東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その……忘れた。長いですね。でも、あと一話と後日談で終わる予定です。


其の三十五「幻想之月」

 あの子が死にかけていた時、何をしてやれただろう。

 何もしていない。

 ただ、傍に居ただけだ。

 あの子を助けたのは、私じゃない。

 私はただ、独りだったあの子を一番最初に見つけただけだ。

 私はただ、独りだったあの子の一番近くに居ただけだ。

 血だって繋がっていない。

 最初に自分から名乗ったわけじゃない。

 

 そんな奴が、母親として扱われていいのだろうか――。

 

 

 

 

 眠り続ける先代の前で、文は迷っていた。

 

 ――残るべきか。

 ――去るべきか。

 

 藍と輝夜がこの場を去って、もう既に大分経っている。

 その間、文はこの二つの選択の間でずっと迷っているのだった。

 つまり、結局この場に残り続けていることになっているのだが、文は気付いていなかった。

 延々と、先代を前にして、特に何か行動を起こすこともなく、唸っているだけである。

 本当はさっさとこの場を去る方が良いのだ。

 この場所。

 人里が鬼の襲撃を受けている真っ最中なのは分かっている。

 鬼の群れが個々に目的を持っているとはいえ、先代巫女が彼らの標的の一つであることは間違いない。

 現に、先代は鬼の襲撃を受けて、激しい戦闘を繰り広げた。

 偶然――そう偶然、結界の展開に巻き込まれた文は、その中で誰にも知られずに行われる人と鬼の死闘を目の当たりにしたのである。

 恐ろしい戦いだった。

 途中で美鈴の参戦があったとはいえ、人間である先代巫女は、圧倒的な力で鬼の群れを蹴散らしたのだ。

 特に、後半の戦いぶりは、それこそ『鬼神』と表現しても良い。

 やはり、この人間はとんでもない。

 化け物だ。

 今、無防備に眠っている先代が、人ではなく傷ついた獅子のように見える。

 この場に残った結果、またあんな戦いに巻き込まれるなど御免だった。

 それに、先程から空が騒がしい。

 ついに、天狗の部隊が鬼の討伐の為に動き出したのだ。

 もちろん、文にとっては同族で味方でもあるが、彼らに見つかるのも遠慮したかった。

 鬼の討伐に、自分まで駆り出される可能性が高いからだ。

 だから、そういった様々な意味で、さっさとこの場から逃げた方が得策なのである。

 予想外に、良い写真も撮れた。

 これを持ち帰って、現像し、新聞にする作業を始めよう。出来上がる頃には夜も明けている。思わぬ特ダネだ、時間がもったいない。

 仮に残っているにしても、目の前の傷ついた先代に対して、何か出来るものでもない。

 現にこれまで、眠り続ける彼女の顔を阿呆のように眺めていることしかやっていないのだ。

 こういった多くの判断材料からして、自分はこの場を去るべきである――。

 文は、そこまで答えを導き出していた。

 そして、未だにこうして残っているのである。

 ワケが分からない。

 文は、頭を抱えて、また唸った。

 

「ぅ……っ」

「え?」

 

 不意に、自分の声と重なるように、目の前の先代から小さな声が洩れるのを聞いた。

 眼を覚ましたか!? と、慌てて顔を見れば、しかし瞼は閉ざされたままである。

 代わりに、苦しげな表情を浮かべていた。

 呼吸に乱れはない。容態が悪化した様子ではなかった。

 しかし、僅かに歯を食い縛り、震えている。

 夢見でも悪いのか。

 文は、恐る恐る先代に近づいた。

 それでも、先代は眼を開けない。

 未だ眠ったままなのは確かである。

 それなのに、文が近づく気配を感じたかのように、彼女の手が動いていた。

 震える手が、ゆっくりと文の前に差し出された。

 文は、その手を凝視した。

 傷だらけの手である。

 骨折を何度も経験したせいで歪み、硬い拳ダコで岩のようなゴツゴツとした節くれ立った形に成り果てている。

 女のものとは思えない、醜い手だった。

 生まれつき、こうなっていたわけではない。

 自ら望み、努力して、積み重ねた結果に得た手なのだ。

 文は、それを知っていた。

 この手が、これまで何を成してきたか。

 痛いほど知っていた。

 

「……し」

 

 溺れたものが喘ぐように差し出したその手を、文は咄嗟に握っていた。

 ずっと昔に、まだ幼かった彼女の手を、こうして握ってやった覚えがある。

 あの時周りには、自分以外にもはたてと椛がいた。

 苦しむ少女を助ける為に働く二人がいた。

 でも、今は自分しかいない。

 何も出来ない自分しかいない。

 

「しっかり――」

 

 消え入りそうな声で、呟く。

 代わりに、握り締める手には力が篭もる。

 先代の表情が不意に和らぎ、かすかに口が動いた。

 

「――お母さん」

「ぶっふぉっ!?」

 

 その一言で我に返り、文は盛大に吹き出した。

 

 

 

 

 ――夢を。夢を見ていたんです。とても荒々しく、雄雄しい夢を。

 

 ……なんて、フィーリングで適当に言ってみたが、本当は自分がどんな夢を見ていたかなんて、私は覚えていないのだった。

 夢を見ていたのは確かだし、それがなんとなく切ないような悲しいような感覚は残っているのだが、具体的な内容がさっぱり思い出せない。

 眼を覚ました途端、それまで見ていたものが一気に曖昧になってしまったような感じだ。

 まあ、夢っていうのはそんなもんなんだろうけどね。

 おぼろげに、霊夢が出てきたような気がするのだが――うーん、駄目だ。ハッキリしない。

 ハッキリしないといえば、記憶の方も若干混乱気味だった。

 鬼との死闘をなんとか制して、美鈴を送り出した後で、私は多分気絶したのだと思う。

 そして、今眼を覚ましたのだ。

 しかし、その割にはなんか記憶の中に藍と輝夜の姿がぼんやりと浮かぶのだが……なんで、この二人なんだろう?

 えー? 鬼と戦ってる時に、この二人いたっけ?

 結界を張っていたはずだから、美鈴以外誰もいなかったはずなんだけどな。

 でも、二人と何か会話をしたような、一方的に話を聞いたような、そんな気もする。

 何より、冷静に現在の自分の状態を確かめてみると、おかしなことに気付く。

 鬼と戦った直後と比べて、体調が非常に楽になっているのだ。

 体の節々が酷く痛むが、それらもすぐに和らげられるほど波紋の呼吸は順調だし、体力的には余裕すら感じている。

 どう考えても、自然回復では在り得ない。

 私が気絶した後で『何か』があったのだろう。

 ただ、やはりその『何か』が思い出せないのだった。

 うーむ、残念だ。

 具体的には、藍と輝夜の二人との会話という貴重な体験を覚えていないことが非常にもったいない。

 私ってば立場や経緯からして、この二人とは疎遠な関係だからね。

 折角の友好度を稼ぐ貴重なイベントがスルーとか、嘆く以外ありませんよ。

 状況的に、二人の内のどちらかが助けてくれた可能性が高いが――私って、あの二人には特に嫌われてると思ってたんだけど。

 実際、そこんとこどうなの?

 超気になる!

 

 ――そして、もう一つ気になるのが、目の前で盛大にむせている文の姿だった。

 

「……大丈夫か?」

「だ、誰のせいだと……っ!」

「私のせいなのか?」

「へ……!? あ、いや……その!」

 

 文は、まるでたった今私と話していることに気付いたかのように、驚いていた。

 

「……違います」

 

 何故か、消え入りそうな声でそう答える。

 私から眼を逸らすように俯き加減で、らしくもなく消極的な反応だった。

 あれ、文ってばこんな性格だったっけ?

 というか、そもそも何故文が傍にいるのかが分からない。

 彼女とは、人里に運んでもらってそれっきりのはずだ。

 いつの間に合流したんだろ?

 ひょっとしたら、私の曖昧な記憶の部分を、彼女は知っているのだろうか。

 

「私が眠っている間に、何か事態に変化があったか?」

「……そう長く眠っていたわけではありませんよ。まだ、夜も明けてませんしね。

 蓬莱山輝夜と八雲藍が、薬を使って貴女を回復させました。といっても、傷の治療ではなく、体力を回復させただけですけどね」

 

 やっぱり、輝夜と藍が居たのは確からしい。

 なるほどね。体の調子がおかしなことになってるのは、そのせいなのか。

 筋肉痛に関節痛と、節々が痛むのに重苦しい疲労感だけが全く無い。

 今すぐにでも立ち上がりたいのに、手足が思うように動かないのだ。

 今しばらく、波紋の呼吸に集中して回復に努めなければ、まともに歩くことも出来ないだろう。

 

「鬼は、今どうなっている?」

「少なくとも、人里に関しては事態は終息し始めていますよ。

 天狗が組織立って動き始めました。天魔様を筆頭に、集団で鬼の駆逐に回ってます」

「それは……すごいな」

「言っておきますけど、これは例外的なことなんですよ」

「分かっている」

「どうだか……また、人里以外の鬼に関しても、先程の八雲藍が対処するようです。実際に、どうなっているかまでは分かりませんが」

 

 ふむ。鬼の力も脅威だが、藍しゃまもまた並の妖怪ではない。

 楽観は出来ないが、十分に対処してくれると信頼も出来る相手だった。

 ――詰まるところ、私が気絶している間に、今回の異変は確実に解決に向かっているということだった。

 一時は、この消耗した状態から更なる戦闘を覚悟していたが、やれやれ一安心といったところか。

 しかし、未だに全てが終わったわけではない。

 

「異変の首謀者はどうなった?」

 

 私は、萃香のことを尋ねた。

 異変の中心である彼女の元には、霊夢が向かっているはずだった。

 文は、何故か一瞬言い淀んでから、答えた。

 

「まだ、分かりません」

「まだ倒されていないんだな?」

「さあ、分かりませんよ。なんせ、私はさっきまで貴女の面倒を見ていたわけですからね」

 

 文が皮肉るように笑う。

 うっ……ごめん。私のせいで手間が掛かったってことだよね。

 でも、もう大丈夫だ。

 とりあえず、なんとか歩ける程度には回復したと思う。

 いや、回復というよりも体のバランスが取れてきたと言った方がいいか。

 全快した体力と、落ちた身体能力のズレを合わせられるようになってきた。

 未だに少しチグハグな感じがするが、とりあえず動く分には問題ない。

 そして、動けるのならば、やることは決まっている。

 

「ちょっと、何してるんですか?」

 

 立ち上がろうとする私を見て、何故か文が慌てていた。

 いや、何って……文に世話掛けるのもアレだから、さっさと行動しようとしてるんですけど。

 そう答えようとして、ふと気付く。

 

 ――ん? この手の感触は何?

 

 立ち上がろうと地面に手を着いて、もう片方の手が動かなかった。

 思わず視線をそこに向けると、同じタイミングで文も同じ場所を見ていた。

 文の手が、私の手をしっかりと握り締めていた。

 ……え、えーと。

 

「――うわっ!?」

 

 きゃっ!?

 ご……ごめんなさい、あたしったら!

 お互いに、今更気付いたかのように慌てて手を離した。

 なんという乙女ちっくな反応。っていうか、キモイな私。

 

「すまない」

 

 思わず謝ってしまう。

 

「へっ? な、何がですか……?」

「手を――」

「え、ええ。はい」

「多分、気絶している時に無意識に掴んでしまったのだと思う」

「あ……」

「だから、ここから離れられなかったんだろう? 本当に、すまない。ありがとう」

 

 私は精一杯言葉を尽くして、文に感謝した。

 何故、文がわざわざ気絶した私の傍についていてくれたのか。これで判明したな。

 なんてことはない、私は自分で迷惑を掛けてたんじゃないか。

 さっさと手を振り払って、ここから離れればいいのに残ってくれた文ちゃんマジ天使。

 普段の悪ぶった言動の裏に隠された熱い人情味に、泣けるで!

 

「……そ、そうです。その通りです! い、いやぁ、本当に面倒な話でしたよ!」

 

 文は大きく何度も頷きながら答えた。

 いいんだけど、そんなにふんぞり返ったら、首痛くね?

 

「そうだな。すまない」

「ま、まぁー別にいいんですけどね! せいぜい恩に着てくださいっ!」

「ああ、貸しにしておいてくれ。いずれ返す」

「……貸し。貸し、ね。そうですね……」

 

 文は何故か難しい表情で黙り込んでしまった。

 え、何? 貸し一つじゃ足りない? 二つ分くらいの方がよかったかしら。

 とりあえず、今回のことの礼については後で話し合うとして、両手が自由になった私はその場からゆっくりと立ち上がった。

 ぐっ……むぅ、なんて有様だ。

 ただ立ち上がるだけのことが、異常に難しい。

 辛い、というわけではないが、動くはずの箇所が動かないという不具合が体の各所で起こっている。

 これは、慣れるまでまともに歩くことも難しそうだ。

 かろうじて立ち上がった私は、おぼつかない足取りで前に進んでみた。

 まるで生まれたてのトムソンガゼルのように不安定な足元だ。いや、トムソンガゼルとか知らんけど。

 数歩進んで、バランスを崩す。

 平坦な地面で足を踏み外すというどうしようもないミスを犯した私の体は、しかし倒れる最中で留まった。

 慌てて支えてくれたのは、文だった。

 

「な、何やってんですか!?」

「上手く歩けない」

「当たり前でしょう! あんた、自分がどんな戦い方をしたのか覚えてないんですか!?」

「体力は回復した」

「体中から血を噴き出しながら暴れ回ってたんですよ! しかも、一呼吸も休まずに、長々とっ! あの二人が来なかったら、そのまま死ぬかと思ってたんですから!」

「……心配掛けた」

「心配なんかしてませんよ!」

 

 そ、そうか……勘違いしてすまん。

 なんだかよく分からない怒り方をする文に、私は戸惑っていた。

 つまり、どういうことだってばよ?

 お母さんに叱られてるような気まずさを感じるのだが、そんな文の言動に対して、どういう反応をすればいいのか分からない。

 えーと、とりあえず抱えている手を離してもらえないかね?

 私には、まだ行くべき所があるのだよ。

 

「――伊吹萃香の所へ向かうつもりですか?」

 

 私の瞳をじっと覗き込み、内心を察するように文が言った。

 私は小さく頷いて答える。

 

「まさか、その体で萃香さんと戦うつもりじゃないですよね?」

「それは霊夢の仕事だ」

「だったら、ここで大人しくしておいた方が良いのでは?」

「見届けたい」

「それは貴女の義務ですか?」

「いや、そうしたいだけだ」

 

 文は、再び怒ったような表情で黙り込んだ。

 何やら、私の行動には反対のご様子。

 これってやっぱり心配してくれてるんじゃないかね。

 私の都合の良い解釈でしかないが、もしそうだと思うとちょっと嬉しくなる。

 しかし、痛む体をおしてでも霊夢の所には行きたいのだ。

 私は、こんな時でもしっかりと体を支えてくれている文に、一つ提案をしてみることにした。

 

「手を貸してくれないか?」

 

 あつかましいと自覚しているが、それでもお願いしてみる。

 少しでも速く、現場に着きたい。その為には手助けが必要だ。

 文は無言で私を見つめ返した。

 ……う、うーん。やっぱり個人的なお願いだけじゃ苦しいかしら?

 思い返してみれば昔、妖怪の山でも同じように助けを乞うたことがあるんだよね。

 当然のように断られたけど、やはり今回も事情は同じなんだろう。

 赤の他人のお願いなんて、応える義務も義理も無い。

 ちょっと迷っているように見えるのは、きっと文自身の善良さから来るものなんだろうな。

 私の手伝いなんて、本当は面倒だって思ってるはずだしね。

 ここは一つ、文にもメリットがあることを伝えておこう。

 

「きっと、いい取材のネタにもなると思う」

 

 そう告げた途端、一気に文の表情が不機嫌になった。

 何故だ……。

 

「――いいでしょう。連れて行ってあげますよ」

「ありが――」

「そして、勝手に死ねば宜しい」

 

 礼の言葉を遮って、文は勢いよく空に飛び上がった。

 吹っ飛ぶような急加速だ。思わず舌を噛みそうになった。

 最後の一言は吐き捨てるような調子であり、私を抱えたまま飛び立った後は前を見据えたまま、一度もこちらを見ようとしない。

 どうやら、完全に機嫌を損ねてしまったらしい。

 なんで?

 いや、本当に分からん。

 文ちゃんてば難しいお年頃なのね。

 

 

 

 

「鬼の四天王、伊吹萃香。地底より一世一代の大勝負に来たぜ――此度の異変を解決したくば、我が身を見事退治してみせよ『博麗の巫女』!!」

 

 今宵の異変の終結。

 百鬼夜行の終着点である人里の中心部に、萃香の朗々とした宣戦布告が響き渡った。

 龍神像の広場の周囲に、まるで異変の元凶を囲むように佇む多くの人妖達が、それに聞き入る。

 鬼と戦える者も、戦えない者も、一様に息を呑んだ。

 それら全ての者達を蚊帳の外にして、萃香は霊夢と、丁度その背後に立つ形になっている先代巫女を見据えている。

 先代を支えている文が、鬼の視線に巻き込まれる形になって、顔を青褪めさせていた。

 萃香の宣告に、しばらくの間誰も応えなかった。

 霊夢は無言で睨み返し、先代は意表を突かれたかのように僅かに眼を見開いている。

 その時、最初に動く者があった。

 

「――バカか、貴様」

 

 レミリア・スカーレット。

 

「そりゃ、馬鹿正直の馬鹿って意味?」

「浅はかで愚かしいという意味よ」

「この野郎……」

 

 嘲笑を浮かべるレミリアを、萃香が憎らしげに睨む。

 

「少し考えれば分かることだろう――お前、ここまで来て自分の都合の良いように話が進むと思っているのか?」

「ふぅん。あんたはわたしが博麗の巫女と決闘するのを邪魔するつもりってわけかい」

「幻想郷のルールを無視して、好き勝手暴れたんだ。今更決闘のルールなど持ち出すな」

「無法には無法で応えるってことか。道理だ」

「いや、道理じゃない。ただ単に、私が気に入らないだけだ」

「なるほど、分かりやすい」

「貴様が博麗の巫女と決闘したいのならば、好きにすればいい。スペルカードでも、殺し合いでも、勝手に仕掛けろ。私は、それの横合いから全力で殴りかかろうと思う」

 

 そう言う傍から、レミリアは一歩を踏み出していた。

 言葉による探り合いや、意思の譲り合いなどもはや無い、と言わんばかりである。

 真っ直ぐに萃香に向けて、静かな殺意を漲らせながら歩いていく。

 無造作な歩みである。

 しかし、この小さな吸血鬼の偉大な前進を止めることがどれ程困難なことか、萃香は知っていた。

 未だ夜空に浮かぶ満月は、圧倒的な不死の力を目の前の吸血鬼に送り続けているのだ。

 二人が互いの手の届く範囲に踏み入った瞬間、戦闘が始まる。

 そして、萃香にとってはその戦闘の始まり自体が、思惑を潰される敗北と同義だった。

 真正面からの潰し合いで、レミリアを制する絶対の自信など無い。

 ましてや、その戦いを避けて博麗の巫女と尋常の勝負する余裕など全く無い。

 一歩一歩近づいてくるレミリアを、萃香は思案するように見つめていた。

 

「困ったな」

 

 しかし、その表情からは面白がるような微笑が浮かんでいた。

 

「お前さんと喧嘩するのも楽しそうだ、なんて思っちまってるよ」

「そうか。貴様を楽しませるのも気に入らんな」

「大丈夫よ。『尋常の勝負』なんてさせてあげないから」

 

 第三者の声が、萃香の背後から聞こえた。

 萃香が肩越しに振り返り、レミリアが僅かに視線を動かして、声の主を見やる。

 

「おっと、こいつは拙いことになった」

 

 萃香は笑いながら頬を掻いた。

 風見幽香。

 いつの間にか、人里に降り立った隻腕の彼女が、ゆっくりと萃香に向かって歩み寄っているところだった。

 

「当代の巫女に興味はないけれど、先代の方には先約があるのよ。お前如きに後からお手つきされたんじゃ堪らないわ。滅びゆく者は、大人しくここで滅びなさい」

 

 幽香は、萃香から視線を外して、初対面であるレミリアを見た。

 

「下がってなさい、おチビちゃん。そいつに引導をわたすのは私よ」

「貴様こそ下がっていろ、ババア。怪我人が無理をするな」

「分かったわ、二対一ね」

「私が貴様ら二人をまとめて殺せばいいんだな」

「訂正するよ。こいつは楽しいことになってきやがった」

 

 幽香とレミリア、そして萃香が互いに全く同じ種類の笑みを浮かべた。

 周囲の傍観者の中で、ただの人間に過ぎない者達が等しく恐怖を感じる笑みである。

 おぞましい妖怪の笑い方だった。

 三つ巴の凄惨な殺し合いが今まさに始まろうとしている。

 幽香とレミリアの足は、一瞬も止まってはいない。

 一歩進むごとに、身に纏う重圧が増していっているように、足が重々しく地面を踏み抜いている。

 二人の間に立つ萃香を中心に、互いの距離が縮まっていった。

 三匹の怪物の間合いが触れ合う。

 それぞれが纏う帯電した空気のようなものが互いの間で触れ合い、そこに火花が散るのを周囲の者達は見たような気がした。

 その火花が合図だった。

 同時に、動いた。

 レミリアが右腕で。

 幽香が残っている片腕で。

 全力で殴り掛かった。

 間に挟んだ萃香を通して、その先にいる相手まで一緒くたに殴り飛ばそうとするような勢いだった。

 二つの拳圧に挟まれた萃香の笑みが、歯を剥くほど深まる。

 鋭い音がした。

 

「ぬ――っ!?」

 

 呻くような声が、三人の内の誰か、あるいは三人ともから洩れた。

 拳が肉体に当たるような音ではない。

 幽香とレミリアの拳が、眼前に展開された結界によって遮られていた。

 

「ここは人里よ」

 

 霊夢だった。

 

「妖怪が殺し合いをする場所じゃない」

 

 単純な殴り合いとはいえ、強力な妖怪の全力の攻撃を受け止めるほどの結界である。

 それほどの術を行使した霊夢の実力が如何なるものか、萃香達三人はもちろん、周囲の人妖全てが理解出来た。

 霊夢と一度戦ったことのあるレミリアを除き、幽香と萃香は人間に対するものの中で最大級の警戒を向ける。

 その鋭い視線とそこに伴う圧迫感を、まるで感じていないかのように霊夢は平然としていた。

 

「妖怪が妖怪に潰されても、それは異変の解決にはならない。人間が妖怪を退治しないと、話が終わらないわ」

「それは、貴女の持論かしら?」

 

 幽香が小馬鹿にしたように訊いた。

 

「博麗の巫女として告げる、幻想郷の理よ」

 

 霊夢は迷い無く答えていた。

 

「そんなもん知ったこっちゃあない――と、言ったら?」

「あんたを退治する」

 

 幽香の殺気混じりの視線を静かに見返し、

 

「そして、あんたも退治して、この異変を解決する」

 

 萃香に視線を移して、断言した。

 萃香は楽しそうに笑った。

 更に次に視線を向けられたレミリアは、肩を竦めて気の抜けるような笑みを浮かべた。

 

「私は、もう一度退治されてるわ。二度は御免よ」

「じゃあ、さっさと下がってなさい」

「はいはい。ここは、アナタに預けるわ。霊夢」

 

 レミリアはあっさりと引き下がった。

 既に、戦いの緊張感が彼女からは抜け落ちている。

 残された、異変の首謀者である萃香は満足気に状況を見守り、一方の幽香は憮然とした表情のまま霊夢を睨み続けている。

 自らの放つ威圧が全く効果を発揮しないことを悟ると、幽香は霊夢から視線を外して、今度は先代の方を見た。

 

「あんたは、どうなの?」

 

 唐突に話を振られた先代が、幽香を見た。

 

「やる気なの?」

 

 ――最初の萃香の挑戦を受けるのか?

 

 そう尋ねているのだった。

 結局、萃香の思うように話が進んでしまうことは、もちろん幽香の本意ではない。

 霊夢に得体の知れない手強さを感じてはいるが、それらを意に介さず、全力で妨害してやることも考えている。

 しかし、あるいはこの質問に対する先代の返答によっては――。

 そこまで考えて、幽香は小さく舌打ちした。

 憎むべき相手である先代の答えを予想し、それに妥協してしまう自分に苛立ったのだった。

 

「……ああ」

 

 そして、先代は忌々しいことに予想通りの答えを返していた。

 

「先代博麗の巫女として、私は異変を解決する」

「ああ、そう。好きにしなさい」

 

 大きくため息を吐くと共に、幽香の体にあった強張りが抜けていった。

 諦めたと言ってもよかった。

 こうなってしまっては、もう先代が戦うことを止められないと分かっているのだ。

 

 ――私とはとことん渋るクセに、どうして他の奴らとは簡単に戦うのよ。

 

 先代の好みの話ではないと分かってはいるが、幽香は内心で悪態を吐かずにはいられなかった。

 

「負けたら殺すわよ」

 

 幽香は苦し紛れにそう言って、萃香から離れた。

 

 

 

 

 薄々と予感はしてたんだが――いつの間にか、ボロボロの状態で伊吹萃香とガチンコすることになったでござるの巻。

 これ、デジャビュじゃね?

 地底でも似たようなことあったんじゃね?

 なんつーか、あれね。鬼って、私にとって文字通りの鬼門ね。

 

「お師匠!」

「師匠、本当にやる気なの?」

 

 おおっ! 二人とも無事だったか!

 私が幽香の問いに答え、萃香との戦いが決まった頃合を見計らったかのように、チルノと妹紅が近づいてきた。

 いやぁ、今回は異変の規模も被害も凄いことになってそうだから、気がかりも多かったんだ。

 その内の一つである知り合いの安否が、これでハッキリした。

 見れば、二人以外にもてゐと慧音、そして何故か美鈴と橙が傍にいる。

 ……妹紅達四人の組み合わせはともかく、そこに美鈴が加わるって珍しいな。橙に至っては、私だって現役時代にちょこっと顔見せした程度の関係だぞ。

 まあ、友好関係が広がっているという点からすれば、良いことなんじゃないだろうか。

 改めて周囲を見回してみれば、彼女達以外にも紫や椛など、知り合いの無事な姿がチラホラ見える。

 さとりの姿が見えないことがちょっと気になるが、別にここに居なくても問題は無いか。

 むしろ、ここはこれから戦闘が始まるわけだから、安全な場所とは言えない。

 さとりのことだから、厄介事に巻き込まれる前に上手く地底へ帰ったのかもしれない。

 博麗神社にいたはずの魔理沙が、レミリア達と一緒にいないのもちょっと気になる。

 でも、彼女の場合は他の鬼を退治に行っていても不思議ではない。

 アリスもいないし、案外コンビで頑張っているのかもしれない。

 とにかく、今は私自身が直面している問題が第一である。

 さて――いよいよ、この異変のラスボス戦か。

 

「師父。体の調子は、どうですか?」

 

 美鈴が真剣な表情で訊いてきた。

 共に鬼と戦い抜いた彼女は、その後私がどんな状態になったか知っている。

 もしも、あの時の消耗したままの状態だったら、萃香相手に万が一にも勝ち目は無い。

 さすがにそんな無謀な行為は許さないつもりだろうし、私だってやるつもりはない。

 美鈴は有無を言わせぬ真っ直ぐな視線で私を見ていた。

 

「大丈夫だ。体力は回復している」

 

 細かい経緯を省いて、私は単刀直入に事実だけを答えた。

 未だに文に支えられたままだから、説得力はあまり無いかもしれんけど。

 

「霊夢一人に任せるワケにはいきませんか?」

「霊夢の実力を疑っているわけじゃない」

 

 今度は慧音の問い掛けに答える。

 

「だが、萃香が望んだことだ」

「あの吸血鬼のお嬢様の言葉じゃないけどさ、付き合う道理は無いよ。無視すればいいじゃん」

「そうだよ! あたいが代わりにやっつけるよ!」

「チルノ、お願いだから黙ってて!」

 

 てゐの言葉に、私はもっともだと頷いて返す。

 あと、チルノってばマジ天使。

 地底での戦いでもそうだけど、その思いやりだけで私は冗談抜きに戦う力が蘇ってくるのだよ。

 ……それにしても、橙といつの間に仲良くなったの。

 まるでツーカーの仲やね。

 

「博麗の巫女としての責務を、まだ感じている」

「でも、あんたはもう引退した身だ」

「それだけじゃない。萃香が異変を起こしてまで望んだことに、出来るだけ応えたい」

「相手は初対面で、異変を起こした敵で、恐ろしい鬼だってのにかい?」

 

 てゐは、何処までも道理を語っていた。

 確かに、その通りだ。

 私は、今回の異変で初めて伊吹萃香という鬼と出会った。

 周囲はそう捉えているし、実は私に『ゲームの知識として萃香を知っている』という前提があるとしても、それと実際に出会うことはまた違う。

 伊吹萃香というキャラクターに関する情報を持っていることが、目の前の伊吹萃香という鬼を理解していることに繋がらないことは、長年この世界で生きてきた私がよく分かっているのだ。

 彼女が、何を思って今回の異変を起こしたのか。

 彼女が、何を思って最後の戦いに私と霊夢を指名したのか。

 分からない。

 分かるわけがない。

 そんな分からない相手の気持ちに応えたいなんて、あまりに曖昧な理由かもしれない。

 今の私の気持ちは、幻想の中の萃香に抱くものじゃないかと疑っている部分もある。

 もし、私が何の予備知識も無くこの状況に置かれたら、わざわざ萃香と戦おうなんて思わないんじゃないかと考えてもいる。

 

 ――だけど、それでも。好きなんだから、しょうがないじゃないか。

 ――この幻想郷で生きる人や妖怪が、好きなんだから仕方ないじゃないか。

 

 きっと、幻想郷の誰にも私の今の気持ちは分からない。

 さとりだって、ハッキリと察してはくれないだろう。

 この世界に転生し、物心ついた時から私の中には前世の知識があって、そこから来る先入観があった。

 初めて出会う人や妖怪に、最初から魅力や好意を感じていた。

 実際に付き合うことで、それらの感覚は修正され、それで深まることはあっても、消えることだけはなかった。

 そこから、今の私の友好関係が出来上がったのだ。

 今更『もし、その先入観が無かったら初対面の相手にここまで友好的になれなかったんじゃないか』って考えても仕方の無いことだ。

 これまで会った者達、そしてこれから会う者達に、私はゲームの中で見た姿を投影して接していくだろう。

 記憶でも消さない限り、それを変えることは出来ない。

 そんなことまでする必要は無い、と。私も思う。

 考え始めると、ややこしくて堪らない。

 だから、私はいつだってシンプルに結論を締める。

 

「だけど、彼女も同じ幻想郷に住む者だ」

 

 萃香と霊夢が待っている。

 体を支えてくれていた文の手から離れて、私は自分の足で歩き出した。

 

「ならば、私は全てを受け入れる。この幻想郷と同じように――」

 

 紫の言っていた幻想郷を表す言葉に倣って、私は背後のてゐと、他の皆に告げた。

 全てを受け入れるなんて、カッコつけてみたけど、楽じゃないね。

 その結果待っているのは、生涯二度目の鬼との戦いってわけだ。

 紫の言うとおり――それはそれは残酷なことだな、まったく。

 

 ……あ、ちなみに私だって人の子なので、憎まれたり嫌われたりするのが平気ってわけじゃないからね。

 だから、幽香との殺し合いは全力で逃げるよ。信念を持って逃げ切るよ。

 もうちょっとデレてくれたら、考えないでもないけどね!

 

 

 

 

『ならば、私は全てを受け入れる。この幻想郷と同じように――』

 

 そう言って、先代の体が手から離れていった。

 ゆっくりと遠ざかっていく先代の背中を、文は呆然と見ていた。

 彼女の告白が、衝撃的だった。

 あの言葉が彼女の本心なのだと、理屈抜きで分かる。

 何故か分かってしまうのだ。

 疑うことすらしなかった。

 そして、その一言が文に大きな衝撃を与えていた。

 先代の言葉は偉大だった。

 いや、もっと大雑把に『包み込むように大きな』言葉だと、文は感じていた。

 この幻想郷でひしめく、人間も妖怪も、強い奴も弱い奴も、友好的な奴も敵対している奴も、数多くいるというのに、それら全てをまとめて受け入れようとしているのだ。

 何が彼女の懐をそこまで大きくしているのか、文には分からない。

 何が彼女の器をここまで育てたのか、文は知らない。

 自分がこれまで、彼女に対して慇懃無礼な態度を取ってきたことは自覚している。

 お世辞にも、好意を抱かれるような接し方をしてはいない。

 それには奇妙なほど自信がある。

 それなのに、彼女は何故か自分に親身に接し続けていて、それが理解出来ず、いつも苛立ちとそれ以外の落ち着かない気分が抜けなかった。

 今も、そうだった。

 衝撃から我に返った文は、自分が今何を考えているかも分からないまま、無意識に手を伸ばしていた。

 萃香の元へ行こうとする先代の背中に向かって、引き止めようと手を――。

 

「やめなさい」

 

 その手を、横合いから掴んで止められた。

 いつの間にか傍までやって来ていた、八雲紫だった。

 

「気に入らなくても、駄目よ」

 

 文は、自分を止めた紫を見る眼が思わず睨む形になっていることに気付いた。

 

「彼女を行かせまい、という貴女の気持ちは親心なのかしら? 今更ね」

「はぁ? 何を、言って――」

「無自覚ですか。その中途半端さが、ずっと気に入りませんでしたわ。彼女は無意識の中でも、貴女の存在を感じ続けていたのに」

「……離してもらえますか」

 

 文には最初、紫が何を言っているのか理解出来なかった。

 ただ、奇妙な既視感を覚えていた。

 しかし、ハッキリとしない。

 ハッキリとしない分、紫に対する苛立ちだけは明確に感じる。

 文は掴まれた腕に力を込めたが、紫は手を離さなかった。

 

「何なんですか!?」

「子はいずれ、親から離れていくものですわ」

 

 紫は冷ややかに告げた。

 眼を見開き、改めて紫の顔を見つめる。

 その一言を切欠に、文は全てを理解した。

 覚えのある感覚の正体も分かった。

 紫の言っていることは、常日頃からはたてが自分に言っていることと同じ意味なのだ。

 彼女は、はたてのそれを何倍も悪意を込めて文に言っているのである。

 その悪意を表に映す代わりに、抱いている感情を徹底して排した氷の瞳が、文を刺すように見返していた。

 

「……あの時」

 

 文の脳裏には、数十年前の光景が鮮明に蘇っていた。

 あの突然訪れた別れの光景を。

 

「『あの子』を博麗の巫女として迎えに来た、あの時――貴女は、全て知っていたんですね」

 

 紫は『何を?』と尋ね返さず、肯定もせず、反応すら見せなかった。

 ただ冷たく視線を向けるだけだった。

 文はそれだけで察した。

 こいつは、分かっていたのだ。

 あの時、全て分かっていて、私の目の前から『あの子』を攫っていったのだ――!

 

「お前――」

 

 文の視線と声に、無意識に殺気が滲んでいた。

 もしも紫と二人だけの状況だったならば、そのまま本当に殺しに掛かっていたかもしれない。

 しかし、文の内側で滾り始めた殺意は、周囲のどよめきに気付いた瞬間急速に消えていった。

 慌てて、視線を戻す。

 霊夢と並ぶような位置に辿り着き、萃香と相対する先代の姿が見えた。

 手を伸ばそうとしていた先代の背中は、もう届かない所まで遠ざかってしまっていた。

 

 ――ああ、なんて。

 

 先代博麗の巫女として、彼女が多くの事件を解決してきたことを新聞の記事にしてきた。

 当時の出来事を、全部知っている。

 だけど、思い返してみればただ一つ、至らない所があった。

 自分は、彼女が実際にどんな風に戦い、妖怪を退治して、人を救っていったのか――その姿を直接見たことがないのだ。

 

 ――あの小さな子供が、なんて偉大になったのだろう。

 ――いつの間に、あんな大きな背中になったのだろう。

 

 かつて、妖怪の山で見つけた奇妙な子供は、今や伝説の鬼と対峙するほどになったのだ。

 伝聞で知った勇儀の時とは違う。

 目の前の光景として、その後ろ姿を眼に焼き付けた文は、言葉を失っていた。

 

「貴女のことは嫌いだけれど、一つだけ感謝いたしますわ。射命丸文」

 

 力の抜けた文の手を離して、紫は呟いた。

 

「始まりがどんなものだったのか、そこに愛情があったのかは知りません。でも、貴女は確かに彼女を育てた」

 

 気が抜けたように佇む文と肩を並べながら、紫は今回の異変における最後の戦いを見据えていた。

 

「そして、その彼女もまた親となり、霊夢を育てた。巫女としての役割は終わり、親としての役割もあと少しを残すのみ――」

「――」

「今夜、そこにまた一つの区切りがつきますわ。最後まで見届けなさい」

 

 紫の言葉に応えず、文はただ目の前の光景を見続けていた。

 

 

 

 

 人里を騒がせた悪しき鬼が、二人の巫女と対峙している。

 御伽噺の一幕にもありそうな光景である。

 自然と隣り合う位置に立った霊夢は、傍らの母――今は先達である博麗の巫女として――に、視線を送った。

 

「先代」

「ああ、気をつけろ。萃香の力が増してきている」

 

 霊夢は勘で。そして、先代はより明確な気配を察知する能力にって、目の前の萃香に起こっている変化を感じ取っていた。

 萃香が幾つもの分身を作って、幻想郷の各所で行動していたことは知っている。

 それらの分身の内の幾つかは直面した戦いの終了と共に場を去り、手傷を負い、あるいは完膚なきまでに抹殺された。

 目の前の萃香は、それらの分身の本体であると同時に、文字通り自らの身を複数に分けることで弱体化した状態だったのだ。

 その半減した力が今、徐々に戻ってきている。

 

「言ったろう、もう『集まってきている』のさ」

 

 不敵に告げた萃香の言葉に応えるように、一際大きな力の波が押し寄せてきた。

 眼に見えないそれは突風となり、唸りを上げながら萃香の周囲で渦を巻きながら一点に集中していく。

 周囲の傍観者達の中から、幾つかの悲鳴が上がった。

 いずれも人里の住人が上げたものである。

 鬼が放つ本来の力――それは人を恐怖させるには十分な迫力を持っていた。

 しかし、霊夢と先代は荒れ狂う鬼の力を前にしても、揃って眉一つ動かさない。

 集まった力が萃香の肉体に吸収されていく様を、心乱されることなく、静かに見据えていた。

 やがて、力の収束が止まった。

 分身に分けていた力が、完全に萃香一人の元に戻ってきたのだ。

 荒れ狂う力の風が止んだ後に残された萃香の姿を認めて、霊夢は思わず呟いていた。

 

「……あんた、それ何の真似?」

 

 訝しげな視線を、変化した萃香の姿に向ける。

 力を取り戻した萃香の外見には変化があった。

 先程と比べ物にならない程、鬼の力が漲っていることは感覚で分かる。

 しかし、同時にその姿は傷だらけの汚れたものへと成り果てていたのだ。

 萃香は、鼻から血を流しながら、痣だらけの顔でにっこりと笑った。

 

「この鼻血は、そこの天狗にやられた時のもの。いやぁ、いい蹴りだった」

 

 萃香ははたてを指して言った。

 

「顔の痣は、そこの吸血鬼にしこたまぶん殴られた時のもん。いつか続きをやりたいね」

 

 今度はフランドールを指して言う。

 

「手足の切り傷はそこのメイド。いや、人間のクセにやるもんだ。そっちの魔法使いには全身を焼かれてさ、しかも花畑でそっちの妖怪に分身を消し炭にされたことと重なって結構痛いんだ。それから――」

 

 咲夜、パチュリー、幽香――と、それぞれを指しながら、萃香は楽しそうに説明していった。

 それを聞いて、全ての者が察した。

 彼女は分けていた力を取り戻し、それと同時に分身が受けたダメージもまた同じように一つの肉体へ纏めてしまったのだ。

 それがわざと行ったことなのか、それともそういった能力の性質や限界なのか――そこまでは分からなかった。

 しかし、少なくとも萃香は自らが既に負っている傷に対して、何ら問題を感じていない様子だった。

 むしろ、説明をする声には誇らしげな色すら混じっている。

 博麗の巫女二人を相手にして、余裕のつもりなのか。

 それとも――。

 

「これも、言っただろう。『わたしの分身を、吸血鬼のチンケな使い魔と一緒にするな』ってね」

 

 多くの者が訝しげな表情を浮かべる中、萃香はレミリアを見て、言った。

 

「百の鬼が幻想郷を襲い、そいつらにはそれぞれ好き勝手な目的があった。我が分け身は、その全てに同行した。奴らと共にこの地を襲い、この地の全てに喧嘩を売った! もう一度言うぞ! この伊吹萃香は、此度の異変の正真正銘元凶よ!!」

 

 萃香は、博麗神社で口にした言葉を、そっくりそのままこの場でも朗々と言い放った。

 人里の隅にまで届くほどの声だった。

 その声そのものに力が宿り、周囲を揺るがして、漆黒の夜空に雷鳴の如く轟く。

 例え妖怪であっても圧倒されるような迫力だった。

 少女のように小柄な体格で、そこに無数の傷をつけた痛々しい姿でありながら、まるで巨大な岩石が意思を持って動いているような威容を放っている。

 

「あんたは、結局何がしたいの?」

 

 何も語らない隣の先代に代わるように、霊夢は短く尋ねた。

 

「その仲間の鬼も、もうほとんどが退治された。異変は終わりつつある。最後にあんたが望む博麗の巫女に二人掛かりで退治されて、それでめでたしめでたしで終わらせようってわけ?」

「いいね、それ。分かりやすい疑問だ」

 

 萃香を含む多くの鬼が少なからず決意を持って起こした此度の異変に対して、霊夢の反応はあまりに淡泊に見える。

 しかし、萃香はむしろそんな霊夢の揺るぎ無い態度を楽しむように笑っていた。

 

「だけど、わたしの答えはそんな分かりやすいものじゃない」

 

 そう呟いた時、萃香が常に浮かべていた笑みが消えた。

 

「わたしにも、ハッキリと分からないんだ」

 

 自らの内側から答えを探るように、萃香は言い淀んでいた。

 それは、笑みの中に隠されていて、今ようやく垣間見えた萃香の本心だった。

 

「分からないから、多分ここに立っている」

「そんなに曖昧な状態なら、やめればいいじゃない」

「曖昧ってほどじゃない。答えはもう出ていて、ただそれが二つあるんだ。そのどちらにも納得がいかないだけなんだ」

「それって答えと言えるかしら」

「わたしは、上手く説明できない」

「それじゃあ、あたしも上手く理解出来ないわ」

「うん、そうなんだ。わたしにも、理解出来ないんだ」

 

 困ったように笑う萃香に対して、霊夢は呆れたようにため息を吐いた。

 

「多分、言葉だけじゃ――理屈だけじゃ、どうにも呑み込めないんだと思う」

 

 上手い言葉を手探りで見つけようとするかのように、喋り続ける萃香の体に変化が訪れた。

 萃香の全身から、霧のようなものが立ち昇り始めている。

 

「霊夢。お前さんの言ったことは、答えの一つだよ。

 わたしは、人間に退治されに、地上へやって来たのかもしれない。もう、鬼の生きる時代が終わったんだって、頭では分かっちゃいるんだ。最期に盛大な祭りをやりに来たって――そう、思っていた」

 

 その霧は、周囲に散ることなく、一旦萃香の体を離れた後でそのすぐ隣に集まっていった。

 霧が集まって塊となり、それがまた形を整えて人型へと変わっていく。

 

「だけどね、頭の中の別のところで同じくらい強く思うことがあるんだ。

 冗談じゃない、ってよ。ふざけんなよ、ってよう。誇り高き鬼の末路が、人間如きに忘れ去られて惨めに潰えていくしかないなんて――てめえ、鬼を舐めてんじゃねえぞ。くそったれ! ――ってよう、叫ぶのさ。わたしの中の鬼がよう」

 

 もはや、それは霧ではなかった。

 形を取り、色を得て、力の宿ったそれは、もう一人の伊吹萃香の姿だった。

 萃香は、自らの肉体と力を二つに分けたのだ。

 同じような体格で、同じような傷を負い、そして同じだけの強大な力を宿した二人の萃香である。

 元の力を半分に割ったとはいえ、元より圧倒的なその力が二つ並ぶ様は、全く衰えない迫力を放っていた。

 二人の萃香の唯一の違いは、本来は両手にそれぞれ付けていた飾りの内、片方が右手に赤色の三角錐の分銅を付け、もう片方は左手に黄色の球体の分銅を付けていることだけである。

 

「博麗の巫女――勇儀を倒した偉大な人間と、その役割を引き継いだ娘になら、退治されてもいいって思った。

 だけど同じくらい、地上の守護者であるお前達二人を返り討ちにして、引き裂いて、食らって、そして人間どもにもう一度鬼の恐怖を思い出させてやるって望んでいるんだ」

 

 二人に分かれた萃香の内、もはやどちらが話しているのか分からない。

 同じように口が動き、声も一つに聞こえる。

 しかし、少なくとも語られる意思は間違いなく一つである。

 誰もが、萃香の言葉に聞き入っていた。

 

「どっちがわたしの本心なのか、わたしにも分からない。きっと、頭の中で考えてたんじゃ永遠に答えの出ないことだと悟った」

「今なら、それが出るっていうの?」

「ああ、出るさ。これまでとは違う。きっと、この勝負の結果が答えだ」

「どうしてそう思うのよ?」

「これまで過ごした時間が、薄っぺらで、ただ長いだけだったからさ。ぬるま湯以下の時間だ。

 地底に潜ったわたし達鬼は、生きていなかった。屍同然だった。酒飲んで、遊んで暮らして、少しずつ腐っていくだけの動く死体だったんだ。

 ――だけど、今は違う!

 お前達二人との戦いは、きっとギリギリの勝負だ。鬼の全力を出して、わたしの中にある全部をひっくり返しても、勝てるかどうか分からない勝負だ!

 それは、きっとこれまで過ごした時間を縮めても足りないくらい、濃い時間だ。何百年間もうじうじ悩んでも出せなかった答えを、その濃密な数分間が出してくれる! お前達との戦いの一瞬に比べたら、地底で燻っていた時間なんて糞みたいなもんだ!!」

 

 喚くように続けた言葉の最後は、もはや絶叫になっていた。

 感情を剥き出しにした二人の萃香が、それぞれ霊夢と先代を燃え滾るような眼で睨んでいる。

 瞳に宿っているのは、憎悪や殺意といった濁った感情ではない。

 しかし、これから始まる戦いがどんな形式のものであれ、命を賭けたものになることを予感するような、強烈な意志の宿った瞳だった。

 

「さあ、最後の勝負だ! 博麗の巫女っ!」

 

 戦いの始まりを意味する宣戦布告が上がった。

 二人の萃香の内、黄色い球体の飾りを付けた方の萃香が、夜空へと舞い上がる。

 それを追うように、霊夢が陰陽玉を携えて飛び上がった。

 

「わたしを見事退治してみせろ!」

「言われるまでもないわ」

 

 地上に残った赤い三角錐の飾りを付けた萃香が、先代に対して構えを取る。

 

「てめぇをぶっ殺して、娘と一緒に骨まで食らってやる!」

「その言葉、宣戦布告と判断する! 当方に迎撃の用意あり!」

 

 先代もまた、裂帛の気合いと共に拳を構える。

 空と地。戦場を二つに移し、鬼と博麗の巫女の最後の決戦が始まった。

 

 

 

 

 

 

「霊夢と先代を相手に、半分の力で挑もうとは随分と余裕なことね」

 

 上空の弾幕ごっこを眺めながら、レミリアは不愉快そうに呟いた。

 二人の巫女の実力は、いずれも十分過ぎるほど知っている。

 この眼に焼き付け、またはこの身に刻んだものだ。

 確かに、鬼とは強力な妖怪である。

 その首魁である伊吹萃香がまた別格であることは分かっている。

 しかし、それでもレミリアは不満だった。

 

「奴と同格の鬼である星熊勇儀は、先代との一対一の戦いで敗れたと聞く。今の奴が、霊夢にも先代にも勝てるとは到底思えないわ」

「それはどうかしらね?」

 

 レミリアの呟きに応えたのは、パチュリーだった。

 妹紅達に同行している美鈴以外の紅魔館のメンバーが、周囲には揃っている。

 フランドールと小悪魔以外の者が、上空の弾幕ごっこを見上げていた。

 

「あの鬼は、どうやら単純にパワーを二つに分けた訳じゃなさそうだわ」

 

 パチュリーの視線は何気なく上に向けられているが、その視界ではレミリアとはまた違ったものが分析されているらしい。

 訝しげなレミリアの視線に代わって、傍らの咲夜が尋ねた。

 

「どういうことでしょう?」

「測ってみたけれど、単純な妖力の容量は、空で戦っている伊吹萃香の方が圧倒的に多いわ。というよりも、大部分はこっちが持っていったみたいね。

 地上の伊吹萃香の方には、ほとんど妖力が残されていない。おそらく、彼女は空を飛ばないのではなく、飛べない状態になっているのよ」

「それじゃあ、下の奴の方がかなり弱体化してるってことじゃないの」

 

 レミリアは、思わず地上の萃香を見つめた。

 パチュリーほど力の分析が出来るわけではない。

 しかし、納得がいかなかった。

 少なくともレミリアが強者としての感性で感じる彼女の力は、凄まじい圧迫感となって肌に伝わるのだ。

 

「あの伊吹萃香が、そこまで弱くなっているとは思えないわ」

 

 レミリアは正直な感想を言った。

 

「おそらく、その感覚は正しいわ。私が分析したのは、妖力の度合いに過ぎない」

「じゃあ、下の奴にはどんな力が残っているっていうのよ?」

「鬼というのは、頑強な肉体と剛力を持つ妖怪よ。そういった鬼の特性もまた、強さの一部ではないかしら?」

「……つまり、先代が相手にしている地上の奴は、そういった鬼としての純粋な力のみを残した状態だということ?」

「そう。そして、おそらく弾幕に繋がる術や能力を行使する為の力を割いたものが、上空で戦う伊吹萃香よ」

 

 パチュリーの考察に答えを示すように、上空で一際巨大な閃光が瞬いた。

 それはまるで光の爆発だった。

 伊吹萃香を中心に、膨大な量の弾幕が溢れ出している。

 それは彼女の持つ『密と疎を操る程度の能力』の内、拡散を意味する『疎』の力を発現したかのような弾幕だった。

 

「――なるほど。それぞれの分野で全力を発揮出来る状態ということね」

「それに、先代様はどうやら既に消耗しておられるようです」

 

 レミリアの言葉に、咲夜が補足を入れた。

 弾幕の光に照らされ、先代の全身に刻まれた真新しい負傷の跡と、動きの違和感に、ようやく気付いた。

 

「確かに、これは『勝負』ね。先代でも確実に勝てるとは限らない」

「それも覚悟の上でしょう。彼女も、あの鬼の力は見抜いているはずだわ」

「既に決死の覚悟か――」

 

 その不穏な姉の呟きに、フランドールは肩を震わせた。

 

「小母様……」

「いやぁ、手に汗握りますねぇ。こんな見世物、なかなかお目にかかれませんよ。飲み物買ってきましょうか?」

 

 同じように先代を見守りながら、フランドールと小悪魔は全く正反対の様子だった。

 レミリアは、とりあえず楽しそうな小悪魔を無視して、フランドールを見つめた。

 

「フラン。気になるのは分かるけれど、アナタは上の戦いを見るべきだわ」

「で、でも――!」

「これからのアナタに必要なのは、霊夢のような力の使い方よ」

 

 レミリアはあえて厳しく、有無を言わせぬ口調で告げた。

 その言葉に、フランドール自身も思うところがあったのか、僅かに躊躇した後、真剣な顔付きで上空の戦いに視線を向けた。

 

「大丈夫。先代は勝つわ」

 

 レミリアは断言した。

 無責任なフォローだとは思っていない。

 彼女の本心だった。

 それが分かるからこそ、フランドールも一度だけ大きく頷いて、意識を上に集中させたのだった。

 

「レミリア様、ネタバレはいけませんよ」

 

 ――ひょっとしたら先代様が負けちゃって、死んじゃうバッドエンドかもしれないじゃないですか。もし、そうなったらどうやって魂をこっそり回収しましょうかね?

 

 小悪魔は自分が無視されていると分かっていたが、さすがに言葉の後半は口にしなかった。

 とりあえず、自分好みの凄惨な展開になるだろう地上の戦いを楽しむことにした。

 

 

 

 

 ――この状況は、何処までが偶然で、何処までが意図されたものなのだろう?

 ――誰かが裏で操ったのか、あるいは誰一人として予想し得なかったものなのだろうか?

 

 目の前の光景は、少なくとも紫にとって完全に自身の手から離れた出来事だった。

 二つの戦場で、二つの戦いが始まっていた。

 夜空に舞い上がった萃香と霊夢が、その広大な戦場を埋め尽くすほどの弾幕ごっこを展開しようとしている。

 盛大な花火のような色とりどりの輝きが、地上の傍観者達の視線を釘付けにした。

 まるで、月がもう一つ生まれたかのように幻想的な光景だった。

 その光の下で、もう片方の萃香と先代が身構えている。

 激しくも美しい空の戦いが『動』ならば、地上のそれは『静』の戦いだった。

 お互いの間合いに入るか入らないかの微妙な均衡を保ったまま、二人は動かない。

 まるで、そこだけ周囲から切取られてしまったかのような別世界だった。

 鬼と博麗の巫女のやりとりを見ていた周囲の者達は、人も妖怪も含めて、そのほとんどが上空の戦いに注意を引かれている。

 つい先程まで鬼に囚われていた子供達まで、恐るべき敵と対峙して神々しい光を放つ霊夢の勇姿に眼を奪われている。

 その幼い瞳には、強い憧れが宿っていた。

 彼の子らは、これから博麗の巫女に尊崇の念を絶えず抱きながら、大人になっていくだろう。

 先代の戦いを見る者は、ごく僅かだった。

 一部の関係者達と、彼女と同じ時代に生きた人里の老いた住人達だけが、祈るように見守っている。

 紫は、その結果に満足していた。

 もしや、この結果まで見越して萃香が二つの戦いを始めたのか、と。信じ難い気持ちさえ抱いていた。

 

 ――これから始まる新しい時代。幻想郷の理となるのは、霊夢のような戦い方である。

 ――先代の古い戦い方は、ただ伝説として残り、後に受け継がれるべきではない。

 

 紫は予ねてよりそう考え、その為に先代にあの陰陽玉を渡したのだ。

 萃香が先代との戦いを望んだ時、その気持ちを酌みたいと思いながら、同時に危惧もしていた。

 先代が、その拳で萃香を退治してしまうような結末は困るのだ。

 しかも、人里を舞台にして、衆目に晒された中である。

 これでは結局、かつての時代と同じ理に戻ってしまう。

 博麗の巫女としての期待と責務を、先代である彼女に再び担わせてしまう。

 新たな時代を担う霊夢が、新しいやり方によって異変を解決する――それが紫の理想だった。

 しかし、そうする為に紫が姦計を巡らせる必要はなくなった。

 目の前の二つの戦いは、まるで新しい時代と古い時代の縮図である。

 霊夢の戦いはこれから幻想郷に広まって発展していくものであり、先代の戦いは逆に収束して終わっていくものだ。

 人里の住人達が、集まった多くの天狗や他の妖怪達が、上空で展開される最高レベルの弾幕ごっこを眼に焼き付けている。

 霊夢と萃香の戦いを見届けた者達は、かつての紅霧異変でも十分に浸透していなかったスペルカード・ルールを今度こそ完全に理解するだろう。

 

 ――この戦いは、幻想郷の運命が導き出したものだとでも言うのか。

 

 紫は、そんな自分らしからぬ考えに苦笑した。

 今宵起こった大異変。

 その終着がこんな形になるなど、予想もしていなかった。

 萃香がそこまで考えて動いていたとは思えない。

 しかし、完全に否定も出来ない。

 鬼は偉大な種族だ。

 あるいは、彼女の本能がこのスキマ妖怪の小賢しい思惑をあっさりと超越した結果なのかもしれない。

 それとも、全く違う別の誰かが謀った結果なのか。

 さとりか。

 それとも、先代か――。

 どうなのだろう。

 もう自分が推察出来る域を越えている。

 いや、自分はもうそういった思考が無粋だとさえ考えているのだ。

 いずれにせよ、これが最後の戦いである。

 今回の異変解決の為の。

 そして――。

 

 ――幻想郷は変わった。一つの時代が終わり、私達の戦争は終わった。

 ――世の中には語り伝えられないものがある。

 ――伝えてはいけないことがある。

 ――紡いではいけない命がある。

 

「先代。貴女の戦いは、かつて貴女自身が言ったとおりだったわね」

 

 誰もが眼を奪われる光に満ちた幻想の戦いの陰で、静かに行われる先代巫女の戦いを、紫は最後まで見届けようと決意した。

 

 

 

 

 全ては私のシナリオ通り。残るは異変の幕引きだ……。

 

 ――じゃないっ!!

 

『シナリオ通り』とか全くの嘘である。

 そもそもシナリオの一行目すら書いてないっちゅーねん。

 ここに至るまで、私ってば完全に行き当たりばったりです。いつものことだけどね!

 しかし、思わずそんなハッタリをかましてしまうくらい、今の状況は私にとって都合が良かった。

 もちろん、鬼と死闘を繰り広げる寸前の状況が都合がいいというわけではないが、少なくとも今の私には『萃香に如何にして勝つか』ということ以外頭を悩ませることがない。

 少し前まで、私には大きな懸念があった。

 それは、共同戦線とはいえ、またしても霊夢のお株を奪う形で異変解決に介入してしまったという点だ。

 萃香のリクエストがあって、ついそれに乗ってしまったが、戦いの場に立った瞬間に間違いだと気付いた。

 先代巫女である私が、霊夢の功績を奪ってどうすんだって話なのだ。

 最初、何の為に人目を忍んで鬼どもと死闘を繰り広げたのか、すっかり失念していた。

 折角の紫の配慮が、これでは完全に無駄になってしまうのだ。

 おまけに、事前に文からも霊夢について忠告をもらっておきながら、この様である。

 

 ――もしや私のやってること、霊夢にとって完全にお邪魔虫?

 

 そんな不安が脳裏を過ぎった矢先のことだった。

 萃香が二人に分裂し、自然と空を飛んだ方と霊夢が、地上に残った方と私が戦うことになった。

 上空で、これまで見たこともないような規模の弾幕ごっこが始まった途端、周りのギャラリーの注意のほとんどが上に向いた。

 そこで、私は自らの幸運を自覚したのである。

 やった! 私の方の地味な戦いなんて誰も見てないっ!

 色鮮やかな弾幕を放つわけでもなく、縦横無尽に空を飛び回るわけでもない。

 まだ戦闘は始まっていないが、多分なんかねちっこい肉弾戦がメインになるのだろう。毎度の如く。

 そんな私の戦いは、まさに日陰の戦いの如く、霊夢の弾幕ごっこに隠れて注目などされないはずだ。

 私にとって理想的な展開だった。

 あとは、霊夢の派手な戦いが終わる前に、こっちの決着を静かにつけてしまえばいい。

 時間に余裕があったら、霊夢の素晴らしい晴れ姿を皆と一緒に観戦するのもいいかもしれない。

 私の中の懸念が解消された瞬間だった。

 まあ、例え相手が萃香でもうちの霊夢が勝つのはもはや確定ですし?

 私は、自分の戦いにだけ集中してればよくなったというわけだ。

 いや、しかし行き当たりばったりとはいえ、こんなに都合よく物事が運ぶなんて、マジで運がいいね。

 案外、紫あたりが人知れず姦計を巡らした結果なのかもしれない。

 紫のことだから、それこそ幽々子あたりと『これもシナリオ通りかしら?』『問題ないわ』とか冷笑を浮かべながら話しているのかもしれない。

 マジ、パネェな! 妖怪の賢者!

 

 ――予想外のことがあるとしたら、目の前の萃香についてだけだ。

 萃香が二人に分かれた時は『よっしゃ、パワー半減した! これなら勝ち目あるかも!?』と内心でガッツポーズを取ったもんだが――なんか、全然弱くなってなくね?

 最初の威圧感がほとんど衰えてないんですけど。

 相変わらず鬼の圧倒的なパワーを強大な『気』として、ビンビン感じている。

 いや、おかしいよ。

 天さんの『四身の拳』だって、戦闘力が四分の一になる仕様じゃん。技の法則守れよ!

 うーん、おっかしーなー……これ私、勝てんの?

 俄然、不安になってきた。

 体調も未だ完全に戻っていないし、これは結構ヤバいかも分からんね。

 まあ、周囲の視線が霊夢に集まっているこの状況は、やはりありがたい。

 

 ――人目が無いから、本当に万が一の時は、逃げるか降伏するっていう選択肢も取れるしね!

 

 ……いや、本当にね。ギリギリの状態になったらどうなるか分かんないよって意味で。

 萃香の気持ちを酌みたいという思いはあるが、さすがに負けたら潔く命も捨ててやろうなんて所までは行っていない。

 私だって命は惜しい。

 っていうか、勇儀の時もそうだったけど、基本的に生き残る為に命懸けで戦うわけだしね。

 地底の時のように、負けることが死に繋がるわけではない以上、寸前で降伏することも視野に入れていた。

 ああ、でも負けたら殺すって幽香言ってたし、チルノ達も見ているんだから、なるべくそういう姿は見せたくない。

 勝った者として、師としての責任もあるのだ。

 結局、勝てるとは限らないがなんとかして勝てって話になるのだった。

 最初に鬼の群れと戦った時に出てきた、何かよく分からん覚醒イベントっぽいものがまた起こらないかなぁ。

 なんかこう……ね。『どれ、お前に本当の力の使い方を教えてやろう』とか内なる声が響いて謎のパワーが発揮される展開を所望する。

 ないか?

 ないよね……。

 

 ええいっ、くそ! ここまで来て、今更ごちゃごちゃ考えてられるか!

 こちとら、いつだって行き当たりばったりの対処方法よ!

 とにかく、目の前の萃香に勝てば万事解決なのだ!

 かかって来い、萃香。

 我が身は既に――覚 悟 完 了 !




<元ネタ解説>

「我が身は既に覚悟完了」

アニメ版「覚悟のススメ」のOPテーマの一節。

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