東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その九。


其の三十四「勝負」

 例えば、目の前に鉄の塊が在るとする。

 

 ――斬れるか?

 

 私は自問する。

 次に萎縮する。

 全力で剣を振り下ろした結果、この手に伝わる感触が鋼鉄を切り裂く爽快な手応えではなく、ただの衝撃と振動、そして骨に響く鈍痛だけしか残らないことを不安に思う

 あまつさえ、その結果自分の握る剣が折れてしまうことを恐れる。

 この手にある剣は、自分の心に在る剣と繋がっていると、意味の無い発想を浮かべる。

 

 ――斬れるか?

 

 この自問に答えようとして、それがただ単に言い聞かせているのだと気付く。

 

 ――斬れるか?

 

 最初の疑問に戻る。

 疑問と迷いが腕を鈍らせ、結果斬ることが出来ない。

 それは本当に避けられない『結果』だっただろうか。

 最初の自問を考えすぎたことが、迷いに繋がり、この結果に繋がったのではないか。

 これこそが我が身の未熟である。

 この未熟を克服したなどと、吐くつもりはない。

 ただ、眼が覚める思いはした。

 疑問は不純物だ。

 迷いは不純物だ。

 不安は不純物だ。

 恐怖は不純物だ。

 何一つとして良い結果に繋がらない。

 全ての要素が自分の足を、手を引っ張り、この剣を振るう力を衰えさせる。

 ならば、全て捨て去ればいい。

 頭の中に残すことは一つだ。

 

 ――ただ、斬る。

 

 その剣閃の一瞬に全てを込める。

 答えの出ない自問を繰り返すよりも、斬って結果を見れば良い。

 斬れば、分かる。

 例えば、自分と相手との強弱。

 例えば、自分と相手との勝敗。

 例えば、自分と相手との生死。

 ただ、斬れば良い。

 これが剣術の真理などと嘯くつもりはない。

 この答えによって、かつての自分よりも大きく成長したなどと驕るつもりもない。

 しかし――。

 しかし、だ。

 これで、自分は形振り構わず全力を出せるようになった。

 初めての実戦で晒した無様な姿よりも、少しはまともなことが出来るようになった。

 だから、な?

 分かるだろう。

 分かるだろう、博麗霊夢。

 勝負だ。

 もう一度、勝負だ。

 あの時の私の実力が、本当の実力でなかったことを証明してやる。

 あの勝敗が、本当の結果でなかったことを教えてやる。

 その上で得た結果ならば、きっと受け入れられる。

 でも、あれは駄目だ。

 あの時の勝敗だけは、認められない。

 あれは自分の全力じゃない。

 お前が見たあれは、本当の魂魄妖夢の姿じゃない。

 だから早合点するな。

 私に、失望するなよ。

 待っていろ、博麗霊夢。

 未だにお前に勝てる気はしない。

 しかし、負けるつもりもない。

 私はお前を――。

 

 ――斬れるか?

 

 知らない。

 考えない。

 そんなことは、斬ってみれば分かる。

 さあ、勝負だ。

 待っていろ。

 私は待っている。

 虎視眈々と待っている。

 お前が、私を無視しようと、忘れようと。

 私は、お前から眼を離さない、記憶に刻み込んでいる。

 斬ってやる。

 お前を今度こそ、斬ってやる。

 だから。

 だから――今、目の前に居る、お前は邪魔だ。霧雨魔理沙!

 

 

 

 

「ぅわっち!」

 

 肩を掠めた熱い痛みに、魔理沙は思わず声を上げた。

 油断だった。

 妖夢の弾幕を避けきった――寸前で、そう考えてしまった慢心が、最後の一発を掠らせたのだ。

 掠ったとはいえ、痛みは痛みである。

 魔理沙は肩を抑えながら、苦笑いを浮かべた。

 

「どうした? まだスペルカードは一枚目だぞ」

「へへっ、こいつは『グレイズ』って奴だぜ。よゆーよゆー」

「『グレイズ』?」

「ギリギリで弾を避けられたらボーナスポイント、ってルールさ」

「そんなルールは聞いたことがないな」

「わたしが考えたんだ。きっと流行るぜ」

 

 魔理沙の軽口を、妖夢は馬鹿にしたような表情で聞き流していた。

 勝負が始まって、まだ間もない。

 しかし、勝敗は見え始めている。

 鬼との戦いで負った傷と、体力の消耗が、魔理沙の動きを鈍らせていた。

 小さなものとはいえ、体に走る痛みそのものと、そこから繋がる弾幕への恐怖が、集中力を乱す。

 平均的な人間の少女と同程度しかない体力の限界が、集中の持続力を削る。

 妖夢は冷静に魔理沙を観察し、判断していた。

 

「『グレイズ』だろうが何だろうが、当たればお前の負けだ」

「分かってるよ、基本のルールを曲げたりしないって。でもさ、それじゃあつまらないだろ?」

「余裕だな。それが負けた時の言い訳になるか」

「いいや、真剣そのものさ。真剣に楽しみたいんだよ、わたしは」

「楽しむ、だと」

「難しいよな」

 

 魔理沙は他人事のように苦笑した。

 

「でも、真剣勝負でお前に挑んでも、勝ち目無いからよ」

「弾幕であっても、お前に勝ち目は無い」

「そうかい? でも、お前のその仏頂面、とても楽しんでるようには見えないぜ」

「勝負を楽しむ必要はない。結果も変わらない」

「どうかな?」

「分かるさ」

 

 妖夢は二枚目のスペルカードを取り出すと、頭上に放り投げた。

 

「お前程度、斬らなくても分かる」

 

 眼にも止まらぬ速さで抜刀し、眼前まで落ちてきたスペルカードを切り裂く。

 二つに分かれたカードは空中で霧散し、その剣閃から弾幕が発生した。

 振り抜いた刀で、文字通り見えない堰を切ったかのように、無数の弾幕が魔理沙目掛けて溢れ出したのだ。

 

「剣を使った弾幕か、面白い!」

 

 弾幕とは、その人となりを表すものなのだろう。

 妖夢の弾幕は色とりどりの華やかさこそないものの、実直な鋭い輝きを持つ刃の嵐のようだった。

 不敵な笑みを浮かべ、軽口の一つも叩いてみるが、魔理沙の内心に余裕など無かった。

 視界を覆い尽くすような弾幕は、それ自体が巨大な剣の刀身のようにも見える。

 通り抜ける隙間など無いかのような密度だ。

 迫り来る弾幕を、主観でのみ捉えているから、余計にそう感じるのかもしれない。

 人間が持つ、空間認識能力の限界だ。

 

 ――吹雪の中で遭難するのと同じだ。まともにあんな弾幕の中に突っ込んだら、自分の飛んでる位置さえ見失うぜ。

 

 魔理沙は意識を集中した。

 両眼に力を込める。

 ただし、それは『眼を凝らして前を見よう』とするものではない。

 

 ――頭上にもう一つ眼がある感じで、全体を見下ろすんだ。

 

 それは永夜異変において、霊夢と弾幕ごっこをした際に、文字通り開眼した能力だった。

 アリスの協力を得て身に着けた、魔法使いとしての『魔力の流れを見る為の視界』である。

 厳密には、肉眼を用いた認識方法ではない。

 魔理沙自身も、理屈を通して視界を操作しているわけではない。

 大部分は感覚的なものである。

 しかし、これまでの経験の中で確かに学び、身に着けたことでもあった。

 

『見えるようになることが、まず前提。そこから先は探求と理解』

 

 アリスから受けた、魔法使いとしての教えは、そのままこの戦いにも応用出来る。

 目の前の途方もない弾幕を、ただ漠然と認識するだけではなく、把握し、理解するのだ。

 

『幻想郷に漂う要素を如何に上手く運用するか』

 

 かつて、パチュリーから与えられたこの教義は、つまり周囲の要素を如何に把握するかということである。

 忘れたことなどなかった。

 ただ、これまで助言を活かすことが出来なかっただけ。

 

『気配で分かる。眼に頼るな、気を探るんだ』

 

 神社で聞いた、先代の言葉である。

 あの人は何気ない説明のつもりだったのかもしれない。

 だけど、これも覚えている。

 いつだって、強くなる為のヒントを探しているのだ。

 例え特別な意図など無くても、霊夢を育てた母親の少ない口数から出た、自分に向けられた言葉を、聞き漏らすはずがない。

 初めて自分に期待してくれたのも、あの人だったのだから。

 

 ――そして、何よりも。この力を使った時に味わった敗北が、心と記憶にハッキリと刻まれて、色褪せない。

 

 霊夢に負けたことは、悔しかった。

 あの途方も無い強さに、心が折れそうになった。

 しかし、今はあの強さが救いだと感じている。

 あの強さに負けた経験が、眼前に迫る妖夢の強さの体現とも言える弾幕に屈しない根拠をくれる。

 

「どんなにヤバそうに見えてもなぁ――」

 

 魔理沙は意を決して、弾幕の渦中へと突っ込んだ。

 

「霊夢よりはマシだぜ!」

 

 既に、その瞳は前方を見ているだけではない。

 錯覚ではなく、魔理沙にはハッキリと、動く自身を含めた弾幕の動き全体が一つの視界として見えていた。

 集中力は、極限まで高まっている。

 疲労も、傷の痛みも、頭の中から飛び出している。

 残っている思考は、ただ一つ――この弾幕を、如何に避けるかということだけである。

 魔理沙は危ういところで体に弾を掠らせながら、それでも弾幕を回避していた。

 標的を押し潰すように展開する弾幕の隙間を、高速で擦り抜けていくその姿はまるで彗星である。

 それを見ていた妖夢の眼つきが、僅かに険しくなった。

 魔理沙に脅威を感じた、わけではない。

 脅威など、感じるはずがない。

 しかし、自身が今体験している勝負に、勝手の違いを感じているのは確かだ。

 これが、実戦ならば――そう考えてしまう。

 迫り来る弾幕をかわし、如何に素早く敵との間合いを詰めるかで、勝敗が変わってくる。

 それが、この勝負では違うのだ。

 魔理沙は一直線に敵を目指さず、弾幕の最中を縦横無尽に動き回りながら、回避し続けている。

 そういうルールだからだ。

 それが、弾幕ごっこだからだ。

 つまり、これは遊びだ。

 効率的な戦闘と、非情な決着を排した、遊びの戦いなのだ。

 

 ――なるほど、勝手が違うはずだ。

 ――あいつはこんな勝負に、真剣にならざるを得ないのだな。

 

 妖夢は納得して、改めて魔理沙を見据えた。

 やはり、脅威は感じない。

 斬るまでもなく、分かるのだ。

 彼女より、自分の方が強い、と。

 確かに、多少はやるようだが、それも問題ではない。

 二枚目のスペルカードに示された弾幕が、間も無く終了する。

 三枚目も、今の魔理沙ならば健闘出来るかもしれない。

 しかし、四枚目はどうか。

 あまつさえ、五枚目を突破出来ると思うのか。

 

「――貴様の言うとおりだな」

 

 妖夢は、先程の魔理沙の言葉を肯定した。

 

「貴様は、博麗霊夢ではない。ならば、私が負ける道理は無い!」

 

 更なる弾幕が、魔理沙に向けて放たれた。

 

 

 

 

 夜の静寂を無視するように、人里は喧騒で満ち溢れていた。

 そこら中で鬨の声が上がっている。

 事実、人里では鬼と天狗を交えた戦が起こっていた。

 それだけではない。

 その戦場の中に、錯綜する複数の想い、駆け抜ける人妖、幻想郷中から集う者達――。

 人里の空を飛ぶはたてには、それらの全てを見て取ることは出来ない。

 ただ、予感はしていた。

 

 ――何か、多くのものが人里の一点に集まっている。

 

 はたては、その収束点を探るべく、視線を走らせていた。

 

「はたてさんっ!」

 

 不意に名前を呼ばれ、はたては地上の一点を見つめた。

 見知った顔が、そこから自分を見上げている。

 思わず、緊張に張り詰めていた顔を綻ばせ、はたては人里の一角へと急降下した。

 降り立った先は、何度も通ったことのある人里の酒屋である。

 その店の前に立っていた男は、目の前に立ったはたてを、満面の笑みで迎えた。

 人間と妖怪である。

 しかし、その男からははたてへの警戒心など欠片も感じられない。

 

「無事だったみたいね、良かったわ」

「おかげさまです。まさか、天狗の方々に助けに来ていただけるとは思いませんでした」

 

 男は、天狗であるはたてと親しかった。

 子供の頃、妖怪に山へと攫われた際に起こった博麗の巫女と天狗との諍いの中で、はたてに助けられた恩が切欠で知り合った仲である。

 かつての恩義は、時を経て成長した今、純粋な好意となって彼の心に宿っていた。

 はたてと向かい合った男の顔が、心なし赤くなっていることが、彼の心境を表す全てである。

 

「遅くなったくらいだけどね。心配してたのよ」

 

 もちろん、はたて自身はそんな男の心に全く気付いていないのだった

 屈託無く笑うはたてを前にして、それでも男は釣られて笑った。

 襲撃の不安も忘れて、満たされた表情である。

 はたてとの関係が幼少の頃から大して進歩することなく、またこの歳で嫁も貰おうとしない。その原因は間違いなく男自身にもあるのだった。

 鈍い天狗の方だけを責めるわけにはいかない。

 

「思ったよりも、被害は少ないみたいね」

「自警団から通達があって、襲撃に関する情報はすぐに手に入りました。それに、具体的な対策も。慧音先生のおかげです」

「なるほど。本人も、鬼相手に大分暴れてるって報告があったわ」

「私達は大丈夫ですから、すぐに手助けを!」

「分かってる。もう、他の天狗の班が助けに行ってるはずだから」

「よかった――しかし、さすがははたてさんですね。一人で動いているんですか?」

「……うん」

 

 周囲に部下や仲間を率いていないはたての姿を、男は完全に好意的に解釈していた。

 ――本当は、連れていく部下や仲間がいなかっただけである。

 更に正確に言うならば、はたては部下に命令出来る性格ではないし、仲間と連れ立つ社交性も無いからである。

 文が先代と共に発ち、椛が大天狗に率いられて別行動となった後には、はたてが一人だけ取り残されていたのだった。

 自嘲に満ちた暗い笑みを、夜の暗がりで誤魔化して、はたては男の追及をかわす為に話題を変えた。

 

「そ、それよりも――店の前、どうしちゃったの?」

 

 はたては、男の経営する酒屋の入り口を指して尋ねた。

 鬼への対策として、入り口の前に豆や鰯の頭が置いてある家屋を幾つか見てきたが、この店の前に置いてあるのは酒だった。

 樽や瓶など、大量の酒を並べてある。

 

「ああ、これは鬼の注意を惹く餌みたいなものです。酒が好物らしいですから」

「なるほど。飲ませて、時間を稼ごうってことなのね」

「ええ。鬼ってのは、家をひっくり返せるくらい力の強い妖怪なんですよね。

 以前頂いた『文々。新聞』に載っていた地底の記事で、鬼の恐ろしさについて事細かに書かれてましたから。

 はたてさんから直接聞いた分もあって、私個人では話に聞いた対策だけでは不安でしたし、それに鬼を集めて時間を稼げれば、他への被害を少しでも抑えられるかもしれないって思って……」

 

 勇敢とも無謀とも取れる考えだった。

 はたてとの付き合いが長いせいで、妖怪というものに慣れてしまったせいかもしれない。

 少しばかり危ういと感じながら、とりあえず男の思惑が外れて、無事でいたことをはたては安堵した。

 もう、この酒が鬼を誘き寄せることはないだろう。

 人里への襲撃は、徐々に鎮圧されつつある。

 

「私はこれから、今回の異変の中心に向かおうと思うわ。騒ぎが収まるまで、もうしばらく我慢して」

 

 親しい人間の安否を確認し終えたはたては、再び仕事に戻ろうとした。

 それを、男が思わず呼び止めていた。

 

「待って下さい! やっぱり、今回のことは元凶の妖怪がいるんですか?」

「詳しくは分からないけど、人里の中心にある広場で博麗の巫女が戦ってるみたい」

「私も――いえ、私も含めた何人かで、そこへ向かいたいんです」

「何言ってるの、危ないわよ!?」

 

 さすがに、はたても顔色を変えた。

 

「実は、鬼に襲われて家を壊された者をうちで匿っているんですが、彼らが言うには『子供を攫われた』と――」

「……『攫われた』のね? 目の前で食われたとか、じゃないのね?」

「はい。話を聞く限り、無傷のはずです。闇雲に外に出るのは危険だと抑えましたが、もしアテがあるのなら」

「確かに、そこにいる可能性は高いけど……」

「お願いします!」

 

 男が頭を下げる姿を困ったように見つめていたはたては、しばらくして大きなため息を吐き出した。

 

「お願いしますも何も、私には許可を出す権限も止める義務も無いじゃない」

「じゃあ……」

「勝手に行けばいいでしょう――まあ、広場まで護衛くらいはするけど」

「はたてさん!」

「言っておくけど、あそこで何が起こっても責任持てないからね!?」

 

 敬愛に満ちた男の視線から逃れるように、はたては慌てて顔を背けた。

 偶然にも、顔を向けた先は人里の広場がある方向だった。

 その上空で、小さく光が瞬いているのが見える。

 夜空に映えるその光は、明らかに弾幕によって生じている閃光だった。

 あの空で、博麗の巫女が異変解決の為に戦っている。

 相手は、この異変の首謀者だろうか。

 そして、その下には他に何が待っているのだろうか。

 少なくとも、鬼が待っていることは間違いない。

 自分と共に行くことになった人間達も含めて、そこへ集い始めている多くのものを、はたては漠然と感じ取っていた。

 

 

 

 

 ――猛烈な弾雨の中に身を晒し、一体どれだけの時間が過ぎただろう。

 

 大分、時間が経ったような気がする。

 まだ一瞬のような気もする。

 魔理沙は疲労でドロドロになった思考の中で、自分の居る時間の流れを意識していた。

 しかし、それがすぐに無駄だと分かった。

 長い時間が経ったから、あるいは少しも時間が経っていないから、一体どうだというのか。

 妖夢の弾幕は、無関係に襲ってくる。

 それをかわした。

 かわし続けた。

 何枚のスペルカードが切られたか分からないが、どれも等しく難易度の高い弾幕ばかりだった。

 集中力を、一瞬でも途切れさせれば、その瞬間流れに飲み込まれてしまう。

 神経は張り詰めっぱなしだ。

 もう、辛いとすら感じない。

 感じる余裕も無い。

 ただ、勿体無いとは思う。

 意識を集中しすぎて、どの弾幕も同じように見えるのだ。

 全部、ただ『難しい』『キツい』とだけしか感じられない。

 勿体無い。

 きっと、何の関係も無い立場から眺めれば、弾幕の構成や外観に美しさや面白さを、じっくりと見つけられるだろうに。

 それを避けながら楽しめる余裕が、今の自分の力量では持てないのだ。

 あの老いた鬼の無責任な助言が、やけに重く圧し掛かった。

 楽しめ、か――。

 難しいぜ、これを楽しめなんて。

 だけど――ああ、確かに。これを楽しめないなんて、勿体無い話だな。

 弾幕ごっこは、楽しんでやるもんだ。

 もちろん、負ければ悔しい。

 敗北することが怖くて、勝負の最中に竦んでしまうこともある。

 だから、勝つことに強くこだわりもする。

 

 ――だけど、それだけが勝負の全てじゃない。

 

 今なら、そう断言出来る。

 もし、自分が負ければ、この言葉も説得力の無い敗者の言い訳として聞こえてしまうだろうか。

 しかし、少なくとも。

 

 ――わたしは、楽しめる。

 

 魔理沙は、妖夢との弾幕ごっこの最中で、霊夢と初めて弾幕ごっこをした時のことを思い出していた。

 勝負の最中で、現実逃避にも似た回想は集中を乱す致命的な隙となるはずだったが、魔理沙の頭の中でそれは矛盾無く成立していた。

 魔理沙が、弾幕で初めて霊夢と勝負をしたのは、実は紅霧異変の時である。

 永夜異変の時に行ったような、本格的な弾幕ごっこではない。

 まるでウォーミングアップのように、二人は出立する前の博麗神社で短い勝負をこなした。

 スペルカード・ルールが一般化する前の話である。

 ひょっとしたら、幻想郷で初めて弾幕ごっこをしたのは、あの時の自分達だったのかもしれない。

 結果は、当たり前のように魔理沙の敗北だった。

 まだ敗北の重みを感じられなかった時の話である。

 あの時は、まだ自分には『言い訳』があった。

 

 ――弾幕ごっこというものを体験する為の勝負だったから。

 ――異変に挑む前に全力を出すわけにはいかなかったから。

 ――弾幕の技術に、これから慣れて、磨いていくつもりだったから。

 

 幾つかの要素が、自身の敗北を納得させてくれた。

 事前に何の気負いも無い中、魔理沙は霊夢と弾幕を交わし、そして敗北した。

 胸の奥に湧いた僅かな苦い想いを、ただ単純な敗北の悔しさなのだと気にしなかった。

 勝者である霊夢に、何も含むことなく、再び笑い掛けることが出来た。

 さすがだな、霊夢。

 強かったぜ。

 今度は、負けないぜ。

 確か、そんな風なことを言ったような気がする。

 負けた恥ずかしさを誤魔化す意味も少なからずあったから、忘れたい内容だし、ハッキリと覚えてもいないが、その後の霊夢の返事を今思い出すことが出来た。

 

『結構、楽しかったわね』

 

 霊夢は、勝負の後でそう言ったのだ。

 何気ない口調だった。

 あの時は『勝った奴の余裕かよ』と、自分はぼやいていたのだと思う。

 でも、今なら分かる。

 霊夢。お前はあの時、初めて弾幕ごっこについて感想を言ったな。

 妖夢に圧勝した時も、お前は何も言わなかった。

 わたしが負けた二回目の時も、お前は何の感慨も残さなかったように見えた。

 何の気負いも無く戦ったあの時に、お前は初めて勝負について考えていたこと、思っていたこと、感じていたことを、ちょっとだけ洩らしたんだ。

 わたしは、それを聞いたんだな。

 なんて、貴重な言葉だったんだろう。

 あの時のわたしは、軽く相槌を返すだけだった。

 大して気にもしなかった。

 そのまま、異変の為の弾幕ごっこに行ってしまった。

 勿体無いことしたな。

 今更になって後悔する。

 なあ、霊夢。

 わたしは、ようやく自分が何をしたいのか分かってきたぜ。

 強くなって、勝負に勝ちたい――そこまでは同じ手段の範疇なんだ。

 目的は、その先にあったのさ。

 霊夢ともう一度勝負したいと思っていた。

 そして、勝ちたいとも、当然思っていた。

 負けたことが悔しかったし、もう二度と負けたくないって怯える気持ちもあった。

 だけど、霊夢。

 もしも、お前に勝てたとして、その先に何を求めているのかが、ずっと曖昧だったんだ。

 負けたお前を見下ろしたいわけじゃないし、そこで勝ち誇りたいわけでもない。

 お前を憎んでなんかいないし、嫌ってなんかいない。

 霊夢。

 お前が好きだ。

 分かっているぜ。

 お前も、わたしが好きなんだろう。

 自惚れじゃないぜ。

 好きだから、お前に勝ちたいんだ。

 お前と対等の存在でいたいって気持ちは、義務なんかじゃない。

 だから、お前に勝ちたいと思う一方で、わたしの上に居続ける強さを持っていて欲しいとも期待する。

 お前と勝負したい。

 もう一度だけ、なんて寂しいことは言わない。

 何度だってやり合いたいんだ。

 そして、いつか、何かの切欠でわたしが勝ててしまうような時が来たら、こう言いたいだけなんだ。

 

『霊夢、楽しかったぜ』

 

 それを聞いたお前が、ちょっと悔しそうな反応でも見せてくれたら、もう言うことはない。

 わたしはいい気になって、笑いながらお前の肩を叩く。

 二人で飯でも食いに行くか、お茶でも飲もう。

 それだけだ。

 それだけなんだ。

 それから、また勝負をしようぜ。

 勝つのは嬉しいし、負けるのは悔しい。

 だけど、お前との勝負は楽しいんだ。

 だから、何度でもお前と遊びたいんだ。

 

 ――ん。

 待たせたな、妖夢。

 ちょっと、頭の中を整理していたぜ。

 不思議だな。

 今は、もうお前の顔が普通に見れる。

 ついさっき、お前が爺さんを斬った時は、なんだかモヤモヤしていた。

 もっと嫌な眼つきでお前を見ていたと思う。

 お前に喧嘩を売った時も、ただ勝負に勝つことだけを考えていた。

 それはきっと、霊夢に勝負を挑む時とは違った理由からだ。

 多分、間違いなくお前を憎くて、勝負を挑んだんだろう。

 嫌いなお前を、負かしてやりたいという衝動だけで攻撃したんだろう。

 悪かった。

 お前がどういうつもりで勝負を受けたのかは知らないが、少なくともわたしにとってこの勝負の動機は不純なものだったよ。

 お前を負かしてやりたいとか、痛い目に遭わせてやりたいとか、そんなつもりで勝負しても意味なんて無いんだ。

 そういう意味を含んだ勝負をするなら、半端なルールで縛らずに、もっと剣呑な内容で勝負すればいい。

 その手に持った剣で、わたしを直接斬るような勝負だ。

 そんな勝負が不利だからって、挑発して、スペルカード・ルールの上で戦おうと思うなんて、わたしはセコイよな。

 真剣勝負で勝ち目が無いって、自分自身で最初に言ってたことだ。

 ルールという武器を使って、わたしはお前を負かしてやろうと考えてたんだぜ。

 駄目だよな。

 そこを曖昧にしたら、きっと本当の勝負なんてつかないぜ。

 わたしにも、お前にも、勝ち負けの言い訳が出来てしまう。

 悪かった。

 反省したよ。

 もう、余計なことは考えない。

 純粋に、お前との勝負を楽しむ。

 そうさ、楽しむのさ。

 わたしは、相手を殺すことには真剣になれなくても、楽しむことには誰にも負けないくらい真剣になれるぜ。

 そして、そうなったわたしは、相当強い――らしいぜ。

 受け売りだが、鬼の保証付きだ。

 ん?

 なんだ、弾幕はもう終わりか。

 いつの間にか、避け切っていたのか。

 ああ、畜生。

 どんな弾幕だったのか、ほとんど記憶に無いぜ。

 勿体無い。

 言葉で幾ら言っても、やっぱり楽しむ余裕を持つのは難しいぜ。

 わたしの実力じゃあ、もう精一杯だ。

 みっともないくらい必死だぜ。

 疲れ果てて、ヘトヘトさ。

 だけど、もう少し。

 まだ、もう少しやれる。

 楽しもうぜ、妖夢。

 霊夢とやり合った時のように。

 さあ、次はわたしのスペルカードだ――。

 

 

 

 

 妖夢は戦慄した。

 五枚目のスペルカードを、魔理沙にクリアされたのだ。

 予想していなかった事態だ。

 しかし、予感していなかったと言えば嘘になる。

 弾幕ごっこが始まり、時間が経つほどに、妖夢は少しずつ焦りを覚えていた。

 一番最初のスペルカードを宣言した時に感じていなかったものを、二枚目のスペルカードの時に感じていた。

 少しずつ、霧雨魔理沙という人間への認識について、修正すべき点が増えていった。

 こいつは、弱い。

 こいつは、甘い。

 こいつは、少しはマシに動けるようだ。

 こいつは、思ったよりもやるようだ。

 こいつは、少し見縊っていたようだ。

 こいつは、次の弾幕くらいならかわしてしまうかもしれない。

 こいつは、ひょっとしたら……。

 こいつは、まさか――。

 そして今、魔理沙は妖夢の想定を更に一つ超えた。

 文字通りの切り札である五枚目のスペルカードを越えた魔理沙は、見た目からして既に限界であることが分かった。

 疲労で汗だくなのに、顔は青褪め、動きは精彩を欠いている。

 飛行も安定していない。

 引き攣った口元は、笑みのつもりか。

 彼女の身体能力が、普通の人間の範疇に在ることを踏まえても、あらゆる限界が近いことは明白だった。

 しかし、その分析の結果は、五枚目のスペルカード宣言をする前にも同じように出たはずだった。

 いや、ずっと前から、魔理沙が限界であると判断していたはずだった。

 それなのに――。

 

「……そんな」

 

 妖夢は無意識に呟いた後で、それが自分の弱音なのだと気付いた。

 自分の吐いた言葉が許せないかのように、歯を噛み締める。

 何を動揺する必要がある?

 何を焦る必要がある?

 魔理沙が、自分の予想を超えて手強い相手だからと言って、一体何を脅威に感じる必要があるというのだ。

 あれは、奴の『強さ』ではない。

 言うなれば、弾幕ごっこの『巧さ』だ。

 それは、本当の意味での脅威とは違う。

 脅威とは、自分を脅かすもののことだ。

 魔理沙の力では、自分を脅かすことなど絶対に出来ない。

 妖夢は、自らを落ち着かせた。

 そういった理屈を、自分に言い聞かせた。

 しかし、完全に動揺を消すことは出来なかった。

 焦燥が、汗となって額に自然と滲み出ていた。

 魔理沙がスペルカードを取り出した時、無意識に警戒して身構えたことを自覚し、恥を感じた。

 自分で、自分に言い聞かせたことが納得出来ない。

 それが動揺を生み、焦りを生んでいる。

 妖夢は、それら自分の心の内に生じている全ての現象を、頑なに認めようとしなかった。

 魔理沙が、弾幕を放った。

 弾幕というだけあって、膨大な量の弾が、妖夢に襲い掛かる。

 しかし、不思議とそこに押し潰されるような圧迫感や迫力は感じられない。

 標的を絶対に撃ち落してやろう――と、そこまで思っていないような、適度な密度。

 弾の一つ一つは、大した殺傷力や破壊力も無く、代わりに眩く鮮やかな光彩を放っている。

 星を象った弾幕は、相手を傷つけるような攻撃というよりも、包み込むシャワーのようだった。

 それは、実戦においては何の脅威にもならないものである。

 弾幕ごっこという勝負の観点においても、あまり効果的なものではない。

 しかし、魔理沙の弾幕を見た妖夢は思った。

 

 ――美しい。

 

 そして、すぐに我に返った。

 勝負の最中で、雑念を挟んだ自らを恥じた。

 いつの間にか、眼前にまで接近を許してしまった弾幕を、慌てて避ける。

 いや、慌てる必要など無い。

 見た目だけを重視した魔理沙の弾幕は、全く脅威ではないのだ。

 キラキラと光る星型の弾が降り注ぐ様は、まるで何かのアトラクションである。

 緊張感の欠片も無い。

 奴は、真剣ではないのか。

 ふざけているのか。

 こんなものは、勝負ではない。

 遊びだ。

 実に、馬鹿馬鹿しい。

 真面目にやれ。

 真面目に――。

 

「――くぅっ!?」

 

 弾幕の一発が、危ういところで腕を掠めた。

 妖夢の弾幕を魔理沙が避けていた時と同じような光景である。

 

 ――同じ?

 ――ならば、奴と自分が同じレベルだとでも言うのか!?

 

 誰が言った訳でもない。

 自らの内に勝手に湧き上がった考えに、妖夢は勝手に怒りを覚えた。

 そして、その怒りが更に妖夢の集中を乱していった。

 徐々に激しさを増していく弾幕を、妖夢はかろうじて回避していく。

 必死である。

 いつの間にか、妖夢自身の外にも内にも、余裕などというものは消え失せていた。

 そして、そんな既に存在しないものを未だに在ると錯覚して、混乱し続けていた。

 一体、これは何なのか。

 一体、これはどういうことなのか。

 何故。

 何故、自分は必死になっているんだ。

 落ち着け。

 落ち着けば、こんな弾幕なんて、十分にかわせる。

 かわせる、はずだ。

 くそっ。

 今のは、危なかった。

 何なんだ?

 十分に集中出来ているはずなのに、不意を突かれてしまう。

 もっと速い攻撃を、もっと危険な攻撃を、私はかわしたこともあるんだ。

 こんなぬるい弾幕に、当たるはずがない。

 ほら、見える。

 ちゃんと見えているし、これをどう回避すればいいかも分かっている。

 これを、下に潜って――。

 畜生、掠った!

 動いた先に、弾幕が迫っていた。

 その弾幕だって、十分に見えていたのに。

 かわせる速度だったのに。

 まるで、こっちが動き辛い状況に合わせているかのように、弾幕が迫ってくる。

 あいつは、私の動きを読んでいるとでもいうのか。

 馬鹿な。

 スペルカードに示された弾幕は、最初から決まっていたものだ。

 こちらの動きに合わせて、内容を変えることは出来ない。

 それでは、ただの追尾攻撃だ。

 では、何か?

 こちらの動きが、まんまとあいつの想定通りに操作されているというのか。

 そんな――。

 ああっ、まただ!

 分かった……。

 分かった、認めよう。

 弾幕において、霧雨魔理沙の技術は私よりも一枚上手かもしれない。

 しかし、それがどうしたというのか。

 要は、かわせばいいだけの話だ。

 あいつが私の弾幕をかわしたように、私もあいつの弾幕をかわしてやればいい。

 それで、勝負は互角だ。

 勝負が長引くのは不本意だが、仕方が無い。

 己の未熟を認め、改めて勝てばいい。

 だから。

 だから、落ち着け。

 大丈夫だ、変な動揺さえしなければ、この弾幕は回避出来る。

 そもそも、動揺する必要は無いのだ。

 弾幕なんて当たっても死なない。

 なのに、何故緊張しているのか?

 何故避けようと、必死になるのか?

 その度を過ぎた緊張感が、却って動きを阻害している。

 それは、分かっているのだ。

 なあ、分かっているだろう。

 分かっているんだろう、自分。

 ――分かってないのか?

 なんで、また掠るんだ!?

 しかも、さっきよりも深く掠っているんじゃないのか。

 いや、気のせいだ。

 気のせいなんだ!

 大体、当たったから何だというんだ。

 こんな弾、当たっても死なない。

 傷一つ付かない。

 そもそも絶対に避けようなどと気負うな。

 必死になって、馬鹿馬鹿しい。

 当たってもいい。

 問題無い。

 無視すればいい。

 無視して、真っ直ぐに弾幕を突っ切ってあいつをぶった斬ってしまえばいい。

 こんな茶番に付き合うよりも、幽々子様に与えられた使命を果たす方が重要じゃないか。

 勝ちだの負けだの、騒ぐのは目の前の人間だけだ。

 無視すればいい。

 無視すればいい。

 目の前に再び弾幕が迫る。

 今だ。

 無視しろ。

 無視して、突っ込め。

 何か言わせる間も無く、あいつを切り伏せろ。

 勝負がどうこう戯言を吐き出す前に黙らせろ。

 やれ。

 やれよ、私。

 や――畜生っ、また掠った! 余計なことを考えてたせいだ!

 駄目だ、休む間も無く次の弾幕の波が迫っている。

 今なら分かる。正確なルートを選んでかわさなければ、いずれ当たってしまう、巧みな弾幕の構成を。

 当たったところで、傷も負わない弾幕だ。

 ただ、勝負が決するだけ。

 だけど、それが怖い。

 恐ろしくないはずの弾幕を何故か必死にかわしてしまう。

 それは当たると負けるから。

 私が負けるから。

 負けるのは嫌だ。

 また負けるのだけは嫌だ。

 私が、あいつより弱いって分かってしまう。

 そんなこと分かりたくない。

 動け、私の体。

 もっと速く動け。

 あ、駄目だ。

 止まれ。

 当たってしまう。

 なんとか、避けて。

 やった。

 でも、目の前にキラキラ光る綺麗な星が何個も迫ってきて、ここは右か左か、ああっくそ失敗したこっちに来るなもうかわせな――。

 

 

 

 

 先に落ちていった妖夢を追うように、魔理沙は地上へと降り立った。

 偶然にも、そこは開けた場所だった。

 周囲は夜の闇が隙間に満ちる木々に囲まれているが、魔理沙と妖夢の居る地点は、人が往来出来るだけの道としてかろうじて整備されている。

 おそらく、人里にまで続いている道だった。

 魔理沙はそこから、眼を凝らして周囲を見渡した。

 すぐにそれが意味の無い行為だと悟った。

 本当は、地面に落ちた、あの老いた鬼の遺体を探すつもりだったのだ。

 しかし、妖夢との弾幕ごっこを経て、最初の位置よりもおそらくかなりズレてしまっている。

 何より、周囲の林に落ちていた場合、この暗闇では視認で見つけ出すことは不可能に近い。

 少し考えれば、分かることだった。

 疲れているな――と、魔理沙は改めて一つ深呼吸をした。

 疲労は消せないが、勝負の最中に乱れていた呼吸は、もうかなり回復している。

 勝負の緊張感から解放されたことも影響しているはずだった。

 弾幕ごっこは終わった。 

 勝敗は決したのだ。

 

「わたしの、勝ちだな……」

 

 魔理沙は、地面に膝を着いたまま、顔を俯かせた妖夢の背中にそう言葉を掛けた。

 妖夢は、魔理沙の弾幕に当たって、そのまま落下したのである。

 傷も、ダメージも無いはずだった。

 それは、しっかりと着地した妖夢の動きからも明らかだ。

 しかし、妖夢は魔理沙の言葉に応えず、無言のままだった。

 魔理沙もまた、それ以上語ることなく、黙り込んだ。

 

「――れるか」

 

 妖夢の押し殺した声が静寂の中に響いた。

 

「認められるかっ!!」

 

 妖夢が叫ぶのと、立ち上がって刀を抜くのは同時だった。

 眼にも止まらぬ速さで抜き放たれた刀身は、閃光のように奔り、魔理沙の首筋で止まっていた。

 刃の冷たい感触が、首の皮に触れている。

 あとほんの少し止めるのが遅ければ皮を一枚切り裂き、早ければ触れることはなかっただろう。

 その絶妙な間隔で、妖夢は刀を止めたのだ。

 生半可な技量ではなかった。

 

「どうだ……?」

 

 妖夢は引き攣ったような笑みを口元に浮かべた。

 

「どうだ!? 今のがお前に見えたかっ!?」

「いや、まるで見えなかったぜ」

 

 魔理沙は真っ直ぐに妖夢を見据えたまま答えた。

 依然、刀は首筋に添えられている。

 

「不意を突かれたから、かわせなかったか!?」

「いや、抜く前に声を掛けられてても、かわせなかっただろうぜ」

「当たり前だ! お前なんかに、私の一撃が防げるものか!」

「ああ、わたしは霊夢とは違うからな」

「そうだ、私はお前を殺せる!」

「ああ、お前はわたしを殺せる」

「なのに……!」

 

 妖夢の笑みが崩れた。

 口元の歪みは、そのまま何かを食いしばるような形に歪みを変えていった。

 

「なのにっ、なんでお前なんだ!?」

 

 妖夢は叫んでいた。

 腹の底からの叫びだった。

 睨みつける瞳には、しかし敵意や殺意の代わりに涙が浮かんでいる。

 魔理沙は、その混濁した瞳をただ真っ直ぐに見返すだけだった。

 

「お前は、私よりも強いのか!? 私よりも巧く剣を振るえるのか!?」

「いいや」

「お前は、私よりも長い修行を積んで、過酷な実戦をくぐってきたとでも言うのか!?」

「さあな、比べたことないから知らないぜ」

「お前はっ!」

「――」

「……お前、は」

「――」

「お前の、勝ちだなんて、そんなこと認められるかぁ!!」

「じゃあ、このまま斬っちまえばいいだろ」

 

 魔理沙の言葉が、まるで拳のように妖夢の頭を殴りつけていた。

 

「勝ち負けがどうの言ってるのは、わたしとお前だけだ。お前が認めないなら、認めているわたしを斬って、それでお終いだろ」

「なに……?」

「わたしは霊夢とは違うんだ。あいつみたいに、お前を真剣勝負でも負かせる自信なんてないよ。斬られたら、本当にかわせないさ」

 

 妖夢の脳裏に、かつて冥界で霊夢と剣を交えた時のことが思い起こされていた。

 弾幕の勝負でも負け、逆上して振るった剣すら、霊夢はあっさりと止めてみせたのだ。

 力でも技でも負けた。

 決定的な敗北だった。

 あの時、心が折れた。

 そして今は、あの時とは違う。

 相手は博麗霊夢ではない。

 弾幕の勝負では負けたが、本当の実力の上での勝負ならば魔理沙が妖夢に劣っていることは自他共に認めている。

 だから。

 

 ――だから、何だ?

 

 妖夢の中で、もう一人の自分の声が冷たく響いていた。

 自分の言い訳の卑しさに気付いている、もう一人の自分がいた。

 

「……取り消せ」

 

 妖夢は、声を搾り出すように言った。

 

「何を?」

「さっきの勝負がお前の勝ちだと、その宣言を取り消せ」

「――」

「お前の口から、ハッキリとそう言え!」

「――」

 

 睨みつける眼と、突きつけた刀身に殺気を纏わせながら叫ぶ妖夢に対し、魔理沙は何も言わなかった。

 一言も口を利かなかった。

 ただ、声を荒げて脅す妖夢を見つめたままである。

 その視線に、蔑みや憐れみの感情を込めることさえしなかった。

 返ってくるのは沈黙と視線だけである。

 しかし、それだけで妖夢は追い詰められていった。

 自分が愚にもつかない言い訳を重ねるほど、それに対して沈黙を返されるほど、死にたくなるような後悔と惨めさが心の中に積もっていった。

 やがて、その重みに耐え切れなくなったかのように、足元が震えて、ゆっくりと膝を着いた。

 

「……言え、霧雨魔理沙」

「――」

「何か、言ってくれ」

「――」

「私に、失望したのならそう言え。見苦しいと、卑しい真似をしていると……」

「死体に鞭打つ趣味はないぜ」

「憐れみか……」

「お前が、分かりやすすぎるからだよ。どうせ何言ったって、納得しないんだろ。勝ち負けは、わたしが決めるんじゃないんだ。お前が、もう決めちまってるんだ。わたしを斬れば、それがハッキリと分かるだけだ」

 

 魔理沙は、落ち着いた口調で告げた。

 その言葉がトドメであったかのように、妖夢の中で、何かが折れた。

 既に魔理沙の首筋から離れていた刀が、ついに妖夢自身の手からも離れて、金属質な音を立てて地面に転がる。

 全てを失った両手を地に着け、妖夢は地面に蹲るような姿勢で震えていた。

 見下ろす魔理沙の眼には、妖夢の顔は見えない。

 見ようとも思わなかった。

 しかし、食い縛った歯から洩れる嗚咽だけは、聞き流すことが出来なかった。

 

「勝負は、わたしの勝ちだ」

 

 魔理沙は言った。

 もはや、誤魔化しようもない事実を、分かりきったことを、わざわざ言葉にしたのは魔理沙の優しさだった。

 しかし、それが妖夢にとって救いになるとは、もちろん魔理沙も思わなかった。

 押し殺していた嗚咽が、少し大きくなった。

 

「なあ、妖夢。お前との弾幕ごっこ、ちょっと楽しかったぜ」

「……ぃぃ……っ」

「また今度、やり合おうぜ。慰めとかじゃない、本当さ」

「ひぃぃ……ぃぃぃ……っ」

「お前は、どうだった?」

 

 魔理沙の問い掛けに、妖夢は答えなかった。

 答える余裕などなかったのだ。

 喉が引き攣ったような声を、歯の隙間から洩らすだけだった。

 立ち上がることも出来ず、ただ子供のように泣いて震えることしか出来なかった。

 魔理沙は帽子のつばを深く下げ、その妖夢の姿を視界から隠した。

 

「今度、聞かせてくれ」

 

 踵を返し、箒に跨る。

 途切れ途切れの、しかし決して止むことのない妖夢の嗚咽を背に受けながら、魔理沙は夜空に飛び立った。

 残されたのは、惨めな敗者の姿だけだった。

 

 

 

 

「――夢符『封魔陣』」

 

 霊夢の放った弾幕は、無数の札によって形成されたものだった。

 それまで放っていた霊力の弾や退魔の針といった攻撃的な物ではない。

 浄化の霊力に焼かれ、何本もの針を刺されながら、それでも尚も動き続けていた鬼の少女は、その札の弾幕を避けきれずに、ついに直撃を受けた。

 一枚の札が体に貼り付いたのを切欠に、動きが止まった所へ無数の札が殺到する。

 鬼の少女は、あっという間に霊力を込めて書かれた札で雁字搦めにされしまった。

 

「あんたタフだから、墜とすよりも封じさせてもらうわ」

 

 身動きの取れなくなった標的の顔面に、トドメとばかりに光弾を叩き込む。

 煙を上げて墜落していく姿を見下ろして、深呼吸を一つ挟んだ後、霊夢もまた地上へと降りていった。

 萃香の待つ龍神像の広場へと、再び戻ってくる。

 先に落下した鬼の少女は、札に身動きを封じられたまま、仰向けに倒れていた。

 自らの術の手応えから、抵抗は無駄だと霊夢は思っていたが、そういった素振りも見せない。

 虚空を見上げたまま、鬼の少女は小さく笑い声を漏らした。

 

「……負けたよ」

 

 弾幕ごっこの最中でも終始無言だった彼女の、初めて聞く声だった。

 その敗北宣言を、霊夢は特に感慨も無く聞いていた。

 

「楽しかったなあ。なあ、お前もそうだろう?」

 

 鬼の少女の問い掛けを、しかし霊夢は無視するように無言で返した。

 

「お前は、楽しくなかったか?」

「面倒臭かったわ。あんた、スペルカード・ルールを正確に理解してないし、弾当たっても耐えればオッケーみたいな勘違いしてたし」

 

 身も蓋もない霊夢の返答を受けて、鬼の少女は再び笑った。

 鬼の面を被ったような顔から、表情は伺えない。

 しかし、何処か愉快そうな響きを持った声だった。

 

「また、お前と勝負したいなあ」

「もう二度と御免だわ」

「そうかあ、残念だなあ……」

 

 それっきり、鬼の少女は何も言わなくなった。

 倒れたまま、ピクリとも動かない。

 死んだとは思えない。おそらく、気を失ったのだろう。十分にダメージを与え、体力も消耗させたからだ。

 実際に戦っていた霊夢は、そう判断した。

 

「――じゃあ、次はあんたね」

 

 意識と標的を切り替える。

 視線を移した先には、変わらず龍神の石像の上に陣取った萃香が笑って、霊夢を見ていた。

 その足元にいる子供達も、脅かされることなく無事でいる。

 弾幕ごっこの途中で、霊夢は人里全体で起こっていることを観察する冷静さと余裕さえあった。

 人里を襲う鬼は、今や完全に、幻想郷の人間や妖怪達に迎え撃たれていた。

 もはや、残された鬼は目の前の伊吹萃香ただ一人だけと言っても過言ではない。

 異変を起こした鬼と、博麗の巫女――二人は、全ての事象の中心で、終わりの時を迎えるべく対峙していた。

 

「そいつの首は獲らないのかい?」

 

 萃香は、仲間であるはずの鬼の少女を指しながら、そんなことを尋ねた。

 

「鬼の首に興味は無いわ」

「博麗の巫女は、悪さをした妖怪を退治しなきゃいけないんだろう」

「そうよ」

「中途半端はいけないと思うな、わたしは」

「別に、中途半端にやっているわけじゃない。もちろん、情けを掛けたわけでもない」

 

 霊夢は断言した。

 

「あたしが、そう決めた。博麗の巫女として、これが妖怪の退治の仕方よ」

 

 霊夢の瞳を、萃香は真っ直ぐに見据えた。

 一瞬も見逃さなかった二人の決闘の光景が、脳裏に流れている。

 

 ――幻想郷に敷かれた、新しいルール。

 ――スペルカード・ルール。

 ――弾幕による勝負と、その決着。

 

 萃香は、それらをつぶさに見ていた。

 

「そうか」

 

 萃香は一つ、頷いた。

 霊夢の返答に、納得しているようにも、納得していないようにも取れる。

 重い一言だった。

 

「新しい時代の理を知った」

 

 ふわり、と萃香が地面に降り立った。

 

「お前の矜持を理解した」

 

 背後で子供達の怯える気配を感じたが、振り向きもしない。

 

「――しかし、果たしてそれがわたしに通用するかな?」

 

 対峙する霊夢ただ一人を見据えて、萃香は言った。

 それまでの穏やかな雰囲気からは一変して、瞳にも、口元にも、全身に至るまで、恐ろしいほどの戦意が形を取って、漲っていた。

 放たれる威圧感に、しかし眉すら動かない霊夢が呟く。

 

「急にやる気になったわね」

「言っただろ? 『ちょっとだけ回りくどいやり方だ』って。ちょっとだけさ、勝負するまで回り道しただけなんだ」

「じゃあ、とっとと始めて、ぱっぱと終わらせましょうか」

 

 霊夢の不敵な物言いに、萃香は苦笑を浮かべた。

 

「そう、急かすなよ。大丈夫。もう集まってきてるさ」

 

 そうして、意味深げな萃香の言葉に応えるように、二人の周囲に次々と集う者達があった。

 終息しつつある人里での戦いを抜けて、天狗達が降り立つ。

 慧音達が、大天狗や椛達と共に広場に駆けつける。

 博麗神社からやって来た紫やレミリア達が、紅魔館を発った咲夜やパチュリー達と合流して、現れた。

 はたてに護衛された人里の住人達がやって来たのは、それらのタイミングとほとんど同じである。

 他にも、まだ見えぬ気配が集まってきている。

 それらを萃香が眺め、釣られるように霊夢も見ていた。

 萃香は笑っている。

 多種多様の人妖に囲まれながら、彼女らが共通して自身の敵だと分かっていながら、萃香は満足気に笑ってすらいるのだった。

 

「――揃ったな」

 

 周りを見渡しながら、萃香は集まった者達の中のある一点で視線を留めた。

 釣られて見た霊夢の眼が、僅かに見開かれる。

 

「待ってたんだ『お前達』を」

 

 そこに居たのは、母だった。

 

「わたしは、幻想郷に喧嘩を売りにきたんだ」

 

 文に支えられて立つ先代巫女を睨み据えながら、萃香は笑みを浮かべた。

 文字通り、鬼気迫る笑みである。

 

「鬼の四天王、伊吹萃香。地底より一世一代の大勝負に来たぜ――此度の異変を解決したくば、我が身を見事退治してみせよ『博麗の巫女』!!」

 

 この場に居る者達全員に届くほど朗々とした宣戦布告が、萃香の口から発せられた。

 それは霊夢と先代、二人に対するものに間違いなかった。

 

 

 

 

「これじゃあ、まるで夜逃げですよ」

 

 さとりが夜道を歩きながら呟いた。

 ほとんどぼやきに近い。

 人気の無い夜の街道で、それを聞く者は、少し後ろを歩く勇儀だけだった。

 

「そうだね」

「そもそも、何故神社から逃げる必要があったんですか? 余計に八雲紫の疑念を煽るだけでしょう」

「そうかもね」

「聞いてるんですか、勇儀さん!?」

「もちろん」

 

 肩越しに振り返ったさとりの剣幕を、勇儀は穏やかに微笑みながら受け止めた。

 実際は、聞いているどころかさとりの内心を察して、気を遣ってさえいた。

 歩幅に違いがあるのに、さとりに前を譲りながら、ゆっくりと歩いていることからもそれが伺える。

 しかし、心に映らないほど自然体な勇儀のそんな気遣いに、さとりは気付かないのだった。

 

「アリスさんの言われるまま、案に乗りましたが、考えてみると問題を先送りした上にややこしくしただけじゃないですか」

「さとり、あいつに文句を言っちゃいけないよ」

「貴女は私のお母さんですか? 『彼女の厚意だったことは分かっているだろう』って言われなくても分かってますし、言いたいことも分かってます」

「そうか。余計なお世話だったな、すまん」

「そうですね。『ややこしい話は、地上の異変が落ち着いた後で、改めて治めにいけば良い』ということも分かってますね」

「さとりは頭が良いからね」

 

 無遠慮に心を読んで話を進めていくさとりに対しても、勇儀は大らかに相槌を打っていた。

 当たり障りのないことを話しながら、内心では悪態を吐く――そういった当然の二面性を持たない勇儀との会話に、さとりの方が徐々に毒気を抜かれてしまう。

 当り散らす自分が、急に悪い者のように思えてきて、口をへの字に結ぶ。

 さとりが黙り込むと、勇儀もそれ以上何も言わず、二人は無言で夜の道を歩いていった。

 アリスの策で、紫達の眼を欺きながら博麗神社を離れて、自然と足の向いた帰路である。

 実際に、宴会のあった神社以外に地上に用事も無ければ、留まる理由も無い。

 代わりに、地上を去る理由ならば大いにあるのだ。

 勇儀が傍にいるとはいえ、鬼に命を狙われたという体験はさとりにとってショックだった。

 さとりが向かうままに、勇儀も後を追い、二人は地底世界へと帰ることになったのだ。

 

「しかし、先代と別れの挨拶一つも出来なかったのは、ちょいと心残りだねぇ」

「異変が終われば、どうせすぐに顔を合わせます」

「……それもそうかな」

 

 何気ないさとりの返答を聞き、勇儀は気づかれないようにこっそりと笑った。

 地上と地底。人間と妖怪。本来ならば、深い溝の在るはずの二人の関係があまりに気安いことに、微笑ましさと愉快さを感じているのだった。

 もちろん、さとりは勇儀のその『誤解』を読んでいたが、反論するのも面倒なので捨て置いた。

 

 ――誤解。

 

 そう『誤解』こそが、今の自分を追い詰める最も大きな要因である、と。さとりは深刻に考えていた。

 何の誤解かというと、それはもう幾つもの事象に対して、幾重にも重なった複雑怪奇な誤解の嵐だった。

 さとりの眉間には、もう一生解れることなどないのではないかというほど深い皺が刻まれている。

 今夜の宴会を経て、嫌でも理解出来てしまった己の陥っている境遇に、頭を抱えたくなった。

 今回の鬼の起こした異変に、自分が関わっているのでは無いかと、八雲紫を含む一部の人妖に疑われているという誤解。

 そういった疑いに繋がる根拠となってしまっている『古明地さとりが実は恐ろしい大妖だ』という誤解。

 更に、そこへ至る切欠となった先代巫女との関係を深読みしている――具体的にどう想像しているのか分からないし分かりたくない――という誤解。

 宴会に参加する前にさとりが考慮していたものよりも、何倍も厄介で深刻な状況が、自らを囲い込んでいることに気付いたのだった。

 気がついた時には、逃げ場が無い。

 そして、問題が収拾されないことはもちろん、保留すら出来ず、更なる悪化を辿っているような気がしてならない。

 具体的には、新たに関わってきたアリスの存在である。

 やはり、アリスの提案に乗って神社から無断で去ったことは、良くなかったのではないか。

 様々なことが一度に起こりすぎて、半ば思考停止していたさとりにとっては救いに思えたが、第三者から見るとこれではアリスがさとりの仲間のようである。

 実際には、もちろんそんなことはない。

 むしろ、アリスは友好の意思を持って、このような助力をしてくれたのではない。

 さとりの失言に興味を持ち、それを探る為という打算で行動した結果なのだ。

 アリスは味方ではなく、こちらの出方によっては紫と同じような関係の相手になる危険性が高い。

 安心出来る要素など、欠片もない人物だった。

 ひょっとして、自分を逃がしたのはアリスの何らかの策か罠だったのではないかとさえ思える。

 

 ――別れる前に、もっと深く真意を探っておけばよかった。

 

 さとりは、疑心暗鬼に陥っていた。

 そして、晴らしようもない苛立ちと鬱憤は、最も分かりやすい相手に向けられている。

 先代巫女である。

 全ての元凶である。

 あいつが、私を陥れたのである。

 少なくとも、さとりにとってそれは決定事項だった。

 第三の眼に映った彼女の能天気な内心が、事あるごとに脳裏に浮かぶことも、さとりの怒りを煽っていた。

 

 ――地底に会いに来たら、その時にまた土下座させましょう。

 ――でも、それをまたお燐なんかに見られたら、更に誤解されてしまうわね。

 ――なるほど、それが狙いなのね。

 ――先代の仕業か。許さん。

 

 現状への有効な解決案も浮かばず、さとりの中でただひたすら先代への恨みだけが募っていった。

 そんなさとりの内心を読めない勇儀は、ブツブツと何やら呟いているさとりの横顔を眺めつつ、のんびりと歩いていた。

 無頓着とも言える大らかさであった。

 

「ところで、帰り道はこれで合ってるのかい?」

「……多分。大体の方向は」

「おいおい、日が明けるまでに帰れるのかねぇ」

「仕方ないじゃないですか、地上の土地勘なんて無いんだし」

「飛べばいいじゃないか」

「何処にいるか分からない鬼はもちろん、神社に居た者達に万が一にも見つかりたくありません」

「私がちゃんと守るよ」

「その後のことを考えてるんですよ。もうっ、黙ってて下さい」

「はいよ、仰せのままに」

 

 あっさりと引き下がる勇儀の素直さが、さとりには居心地が悪かった。

 勇儀との関係は良好であり、先代と関わって得られた数少ない利益でもある。

 先代との約束があるからだろうが、余計な口を出さず、実直に自分を守り、言葉には従ってくれる点も頼もしい。

 しかし、さとりは勇儀の人柄が苦手であった。

 素直に向けられる好意は、先代にも似たところがある。

 

 ――こうなったら、もうとにかく早く家に帰りたい。

 

 さとりは体力だけではない疲れを感じながら、足早に歩を進めていった。

 もう、頭を悩ませるのも億劫である。

 これ以上問題が起こらないことを祈りながら、ただひたすら帰路を急ぐ。

 ふと、気付いて顔を上げる。

 問題が転がっていた。

 

「……もう、勘弁して」

 

 さとりは、形容し難い表情に顔を歪めて、小さく悪態を吐いた。

 視界の先。かろうじて整備された道の脇に、人影が見えたのだ。

 木の幹に腰を降ろし、膝を抱えて蹲っている。

 顔は見えないが、特徴的な銀髪と、服装やその色合いから、さとりはそれが誰なのか気付いた。

 気付いてしまった。

 誰なのか気付かないまま、あるいは見知らぬ誰かなら良かった、と。さとりは後悔した。

 鬼の異変が無くとも、妖怪に襲われる危険性がある夜の道に、無防備に座り込んでいるのは博麗神社の宴会でも見た――魂魄妖夢だった。

 背後の勇儀も気付いたらしい。

 しかし、自分からは何も言おうとしない。

 さとりの判断を待っているようだった。

 さとりは、しばらくの間、立ち止まって妖夢の様子を伺っていた。

 妖夢は身じろぎ一つしない。

 こちらに気付いているのかも分からなかった。

 心を読んでも、分からないのだ。

 

 ――これは、なんと厄介な……。

 

 さとりは、最初のものとはまた別の苦い表情を浮かべた。

 それは、心を読めるさとりにだけ分かる、妖夢の状態を知った為だった。

 心を読む――それが具体的に、どういった感覚で第三の眼に映っているのか、説明することは難しい。

 心の中をイメージとして見ているとも、声を聞いているとも、どちらとも表現出来るし、どちらとも微妙に違うとも言える。

 今、さとりが捉えている妖夢の心を表現するには、そういった曖昧な表し方でしか出来ないからだった。

 言うなれば、見えているのは乾いた荒野であり、聞こえるのは静寂である。

 今の妖夢の心からは、何も見えない。何も聞こえない。

 先代が、かつてやってみせたような無我の境地にも似ているが、それとは違う。

 これは、心が読めないわけではないのだ。

 さとりも、それなりに長く生きた妖怪である。

 人間や妖怪、時には神さえ、多くの心を第三の眼で読み取ってきた。

 このような何も無い心を――奇妙な表現だが――見て、聞いた、経験があった。

 しばらく観察して、妖夢が明らかに普通の状態ではないことを察した勇儀が、堪らず問い掛けた。

 

「……さとり。この娘は、気をどうにかしちまったのかい?」

「言うなれば、心という器から全て溢れ出てしまったのでしょう」

「何?」

「諦念。挫折。無気力――言葉で表すと、それら全部を混ぜたような状態でしょうか」

「――」

「誰にも知られず、暗がりで独り死んでいくような者がしている心の状態ですよ」

 

 さとりの曖昧な説明に、それでも勇儀は何かを察したかのように黙り込んだ。

 長く生きた中で見てきた様々なものの中に、今の妖夢のような姿をした者がいたことを、思い出したのだった。

 あるいは、思い出すほど昔の話ではないのかもしれない。

 旧都の路地裏に時折転がっていて、偶然視界の端に捉えた後、すぐに忘れ去ってしまう存在――そういった漠然とした印象が、目の前の妖夢の姿に重なっていた。

 

「そうか……この短い時間でどんな経験をしたのか知らんが、こいつは心が折れちまったんだなあ」

 

 勇儀は、さとりとはまた別の表現で納得した。

 そんな二人のやりとりの間も、妖夢は何の反応も示さなかった。

 動かないのは体だけではなく、心も同様である。

 何も感じず、何も考えていない。

 それらを放棄していると言っても良い。

 自分に何を訴えかけるわけでもない空虚な心をしばらくの間眺めていたさとりは、やがて歩みを再開した。

 妖夢の前を横切り、そのまま歩き去っていく。

 勇儀は、そんなさとりの判断に対して、何も言わなかった。

 心の中でさえ、余分なことを考えなかった。

 ただ、さとりの後について行くことだけを考え、行っていた。

 さとりにとって、ありがたいことである。

 変な仏心や興味を持たれては敵わない。

 あの妖夢が、面倒事そのものであることは明らかだ。

 どんな事情や問題を抱えているか分からないし、彼女の居る立場も厄介である。確か、あの西行寺幽々子の従者だか庭師だったかではなかったか。

 関われば、こちらが要らぬ問題を抱えることになる。

 ただでさえ複雑な周囲との関係が、ますます拗れる。

 なので、スルーである。

 これが正解だ。

 そもそも、ほとんど赤の他人である自分に関わる義理も義務も無い。

 放っておいても、その内彼女の仲間や幽々子自身が発見し、回収するだろう。

 彼女の抱える問題も、親身になってくれる者達同士で頑張って解決すれば宜しい。

 

 ――あのような状態になってしまった心を、治せる者が居るとは到底思えないが。

 

 いや、待て。

 私は何を考えているんだ?

 さとりは、余計なことを思考する自分自身に慌てて言い聞かせた。

 しかし何故か、妖夢のことが頭から離れない。

 それはもちろん、ああいった状態の心は何度見ても慣れることが出来ないからだ。

 見ていて、哀れを誘う。

 つまり、これは単なる同情とかそういった余分な感情による気の迷いだ。

 そう自分に言い聞かせながらも、意思とは反対に重くなる足取りを感じて、さとりは焦った。

 努力しなければ、妖夢の存在を無視出来ないことに気付いて、嫌な予感を感じた。

 

 ――根拠は経験だけだが、ああいった状態にまで堕ちてしまった者は、ただ親身に接するだけでは立ち直れないのだ。

 

 頭の片隅から、勝手にそんな考えが浮かんでくる。

 それが無駄だと言い聞かせる。

 それが無意味だと言い聞かせる。

 何故なら、自分はこのまま彼女を無視して立ち去るからだ。

 関わることのない相手について、どうこう考えようと意味は無いのだ。

 

 ――親しい者の優しさや気遣いを受ければ、多少は癒されるだろう。

 ――しかし、正気に戻った彼女が出来ることは、もう『取り繕う』ことと『装う』ことだけなのだ。

 ――自分で、自分の心の傷を直視など出来ないだろう。

 ――それが、まだ出来るだけの余裕がある者は、あんな心にはならない。

 ――周りの者は、装う彼女の心の底を見抜くことも出来ないだろう。

 ――親しい仲であるほど、相手の心に踏み込むことに臆病になるものだからだ。

 ――当人にも分からない今の魂魄妖夢の心を、正確に、冷静に、理解してやれる者が居るとは思えない。

 ――心でも、読めない限りは。

 

 そこまで考えて、さとりは我に返った。

 いつの間にか足が止まっている。

 勇儀もやはり同じように立ち止まり、静かにさとりの様子を伺っている。

 さとりの背中は小さく震えていた。

 内心では、様々な思考や感情がグチャグチャに混ざり合って、もうワケが分からない状態になっている。

 何故、こんな状態になっているのか。

 悩んでいるからである。

 悩む必要など無いと分かっているのに、勝手に悩んでいるせいである。

 それは誰のせいなのか。

 多分、先代のせいである。

 いや、間違いなく先代のせいである。

 よし、今度会ったら殴ろう。

 

「――ああ゛っ、もう! 本当に目障りね!」

 

 誰に向けたものか分からない悪態を、さとりは夜空に向かって叫んだ。

 抱えていた葛藤の中から全く関係の無い結論を出したさとりは、唐突に物凄い勢いで振り返ると、歩いてきた道をなぞるように戻った。

 進む内にどんどん早足になり、地面を踏む力も渾身のものへと変わっていく。

 さとりは、妖夢の前までやってくると、有無を言わせぬ口調で告げた。

 

「貴女を地霊殿まで連れて行きます。嫌なら抵抗しなさい」

 

 抵抗してくれれば、万事解決なんですけどね――と、さとりは淡い期待を抱いていた。

 妖夢が、呆けた表情で顔を上げた。

 

「はい! 分かってますよ、抵抗する意思なんて欠片もありませんね。っていうか、気力も無いですね。残念ですねー、私には丸分かりですから!」

 

 ヤケクソ気味に捲くし立てながら、妖夢の腕を掴んで立ち上がらせる。

 言葉の通り、妖夢は抵抗どころか助けを借りて立ち上がるのが精一杯の状態だった。

 掴んだ腕を肩に掛けて、さとりに背負い上げられても、妖夢は反応らしい反応を見せなかった。

 ただ、ぼんやりとさとりの横顔を眺めているだけである。

 さとりも、そんな妖夢の反応や心境には頓着せず、轟然とした足取りで歩き出した。

 小柄で、体力もそれほど無いさとりには、背負った妖夢の重みが辛かったが、もはや半ば意地になっていた。

 そもそもが、理性的な判断で行ったわけではない一連の行動である。

 何処か投げやりな足取りで、さとりは妖夢を背負ってズンズンと地底への帰路を進んでいった。

 そこまで眺めていた勇儀が苦笑し、近くに転がっていた妖夢の刀二本を持ってついていく。

 すぐに、さとりに追い着いた。

 

「うるさいんですよっ!」

「なんだい、何も言ってないだろう?」

 

 心が読まれていることを分かっていながら、勇儀は楽しげに惚けた。

 

「はあ? おめでたいですね、私が仏心でこの娘を助けたと思っているんですか。そもそも、これが彼女にとって『助け』になるかどうかなんて分かりやしませんしね!」

「でも、お前が――」

「『そいつに手を差し伸べようと思ったことは間違いない。面白い奴だな、古明地さとり』ですね、分かります! 心、読めますからっ!」

「うん」

「この先どうするのか全然考えてないですけどね! どうしましょうねっ、この厄種!?」

「いや、知らん。けど、言ってくれりゃ手助けするよ」

「じゃあ、まずこの娘を代わりに背負ってもらえませんかね!? 『私が背負った方が楽なんじゃないか』って気付いたんなら、すぐに!」

「ああ、確かにそう考えたけど、駄目だ。お前さんが、勝手にそいつを連れて行こうと思ったんだろ。じゃあ、お前さんが背負わなきゃ」

 

 ニコニコと笑いながら正論を口にする勇儀を、さとりは血走った眼で睨み付けた。

 そこから火の点いたようにヒステリックに喚くさとりを、のらりくらりとかわしながら勇儀が歩く。

 結局、さとりが妖夢を背負ったまま、地底への帰路を進んでいく。

 何処か遠くのもののように聞こえる二人の喧騒を聞きながら、妖夢は自分よりも小さな背中に顔を預け、そっと眼を閉じた。

 自分の向かっている場所が何処なのか分からなかったが、それを気にする余裕も無い程疲れ果てていた。

 脳裏に一瞬だけ幽々子の顔が浮かび、消えた。

 やがて慈悲深い眠りが訪れ、妖夢の打ちのめされた心に一時の安らぎを与えていった。




<元ネタ解説>

特になし。

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