東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その五。


其の三十「六里霧中」

 人里を、男が逃げていた。

 それを追うのは鬼である。

 

「ま゛でぇ~、ぐっでや゛る゛ぅ~」

 

 身の丈が、追われる男の三倍はあろうかという巨大な鬼だった。

 まるで子供のような舌足らずな口調と言葉から、知性は感じられない。

 腹が減ったから、目の前の人間を食べる――ただその欲求だけに支配された、本能だけの低俗な鬼だった。

 しかし、その鬼と知性ある鬼の違いが、襲われる人間にとってどれほどあるだろう。

 むしろ、最も分かりやすい妖怪としての原初の恐怖を、この鬼は持っていた。

 だらしなく開いた口からは、腐った臭いのする唾液を垂れ流し、恐ろしく長い舌がぶら下がっている。

 その鬼の左腕は、半ばから先が無かった。

 肉を丸ごと失い、剥き出しの骨が覗いている。その骨さえ、手首から先が砕かれたかのように失われていた。

 手負い、ではない。

 男が遭遇した時から、この鬼の腕はそのままだった。

 これは男が知らない――あるいは知らずにいた方が良い――ことだが。この鬼は、飢える余り自らの腕の肉を何年もの間、少しずつ食んでいたのだった。

 

「ま゛でぇ~っ」

 

 飢餓という狂気に突き動かされる鬼は、諦めるという理性も、回り込んで追い詰めるという知恵も無く、ただただ同じ言葉を繰り返して男を愚直に追い続けた。

 そして、その愚直ゆえに終わることのない行為から、普通の人間が逃げ切れるはずもなかった。

 男の体力に限界が訪れた。

 足をもつれさせ、転ぶ。

 振り返った先には、迫り来る鬼の口があった。

 追い詰めた獲物の抵抗を楽しむような、悠長な思考を飢えた鬼が持ち合わせているはずもなかった。

 

「いだだぎまぁず」

 

 上下にびっしりと並んだ歯が、絶望に青褪める男を頭から齧り取ろうと迫る。

 男の悲鳴がその口の中に消えていく。寸前――。

 

「氷塊『グレートクラッシャー』!」

 

 男の眼前で、鬼の口が閉じた。

 前髪だけが、ほんの僅かに噛み切られる。文字通りの間一髪だった。

 鬼の口を閉ざしたのは、頭上から飛来した凄まじい質量による衝撃だった。

 巨大な氷の塊が、飢えた鬼の脳天に落下したのだ。

 

「ぃぃいでぇぇええ゛っ!!」

 

 頭のダメージだけではなく、急に閉ざした口のせいで自らの舌まで噛み切り、鬼は苦悶の声を上げた。

 しかし、まともな知能すらない低級の妖怪とはいえ、その種族は鬼である。

 その頑強さは並ではなかった。

 苦悶の声色がそのまま憤怒に染まり、頭上にある氷塊へ、力任せに拳を振り上げた。

 たった一撃で、大岩に等しい重さと硬さを備えた氷が、粉々に砕け散る。

 

「な、なにぃ!? あたいの新しい必殺技がっ!」

 

 砕かれた氷の陰から現れたのは、チルノだった。

 

「なん゛だぁ……おめ゛ぇ、じゃま゛すんじゃねえ゛」

 

 例え知能が低くとも、種族の格の違いは本能で分かるらしい。

 自分を邪魔したのが妖精風情に過ぎないと分かると、鬼は羽虫を払うように腕を振り回した。

 当たれば、先程の氷塊と同じ末路を辿るだろう攻撃を、チルノは怯むことなく回避してみせる。

 能力ではほとんどの面において、目の前の低級の鬼にさえ劣っているチルノだったが、唯一すばしっこさだけは勝っていた。

 

「へへーん、だ! 当たらないわよ!」

「んんん゛~っ!」

「チルノ、もういいよ! 離れて!」

 

 じゃれ合いにも見えるが、その本質は命懸けであるチルノの戦いに、指示が飛んだ。

 チルノは素直にそれに従い、素早く鬼から離れる。

 距離を取ったその位置に居たのは、いつの間にか現れた橙だった。

 チルノが結果的に囮となり、その隙に橙が男を抱き上げて、素早くその場を離脱したのだ。

 子供のような体格の橙だが、彼女の本性は猫の妖怪であり、加えて今の彼女は八雲藍によって施された『式』の効果が発動することで普段以上の能力を得ていた。

 

「お、お前達は……?」

 

 突然現れた妖精と妖怪。しかも、見た目は小さな子供である。

 未だ視界に映る鬼のおぞましい容姿とのギャップもあって、助けられた男は目を白黒させていた。

 

「八雲藍様の命により来まし……参った! 橙です……だ!」

「です、だ?」

「う、うるさいよ、人間! とにかく、まだ助かってないから、油断しない!」

 

 失態を誤魔化すように、橙は精一杯妖怪らしい『偉そうな口調』を使った。

 

「フッ、何も問題ないわ。あたいが、あの鬼をやっつける!」

 

 チルノは腕を組んでふんぞり返り、自信満々に断言した。

 恨めしげに睨みつける鬼の濁った瞳を、全く恐れることなく睨み返している。

 その気概だけは素晴らしかった。

 しかし、現実的ではない。

 橙はそれを嫌というほど理解していた。

 

「無理だよ、勝てっこない! 相手は鬼なんだよ!?」

「あたいのお師匠は、その鬼を倒したわ!」

「だから何!?」

「つまり、その一番弟子であるあたいもまた、鬼を倒せるということよ!」

「何その理論!? 何処からそのワケの分からない自信が湧いてくるのよ、そのせいでこんな状況になってるのに!」

「なによ、人里の鬼を退治するのがあんたの仕事でもあるんでしょ?」

「違うよ、わたしは偵察とか補助とか……そういう小さな仕事を命じられたの! わたしなんかの力で、鬼をどうこう出来るわけないよ!」

「情けない奴ね!」

「に゛ゃーっ! 妖精のくせに、何……」

 

 チルノとの口論に躍起になっていた橙は、ふと我に返った。

 

「生意気、を……」

 

 視線を戻した時、そこには自分達に向かって飛び掛る鬼の巨体が視界一面に広がっていた。

 

「まどめ゛て、ぐっでや゛る゛ぅ~」

「うわあああっ!」

「にゃぁあああっ!?」

「来いっ!」

 

 橙の悲鳴と男の悲鳴が重なり、チルノが勇ましく吼える。

 鬼に襲われる者が二人増えただけで、あとは先程と全く同じだった。

 そして、奇しくも同じことが繰り返された。

 迫り来る鬼を、今度はあらぬ方向から飛来した炎が襲ったのだ。

 

「――やれやれ、二番煎じになっちゃったな」

 

 鬼の巨体を押し返し、完全に包み込んだ炎は、自然のものでは在り得なかった。

 チルノ達の背後から飛来したその炎は、鳳凰の姿を形取っていたのである。

 明らかに人為的な、妖術の類によって放たれたそれは、標的に当たった後も消えることなく、悶える鬼の全身を凄まじい火力で燃やし続けている。

 片手に、先程放った炎の残滓を纏いながら、ぼんやりと暗闇を照らして足音が近づく。

 現れたのは妹紅だった。

 更に、傍らにはてゐまで控えている。

 

「チルノ、先に行くなって言ったでしょ?」

「でも、あたいのおかげでそいつは助かったのよ」

「……まあ、そりゃあ良かったけどさ」

「あ……あの」

「うん、何? 橙……だっけ」

「はい。あの……助かりました」

「いいって。先走った兄弟子のせいだから」

「兄さん、腰抜かしてない? もし、そうだったら置いてくけど」

 

 妹紅が橙とチルノ相手に話をしている傍らで、てゐが意地悪く笑いながらも地面にへたり込んだ男に手を差し伸べていた。

 その男以外、全員がこの場で偶然出会ったわけではない。 

 本来ならば同じ場所で夜を過ごすはずのない人妖が、如何なる巡り合わせか、今夜は行動を共にしていたのだった。

 

「も、妹紅さん……」

「ああ、あんたは自警団の人じゃないか」

 

 顔を合わせた妹紅と男は、互いが顔見知りであることにようやく気付いた。

 妹紅は迷いの竹林の案内人として世話になる者も多く、人里でも慧音や先代を訪ねて度々姿を現している。

 男は、人里の治安を守る自警団の人間だった。

 何度か顔を合わせ、挨拶を交わす程度だったが、知り合いには違いなかった。

 

「助けに来てくれたんですか?」

 

 人里の現状を踏まえて尋ねる男に対し、妹紅は頷いた。

 

「かなり厄介なことになってるみたいね」

「はい、そこら中にさっきみたいな妖怪が徘徊しています。慧音さんの話では、『鬼』と呼ばれるものだそうで」

「慧音は何処に?」

「寺子屋の近くです。多分、その鬼と戦っているはずですから、すぐに分かるはずです。どうか、加勢に行ってあげてください!」

「分かった。貴方はどうする?」

「慧音さんが、鬼の対抗手段について調べてくれました。私は、それを人里に少しでも広めなきゃいけません。このまま、行きます」

 

 答える男の瞳には、怯えの色と、それを押しのけて強い意志の光が輝いていた。

 先程まで命の危機にありながら、感嘆すべき胆力である。

 自分達の住む場所の治安を、自分達の力と団結で守ることを目的とした自警団。

 かつて、激動の時代にあった人里に平穏を取り戻したのは、先代巫女一人の活躍だけではない。

 それに鼓舞された人間全ての功績だった。

 自警団は、その流れを組む者達の結束力によって固められている。

 特別な力は無くとも、彼もまた人里の危機において共に戦う仲間であることを、妹紅は悟った。

 

「……分かった。気を付けて」

「まっ、そこまでビビらなくていいよ。きっと、ここから先で鬼に遭うことはないだろうから」

 

 何故か見知らぬてゐに背中を叩かれて、戸惑いながらも、男は再び駆け出していった。

 夜の闇に消える背中を不安げに眺めた後、妹紅は傍らのてゐに尋ねる。

 

「能力、使ったな?」

「使う使わないっていうか、人間相手だと勝手に付いちゃうんだけどね。

 まあ、迷いの竹林で迷わず出られる可能性と、鬼に会わずに目的地まで行ける可能性の比率は、同じようなモンじゃない? ちょっと幸運があれば行けるでしょ」

 

 てゐには『人間を幸運にする程度の能力』が備わっていた。

 その力を、先程の男に施したのだ。

 もちろん、幸運とは絶対のものではないが、彼に付き添って行動出来ない妹紅にとってはとりあえず安心出来る要素だった。

 鬼を見つけた場合、すぐさま駆逐するつもりである自分と共に行動するよりも安全かもしれない。

 妹紅は一度だけ安堵のため息を吐くと、表情を引き締めて、男が去った方向とは正反対へ振り返った。

 男が逃げてきた方向。

 即ち、鬼が追ってきた方向である。

 鬼を燃やし続けていた妹紅の炎が、ようやく消え始めていた。

 そして、その炎が消え去った後には――無傷の鬼が、変わらぬ怒りを宿して、こちらを睨んでいた。

 

「ま゛たじゃま゛がはいっだな゛ぁぁ」

「一応、最大火力だったんだけど、表面を撫でたくらいじゃ火傷すら負わないか」

 

 まるで岩そのものである。

 蓬莱人とはいえ、炎を操れることを除けば能力は人間の範疇である妹紅にとって、荷の重い相手であった。

 少なくとも、この場の誰も、鬼相手に勝る地力を持っていない。

 橙は再び顔を青褪めさせていた。

 

「や、やっぱり鬼って普通の妖怪とは違う……!」

「仕方ないわね。妹紅に代わって、あたいがやってやるか」

「いや、もう何が『仕方ない』のか分かんない!」

 

 自信満々に一歩前へ出ようとするチルノを、橙が慌てて羽交い絞めにした。

 そんな二人のやりとりを尻目に、妹紅が歩み出る。

 

「まあ、待ちなって。チルノ」

 

 無造作な歩みだった。

 その剛腕を受ければ、一撃で即死するだろう鬼の攻撃の間合いに対して、さして気負うこともなく距離を詰めていく。

 酷く、リラックスした仕草だった。

 例え攻撃を受けても構わない。

 そんな、捨て身にも見える。

 実際に、不死身である妹紅にとって死は全く脅威ではない。殺されても、生き返ってしまうのだ。

 以前の妹紅ならば、そういった意図でこのような動きをしたかもしれない。

 しかし、今の妹紅はかつての――永夜異変の前――とは、確実に違っていた。

 この無造作な歩みは、無謀とは全く正反対に位置するものである。

 

「偉大な兄弟子の新必殺技は見せてもらったよ。次は、私の番だ」

 

 視線は鬼から離さず、口調は気楽にチルノへと向けていた。

 その間も、歩みは止めていない。

 鬼の間合いに近づいていく。

 あと、三歩で攻撃の間合いに入る。

 あと、二歩。

 あと――。

 

「じね゛ぇぇえ゛!!」

 

 鬼が動いた。

 自ら踏み込み、左腕を突き出す。

 剥き出しになった骨は砕けた先端が尖り、丁度良い凶器となっている。

 その攻撃を、妹紅は完全に読んでいた。

 正確には、相手の呼吸を測っていたのである。

 自分自身が素早く動くだけではなく、相手の動きに合わせた的確さも備える――格闘の玄人の動きだった。

 鬼の腕が体に当たる数瞬前から、既に妹紅は動き出していた。

 身を屈め、その際に曲げた膝のバネを使って、一気に相手の懐へ潜り込む。

 もはや悠長とも言える時間差で、鬼の剛腕が空しく、妹紅のいた場所を空振っていた。

 鬼の間合いを飛び越え、逆に自身の攻撃の間合いに目標を捉えている。

 先手を取ったのは鬼の方だったが、意表を突いたのは妹紅だった。

 眼前にある鬼の胴体。

 文字通り岩のように強靭な腹筋目掛けて、妹紅は右の突きを繰り出していた。

 その拳には、鋭さだけではなく、真っ赤な炎が伴っている。

 突き出す拳のあまりの速さに摩擦で点いたのかと錯覚するような炎の正拳突きが、鬼の腹に直撃した。

 爆音が鳴り響いた。

 比喩ではない。肉が肉を打つ打撃音ではなく、火薬の炸裂するような音と衝撃が、鬼の胴体を突き抜けて、背中から飛び出したのだ。

 

「……あ゛で?」

 

 知性の足りない鬼は、自らの体に起こった出来事を理解出来ず、不思議そうに視線を下に落としたまま固まっていた。

 妹紅が、右腕を突き出した格好のまま、そこに留まっている。

 改めて殺してやろう、と。

 腕を動かそうとして、ようやく気付いた。

 自分の腹に大きな穴が空き、そこから焦げ臭い煙がブスブスと立ち昇っていることに。

 

「あ゛……でぇ……?」

 

 鬼は、自分の腹に空いた穴を追って、背中も見てみた。

 腹の穴は妹紅の拳と同じような大きさだったが、胴体を貫通した背中の穴は、その倍以上に大きく空いている。

 妹紅の拳から放たれ、穴を突き抜けて、飛び出していったらしい。鳳凰を象った炎の塊が夜空を優雅に舞い、そして消えていくまでを、鬼は呆然と眺めていた。

 

「あ゛……っ」

 

 最期にその一言だけを洩らし、ようやく自分の死を理解したかのように、音を立てて仰向けに倒れた。

 鬼が完全に絶命したのを確認して、妹紅は構えを解いた。

 鮮やかなまでの一撃必殺である。

 

「……すごい」

 

 橙はありきたりだが、それしか言えなかった。

 洗練された身のこなしだった。

 何よりも、鬼の肉体を貫いた一撃が凄まじかった。

 ただ、炎を纏って殴っただけの単純な威力ではない。

 

「ぬぅ、あれは『鳳翼天翔』!」

「えっ、何それ!? 知っているの、てゐ!」

 

 てゐが芝居掛かった口調で呻くのを、チルノが純粋に問い掛けた。

 

「先代巫女から授けられた『穿心』の精神によって、己の持つ力を極限まで一点に集中することが出来る。

 この力の流れを、炎の妖術に応用することで、本来なら拡散する熱量を収束し、一方向へ噴射して放つことが可能になるという。更に、これを打撃と組み合わせることで生み出される貫通力と破壊力は見ての通りよ。この技の名こそが『鳳翼天翔』よ!」

「よく分かんないけど、すげえ!」

「――って、けーねが言ってた」

「けーね、すげえ!」

 

 妹紅の修行を見ていた慧音の受け売りを堂々と解説するてゐに対して、素直に感動するチルノ。

 その反応を受けて、まんざらでもない笑みを浮かべて戻ってくる妹紅。

 それらを眺めていた橙は、一気に気持ちが冷めていった。

 驚いたし、すごいとも思うのだが――『なんだかなぁ』という気持ちである。

 

「――『鳳翼天翔』って、同じ名前のスペルカード持ってなかったかしら? 妹紅」

 

 チルノでもてゐでも、橙でもない。五人目の声が聞こえた途端、妹紅は笑みを消して、不機嫌そうな表情になった。

 先程まで、隠れていた者の声である。

 戦いが終わり、脅威の去った場に、暗闇からゆっくりと現れたのは、本来ならば永遠亭にいるはずの輝夜だった。

 

「高みの見物ね、輝夜」

「あら、私はそっちの子に隠れているよう、言われたのよ」

「そ、そうです! 輝夜様は、重要人物ですから!」

 

 橙は緊張した様子で答えた。

 

「まあ、何処に鬼が居るか分からない以上、一人で残されるのが安全かは知らないけれどね」

「あっ……す、すみません!」

 

 恐縮して頭を下げる橙を眺める輝夜は、ころころと柔らかく笑っていた。

 単なる冗談である。

 しかし、真面目な橙は、輝夜のことを自らの主人や更にその主人である八雲紫と同等に捉えているらしかった。

 輝夜に対してだけ、異常なまでの緊張感が滲み出ている。

 二人の様子を――正確には輝夜の様子を――妹紅は、面白く無さそうに眺めていた。

 

「どうせ死にはしないんだから、ずっと放っておけばいいのよ。いや、永遠亭から連れ出す必要も無かったわ」

「酷いわね。あのままだと、私は永遠亭を襲った鬼の群れに食われていたかもしれないのよ」

「ああ、そりゃあいい気味だ。長い人生でも貴重な経験でしょうよ」

「別に、貴女に守ってもらいたくて、ついて来たわけじゃないわ」

 

 妹紅と輝夜の仲は、あの異変以来あまり変わっていない。

 妹紅が感情的に輝夜を嫌い、輝夜は無感情に妹紅の敵意を無視する――そんな関係だった。

 二人が共に行動している理由は、チルノの為である。

 現在の人里と同じように、永琳の不在を狙ったかのように永遠亭へ鬼が襲来した際、輝夜を助け出したのは妹紅と合流したチルノだった。

 慧音に助力する為に人里へ向おうとしていた妹紅に、輝夜の同行を提案したのもチルノである。

 そして、二人にその案を了承させたのもまたチルノだった。

 妹紅にとって、チルノは多少の無茶は聞いてやりたい大切な仲間である。

 輝夜は異変の後でチルノと知り合っている。誘いを断る理由も特に無く、同行することにした。ついでに言えば、妹紅に対する悪意があったわけでもない。

 その道中で、てゐと橙にも出会ったのである。

 

「そうそう、妹紅には荷が重いってやつよ。あたいが鬼を倒しながら、輝夜も守るわ!」

「嬉しいわ」

 

 チルノの言葉に、輝夜は本心から微笑んだ。

 目の前の妖精が、身の丈に合わない願望を口走っているのは分かっている。

 しかし、それを嘲るつもりは毛頭ない。

 だからこそ『頼もしい』とは言わずに『嬉しい』と答えたのだ。

 輝夜が本気で戦おうと思えば、発揮される能力は修行を経た妹紅さえ凌駕するだろう。

 不死の肉体まで備えた輝夜を守る存在は、本来ならば必要ないのだ。

 そのことを正確に理解しているのは、この場では妹紅とてゐだけだった。

 

「本当に輝夜様を守るつもりなら、もう無謀なことはやめなさいよ。この人に何かあったら、藍様や紫様にどんなお叱りを受けるか……!」

「橙ってば、文句ばっかりね。逃げ回っても仕方ないわ。今はまさに『ケツに火がついた状態』なのよ」

「うーむ、意味分かって言ってんのか、勢いで言ってんのか……」

 

 橙とチルノのやりとりを、てゐが他人事のように眺めていた。

 それぞれの容姿もあり、三人が集まるとまるで子供同士のやりとりに見える。

 更にそれを眺める位置にいる妹紅と輝夜は、お互いの言い合いが急に馬鹿らしく感じられた。

 示し合わせたように、同時に鼻から抜けるような笑みを洩らす。

 

「……何だっけ?」

「何が?」

「さっきの質問」

「ああ、あんたのスペカに同じ名前の技がなかったかって話」

「多分、偶然なんだろうけどさ。さっきの技を編み出した時、それを見てもらった師匠が技の名前を付けてくれたのよ」

「師匠……先代巫女ね」

「そう。炎の拳を使った有名な技があって、それが『鳳翼天翔』って言うらしいのよ」

「ふぅん」

 

 質問の答えに対して、輝夜はさして興味を見せずに、曖昧に頷いた。

 返答自体よりも、そこに含まれた『師匠』から連想した『先代巫女』について、気が向いている。

 妹紅は、そんな輝夜の横顔を見つめた。

 彼女が先代に向ける感情は複雑である。

 少なくとも好意的ではない、と妹紅も分かっている。

 異変以来、輝夜は先代と会っていない。

 つまり、妹紅を中心に先代へ多くの罵倒と否定の言葉をぶつけて争った時のまま、輝夜の心は止まっているはずだった。

 

「格好つけた名前ね」

「素直に格好良いって言えよ」

 

 内心を誤魔化すように鼻で笑う輝夜に対して、妹紅もまた応じるように口を尖らせてみせた。

 

「その先代、ここに来ているのかしら」

 

 輝夜の問いかけは、誰に対するものでもない、独白に近かった。

 人里の一大事に、博麗の巫女が動かないことは在り得ない。

 今夜は博麗神社で、その巫女二人を含めた宴会が行われていることは輝夜も妹紅も知っている。

 しかし、人里の陥った事態が知られているのなら、のんきに宴会が続いているはずもなかった。

 妹紅が慧音や人里の住人の身を案じながらも、焦りを抱いていない理由がそこにあった。

 助けは、必ず来る。

 しかも、とびっきり頼りになる助けが――。

 そう、改めて妹紅が考えた。

 その時である。

 

「――あ!」

 

 声を上げたのは、橙だった。

 しかし、その時彼女だけでなく、全員が異変を察知していた。

 音が聞こえたのである。

 いや、『音』というのが最も適切な表現だっただけであって、本当は音など鳴っていなかったのかもしれない。

 人里の遠く離れた場所――方向で言えば、人里の入り口付近から、何かの軋むような音が、あるいはもっと曖昧な表現をするなら『違和感』が全員の感性に走ったのだった。

 その感覚を、最も正確に把握していたのが橙だった。

 

「結界です!」

 

 橙は、妹紅達に起こった出来事を説明するように告げた。

 

「これ、多分紫様の結界です! 紫様の結界が、あっちの方で展開されたみたいです!」

 

 橙が指差す先は、違和感の感じられた人里の入り口の方向だった。

 全員が、顔を見合わせる。

 橙は八雲紫の結界だと説明したが、不思議と全員の結論はまた違った内容で一致していた。

 

「――お師匠だ!」

「ま、そーだろーねー」

 

 断言するチルノを、てゐが苦笑するように肯定した。

 そのまま視線で頭上を見るように促す。

 全員が釣られるように見上げてみれば、夜空を飛んでいく霊夢の姿が見えた。

 博麗の巫女が、人里の異変を解決するべくやって来たのだ。

 ならば、先程の出来事に誰が関わっているのか――もはや疑いようもなかった。

 

「慧音の所へ、行こう」

 

 元よりそのつもりだったが、更なる決意を固めた表情を浮かべて、妹紅は言った。

 

 ――人里を襲った鬼との戦い。

 ――今夜、決着をつける。

 

 そう決意した瞬間だった。

 チルノ、てゐと順番に顔を見つめ、意思が同じであることを確認する。

 戸惑った表情の橙を説得するように一際強く見据え、次に視線を移したところで――輝夜がいなくなっていることに気付いた。

 

「……あれ? あれーっ、輝夜様ぁ!?」

 

 重要人物を見失ったことで、橙が錯乱気味に声を上げた。

 ほんの少し、眼を離した間の出来事である。

 周囲を見回してみても、輝夜の姿はおろか、誰かが立ち去る音や気配さえ感じ取れない。

 誰にも気付かれることなく、一瞬で、後を追うことも出来ない程遠くまで離れていってしまったのだ。

 信じられないことである。

 しかし、妹紅とてゐは、輝夜がそれを可能にする能力を持っていることを知っていた。

 彼女が能力を使った場合、例え目の前に居たとしても見失ってしまうだろう。

 

 ――問題は、輝夜が何処へ向かったのかということである。

 

「どどどどどうしよう!? か、輝夜様を探さなきゃいけないのかな!? で、でもあの人と会ったのは偶然だったし、わたしの本来の仕事じゃないけど、でも……!」

 

 妹紅とてゐが一歩先んじた考察をしている横で、橙は直面した問題を処理しかねていた。

 何を優先すべきか。

 次に、何をすればいいのか。

 未熟な彼女には分からないのだった。

 

「ああっ、藍様の命令が無いと何していいか分からないよぉ!」

 

 右往左往する橙を落ち着かせるように、力強く肩を叩く手があった。

 チルノだった。

 

「分からなかったら人に聞く!」

「そ、そうか! チルノは、どうすればいいと思う!?」

 

 迷った末に、橙は何故かチルノに尋ねていた。

 勢いと自信だけは満ち溢れているチルノの雰囲気に、思わず呑まれたのだ。

 

「あたいについてこい!」

「分かった!」

「よし、今からあんたはあたいの子分よ!」

「分かった!」

 

 橙は半分混乱したまま、駆け出したチルノを追っていった。

 自分の言動をよく理解出来ていないらしい。

 一通り突っ走った後で、冷静になってからまた一騒動あるだろうことは容易に想像出来る。

 二人の後ろ姿を眺めながら、てゐは小さくため息を吐いた。

 

「……とりあえず、あれを追おうか。妹紅」

「そうね」

「お姫様は放っておいても大丈夫だと思うよ。ただの気まぐれって可能性も十分あるし」

「別に、あいつの心配はしてないわ。あいつの行動が心配なのよ」

「まあね」

 

 妹紅の懸念に同意するように、てゐは呟いた。

 

 

 

 

 ――場所を人里の入り口に移し、時は少し遡る。

 

 先代と鬼達は、正面から睨み合っていた。

 互いに動こうとはしない。

 様子を伺っているようにも、自らの放つ気迫が相手の隙を作るまで根競べをしているようにも見える。

 戦いにおいて、こういった機微は当たり前のように存在する。

 ただ一つ、この場で異常だったのは、人間一人が三十を超える鬼の群れと拮抗している点だった。

 どういった構えを取ることもなく、仁王立ちする先代相手に、鬼達はどう攻めるべきか二の足を踏んでいたのである。

 

「お……おい、どうする?」

「どうするって……何が?」

 

 集団の最前列に立つ鬼達は、皆一様に口を開かない。

 そういった行動の隙を見せた途端に、目の前の相手が凄まじい勢いで攻め込んでくるのではないか、といった緊張が消えないのだ。

 その後列の者達が、可能な限り意識を先代に向けたまま、囁き合っていた。

 

「あいつと戦うんだろうが」

「何、当たり前のことを言ってやがる」

「じゃあ、何で誰も掛からねえんだ?」

「馬鹿こけ、不用意に近づけるか!」

「そうだ、あいつが勇儀と戦ったところを見てねえのか?」

 

 鬼達の大半は、地底で行われた先代と勇儀の死闘を見て、そこから『自分も全力であの人間と戦いたい』と思った者達である。

 そういった強い欲求がある。

 そして、だからこそ目の前の人間が持つ恐るべき力をよく理解していた。

 

「勇儀の姉さんが食らった最初の一撃。あれを受けたら、俺じゃあ耐える自信がねえぞっ」

 

 捉えることの出来ない、初撃にして必殺の一撃である。

 鬼の中でも際立った頑強さを持つ勇儀の顔面を吹き飛ばし、血を吐かせたあの攻撃は、見た者全ての眼に焼き付いている。

 無造作に佇む先代の姿が、既にあの攻撃の為の構えにしか見えないのだ。

 鬼達は、敗北も死も恐れていない。

 しかし、何一つ行動を起こせぬまま封殺されるのは嫌だった。

 そんな蹴飛ばされる路傍の石のような終わり方は、納得出来なかった。

 だからこそ、誰も先代に襲い掛かる最初の一人になりたがらなかったのである。

 

「どうする、同時に何人かで掛かるか?」

「人間相手に、それは卑怯じゃないか?」

「お前、まだそんな自惚れたこと言ってんのか!」

「どっちにしろ、最初の奴らが貧乏くじなのは変わりねえだろ。俺は嫌だぞ」

「俺だって嫌だ。あいつと全力で戦って、徹底的にやられてから負けるならいい」

「そんなの、俺だってそうだ!」

「いい加減にしろ、話が進まねえだろ!」

「お前こそ、いい加減にしろっ!」

 

 挙句の果てに、口論にまで及ぶ始末である。

 背後の騒ぎを、前列の鬼達は緊張を維持しながらも、同時に呆れていた。

 

「――では、わしが行こう」

 

 それまで黙っていた鬼の一匹が、集団の中から一歩歩み出てきた。

 その場の鬼達の中でも古参で、老練な鬼である。

 浅慮とも取れる判断に、周囲の鬼達は訝しげな表情を浮かべた。

 

「……いいのかい?」

「そうだぞ。折角の特上の喧嘩が、一発で終わっちまうぞ」

 

 老練な鬼は、ニヤリと笑った。

 

「確かに、一発で終わるかもしれん。しかし、その一発はあの星熊勇儀を吹き飛ばした拳ぞ?」

 

 その言葉に、周囲の鬼達は『むぅ』と呻いた。

 言わんとしていることが、何となく分かったのである。

 

「鬼の四天王を殴り飛ばし、一度は勝負の決着をつけてしまった拳じゃ。様子見の攻撃などでは断じてない。まさに一撃必殺を体現した技よ。

 最初の一歩を、決死の覚悟で踏み出すに相応しい。堪らぬ。わしはもう、ここで命を捨てるぞ。あの一撃、耐え切れれば儲けものよ。いや、同じく耐えた勇儀と同等であると、死に際まで誇ってやるわ!」

 

 謳うように語るその鬼の自論に、周りの者達はいつの間にか息を呑んで聞き入ってた。

 誰とも無く、お互いの様子を眼で探る。

 それは先程までのような押し付け合いではなく、伺うような視線だった。

 

「では、ゆくか」

 

 老練な鬼は、前列の者達を押しのけて、一歩前に出た。

 今、先代と一番近い位置へ踏み込んだのである。

 それが切欠となった。

 

「――一番槍、頂き!」

「ぬぁ、貴様!?」

 

 飛び越えるように、背後から別の鬼が飛び出していた。

 

「待て、俺が先だ!」

「何ぃ!?」

「うぉおおおおっ! 最初の相手は俺だぁ、先代巫女!」

「先代! 俺だ、俺を狙え!」

「いや、俺だ!」

「お、おい! 貴様ら、ずるいぞ! わしが先に言ったんじゃ!!」

 

 堰を切るように、鬼達が次々と動き出した。

 二の足を踏んでいたのが嘘のように、前列の者も加わって一斉に、雪崩のように先代へと襲い掛かる。

 当然のように先代は迎撃した。

 当然のように鬼が吹き飛んでいた。

 眼に見えない。

 拳が風を切る音も聞こえない。

 あえて言うのならば、それらは全て攻撃が当たった後についてくる。

 そういった一撃だった。

 拳大とはとても思えないような巨大な衝撃波を食らって、先頭を走っていた鬼の一匹が背後の仲間を巻き添えにしながら吹っ飛んでいた。

 

「来たぁ!」

「死んだか!?」

「二発目は直ぐにばぅぐぇッ!!?」

 

 攻撃の間隙を狙おうとした者が、次の瞬間吹き飛ばされていた。

 同じように何人かを巻き添えにして後方へ消えていく。

 

 ――連続で、ここまで速く打てるのか!?

 ――片手で一発。左右で二発まで連発出来るのか!?

 ――あるいは、また別の技か!?

 

 鬼達は各々が様々に推測し、そして同じ結論に達した。

 

 ――無意味だ。

 ――何も考えず、ぶつかれ!

 

 鬼達は、一瞬も躊躇わずにそれを実行した。

 

「けぇえええっ!」

 

 奇声を上げて、最初の鬼が先代に攻撃を放った。

 何の捻りもない、拳による打撃である。

 しかし、それは人間にとって一撃必殺の領域にあった。

 無防備であっても、万全の防御であっても、受けることは即死を意味する。

 先代はステップして、それをかわした。

 息を継ぐ間もなく、二匹目の鬼が横合いから襲い掛かる。

 こちらは爪を使った攻撃だった。

 大した違いはない。受ければ、結果は同じだ。

 先代は身を屈めて、それをかわした。

 体格差が、ここにきて先代の有利に働いていた。

 小さな標的に対して、鬼の巨躯は集団で戦う際に邪魔になる。

 二匹の鬼の体の隙間を通すように、三匹目の鬼が突きを繰り出した。

 自然と制限される軌道を読み切っていた先代は、その一撃を撫でるように手で受け流した。

 

 ――激流を制するは静水。

 

 かつて、勇儀との戦いでも基本となった、強大な攻撃力への対抗策である。

 先代の動きは、あの時よりも更に洗練されていた。

 

「当たらん!」

「やかましい、どけ!」

「お前こそ――!」

 

 チームワークなどというものは発想の時点で鬼達には存在せず、悠長に言い争おうとした瞬間に、先代の反撃が三匹を吹き飛ばしていた。

 またも、他の鬼を巻き添えにして盛大に倒れ込む。

 ここに来て、ようやく鬼は自分達の無計画な雪崩攻撃の失敗を悟った。

 多対一の状況を、完全に利用されている。

 

「おい、一旦距離を取れ!」

「うるせえ、指図すんな!」

「次は俺だぁ!!」

 

 自制するなどという行為は、血気盛んな鬼には土台無理な話だった。

 全く反省を活かさず、更に別の鬼が先代へ襲い掛かる。

 その時であった。

 先代自身が迎え撃つまでもなく、あらぬ方向からの攻撃がその鬼を襲っていた。

 

「―― 光符『華光玉』!」

 

 弾幕である。

 正確には、収束した弾幕が光弾となって、当たった瞬間に炸裂し、周囲の鬼を一掃していた。

 

「美鈴か!」

 

 戦闘が始まって以来、初めて先代は動揺から口走っていた。

 彼女を含む、誰も予想していなかった横槍である。

 攻撃から遅れて、上空から飛来した美鈴が先代の壁になるように、前に降り立った。

 

「紅魔館の門番、紅美鈴! 助太刀に参上した!」

 

 美鈴は拳法の構えを取って、堂々と宣言した。

 それを受け、苛立ちと共に立ち上がったのは、先程美鈴の弾幕を受けた鬼の一匹である。

 直撃を受けた箇所から煙を上げているが、ダメージは全く受けた様子がない。

 

「てめえ……」

「卑怯とは言うまい」

「邪魔だと言っとるんじゃ! この雑魚がぁ!!」

 

 鬼は頭から突進した。

 頭頂部から伸びる一本角が、突進によって巨大な槍のように美鈴へ襲い掛かる。

 美鈴は尖った角を避け、両手で頭を押さえ込むようにして、その突進を受け止めた。

 一瞬も止まることはなかった。

 受け止めた美鈴の体ごと、鬼は前へと突き進んだのである。

 

「ぐぁ……っ!?」

 

 圧倒的なパワーに、美鈴は呻いた。

 力勝負では全く対抗出来ない。

 しかし、この密着した状態では、もはや技の介入できる隙も無い。

 美鈴は己の失策を悟った。

 必死で足を踏ん張りながら、背後にいる先代のことを思い出す。

 

「せ、先代様、避けてください!」

「はっはぁ、何が助太刀じゃあ! そのまま盾になって死ねぃ!!」

 

 美鈴の体は、鬼を隠すように覆い被さってしまっている。

 先代が迎撃の為に攻撃すれば、それはまず美鈴に当たることになるのだ。

 美鈴は、自らの失敗に軋むほど歯を食い縛った。

 自分ごと、この鬼を倒してしまってくれ――そう心の底から思った。

 先代は、その突進を横にかわした。

 かわす動作の中で、流れるように右足を振り上げていた。

 天を突くような角度である。

 

「かああっ!」

 

 そして、目の前を美鈴が通り過ぎ、次に鬼の体が通る瞬間、裂帛の気合いと共に右足を振り下ろしていた。

 渾身の力を込めた踵落としだった。

 瞬発的な筋力と足の先端に集中させた霊力が合わさり、絶妙なタイミングで狙った先は、突進の体勢のせいで曝け出された鬼の延髄である。

 斧のような一撃が、標的へ正確無比に振り下ろされる。

 次の瞬間、鬼の首は『切断』されていた。

 頭を抱えていた美鈴がバランスを崩して地面に転がり、その頭を失った体の方は、幾らか迷走した後でようやく力尽きて倒れた。

 

「ぬぅ……っ」

 

 何匹かの鬼が、同じような呻き声を洩らした。

 仲間を屠った鮮烈な一撃を見て、ようやく頭を冷やしたらしい。

 誰が指示するわけでもなく、先代と距離を取って、再び様子を伺う体勢に入っている。

 しかし、再びその拮抗が破られるのは時間の問題だった。

 戦いは、既に始まってしまったのだ。

 

「……先代様」

 

 絶命した鬼の頭を持ったまま、美鈴は沈んだ声で呟いた。

 助太刀などと銘打っておきながら、結果はこの有様である。

 足手まとい以外の何者でもなかった。

 

 ――やはり。

 

 ここに来る前から、薄々と感じていたものが明確な形を持って、美鈴の心に圧し掛かってくる。

 

 ――やはり、自分は『そう』なのか。

 

 美鈴は、自らの心から眼を逸らすように、あえてその想いを曖昧に捉えていた。

 どんな言葉で表現しても、結局意味するところは一緒だ。

 つまり、先代にとって自分は――。

 

「何故来た?」

 

 先代は訊いた。

 ただ純粋に疑問に思ったことである。

 しかし、美鈴にとってそれは自分の無力を責めるものにしか聞こえなかった。

 

「助けが……必要だと、思いました」

「何故必要だと思った?」

 

 ――思い上がったか。

 

 そんな言葉が聞こえたのは、確実に錯覚だと分かっていた。

 分かっていて、美鈴は締め付けられるような胸の苦しみを感じていた。

 助けとは何だ?

 それは、助けとなれるだけの力があって、初めて成立するものだ。

 それが無い者を『足手まとい』と言うのだ。

 今の自分が、まさにそうではないか。

 

「……いえ、違います。私の助けなど必要ないと、分かっていました。貴女の助けになどなれるはずがない、と」

 

 美鈴は血を吐くように答えた。

 自らの無力を告白することは、耐え難い程辛かった。

 それはプライドや意地などというものではない。

 ただ、無念だった。

 先代にとって自らが一角の存在になれない現実の厳しさが、辛かったのだ。

 

「だけど、せめて――貴女を見ていたかった」

 

 美鈴は震えながら、泣いた。

 

「誰も見ることのない貴女の戦いを、私だけは絶対に見逃したくなかった」

 

 先代は鬼達から眼を離し、美鈴を見下ろした。

 

「貴女と対等でいたい、などと。不相応な、おこがましい話であることは分かっています。

 だけど、せめてそう思い続けることだけは、止めたくなかった。貴女と同じものを、同じ視点で見ていたいと、いつも思っていました」

 

 かつて、先代と対峙した時に、美鈴は喜びを感じていた。

 その偉大な背を見ているよりも、正面から向き合うことを望んでいた。

 先代巫女が自分よりも格上の存在であると分かっている。

 それを自覚し、だからこそ敬うのも当然である。

 しかし、そこに甘んじ続けることだけは、常に拒否してきたのだ。

 

「貴女と同じ場所に居たかった、其処を目指し続けていたかった……だから、私はここへ来ましたっ」

 

 美鈴の告白は、同時に嘆きでもあった。

 意志に力が見合わなければ、どれ程強く望んでも叶えられることはない。

 それを思い知ったのだ。

 ここに自分が居ることは、先代にとってマイナスにしかならない――。

 

「――美鈴」

 

 項垂れる美鈴から視線を外し、それを再び鬼達に向けながら、先代は言った。

 

「立て」

「……え?」

 

 呆けたような表情で顔を上げた美鈴は、先代の横顔を見つめた。

 普段と何も変わらない、常在戦場の精神を体現したような引き締まった表情が、そこにあった。

 

「これから結界を展開する。説明は聞いていただろうが、これを展開すれば鬼と共に空間へ閉じ込められることになる。逃げ場は無くなるぞ」

 

 先代は紫から受け取った陰陽玉を取り出していた。

 手の上に浮き上がり、淡い光を放ち始める。

 その光に紛れ込むように、玉の輪郭がおぼろ気に消え始めていた。

 結界が発動する前兆だった。

 

「この場を去るか、残るか。今、ここで決めろ」

「……いいんですか?」

 

 問われるならば、もう既に答えは決まっている。

 しかし、美鈴は伺うように見上げた。

 

「私が貴女と一緒に戦っても、構わないんですか?」

「構わない。が――」

 

 先代は再び振り返った。

 

「――ついてこれるか?」

 

 その顔には、美鈴がこれまで見たことのない、挑発的な笑みが浮かんでいた。

 向けられた偉大な背中が、何よりも雄弁に語りかけている。

 その笑みと言葉が自分への鼓舞であると理解した時、美鈴の体の震えは意味を変えていた。

 情けなく歪んでいた口元を釣り上げ、涙を拭い去る。

 美鈴は立ち上がった。

 それまでの弱りきった様子を吹き飛ばすような力強さが、両足に宿っていた。

 

「ついていきますっ!」

 

 美鈴は震えていた。

 それは武者震いだった。

 美鈴は笑っていた。

 それは歓喜から来るものだった。

 全身には漲るほどの力と、闘志が蘇っていた。

 

「――と、いうことになった。二人掛かりで行かせてもらう」

 

 黙って様子を伺っていた鬼達に向けて、先代は挑戦的な笑みを貼り付けたまま、不敵に告げた。

 手を離れた陰陽玉が、頭上高く昇っていく。

 立ち上がった美鈴は、気合いを入れ直すように、右の拳で左の手のひらを叩いた。

 

「まさか、卑怯とは言うまいね?」

 

 美鈴の台詞を真似るように、先代が言った。

 次の瞬間、頭上の陰陽玉が粉々に砕け散って、そこを基点に展開された結界が全員を異空間へと隔離していた。

 

 

 

 

 ――美鈴、お前が自分を信じられないのなら! 私を信じろ! お前を信じる私を信じろッ!

 

 こっちの台詞の方が良いかなーと思ったけど、キャラじゃないので別の偉大な先人をあやかることにした。

 元々、饒舌に誰かを励ませるほど口は回らないしね。

 背中で語ることにしたのだ。

 ……それが美鈴にちゃんと通じてるかは分からんけど。

 某弓兵さんは物凄い雄弁な背中だったんだけどね。

 しかし、美鈴は自分を過小評価してるみたいだったけど、正直援軍は非常に助かる気分だ。

 まあ、最初の交戦では私一人で上手く捌けたし、逆に美鈴を助ける結果になったが、これが長期戦となると後半どうなるか分からない。

 なんつーか、改めて思ったけど敵多すぎ。

 あと、タフすぎ。

 現段階での状況だが、敵の撃破数がたったの一体なのである。

 最初にかました百式観音を受けた鬼は、全員生きていた。

 巻き添えを食らった奴らはともかく、直撃を受けた奴まで立ち上がってるってどういうことなの。

 地底で勇儀にかました奴と同じ――いや、あれから修行を更に重ねたことを想定すれば、多少は威力も上がっているはずの攻撃を、しっかりと耐え抜いている。

 もちろん、無傷ではない。

 二本の角の内の一本が折れてたり、頭がひしゃげて片目が潰れてたりしている。

 しかし、それでも立ち上がり、しかも戦闘を続ける気満々だった。

 防御力と耐久力が半端無い上に、数の上でも圧倒的で、しかも全員がもれなく気力MAXと来ている。

 ……どー捌きゃいいんだ、この集団。

 とりあえず、先ほどは『同時に掛かれる相手はせいぜい四人。四対一を何回も繰り返せば、百人と喧嘩しても勝てる』という刃牙的な理論を応用して、上手く数の不利を逆手に取ることが出来た。

 しかし、どう理屈を捻ったって、数の多い方が有利なのは揺るがない。

 こっちは一撃で即死か、もしくは重傷。重傷の場合は、もれなく他の奴らから畳み掛けられてやっぱり即死。あと、長引いた場合は体力が尽きて、やっぱり死ぬ。

 私だって人間の範疇の体力しかない上に、鬼に通じる攻撃となるとそれこそ力を振り絞らなければならないのだ。

 なんや、この無理ゲー!

 能力の劣る人間の方がハンデ背負わされるって、どういうことやねん!

 思わず、ツッコミたくなる。

 誰に――って、言われると、誰にも何処にも文句言えないんだけどね。

 この追い詰められた状況で、助っ人は正直嬉しい。

 

「まさか、卑怯とは言うまいね?」

 

 私は笑いながら言った。もちろん、虚勢である。

 あと、本当に『卑怯』とか言われても聞く耳持たんし。逆にこっちが言いたいわ。

 そうして結界が展開され、私と美鈴は鬼どもと一緒に異空間へと閉じ込められた。

 その空間だが、一見すると周囲には何の変化もない。

 人里の建物はそのままだ。何も無い空間に放り出されるとか、アニメとかの演出っぽく周囲の色が変わるとか予想してたが、本当に何の変化もなかった。

 ただ、私の感じていた人の気配だけが全て消えていた。

 確かに、この結界の性質は『私以外の人間を弾き、妖怪と閉じ込める』ものらしい。

 多分、ここで周りの建物を壊しても、結界の外には何の影響もない、とかそんなのだろう。

 へへっ……これで思う存分、暴れられるぜ!

 なーんて、闘争心が湧き上がるなんてことはもちろんない。

 私の場合、戦いはいつも余裕も油断も挟めない真剣なものなのだ。

 

「何だ、この結界は!?」

「ふぅむ。急に、周りの人間の臭いが消えおったのう」

「なるほど。つまり、この空間はその為のものか」

「いいなぁ。とことんやろうってことだな!」

「思う存分、暴れられるぜ!」

 

 むしろ、鬼の方が喜んでいた。

 ……すまねえ、紫。この結界の効果は私の為に用意してくれたものなのに、一瞬だけ後悔しちまったよ。

 いや、確かに周囲を巻き込まないっていうのは私としてもありがたいんだけどね。でも、この戦闘狂どもと一緒に閉じ込められて、戦いが終わるまで解放されないって悪夢だわ。泣きそう。

 しかも、たった今気付いたのだが、泣ける要素が更に一つ。

 

 ――この空間では『黄金の回転』が使えないっぽい。

 

 よく考えたら、この結界の中には『黄金長方形』を秘めた生命って無いんだよね。周りは美鈴も含めて全員妖怪だし。

 あと、この空間に存在する物は自然の物とは違うのか、やっぱり『黄金長方形』を見つけられない。

 つまり、回転を使ったチートブーストは厳禁ということ。先代巫女です。

 まあ、未だにあの暴走染みた力は使いこなせる自信が無いのだが……切り札が一つ減ってしまった。

 ごめん、美鈴。本当にお世辞抜きで頼りにさせてください。

 

「さあ、喧嘩の続きをやろうぜぇ!!」

「あの赤毛の妖怪にも気をつけろ!」

「折角の決闘に無粋な奴だ、蹴散らしてやるわ!」

「鬼の戦いに、何処までついてこれるかのう?」

「くそっ……頭が半分潰れちまった! 上手く立てねぇ……っ!」

「おう、怪我人は下がっとけや」

「馬鹿言うな、俺はもう決めたんだ! ここで死んだるわ!」

「逝っとけ、逝っとけ! すぐに後を追ってやらぁ!」

 

 マジで寒気のする、鬼どもの会話だった。

 あれだけ強くてしぶとい癖に、奴らは既に捨て身の覚悟まで固めてしまっているらしい。

 決死の覚悟の強さは、実践している私が一番よく知っている。

 本当に、こりゃあ……酷い戦いになりますよ。

 私は内心で顔を引き攣らせていた。

 それが実際の顔面に反映されないのが、良いことなのか悪いことなのか、毎度のことながら悩んでしまう。

 とりあえず、私は構えた。

 ちなみにこの構え――実は特に意味はない。

 記憶にある格闘漫画の先人に倣って取っているだけである。カッコいいと思う奴をその時の気分でやっているのだ。戦意向上効果は抜群だからね。

 あと、お前は仁王立ちが百式観音の構えみたいに思っているようだが、別に祈る動作が出来ればどんな体勢からでも繰り出せる!

 

「美鈴、背水の陣だ!」

 

 ウオオオーッ! 私は一回殴られただけで死ぬぞー!

 

「はいっ! ここで命を捨てます!」

 

 肩を並べた美鈴が、覚悟をもって応えてくれた。

 頼もしいな。

 頼もしい、が。そこは『私達二人で「陣」なのか?』って言って欲しかった。元ネタ的に。

 

 

 

 

 空を飛んでいる。

 霊夢にとって、それは当たり前だった。

 何か特別な技術や意識を持って行う動作ではない。

 地面を踏み締めて歩くように、空中に体を預けて行きたい所へ行けるのだ。

 踏み出した足が地面の感触を疑わないように、霊夢にとって空を飛ぶことは疑いようのない当たり前のことだった。

 自分が空から落ちる不安なんて、万が一にも考えない。

 

 ――ただ、全く逆の不安ならば時折感じる。

 

 霊夢は上空から人里を見下ろした。

 母のように気配を感じることは出来ないが、それでも家々の間に満ちた夜の闇の中に鬼が潜んでいることは分かった。

 そして、その鬼と戦う者達の存在も。

 皆、この下で戦っている。

 その中には、母もいるのだ。

 霊夢はそれを空から見下ろしていた。

 

 ――不安。それを感じるのは、まさに『今』のような時だった。

 

 人里の各所で起こっている争いを感知しながら、それでも霊夢は自身の為すべき事を見失わなかった。

 霊夢は夜空を飛び続け、やがて人里の中央まで辿り着いた。

 そこは大きな広場になっている。

 幻想郷を守護する龍神の石像が置かれ、特に目立った施設は無い開けた場所だが、日中は多くの人が行き交うのだ。

 そこが、今は炎によって暗闇から照らし出されていた。

 四方にばら撒かれた炎は、薪や油で燃えているものではない。ただの『炎の塊』としか表現出来ないものである。

 それは鬼火だった。

 鬼が二匹、そこに居座っていた。

 

「――あんたが、本物の伊吹萃香ね」

 

 地上に降り立った霊夢は、開口一番に断言した。

 龍神の石像の上に腰掛けた萃香は、片足を組んでそこに頬杖を突いている。

 その真下にまた別の鬼と、龍神の石像に縋るようにして寄り添った数人の子供の姿があった。

 人里が襲われた当初に攫われた子供達である。

 霊夢は怯える子供達を一瞥だけして、すぐさま視線を萃香へ戻した。

 予想外の事態へ対面した際の動揺など、今の霊夢には無縁だった。

 

「本物、っていうのもおかしな話だ。お前さんが会ったのは、全部本物のわたしさ」

 

 萃香は答えた。

 

「別に私を倒せば、他の分身が消えるってモンでもない」

「でも、少なくとも統括しているのはあんたっぽいわよ」

「へえ、分かるのかい?」

「勘でね」

「すごいね。でも、その勘で分からないかなぁ? わたしを倒しただけじゃ、事態は収まらんよ」

「だけど、一番大きく事態を動かすことが出来る」

 

 霊夢は両手を広げた。

 その左右の袖から、陰陽玉がふわりと飛び出してくる。

 手自体にも、退魔の針と札が握られていた。

 

「後のことは、あんたを退治してから考えるわ」

「ほう、鬼退治と来たかい」

 

 萃香はまるで芝居を見ているかのように、愉快そうに笑っていた。

 戦闘態勢になった霊夢を前にして、全く緊張感を抱いていなかった。

 今にも、肴にして酒を飲み始めそうな緩んだ雰囲気である。

 しかし、実際に酒は飲まない。

 正確には、今夜の萃香の体には一滴の酒も入っていなかった。

 普段から持ち歩いている瓢箪が、手元にはない。

 今回の異変を、萃香は僅かな酩酊すら交えずに決行したのだった。

 それが如何なる決意を表すものか――もちろん、霊夢は知る由もなかった。

 

「わたしに手を出すなら、こっちも人質を使っちゃうぞ~……なんて言ったらどうする?」

 

 萃香がおどけたように言うと、足元の鬼が応えるように、子供達に手を向けた。

 その指先には青白い炎が宿っている。

 文字通りの鬼火だった。

 子供達が、それを見て押し殺した悲鳴を上げた。

 

「どうにかするつもりだけど、その方法をあんたに教える必要はないわね」

 

 霊夢は淡々と答えた。

 

「卑怯だぞ、とかって感想はないのかね?」

「別に」

「あ、勘違いさせちゃったかな? 鬼ってのはね、正々堂々が大好きなんだよ。回りくどいのは嫌いなんだ」

「知ってる。勇儀はまさにそういうタイプだったわ」

「おおっ、勇儀と話したのかい? いやぁ、あいつは気持ちの良い奴だよ。まさに鬼の中の鬼だ」

「だから、あんたが普通の鬼と違うことは最初から分かっているわ」

 

 霊夢の視線に力が篭り、それを受けた萃香が笑みの種類を変えた。

 お互いに様子見として見せていた、取り繕った姿の中に一瞬本音が混じる――そんな変化だった。

 

「あんたのやり口は、まさに回りくどいからね」

「ああ、だから嫌いなんだ。嫌だねぇって、内心では何度も愚痴ってる」

「それなのに、それをやってる」

「そうなんだ。やらなきゃいけないからね」

「そこが、あんたと勇儀の一番の違いよ」

「分かってるよ。でも、やらなきゃいけないんだよ。それが、わたしの目的だから」

 

 萃香は困ったように笑っていた。

 本当に『仕方ない』といった諦めの感情を、よく表した顔だった。

 

「そういうわけで、お前さんとの決闘も楽しそうだけど、もうちょっとだけ回りくどいやり方に付き合ってもらうよ」

 

 萃香が言うと同時に、子供達を狙っていた鬼が向きを変え、霊夢に対して一歩踏み出していた。

 無言である。

 しかし、何よりも有言に語っていた。

 相手は自分だ――と。

 

「前座として、手下をぶつけようっての?」

「手下じゃないよ。わたしに手下なんていない。地上に連れ立った鬼は、皆それぞれやりたいことがあって集まった仲間さ」

 

 その鬼は、萃香と同じ少女の容姿をしていた。

 身長は霊夢と同じくらいあるが、とても鬼とは思えないような華奢な体格である。

 異様に長い白髪が、腰を越えて踵まで届いている。

 首から下だけを見れば、見目麗しい少女としか言いようのない可憐な姿だった。

 ただ、その顔にはまるでお面のように、恐ろしい鬼の顔が貼り付いていた。

 いや、顔と半ば一体化している点を除けば『鬼のお面を被った少女』としか表現出来ない姿である。

 

「そいつのやりたいことは、意外にも『弾幕とやらで決闘をしてみたい』って話だ」

 

 鬼の少女は無言のまま、ゆっくりと両手を持ち上げた。

 まるで霊夢を抱擁するように広げられた両手の間に、幾つもの小さな鬼火が発生する。

 それを弾幕に見立てるつもりのようだった。

 しかし、その炎に込められた妖力はとても弾幕ごっこ用とは思えない。

 強力すぎる。

 当たれば、並の人間を火達磨にして灰にするまで消えない威力があることを、霊夢は見抜いていた。

 

「まあ、こっちの流儀に合わせようって努力は買うけど」

 

 命懸けの決闘を前にして、全く気負った様子も見せずに霊夢はため息を吐いた。

 宙に浮かびながら、鬼の少女に対して顎でついてくるように促す。

 鬼の少女は鬼火を纏ったまま、それに従った。

 

「こいつを倒したら、次はあんたよ」

「待ってるよ」

 

 決闘の場を夜空に移した二人の姿を、萃香は見上げていた。

 

「見せておくれよ、わたしに」

 

 萃香の呟きは夜空に溶けて消え、足元で震える子供達の耳には入らなかった。

 

「見せておくれよう、博麗霊夢――」

 

 

 

 

 ――運が良いのか悪いのか。

 

 魔理沙は内心で毒づいていた。

 目の前には、敵がいる。

 鬼である。

 人里に向かった霊夢を追って、自らも人里の方向へ飛んでいた魔理沙は、その道中で偶然にも鬼と遭遇したのだった。

 その鬼は、集団で幻想郷の各所を襲っている他の者達とは違い、単独行動をしていた。

 それだけ腕に自信があるのか、あるいは団体行動の出来ない性格なのか――。

 魔理沙には分からなかったが、とにかく敵が一体だけというのは不幸中の幸いだった。

 魔理沙は目の前の鬼と戦うつもりだった。

 最初からそのつもりで飛び出したのだ。

 そのつもりで――しかし、同時に鬼と戦うことの無謀さを嫌というほど分かってもいる。

 博麗神社で行われた人外の戦闘は、眼に焼きついて新しい。

 あんな戦い方が、人間である自分に出来るはずがない。

 だからこそ、運が良いのか悪いのか分からないのだった。

 

「……いいや、運がいいぜっ!」

 

 魔理沙はあえて自らを鼓舞するように、不敵に笑った。

 しかし、額に滲んだ汗はもはや隠し切れない量だ。

 その様を見て、鬼もまたにんまりと微笑した。

 魔理沙の遭遇した鬼は、境内で見た有象無象の鬼とは何処か雰囲気が違っていた。

 巨体の印象がある鬼にしては、小柄である。

 もちろん、魔理沙よりは十分大きいが、細身でひょろりとしている。

 錆びた銅のような赤黒い肌と二本の角は間違いなく鬼のものだが、顔には深い皺が何本も刻まれ、長い白髭が胸元まで伸びていた。

 まるで老人である。

 鬼に老いや若さがあるかは知らないが、言うなれば『老いた鬼』だった。

 

「こりゃあ、元気の良い童に会ったのう」

 

 見た目に反さず、好々爺とした口調で鬼は言った。

 

「爺さんの目的は何なんだぜ?」

「さあて……強いて言うならば、変わった時代を見るといったところか」

 

 要領を得ない返答に、魔理沙は訝しげな表情を浮かべた。

 博麗神社を襲った鬼達には漲っていた、凶暴なまでの欲望を、目の前の鬼からは感じられないのだ。

 本当に、目の前の鬼は老人同然で、そこまで強い欲求など持っていない穏便な性格なのではないか――そんな考えが浮かんだ。

 

「なんで、まあ。とりあえず腹ごなしに――ワシに食われてくれや、娘さん」

 

 鬼は笑いながら、背筋の凍るようなことを口にした。

 魔理沙は恐怖と共に、自らの考え違いを思い知った。

 何が穏便な性格だ。

 目の前のこいつは、人ではない。妖怪でもない。

 鬼なのだ。

 人が『こわいもの』を喩える時にも使われる言葉が、形を持った存在なのだ。

 確かに強い欲求などないかもしれない。

 しかし、目の前の何でもない人間を片手間に摘まんで食ってしまおうと、気楽に考えるほど格の違う相手なのだ。

 魔理沙はより一層量の増した額の汗を、もはや隠すこともなく拭った。

 

「そいつは、お断りだぜ」

 

 何とか、言い淀むことなく答えることが出来た。

 声の震えまでは隠せなかったが。

 

「別にお前さんの都合は聞いておらんのぅ」

 

 魔理沙の内心を全て見抜き、それを楽しんでいるかのように、鬼は愉快そうに続けた。

 

「さて、何処から食ろうてやろうか。その小さな手か、慎ましい胸か、柔らかそうな髪も良いのぅ」

「へっ! わたしを易々と食えると思うなよ!」

「ほぉ、ワシと戦うつもりか?」

「無抵抗に食われるつもりとでも思ったのか?」

「ふふふ、多少妖術を齧った程度では、ワシの敵では無いのぅ」

 

 鬼は、魔理沙が魔法使いであることさえ知らない様子だったが、それでも絶対の自信を持っていた。

 そして、それは事実なのだろう。

 この老いた鬼が、鬼の中でも特別弱くて、しかも力が衰えているような奴だったら――そんな楽観は、もちろん魔理沙の中には欠片も無かった。

 後ろ手に、ミニ八卦炉を持っておく。

 今のところ、自分の持つ最大の火力だ。

 これを当てることが出来れば、あるいは――。

 

「効くと良いのぅ。ワシも鬼の端くれ、頑丈さには自信がある。それに、ちょっとした能力も持っておるしな」

 

 魔理沙は、喉の奥でぐぅっと唸った。

 心まで見透かされている気分だった。

 能力はもちろん、役者も違いすぎる。

 まともに戦っては、勝てない。

 

 ――何か、勝てる要素が必要だ。

 

 魔理沙は必死で思索した。

 

「……おい、爺さん!」

 

 脳が焼け付くほど考え抜いた末に、魔理沙は意を決して八卦炉を持った方とは反対の手を突き出した。

 その手には、一枚のスペルカードが握られていた。

 

「わたしと勝負しろ!」

「ほ?」

「勝負だよ、勝負! 弾幕ごっこで、わたしと勝負だ! わたしが負けたら、食うなり殺すなり好きにしろっ!」

「……ほほっ」

 

 突きつけられた魔理沙の挑戦状に、しばしの間呆けていた鬼は、やがて意味を理解して笑った。

 

「面白いの」

 

 それが癖であるように、長い髭を撫でる。

 魔理沙は固唾を呑んで、返答を待った。

 

「面白い……が」

 

 鬼はゆっくりと髭から手を離した。

 口元は笑っていたが、声からは凍えるような殺気が滲み出ていた。

 

「断る。お前さんを直接食う方が早いからな」

 

 絶望的な返答だった。

 小便をちびりそうだった。

 恐怖から来る全身の震えを、必死で抑えていた。

 既に見抜かれている内心の動揺を隠す為の笑みは、ただ単に口元が引き攣っているだけのような有様になっている。

 

 ――しかし、それでも。

 魔理沙は目の前の敵から眼を逸らさず、挑むことをやめていなかった。




<元ネタ解説>

「冒頭の鬼」

・実は格闘ゲーム「サムライスピリッツ」のキャラ「妖怪腐れ外道」をモデルにしたもの。一回限りのやられ役だったので、お遊び要素として出しました。かなりアクの強いキャラなので、元ネタを調べる時は注意。

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