることも必要だろうか。

 そもそも幻想郷に外の世界の法律とか関係ないから、成人の境目なんて年齢で決められてないからね。

 二十歳という年齢にこだわるのは、幻想郷じゃ私くらいか……。

 

「もし、お前が大人に……いや、一人前の博麗の巫女になったら」

 

 言い直して、私は見上げる霊夢に微笑みかけた。

 

「一緒にお酒が飲みたいな」

 

 私がそう言うと、霊夢は不満そうな表情を一変して笑顔になった。

 

「うん!」

 

 霊夢はまだ子供だ。

 しかし、その日が来るのはきっと遠くないだろう。

 それが待ち遠しくもあり、寂しくもあるんだなぁ。

 霊夢を膝の上に乗せながら、私はもう一口酒を飲んだ。

 

 

 

 

 ――相手に弾を当てれば勝ち。

 

 弾幕ごっこにおける決着とは、詰まるところこれ一つのみである。

 もちろん、美しさや優雅さが弾幕の優劣に関わる以上、その結果に至るまでの経過こそに重きを置かれているが、この決着だけは絶対唯一のルールとして弾幕ごっこの根幹に存在しているのだ。

 このシンプルな決着に至るまでに、勝負内容を多様に彩っているのは、弾幕を介した攻め手の自由度の高さである。

 弾幕ごっこには大きく分けて二通りの攻め方がある。

 

 ――一つは、その名の通りあらかじめ用意したスペルカードに示された弾幕を放ち、数撃ち当てる方法。

 ――もう一つが、その弾幕を避けながら標的を狙い撃つ方法である。

 

 観点は違えど、美しさや優雅さが評価される点は共通している。

 二つの方法の大きな違いは、その攻め手の特性であった。

 後者の方は、説明するまでもない。

 避けることを主体に置いたこの戦型は、文字通り避け損ねて当たった時点で決着である。

 特に、弾幕ごっこにおいて故意の殺傷は禁止されているが、放たれた弾の威力と受けた者の耐久性によっては、直撃が死に繋がる場合もある。

 そういった意味でも、被弾することは勝負の決着を意味していた。

 動いて避ける以外の緊急回避手段として『ボム』という弾幕を無効化する特殊な攻撃方法も認められていたが、これは単にスペルカードの使用を対弾幕用に変えただけのものに過ぎない。

 避けながら撃ち、時として『ボム』を使う――手段の内容に違いはあれど、行動自体はこのパターンにまとめられる。

 一方、本来のスペルカードを用いた方法は、使う者の能力を弾幕に活かすことで多種多様な特徴を生み出す。

 弾幕の構成、物量、速度、外観――似通うものはあれど、どれ一つとして同じものは存在しない。

 その者だけの弾幕となるのだ。

 そして、この場合でも弾幕を放つ側に『弾を当てれば勝ち』という原則は変わらない。

 弾幕に力と意識を割く分、回避にだけ集中することが出来ず、後者の方法よりも被弾する確率は遥かに高い。

 弾幕ごっこの勝敗が一発の被弾で決定する以上、如何に派手な弾幕を用いようとも、自身が単なる標的となっていては意味がないのだ。

 それによる勝負内容の陳腐化と戦型の明確な優劣を避ける為、この弾幕による攻め方にも『弾幕を無効化することで避ける』ことは認められていた。

 具体的にはスペルカードを使用している間、弾幕と同様、そこに設定された各々の方法で相手の弾幕を防ぐことを認めているのである。

 魔法障壁でも、結界でも、何らかの力を身に纏う方法でも、弾が直接当たりさえしなければ良い。

 これもまた変則的な『ボム』と言えるかもしれない。

 しかし、当然ながら勝負の停滞を防ぐ為に、この方法には制限時間や耐久力の限度が必ず設定されている。

 制限時間はほとんどの場合スペルカードに示された弾幕の終了と同じに設定されており、耐久力に関しては定められた数だけ被弾した場合に障壁や結界が解除されて防ぐことが出来なくなって、決着となるのだ。

 弾幕ごっこで勝負をする者同士の間に明確な地力の差があったとして、その差が勝負の結果を絶対的に決めてしまわないようにする為の配慮であった。

 

 ――弾幕を用いて、手数で圧倒する。

 ――それを避けて、狙い撃つ。

 

 いずれの方法も一長一短が存在する。

 どちらを選ぶのも自由であるし、状況に合わせて戦型を変えても良い。

 これまでの異変の首謀者がそうであるように、強大な地力を持つ人外の者達は自らの力を誇示することも踏まえて、前者を選ぶ傾向があった。

 逆に地力で劣る人間は、弾幕ごっこで人外を相手にする際、後者を選んだ方が幾らか有利な要素が付く。

 そしてまた、これらの定例に例外も多く存在するのだ。

 紅霧異変以降、幻想郷に定着しつつある弾幕ごっこには、こういった原則と実状が絡み、様々な方向へ発展しているのだった。

 

 ――重要なことが一つある。

 

 弾幕ごっこにおける、この二通りの攻め方。

 どちらを選んでも良い。

 そして、両方を選ぶこともまた禁止されてはいないのだった。

 

 

 

 

 霊夢と萃香の空中戦は段階的に激化していった。

 勝負の序盤は、互いにスペルカードを掲げ、弾幕を放った方を、もう片方が避けながら狙い撃つ。

 萃香の凄まじい弾幕の物量と密度に、初見の霊夢は回避に専念せざるを得なくなり、思うように弾幕ごっこ用の攻撃――『ショット』と総称される――を当てることが出来なかった。

 しかし、逆の場合も同じだった。

 鬼の暴力の具現とも言える萃香の弾幕に対し、霊夢の高度な弾幕の構成は不慣れな萃香を回避一方に追い込んだ。

 伊吹萃香を知る者は、彼女の弾幕を避けた上で一方的に攻め立てる博麗霊夢という人間に驚愕し――。

 博麗霊夢を知る者は、彼女に反撃の暇すら与えず圧倒する伊吹萃香という妖怪に畏怖する――。

 いずれも、目の前の相手を最大級の敵と認識するのに十分な初戦だった。

 様子見が終わり、萃香と霊夢は互いに自らの隠した手札を晒し始めた。

 二種類の弾幕が交互に夜空を埋め尽くし、その光の中を二人が貫くように飛び回る。

 戦いのレベルを上げていきながら、どちらも並外れた能力とセンスでそれに追従していく。

 地上から二人の戦いを眺める者達は、展開される光景にただ圧倒される他なかった。

 勝負は拮抗し続けた。

 しかし、当然のこととして、戦況は徐々に一方へ傾き始めていた。

 

「ちっ……反則でしょ、こいつは」

 

 萃香の弾幕に囲まれながら、霊夢は珍しくぼやいた。

 周囲は膨大な量の光弾がうねるように飛び回り、まるで閉鎖空間に閉じ込められているような錯覚さえ抱かせる。

 しかし、霊夢をして悪態を吐かせたのは、この弾幕の単純な難易度だけではなかった。

 上も下も分からなくなるような弾幕の迷宮の中で、何かを探るように周囲に視線を走らせていた霊夢は、唐突に脳を直接引っ張られるような感覚に襲われた。

 それは何度も経験した、自身の勘が危険を訴えかける時の感覚だった。

 霊夢は咄嗟にその場を離れるように飛んだ。

 しかし、飛んだ先を遮るように弾幕が流れ込む。

 それすらも回避してみせる霊夢の判断力は既に人外のそれだったが、回避行動に一瞬の鈍りが出ることまでは避けられなかった。

 つい先程までいた場所を、あらぬ方向から飛来した高速の『ショット』が撃ち抜き、霊夢の回避行動に追従するようにその火線が動いて、危ういところで霊夢の体を掠った。

 巫女服の袖が焼け千切れる。

 霊夢が普段、余力を持って紙一重の回避を行う場合とは違う。

 直撃しなかったとはいえ、明らかな不覚だった。

 

「ルールに反しちゃいないと思うがねぇ!」

 

 霊夢が火線を辿って視線を走らせた先には、弾幕の影から飛び出す萃香の姿があった。

 

「使ってるスペルカードも一枚きりだ! スペルカードを複数同時に使うことは禁止されてるが、弾幕の最中に自分が動き回っちゃいけないなんてルールはなかっただろ!?」

「それが出来るあんたの能力が反則だって言ってるのよ」

「そりゃ、褒め言葉として受け取っておこうか!」

 

 萃香は嬉々として霊夢を狙い撃った。

 スペルカードに示された弾幕を放ちながら、自らもまた高速で縦横無尽に飛行しつつ、予期せぬ角度から霊夢を『ショット』で狙っているのである。

 確かに、これら二つの手段の合わせ技を禁止するルールは存在しない。

 しかし、本来ならば『出来ない』というのが現実だった。

 三次元的な範囲の広さと、構成の綿密さ、それを実現する精密さなど、弾幕に求められる力と技術は多大なものである。

 弾幕を放つ者は能力の大半をそこに割かれてしまう。

 いや、割かざるを得ないのだ。

 中途半端な能力の使用は、弾幕の構成や密度を甘くし、結局相手に攻略する隙を増やしてしまうからだ。

 弾幕を放つならば、相手を確実に追い詰める為の物量と構成を――。

 回避に徹するのならば、弾幕を全て見切る為の極限に至る集中力を――。

 どちらか一方に徹し、高めることが勝敗を決める。

 それが弾幕ごっこの現実だった。

 萃香は、その現実を完全に無視していた。

 何処からか無限に汲み取っているのではないかと思える程膨大な力で弾幕を維持しながら『ショット』を撃ち続け、精密な弾幕の動きの中で自らも自在に飛び回っている。

 何処にもつけ入る隙が見当たらない。

 少なくとも、霊夢ほどのレベルであっても見切れなかった。

 

 ――何故、こんなことが可能なのか?

 

 分からない。

 敵が伊吹萃香だから、としか言いようがない。

 彼女の持つ『疎』を自在に操る能力が、弾幕ごっこのルール上において、定石を覆す程に恐るべき効果を発揮しているのだった。

 ただ単純に強い。

 霊夢にとって、かつてない強敵であることは間違いなかった。

 

「反則と言やあ、お前さんもだなぁ! 後ろに眼でもついてんのかい!?」

 

 背後からの射撃を振り返りもせずに回避してみせた霊夢に、萃香もまた笑いながら言った。

 二通りの攻め方を同時に行う萃香に反して、ただ一つ回避にのみ特化する霊夢もまた突き抜けていた。

 常人ならば自分の位置さえ見失う弾幕の最中を、萃香の動きさえ意識しながら、高速で飛び回っている。

 加速は危険だが、減速も出来ない。

 動きを止めれば狙い撃たれてしまうが、弾幕の中を高速で飛び回れば一瞬の判断の遅れが自滅に繋がる。

 ギリギリの一線を、霊夢はここまで一度も誤ることなく飛び続けているのだった。

 しかし、当然のように限界は訪れる。

 再び萃香の放つ火線を避けた先に、弾幕が現れた。

 僅かな隙間しかない、壁のような弾幕である。

 範囲も広く、今の位置から軌道を変更していては避けきれない。

 霊夢は咄嗟に札を取り出した。

 

 ――霊符『夢想封印』

 

 霊夢を中心として複数の霊力の弾が渦巻くように発生し、それらが周囲の弾幕を呑み込みながら萃香目掛けて襲い掛かった。

 攻防の逆転した状態から成す術もなく、萃香は全弾直撃を受ける。

 しかし、萃香の体に触れた物は一発としてなかった。

 発動中であるスペルカードによって防がれている。

 正確には『疎』を操る能力によって、全て分解されて無効化されていた。

 やはり自身が高度な動きを行いながらも、並行してスペルカードの行使も完璧に維持している。

 つまり、萃香に勝つ為には、弾幕の最中で動き回る彼女を捉えながら、尚且つ設定された耐久力が尽きるまで攻撃を当て続けるしかないのだった。

 窮地を脱しながらも、霊夢は様々なものを含んだ舌打ちをした。

 

「あたしに『ボム』を使わせるとはね……!」

「いい面だなぁ、博麗霊夢!」

 

 射撃の手を緩めず、萃香が笑った。

 

「勝負を始めた時でも――」

 

 挑発を含んだものではない。

 心の底から愉快そうな笑みだった。

 

「その前の勝負でも――」

 

 この異変で初めて顔を合わせ、紛れもない敵である霊夢に対して、萃香は親しみさえ抱いているようだった。

 

「お前さんは顔色一つ変えなかった!」

「そんなに嬉しい? この程度で、あたしを追い詰めてると思ってるの?」

「魅力的になってるってことだよ! その面ァ、もっと歪めてやる!」

「やってみなさい!」

 

 霊夢は知らず、声を荒げて応えていた。

 これまでの霊夢は、敵を歯牙にも掛けなかった。

 それが今は出来ない。

 萃香の挑発を無視出来ない。

 自分が、おそらく初めてであろう困難にぶつかっていることは分かる。

 しかし、その顔に焦りはない。

 ただ、これまでの生涯で初めて浮かべる、強大な敵への挑戦的な笑みがあった。

 

 

 

 

「鬼って凄いのねぇ……」

 

 他の傍観者達と同じように、上空で展開されるハイレベルな弾幕ごっこを見上げていた幽々子は呟いた。

 素直な感嘆の声だった。

 伊吹萃香という妖怪については知らないが、博麗霊夢の実力に関しては身をもって知っている。

 春雪異変の時、相対した霊夢に幽々子は完封された。

 弾幕ごっこにおいて、霊夢の実力は比類なきものだと思っていた。

 その霊夢を相手に、追い詰めているとまでは行かなくとも、萃香は優勢に戦っているのだ。

 幽々子が抱いていた印象と、今の激する霊夢の姿は大きく異なっている。

 それだけ、彼女が余裕のない戦況へ追い込まれている証拠だった。

 

「苦しそうね、霊夢」

 

 今度の呟きは、隣の友人に問い掛けるようなものだった。

 幽々子と並ぶように、いつの間にか紫が空を見上げている。

 つい先程まで、文の近くで先代の戦いを見ていたはずだが、彼女の戦いが終わった後ここへ戻ってきたらしい。

 

 ――何故、傷ついた先代巫女の元へ行かないのか?

 

 幽々子は紫の心境を察して、そのことは何も訊かなかった。

 

「そうね。あんな顔の霊夢は初めて見るわ」

「楽しそうね?」

 

 紫の顔に浮かんだ微笑を、幽々子がそれこそ楽しむように指摘した。

 

「あの娘の仏頂面って、いい加減見飽きてるんだもの」

「それは紫が霊夢に嫌われてるからじゃないの?」

「私もあの娘のこと嫌ってるから問題ないわ。萃香との勝負を通して、もっと色々表に出すようになるといいのよ」

「でも、異変を解決する博麗の巫女として見るならば、彼女の揺れない心は強みになっていると思うわよ」

「見ていて不愉快なのよ」

 

 言葉とは裏腹に、紫は澄ました笑みを浮かべたままだった。

 

「何故なら、あの仏頂面は憧れる母親の物真似だから。そこに可愛げを感じれる程、私はあの娘のこと好きじゃないの」

 

 紫の返答に、幽々子は思わず吹き出していた。

 確かに、紫が霊夢を嫌っていることは察していたが、この反応は予想よりもずっと『可愛げ』のあるものだった。

 紫が本当に嫌悪し、敵対する相手に向ける冷徹さを知っている幽々子には、二人の仲がまた違った複雑なものに見えるのだ。

 

「それに、霊夢は霊夢の強さのままで問題ないわ。誰が鍛えたと思っているの?」

 

 ――さて、それは貴女と先代のどっちかしら?

 

 幽々子はあえて言葉に出さず、その問い掛けを心の中だけで楽しんだ。

 

 

 

 

 空中で激しく互いの位置を入れ替え、距離を離し、時にすれ違いながら霊夢と萃香は撃ち合っていた。

 一対一の射撃戦ならば、明らかに霊夢の技量と経験が勝っている。

 しかし、周囲で不規則に動く弾幕は全て霊夢にとって障害だった。

 状況を味方につけた萃香が、霊夢の動きを徐々に捉え始めた。

 

「そこか!」

「ちぃっ!」

 

 萃香の『ショット』が霊夢の傍らを掠めた。

 結果的に体には当たらなかったが、回避に成功したわけではない。

 霊夢の左右に浮遊していた陰陽玉の内一個が、被弾していた。

 霊夢の『ショット』や『ボム』の補助を行う為のエネルギーを蓄えていた陰陽玉は、撃ち抜かれると同時に大爆発を起こした。

 飛行機の燃料タンクが誘爆したに等しい。

 至近距離の爆風に弾き飛ばされた霊夢は、きりもみしながら空中を舞った。

 大きく姿勢を崩しながらも、周囲の弾幕を避けつつ、バランスを立て直そうとするセンスは非凡の一言に尽きる。

 しかし、ミスはミスだった。

 萃香の火線が、間髪入れず体勢の不安定な霊夢を追撃する。

 反対側からは弾幕。

 火線を避けるように動けば、弾幕に自ら突っ込むことになる。

 霊夢は瞬時に判断を迫られた。

 

「――獲った!」

 

 弾幕に突っ込む形で動いた霊夢を見て、萃香は思わず叫んでいた。

 僅かな隙間を抜けようというのだろうが、その弾幕は今にも間隔を狭めて閉じようとしている。

 自滅だ。

 しかし、その瞬間――。

 霊夢の体が弾幕に触れる一瞬前に、萃香のスペルが制限時間に達していた。

 ギリギリのところで弾幕が消失し、結果開けた空間に体を滑り込ませ、霊夢は萃香の攻撃を回避することに成功していた。

 

「くそ……っ、まさかここまで計算尽くか!?」

「ふんっ」

 

 歯噛みする萃香を、霊夢が鼻で笑い飛ばす。

 確かに、先程の判断は偶然ではなく狙ったものだった。

 しかし、余裕があったわけではない。

 普段は淡々と弾幕ごっこをこなす霊夢の顔に浮かんだ、小さな笑みと僅かな汗が彼女の心境を正確に表していた。

 

「かなりいい線いってると思うんだけど、ことごくかわされちまうねぇ」

「あんたのスペルカードを全部かわすっていう戦法も有りかもね」

 

 萃香に気づかれないように、自然な仕草で汗を拭いながら霊夢は言った。

 例外として、相手のスペルカードを全て攻略することも決着の一つである。

 戦う手段が尽きれば、そもそも勝負自体が成立しないからだ。

 延長戦の末に判定に持ち込むような華のない勝ち方だが、異変を終息させることが目的である霊夢にとって勝利には変わりない。

 スペルカード・ルールで戦っている以上、萃香もそのことは承知しているはずだった。

 

「わたしがお前さんを追い詰めるのが先か、お前さんがわたしから逃げ切るのが先か――」

 

 萃香は、更に別のスペルカードを取り出した。

 もちろん、無限にカードを用意出来るわけがない。

 勝負の終わりは着実に近づきつつあった。

 

「だけどな、鬼はハッキリとした分かりやすい決着が好きなのさ!」

 

 突如、萃香の笑みが、獰猛な獣のそれに豹変した。

 取り出したスペルカードを、これ見よがしに握り潰す。

 次の弾幕に備えて身構えていた霊夢は、変化した萃香の雰囲気とその仕草から、鋭く彼女の意図を読み取った。

 

「長々と我慢比べなんて面倒くせえ真似はしねえ! ここで一丁、大博打といこうじゃないか!?」

 

 

 ――『百万鬼夜行』

 

 

「スペルカードじゃない!?」

 

 萃香を中心に展開され始めた弾幕を見て、霊夢は思わず叫んでいた。

 形こそ弾幕であるものの、その本質が別物であることが一目で分かった。

 弾幕の威力が人間など消し飛ばせる程に高められている点はまだ良いとして、問題はその構成である。

 圧倒的な――ただただ圧倒的な物量が、霊夢を含めた周囲の空間そのものを埋め尽くそうとしていた。

『一見して避ける隙間などないように見える弾幕』というのは、これまで経験した萃香のスペルカードの特色である。

 しかし、この弾幕は完全に『遊び』の領域を超えた弾丸の嵐だった。

 何より最も重要な点として、萃香はスペルカードを用いていない。

 それ自体は何の力も持たない札に過ぎないが、事前にスペルカードを示さなかったということは、この弾幕に規模や時間などの制限が設定されているかどうか分からないということである。

 これでは単なる無差別な制圧射撃だ。

 しかも、特別に凶悪な。

 

 ――ここに来て、ルールを捨てたか!

 

 霊夢は内心で悪態を吐いたが、現状でその行為に意味がないことも分かっていた。

 元々、仲間の鬼を率いて幻想郷を直接襲撃してきた敵である。

 自然と弾幕ごっこによる勝負を始めたが、極端な話、こちらの理に従うつもりがないのなら勝負の結果など何の意味もないのだ。

 

『いやぁ、負けたよ。じゃあ、次は殺し合おう』

 

 そんなことを平然と言ってくる相手かもしれなかったのである。

 萃香は、勝負のやり方を切り替えた。

 それだけのことだった。

 そして、そんな幻想郷の理に従わない者も相手取り、理の下に退治する――それが博麗の巫女の役割だと、霊夢はよく理解していた。

 そう教わったからだ。

 忘れはしない。

 忘れるわけがない。

 

「……ふんっ、まあ丁度いいわ」

 

 僅かな動揺を一呼吸の間に落ち着けた霊夢は、迫り来る圧倒的な弾幕を見据えた。

 逃げるつもりはない。

 この戦いは多くの人や妖怪に見られているのだ。

 そして、何よりあの人が――。

 

「博麗の巫女の前で、ルールを破ることがどういう意味を持つのか――あんたには見せしめになってもらう!」

 

 

 ――『夢想天生』

 

 

 萃香の弾幕を迎え撃つように、霊夢もまた弾幕を展開した。

 広大な人里の上空を覆う、文字通り弾丸の幕である。

 ぶつかり合った光弾が対消滅し、夜空を無数の閃光と炸裂音で埋め尽くしていく。

 互いに回避を捨て、ただひたすら相手を圧倒する為だけに放たれたそれは、もはや弾幕というよりも光の津波だった。

 二つの巨大な津波がぶつかり合い、互いを押し合って、相手の領域を飲み込もうとしているのだ。

 夜の闇を完全に消し去り、地上から見上げる者達の眼を晦ますほどの激突が上空で繰り広げられていた。

 弾幕に対して弾幕で応戦してはならないというルールはない。

 しかし、本来ならばそういった勝負の形は自然と避けられるものだった。

 何故ならば、二つの弾幕がぶつかり合った場合、単純に物量に勝る方が相手を討ち取るからである。

 そして、その単純な物量においては萃香の弾幕が霊夢の弾幕を上回っていた。

 互いの弾幕が激突し、対消滅していく最中を幾つかの弾が突っ切っていった。

 撃ち漏らした萃香の弾幕である。

 それらが弾幕の中心で動けない霊夢本体を狙う。

 例え結界を纏っていても関係ない。

 萃香はスペルカードになぞった弾幕を撃っているわけではないのだ。

 威力と手数で圧倒し、結界が破壊されるまで撃ち続けるつもりだった。

 しかし――。

 

「なんだと!?」

 

 萃香は眼を疑った。

 信じ難い現象が起こっていた。

 霊夢に直撃するはずだった弾が、かわされるわけでも、防がれるわけでもなく――肉体を『すり抜けた』のだ。

 

「そいつが……奥の手か!」

 

 力を振り絞り、萃香は更なる弾幕を放った。

 もはや物量では萃香が大きく上回っている。

 霊夢の弾幕は萃香に届かないが、萃香の弾幕は霊夢に届くのだ。

 しかし、やはり見間違いではない。

 まるでそこに在る霊夢の肉体が幻影か何かであるように、飛来する光弾は標的を通り抜けて、そのまま背後のあらぬ方向へと消えていった。

 

 ――無敵か!?

 

 萃香は内心で『まさか』と思いながらも、冷静にその技の正体を見極めようとした。

 しかし、見れば見るほど偽りのない現実しか見えてこない。

 弾は霊夢の体をすり抜けていく。

 ただ、それだけだ。

 如何なる原理も見えてこない。

 揺るがしようのない現実だけが存在する。

 

 ――おい、冗談だろ……。本当に無敵なのかっ!?

 

 萃香は絶望を通り越して、呆れたような乾いた笑みしか浮かべることが出来なかった。

 鬼の力に任せて圧倒しようとした自分を棚に上げて文句を言っても足りないと思えた。

 理不尽ここに極まれり、だ。

 ルールに沿ったまともな勝負を捨てた自分も大概だが、勝負そのものをまともにやらせようとしない相手の徹底ぶりには頭が下がる。

 当の霊夢は弾幕の中心で、全てを委ねるように眼を瞑って両手を広げ、何ものにも干渉出来ない存在となっていた。

 放つ弾幕さえも自らの意思ではなく、周囲が勝手にそうしているかのように、霊夢は全ての事象から切り離されていた。

 

「これが『博麗の巫女』の力か……っ!」

 

 もはや、萃香に残された道は二つだけである。

 敗北するか――。

 大地を押し返すような覚悟で、最後まで足掻き続けるか――。

 

「くそったれぇ、結局我慢比べかい!」

 

 萃香はやけくそ気味に叫びながら、力を振り絞った。

 霊夢が人間である以上、能力の行使には限界がある――はずだ。

 その在るかも分からない可能性に賭けて、ただ自身の力を吐き出し続けるしかなかった。

 互いの命が尽きるまで続くかもしれない拮抗――。

 しかし、事態はあっさりと動いた。

 突然、霊夢が眼を開いた。

 それが全ての切欠であったかのように、動いていた。

 何もかもが。

 

「なにっ……」

 

 霊夢が眼を開いた瞬間、彼女の放っていた弾幕は止まり、代わりに霊夢自身が動いていた。

 何故このタイミングで動いたのか、萃香には分からない。

 実はこの短い時間が、あの無敵の能力の使用限界だったのか。

 あるいは、何か勝機を見つけたのか。

 それを察知したのか。

 どんな方法で?

 勘か。

 偶然か。

 いずれにせよ、萃香にそれらを判断する時間はなかった。

 霊夢は『夢想天生』を解除して、萃香の『百万鬼夜行』に自ら飛び込んでいった。

 神掛かった回避運動を行いながら高速で飛行し、弾幕の範囲から抜け出そうとする。

 しかし、圧倒的な物量が逃げ道さえ物理的に塞いでいた。

 萃香が何かをするまでもなく、視線の先で霊夢の体が弾幕に呑み込まれていく。

 

 ――油断するな。

 

 萃香は、自分に言い聞かせた。

 敵の実力は、ここまで戦った自分がよく知っている。

 霊夢を呑み込んだ弾幕が、その場を過ぎ去っていく。

 案の定、未だ目の眩む光の中から霊夢が反撃と共に飛び出してきた。

 驚きは少なかった。

 飛来する光弾を避けながら、やはり無事な霊夢の姿を確認して――目を見開いた。

 今度は、その『技』を見抜くことが出来た。

 

「違う、幻影か!」

 

 応えるように霊夢の姿が掻き消え、本当にそこに残っていたのは半壊した陰陽玉だけだった。

 萃香の意識を割く為の囮だったのだ。

 霊夢が無事であることは予想してたが、陰陽玉からの反撃を受け、一瞬とはいえ霊夢本人だと錯覚してしまった。

 戦いの集中力を、敵以外のあらぬ方向に逸らしてしまった。

 それはごく僅かだが、間違いなくつけ入れる隙だった。

 

「――『博麗幻影』」

 

 博麗の秘技の名を小さく呟いた時、霊夢は萃香の遥か頭上を取っていた。

 構えた手には、タタミ針ほども長さのある封魔の針が握られている。

 それを自らが見極めた軌道――この位置から萃香に至るまでの、僅かに薄くなった弾幕の隙間目掛けて、放った。

 放たれた一閃は、それこそ針の穴に糸を通すような隙間を高速で突き進み、死角から萃香に迫る。

 しかし、鬼である。

 何の前触れもなく、萃香はこの奇襲を察知した。

 振り仰ぐ暇もあらばこそ、『疎』を操る能力を瞬時に発動する。

 目先数センチの距離まで迫っていた金属製の針は、文字通り萃香の眼前で粉々に分解された。

 ここに至って、二人は戦いの定石や理屈を完全に超越していた。

 霊夢を見上げ、萃香は『まだまだこれからだ』と不敵な笑みを浮かべて――二本目の針が眼前にまで迫っていた。

 一本目の針の後ろに、ぴったりと重なっていた物だった。

 

「……畜生」

 

 笑みを引き攣らせた萃香の額に、針が直撃した。

 

 

 

 

 萃香が龍神像の傍に盛大に落下した後で、霊夢はゆっくりと舞い降りた。

 既に、捕らえられていた子供達は助け出され、各々の家族の元へ戻っている。

 広場に残っていたのは、霊夢に封じられたままの鬼の少女だけだった。

 その少女もいつの間にか眼を覚まし、身動きの取れないまま、倒れた萃香を見つめていた。

 彼女だけではなく、ここまでの戦いを見届けていた周囲の者達全てが察していた。

 

 ――鬼との決闘は、博麗の巫女の勝利によって終わったのだ。

 

 上と下の二つの戦いが終わってもなお、誰も騒ぐような真似はしなかった。

 まだ此度の異変そのものが解決したわけではないと、分かっていたのだ。

 再び地面に足をついた霊夢は、倒れたまま動かない萃香を確認した後、周囲を見回した。

 いつの間にか、随分数が増えている。

 人里内で行われていた鬼の討伐がほぼ完了し、状況が伝わると共に、住人の多くがこの広場に集まり始めた為だった。

 それらを含めた人妖誰もが、霊夢の動向を見守っている。

 博麗の巫女が、この異変を終結させる為に如何なる決着をつけるのか――。

 霊夢は、周囲の輪から外れた位置にいる母親の姿を見つけた。

 地上での激戦を経て、傷だらけになりながらも、文に支えられてじっとこちらを見つめている。

 霊夢は視線を萃香に戻した。

 

「――立ち上がらないなら、決着って受け取るけど?」

 

 霊夢は油断なく様子を伺いながらも、気軽に尋ねた。

 

「体が、動かねぇ……っ」

 

 かろうじて萃香が返事をする。

 大の字に倒れたまま、萃香は指一本動かせない。霧に変化することも出来なかった。

 急所に突き刺さった封魔の針が、全身の自由を封じているのだった。

 

「まあ、そういう針だしね。それにしても、鬼にしては随分呆気ないじゃない?」

「言うなよ。力の半分は、もう一人のわたしに移しちまったんだ。こっちのわたしの体は、ちょっと力が強くて頑丈な程度なのさ」

 

 諦めたような苦笑を浮かべながら、萃香は視線だけを動かした。

 傷だらけの先代だけが見える。

 満身創痍だが、彼女は確かに生き残っていた。

 つまり、地上の勝負の結果はそういうことなのだろう。

 

「もう一人のわたしは、負けちまったみたいだな」

 

 萃香はこの時に至って、ようやく己の半身の『死』を知った。

 

「神社の時みたいに、記憶を共有出来るんじゃないの?」

「いいや。あれはさ、単純な分身なんかじゃなかったんだ。本当に『もう一人のわたし』だったんだよ。

 お前ら二人を舐めてたとか、遊びだったとかじゃなくて……『わたし』は全力を出して『博麗の巫女』と戦ったんだ。そして、わたしの魂の半分は負けて、死んだんだ」

 

 萃香は噛み締めるように言った。

 その声には無念があり、同時に納得があった。

 霊夢は黙って、言葉の続きを待った。

 一方の萃香の勝負は、死によって決着した。

 そして今、もう一方の勝負の決着も明確にしなくてはいけない。

 

「……なあ、霊夢」

 

 萃香は長年の親友のように、霊夢の名を気安く呼んだ。

 

「何よ?」

「最後のあの技……なんで途中で止めたんだい?」

「勝負を終わらせる為」

「でも、あのままやってても勝てたはずだ。あの時のお前は無敵だった」

「どういう風に見えたか知らないけど、あれは細かい調節の効く技じゃないのよ。

 スペルカードとして事前に設定しておくならともかく、本気で使ったら最後まで一定して発動し続ける。全力とか手加減するって雑念にも干渉されないのが、あの技の特性だからね」

「それでいいじゃないか」

 

 つまり、あの時霊夢は萃香を殺すことを良しとしなかったのだ。

 あのまま技を使い続けることで、確実に訪れたであろう相手の死を回避しようと思って、別の手段に移ったのだ。

 詰まるところ、それは――。

 

「なあ、霊夢。お前は、わたしとの決闘で……」

「何?」

「手加減、したか?」

 

 萃香は躊躇い、そして意を決して尋ねた。

 

「それがあんたを殺さない為に気を使ったかっていう意味なら――その通りよ」

 

 霊夢は、萃香の緊張した声色を全く無視するように、あっさりと答えていた。

 

「不本意かしら?」

「ああ、惨めな気分だね。全力の決闘で、手心を加えられたってんだから」

「は? 負け犬が何自惚れてんの? 別にあんたが死ぬ分には勝手だから、あとで自殺でもすれば?」

「……お前、鬼か?」

「やかましい」

 

 バッサリと切り捨てるように、霊夢は言った。

 

「決闘に全てを賭けて、全てを失う覚悟を持った奴が人間の中にどれだけいると思ってるの?

 普通の人間は、平穏の中で失う為ではなく、生み出す為に必死に生きているのよ。勝負に賭ける為に積み上げてきたものじゃない。そんなことは、死ぬことを決めたあんた達だけでやればいい」

 

 萃香を含めた鬼全体に対して、痛いほど容赦のない理論だった。

 あるいは、人が鬼と離別したこの新しい時代に生きる者の代弁でもあったのかもしれない。

 少なくとも萃香にはそう聞こえ、そして何一つ反論の出来ないものだった。

 これまでのように強者の傲慢で返すことは出来る。

 しかし、それをするには遅すぎた。

 自分は、既に敗者なのだ。

 未だ言葉にはしていなかったが、萃香はそれを理解していた。

 

「私の仕事は妖怪を滅ぼすことじゃない。

 この幻想郷の理に従わない者を、幻想郷の理に従って『退治』することよ」

 

 霊夢は、萃香だけではなく周囲の者達全てに聞かせるように、確固たる意志で断言した。

 

「……なるほど。だけど、実際の問題として、わたしをどうする? 幻想郷そのものを壊そうとまでしたわたし達――鬼を生かしたまま、この異変が落着すると思ってんのかい?」

 

 萃香の問い掛けは、全く現実的な問題を示していた。

 未だに周囲の者達は、静かに二人のやりとりを見守っている。

 しかし、人妖様々な者達の心境が如何なるものかは分からない。

 鬼の襲撃に傷ついた者もいれば、家族を危険に晒された者もいる。

 眼に映らない所で、もっと直接的な被害も出ているかもしれない。

 例え実質的な被害が最小限に抑えられたとしても、鬼の恐ろしさは今回の出来事で広く伝わり、天狗などのあらかじめ知る者達はその恐怖を思い出した。

 ケジメというものがある。

 博麗の巫女としての権限を振りかざした命令や指示だけではなく、周囲を納得させるだけの何らかの行動が必要だった。

 

「――紫、他の鬼ってどうなったの?」

 

 霊夢は、おもむろに尋ねた。

 それまでずっと、微笑みながら状況を見定めていた紫は、突然向けられた質問にも動じることなく、黙って片手を持ち上げた。

 それに応じるように、空中に複数のスキマが開いた。

 異空間の中から落ちてきたのは、鬼達である。

 近くにいた人々は思わず悲鳴を上げかけたが、当の鬼達は退魔の札で両手を枷のように封じられ、無力化されていた。

 思うように身動きが出来ず、尻から地面に落下して呻く鬼の傍に、今度は八雲藍がふわりと着地する。

 それを追うように、最後にスキマから現れたのは魔理沙だった。

 

「おおっ、すげえ。本当に人里だ。お前もスキマが使えるんだな」

「式神として能力使用を許可されている時のみ、限定的に使えるものだ。光栄に思うがいい。本来ならば、人間程度には紫様の能力を拝むことすら許されないのだからな」

 

 藍と魔理沙の二人を見て、紫は楽しそうに笑った。

 自身の式が命令を完遂したことは知っていたが、その過程でこんな意外な組み合わせが出来上がっているとは思わなかった。

 お世辞にも好意的とは言えないが、二人の間には対等な会話が成立している。

 

「あら、面白い組み合わせね」

「申し訳ありません、紫様。鬼の討伐に有効に活用出来ると判断し、この人間の同行を許可しました」

「いいのよ。私の意表を突くなんて、楽しいじゃない。

 生真面目な藍に仕事を任せたのに、鬼の生き残りが出るなんて不思議だったけど、これで理由が分かったわ。貴女のおかげね、魔理沙」

「あ……ああ、こいつに任せてたら問答無用で殺そうとするからな。わたしが勝負で負かして、大人しくさせたよ」

「鬼相手に大したものね。見直したわ」

 

 紫からの素直な称賛に、魔理沙は気恥ずかしそうに帽子のツバを下げた。

 傍らの藍は表情には出さず、紫にだけ分かる不満の意を表していたが、当然のように文句を口には出さない。

 一方の鬼達は、倒れた萃香の姿を見て、状況を理解していた。

 

 ――自分達は、負けたのだ。

 

 最後に残っていた反抗の意思が、それで消えていった。

 

「紫、そいつらを自由にしてやって」

 

 眼に見えて戦意喪失した鬼達は、もはや脅威にはならない。

 それでも霊夢の判断は危険なものだった。

 しかし、当人は何処吹く風で萃香に歩み寄り、あっさりと額に刺さった封魔の針を抜いてしまった。

 萃香が起き上がると同時に周囲から上がるどよめきの中、紫は軽く肩を竦めて、やはりあっさりと鬼達の封印を解除した。

 自由になった鬼達は、それでも今更暴れることなどなく、弱々しい足取りで萃香の元へ集まっていく。

 

「よお、お前ら。生きてたか」

「か……頭ァ。でも、他の奴ら……皆死んじまいましたよ」

「岩蔵も、力王も、あの翁まで……皆、先に逝っちまいました……っ」

 

 百いた鬼の生き残りは、萃香を含めても十人以下だった。

 そして、残された者達も一世一代の大勝負に負けた惨めな敗者である。

 仲間の死と敗北の無念さに涙を流す鬼達を、萃香は優しく抱き締めてやった。

 

「……それで、どうするよ?」

 

 此度の異変の首謀者と生き残り。

 それらを囲む幻想郷の住人達。

 目の前に佇む博麗の巫女。

 周りを見回し、観念したかのように萃香は胡座をかいた。

 どんな処罰も受け入れるつもりだった。

 

「紫、宴会場は無事だった?」

 

 息を呑むほど緊迫した状況を無視するかのように、霊夢は気楽に尋ねた。

 

「鬼が派手に暴れたから、滅茶苦茶に荒れてるわ」

「料理の類は全滅でしょうけど、お酒なら無事な瓶もあるでしょ?」

「あるわね。それがどうしたの?」

「全部取り寄せて」

「ふーん……何をする気かしら?」

「お酒を集めたら、やることは決まってるでしょ」

 

 霊夢は、この場にいる者達全員に聞こえるように告げた。

 

「宴会よ」

 

 霊夢のこの発言に、理解を示す者は少なかった。

 誰もが呆気に取られたかのような表情を浮かべ、耳を疑っている。

 萃香でさえも例外ではない。

 言葉を交わした紫が楽しそうな笑みを浮かべ、それに倣うように幽々子がクスクスと笑い声を洩らした。

 そして、文は腕の中で先代が小さく微笑んでいることに気付いた。

 

「ど……どういうつもりなんだい?」

 

 さすがに動揺を隠しきれずに、萃香は尋ねていた。

 霊夢は自らの決断に対して、厳かでも固い意志を見せるわけでもなく、あっけらかんと笑って答えた。

 

「戦った後に残る濁った憎しみを、酒で追い出すのよ」

「な、何……?」

「言ったでしょう。私の仕事は、幻想郷の理に従わせること。

 異変が解決した後で、憎しみを引き摺ることも、断ち切ることも、あってはならない。それが、幻想郷の新しい時代の理――」

「――」

「憎しみは、何も実らせないからね」

 

 静まり返った周囲を、霊夢はぐるりと見回した。

 

「これが、博麗の巫女であるあたしの決定よ」

 

 自らの答えの是非を問い掛けることなく、ただ断言した。

 誰にも――周囲の者達や先代巫女の意見にも委ねることのない、博麗霊夢の下した決断だった。

 反対の声は上がらなかった。

 もちろん、各々の内心では肯定と反発が複雑に入り乱れ、葛藤していることは想像に難くない。

 この場の空気が、反論を許さない方向へ流れていることも影響しているだろう。

 しかし――。

 

「あの――!」

 

 少なくとも、沈黙を破って上がった声は、霊夢の決定に反発するものではなかった。

 声の主である一人の人間に、周囲の視線が集中した。

 

「……酒に関してなら、すぐに提供できますよ」

 

 はたてと共にここへやって来た酒屋の主人である男は、緊張した面持ちで、それでもぎこちなく笑いながら提案した。

 それを切欠に、他の者達もざわつき始める。

 多くの者が、多くの意見を交わしていく。

 しかし、とりあえずは――この場の状況を肯定する空気が漂い始めていた。

 霊夢は、微笑みながら頷く紫を見て、嫌そうな顔をした。

 霊夢は、微笑みながら頷く先代を見て、自らも頷き返した。

 最後に、霊夢は萃香を見下ろした。

 

「胡散臭い幻想郷の管理者曰く『幻想郷は、全てを受け入れる』――らしいわよ」

「……そいつは、残酷な話だな」

「その残酷な話を、あんたは受け入れる気ある?」

 

 霊夢の問い掛けに、萃香は苦笑した。

 針を抜かれるまで全く動かせなかった自分の手を見つめ、敗北した周囲の仲間を見回す。

 辺りは人妖達の騒ぎ声で満ちている。

 自分達、鬼に向ける警戒や疑念は未だに感じる。

 しかし、もう誰も恐れ戦いてはいない。

 鬼に対する恐れは、既に過ぎ去ったのだ。

 もはや、戦いの空気ではない。

 萃香は勝負の決着を悟った。

 

「――『お前達』の、勝ちだ」

 

 萃香は観念して、その言葉を口にした。

 

 

 

 

「大変! 酷い怪我じゃないの!?」

 

 霊夢が周りに集まった紫やレミリア、それに萃香達と話している姿を遠い光景のように見つめていると、思わぬ声が聞こえた。

 はたてだった。

 何故か椛と一緒に、私の所へ駆け寄ってくる。

 あー……あ、そうか。

 私、結構な重傷なんだった。

 気をどっかにやっていたせいか、今の今ままで完全に忘れていた。

 そして、思い出した途端急激に痛みがぶり返してきた。

 ……っていうか、痛いし!

 腕ッ、折れてるしッ!?

 

「文、あんた何アホみたいに支えてるだけなのよ!?」

「いや、知らないわよ! こいつが何も言わないからでしょ!」

 

 口論を始めるはたてと文を尻目に、椛が無言で私の傍までやって来た。

 手馴れた様子で私の傷の具合を確かめていく。

 

「ここは痛むか?」

「ああ……っ」

「死にはしない」

 

 椛は冷静に断言してくれた。

 それから有無を言わさず、手当てを施してくれる。

 やべえ、超頼もしい。

 何故か口調も以前のような敬語ではなく、私に対して親身なものになっているし、男前が大幅アップですわ。

 私はもう、されるがまま、椛に身を任せることにした。

 ――っていうか、治療されてようやく気付いたけど、もしかしなくても私の身を案じて駆け寄ってくれたのかな。

 いつの間にかはたてと文も口論をやめて、私の方を伺っている。

 はたては分かりやすく心配そうな表情を浮かべてくれているが、文の不機嫌そうな顔もひょっとしてそれに近いものなのかな?

 いいや。都合のいいように受け取っちゃおう。

 過去の確執から、天狗には全体的に嫌われてると思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。

 少なくとも、以前快気祝いもくれたこの三人からは、それなりに気を掛けてもらっているようだ。

 それが何故か、たまらなく嬉しかった。

 

「あ、あのー……椛? 傷、大丈夫だよね?」

「別に腕の神経まで破壊されたわけではありません」

 

 不安そうなはたての問いに、椛は暗に『足の時よりはマシな傷』と答えた。

 

「それに、例え片腕が使えなくなっても――まあ、それだけだ。大したことじゃない。手が一本あれば剣も拳も握れる」

 

 言葉の後半は、私に向けたものだった。

 牙を見せるように口の端を吊り上げた笑みは、凶暴さと力強さが伝わってくるようだった。

 私を見つめる瞳が『少なくとも、自分だったらそうする』と語っていた。

 なんなんスか、椛さん……。

 マジ、かっけえッス!

 言われたとおり、腕の傷なんて全然大したことじゃないようにさえ思えてしまう。

 気を取られている内に、治療も完了していた。

 折れた腕を布で体に縛りつけるようにして固定した、応急処置以上のものではなかったが、痛みは随分と和らいでいる。

 満足に治療道具もないのに、ここまで完璧な処置をするとは、さすが椛だ。

 

「早急に、ちゃんとした治療を受けた方がいい」

「ああ。だが、少しここに残りたい」

「まさか、宴会に参加するつもりですか?」

 

 私の考えを鋭く察して、文がため息混じりに呟いた。 

 完全に呆れられてるね。

 でも、ごめん。

 心配してくれてすごく嬉しいんだけど、このわがままだけは大目に見て欲しいんだ。

 周囲を見回すと、傍観していた人達の輪が徐々に縮まり、酒が運び込まれて、宴会の準備が進み始めている。

 

「……酒を一杯だけ、飲みたいんだ」

「死にますよ」

「大丈夫」

 

 私が笑って答えると、文は肩を竦めて、それ以上何も言わなくなった。

 ……さすがに、愛想尽かされたかな?

 

「あ……あのねっ!」

 

 それまで黙り込んでいたはたてが急に大声を上げたので、私は驚いてそっちを見た。

 

「そのっ、用事……済んだら! ちゃんとお医者さん行かなきゃ駄目よ!? だ、駄目だかんね! 絶対ッ!」

「ああ」

「酷い怪我なんだから! か、顔に……傷とか、残っちゃったら、どう……っ! ううっ……」

 

 な、泣いてしまった……。

 何やら感極まってしまったらしく、嗚咽を洩らし始めたはたてをどうすればいいか分からず、文と椛に視線を送る。

 あっ、嗚咽が嘔吐くような声に変わった。

 今度はゲロを漏らしそうになっているはたての背中を、椛が無言で撫でて、文はそれを見て呆れていた。

 

「……ごめん」

「いや……」

 

 やがて、落ち着いたはたてが改めて私の顔を見上げた。

 

「髪も、長くて綺麗だったのに」

 

 萃香に半ばから食い千切られた私の髪のことだ。

 以前は腰まで届く長さがあったのだが、今はもう肩の辺りまでしかない。

 中途半端に残った部分のせいで、バランスも滅茶苦茶だ。

 いずれ、切り揃えないといけないだろう。

 私は、別に髪型なんて気にしないんだけどね。

 何か思い入れがあって伸ばしてたわけでもないし。

 指摘されて、なんとなく髪を触っていると、おもむろにはたてが自分の髪を結ぶリボンの一つを解いた。

 

「後ろ向いて」

「え?」

「宴会に残るんなら、少しでも格好を整えなきゃね」

 

 言われるままに後ろを向くと、髪を触られている感触がした。

 バラバラだった髪を、さっきのリボンで一束に纏めてくれてるのか。

 

「そのリボン、あげるわ」

 

 振り返ると、はたてが笑顔でそう言った。

 

「ありがとう」

 

 精一杯の気持ちを込めて告げる。

 リボンをくれたはたてだけじゃない、治療をしてくれた椛にも向けた感謝だ。

 ホンマに、天狗の優しさは五臓六腑に染み渡るで!

 心の中で感涙した私は、はたてと椛から視線を離して、自然と文の方を向いていた。

 

「……なんですか?」

 

 いや、別に文にも何かして欲しいとか言って欲しいとかじゃないのよ?

 催促の視線ってわけじゃない。

 ただ、なんとなくね。

 ……ホント、何でだろ?

 

「まあ、しかし――実際、大したものですね。あの伊吹萃香に勝つなんて」

「『勝ち』か……」

 

 文の称賛に、私は言葉を濁した。

 既に死体は消えてしまったが、萃香の倒れていた場所を見つめる。

 あれは『勝ち』だったのだろうか?

 少なくとも、私は萃香の死を望んでいたわけじゃない。

 もちろん、手加減なんて出来るはずのないギリギリの真剣勝負だったのは確かだ。

 最後の一撃は、無心で放った。

 あの後、萃香が生きていたのは単なる偶然以外の何ものでもない。

 あの時点で、私が萃香を殺していても不思議ではなかった。

 だから、萃香が自ら命を絶ったとしても、結果に大した違いはなかっただろう。

 しかし、結局萃香が死に、私が生き残った今、感じるのは虚しさだけだ。

 何も勝ち誇れやしない。

 勇儀の時とは違う。

 私の手には、何も残らなかった。

 これが本当に私の『勝ち』だったのか――。

 

「勝ちですよ。貴女の勝ちです、誰が何と言おうと」

 

 まるで私の苦悩を見透かしたかのような文の発言に驚く。

 

「御見事です。本当に、強くなりましたね」

 

 初めて見るような穏やかな笑みを浮かべて、文はそう言ってくれた。

 私は、この言葉を覚えている。

 ずっと昔にも、同じように言ってくれた。

 あの時感じた喜びが、今、胸の内に蘇っていた。

 そうか。

 文は、認めてくれるのか。

 文は勝ったことを褒めてくれるのか。

 じゃあ、いいかぁ――。

 

「そろそろ、宴会の準備が整うようです」

 

 今更になって勝利の実感を噛み締めていた私は、椛に促されて、騒ぎの中心に眼を向けた。

 広場の中央に、多くの人妖が集まっている。

 人間と妖怪が――。

 果ては、つい先ほどまで争っていた敵と味方が、皆一様に酒を注ぎ合い、一つの場所に集まっているのだ。

 もちろん、彼らや彼女達の心の中には、穏やかではないものも多く残っているだろう。

 いきなり和気藹々とはいかない。

 それは博麗神社でやっていた宴会と同じだ。

 だけど、あの時よりもずっと大きくて、ずっと多くのものが、この場所には在る。

 ここに、集まっている。

 

「凄い光景だな……」

 

 私は、誰にともなく呟いていた。

 その光景の中心にいるのは、霊夢だった。

 傍には勝負をしたはずの萃香がいる。

 私の傍にはいない萃香が、霊夢の傍には残っている。

 そのどちらが正しいと言うつもりはない。

 だけど、あの子は私に出来なかったことをやったんだな。

 そうか。

 この光景は、あの子が作ったのか。

 へへっ、霊夢が言ったあの台詞。

 実は受け売りだって知ったら、どんな顔するかな?

 呆れたような顔をするかな?

 だけど、いい言葉だろう。

 私は、その言葉のおかげで真っ直ぐに生きてこれたんだ。

 だから、自分の子供にも教えたんだ。

 私の教えたことを、ちゃんと覚えていてくれたんだな。

 それを糧に、ちゃんと成長してくれてたんだな。

 親らしいこと、何にもしてやれてないって思ってたのに。

 子供ってのは、大きくなっていくもんなんだなぁ。

 人里に来る前に文に言われたことが、何故か急に思い出された。

 ……なんだか妙に、視界がぼやけてきた。

 変だな、眼と鼻の奥が熱い。

 折れた腕が痛みで疼くのとは、また違った熱さだ。

 胸が苦しいな。

 これも、怪我のせいじゃない。

 体の痛みなんて、これに比べたら全然感じない。

 この気持ちはなんなんだろう?

 感動か。

 寂しさか。

 上手く言えない。

 上手く言えないけど、一つだけ……。

 

 ――霊夢。お前は、私の誇りだ。

 

 

 

 

「凄い光景だな……」

「そうですね」

 

 相槌を打ちながら、文はそっと先代の顔を見上げた。

 声から感じた僅かな震えの通り、彼女は涙を流していた。

 まるで自分でも泣いていることに気付いていないかのように、静かに涙を流していたのだ。

 初めて見る先代巫女の涙に、しかし文は特別驚くこともなかった。

 新聞記者としての本分を忘れて、好奇の視線を向けることもなかった。

 黙って文は視線を先代と同じ方向へ戻した。

 集まった者達に、酒が行き渡ったらしい。

 宴会が始まろうとしている。

 その中心にいるのは、博麗霊夢だ。

 

「お前は、私の誇りだ……」

 

 先代は、文にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。

 誰に向けたものでもなかった。

 視線は変わらず、ぼんやりと騒ぎの中心を見つめている。

 あるいは、声に出して言ったものだと自覚さえしていなかったかもしれない。

 しかし、文にはその視線の先に誰を見ているのか分かっていた。

 

「その言葉は、本人に直接言ってあげるといいでしょう」

 

 文は言った。

 

「親に褒められて、嬉しくない子供なんていませんよ」

 

 そうして、背中をそっと押してやった。

 

 

 

 

 周りでは、いつの間にか集まった大勢の人や妖怪が、互いの盃に酒を注ぎ合っている。

 気心の知れた者同士もいれば、ぎこちなく様子を伺いながら酒瓶を傾ける者もいる。

 一際目立つ巨体の天魔が、代表して鬼達に盃を渡していった。

 鬼達は、戸惑いながらもそれを受け取っている。

 未だに、この状況への混乱が残っている様子だった。

 しかし、それは大なり小なり誰もが同じである。

 自分達が、何故こうして一同に会して酒の席を囲んでいるのか、冷静に考えれば疑問に思うことばかりだ。

 多くの者が、促されるままに酒を受け取っているに過ぎない。

 その疑問を笑って無視する者達もいた。

 不遜な笑みを浮かべたレミリアが、萃香と面と向かって何かを話している。

 とても友好的とは思えない態度だったが、同時に気心の知れた者同士がじゃれ合っているような気安さも感じられる光景だった。

 チルノが物怖じせずに、大柄な鬼に対して何かを喚き、それを慧音達が諌めていた。

 そんな喧騒を、離れた位置で眺める者もいる。

 恐る恐る差し出されたコップを、幽香は片腕で受け取っていた。

 その視線が誰を見て、何を思っているのかは分からない。

 とりあえず、不機嫌そうな表情ではなかった。

 

 ――人里の中心で、唐突に始まった宴会。

 ――その最中で、事の張本人である霊夢は一人、辺りを見回していた。

 

 何処からか渡された一杯の酒と、更に空いた手にもう一杯の酒を持っている。

 まだ、誰も酒に口をつけていない。

 誰かが宴会の挨拶や、乾杯の音頭をとるわけでもないだろうに、示し合わせたかの如く、何かを待っているのだ。

 ゆっくりと探るように視線を動かしていた霊夢は、自分に歩み寄ってくる人物に眼を留めた。

 眼が合った。

 服は破れて汚れていて、顔には酷い傷痕が刻まれていて、髪までボロボロで短くなった姿だったが、霊夢は一目で誰なのか分かった。

 

「母さん――」

 

 母親の体を案じるよりも、喜びの方が勝っていた。

 無理をさせているのは分かっている。

 だけど、目の前の母も嬉しそうに笑っているから。

 母は、無事な方の手を差し出した。

 

「酒を」

「うん」

「戦った後は、憎しみを追い出さないとな」

「一口だけよ。傷に障るわ」

「無粋なこと言うな」

「無粋で結構」

 

 かつて子供だった頃を真似るように、霊夢は伸ばされた手から、持っていたコップを遠ざけた。

 

「一口だけよ」

「……分かった。一口でお終いだ」

「よろしい」

 

 霊夢は改めて酒を手渡した。

 それで、宴会の最後の準備が完了した。

 既に、周りの参加者達は全員が酒を片手に持っている。

 霊夢は母と共に、確かめるように辺りを一度見回した。

 それから、二人で向き合った。

 

「一緒に酒を飲むのは初めてだな」

「ずっと、楽しみにしてたわ」

 

 わざわざ、昔のことを言葉にして説明する必要はなかった。

 霊夢は酒も入っていないのに赤い顔で、照れたように小さく笑う母の次の言葉を待った。

 

「――一人前になったな、霊夢」

 

 にっこりと笑った霊夢は、盃を掲げて、この宴会で最初の酒を母と飲み交わした。

 

 

 

 

 宴は始まった。

 おそらく夜明けまでの、束の間の短い時間。

 料理もなく、ただ盃だけを片手に。

 集った者達は、戦いで傷つき、服装も汚れてボロボロで、人里の住人など深夜のせいか寝巻きの者もいる。

 騒ぎに誘われて新たにこの場へやって来た者もいれば、去った者もいる。

 人間も妖怪も入り混じって、各々が思うところを抱え、複雑な気持ちで――。

 

 しかし、集まっている。

 この月の下、一つの場所に集っている。

 

 宴は、始まった。




<元ネタ解説>

前回の萃香戦終盤でやった一連の挑発シーンと今回の前書きの台詞。

・映画「コマンドー」に出てくる台詞多数。皆大好き、シュワちゃんの最強ゴリ押しマッスルアクション映画。

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