東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その八。


其の三十三「萃鬼」

 ――お前は『博麗霊夢』だ。

 

 そう、覚えている。

 私が、最初に霊夢に話しかけた時の言葉が、これだった。

 本当に、最初の最初。

 赤ん坊だったあの子を、拾い上げた時に言ったんだ。

 何処だったっけ?

 確か、小さな集落で妖怪退治をした帰り道だったと思う。

 吸血鬼異変の後、病み上がりだった体でこなした仕事だった。

 別に、キツイ仕事だったわけじゃない。

 妖怪は、はっきり言って雑魚だった。

 その帰り道だった。

 道端のお地蔵様の傍に、赤ん坊だった霊夢は捨てられていた。

 集落から、幾らも進まない内に見つけたのだ。

 私は、その赤ん坊と歩いてきた道を何度も交互に見て、迷った。

 捨てられていた赤ん坊と、すぐ近くにある集落――その関連性を、幾通りも推測しようとした。

 そうしている間、赤ん坊は私の腕の中でじっと黙っていた。

 眠ってはいなかった。

 親でもない得体の知れない女の、傷だらけの腕に抱かれて、あの子はただじっと私を見上げていたのだ。

 私は、意味の無い推測をやめた。

 この子を捨てた親について、その心境と行動について、考えることをやめた。

 そして、私はその赤ん坊に、そう名付けたのだ。

 

 果たして、あの子は『博麗霊夢』だった。

 私の判断に間違いはなかった。

 しかし、今でも疑問に思うことはある。

 何故、あの時。私はあの赤ん坊が『博麗霊夢』だと思ったのか?

 いや、違う。

 霊夢だと分かっていたから、あの赤ん坊を拾ったわけじゃない。

 あの子を霊夢として育てようと思ったから、そう名付けたのだ。

 多分。

 分からない。

 今思い返すと、自信が無い。

 どっちが先だったのだろう。

 あるいは、あの時何か運命の力のようなものが作用して、霊夢は『博麗の巫女』という立場に収まったのではないか。

 そんな風にも考える。

 運命。

 素敵な言葉だ。

 時が過ぎた、今だから出来る表現なのかもしれない。

 あの子の母親としてやってこれた経験があるから、言えるのかもしれない。

 成長した霊夢を今見ているから、昔を語れるのかもしれない。

 だけど――。

 だけど、絶対に忘れちゃいけないことがある。

 

 ――私は最初、母親でも何でもなかったのだ。

 ――私は最初、霊夢を自分の子供だと思って育てようとしたわけじゃなかったのだ。

 

 私が母となり、霊夢が娘となったのは結果だ。

 今の私なら絶対の自信を持って答えられることを、きっとかつての私は即答出来ないだろう。

 霊夢は、本当に手の掛からない子供だった。

 赤ん坊なのに、泣き喚くことはほとんどなかった。

 だけど、間違いなく脆弱な赤子だった。

 そんな当たり前のことも、当時の自分は分かっていなかったのだ。

 ほら、見ろ。

 眼を背けたい過去の醜態が、映っている。

 熱を出した子供を抱えて、どうすればいいのかも分からず、うろたえるだけの愚図が居る。

 小さな子供を育てるということを、軽く見ていた馬鹿野郎だ。

 育成ゲームとは違う、一つの命が自分に委ねられているという責任と現実の重さを理解していなかった阿呆だ。

 自分が『母親』だと自覚していなかった無知の罪人だ。

 

「紫、助けてくれ」

 

 結局、あの時私は他人に泣きついたのだ。

 咄嗟の判断ですらなく、闇雲に神社の中で叫んだ助けを呼ぶ声に、偶然紫が気付いてくれたのだ。

 霊夢は助かった。

 親を自称する者の曖昧な愛情などではなく、紫の持つ医学的知識によって助かった。

 容態の落ち着いた霊夢の寝顔を見て、私は泣いた。

 多分、初めての経験だったと思う。

 少なくとも、この世界で初めて私は泣いた。

 鉄のように固まった表情を動かさず、ただ一筋だけ、それでも私は涙を流した。

 安心したのかもしれない。

 悔しかったのかもしれない。

 情けなかったのかもしれない。

 全部ひっくるめて、泣いたのかもしれない。

 ただ、あの時。

 私は思い知った。

 

 ――これまでの自分では駄目だということ。

 

 物心ついた頃に過ごした妖怪の山での生活が、私にこの世界で生きる実感をくれた一つ目の節目だとしたら、霊夢と共に生きた日々は二つ目の節目だった。

 それまで自分の為に生きていた。

 いつ死んでもよかったし、気の済むまで生きればよかった。

 だけど、他人の為に生きる道もあることを知った。

 霊夢の母親になろうと努力した。

 あの子を愛している。

 あの子の為になることをしたい。

 あの子の為に生きたい。

 それが母親として、本当に正しい姿勢なのかは分からない。

 誰も教えてくれない。

 私だって知らない。

 だって、私は『母親』という存在を知らないから。

 その存在が、どんな姿をしているのか、どんな考え方をしていて、どんなことを子供にしてくれるのか――私は知らないから。

 何もかも手探りの中で、不恰好に、悪戦苦闘していく以外になかった。

 食事を与え、教義を与え、技術を与え、そして愛情を与え――自分の持つありったけのものを、霊夢に与えることしか思いつかなかった。

 

『お前が紫様と共に生きることを選んでさえいれば、少なくとも私は――』

 

 ああ、そうだな。

 無理だ。

 無理だよ。

 霊夢に会う前の私なら、それが出来たかもしれない。

 でも、今の私には、もうそれは出来ない。

 

『永遠の時間を生きることが、人間以外のものになることが、怖かっただけなんじゃないの?』

 

 怖いさ。

 想像だってしたくない。

 私より先に、霊夢が老いて死ぬんだよ。

 皺くちゃのおばあちゃんになってしまった娘を、母親が看取ることになるんだよ。

 

『周りの人や妖怪、そして何よりも娘を裏切って、全てのしがらみを捨ててくれたのなら――』

 

 出来ない。

 分かってる。

 分かってて、そう言っているんだよね。

 だから、私のことをずっと嫌いなままなんだよね。

 そうさ、それで間違いない。

 一つの生き方を選ぶってことは、他の生き方を選ばないってことなんだ。

 その道に関わる人達の期待に応え、逆に別の道に居る人達を見限るってことでもあるんだ。

 誰も彼もに好かれることなんて、出来るはずがない。

 ゲームじゃないんだ。

 ハーレムルートなんて、都合の良いものは存在しない。

 だから、いいんだ。

 嫌われていい。

 でも、私が好きになる分はいいだろう。

 私が全員好きでいる分には問題ないはずだ。

 文句なんて言うなよ。

 なあ、藍。輝夜。

 二人だけじゃない。

 愛してるんだ、この世界を。

 ただ、それでも。この世界の中心でどっちつかずのまま、宙に浮いているわけにはいかないだけなんだ。

 しがらみや、立場があってこそ、人間だから。

 そして、私は霊夢の母親だから。

 そうありたいから。

 そう決めたから。

 だから、きっとこの生き方で正しい。

 ……正しいよね?

 教えてよ。

 

「――お母さん」

「ぶっふぉっ!?」

 

 目が覚めると、一番最初に視界に入ったのは、盛大に吹き出す文の顔だった。

 

 

 

 

 博麗神社で動く鬼は、もはやたった一匹だけしか残っていなかった。

 その鬼も膝を着き、既に虫の息である。

 眼前に立つレミリアに殴りかかる両腕も無い。

 睨みつける眼さえ、右側しか残っていなかった。

 

「恐るべき奴よ……!」

 

 まるで無造作にばら撒いたかのように散らばる仲間の屍を一瞥して、血を吐きながら呻く。

 腹に受けたレミリアの一撃が致命傷となっているのだ。

 トドメを刺すまでもない。

 鬼は、己の死を悟った。

 

「俺も、ここまでか」

「ふぅん。懇願するのならば、介錯とやらをくれてやるぞ? 貴様らの価値観では美徳なのだろう、こういうものは」

 

 潔い鬼の言動に対して、レミリアの浮かべる表情は何処までも嘲笑である。

 鬼は憎しみを滾らせて、レミリアを睨んだ。

 

「……敗者の俺がどう吠えても、見苦しいだけだろう。だが! 忘れるな、俺達鬼は――」

 

 言い掛ける鬼を遮るように、レミリアが一際大きな哄笑を上げた。

 おぞましく、下卑た、悪魔の笑い声である。

 

「いいや、忘れる」

「何!?」

「負け犬には名前すら不要。貴様を含めた、私に倒された者ども全て、有象無象として死んでゆくのだ」

「き、貴様……っ!」

「不満か。では、何か? お前ら鬼は、私から称賛の一つでも期待して死んでいったというのか? その言葉で自分を慰めながら、安らかに死んでいくのが望みなのか?」

 

 レミリアの浮かべる亀裂のような笑みを睨みながらも、鬼はぐぅっと言葉を呑み込むしかなかった。

 まるで自分の言葉を恥じるように、何も言えなくなってしまったのだ。

 胸を掻き毟りたくなるような憎しみや悔しさを噛み潰して、耐え、やがて鬼は食い縛っていた口元をゆっくりと吊り上げた。

 堪えている内に、自然と笑みが浮かんできたのである。

 

「……確かに、お前の言うとおりだ」

「では、私に何かを望むか?」

「いや、敗者が勝者に望めることなどない」

「そうか。ならば、そのまま死ね」

「おう。死ぬ」

「貴様個人のことなど忘れるが、このレミリア・スカーレットの栄光を示す歴史の一つとして刻んでおいてやろう。『かつて』最強と謳われていた鬼どもを蹴散らした、我が偉大なる戦歴としてな」

「くくっ、何処までも傲慢な……しかし、気持ちの良いくらい豪胆な奴よ」

 

 鬼は、最後の力を振り絞って立ち上がった。

 傷口から血が噴き出し、口からも大量に吐血する。

 血の海となった足元を、しっかりと踏み締めて、鬼はレミリアと真っ直ぐに向き合った。

 

「レミリア・スカーレット! 例えお前が忘れようと、俺達は地獄に落ちてもお前のことを忘れぬぞ――!」

 

 血塗れの凄惨な笑みを浮かべながら、鬼は断末魔のように声を張り上げた。

 そして、そのまま絶命したのである。

 その宣告は、不思議なことに憎しみよりも誇らしげな響きを持っていた。

 立ったまま絶命した鬼の姿を、しばらくの間見つめていたレミリアは、やがて踵を返して、同じように戦闘を終えた紫達の方へと歩み寄っていった。

 その顔には、既に嘲笑は浮かんでいなかった。

 一変して、憮然とした表情だった。

 

「無事で何より。疲れたかしら?」

 

 紫が笑いながら尋ねてくるのを、不機嫌そうに睨み返す。

 

「疲れた。お前らが全然働かないからだ」

「だって、皆貴女の方に行っちゃうんですもの」

「やっぱり若いとモテるのかしら? 羨ましいわぁ~」

 

 飄々とした紫と幽々子の態度に、レミリアはますます不機嫌な表情へと変わっていった。

 博麗神社を襲った鬼のほとんどを三人で迎え撃ったが、その戦況には酷く偏りがあった。

 多くの鬼達が、何故かレミリアへと戦いを挑んだのだ。

 もちろん、紫も幽々子も攻撃の手を休めなかったが、結果的にレミリアが鬼の強大な力を何度も正面から受けることになった。

 吸血鬼の不死性によって、今も完全に無傷の状態だったが、消耗が無いわけではない。

 レミリアが理不尽を感じるのも自然のことだった。

 加えて、そうした鬼達の行動の理由が分からないことも、不機嫌に輪を掛けている。

 何か戦略的な意図を持って、攻撃を集中させていたとは思えない。

 ――となると、幽々子の口にした『モテる』という戯言も、可能性の一つとして納得出来ないこともないから、レミリアはますます不機嫌になっていくのだった。

 詰まるところ、鬼達はただ単に好き好んでレミリアの方に喧嘩を仕掛けたということである。

 しかも、二人はそれを分かった上でからかおうとしている。

 レミリアは内心の忌々しさを表情に出さないように押し隠すと、紫に向かって不敵な笑みを浮かべた。

 

「おい、顔に何かついてるぞ。妖怪の賢者殿」

 

 レミリアは紫の頬を指して言った。

 右の頬に、赤い筋が浮かんでいる。

 血が流れ出さない程度の浅いものだったが、それは鬼によって付けられた切り傷だった。

 鬼とはいえ、格下の妖怪相手に、これは明らかな不覚であった。

 しかし、紫はその指摘に僅かな動揺すら見せずに微笑む。

 

「あら? 泥でも跳ねたかしら」

「戦いの最中に気を散らすから、そんな泥も避け損ねる」

 

 レミリアは、先程の戦闘中に紫が一瞬隙を見せたことに気付いていた。

 その理由までは分からない。

 紫だけが分かる何かの事態を察知し、ほんの僅かに動揺したらしいことまでは推察していた。

 もちろん、紫はその理由も動揺の意味も語らなかった。

 

「恐縮ですけれど、拭っていただけるかしら?」

 

 挑発的に笑い、紫は腰を曲げてレミリアに顔を近づけた。

 レミリアもまた、笑みを崩さぬまま、その挑発を受ける。

 肩から零れ落ちるように伸びた金髪を掴むと、それを引っ張って、乱暴に紫の顔を更に引き寄せた。

 傷のついた頬に口を寄せると、舌で僅かに滲んだ血を舐め上げた。

 舌が這った後には、傷痕が無くなっていた。

 レミリアが治したわけではない。紫自身の治癒である。

 ちょっとしたお遊びを終えた二人は、ゆっくりと互いの顔を離した。

 

「なんて不味い血だ」

 

 レミリアはこれ見よがしに、口に含んだ紫の血を地面に吐き出した。

 紫はそれでも態度を変えず、飄々とした笑みを維持している。

 

「まあ、酷い」

「熟しすぎたワインみたいに酸っぱかった」

 

 しかし、付け加えられた一言を聞いて、紫の笑みが僅かに引き攣った。

 背後の幽々子が『ぶふっ!?』と、不意打ちを堪えきれずに噴き出す。

 それを聞いて、紫の額に青筋まで浮かんだ。

 自らの反撃が成功したことにささやかな満足感を得たレミリアは、今度こそ心からの笑みを浮かべたのだった。

 恨めしげに睨みつける紫の視線を誤魔化すように、幽々子は咳払いを一つ挟んで、話題を変えた。

 

「とにかく、レミリアの活躍でこの辺りの鬼は退治出来たようね」

「私は、貧乏くじを引かされた気分だけどね」

「貴女に倒された鬼達は、貴女に惹かれたのよ。貴女の心意気が、彼らを最期の戦いに挑ませたの」

「分かっているわ」

「やっぱり、若さかしらねぇ」

「くだらないことを言うな」

 

 付き纏うようにからかう幽々子を、レミリアは鬱陶しそうに振り払った。

 言葉だけを見れば、年長者が若輩者の未熟を揶揄するような内容である。

 しかし、それは純粋なじゃれ合いによるものだった。

 少なくとも、宴会の時まで紫達がレミリアに抱いていた、格下を見るような蔑みの意図は欠片も無い。

 今や、紫はレミリアに対して一定の敬意を払っていた。

 此度の件を介して、それに値する存在なのだと、認めたのだった。

 機嫌を直した紫を含めて、三人の視線は、自然と残された者達へと移っていった。

 敵である鬼は、既に全滅している。

 その屍の中に、伊吹萃香の物は無い。

 逃げたか、あるいは倒された後に姿を消したか――。

 少なくとも、レミリアは萃香と戦った記憶は無く、また先程の戦いで彼女が死んだとも思っていなかった。

 異変は、まだ終わっていない。

 その確信があった。

 敵の居なくなった神社の境内において、レミリア達三人を除いて残っているのは、離れた位置に居る他の三人だけである。

 アリスと勇儀、そしてさとりだった。

 いずれも、無傷である。

 

「御三方とも、ご無事で何よりですわ」

 

 紫はアリスと、そこから少し離れた位置に居る勇儀とさとりに向かって言った。

 しかし、その言葉は形だけのものである。

 レミリアに向けて同じようなことを言ったが、中身は全く異なっているように響いた。

 特に、さとりに向ける視線はあからさまである。

 傍で見ているレミリアと幽々子にも分かるほど、紫はさとりに意識を集中していた。

 他はほとんど眼中に無い。

 ほとんど警戒に近い、深い観察の視線をさとりに向けていた。

 

「――これは!?」

 

 注意深くさとりの反応を伺っていた紫は、すぐさま違和感を察知した。

 それは、紫の全く予想していなかった異常だった。

 今回の鬼の起こした異変に古明地さとりが関わっているかもしれない、という疑いは、紫が事前に抱いていたものである。

 もっと漠然としたさとり自身への不信感も消えてはいない。

 むしろ、今回の事を経て、大きくなっている。

 だからこそ、さとりが紫の言動に対してどのような反応を見せようが、まず疑って掛かる方向へ無意識に傾いてしまっていたが、そんな心構えを嘲笑うかのように、事態は彼女の予想を超えていた。

 眼の前に映る古明地さとりの姿。

 それが『本当のさとりのものではない』と、紫は気付いたのだった。

 

「あら、やだ。その二人本当に生きてる?」

「……いや、待て! これは人形だぞ!?」

 

 幽々子とレミリアも、すぐさま勘付いていた。

 騒ぎ立てる周囲に対して、当のさとりと勇儀は――正確には二人の姿形をしたモノは――全くの無反応だった。

 視線さえ、寄越さない。

 見た目こそ、さとりと勇儀そのものにしか見えない精巧な姿だったが、そこに魂や意志といったものが宿っていないことを、紫達は見抜いていた。

 三人はそれだけの実力がある。

 つい先程まで、その事実に気付けなかったのは、鬼との戦いがあったからだ。

 少なくとも、鬼との戦いが始まる前までは存在していた、本物のさとりと勇儀を偽物に摩り替えたのは、この戦いの間以外に在り得ない。

 そして、それが可能が立場と技術を持っていた者は、一人しかいなかった。

 

「人形を用いた魔法か」

 

 レミリアが、アリスを鋭く睨みながら断定した。

 魔法使いの友人を持つが故に、その方面の技術には多少の見識がある。

 答えるように、アリスは無言で片手を動かした。

 指先の動きに合わせて、さとりと勇儀の体が崩れ落ちた。

 繋ぎ止めていた見えない糸が切れたかのように、四肢がバラバラに離れ、文字通り地面に崩れて、落ちたのである。

 不可思議なことに、地面に積み重なったその残骸は、どう見ても人工的に作られた人形のそれであった。

 頭のパーツには精巧な表情はもちろん、髪や目玉さえ備え付けられていない。

 それらを、さとりと勇儀の外見に装い、紫達を欺いていたアリスの魔法の技術は、恐るべきものだった。

 三人がそれぞれ、大なり小なり内心で戦慄する中、アリスは注目に晒されながらも、淡々と人形の残骸を片付けていった。

 

「……見事な、技ですこと」

「ありがとう」

 

 紫の呻くような称賛に、アリスは素直に応えた。

 片手に人形を仕舞ったトランクを持ち、すっかり仕事を終えた様子である。

 感情を表さない人形染みた顔付きからは、その意図が紫にさえ、全く読めなかった。

 

「古明地さとりと星熊勇儀。二人を、人形と摩り替えて、この場から逃がしましたね」

 

 紫は尋ねなかった。

 ただ、断言した。

 

「そうよ」

 

 アリスは当然のように答えた。

 

「さとりの命令で?」

「いいえ。私が提案したわ」

「貴女に、さとりを逃がす理由がありますか?」

「アナタがさとりのことを疑っているからよ。ここに残れば、色々とややこしい話をすることになる」

「私は、事を明らかにしておきたいだけですわ」

「アナタが『真実だから善』と判断するタイプではないことくらい分かってるわ。さとりにとって重要なのは、今の状況が有利か不利かだけよ。彼女には身の安全の為、一先ず地底まで帰ってもらうことにしたの」

「ふむ。随分、さとりの肩を持ちますわね。貴女は、彼女の味方なのかしら?」

「ええ、今はね」

「以前から、彼女と密かな交流がありましたか?」

「いいえ」

「貴女は、古明地さとりの部下、もしくは仲間ですか?」

「いいえ」

 

 互いに、淡々とした応答だった。

 いつの間にか、紫は話題の中から勇儀の存在を省き、さとりのことのみを対象として挙げて話している。

 それにアリスも気付いていながら、全く淀みなく受け答えをしている。

 紫は、眼の前のアリス・マーガトロイドという魔法使いとの対話に、予想以上の手強さを感じていた。

 会話の中に、虚実を交えた駆け引きがあるようには思えない。

 だからこそ、アリスの心の内を探り辛い。

 アリスという魔法使いの存在も、それをいつの間にか味方につけていたさとりの行動も、何もかもが周囲の虚を突いていた。

 

 ――これはなんとも、想定外のことばかりね。

 

 古明地さとりに関わる物事は、常にこればかりだ。

 厄介極まりない。

 紫は、内心でため息を吐かずにはいられなかった。

 

「何故、さとりの味方をするのかしらね?」

「彼女とは、まだ話したいことが多くあるからよ。それには、この場は少し騒がしすぎる」

 

 独り言のような紫のぼやきに、アリスは律儀にも答えていた。

 それが嘘か真か。

 疑うことが面倒になって、紫は追及を放棄した。

 現実として、話題の当人であるさとりは、まんまとこの場から逃げおおせてしまったのだ。

 しかも、それが本人が後ろ暗いところがあって逃げ出したのではなく、アリスの判断と提案によって、促される形で行われたのだから、あまり悪いように捉えるわけにもいかない。

 さとりの思惑を探っていた所へ、アリスの思惑が絡んで、事態を複雑にしてしまった。

 さとりへの不信感と疑念は残ったままだが、何一つ決定的な結論は無く、疑いは疑いのまま残っただけである。

 そして、それを長々と考察も追及も出来ない状況に、今は陥っているのだ。

 鬼の異変は、まだ終わってはいない。

 そちらの方が、今は優先すべき事柄である。

 

 ――あるいは、それも計算に入れてのことなのか。古明地さとり。ああ、まったくもう。

 

 紫ほどさとりを深く疑ってはいないレミリアと幽々子が、黙り込んだ紫を不思議そうに見つめる。

 結局、紫はさとりに関わる全ての問題を、一時的に棚上げするしかなかった。

 

「伊吹萃香を、追いましょう」

 

 紫はアリスから視線を外して、レミリアと幽々子に告げた。

 旧知の幽々子はともかく、レミリアは二人のやりとりが唐突に切り上げられたことや、その意図が分からず、何かと不満気な表情である。

 しかし、紫の提案に乗るように歩み寄るアリスを見て、困ったように頭を掻いた。

 これで、アリスが逃げるようにこの場を去るのなら、幾らか反応のしようもあるが、まるで先程のやりとりなど無かったかのように澄ました顔で残っている。

 さっきの意味ありげな会話は何だったんだ、と。レミリアは眉を顰めて黙り込むしかなかった。

 アリスに改めて何かを尋ねるのも億劫に感じた。

 そもそも、その『何か』が具体的に何なのか、レミリア自身にも分かっていない。

 

「……それで? 本物の伊吹萃香が何処に居るのか、アンタは分かってるのかしら?」

 

 結局、レミリアは紫に対して、そう尋ねるしかなかった。

 

「ええ。彼女は、おそらく人里で待っているわ」

「待っている?」

「ええ」

 

 紫は確信を持って答えた。

 

「彼女は、私達が集まるのを待っている」

 

 

 

 

 魔理沙と妖夢。

 対峙する二人の硬直が解けたのは、すぐのことだった。

 正確には、妖夢の方が先に動いていた。

 魔理沙は動きも視線も固まったまま、妖夢を睨みつけるだけである。

 妖夢は長刀と、それよりも僅かに短い刀を両手に持っていた。

 鬼の頭を串刺しにしているのは、長刀の方である。

 妖夢は、その刀身に這わせるように、短刀を横へ滑らせた。

 先端に突き刺さった鬼の頭に刀が当たり、そのまま刀身から引き抜く。

 引き抜くだけではなかった。鋭い横薙ぎによって、鬼の頭は真一文字に両断されていた。

 刀身から離れ、空中に投げ出された二つの塊を、更に駄目押しとばかりに、縦にも両断する。

 四つの塊に割られた鬼の頭は、そのまま胴体を追うように、夜の闇が満ちる地上へと落ちていった。

 その一連の動きを、魔理沙は見開いた眼で見ていた。

 歯を食い縛り、拳は知らず力を込めて握り締めている。

 妖夢の所業に、魔理沙は強い怒りを覚えていた。

 

 ――何故か?

 

 鬼は、敵である。

 ついさっき、魔理沙も命懸けで戦った相手である。

 何を怒る必要があるというのか。

 魔理沙は自覚せずに、怒っていた。

 

「……なんでだ?」

 

 魔理沙は押し殺したような声を洩らした。

 

「なんで、あの爺さんを斬った?」

「爺さん? 先程の鬼のことですか」

 

 妖夢が刀を鞘に納めながら問い返す。

 

「そうだ。なんで斬った!?」

「隙があったからです」

「当たり前だろ! あの時、もう決着はついてたんだ!」

「決着とは、貴女とあの鬼との勝負のことですか」

「そうだ!」

「確かに勝負は終わっていました。ならば、あれは後始末です」

「なんだと!?」

「別に、あれを自分の手柄などと吹くつもりはありませんから、安心して下さい」

 

 妖夢の見当違いの配慮を振り払うように、魔理沙は殊更大きな声で叫んでいた。

 

「殺す必要なんてなかった!」

「鬼を生かしておく必要はありません」

「わたしがっ、殺すなって、言ってるんだっ!!」

 

 腹の底から搾り出すような叫びだった。

 理屈は無い。

 理由も自分で分からない。

 あの鬼の死自体を、そこまで深く悲しんでいるわけでもない。

 ただ、妖夢の行いと、それを当然だと思っている彼女の態度に、心底怒りと苛立ちを抱いているのは確かだった。

 慟哭のような魔理沙の叫びを聞いた妖夢は、しばらく呆けたように見つめた後、ふっと表情を消した。

 魔理沙を見る眼が明らかに変わっていた。

 完全な蔑みの視線である。

 

「……そうでしたか」

 

 妖夢の受け答えは、気の抜けた単なる相槌以上の意味を持っていなかった。

 目の前の人間を、もはや吠える野良犬程度にしか認識していない。

 取るに足らないものを見る眼つきだった。

 

「それは、申し訳ありません。では、私はこれで」

「待てよ」

 

 手っ取り早くこの場を離れようとする妖夢を、魔理沙が呼び止めた。

 

「……私は、貴女と違って忙しいのですが」

 

 その態度と口振りから、妖夢が今の自分をどう捉えているのか、魔理沙は察していた。

 しかし、冷たい視線を歯牙にも掛けず、自らの要求とスペルカードを共に突きつけた。

 

「わたしと、勝負しろ」

「私は『忙しい』と言ったんです」

「鬼退治の仕事か?」

「そうです」

「それは、本当にお前がやりたいことなのか?」

「やりたい、やりたくない、ではありません。幽々子様から仰せつかった大切な用事なのです」

「言われるままにやってるってことだろ? お前自身、誰かを助けたいとか守りたいとか、その為にさっきの鬼を斬ったわけじゃないはずだ」

「それがどうかしましたか?」

「以前、冥界で初めて会った時は、霊夢とだけ勝負をして、わたしとはしてなかったよな。ここで続きをしようぜ」

「……いい加減にしろ」

 

 妖夢の口調と表情が変わった。

 苛立ちを、殺気と共に表に出し始めている。

 殺気は、魔理沙に対する威圧と警告だった。

 

「お前が何を考えているのか知らないし、興味も無いが――それで挑発のつもりか? お前のようなどうでもいい相手と、時間を無駄にしている暇は無いと言っている」

 

 言いながら、刀の鞘に片手を掛けている。

 明らかな脅しだった。

 近づいてきた野良犬に、ドンッと地面を踏み鳴らして追い払うのと同じ意味を持つ仕草だった。

 少なくとも、妖夢にとって目の前の魔理沙はそれと同等の存在だった。

 そんな妖夢の反応に、魔理沙は僅かに汗を滲ませながらも、口元を吊り上げていた。

 

「私が本気で刀を抜かないと思っているのか?」

「……いいや」

「私はお前を本気で鬱陶しいと感じている。かといって、殺すのも後が面倒だ。腕一本、足一本斬り落とすのが最も手早く、妥当かと考えている」

 

 妖夢は自らの胸の内を、ありのまま説明するようにゆっくりと語った。

 そして、それが事実なのだと、魔理沙は悟っていた。

 笑っているのは、強がりではない。

 目の前の、まだ刀を抜く体勢にさえ入っていない妖夢が、恐ろしい。

 恐怖が体にも伝わり、小さく震えている。

 妖夢の剣術は、つい先程生き試しによって目の当たりにしたばかりだ。

 自分の弾幕で傷一つつけられなかった鬼の肉体を、切断してみせた。

 隙があったとか、相手が既に戦意を喪失していたとか、そういった精神的な要因も無いわけではないが、鋼鉄に等しい鬼の首を一撃で叩き斬った実力は本物だ。

 なにより、妖夢には躊躇が無い。

 今の段階でも、挑んだ側であるにもかかわらず、殺し合いではない純粋な弾幕ごっこによる勝負を想定している魔理沙に反して、妖夢の方は自らの口にした行動を実行する覚悟を持っている。

 あと、数言――会話の進め方を間違えれば、その瞬間妖夢は刀を抜く決断に踏み切るだろう。

 魔理沙の手か足を斬り落とすことを躊躇わないだろう。

 そして、その時にそれを避けられるという絶対の自信が、魔理沙には無かった。

 

 ――殺し合いになった場合、わたしは妖夢に勝てるのか?

 

 勝てるわけがない。

 だから、怖い。

 それをよく分かっている。

 分かっていて尚、魔理沙は笑っていた。

 

「さあ、そこをどけ。野良犬、噛み付く相手を間違えるな」

「嫌だね」

 

 魔理沙は舌を出した。

 

「間違えちゃいないさ。わたしは、たった今、お前とどうしても勝負したくなったんだ」

「今がどういう事態なのか、理解出来ていないのか?」

「鬼の異変のことか? だったら、わたしには関係無いね。幻想郷の何処で、誰が暴れようが、知ったことじゃないぜ」

「見下げ果てた奴だな」

「生憎と、わたしは見知らぬ誰かの為に戦えるような器じゃなくてね。お前はどうだ? お前は、幻想郷の平和や人里の平穏を脅かす奴らを許せないって正義感で動いてるのか? 違うだろ」

「少なくとも、お前よりも正当な目的で動いている」

「正しいとか、間違ってるとか、関係ないんだよ。わたしは、ただ自分に納得のいく勝負がしたいだけだ!」

「――駄犬が。言葉も解さぬか」

 

 妖夢がもう片方の手を、刀に添えた。

 魔理沙は勝負を仕掛けた。

 弾幕の勝負ではない。

 言葉の勝負である。

 

「お前も同じだろ? 魂魄妖夢」

「何!?」

「同じ霊夢に負けた犬同士、どっちが上か決めておきたいんだよ。わたしは」

 

 妖夢の眼の色が変わった。

 固く結んだ唇の内側で、噛み締めた歯が鳴る音を、魔理沙は聞いたような気がした。

 もはや、妖夢が魔理沙に対して抱く感情は明白である。

 妖夢の殺意は、怒りと苛立ちによって高まっていた。

 奇しくも、精神的な面において妖夢は魔理沙と同じ位置にまで来てしまったのである。

 もう、目の前の存在を無視することなど出来ない。

 

「貴様……っ!」

 

 魔理沙の言葉は単なる音として聞き流されることなく、致命的な意味を持って妖夢のトラウマに直撃していた。

 もはや当初の見下すような視線も、余裕の態度も無い。

 冷徹な仮面は、無残にも崩れ落ちている。

 燃え滾るようなものが瞳に宿り、その眼で魔理沙を睨み、更にその先に幻視した霊夢を睨んでいた。

 

「なあ、妖夢。お前が霊夢にコテンパンにやられた時、わたしは他人事だったよ。あいつの横に並んで、お前を見下ろしてた。

 でも、違うんだな。わたしはあいつと並んでなんかいなかったんだ。他人事じゃなかったのさ。――今、分かったよ」

 

 妖夢の殺気が届いていないかのように、魔理沙は続けた。

 自分にも言い聞かせているような独白に近い呟きだった。

 

「てっぺんはもう決まってんのさ。そこから下に大した違いはないんだ。だけど、目クソと鼻クソ、どっちがマシなのかくらいは決めとこうぜ、妖夢」

「……取り消せないぞ」

 

 妖夢は引き剥がすように刀から手を離し、代わりにその手で懐からスペルカードを取り出した。

 

「もう、取り消せないぞ。お前を、無様な負け犬にしてやるっ! 霧雨魔理沙!!」

 

 自分が、魔理沙の挑発にまんまと乗ってしまったことを、妖夢は自覚していた。

 魔理沙を、このまま刀で斬ることは容易い。

 腕の一本も失えば、目の前の人間は憐れに許しを乞うかもしれない。

 

 ――しかし、それでは意味が無い。

 ――自分にとって、意味が無い。

 ――『勝負』で負かさなければ、意味が無い!

 

 妖夢は、そんな自分の行動が魔理沙に誘導されたものだと自覚していた。

 その上で、あえて魔理沙との勝負――彼女の望む『弾幕ごっこ』――に臨むことを決意したのだった。

 かつて致命的な敗北を喫した霊夢との勝負が、その弾幕ごっこだったからという理由がある。

 しかし、妖夢は最も肝心な部分を不明瞭なまま自覚せず、疑うことさえしていなかった。

 

 ――何故、意味が無いのか?

 ――何故、自分が納得できないのか?

 

 自分の把握出来ていない内側の部分で、妖夢自身の勝負はとっくに始まっていたのだった。

 一方の魔理沙も、自らの行動を把握し切れていない所があった。

 妖夢に勝負を挑もうと思ったのは、彼女があの鬼を斬ったからではない。

 少なくとも、それだけは断言出来る。

 あの時の怒りや苛立ちで突っかかるほど、短絡的ではない。

 では、何なのか?

 分からない。

 ただ、ひたすらにあの時は――納得がいかなかった。

 それだけは強く感じていた。

 感情である。

 妖夢と戦う必要性は無い。

 そこまで考えて、魔理沙は思考を放棄した。

 必要や義務といった部分に考えが及ぶ前に、感情を優先して行動した。

 それが正しいとは思わなかった。

 それで良いとだけ思った。

 妖夢を挑発するついでに語った、霊夢に関わる自身の心境が理由の一部ではある。

 しかし、もっと他の部分もあるはずだった。

 それが何のなのかは分からない。

 分からないまま、勝負が始まろうとしている。

 迷いだけは無かった。

 あの鬼と対峙していた時のような、恐怖や勝算の有無による躊躇というものが生まれなかった。

 一度、命懸けの勝負を経験し、尚且つそれに勝利したおかげかもしれない。

 

 ――勝利。『あの鬼』との勝利。

 

 ここに至って、魔理沙は唐突に気付いた。

 あの鬼の名前を、自分は知らない。

 それを自覚すると、突然別のことにも気付いた。

 先程から思い返す度に、あの鬼の顔が漠然としか脳裏に浮かばないのだ。

 老いた顔付き、というイメージだけが先行し、詳細が思い出せない。

 つい先程のことなのに、もう思い出せない。

 そして、その事実が別段ショックでもなんでもないのだ。

 考えてみれば、当然のことだった。

 相手は敵だったのだ。

 自分を食い殺そうとしていたのだ。

 妖夢に殺されたからといって、怒りを抱く義理も無いような相手なのだ。

 悲しくだって、ない。

 なのに――。

 

 ――納得いかないよ。

 

 魔理沙は唇を噛み締めた。

 

 ――爺さん。なんで、死ぬ前に名乗ってくれなかったんだよ。

 ――あんたの名前、訊いてないよ。

 ――これじゃあ、わたし忘れちゃうよ。

 ――あんたなんかより、凄い奴らがわたしの周りにはゴロゴロいるんだ。特に、同じ人間のクセにとんでもないのが友達にいてさ。

 ――わたしの記憶の中で、名前も知らない鬼のことなんて、そんな名前のある奴らに呑み込まれちゃうよ。

 

 悲しくは無いのに、魔理沙は泣きそうになるのを堪えていた。

 何故、こんな気分になるのか自分でも分からない。

 しかし、この心に根付く、正体の掴めない何かが、今の自分を突き動かしている。

 目の前の、スペルカードを発動する妖夢との勝負に挑み、それに勝利することを強く欲している。

 

「わたしは、負けないさ」

 

 妖夢の言葉に応えるように、魔理沙は呟いていた。

 ただ一つだけ分かっていることがあった。

 何を、かは分からない。

 誰に、かは分からない。

 

「勝負だ、妖夢――!」

 

 ただ自分は今、証明する為に戦うのだ。

 それは妖夢も同じだった。

 

 

 

 

 ――地下図書館に残存していた鬼達は、咲夜がパチュリーの援護に回った瞬間、一掃された。

 

 咲夜が滑り込むように図書館に現れ、手近な鬼目掛けてナイフを二本投げつけた。

 狙いは二つの眼球である。

 全く遠慮も容赦も無い狙いだった。

 そして、その攻撃はそこまで精密な狙いなど必要なかったのではないかと思うほど、あっさりと当たった。

 それだけだった。

 恐るべきことに、剥き出しの眼球に当たったナイフの刃さえ、鬼を傷つけることが出来なかったのである。

 眼に砂が入った程も気にせず、その鬼は咲夜に向かって反撃した。

 口から吐き出した火球を、咲夜は舞うような動きで回避し、素早くパチュリーの傍らに控えた。

 鬼達は、その人間が敵の援軍なのだと理解した。

 それが何の問題にもならないと、判断した。

 その次の瞬間である。

 鬼達の目の前に、魔力で形成された巨大な火球が迫っていた。

 先程吐き出した火球の数倍はあろうかという熱量の塊である。

 

 ――日符『ロイヤルフレア』

 

 パチュリーの発動したスペルカードが、鬼達を飲み込む寸前だった。

 

「な、なんだとぉ!?」

 

 不可解な叫びを上げる以外に、何の猶予も鬼達には残されていなかった。

 これほどの魔法を行使するのに、何の前動作も溜めの時間も存在しなかったのだ。

 咲夜に一瞬意識が向いていたとはいえ、眩い程の光と熱を放つ火球を、肌で感じる距離まで気付けなかったのである。

 鬼達は、何も分からぬまま、魔の劫火に飲み込まれた。

 炸裂した炎は、しかし、鬼達だけを包み込むように、一定の範囲から外へ拡散しない。

 事前に、標的を囲むように設置された結界の中に、火球が放り込まれたからだった。

 もちろん、その『事前の結界』が何時作られたものなのか、鬼達は分からなかった。

 分からないまま、密閉空間で炸裂することで威力の倍加したロイヤルフレアによって、焼き尽くされていた。

 文字通りの『一掃』である。

 

「……スペルカード宣言くらいは、聞かせてもよかったかもね」

「そこまで律儀になる必要は無いかと」

「それもそうね」

 

 魔法で発生した炎ゆえに、急速に鎮火していく様を見下ろしながら、パチュリーは呟いた。咲夜が素っ気無く相槌を返す。

 パチュリー自身も、先程の反則に近い攻撃について、そこまで気にしているわけではない。

 パチュリーは、咲夜が停止させた時間の中で、全ての準備を完了させ、不意打ちのような形でスペルカードを発動させたのだった。

 咲夜の能力の影響下にいた鬼達には、突然目の前に迫る必殺の魔法しか見えなかっただろう。

 結界で囲い込んだのは、魔法の被害を広げない為もあるが、同時に標的と攻撃の威力を一つの空間に閉じ込める為でもある。

 故に、逃げることも防ぐことも出来なかった。

 パチュリーの火力と咲夜の特殊能力を組み合わせた結果得た、味気も容赦も無い勝利だった。

 

「お怪我はありませんか?」

「無傷よ。喉の方も、まだまだ調子が良いわ。図書館にも、多分被害は無し」

 

 地面に降り立ったパチュリーに合わせて、何処からともなくテーブルと椅子とティーセットが飛んできた。

 戦闘になる前まで使っていた一式である。

 あれだけの戦闘がありながら、埃一つついていない。

 

「汚れているのは、あそこだけね」

 

 椅子に腰掛けながら、先程まで鬼達が居た場所を指差す。

 そこには、もう焦げ臭い煙を弱々しく上げる黒い塊が幾つか残っているだけだった。

 

「後で片付けておきます」

「いえ、小悪魔にやらせるわ。その前に――」

「はい。妹様が、先に到着されたと思うのですが」

「ええ、凄いスピードで図書館に入ってくるのを見たわ。一瞬、視界に捉えたわね。でも、何処に行ったのか……」

 

 図書館の内部にいることだけは間違いなかった。

 それを探し出そうと、パチュリーが片手間で探査魔法を発動しようとした。

 その時である。

 爆音と振動が図書館全体に響き渡った。

 近い。

 二人は、咄嗟に爆発の起こった方向を見た。

 正確には、爆発が起こったのではなかった。

 爆発染みた勢いで、図書館の壁が破壊されたのである。

 図書館の一角にある部屋の内側から、壁を突き破って二つの人影がパチュリー達の前に転がり出てきたのだ。

 探すまでもなかった。その影の一つは、フランドールだった。

 もう一つは、萃香だった。

 取っ組み合ったまま、二人は地面を転がって移動していた。

 

「力はなかなか――」

 

 吸血鬼の腕力で胸倉を締め上げられながら、萃香は笑っていた。

 その吊り上った口元目掛けて、フランドールが拳を叩きつける。

 人間ならば顎が丸ごと削がれんばかりの威力だったが、萃香の口元には僅かな血が滲んだだけだった。

 

「拳は、握り方からなっちゃいない!」

 

 萃香は、笑いながら殴り返した。

 二人とも密着状態だったが、お互いに体格は小柄である。

 小さく畳んだ腕が狭い空間の中で鋭い弧を描き、十分な威力を乗せてフランドールの頬を吹き飛ばした。

 首の骨が軋む程の衝撃が伝わる。

 体勢が崩れ、萃香がフランドールのマウントを取る形になる。

 フランドールに格闘の知識は無かったが、この状態が自身に不利であることは直感的に分かった。

 

「――ぅわぁああっ!!」

 

 フランドールは、叫びながら飛んだ。

 萃香の体を掴んだまま、地面を擦るように飛行する。

 その最中で、無理矢理に体勢を入れ替える。

 萃香はその足掻きを、むしろ楽しむように受け入れていた。

 二人が、凄まじい勢いで本棚に激突する。

 施された防護魔法が破壊されかねない程の衝撃だった。

 咲夜とパチュリーは、少女の姿をした二匹の怪物の肉弾戦を、睨むように見守ることしか出来なかった。

 

「パチュリー様、妹様の援護は?」

「無理よ。近すぎるし、速すぎる」

 

 呻くように答える。

 密着した二人の内、一方にだけ正確に攻撃を加えることは至難の技だった。

 どちらかと言えば、そういった精密動作は咲夜の方が向いている。

 しかし、咲夜の力では萃香相手に有効な攻撃を加えられない。

 肝心のフランドール当人は、戦いに集中しすぎて、周りに自分の仲間がいることに気付いていないのだった。

 

「殺すっ!」

「威勢だけは一丁前だな」

 

 激するフランドールに対して、萃香は楽しむ余裕すらあった。

 体勢が入れ替わり、上から振り下ろされる形になったフランドールの攻撃を、かわし、受け止め、時にはまともに食らいながら、血を吐きつつ笑みを絶やさない。

 萃香は、少なくとも戦闘力の面では全力だった。出し惜しみは無い。

 しかし、精神的な面では余裕があった。

 単純に妖怪としての年季と経験の差である。

 爆撃のようなフランドールの拳を耐え抜き、ついに振り抜いた右腕が戻る一瞬の隙を突いて、手首を掴み取った。

 

「捕まえたぶっ!?」

 

 勝ち誇る間も無く、左の拳が鼻っ面に叩き込まれる。

 地面と挟まれ、物凄い音が頭蓋骨を通して外側に響いた。

 しかし、そこで左腕の動きも止まった。

 ダメージを顧みず、萃香が左手首も掴み取ったのである。

 両腕を封じられ、フランドールは僅かに動揺した。

 渾身の力を込めて抵抗する。

 動かない。

 いや、ゆっくりと動かされていく。

 萃香の腕力が、フランドールの腕力を僅かに上回っているのだった。

 

「鬼相手に力比べってのは――」

 

 顔面にメリ込んでいた左拳がゆっくりと動き、鼻血塗れになった萃香の凄惨な笑みが視界に映った。

 

「甘ぇんだよ!」

 

 次の瞬間、萃香は口から炎を吐き出していた。

 ただの火ではない。伊吹萃香の鬼火である。

 轟と空気が唸るような火炎は、無防備なフランドールの上半身を丸ごと飲み込んだ。

 絶叫が上がる。

 耳を塞ぎたくなるような、生きたまま焼き殺される少女の甲高い悲鳴だった。

 フランドールが、生涯で初めて感じる痛みに上げる声だった。

 もはや、抵抗も何も無い。

 掴まれていた両腕を振りほどき、それで反撃をすることもなく、焼け焦げた顔を覆う。

 戦いの最中で、あまりに無防備だった。

 その隙を見逃すほど、萃香は甘くはなかった。

 

「餓鬼がっ!」

 

 両手ごと、フランドールの顔面を拳で打ち抜いた。

 吹き飛ばされ、正反対の位置にある本棚に激突する。

 本棚に背を預けたまま、ズルズルと腰から崩れ落ちるフランドールとは対照的に、萃香はゆっくりと立ち上がっていた。

 こちらの顔面も血塗れである。

 しかし、苦痛を表に出すこともなければ、全く堪えた様子もない。

 この程度の痛みや傷など、彼女にとっては日常茶飯事であるかのようだった。

 

「……レミリア・スカーレットが凄い奴だったから、同じ吸血鬼ってんで期待してたんだけど」

 

 萃香は額の血を手のひらで拭いながら言った。

 

「やっぱり、あいつが特別だったのかな?」

 

 火傷の痕が即座に回復していく様を眺めながら、それでも中々立ち上がろうとしないフランドールに向けて放つ。

 肉体のダメージではない、『苦痛』という精神へのダメージから回復することが出来ない彼女を揶揄する言葉だった。

 

「お前、痛みってもんをまともに感じた経験がないのか?」

「ぅ……ぁぁ……っ」

「それとも、そんな必要も無いくらい過保護に守られてきたのかな?」

 

 萃香は意味ありげに、視線を移した。

 自分を怒りと殺意に満ちた眼で睨みつける、咲夜とパチュリーにニヤリと笑い掛ける。

 

「次はお前らか?」

「パチュリー様、奴にスペルカードは必要ありません」

「ええ。問答無用で消し飛ばしてやるわ」

「いいねぇ、部下の手厚い保護ってわけかい」

 

 敵意を滾らせる二人をあえて無視するように、萃香は再びフランドールに視線を戻した。

 吸血鬼の再生力によって傷を修復したフランドールは、立ち上がっていた。

 立ち上がったということは、精神的なダメージからも回復したということである。

 再び、萃香と戦う気力を取り戻したということである。

 何故、唐突に――?

 フランドールの眼を見た萃香は、その理由を察した。

 

「……そうか。それがお前の本当の力か」

 

 フランドールの瞳には、先程までは無かった『狂気』が宿っていた。

 いや、正確には先程まで鳴りを潜めていたものが、痛みによって表に引き出されたのだった。

 吸血鬼の少女は、かつて振るっていた真の力を引き出す為に、狂おうとしていた。

 

「お前は、狂うことでこれまで痛みを感じてこなかったんだな」

「――す」

「うん、それもいい。そういう強さもある」

「――殺す!」

「うん、来い」

 

 萃香はにっこりと笑って、フランドールの狂気を手招きした。

 恐れも、怯みも無い、無造作な仕草だった。

 フランドールが両手を掲げる。

 その手の中に、パチュリーが魔法で生み出したものよりも、更に高熱で圧縮された炎が発生し、剣の形を取って一直線に伸びた。

 炎の剣――『レーヴァテイン』である。

 その剣が発生しただけで、図書館内の室温が急激に上昇した。

 人間である咲夜が苦しげに呻くのを聞き、慌ててパチュリーが魔法障壁を作り出す。

 禁忌にも至る、恐るべき魔の炎だった。

 剣先を向けられる側にとっては脅威以外の何ものでもないそれを、萃香は挑むように睨みつける。

 そして、フランドールは――不意に、我に返った。

 唐突に狂気の消えた瞳で見ていたものは、敵である萃香ではなく、苦しげな咲夜の様子だった。

 フランドールは思い出した。

 かつて、同じようにこの剣で彼女を傷つけたことを。

 そして今、全く同じことを繰り返そうとしていることを。

 

 ――狂うままにこの力を振るえば、敵だけではなく、周囲を壊し、誰かを傷つけることになる。

 

 フランドールは何かに抗うように、歯を食い縛った。

 そして、ゆっくりと、手の中から炎の剣を消していった。

 

「……どうした?」

 

 訝しげな表情を浮かべる萃香を、改めて睨み返す。

 黙ったまま、無手になった両手で拳を握った。

 萃香に一度やられる前と同じ、格闘による戦いをする為である。

 

「なんだ、そりゃ? それはお前の本当の力じゃないんだろう?」

「――」

「なんだい、戦いを投げる気なのかい?」

「違う。だけど、あの力は使わない」

「力を使うのが、怖いか?」

「……怖い」

「ビビって満足に力も使えないって?」

「使えないんじゃない。使わない」

「同じことさ」

「同じじゃない。わたしは、もう……狂わない!」

「狂わなければ、わたしには勝てないよ。今のお前は未熟さ。戦いの痛みに耐えられない」

「それでも……それでもっ!」

 

 フランドールは、涙ぐみながら拳を構えた。

 形だけの構えである。

 格闘戦における有用性を何一つ含んでいない構えだった。

 今の彼女にあるのは、戦い抜く意思というよりも、己の力を抑え込む決意だった。

 そんな幼子が必死になるような様を見て、萃香は気の抜けたように笑った。

 

「駄目だな。『自分の力が怖い』――そんな心構えじゃあ、駄目さ。わたしの前に立つには、百年早いよ」

「うるっせえんですよ。じゃあ、百年待って出直してきて下さい」

 

 完全な不意打ちだった。

 咲夜でもパチュリーでもない声が聞こえた瞬間。萃香が反応する間も無く、その四肢が突然発生した魔法陣によって固定された。

 しかも、何重にも重ね掛けされた拘束魔法である。

 前動作の無い、一瞬の出来事だった。

 

「何!?」

「その時は、きっと成長した妹様がお前なんかギタギタにしちゃいますからねぇ」

 

 萃香は状況の把握と、そこからの脱出を同時に行った。

 しかし、両方とも無駄に終わった。

 渾身の力を込めても拘束は破れず、萃香が見たのは突然の事態に呆けた表情を浮かべるフランドールだけだった。

 咲夜とパチュリーは、既にその場から動いていた。

 

「――傷魂『ソウルスカルプチュア』!」

「――火金符『セントエルモピラー』!」

 

 咲夜の切り札が無数の強力な斬撃を飛ばし、抜き撃ちのような速さでパチュリーの火球が叩き込まれる。

 身動きの取れない状態で、萃香はその二つの攻撃をまともに食らう形になった。

 眼や口、耳、あるいは各関節といった急所を何度も重ねて切り刻まれ、その上から灼熱の業火で焼き尽くされる。

 並の鬼ならば消し炭すら残らない攻撃を受けて、萃香はボロボロの火達磨になって地面に転がった。

 その時には、既に拘束魔法は解除されていた。

 パチュリーは、その魔法を素早く解析して、答えを導き出した。

 

「……仕掛けておいた罠魔法。小悪魔、アナタね!?」

「ンフフ――」

 

 低い笑い声を響かせながら、小悪魔はこれ見よがしにゆっくりと登場した。

 フランドールのすぐ背後の本棚の陰からだった。

 

「罠の設定を少し弄りました。ナイスタイミング&フォローだったでしょう?」

「顔、どうしたの?」

「美しくないんで、あまり見ないで下さい」

 

 小悪魔は、丸めたティッシュの突っ込まれた鼻をさりげなく隠した。

 

「小悪魔……」

「はい、小悪魔です。大丈夫、怪我は大したことありませんよ」

 

 何かを言いたそうにしながら、上手く言葉に出来ないフランドールを慰めるように、小悪魔は髪を撫でた。

 そのまま、優しく抱き締めた。

 

「ありがとうございます。妹様のおかげで、私は助かりました」

「わた……し……っ」

「はい、よく頑張りました。本当ですよ。妹様は、一つ成長したんです」

「でも……!」

「あれでいいんです。少なくとも、私は良かったと思います。堪えることも強さです。レミリア様のような戦う為の強さは、あそこから始まるんですよ」

「ぐ……っ、ふぅぅ……っ!」

 

 後はもう、言葉にならなかった。

 溢れる涙の理由が、安堵なのか悔しさなのか、分からなかった。

 フランドールは小悪魔の胸に顔を埋め、嗚咽を必死で噛み殺しながら、泣き続けた。

 咲夜とパチュリーは複雑な表情を浮かべていたが、少なくとも小悪魔の話の意味を理解し、それが適切なものだと納得だけはしていた。

 ――泣きじゃくるフランドールを抱き締めながら、優しさや母性以外が混じる嫌な愉悦に浸った小悪魔の笑みを見ていると、不安以上の怖気を感じるのだが。

 二人は、そこから眼を逸らすように、視線を移した。

 かろうじて立ち上がった、萃香にである。

 

「こ、こんにゃろう……まぁた、安全な場所から不意打ちか」

「他人の家庭の問題に、無遠慮な口出しするからですよ。容赦はしませーん」

「てめっ、いつか本気でぶっ飛ばしてやるからな……!」

「明日までなら覚えておきます。ひひっ」

「畜生ぉ……」

 

 悪態を吐きながらも、萃香は苦笑を浮かべていた。

 自分の不意を突いた小悪魔を睨み、二人掛かりで攻撃した咲夜とパチュリーを見つめる。

 その瞳には、理不尽を訴えるようなものや、責めるといった意思は映っていなかった。

 

「でも、まあ……鬼がどうこう言えねえかぁ」

 

 そう呟いて、萃香は今度こそ力尽きて倒れた。

 大の字に仰向けになった萃香の体が、風に浚われる砂のように霧散し、消えていく。

 

「あれは、分身だったようね」

「やはり」

 

 あれが萃香の死を示すものでないことは、咲夜にも分かった。

 萃香は生きている。

 ただ単に、この場から去ったのだ。

 パチュリーが指先で虚空をなぞると、得体の知れない呪紋が幾つも浮かび上がり、明滅した。

 何かの魔法を行使しているようだが、素人の咲夜にはそれが何なのか分からない。

 パチュリーの伺うような視線と思案するような表情から、何かを探っていることだけは何となく分かる。

 しばらくの間見守っていると、唐突にパチュリーは、咲夜を含む三人に顔を向けた。

 

「行くわよ」

「行くとは、どちらにですか?」

「あの鬼が向かった先」

「奴を追う必要はありますか?」

「咲夜は必要が無いと考えているの?」

「……いいえ。私は追う必要があると思います。ですから、私一人が向かって――」

「そう思わせることが、あの鬼の能力なのだとしたら?」

「――」

「ハッキリとは分からないけれど、そういう作用があるとしか考えられない。アイツは、私達を何処かに呼び寄せたいようね。いや、集めたいのかしら」

 

 自身の考察を切り上げて、パチュリーは三人に視線を送った。

 咲夜はもちろん、フランドールと小悪魔にも意思を問うように瞳を見据える。

 

「向かう先は――人里よ。私と一緒に行くつもりはあるかしら?」

「お供いたします」

「……わたしも、行く。きっと、小母様もそこに居ると思うから」

 

 咲夜とフランドールは、そう答えた。

 

「私は嫌ですけど」

 

 小悪魔の返答はもちろん無視した。

 

 

 

 

 ――美鈴は、その人物と曲がり角で遭遇した。

 

 女、というよりも少女ぐらいの年頃である。

 偶然、同じタイミングで二人の眼が合った。

 美鈴はその瞬間まで、周囲の気配を探り、眼で動く影を探りながら駆け足で進んでいた。

 奇しくも、相手も同じような状況だったらしい。

 逸らしていた視線が、曲がり角で相手を見つけた瞬間、ぶつかったのである。

 

 ――敵か!?

 

 美鈴が、その時感じたものは己の迂闊さであった。

 たとえ曲がり角で姿が見えなくとも、気配や足音などで十分に接近は察知出来たはずだ。

 周囲の気配に意識を割きすぎた。

 正確には、未だこの人里を徘徊しているであろう鬼の明確な『敵意』を探ることに集中しすぎたのである。

 だからこそ、目の前の少女が纏う『敵意の無い気配』に気付くのが遅れたのだった。

 

 ――いや、敵意が無いのならば、敵ではない。

 

 そう結論を出す前に、少女の方が仕掛けていた。

 美鈴から見て、小柄な少女の体格が、突然倍近くにまで膨れ上がったかのように見えた。

 その膨れ上がった圧力を右腕に収束させて、少女は突きを放ってきたのである。

 

「ぬぅ!?」

 

 美鈴は瞬時に横へ跳んでいた。

 結果、少女の突きをかわしていた。

 曲がり角で遭遇して、まさに瞬く間の出来事である。

 走ってきたスピードを殺し、いきなり眼の前に現れた人物を判断し、尚且つその攻撃まで避ける。それだけの動作を、見事な身のこなしでやってのけたのだ。

 しかし、一方で美鈴もまた少女の攻撃に戦慄していた。

 なんという鋭く、重い突きか。

 体の何処でもいい、もし当たっていたら、その箇所の骨まで砕かれていただろう打撃力が込められている。

 それを察すると、もはや反射的に美鈴の体は動いていた。

 最初に敵意を感じなかったことが引っ掛かっているが、最も分かりやすい脅威を感じ取ったことで、美鈴は反撃に移らざるを得なくなったのだった。

 

 ――こいつ、『武術』を使える!?

 

 回避と同時に横に回り込んだ美鈴は、後頭部を狙った蹴りを繰り出した。

 軸足でドリルのように地面を抉る、強烈な蹴りである。

 もし、この少女の正体が鬼であるのならば、これでも牽制程度にしかならない。

 防御の反応を誘えれば上出来といったところだろう。

 しかし、少女はあろうことか、同じような蹴りを放つことでそれを迎え撃った。

 互いの威力を相殺し合うように、蹴りの軌道の途中で二本の足がぶつかり合う。

 激突した蹴りは、しかし、一方が押し負けて、体勢を崩した。

 少女の方である。

 彼女の蹴りの技術は未熟だった。

 崩した体勢を、むしろ動きの一部に取り入れて、少女は美鈴から間合いを取るように移動した。

 それを、美鈴は追わなかった。

 

「――待てっ! 私は敵じゃない!」

 

 美鈴は、慌てて手のひらを前に突き出した。

 

「……敵じゃない?」

「そうよ。貴女は鬼じゃないんでしょう?」

「違う。けど、あんたは妖怪だ」

「でも、鬼ではない」

「……本当に?」

 

 美鈴は無言で被っていたチャイナ帽を持ち上げた。

 鮮やかな色合いの赤毛が、そこに生えているだけである。

 

「なるほど。角は無いみたいね」

「紅魔館の門番、紅美鈴よ」

「妹紅。藤原妹紅――」

 

 美鈴と妹紅。

 二人は互いに名乗り合い、そこで一瞬言葉に詰まった。

 誤解は解けたが、一時的に敵対した立場である。

 その直後に、和気藹々と交流することは難しい。

 かといって、鬼の襲撃の真っ只中にある人里を徘徊していた相手の事情も知りたい、と――互いに同じような考えを抱いていた。

 奇妙な沈黙が二人の間に流れ、そしてそれが途切れる。

 声が響いた。

 二人の声ではなかった。

 

「サイキョーのあたい、参上!! けーね、助っ人に来たわよ!」

「――あの馬鹿!」

 

 夜の静寂に高々と上がったその声を聞いた途端、妹紅は舌打ちと共に駆け出していた。

 仕方無しに、美鈴もそれを追う。

 

「提案があるんだけど」

「何!?」

「飛ばない?」

「……あ」

 

 美鈴の言葉に我に返った妹紅は、慌てて空中に飛び上がった。

 

「あ、あの……走るチルノを同じように追いかけてて、途中で見失ったから焦っちゃってさ」

「あそこよ!」

 

 誰にしているのか分からない言い訳を口走る妹紅を遮り、美鈴は人里の一角を指差した。

 そう遠くない位置で、弾幕の光が激しく瞬いている。

 誰かがそこで交戦している証だった。

 そして、この状況ならば敵は鬼以外に在り得ない。

 美鈴と妹紅は、その場に急行した。

 

「慧音!」

「妹紅か!」

「……っていうか、慧音!?」

「おい、何故疑問系だ!?」

 

 ワーハクタクへと変身した慧音を見て、妹紅は眼を剥いていた。

 慧音が半人半獣であることは知っていたが、二本の角と尻尾を生やしたもう一つの姿は衝撃的だった。

 半『獣』である。

 妖獣としての正体が一体何なのか、普段から妹紅は疑問と興味を抱いていたが――。

 

「予想の一つだったけど……やっぱり、牛?」

「もぉーこぉーっ! 聞こえているぞ、誰が普段から牛並みの乳かっ!」

「いや、そこまで言ってない!」

 

 慧音の震える声を聞き、妹紅は一瞬の混乱から我に返った。

 声の震えは、怒りによるものだけではない。

 妹紅が駆けつけた時、慧音は鬼の一匹と組み合っていた。

 驚くべきことに、その力は拮抗しているようだったが、慧音には全身に負傷と疲労が見て取れる。激戦を続けてきたことは明白だった。限界は近い。

 そして、周囲を複数の鬼が取り囲んでいた。

 その包囲の中に、チルノと橙も居る。

 慧音達からすれば突然の援軍、妹紅と美鈴にとっては事態への遭遇、そして鬼達にとっては敵襲である。

 一瞬の交差の中、最も速く行動したのは美鈴だった。

 地上に向けて急降下し、慧音に組み付いた鬼の背後に着地する。

 降下の勢いを殺す為に、両手足で這うような着地体勢で降り立った美鈴は、その姿勢を利用して、鬼の足元を狙い打った。

 地面を鋭く滑走する水面蹴り。

 鬼の足をへし折るまではいかないものの、足元を掬って、転倒させる。

 その無防備な体勢に向けて、まるで示し合わせたかのように空中から妹紅が追撃を仕掛けた。

 

「はあぁっ!!」

 

 繰り出す最中で火が点いたかのような、炎の正拳突き――『鳳翼天翔』である。

 インパクトの瞬間、爆炎が巻き起こり、衝撃と炎が鬼の頭部を跡形も無く消し飛ばした。

 その威力に、美鈴は思わず感嘆の声を洩らしていた。

 自分が受けそうになった突きの完成形があれなのだろう。

 素晴らしい一撃だ。正拳突きの型としても、実に理想的である。

 

「御見事」

「援護、助かった」

 

 美鈴と妹紅は、言葉少なに互いを認め合った。

 

「妹紅、助かったよ。美鈴、お前まで来てくれたのか」

「慧音の知り合いだったの?」

「私というよりも、先代の知り合いだ。その経由で私も顔を合わせたのだ」

「なんだ、師匠の知人だったのか。どおりで腕が立つと思った」

「……し、師匠!? 今、師匠って言いましたか!?」

「ああ、そうだよ。私は、先代巫女に師事してるんだ」

「――なるほど! では、妹紅さんは我が兄弟子となるわけですね!」

「……は?」

「私、本日より先代様を師父と仰ぐことになりました、紅美鈴と申します! かの先代巫女の御技を伝授された、偉大なる先達に出会え、光栄の極みでございます!!」

「む、見事な礼だ」

「わわっ、とりあえず頭を上げてよ! そんなことしてる場合じゃないでしょ!?」

「妹紅、遅いわよ! あたいがけーねのピンチに一番乗りしてやったわ!」

「滅茶苦茶に突っ走ってただけでしょ! ああ、なんでこんな奴に乗せられてたんだろ、わたし!?」

「橙ってば、文句ばっかりで役に立たないわね」

「お前が言うにゃー!」

「――あ。ちなみに師匠の一番弟子は、こいつね。チルノ」

「それマジっすか!?」

 

 その場は、混乱の極みにあった。

 戦場であることを忘れたかのように、好き勝手に喚き合う半獣、妖怪、妖精、不死者――それを取り囲む、残存した鬼達も、どういう反応をすれば分からない程である。

 有利不利で判断するならば、未だに分からない戦況だった。

 美鈴と妹紅という戦力は増えたが、慧音は消耗し、足手纏いも同時に増えている。

 鬼達も、まだ数を残している。

 戦いが、どう転ぶかはまだ分からない。

 そんな危機感を、果たして正確に感じているのか疑問になるくらい、チルノを中心として能天気な会話が展開されていた。

 鬼も、戸惑うばかりである。

 その戸惑いが隙となった。

 

「――射よ!」

 

 夜空の暗闇から、突然現れるように矢が飛来した。

 一本や二本ではない。弾幕のような圧倒的な数である。

 矢じりには何らかの呪が施され、放たれた速度も速い。

 その強力な破魔の矢が、周囲の鬼だけを標的にして降り注いだのだ。

 

「ぐぅ!?」

「今度は、何だ!?」

 

 大抵は鋼のような肉体で弾き返すが、中には運悪く眼を貫かれ、耳から頭を貫かれる者もいた。

 鬼達は、一斉に夜空を見上げた。

 闇に紛れるように、黒い翼を持った人影が複数、人里の上空を飛んでいる。

 

「あれは――天狗か!」

 

 同じように空を見上げていた慧音が、その正体を叫んだ。

 

「刀を抜けぃ! 敵は鬼、相手に不足は無しぞっ!」

 

 煌めく白刃を携え、先陣を切って降下してくるのは老練な天狗――大天狗である。

 すぐ傍らには、同じく抜刀した椛も控えている。

 他の天狗達も、若干の二の足を踏みながらも、その二人に続くように鬼へと襲い掛かっていった。

 白狼天狗を中心とした、若い天狗がほとんどである。

 彼らや彼女らは、未熟で若輩ながら、それゆえに鬼への恐れを殺すだけの意志を持って突き進んだ。

 

「天狗ぅ、鬼に逆らう気か!?」

「問答無用! 御命頂戴致す!!」

 

 振り下ろされた大天狗の一刀が、鬼を真っ向から唐竹割りにした。

 怒号と悲鳴がにわかに周囲から上がり、鬼と天狗が入り乱れた戦いを始める。

 

「……どうなってるんだ?」

 

 突然の事態に、妹紅も混乱していた。

 天狗という妖怪とその組織の性質を良く知る慧音の困惑は、それ以上である。

 

「まさか、天狗が人里の助けになってくれるというのか……?」

 

 呟くような問い掛けに答える余裕のある天狗は、残念なことにいなかった。

 ただ、周囲の戦闘だけが激化していく。

 数では天狗が勝り、質では鬼が圧倒する。

 鬼の腕に、数人の天狗が吹き飛ばされるのを見て、チルノが堪えきれなくなったかのように叫んだ。

 

「天狗だ! 天狗の方を助けるんだ!!」

「ちょっと待って! ひょっとしたら、内輪揉めか何かかもしれないし……」

 

 諌めようとする橙の手を振り払う。

 

「味方だよ! だって、天狗の文だって、あたいの友達だもん!」

「――チルノ、せいかーい」

 

 のんきな声で、チルノの背後からてゐがぬぅっと顔を出した。

 

「てゐ! あんた、何処行ってたの!? 逃げたかと思ったわよ!」

「その一言は余計ね」

 

 妹紅の言葉に傷ついた様子もなく、軽く肩を竦めた。

 

「今回の件で、天狗は人里の味方だよ」

「本当か?」

「直接、情報を仕入れてきたからね」

 

 訝しげな慧音に、てゐが答える。

 

「ここだけじゃない。人里全体に渡って、天狗が鬼の駆逐に回ってる。かなり大規模な、組織立った動きだね」

「お前、そんな情報何処から……」

「知り合いのリーダーっぽい奴から、直接訊いた。なんか、向こうも鬼に襲われたっぽいよ。敵の敵は味方ってわけ」

 

 ちなみに、その『リーダーっぽい奴』が天狗の頭領である天魔であるとは口にしなかった。

 無駄な話を省き、てゐは慧音と妹紅、そして美鈴と、この場で戦力となりそうな面子を見渡した。

 

「――で、どうする?」

 

 妹紅が慧音の反応を伺い、互いに難しい表情で美鈴と顔を合わせる。

 そして、視線を更に移すと、その先に居るはずのチルノが姿を消していた。

 

「うおおおっ! 待ってろ、今あたいが行くぞー!」

「お前は反省って言葉を知らねぇのかぁぁぁーっ!?」

「このバカァー!」

 

 走り出したチルノに、まるで率いられるようにして、妹紅が慌てて追いかけ、それに釣られるように橙が駆け出す。

 向かう先は、鬼と天狗の戦場である。

 どちらに味方するかは、なし崩しに決まっていた。

 美鈴が頭を掻きながら、慧音は苦笑しながら、互いに駆け出す。

 最後に残されたてゐは、満足気に頷いた後で反対方向へ踵を返して――しばし、躊躇ってから、大きくため息を吐いて、結局チルノの元へと駆け出していた。

 

 人里の各所で、鬼を相手にした最後の戦いが始まっていた。

 その上空を、更なる援軍として妖怪の山からやって来た天狗達が飛び交っていく。

 博麗神社から。

 紅魔館から。

 幻想郷のあらゆる場所から。

 人妖入り乱れた者達が、人里の、その更なる一点に向けて、集まってくる。

 

 ――幻想郷全土に散った鬼の異変は、今まさに『収束』の時を迎えようとしていた。

 




<元ネタの解説>

特に無し。

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