東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その四。


其の二十九「鬼退治」

 人里は、奇妙な静寂に包まれていた。

 何が奇妙かというと、それは静寂でありながら本当の静寂ではない点だった。

 満月の光で普段よりも明るく照らされているとはいえ、夜中である。

 特に、満月の夜は妖怪も騒がしくなる。

 故に、人は夜の闇を恐れる。

 人里の家々の戸は固く閉ざされ、人が出歩くどころか声すら聞こえない。

 寝静まっているというよりも、自ら息を殺して、この夜をやり過ごそうとしているような、何処か張り詰めた静寂だった。

 しかし、その静けさの中に時折音や声が響いてくる。

 最初、それは動物の鳴き声だった。

 犬が吼えている。

 何処ぞの家に飼われているものか、閉ざされた戸の前で、犬は外に向かって激しく吼えていた。

 何かを警戒し、威嚇しているようだった。

 しかし、その犬の前にはただ夜の闇が広がるのみで、他に動物や人が居るようには見えない。

 犬は、闇の中に潜む何者かに向かって威嚇するように、必死で吼え続けていた。

 

「――ひもじいのう」

 

 闇から声が聞こえた。

 

「――歯がゆいのう」

 

 声がだんだんと近づいてくる。

 犬の吼え方に、怯えが混じるようになっていった。

 近づいてくるものが、この世にあらざる恐ろしいものであると気付いたのだ。

 月明かりに照らされ、それは闇の中からぬぅと姿を現した。

 鬼であった。

 無数の鬼であった。

 人里の往来を、何匹もの鬼が我が物顔で練り歩いているのだ。

 

「何じゃ」

「犬か」

「なんだ、また犬か」

「先程から見つかるのは畜生ばかり」

「馬や牛は食いでがあるが、物足りん」

「足りぬなぁ」

 

 鬼は見上げる程の巨躯だった。

 もはや吼えることも出来ず、縮み上がって震えることしか出来なくなった犬を、一匹の鬼が無造作に掴んで自らの口の中に放り込んだ。

 憐れな犬の悲鳴は、肉と骨を咀嚼するおぞましい音と共に鬼の腹の中へと消えていった。

 人里を包む奇妙な静寂の原因は、この鬼達にあった。

 鬼が練り歩く人里では、家に篭もった住人が息を潜めて震え、そんな静けさの中を外に閉め出されてしまった憐れな動物達の叫び声や争う音が響くのだ。

 

「人が食いてぇ」

「臭いはそこら中からするのになぁ」

「息遣いまではっきりと聞こえるのになぁ」

「きっちりと戸を閉め切ってやがる」

「手馴れとるな。入れん」

 

 鬼達は忌々しげに周囲を睨んでいた。

 勢い勇んで人里を襲ったはいいが、思うように暴れ回ることも出来ずに苛立っているのだ。

 家の囲いというものは一種の結界である。

 加えて、幻想郷を生き抜く人里の住人は、各々自宅に妖怪への備えとして退魔の札などを持っていた。

 並の妖怪では、容易く家の中へは入れない。

 もちろん、鬼は並の妖怪ではない。実力に上下の差はあっても、拳一つ振るうだけで戸を打ち破り、中の人間を引きずり出すことも出来る。

 

「まさか、鬼の備えまであるとは――」

 

 鬼の一匹が、これまでの経験を思い出して、悪態を吐いた。

 ぼやいている内に、闇の中から別の鬼の集団が現れ、合流する。

 どれ程の数の鬼が、この人里中を徘徊しているのか。

 しかし、現れた鬼達も苛立たしげな表情を浮かべていた。

 

「そっちはどうだ?」

「駄目だ、人っ子一人出歩いちゃいねえ」

「何処の家も戸の前に炒った豆をばら撒いてやがる」

「こっちは魚屋らしいが鰯の頭がぶら下げてあったぞ。臭くてかなわん」

「こちらは柊だ。何処から手に入れてきやがるんだ? 内陸の秘境だから安心してたのに」

「幻想郷の管理をしているという妖怪の仕業だろうよ。なんせ、秘境を丸ごと結界で囲んじまうような化け物だ、流通を弄るくらい訳無かろう」

「忌々しい!」

 

 豆。鰯。柊――いずれも、鬼の弱点となる物である。

 それらがどの家々にも備えられている為、鬼達は思うように人間を、いや人里そのものを襲うことが出来ないでいるのだった。

 

「どうなってやがる! 地上の人間どもは、俺達を忘れたんじゃなかったのか!?」

 

 一匹の鬼が吐いた悪態は、その場の全員の心を代弁するものだった。

 豆や鰯は食べ物だし、柊はただの植物だ。人間の生活の中にそれらが在るのは、まだいい。

 しかし、それらを『鬼に対抗出来るもの』として理解していることが不可解だった。

 鬼の力と恐ろしさを忘れ、退治する方法さえ失くしてしまった人間どもの里を襲うなど容易い――そう意気込んで乗り込んだ結果がこれである。

 好き勝手に暴れ、食らい、壊し、それに追い立てられて逃げ惑うはずだった人間の悲鳴一つ聞こえない。

 鬼達の不満は限界に達しようとしていた。

 

「ぬぅぅっ……かくなる上は!」

「うむ、面倒だ」

「火を放とう!」

「岩を落とそう!」

「地面ごと家を引っくり返してしまえ!」

 

 とんでもないことを言い出した。

 しかし、それを成せるだけの力が鬼にはある。

 あっという間に同調する声が上がり、戦の前の鬨の声であるように人里に響き渡った。

 遥か昔に人を恐怖させた、まさに鬼の所業が人里で行われようとしていた。

 その瞬間だった。

 

「――光符『アマテラス』!!」

 

 文字通り、天から差す光が夜の闇を切り裂いた。

 一瞬で夜明けが訪れたかのような閃光が辺りを満たす。

 赤と青。二色の光の弾幕が上空から降り注ぎ、一塊になっていた鬼の群れを蹂躙した。

 精密な狙いのない掃射のような攻撃だったが、地面や家屋などに被害はない。しかし、霊的な威力を秘めている為か、全体に直撃を受けた鬼達は阿鼻叫喚の悲鳴を上げることとなった。

 

「な、何だぁ!?」

 

 弾幕の放たれた先を睨みつけると、上空からゆっくりと舞い降りるものがあった。

 靡く衣服の裾――そして、その尻に生える尻尾。

 靡く美しい髪――そして、その頭に生える二本の角。

 人と獣の姿を併せ持った美しい女が、殺気立った鬼達を相手に一歩も退くことなく、百鬼夜行の通り道を踏み締めていた。

 

「何者だ!?」

「人か……?」

「いや、牛ではないか……?」

 

 人間の血と妖獣の血を持った半人半獣――上白沢慧音である。

 

「――鬼ども」

 

 普段とは違う、獣の眼で慧音は睨んだ。

 

「如何なる理由かは知らんが、貴様らがこの人里を襲ったのが今夜であることが二つの不幸を招いている」

 

 慧音が、鬼達に向かって一歩踏み出した。

 巨漢の群れである鬼達に対して、女である慧音は小柄に見える。

 しかし、その一歩には、地面を踏み抜くような酷く重々しい威圧感が伴っていた。

 不意を突かれたこともあり、鬼達は知らず、慧音の気迫に圧されていた。

 

「一つは、今宵が満月であること――。

 満月の夜には、私の中に流れるハクタクの血が目覚め、妖獣としての力がこの身に備わる。今の私の力は、人間の時の比では無いぞ」

 

 慧音は無造作に鬼へと歩み寄っていく。

 その一歩ごとに、慧音の肉体から立ち昇る眼に見えないものが増し、物理的な力となって鬼を押し潰そうとしていた。

 

「ハクタクの能力を使えたおかげで、忘れ去られた鬼の歴史を探れたことは幸運だった。

 鬼の生態や弱味を、断片的にだが解析させてもらった。急ぎ人里中へ広めたが、見る限りこれは有効だったようだ。お前達鬼にとっては、不幸だっただろうがな」

 

 慧音は真相を明かした。

 鬼達が悔しげに唸る。

 しかし、そんな鬼達の様を見ても、慧音は得意になるどころか苛立つように表情を険しくさせるだけだった。

 

「そして、もう一つも今宵が満月であること。ただし、これは私にとっての不幸だ」

 

 慧音は歯を食い縛り、肩を震わせ、額に青筋を浮かべた。

 そして、腹の底で煮えた怒りを解き放つように叫んだ。

 

「――今夜一晩しかないのに、歴史の編纂作業が全っ然進んでないんだ! この傍迷惑な阿呆どもがぁぁぁーーーっ!!」

 

 慧音の咆哮が、そのまま弾幕となって鬼達に襲い掛かった。

 まるで鬼のようである。

 いや、慧音の今の表情に限っていえば、まさにその通りだった。

 初撃のスペルカードの時のように、広範囲に拡散する弾幕を、鬼達は成す術も無く受けることとなった。

 しかし、さすがは本物の鬼である。

 弾幕ごっこ用のものではない本気の攻撃を浴びて、誰もが傷ついてはいる。ただ、それがダメージに繋がっているかというと全くそうではない。

 体の表面を無数の刃物で浅く切られた程度の、形だけの傷を負っているだけだった。

 

「こそばゆいわ!」

 

 集団の先頭に立っていた鬼が、全員の代弁をするように吼え、慧音に襲い掛かった。

 それを慧音もまた、一切怯まずに迎え撃つ。

 真正面から二人はぶつかり合った。

 示し合わせたかのように突き出した両腕を、ガッチリと掴み合う。

 慧音と鬼の体格は、倍近くも違う。まるで大岩が慧音を押し潰そうとしているかのようだ。

 慧音の細腕を、鬼の丸太のような腕が捻り折ろうとしていた。

 しかし、折れない。

 あろうことか、鬼との力比べで拮抗している。

 

「こ、こやつ……やはり牛かっ!?」

 

 鬼が唸った。

 

「やかましい!」

 

 慧音は頭突きで返答した。

 その鬼にとって不幸だったのは、姿形が人間と似ていたことだった。

 突き出された慧音の額が顔面にメリ込み、鼻柱を無残にも押し潰していた。

 

「誰が、牛のような乳袋かぁ!」

 

 理不尽な怒りを込めた雄叫びが再び弾幕を形成する。

 密着状態で放たれたそれが、鬼の体を押し流すように後方の仲間の所まで吹き飛ばした。

 

「鬼との取っ組み合いで勝ったぞ!」

「なんだぁ、あいつは!?」

「分からん!」

「分からん……が!」

「うむ、面白い!」

「面白いなぁ!」

 

 ――楽しくなってきた!

 

 鬼達の顔に、次々と分かりやすい笑みが浮かび始めた。

 人里を襲いに来た自分達を邪魔する慧音の登場を、むしろ歓迎するような喜びようだった。

 

「よしっ、次は俺の番だ!」

「馬鹿、待て! 俺はまだ負けとらん!」

「そのみっともない形になった鼻を治してから言え」

「面倒じゃ、一斉に掛かっちまえ」

「それは卑怯じゃないか?」

「勝負に卑怯も糞もあるか」

「それにあいつは強いぞ」

「おう、自分より強い奴相手に勝ち方をこだわるのは、相手を侮っている証拠よ」

「何じゃ、その結論は! 気に入らん、わしの方が強いわ!」

「確かめるか?」

「確かめよう!」

 

 鬼達はにわかに活気付き、勝手な言い争いを始めていた。

 勝手ではあるが、不意打ちや一時後退などの発想すら出ないところが、なんとも鬼らしい。

 人を食いたいなどとぼやいていた当初の様子など、本人達すらすっかり忘れてしまったかのように、慧音との勝負だけに意識が向いてしまったようだった。

 

「どうした、臆したか!? くだらん言い合いをしてないで、さっさと掛かって来い! どちらにしろ、貴様ら全員無事に帰すつもりはないわ!」

 

 普段からは想像も出来ない程好戦的に、慧音は挑発した。

 獣化した姿も相まって、上白沢慧音という人間ではなく、ワーハクタクという一匹の獣として完全に覚醒したかのように見える。

 しかし、その内面はやはり何処までも人であり、里の守護者としての気高い意思を失っていなかった。

 鬼達が自分に気を引かれている現状――これは慧音にとっても都合の良いことだった。

 少なくとも、その間に他の人間が襲われることはないのだ。

 そう『少なくとも』『この範囲』では。

 

 ――こいつらだけではあるまい。どれ程の数が、人里に散らばっているのだ?

 

 野性味溢れる勇猛な姿に反して、慧音の内心には全く理性的な焦りがあった。

 唐突な妖怪の――しかも、鬼という得体の知れない――襲撃に、慧音自身も、他の人里の住人達も、動揺が無いはずがなかったのだ。

 襲撃当初、人々は一時的に混乱した。

 鬼への備えも、最初からあったわけではない。敵の正体を看破した慧音が、急いで能力を行使した結果判明し、その後で対処を始めたのだ。

 その対処は素晴らしく迅速なものだったが、それでも最初の襲撃での被害は止められなかった。

 幾つかの家屋が破壊され、何人かの住人が鬼に攫われている。

 何が目的か、子供ばかりが攫われたようだ。

 何処へ連れて行かれたのか未だ分からない。残された親達の嘆きや、子供達の安否を考えると、慧音の胸は不安と恐怖で締め付けられそうだった。

 そして、広い人里において、情報の伝達は時間が掛かる。ましてや、鬼が徘徊しているのだ。

 この辺り一帯は上手く被害を抑えているが、慧音の把握出来ていない箇所ではどんな事態に陥っているのか、全く分からない。

 すぐにでも、そこへ駆けつけたい。

 しかし、自分は一人である。

 ここの鬼を放置は出来ない。

 駆けつけるべき場所が多すぎる。

 

 ――今、やれることをやり抜くしかあるまい!

 

 慧音は己の内の焦燥を必死で押し殺していた。

 動揺は隙を生む。鬼と対峙した状態で、それはあまりに危険だった。

 鬼の恐ろしさを実感している。

 今は圧倒しているように見える状況だが、慧音の猛攻を受けて、敵はまだ一切戦力を減らしていないのだ。

 

 ――こいつらを倒し、他の場所へ向かうのにどれだけ掛かる!?

 

 不安材料だけは次々と積み上がっていく。

 

 ――いや、それ以前に……私にこいつらを倒せるか!?

 

 しかし、慧音は不安も焦燥も押し殺した。

 諦めを捨てていた。

 満月によって目覚めたハクタクの力よりも、それこそが今の慧音の持つ最大の武器だった。

 人としての信念だった。

 

「人間を舐めるなよ、鬼ども――!」

 

 絶望的な状況であっても、希望は決して失われていない。

 慧音の揺ぎない瞳には、一人の巫女を中心に、共に異変と苦難を乗り越えた愛すべき仲間達の姿がハッキリと映っていた。

 

 

 

 

「――神槍『スピア・ザ・グングニル』!」

 

 レミリアのスペルカードが発動した。

 破壊と死の力が手の中に収束し、一本の槍となって具現化する。

 

「来いやぁ!」

「その意気や良し!」

 

 対する鬼は、自らの槍のような腕を構えて、レミリアの攻撃を迎え撃った。

 鬼の腕は、もう一本しかない。左腕は、既にレミリアによってもぎ取られていた。

 放たれた光の槍と、突き出された鬼の爪が、丁度先端同士で激突する。

 ぶつかり合った力の拮抗は、一瞬だった。

 光の槍に爪を砕かれ、そのまま突き進む穂先によって、頑強なはずの鬼の腕は柔らかいチーズのように、縦に裂かれていく。

 槍は肩まで到達すると、次の瞬間炸裂して、鬼の半身ごと腕を完全に粉砕してしまった。

 

「見事……っ!」

 

 己の武器である両腕を失い、上半身の半分を抉られるという致命傷を受けた鬼は、最期に壮絶な笑みを刻んで、斃れた。

 仲間の死に、他の鬼達はどよめいた。

 悠然と佇むレミリアへ向けて怒りを滾らせる者もいれば、逆に称賛する者もいる。

 既に、次は自分が戦うことを主張する者もいた。

 レミリアは、そんな鬼達の様子を油断無く見据えている。

 戦いの前にあれほど挑発し、勝ち誇っていた姿とは一変して、実際に勝利した今になって警戒を表しているのだった。

 

「――前座は終わったわ。しばし、待て!」

「む……認める!」

「え、認めるんですか?」

 

 レミリアの勝手な提案を、鬼もまたあっさりと受け入れたことに、美鈴が思わず間の抜けた声を洩らしていた。

 勢いに乗せて言ったレミリアの言葉を、やはり勢いに乗せられて受け入れただけのように思える。

 鬼のリーダーらしき萃香の方を見ても、楽しそうに笑っているだけで、問答無用に襲い掛かろうとする様子はない。

 

 ――どういう奴らなんだ、鬼というのは!?

 

 美鈴だけではなく、その場の多くの人妖の疑問だった。

 

「最初に言ったけど、私はここに残るわよ。奴らは吸血鬼である私を舐めた」

 

 共に戦う味方を仕切ろうとする紫に対して、レミリアは決定事項であることのように告げた。

 既に対等の存在となったレミリアの意思を、もはや紫は蔑ろにはしない。

 

「ええ、貴女に任せるわ」

「ほう、『任せる』ときたか」

「貴女を信頼することにしたのよ」

「そうか。気持ち悪いな」

「まあ酷い」

 

 紫とレミリアのじゃれ合いのような軽口を聞いて、幽々子は楽しげに微笑んだ。

 

「急に仲良くなっちゃって、妬けちゃうわぁ。それじゃあ、私もここに残ろうかしらね。協力はしたいけど、私自身はそうそう動き回れる立場じゃないし。代わりに妖夢を派遣するわ」

「幽々子様――」

「これは命令よ。私のことはいいから、異変解決に尽力しなさい」

「……畏まりました」

 

 不満気な妖夢に対して、幽々子は有無を言わせず命じた。

 元より『身の安全』という点だけならば、妖夢は幽々子を案じてはいない。

 単純に幽々子の方が強いからだ。

 

「為すべきことは分かるわね? レミリア嬢が戦い方のお手本を見せてくれたわ。貴女なりに解釈しなさい」

「はい。では――」

 

 妖夢は主を含めた、その場の者達に一礼だけすると、すぐさま博麗神社を発った。

 幽々子の命令の意図は、正確に把握している。

 道中で鬼の動向を探り、それを見つけた際にはすぐさま討伐、最終的に人里へ辿り着く――。

 妖夢は懐のスペルカードと、何よりも腰に差した二刀を入念に確認し、鬼との戦いへと赴いていった。

 

「藍、貴女も人里へ向かうのよ。先代のサポートに回りなさい」

「……しかし」

 

 紫の指示に対して、藍はささやかな反抗の意思を見せた。

 その反応に取り合わず、紫は穏やかに微笑み返す。

 

「私は今、とても気分が良いの。状況は切迫しているのに、余裕すら感じているわ」

「はい」

「貴女の式としての能力を『先代を補助する為の行動』に関してのみ解禁します」

「はい」

「その性能を最大に発揮して、尽力しなさい」

「はい。橙の式を行使する権限をお与え下さい」

「許可します」

「ありがとうございます。既に、橙は人里へ向かわせております」

「では、貴女も向かいなさい」

「はい」

 

 最後の返答は、全く淀みなく行われた。

 最初の躊躇など無かったことのように、迅速に、藍は行動を開始した。

 

「咲夜、フラン、美鈴は紅魔館へ戻りなさい」

 

 幽々子と紫に倣うように、今度はレミリアが三人へ指示を出す。

 しかし、これに対して忠実なのは、従者である咲夜だけだった。

 妹であるフランドールと、従者というよりも従業員という立場である美鈴は、あからさまに不満の色を滲ませていた。

 

「お姉様だけ置いて行けないよ」

「あら、フランは優しいわねぇ。――んで、あんたはどうなのよ? 美鈴」

「え……私、ですか?」

「そう。あんたが案じているのは主である私? それとも、敬愛する先代?」

「……先代様、です」

「まっ、そうよね」

 

 美鈴の返答を聞いても、レミリアは不満とも不敬とも感じなかった。

 元より、美鈴とはそのような関係である。

 対等とまではいかないが、彼女には彼女なりの矜持があって生きている。

 美鈴の生きる道の傍に、今は紅魔館があるだけなのだ。

 そして、そんな彼女に自分達は大いに助けられた。

 忠誠心とは違う。『親愛』『信頼』そして『恩義』がレミリアと美鈴の仲にはあるのだった。

 その恩義に、レミリアは報いたいと常に考えている。

 

「――でも、自分の力を弁えて行動しなさい。あんたには、鬼の相手は荷が重過ぎるわ」

 

 美鈴がこの場に残って戦うつもりなのか、先代の元へ駆けつけるつもりなのか、レミリアにはまだ判断出来なかったが、両方を含めて忠告した。

 自分が倒した鬼の死体へと視線を移し、美鈴だけではなく、咲夜とフランドールにも見るよう促す。

 

「奴は単純に強かったわ。力は強く、何よりも頑丈さが並じゃない。それが鬼の持つ特性だとして、他にも各自が持つ特有の能力を含めて考えれば、凄まじい戦闘力となるはずよ。

 咲夜の能力は通じるでしょうけど、人間の膂力では奴らの皮膚は貫けない。美鈴も、真っ向から戦って勝てると思うほど自惚れちゃいないでしょう?」

 

 主人の身を案じる気持ちが何処か残っていた咲夜は、その言葉で自らの考えを戒めた。

 レミリアの傍で彼女を守りたいという気持ちはあったが、その行為が結果的に主人の足を引っ張る結果にしかならないと悟ったのだ。

 同じような指摘を受けた美鈴も、唇を噛んで俯くことしか出来なかった。

 咲夜は能力が尖りすぎて相性が悪かった。

 妖怪である美鈴の地力ならば、鬼を倒せる可能性がある。しかし、それは『可能性』以上のものではなく、相性が無い故に大きく勝るものも無いのが現実だった。

 

「フランに関しては、まだ『敵を討ち倒す戦い』自体に荷が重いわ。大人しく紅魔館に戻って、皆と協力しながら、帰る家を『守る』のよ」

 

 破壊に特化したフランドールの能力――それが鬼に対して『通じるかどうか』ではなく『使いこなせるかどうか』とレミリアは指摘しているのだった。

 敵との戦いで暴走し、ただ無差別に標的を破壊するだけが目的と摩り替わってしまうようなら、それは第三の敵が現れたのと同じことである。

 

「でも、お姉様が――」

 

 フランドールは姉の言いたいことを正確に理解し、それでも尚反論しようとした。

 

「私のことよりも、紅魔館の方を心配しなさい。あの目立つ館が鬼どもの興味を惹かないとでも思っているの?」

「え、それって……」

「犬走。紅魔館周辺はどうなっている?」

「既に鬼の襲撃を受けています」

 

 周囲のやりとりの中で、揺るぎ無く自らの仕事を全うしていた椛は、レミリアの質問にもすぐさま答えた。

 それを聞いたフランドールが一気に顔色を変える。

 

「――小悪魔が危ない!」

「え?」

 

 それまでの躊躇が何だったのかと思えるくらい、フランドールは勢いよく博麗神社から飛び出していた。

 呆然とする姉を尻目に、猛スピードで紅魔館の方角へ向けて飛んでいく。

 

 ――あれ、なんかおかしくない? 実の姉とあの胡散臭い悪魔との心配の比率に差がなくない?

 

 レミリアは得体の知れない敗北感に包まれながら、一瞬現実逃避しそうになった。

 咲夜の咳払いが、それを引き止める。

 

「それでは、私も紅魔館に向かわせていただきますわ」

「えっ……ええ、フランをサポートして頂戴。あと、パチェのこともお願いね」

「畏まりました」

「あと、あの汚物みたいな下等悪魔を鬼がやったように見せかけて始末しておいてくれない?」

「お嬢様、心安らかに」

 

 咲夜はやんわりと受け流すと、すぐさまその場を発たずに、一人取り残されるように状況を眺めるしかなかった魔理沙へ歩み寄った。

 実際に、彼女は現状において完全に蚊帳の外だった。

 それを、魔理沙自身も自覚しているからこそ、悔しげに周囲を睨みつけることしか出来なかったのだ。

 

「魔理沙、アナタも来なさい」

 

 自分の手を掴む咲夜を、魔理沙は驚いたように見つめた。

 

「ここは危険よ」

「……紅魔館に来て、大人しく震えてろってのか?」

「戦う以外にも、出来ることはあるわ」

「異変だろ……解決しなきゃ、駄目だろうが」

「魔理沙」

 

 咲夜は魔理沙の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「アナタが心配なの」

 

 咲夜は魔理沙の考えていることを否定しなかった。

 ただ、自分の本音を伝えた。

 それが嬉しくなかったわけではない。

 魔理沙自身にも、自分の考えていることが無謀以外の何ものでもないことは分かっている。

 

 ――何が出来るというのだ?

 ――異変解決の為に、ただの人間に毛が生えた程度の力しかない自分に、一体何が出来るというのだ?

 ――鬼に勝つどころか、抗うことさえ出来ない弱者の分際で。

 ――そもそも、お前は本当に異変を解決をしたいのか?

 ――そんな大層な責務が、凡人に過ぎないお前にはあったか?

 

 もう一人の自分が自問する。

 それに反発しながらも、魔理沙は明確に反論することが出来なかった。

 

 ――お前は、博麗霊夢とは違う。

 

 魔理沙は歯を食い縛った。

 際限のない自らの苦悩と、それを和らげてくれる咲夜の暖かな手の両方を、思い切って振り払った。

 

「ありがとう。でも、ごめん」

 

 呆気にとられる咲夜に、泣きそうになりながら、精一杯の笑顔で告げる。

 

「わたしは――霊夢の所へ行く!」

「魔理沙!」

 

 箒に跨り、飛び去る魔理沙の背中へ咲夜は手を伸ばした。

 もちろん、その手は届かない。

 追えば、届くかもしれない。

 しかし、咲夜は躊躇ってしまった。

 追って、どうすればいいのか分からなかった。

 レミリアの命令に背いていいのかも分からなかった。

 迷いが、咲夜の行動を完全に止めてしまった。

 

「咲夜、遅い!」

 

 レミリアの叱責が、咲夜を我に返らせた。

 

「迷い始めたら、時間が幾らあっても足りないわよ! さっさと決めなさい! 瀟洒じゃないわよ!」

「――往きます、紅魔館へ!」

 

 迷いを振り切った咲夜は、魔理沙と背を向け合うように、別方向へと飛んでいった。

 咲夜の後ろ姿を見送り、その後で魔理沙の飛んでいった方向を眺めたレミリアは、微笑した。

 

「あの魔法使いも難儀な『運命』を背負ってるわねぇ」

 

 言葉とは裏腹に、何処か愉快そうに呟いた。

 そして最後に、判断に迷ったまま残された美鈴を見やる。

 レミリアが言葉で促すまでもなく、視線に気付いた美鈴が決意を固めた表情で顔を上げた。

 

「……先代様の元へ向かいます」

「そう。ならば、一つだけ言っておくことがあるわ」

 

 レミリアは美鈴と額をつき合わせて、囁いた。

 

「鬼を侮るな。奴は私に倒された後、笑って逝ったわ。奴らは、敗北も、その結果の死さえも楽しんでいるように見える」

 

 敗北の可能性を受け入れた勝負に勝てるはずなどない、と。レミリアも美鈴も考えている。

 しかし、そんな当たり前の考え方から、更に一段ズレた位置に鬼の考え方というものがあるのだと、レミリアは察し始めていた。

 鬼は、間違いなく今の状況を楽しんでいる。

 傍若無人に振舞いながら、その実、結果の有無や勝敗すらも度外視して、何もかも楽しんでいるように思えるのだ。

 あるいは、それは同じ妖怪にすら受け入れ難い『狂気』とも取れるのかもしれない。

 地上を追われた鬼の真の恐ろしさが、そこにあるような気がした。

 

「心して掛かりなさい、美鈴」

「……はい」

「それとね」

 

 神妙な表情を浮かべる美鈴に対して、レミリアはそれまで保っていた緊張感を崩して、あっさりと破顔した。

 

「あんた、自分で思うより結構強いわよ」

「へ?」

「ほら、さっさと行ってこい!」

 

 呆けた顔をする美鈴に軽い頭突きを食らわせると、レミリアは笑いながら背を向けた。

 額を擦りながらその背中を見つめ、もはや語ることはないのだと悟ると、美鈴は深く一礼だけして、飛び立っていった。

 全ての従者達が飛び去り、博麗神社には三人の主人だけが残される形となる。

 美鈴を送り出した後、改めて鬼を相手に威風堂々と立ち会うレミリアと並ぶように、紫と幽々子が歩み寄った。

 

「――話し合いは終わったかい?」

 

 一連のやりとりを全て見守っていた萃香は、笑いながら尋ねた。

 嘲笑の類ではない。

 彼女達のやりとりを楽しみ、感動すらしている感極まった笑顔だった。

 

「うむ、歓待ご苦労」

「いちいち腹の立つお嬢様だねぇ。まあ、いいや。こっちも戦う奴の配分が終わったところだ」

「なんだ、一斉に掛かってこないのか?」

「この場所へやって来た奴らにも、もちろんそれぞれ目的がある。

 その中でも『博麗の巫女を食ってみたい』って言ってたのと『幻想郷をぶっ壊したい』って奴が、あんたらの相手をするよ」

 

 萃香がそう言って促すと、ここまで連れ立った鬼の過半数が、三人と対峙するように前へ進み出た。

 巨躯を持つ者や空を舞う者も含めて、女性的な体格である三人にとっては見上げるような相手ばかりである。

 しかし、レミリア、紫、幽々子は、誰も萎縮していなかった。

 鬼達から放たれる威圧感を、まるでそよ風のように涼しげな表情で受け流している。

 

「おう、分かってると思うけどさ。こいつら舐めんなよ、お前ら」

 

 萃香はレミリア達ではなく、仲間の鬼に向けて忠告した。

 

「わたしが三人いると思って戦え」

 

 大げさではなく全くの正論として、そんな恐ろしいことを告げる。

 しかし、鬼もまた、その事実に萎縮などしない。

 雄叫びが上がった。

 幻想郷全てを震わせるような、恐ろしい鬼の雄叫びである。

 

「ふぅん、勇ましいことだ」

「野蛮ねぇ。やっぱり殴り合いとかしたいのかしら?」

「付き合う義理はないわね」

 

 レミリアが。

 幽々子が。

 紫が。

 襲い掛かってきた鬼の群れを相手に、悠々と各々のスペルカードを取り出す。

 

「――紅符『スカーレットマイスタ』! かわしてみろ、意外と病み付きになるぞ!」

「――亡舞『生者必滅の理』よ。難易度は中の上ってところかしら?」

「――魍魎『二重黒死蝶』 幻想郷の流儀、楽しんでいって下さいな」

 

 一丸となって迫り来る鬼の群れを、圧倒的な弾幕が歓迎した。

 

 

 

 

 ――ひょっとして、私って拙いことになってるんじゃない?

 

 さとりは場違いに、そんな自問をしていた。

 外見だけならば、さとりは周囲の騒然とした状況の中で酷く落ち着き払っているように見える。

 片手には、酒がまだ半ばまで残った盃を持って、のんびりと腰を降ろしたまま、宴会の続きを楽しんでいるような姿だった。

 

 ――古明地さとり。

 ――この状況にあって、あれほど落ち着いているとは。まるで他人事って面だ。

 ――相変わらず、嫌味な奴だ。

 ――しかし、大した胆力よ。

 ――恐ろしい。

 ――やはり、侮れん。

 

 そんな鬼達の心の声を、さとりは呆けたように聞いていた。

 実際のところ、完全に状況に置いていかれたさとりは、手持ち無沙汰に盃を手放すことさえ出来ないだけなのだった。

 そして、周囲の自分に対する認識を聞きながら、先程まで紫や永琳に向けられていた疑念の内容を思い出して、今更になって考えていた。

 

 ――あれ? 私、ひょっとして何か凄い誤解されてない?

 

 自らの予想よりも遥かに事態が深刻であると、さとりは徐々に気付き始めていた。

 そんな内心の葛藤のせいで、外側の肉体が停止状態にあるさとりを『地底の管理者だけあって、肝が据わってるんだなぁ』と感心していたはたては、椛を連れて勇儀の所へやって来た。

 

「星熊勇儀様、私達はこれから妖怪の山へ戻ろうと思います」

「なんだい、急に敬語なんて使うんじゃないよ。別に、私に断りを入れる必要もないしね」

 

 はたては、さすがに苦笑いを浮かべた。

 敵でないのならば、不遜な態度を取るつもりもない。

 むしろ、さすがにさっきのは無礼すぎたかと反省すらしていた。

 尤も、それでも卑屈にならないところが、鬼と相対した天狗にしては十分慇懃無礼な姿ではあるのだが。

 

「勇儀様は、どうされますか?」

「うん。まだ萃香の奴と話をしたいからな、私はここに残る。

 適当な頃合を見て、地底へ退散するさ。余計な騒ぎを残すつもりはない、と。上司には伝えな」

「分かりました。じゃ、また機会があれば会いましょう」

「再会の挨拶とは、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」

 

 無礼ではあるが、それは良い意味での気安さでもある。

 勇儀は機嫌良く二人を見送った。

 そして、そのやりとりを見計らったかのように、残った鬼数匹を引き連れた萃香が、勇儀の前へと歩み出てくる。

 

「待たせたか、萃香」

「待ってたよ、勇儀」

 

 鬼と鬼が対峙した。

 二人だけである。

 勇儀の背後にいるさとりも、萃香の背後にいる他の鬼達も、口を挟めない空間がそこに出来上がっていた。

 

「萃香よう、お前随分と派手に事を起こしたなぁ」

「そうかい? 勝手に派手になっちまったんだよ。鬼が百匹も動くんだ、そうもなるさ」

 

 幻想郷中に騒乱を振り撒いている元凶とは思えないほど気安く、萃香は答えた。

 

「勝手に、なぁ。よぉ、鬼は嘘が嫌いだろう」

「ああ、嫌いだね。分かりきったこと言うなよ」

「なら、お前も嘘を言うんじゃない。

 ――なんで、他の奴らまで扇動した? 本当に『勝手』なら、お前一人で動けば良かったんだよ。一人で地上に出てきて、先代にでも、この幻想郷にでも、好きなように喧嘩を吹っ掛けりゃ良かったんだ」

 

 勇儀は一度、萃香と拳を交えての話し合いをしている。

 先代と決闘した際の話を聞いて、萃香が地上に――延いては先代巫女という、人間に対する興味を蘇らせた時だった。

 人間を見限った鬼。

 人間に見限られた鬼。

 それが、再び人間に興味を持ったのだ。

 あまつさえ、その人間と全力で戦いたいと言ったのだ。

 先に戦いを経験した身として、勇儀にはその気持ちが痛いほど良く分かった。

 しかし、当時は様々な事情があった。

 決闘の末に両足が再起不能になった先代巫女。地上で普及したスペルカード・ルール。そのルールが地底にも適用され始めたこと――多くの変化が重なっていた。

 今は待て、と。勇儀は萃香を言葉と力で止めたのだ。

 

 ――ならば、待とう。

 ――まずはスペルカード・ルールとやらに倣おう。

 ――そして、先代自身の意思を確認して、その上で真っ当な喧嘩をしよう。

 

 そういうことになったはずだった。

 

「地上のルールに従えないってのはいい。その結果、お前が退治されようが、それは勝手だ。

 いや、郷に入っても郷に従わねぇってのは道理に反するが、最終的にはお前が望んだ戦いが出来るのかもしれない」

 

 勇儀は苦笑して、言い直した。

 同じ鬼でありながら、当然のこととして、勇儀は萃香との間に個人の違いがあることを知っていた。

 良く言えば誠実で、悪く言えば単純な自分とは違い、萃香の性格には何処かムラがある。

 嘘を嫌っているが『少し嘘を言うかもしれない』などと、それ自体が嘘のような正直なような、掴みどころのない言い方をする時もある。

 勇儀と交わしたのも『意見』であって『約束』ではない。

 だから、結局ルールに従わず、いきなり先代に喧嘩を仕掛けたとしても『嘘じゃあないよ。事情が変わっただけだよ』とケロリとした顔で答えてしまいそうなところが、萃香にはあるのだ。

 伊吹萃香という鬼を一言で表すのならば、少しばかり『ずるい』のだ、というのが勇儀には正しい気がしていた。

 

「お前は、実に鬼らしく自分勝手だ」

「うん」

「だったら、自分だけで動きゃ良かったんだ。らしくもなく仲間を率いやがって、戦ごとの真似のつもりか?」

「気になってるのはそこか?」

「ああ、気になるね」

「変わったのさ」

「変わった? 何が?」

「教えない」

「何故だ?」

「お前に言ってもしょうがない」

「しょうがないか」

「うん、しょうがない。わたしの勝手だ」

 

 ――教えられない。

 

 つまり、誤魔化すことや嘘を言うことが出来ないと、萃香は暗に語っているのだった。

 鬼らしい正直さである。

 鬼らしい頑なさである。

 それを聞いた勇儀は、諦めたようにため息を吐いた。

 こうなってしまっては、駆け引きも糞もない。

 勝手と言われれば、萃香に事情があるように、勇儀にも事情がある。

 もはや交わす言葉は無く、あとはただ互いの行動がぶつかり合うだけなのだ。

 

「そうかい、じゃあ勝手にしな。私も勝手にする」

「おう。詰まるところ、勇儀。お前はわたし達の敵かい?」

「さあて、それはさとり次第さ。なあ?」

「……ふぁ? ああ、はい。どうぞ、ご自由に」

 

 半ば話を聞いていなかったさとりは、自分でもワケの分からない返事をしていた。

 そんなのんきな対応を、勇儀は『鬼に狙われてるってのに大した度胸だ。それとも私を信用してくれてるのかな?』と考えていた。

 その心を読んださとりは、直面している事態にようやく気付いた。

 萃香と勇儀の会話が終わったのを見計らって、控えていた鬼が明らかな敵意を滾らせて、にじり寄ってきたのだ。

 

「なんだ、お前らの目的は私達だったのか?」

 

 萃香とも、別の場所でレミリア達と戦う者とも違う目的で動いている。

 同じ鬼である勇儀に対して、その鬼達は敵意を向けているのだった。

 

「――地底で、俺達鬼の支配者面している古明地さとりを叩き潰すつもりだったがよぉ」

 

 何気なく吐き出された驚愕の事実に、さとりは思考が停止した。

 そんな変化に誰も気付くことなく、やりとりは続く。

 

「星熊の、お前まさかそいつを守るなんて言うんじゃあないだろうな」

 

 一匹の鬼が、勇儀と相対した。

 長身の勇儀よりも、更に大柄な男の鬼である。

 顔立ちも人間に近いが、その腕は左右に三本ずつ、合計六本もあった。しかも、一本一本がはち切れんばかりの筋肉を備えている。

 

「おう。お前がさとりを襲うってんなら、私はそれを防ぐ為に戦うつもりだよ」

「情けねぇ。そこのちっぽけな妖怪の狗になり下がったってのか!?」

「はははっ、そいつは私の事情。私の勝手だ」

「あの巫女に頼まれたからか? あの人間に、無様にも負けちまって、それで尻尾振ってるってのかよ!」

「ごちゃごちゃうるせえなぁ。私をどうしたいのか、ハッキリしろよ」

 

 萃香とのやりとりとは裏腹に、勇儀は早くも会話に飽きたかのように、小指で耳をほじっていた。

 怒りで紅潮した鬼が、六本の腕の内一本を勢いよく振り上げる。

 

「てめぇは鬼の面汚しだ、星熊勇儀ぃ! 鬼の四天王は、今日から俺が代わりに入るぜ!!」

 

 腕が振り下ろされた。

 人間が脳天に食らえば、潰れた頭が胴体を股下まで一直線に両断するような、凄まじい一撃だった。

 その攻撃を、勇儀は片手で受け止めていた。

 飛んできた小石を掴むような気軽さで、落ちてくる拳を手のひらで受け止めたのだ。

 肉のぶつかり合う音が響いた。

 しかし、勇儀は小揺るぎもしなかった。襲い掛かる圧力に、全く堪えた様子もない。

 六本腕の鬼は、そこでようやく顔色を変えた。赤から、青へ。

 微動だにしない勇儀の片腕に対して、二本目の腕を添え、更に力を込める。

 勇儀は一切揺るがない。

 代わりに、勇儀自身が自ら動いた。

 掴んだ片手に力を込める――それだけである。

 それだけで、肉と骨が軋む音が鳴り始めた。

 

「ぁ……あ゛っ……ああああああああ゛!!?」

 

 六本腕の鬼が悲鳴を上げた。

 三本目、四本目、と腕を追加していき、ついには六本の腕の力を総動員して、勇儀の片腕に対抗しようとする。

 しかし、押し返すどころか抗うことすら出来なかった。

 勇儀がゆっくりと腕を傾けるのに合わせて、鬼の体が窮屈な椅子に無理矢理座ろうとするかのように、小さく、地面に向けて沈んでいく。

 

「た……たすっ」

「ん?」

「助けて……!」

「あ? 命乞いか?」

 

 朗らかに笑う勇儀の顔を、苦痛と恐怖で歪めながら鬼が見上げた。

 

「すみませんっ、俺が間違ってました……生意気言いましたぁ!」

「ああ。お前、私のこと侮ってただろう?」

「はいっ! 侮ってました! すみませんでした、だから許して下さいぃ!!」

 

 恥も外聞もなく、鬼は叫び散らした。

 その必死の形相を見つめていた勇儀は、笑みの質を変えた。

 

「――それが侮ってるっていうんだよ、ボケが」

 

 煮え滾る怒りを笑顔で表現するとそうなるような、凄惨な笑みである。

 血の詰まった皮袋を地面に叩きつけたような濡れた音が響き渡り、その鬼は文字通り押し潰された。

 勇儀によって平らになるまで地面に『押し込まれた』鬼の胴体は血と内臓を溢れ出させて、五本の腕と二本の足は四方に飛び散っていた。

 勇儀の握っていた腕は、完全に握り潰されて跡形もない。

 人はおろか、妖怪も、鬼も、戦慄せざるを得ない凄まじい光景が広がっていた。

 

「この私に喧嘩を売った挙句、謝って許してもらえるなんて、ちょっとでも思っちまってるところが、本当に――」

 

 血塗れの腕を引き上げ、勇儀は残った鬼達に向けてゆっくりを顔を上げた。

 

「舐めてんだよ、この星熊勇儀を」

 

 低く、重い、凄みのある声でそう言った。

 萃香以外の残された鬼達は、いずれも勇儀やさとりに対して含むところのある目的だったのだろう。

 しかし今や、目の前で行われた凄惨な出来事に、当初の意志は完全に呑まれていた。

 彼らは思い出したのだ。

 自分勝手で、暴虐を好み、暴力によって全てを決定する鬼の中に在って、仮にも『四天王』などと上下を決める立場が作られたこと。

 そこに君臨していた、伝説の鬼の恐ろしさを、今更になって思い出していた。

 力の勇儀――それが、自分達が戦おうと思っていた相手の正体だと、今更になって思い知ったのだ。

 

「お……俺ぁ、そこのさとりが気に入らなくて……」

 

 戦意喪失しかけた鬼の一匹が、勇儀の機嫌を伺うように恐る恐る背後のさとりを指差した。

 なんとか、勇儀とは戦わずに事を済ませたい――そういった、鬼にあるまじき負け犬の考えが透けて見える。

 それに対して、更に表情を険悪に変えた勇儀が何事か言おうと口を開きかけた時、声が割り込んだ。

 

「あくまでも彼女を狙うのなら、私も相手をするわ」

 

 それまで沈黙を貫いていたアリスだった。

 一連の出来事を、全く我関せずと眺めていたアリスは、さとりの危機に際して、突然動いたのだ。

 

「なんだい、お前さん? 味方してくれるのかい?」

「アナタが全て済ませてくれるに越したことはないけどね。さとりに害が及ぶなら、露払いくらいはするわよ」

 

 アリスが指を動かすと、それに連動して数体の人形が動き出し、さとりを守るように配置された。

 小さいながらも、凶悪な武器を携えた人形の兵隊である。

 見たこともない術を目の当たりにした勇儀は、面白そうに口笛を吹いた。

 

「こいつは頼もしい。さとりの友達かい?」

「いいえ。でも、彼女とはもっと話がしたいわ。ここで殺させるわけにはいかない」

「いいね、分かりやすい動機だ。嫌われ者なんて言われてるが、意外とさとりも面白い友人を作るじゃあないか」

 

 愉快そうに笑う勇儀の微妙な誤解を解こうともせず、淡々とした様子でアリスが肩を並べる。

 ここに、奇妙な拮抗状態が生まれていた。

 それを背後から眺めるのは、さとりである。

 自分を守る伝説の鬼と魔法使いの背中を眺めながら、さとりは呆然としていた。

 

 ――古明地さとり、か。大して興味はなかったが、なかなか面白そうな奴じゃあないか。

 

 自分に向けられる萃香の思念を読み取る。

 さとりは思った。

 

 ――ひょっとして、ちょっと、いや大分、いやかなり、いや実は相当……私って拙いことになってるんじゃない?

 

 本当に、今更な話だった。

 

 

 

 

「あ~、先代様はくっそ重いですねぇ。とても女性とは思えませんねぇ。肉付きすぎじゃないっすかねぇ~」

「……すまん」

 

 文は独り言のつもりかもしれないが、抱えられながら空を飛ぶ私は、自然と密着した状態になっている。

 その為、彼女の言葉も一語一句洩らさず聞こえていた。

 文にそんな風に思われてるなんて……恥ずかしい! あたし、泣いちゃう!

 

「母さん、やっぱりあたしが代わるわ。だから、とっとと消えていいわよ三流記者」

「なっ!? 誰が、三流ですか! 他の悪口は受け流しますけどねぇ、新聞に関しちゃあ譲りませんよ、あたしゃ!」

「よせ、霊夢。文、貴女の新聞は素晴らしい」

「……ふ、ふんっ。分かってるなら、それでいいんですよ」

「……チッ」

 

 いや、まあさっきの心境は半分以上冗談だったんだけどね。

 別に私が女にしてはゴツすぎるのは事実だし、文は何も間違ったことを言っていない。

 霊夢もそこまで気にしなくていいのよ?

 しっかし、こうして霊夢と一緒に飛ぶのはもちろん初めてだが、そこに文も加わるとなるとは予想だにしなかった。

 しかも、こうして三人並んで話をしてみると、意外と霊夢と文は親しい間柄のように見える。

 少なくとも、お互いに知り合ってはいるようだ。

 私は博麗の巫女を引退して、博麗神社を出てから霊夢とは一月に一回の付き合いだし、その後のこの子の友好関係ってあんまり知らないのよね。

 やっぱり、新しい博麗の巫女として取材した際に知り合ったんだろうか。

 

「文と霊夢は友人だったのか?」

「いいえ。たまに周りを嗅ぎ回ってる不審な妖怪よ」

「今のところ、大して興味もないありきたりな取材対象ってところですかねぇ。間違っても友好関係なんて結んではいませんので」

 

 折角、友好的な方向へ傾くような聞き方をしたのに、二人の返答は素っ気無いものだった。

 霊夢の態度は、まあ他人相手にはこれが普通なところもあるけど、文の方も本当に霊夢へ大した興味を向けていないようだった。

 そういえば、新聞にもあまり霊夢の話題って載らないのよね。

 

「なんせ、博麗の巫女に就任して以来、大した功績も残していませんからね。霊夢さんは。

 スペルカード・ルールの制定と、本格的な異変の解決は春雪異変くらいですか? 話題性という点では、娘さんよりも母親の貴女の方が遥かに勝りますよ」

「――ッ」

 

 文の――その、なんだ、ちょっと嫌味な言い方を聞いても、霊夢は飛ぶ先を見据えたまま、黙っていた。

 しかし、私には分かる。

 あれは、傷ついている表情だ。

 どうやら、博麗の巫女としての功績が少ないって点を、意外と気にしているらしい。

 そんなの、まだまだこれからだと思うんだけど。

 

「紅霧異変では、最終的に決着をつけたのは先代様と、話を纏めた八雲紫。永夜異変でも、詳細は探れませんでしたが、やはり先代様が大きく関わった結果の解決だったんでしょう?」

 

 ――そう言われて、顧みてみれば、私ってば現役退いた身のくせに出張りすぎだな。

 っつか、霊夢の知名度の向上を妨げてるのって、私が原因!?

 な……なんてこった。親が子供の足を引っ張るなんて冗談じゃないぞ!

 

「あれですねー、霊夢さん。未だに親離れが出来てないんじゃないですかねぇ? それでは先代巫女の伝説を超えることなんて、到底不可能ですよぉ?」

「……うるさいわね、分かってるわよ」

 

 ヘラヘラと笑う文に対して、霊夢は苛立った口調ながらも、大きく反論出来ないでいるようだった。

 普段の遠慮のない霊夢からは想像も出来ない。

 霊夢は、文の言葉で思った以上に動揺しているらしい。

 どうしよ……原因たる私としては、話に割り込むことも出来ない。

 

「霊夢。私は――」

「はーい、お母様は黙ってましょうねぇ」

 

 とにかく霊夢を慰めたい私は口を開いたが、その途端、文が突然バレルロールをかまして、空中を飛び回り始めた。

 いやぁー!? もっとアクロバティックな動きをしたことはあるけど、他人にやられると超怖い! やめて!

 

「――毒にも薬にもなりゃしない親の気遣いなんて、クソの役にも立たないんですよ。貴女は、少々娘に甘すぎる。彼女が母親の背中をどれだけ遠く感じているか、あんた分かってますか?」

 

 風を切る音が響く中で、文の囁く言葉が、私には確かに聞こえた。

 

「……何、母さんで遊んでんのよ? あんたは」

「あやや、すみませんね。鬼に襲撃されてる人里まで先代様を運ぶなんて、私には非常に不本意な仕事なもんで」

「あんたのつまらない新聞よりは、立派な仕事でしょ」

「まだ言いますか!」

 

 再び霊夢と並んで、落ち着いた飛行へと戻った文。

 その腕の中で、私は先程言われたことを考えていた。

 

 ――あれは、間違いなく文の助言だったんだよな。

 

 そういえば、霊夢は私のことどう思ってるんだろう?

 あの子を育ててきたし、成長した今も、異変を介して霊夢が私を想っていることは十分伝わっている。

 私のことを、母親として慕ってくれているのは分かるのだ。

 でも、それ以外の感情はあるのだろうか?

 私は親として、霊夢を愛し、また立派な母親であろうと努力してきたつもりだ。

 そんな私の姿を、霊夢はどんな眼で眺めていたんだろう?

 

『彼女が母親の背中をどれだけ遠く感じているか、あんた分かってますか?』

 

 ……分かって、ないのかなぁ。

 改めて、考えさせられる話だ。

 文の言葉に考え込む私だったが、現状はそんなに悠長なものではなかった。

 飛行による移動はやはり相当な速さで、視線の先には、もう人里が見え始めたのだ。

 満月の月明かりが、人里の全貌をぼんやりと照らしている。

 それ以外に明かりはない。

 夜中であるから民家に光は無く、また最悪の状況と想定していた火事などの類も確認出来ない。

 しかし、確かに鬼の襲撃は始まっている。

 そこら中から、鬼の凶悪な気配が感じ取れる。

 つまり、今はまだ最悪の一歩手前程度ってことか。

 そして、何より――。

 

「な……なんという光景でしょう」

 

 現地のリポーターよろしく、文が震える声で視線の先に広がる光景の感想を述べた。

 人里の入り口にあたる箇所には、鬼が集まっていた。

 しかも、三十以上はいる大群だ。

 幻想郷を襲っているのが百の鬼で、その半数が人里を襲っているのだから、更にその中の半数以上がここに集まっていることになる。

 こ、こいつら……なんだってこんな所に集まってんだ?

 手分けして人里を襲えばいいのに……いや、よかないけど、普通そうするでしょ!

 

「――あいつら、きっと母さんが目的ね」

 

 霊夢が言った。

 

「何か、待っているような気がする。勘だけど」

「それが、先代様ってことですか?」

「多分」

 

 そうか、勘か……。

 霊夢の勘って、つまり確定事項ってことじゃないっすか!

 私のやる仕事、もう決まったんですか!? あの鬼どもと戦えばいいんですか!? やったーっ!

 でも、それって死ねってことじゃないっすか! 最悪、勇儀を三十以上相手にするのと同じことじゃないですか! やだーっ!

 ――と、そんな駄々も捏ねていられないのが現状である。

 

「萃香はいないな」

 

 私は内心の動揺を押さえ込んで、冷静に萃香の気配を探っていた。

 少なくとも、あの鬼の集団の中にはいない。

 うーむ、萃香一人とあの鬼の集団か……どっちの難易度が上かな?

 私とはまた別の感性で、霊夢も萃香のことを探っているようだ。

 

「異変の元凶は、まだ少し先にいると思う」

「分かるのか?」

「こっちも勘だけど、でもさっきよりは確信がある」

「そうか」

 

 霊夢は、迷いなく更に先――人里の中心へ視線を向けていた。

 だったら、もうやることは決まったようなものだ。

 

「あの鬼達は私が相手をする。元凶は、霊夢に任せる」

「え?」

 

 驚いたような顔をする霊夢に対して、私は顔面の筋肉を総動員して、最高に頼もしい(ように見える)笑顔を浮かべた。

 

「頼んだぞ」

「――分かったわ。先代」

 

 霊夢の表情と口調が切り替わっていた。

 我が娘、マジ凛々しい。

 そのまま霊夢は速度を上げ、鬼達の上空を通過して、萃香の元へと向かっていく。

 頑張れ、霊夢。お前がナンバーワンだ!

 そして、残された私の仕事は、そんな霊夢を無事にラスボスの所まで行かせることだ。

 鬼どもは、霊夢の接近に気付いた様子だった。

 私のことが目的なら、霊夢には手を出さないかもしれないが、迎え撃とうとする可能性もある。

 ならば、早々に行動あるのみ!

 

「文、付き合ってもらうぞ?」

「運ぶだけですからね! ギリギリまで近づいて、空中で手を離しますからね! あとは勝手に何とかして下さい!」

「十分だ」

「あ、それから後日、今回の異変に関する取材お願いします!」

 

 ……ちゃっかりしとる。

 私は半ば呆れながらも、同時に張り詰めていた気持ちが幾らか解れていた。

 さすがに、あれだけの数の鬼と戦うとなると、緊張していたようだ。

 っつーか、私は他の皆と違って遠距離攻撃が不得意だから、自然と鬼相手に接近戦とか肉弾戦になるのよね。しかも、今回は多対一か。

 また、命の綱渡りが始まるお……。

 私一人の力では、この先生きのこることが難しい状況だ。

 故に、きのこる先生――じゃねえ! 偉大なる先人達よ、今一度我に力を貸したまえぇー!

 

「鬼に気づかれました! 離します!」

 

 文の手が離され、加速した状態で私は空中に投げ出された。

 

 ――鳥になってこい! 幸運を祈る!

 

 私の中に宿った先人の力か、早速名台詞が聞こえた。

 やべ、テンション上がってきた。

 

 

 

 

 人里の入り口付近に陣取っていた鬼達の目的は一つだった。

 

 ――勇儀を倒した先代巫女と戦うこと。

 

 ただそれだけの、純粋で、何よりも強い欲求である。

 人里の中は、久方ぶりの獲物である人間達がうようよしていたが、それらすらもここで待つ鬼達の興味を変えることはなかった。

 有象無象の人間ではない。

 ただ一人の人間の登場を、彼らは待ち望んでいたのだ。

 

「あれは、博麗の巫女か?」

 

 鬼の一匹が、上空を飛んでくる少女の姿に気付いた。

 しかし、すぐに隣から否定の声が上がる。

 

「いや、あれは地底に来た巫女とは違う」

「ああ、そうだ。似てるが別人だ」

「異変が起これば博麗の巫女が解決にやってくると聞いていたんだが」

「ありゃあ、多分当代の方だな」

 

 この場の鬼達のほとんどが、先代巫女の姿を知っていた。

 地底での決闘を眼に焼き付けた者達が、この場のほとんどを占めているのだ。

 あの戦いを見た。

 見たからこそ、焦がれずにはいられなかったのだ。

 それ以外の人間など、例え同じ博麗の巫女であっても興味はない。

 

「暇潰しに、少し遊ぶとするかい?」

 

 しかし、実際にあの戦いを見たことのない一部の者達は、そこまでこだわりを持っていなかった。

 強者と戦いたいという欲求自体は共通している。

 この際、同じ巫女ならば構うまい、と。そう考えた鬼が、霊夢に標的を定めようとしていた。

 その時である。

 

「――待て!」

 

 別の鬼が、上空から飛んでくる、もう一人の巫女に気付いた。

 

「来たぞ」

 

 いや、飛んでいるのではない。

 

「来やがったぞ!」

 

 物凄い速度で、落ちている。

 

「来たぞ! あの巫女が来たぞぉっ!!」

「本当だ!」

「ついに来やがった!」

「間違いねぇ、あの時の巫女だ!」

「あれが、勇儀の姉さんを倒しやがった人間か!?」

 

 鬼達の間に、歓喜の声が上がった。

 迫り来る巫女を、溢れる喜びと共に、漲る戦意と共に、歓迎する声だった。

 三十を超える鬼達が騒ぎ立てる。

 人里の入り口は、鬼の襲撃を受けているその最中よりも更に凶暴な、活気と騒乱に一瞬で満ち溢れた。

 その眼前へ、上空から先代巫女が飛来する。

 空中で前転した先代は、両足から地面に着地した。

 そのまま地面を削って大きく制動を掛け、最後の慣性を殺すように両手を地面に着ける。

 丁度、鬼達の眼前で、先代は停止していた。

 騒がしい声が、一瞬鳴りを潜める。

 それは鬼を倒した人間の登場と、その先にある死闘の始まりに対する鬼達の緊張のように張り詰めていた。

 ゆっくりと、先代は俯いていた顔を上げた。

 

「――待たせたな」

 

 敵の大群を睨み据えて、先代は不敵な台詞を吐いた。




<元ネタ解説>

「待たせたな」

ゲーム『メタルギアソリッド』シリーズにおける主役スネークの決め台詞。
また、本編中の主人公の降下の仕方はMGS3のワンシーンにあやかっている。

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