東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その二。


其の二十七「百万鬼夜行」

 日の出が陽の力を生み出す時刻ならば、夕暮れはその陽の力を失っていく時刻だ。

 フランドールは夕焼けを見つめていた。

 赤い光が刺すように両目を焼く。

 比喩ではない。眩しさと共に、確かな熱さを吸血鬼である少女は感じていた。

 しかし、それを苦痛だとは思わない。

 今この時だけ、フランドールにとって太陽の光は自らを滅ぼす恐ろしい光ではない。

 

「綺麗……」

 

 吸血鬼の少女は、太陽を見て感動していた。

 日中ならば、まともに浴びれば致命傷を与える陽光。

 圧倒的な光を放つ巨大な火の玉が、山々の陰へ沈んでいく様を見る。

 計り知れない力が消滅していく壮大な光景を眺めて、一日という世界の終わりを知る――。

 

「とっても綺麗ね、お姉様。わたし、初めて見たわ」

「吸血鬼が太陽に心を奪われるんじゃありません」

 

 傍らに寄り添って飛ぶレミリアが呆れたように言った。

 しかし、その顔が苦笑を浮かべているのは、妹の気持ちが自分にも少しは分かるからだった。

 自らの滅びの象徴である日の光を、恐れながらも強く焦がれる――そんな矛盾した心が、吸血鬼という種族には誰しも備わっているような気がしてならない。

 レミリアは、美鈴に促して、フランドールを夕焼けの光から日傘で守らせた。

 

「むーっ、よく見えないよ。美鈴!」

「申し訳ありません。でも、これ以上は体に毒ですよ」

「文字通りの、ね。フランは初めて見るから実感が無いでしょうけど、陽光を浴び続けると感じる痛みから連想するよりもずっと大きく、吸血鬼は体力を奪われるのよ」

 

 そう忠告するレミリアは、自分の日傘でしっかりと身を守っていた。

 従者である咲夜はもちろん傍に控えているが、こちらには荷持ちを優先させている。

 紅魔館から出立した彼女達四人は、宴会の為の食料や酒を持って、博麗神社へ向かっている最中だった。

 

「さあ、急ぎましょう。第一、一番乗りしたいと言ったのは、フランと美鈴の方でしょ?」

 

 レミリアにたしなめられ、フランドールは夕焼けの光景から眼を離した。

 太陽は徐々に姿を隠し、夕闇が一帯を包んでいく。

 夜が訪れる。

 満月の夜である。

 今夜、いよいよ幻想郷でも前代未聞の大宴会が開催されるのだ。

 

 

 

 

「ああ、やっぱり」

「何がやっぱりなのよ?」

 

 博麗神社の境内に降り立った咲夜は、ガックリと肩を落とした。

 その反応を見た霊夢が憮然と尋ねる。

 

「アナタ、宴会の用意を何もしていないじゃない」

「料理やお酒は各自が持ち寄るって――」

「そうじゃなくて、場所の準備よ」

 

 辺りを見渡す咲夜に倣って、霊夢もグルリと一帯を眺めた。

 同じようにレミリアとフランドール、そして美鈴も物珍しげに神社という場所を観察している。

 見慣れた風景を確認した霊夢は、やはり憮然として言った。

 

「準備出来てるじゃない。しっかり、掃除もしておいたし」

「確かにゴミは落ちてないわね。ただ、大勢の参加者が集まるというのに敷き物の一つも広げていない。おまけに、宴会の開始時間は夜だというのに明かりの確保も出来ていないわ」

「……地べたに胡坐でも掻けば? 妖怪なら月明かりだけで十分でしょ」

「OK、分かった。アナタに参加者を歓迎しようって気がないことはね」

「こいつにそんな気遣いは期待するだけ無駄よ」

 

 呆れた様子の咲夜とは別に、レミリアは愉快そうに笑った。

 

「でもね、霊夢。アナタはそれでよくても、主催者である先代巫女はどうかしら?」

「むっ」

「不備があれば、それは彼女の面目を潰すことになるのではなくて?」

 

 レミリアは霊夢の扱いを心得ていた。

 かつての異変の中で、様々な形で互いを知り合った結果である。

 母親のことを引き合いに出されて、さすがに霊夢も難しい表情で黙り込んだ。

 

「……確か、裏の小屋に古いムシロが」

「罪人が並んで座るんじゃないんだから、もうちょっと品の良い物使いなさい。咲夜」

「はい」

 

 分かり辛いが、狼狽しているらしい霊夢の様子を見て満足したレミリアは、咲夜に促した。

 肩に下げていたバッグから、次から次へと道具を取り出していく。

 高級そうな絨毯、見事な装飾のランタン、テーブル、椅子――西洋風の物に偏ってはいるが、それらは宴会の場所を形作るのに必要な道具の数々だった。

 

「座布団くらいはあるでしょう」

「あるけど……あんた、それどっから出したのよ?」

 

 明らかにバッグの容量を超えた物をどんどん取り出して並べていく咲夜に、霊夢は呆れた。

 まるで手を入れた先に別の空間が広がっているようだ。

 質問に答える代わりに、一通りの道具を出し終えてから、咲夜はバッグから離した手で口元を覆い隠した。

 

「――マジックよ」

 

 今度は口の中から、ダバダバと何十枚ものトランプを取り出してみせた。

 霊夢はそのシュールな光景をしばらく眺めてから、ようやくこれが先程の質問への小粋なジョークを交えた返答だと理解した。

 

「わー! 咲夜、スゴイ!」

「メイドの嗜みですわ」

「いつ見てもお見事です!」

 

 リアクションに困る霊夢を置いてけぼりにして、フランドールと美鈴が純粋にはしゃいでいた。

 

 ――なんだ、こいつは。こういう奴なのか?

 

 瀟洒なメイドの意外な一面を、霊夢は見たような気がした。

 どうでもよかった。

 

「食材の方は美鈴に持たせてあるわ。というか、自分が調理するって言い出したのよね」

「そうです。任せてください!」

 

 美鈴はレミリアに胸を張った。

 霊夢が疑わしげな視線を向ける。

 

「あんたが? ……なんか、中華しか作れないイメージがあるんだけど」

「おっと、それは早計ね。これでもかなり手広く作れるわよ。

 咲夜さんがメイド長になるまで、誰が紅魔館のやたらと注文の多い食事事情を解決していたと思っているの?」

「失敗作も相当食わされたけどね」

「美鈴のご飯は咲夜と同じくらい美味しいよ!」

 

 姉妹が保証するのを受けて、霊夢も納得した。

 

「じゃあ、あたしも料理の方を手伝おうかしらね」

「そうね。会場の準備は、霊夢には不向きだわ」

「うるさい」

「えっとね、わたしは……」

「フラン、いいのよ。下々の者に任せて、私達は優雅に待っていれば」

「そうね。邪魔だし」

「ふふん」

 

 霊夢の軽口に、レミリアも余裕を持って応えた。

 そんな二人の様子を見て、咲夜は密かに安堵していた。

 今回の宴会に関して、正直不安を感じていた。

 あの永夜異変において、迷いの竹林で霊夢や自分を含めた多くの人妖が入り乱れ、争ったことは記憶に新しい。

『警戒ではなく親愛を』――見知らぬ相手、しかも力を持った相手に、それは酷く難しい。あの時、実感したことだった。

 ましてや、紅魔館はかつて博麗の巫女と敵対した関係である。

 一応の解決は経たが、その後大した交流もなく、ただ互いの溝が水面下に沈んでいるだけのような印象があった。

 歓迎されないかもしれない。 

 それどころか、敵意を向けられるかもしれない――。

 そう、不安に思っていた咲夜にとって、今目の前にある光景は悪いものではなかった。

 明るく素直なフランドールと、好意的な美鈴に加えて、意外にもレミリアまで霊夢に対して悪感情は抱いていない。

 

 ――杞憂か。

 

 咲夜は、心の何処かにあった霊夢への警戒と不審を、今度こそ完全に消し去った。

 宴会のセッティングをしようと、道具に手を掛ける。

 その時――。

 境内に残った、咲夜、レミリア、フランドールの三人に緊張が走った。

 三つの視線が、何もない空中に走った一本の亀裂に集中する。

 

「――あら、どうやら私は二番乗りのようですわね」

 

 それは『スキマ』と呼ばれる異次元の裂け目だった。

 これを操る能力者は、人妖の中でも一人しかない。

 得体の知れない境界操作という力を、単なる便利な交通手段として利用して、八雲紫が式神である八雲藍を伴って境内に降り立った。

 

「久しぶりね、八雲紫」

「お久しぶりですわ、レミリア・スカーレット」

 

 挨拶を交わすレミリアの顔に、霊夢に対して向けていたような気安さは、もはや微塵もない。

 心なしか、フランドールがレミリアの影に隠れるように動いていた。

 

 ――ああ。

 

 一変した周囲の空気を感じ取り、咲夜は思わず空を仰ぎそうになった。

 紫の背後から自分や主人姉妹を無遠慮に観察する藍の冷たい視線を受けつつ、内心で嘆く。

 

 ――やっぱり杞憂じゃなかった。

 

 今宵の宴会の前途は、多難であるらしかった。

 

 

 

 

 日はすっかり沈み、夜も更け始めている。

 

「いや、いい月夜ねぇ。雨も降りそうにないし、宴会には絶好の夜だわ」

 

 土間の窓から月を見上げ、美鈴は明るく笑った。

 

「そうね」

「そうですね」

 

 冷めた返事を受け、笑う傍から口元が引き攣っていく。

 元々、博麗神社の台所はそれほど広くはない。

 そこで、美鈴を含めた三人――霊夢と妖夢は並んで調理作業に没頭しているのだった。

 

「え、えーと……そう! 妖夢は刃物の扱いが上手いわね」

「恐れ入ります」

 

 美鈴の褒め言葉に、妖夢が短く応える。

 それで、会話は終わってしまう。

 この気まずい沈黙を、美鈴は先程から延々と味わっていた。

 

 ――どうしてこうなった!?

 

 誰に聞いても答えは出ないだろうが、問わずにはいられない。

 少なくとも、霊夢と二人で作業をしていた時には、こんな嫌な空気ではなかったはずだ。

 和気藹々とはいかないまでも、穏やかなやりとりがあった。

 実際に、美鈴も霊夢のことを割りと好ましく思っている。彼女の母親への印象も影響しているのだろうが。

 宴会の参加者が続々訪れたらしく、境内で動く者の気配が増え始めた辺りから、何かがおかしくなっていった。

 

『手伝いに来ました』

 

 幽々子のお供として、食材を持って台所に現れた妖夢はそう申し出た。

 それは純粋な善意であったし、事実美鈴はありがたく受け取った。

 初対面同士で軽く自己紹介を済ませ、そして妖夢が霊夢に対して声を掛けたのだ。

 

『……お久しぶりです、霊夢さん』

 

 奇妙な間のある挨拶だった。

 それを受けて、霊夢もまた妙な間を空けて応えた。

 

『あ……っと。ごめん、あんた誰だっけ?』

 

 妖夢の様子が、明らかに変わった。

 

『冥界で会ったのは覚えてるのよね』

『……魂魄妖夢と申します』

『ああ、そうそう。そうだった、忘れてたわ』

 

 その時、美鈴は空気が軋む音を確かに聞いたような気がした。

 そして、空気の質までも変わってしまったのである。

 明らかに霊夢に対して何か含むもののある妖夢とは反対に、霊夢自身は全く気にもせず調理を続けている。

 それが、間に挟まれた美鈴のフォローも虚しく、辺りの空気を悪くし続けているのだ。

 釣られるように、妖夢の美鈴への態度まで固くなる有様である。

 

「よ、妖夢はその……白玉楼だっけ? そこでお姫様のお食事の用意などもしているのかしら?」

「いいえ。専門の幽霊がやっています」

「そうなんだー、それでここまで料理が出来るっていうのもすごいわねー」

「ありがとうございます」

「れ、霊夢は普段は自炊してるのよねー?」

「まあね」

「独りだと、ずぼら飯になりがちだと思うけど、十分な腕前よねー?」

「母さんに仕込まれたし、食事はしっかり摂れって言われてるからね」

「そうかー、さすが先代様ねー」

「まあね」

「霊夢から見てさ、妖夢の料理の腕ってどんな感じ?」

「すごいんじゃない? 美鈴が言うなら」

「ありがとうございます。美鈴さん」

「――」

 

 この有様である。

 美鈴は二人の間から逃げ出したかった。

 しかし、未調理の食材はまだ残っている。

 それに、自分が抜けてこの二人が隣り合う光景も、見るのが怖い。

 この場の全てに耐えながら、美鈴は手に馴染んだ自前の中華鍋に意識を集中した。

 そこで不意に、誰かが背中に負ぶさる感触を美鈴は感じた。

 

「本場の中華って、煙すごいのねぇ。ああっ、でも匂いも強くて空っぽのお腹に堪えるわぁ~」

「ぉわっと!? 危ないですよ、西行寺様」

「やだ、幽々子って呼んで? めーりん」

「耳元で甘く囁かんで下さい……幽々子さん」

 

 背中に寄り掛かった幽々子へ、美鈴は苦笑しながら言った。

 危ない、とは言ったが、迷惑には感じていない。

 背中に幽々子の豊満な胸の感触と、亡霊特有の体温の冷たさを感じているが、軽く浮遊している為か重さは感じない。

 作業の邪魔にならないよう配慮しているらしい。

 加えて、幽々子の本当の気遣いは、何よりもこの場の空気に対するものだと美鈴は見抜いていた。

 主人である幽々子が関わると、妖夢の頑なな態度が少し和らぐのだ。

 

「幽々子様、はしたないですよ」

「妖夢は堅物で駄目ね~。ねえ、美鈴。貴女は邪険にはしないわよね?」

「つまみ食いを御所望ですか、はしたないお姫様?」

 

 美鈴は十分に火の通った肉の一切れを箸で掴んで、肩越しに差し出した。

 

「熱いですよ」

「やったぁ」

 

 子供のように喜んで、幽々子は肉を頬張った。

 

「ん~、美味しいわ」

「宴会開始まで、それでなんとか凌いで下さい」

「分かった、我慢する。妖夢も、楽しみにしているからね」

「……はい」

 

 幽々子の言葉を受けて、ようやく妖夢の顔に笑みが浮かんだ。

 美鈴にとって、幽々子はこの宴会を円満に進める為の貴重な協力者である。

『冥界の姫』などと恐ろしげな肩書きを持つ亡霊だが、少なくとも美鈴には心休まる相手だった。

 

 ――逆に言えば、心休まらない相手が、この宴会には多すぎるのだが。

 

「次の料理は出来たかしら?」

 

 良い意味で落ち着きのない幽々子が去り、悪い意味で落ち着きのある人物が入れ替わりで土間を訪れた。

 魔理沙に連れられて宴会に参加した、アリスだった。

 

「あっ、はい。この料理をお願いします」

「別に敬語じゃなくてもいいわよ」

「は……はい」

「別に敬語でもいいけど」

「……そうですか」

 

 今のはアリスなりのフォローのつもりだったのだろうか?

 美鈴には、その真意が測れなかった。

 面識はなく、ただパチュリーと同格の魔法使いという説明だけを受けている。自然と、敬語を使うようになった。

 それは敬意ではなく、距離を感じているからだ。

 まるで人形のように淡々としたアリスの言動は、何処かパチュリーと似ていながら致命的な差異を感じさせるものだった。

 しかし、とりあえず宴会の準備に協力的ではある。

 完成した料理に保温の魔法を掛け、テーブルに並べる作業まで手伝ってくれているのだ。

 ただ、参加する人妖が多かれ少なかれ此度の宴会に何かしら感じているだろう中で、彼女だけが何一つ感慨を抱いていないような様子が、美鈴を不安にさせるのだった。

 

「えっと、重いんで一緒に持ちます」

「そう」

 

 美鈴は料理を盛った大皿に手を添えたが、アリスは言外に必要ないと感じている様子だった。

 しかし、今更『やっぱりやめます』というのも余計気まずい。

 霊夢と妖夢を二人きりにしてしまうという己の失敗を今更悟りながらも、美鈴はアリスと共に境内へ出た。

 宴会の準備は粛々と行われている。

 そう、粛々――である。

 その空間に浮かれた騒がしさはほとんど無く、かといって表立った緊張もない、静かに張り詰めた空気があった。

 境内の木々の間を繋ぐように、ランタンと掛行燈が混ざって下がり、宴会場所を照らしている。

 西洋風と和風が入り混じった奇妙な風景は、紅魔館の物ではなく、八雲紫が用意した宴会道具も混ざった為であった。

 宴会の主催である先代巫女の頼みを受けて、本来は紫が場所の準備をする予定だったのである。

 かといって、別にどちらが準備を遠慮する必要もない。

 咲夜と藍が互いに示し合わせたワケでもないのに役割を分担し、効率的に作業は進んでいた。

 ただ、そんな二人の的確な動きには、相手を牽制し、ともすれば争うような静かな苛烈さが秘められていることを、美鈴は気配で感じ取っていた。

 そんな従者の働きを、それぞれの主人が並んで腰を降ろして眺めている。

 ただし、寄り添うようなレミリアとフランドールの隣に、微妙に間を空けて紫が座るという配置から、三人の深い溝が感じ取れるのだった。

 その光景を見て、美鈴は『うわぁ』と思った。

 具体的な感想は纏まらず、とにかく『うわぁ』であった。

 もはや、八雲紫の親友だと聞いた幽々子の存在だけが助けである。

 そんな幽々子は、魔理沙と何やら談笑していた。

 おい、こそ泥魔法使い。そんな所で貴重な人材相手に油を売るんじゃない。

 連れて来た責任を取って、この魔法使いのフォローに回れ! っていうか、お前は霊夢の友人じゃなかったのか? あからさまに避けてるのが私でも分かるんだよ、馬鹿!

 美鈴は、内心でありったけの悪態を吐いた。

 

「――紅さん、どうしたのかしら?」

「あ、いえ。何でもないです、料理置いちゃいましょう。

 ……あと、『ホンさん』って呼ばれると、何か間抜けなんで、美鈴の方でいいですよ」

「そう。ごめんなさい」

「い、いえ! いいんです、気にしないで下さい!」

 

 そして、このギクシャクしたコミュニケーションである。

 料理を置いた美鈴は、一息つく振りをして、大きくため息を吐いた。

 

 ――ああ、先代様。早く、この場へ駆けつけて下さい。

 

 宴会の主催者である先代は、未だこの場に不在である。

 そんな美鈴の切実な願いを叶えるかのように、新たな宴会の参加者が二人、境内に降り立った。

 

「こんばんわ。今夜はお招き頂きありがとう。永遠亭を代表して、八意永琳と鈴仙が参りました」

 

 またもや、美鈴にとって面識のない相手だった。

 またもや、得体の知れない実力者だった。

 人間でも妖怪でもない、底知れぬ不気味な気配を感じる。

 そして、やはり例外ではなく、彼女の連れた従者らしい妖怪兎も、明確な警戒と敵意を周囲に振り撒いているのだ。

 馴れ合う気など欠片もない、といった決意さえ感じる。

 それを見て、美鈴は『うわぁ』と思った。

 もう、とにかく『うわぁ』であった。

 

 

 

 

 四人の女が、並んで座っている。

 八雲紫。

 八意永琳。

 西行寺幽々子。

 レミリア・スカーレット。

 凄まじい光景だった。

 本来ならば、この内の二人が一つの空間で向かい合っているだけで、何かしらの陰謀や裏の意図を感じさせる者達である。

 それが四人。しかもたった一枚の敷き物の上に座って、肩を並べているのだ。

 ただそれだけで、周りは落ち着かなくなる。

 彼女たちのそれぞれの従者ならば、尚のことだった。

 藍が掛行燈の光量を調整し、妖夢が最後の料理を並べている。何もしていなかった鈴仙は、師に命じられて渋々テーブルを拭いていた。

 三人が、以前永遠亭でやっていたように互いの殺気と敵意を交わしている。

 そんな視線の交差を、何食わぬ顔をしながら、のらりくらりと咲夜がかわしていた。

 

「もう、間もなく宴会が始まる時刻ですわね」

 

 紫が誰にともなく言った。

 四人が揃って、これが初めての会話である。

 

「今夜の主役はどうしたのかしら?」

 

 永琳が紫に問う。

 

「先代ならば、残りの参加者を迎えに行っているわ」

「地底世界の妖怪とやらか」

「主催者自らのお出迎えとは、本当に入れ込んでいるのねぇ」

 

 さとりとは面識のない、レミリアと幽々子がそれぞれの思うところを秘めて呟いた。

 

「そういえば、そのレミリア嬢には古明地さとりのことを警告しなくてよかったの?」

「……何のこと?」

「余計な先入観を持たぬ者の対応というのも見てみたいですわ。それに、彼女は警告を素直に聞き入れる性格ではありません」

「……ふむ。アナタ達が何の話をしているのかは分からないけど」

 

 レミリアの眼光が、血のように赤く輝いた。

 

「お前らが、私を一段下に見ていることは分かった」

 

 満月の夜の吸血鬼が放つ、恐ろしいほどの『鬼気』が二人の賢者の認識を改めさせた。

 レミリアの齢は五百歳。

 紫や永琳の視点からすれば、若輩者も同然である。

 しかし、その資質は既に吸血鬼の王として相応しいものを備えていた。

 

「謝罪するわ、レミリア嬢」

「私もね。貴女を御父上よりも一枚落ちると値踏みしていたのは、誤りでしたわ」

「いちいち一言多い奴ね。まあいいわ、八雲紫。お前の警告を聞くつもりがない、というのは間違っていない。

 あの先代巫女が直々に招くという地底の妖怪――直接見て、その実態を測ってやるわ。そして、伝説の『鬼』とやらもね」

 

 少女の容姿に似合わぬ、獰猛な笑みが浮かぶ。

 妖怪ではあるが、それは間違いなく若さ故の勇猛さだった。

 老練な賢者二人が、そんな自分の行動を当て馬として観察していることは、レミリアも承知している。

 その上で、ゆく。

 周りの思惑など、踏み潰して、我が道をゆく。

 かつて、霊夢との戦いで取り戻した、妖怪としての強烈なプライドと傲慢さだった。

 

「――来たわよ」

 

 それまで黙っていた幽々子が、不意に呟いた。

 まるで他人事のような言い方だったので、最初三人はそれが何のことか分からなかった。

 しかし、すぐに悟った。

 博麗神社の境内に繋がる階段。

 その下から、何かが来る。

 力の塊のようなものが、周囲の空気にすら重さを与え、それも含めた大きな塊となって、ゆっくりと登ってくる。

 そう、誰もが共通した印象を抱いた。

 神社の中にいた霊夢と美鈴が外に出て、境内で座っていた全員が立ち上がって、ソレを迎える。

 最初に、三つの足音が聞こえた。

 その中で、下駄の音が特に高く、ハッキリと聞こえる。

 一番最初に視界に入ったのは、赤い角だった。

 そこから順番に、頭、肩、胴体――と『鬼』が全貌を現していく。

 肩に、大きな酒樽を担いでいた。空いた片手には、巨大な猪の死骸を引き摺っている。

 なんとも豪快な姿での登場だった。

 地底の妖怪。

 鬼の四天王。

 ――星熊勇儀である。

 

「おう、総出で出迎えかい? 嬉しいねぇ」

 

 緊張を滲ませた一同を見渡して、勇儀は屈託のない笑みを浮かべた。

 剥き出しの犬歯が怖いものを感じさせながら、何処か可愛げのある笑みである。

 

「待たせたな」

 

 その勇儀と肩を並べて、先代巫女が立っていた。

 勇儀に負けないくらいの長身である。

 この二人が並んでいる様を見ると、紫達四人が並ぶ光景とはまた違った、凄まじいものを感じる。

 片や、妖怪の中でも最強の種族とされる鬼。

 そして、その鬼を素手で殴り倒した人間である。

 そんな二人が、今や種族を超えた盟友として肩を並べているのだ。

 言い知れぬ迫力が、境内にいる人妖全てを圧倒していた。

 

「……こんなに階段が続いてるなんて、聞いてませんよ。飛んでくればよかったですね」

 

 誰もが二人に眼を奪われる中、疲れたような声が上がった。

 最初、それが誰の洩らした声なのか、誰も分からなかった。

 そして、ふと今更になって気付く。

 勇儀と先代。まるで二つの台風が並んでいるような強烈な存在感の間に、小さな妖怪が一匹、紛れていた。

 対比となる二人が大柄なこともあり、本当に小さな印象を受ける、少女の妖怪である。

 唯一、その胸に宿した奇怪な『第三の眼』が注目を惹いた。

 

「なんだい、だらしがないねえ」

「すまない。途中で負ぶるべきだった」

 

 勇儀と先代が、交互に声を掛ける。

 それぞれが彼女を気遣う意図があった。

 

 ――こいつが?

 

 様子を伺っていた、事情を知らない者達全員が眼を疑った。

 

 ――こいつが、古明地さとり!?

 

 一息吐いたさとりは、おもむろに顔を上げて、境内を見回した。

 

「……どうも。予想出来ていましたが、歓迎されていないようで嬉しいですね。古明地さとりと申します」

 

 さとりは卑屈な笑みを浮かべて、自分を見つめる幾つもの視線に応えた。

 

 

 

 

「綺麗ですね」

 

 さとりが、夕日を眺めながら呟いた。

 でもね、さとり。その夕日に照らされた君の赤い横顔の方が、私は綺麗だと思うんだ……。

 

「キモイですね」

 

 ですよねー!

 自分でも言ってて『どうなの?』と突っ込んでしまうような台詞だった。

 でも、まあ。そんなおかしな台詞がポロっと漏れてしまう私の調子こそがおかしいのだろう。

 いよいよ、待ちに待った宴会が始まるのだ。

 もう、博麗神社では紫がその準備を始めていることだろう。

 紫は急がなくていいと言っていたし、私はこうしてさとりと一緒にゆっくりと歩きながら、地底から地上へと出てきたのだった。

 私にとっては当たり前の地上。

 しかし、さとりにとっては、もう何百年振りに見る世界である。

 青空ではないが、夕暮れの空や、地底の出入り口がある妖怪の山の麓から見える木々、川の流れ――地上の風景をしみじみと眺めていた。

 

「風景もありますが、草木の声にも耳を傾けてみているんですよ」

 

 さとりが手近な花に手を添えながら付け加えた。

 すごいな、さとりってば草や花の心まで読めるの?

 

「いえ、試したことはないんですよね。ただ、貴女が教えてくれた創作の中の覚妖怪は、それをやっていたじゃないですか。真似してみたくなって」

 

 おお、あのさとりがガチ泣きした話ね。

 

「うるさいですよ。……でも、駄目ですね。やはり、お話とは違うようです」

 

 残念、無理か。

 私なんか漫画の中の技や力を再現しまくってるから、さとりにも出来るかと思ったんだけどな。

 

「それは、多分貴女が特別なんです。能力に関係してくるんじゃないですか?」

 

 能力?

 ……え、それって私の持つ能力ってこと?

 そんなの考えたこともなかったな。私が技を使えるのは、頑張って修行したからだと思ってたし。

 

「まあ、それも影響があるでしょうが、普通に考えて技や力の再現には何かしらの能力の後押しがあったと見るべきでは?」

 

 そーなのかー。

 考えてみれば、思い当たる部分も多い。

 そもそも成果に至るまでの理屈が通っている修行ならば、忠実になぞりさえすれば誰でも身に着くはずなのだ。

 しかし、漫画の修行には曖昧な部分も多い。

 その不明瞭な部分を理解せずに、形から入っていった私が、例え命懸けだったにしろ漫画のような成果を掴んだというのは、確かにおかしい。

 でも、ちょっと待てよ。

 その場合、妹紅の修行はどうなるんだ?

 彼女が私の課した修行によって、漫画『うしおととら』の中にある『穿心』の心構えを習得した事実は、記憶に新しい。

 私に能力があったとして、それが自分自身だけでなく周囲に影響を与えたということなのだろうか?

 じゃあ、私の能力って一体――。

 さとりの考察を、より深く尋ねようとした私の耳に、不意に物凄い悲鳴が聞こえた。

 人や妖怪の悲鳴ではない。

 例えるなら――っていうか、まんま『豚みたいな悲鳴』だった。

 ついでに、悲鳴とほぼ同時に肉を破壊する音も聞こえた。

 私とさとりは思わず顔を見合わせ、そしてすぐに原因を悟った。

 

「待たせたね! いや、大漁大漁。こいつなら、酒の良い肴になるだろう」

 

 ガサガサと茂みを掻き分けながら、勇儀が姿を現した。

 一緒に地上へ出て来たと思ったら、ついさっき『ちょいと手土産を用意してくる』と言って、この場を離れていたのである。

 手土産と言いながら、肩に馬鹿でかい酒樽を担いでいた。

 一体何をして来たのかと思ったが、空いた手に引き摺る、これまた馬鹿でかい猪の死体を見て、私は理解した。

 私とさとりが一息入れている間に、狩りを済ませてきよったよ、この鬼!

 

「地底の食材なんて屍肉ばかりだし、手土産が酒だけっていうのも味気ない」

 

 肉もさぞかしボリュームたっぷりであろう大猪の脳天は、平たく潰れていた。

 拳か平手で、力任せに殴ったみたいね。

 ホンマにもー、非常識なんだからー。

 

「でも、貴女にも出来るんですよね。同じこと」

 

 さとりが私の心を読んで、呆れたように呟く。

 うむ。まあ、出来るんじゃね?

 子供の頃、熊相手にやったことあるし。

 

「……行きますよ、この脳筋ども。貴女達のペースに合わせると、頭が痛くなります」

 

 さとりが頭痛を堪えるような仕草をしながら、先頭に立って進み出していた。

 おおっと、待ちなさいって。

 案内役は私なんだからさ。

 そうして、さとりを気遣いながら私が先導し、大荷物を抱えながらもさすがに歩くペースは欠片も落ちない勇儀が続く。

 私達は、ゆっくりと博麗神社へ向かって、幻想郷を歩いていった。

 観光になるほど、多くの場所を通るわけではない。

 それでも、歩く範囲、見える範囲をさとりと勇儀に紹介しながら、私達は和気藹々と歩くことを楽しんでいた。

 

「地上かぁ……うん、いいな。やっぱり、先代の誘いに乗って正解だったよ」

「勇儀は、地上を避けてはいないのか?」

「ふふ、鬼と人間の確執のことを言っているのかい? だったら、そいつは杞憂だよ」

「正確には、先代と戦って以来考えが少し変わった……ですか」

「コラ、さとり。その読んだ心を口に出す癖はやめておけと言っただろう。要らん諍いを招くぞ」

「勇儀さんも、存在自体が騒ぎになる可能性が高いと思いますけどね」

「うむ。まあ、私も気をつけよう」

「どうしようもないなら、どうしようもないけどな……ですか」

「うん、まあ……そういうこともある」

「胸を張られても困るんですけどね」

 

 さとりと勇儀の漫才みたいなやりとりを聞いていると、不安を不安と感じなくなるから不思議だ。

 案外、二人も皆とあっさり打ち解けるんじゃないか?

 そんな楽観も浮かんでくる。

 

「実際に対面すれば、現実がどんなものか理解できますよ」

 

 それは悲観が過ぎるとも思うが……。

 とにかく、私達は博麗神社に続く階段まで辿り着き、更にそれを登って、宴会の会場へと到着したのだった。

 夜はすっかり更けている。

 レミリア達の為に夜を選択したが、幸いなことに今夜は満月。

 月明かりも十分明るいが、更に神社の境内は人工の明かりで照らされていた。

 おおっ、すごい!

 宴会場だった。

 誰がどう見ても宴会場といった様相だった。

 幻想郷の人妖が、博麗神社の境内に集まり、料理や酒を囲んで、私達を待っていた。

 思い描いていた、夢の光景が今ここに――!

 

「待たせたな」

 

 私は、感極まりながらも皆にそう言った。

 その後、さとりがちょっと後ろ向きな挨拶をしていたが、皆はそれを気にすることもなく、私達を迎え入れてくれた。

 とりあえず、最初はやはり乾杯から始めるべきだろう。

 咲夜や藍達、従者組が手際よく酒の入ったグラスや盃を配っていく。

 ああ、ありがとう藍――って、スルーされたので咲夜から受け取る。

 ……うん、分かってたし。

 私が藍に嫌われてるって知ってるし。

 それを解消する為の宴会でも、あるしっ!

 内心で涙を呑みながら、全員に酒が行き渡ったのを確認する。

 こうして見ると、全体的にグループ分けのような線引きが、自然と出来てしまっているのが分かる。

 紅魔館は紅魔館のメンバーで、紫は幽々子と従者を伴って――それぞれ見知った、あるいは気心の知れた者同士だけで集まっているのだ。

 霊夢がレミリア達の傍にいるのは意外だった。ただし、魔理沙が霊夢と距離を取っているのは悪い意味での意外だった。

 かく言う私の傍にも、地上が完全なアウェーである勇儀とさとりがいる。他には誰も近づいて来ない。

 うーむ……でも、最初だからこれくらいは当たり前か。

 宴会が始まれば、それこそ色々と分かってくるだろう。お互いのことが。

 なので、早速宴会を始めよう!

 今宵は無礼講である!

 私は主催者として、宴会の開始を宣言しようとした。

 しかし、丁度そのタイミングで、紫が手を挙げた。

 

「――提案、なのですけど」

 

 私を含めた全員が、紫の発言に集中する。

 

「宴会の始まりは、乾杯の挨拶が定番。その定番の挨拶を、古明地さとりに行ってもらいたいですわ」

 

 紫の突然の提案が、僅かなざわめきを呼んだ。

 まさかの名指しを受け、さとりが訝しげな表情を浮かべる。

 

「私、ですか?」

「ええ。その通りです」

「……私は、この場の参加者のほとんどと面識がありません。加えて、余所者です。そんな私が乾杯の音頭など、相応しくないと思いますが」

「だからこそ、ですわ。此度の宴会の趣旨は『先代巫女の復帰を祝うこと』

 その宴会に向ける貴女の言葉を、私達は聞いておきたい。それが、きっと理解へと繋がると判断いたします」

 

 紫の説明を聞いて、さとりは沈黙した。

 黙したまま、じっと紫を見つめている。

 おそらく、能力を使って紫の真意を読み取ろうとしているのだろう。

 しかし、それが不可能であることは事前に分かりきっていることだ。

 さとりの力では、紫の境界操作を破れない。

 やがて諦めたさとりは、代わりに周囲を見回した。

 自分に向けられる視線を、そこに込められた思念を一つ一つ確認するように見て取り、最後に小さくため息を吐いた。

 

「分かりました。では、僭越ながら」

 

 全員の注目を受けながら、一人離れた位置に歩み出る。

 その様子を、傍らの勇儀が面白そうに見守っていた。

 地上の人妖に囲まれたさとりが、どんな乾杯の音頭を取るのか興味があるのだろう。

 私もあるが、同時に不憫だとも感じる。

 紫ってば、無茶振りすぎじゃね?

 周り知らない奴らばっかりなのに、いきなり最初の挨拶を任せるとか『そこでボケて』と言ってるも同然だろ……。

 多分、さとりは事前にスピーチなんて考えてもいないはずだ。

 ここは一つ、私がフォローに回らねば。

 さとり! 私の思念、受け取ってくれぇぇーっ!

 

「――!」

 

 私の心の声を捉えたのか、さとりがこちらを向いた。

 さあ、私の心を読むんだ。

 私に、いい考えがある!

 ……っていうか『これ』を、折角なんでやって欲しいです!

 

「ぇー」

 

 私の考えを読んだらしい。

 さとりは露骨に嫌そうな小声を洩らした。

 

 

 

 

 ――まさに『百鬼夜行』である。

 

 人妖入り混じった宴会場の様相を眺めて、さとりは密かに戦慄を感じていた。

 傍観などと、他人事のように構えることは出来ない。

 この場に自分はいるのだ。

 地底は荒事の多い危険な場所だと思っていたが、こうして見ると地上も大概である。

 人間、妖怪、あるいはそのどちらでもないモノ――。

 事前にしていた覚悟を軽く上回るような化け物が、一つの空間に勢ぞろいしている。

 さとりにとって幸いなことは、彼女達全員が得体の知れない存在ではなく、ある程度情報を知り得ていることだった。

 先代から『原作知識』という形で彼女達を知っていなければ、恐怖と不安が勝って、すぐに逃げ帰っていたかもしれない。

 今の状態ならば、それぞれの相手に対してある程度接し方が分かっている。

 

 ――まあ、その先代のせいで警戒を抱かれてる相手もいるんですけどね。

 

 だから帳消しだ、と。さとりは感謝の念を取り止めた。

 多くの思念が自分に向けられているのを感じる。

 自らの『第三の眼』に、これほど多種多様な心が映るのは久しぶりのことだった。

 地上の妖怪として主に接してきた紫は、境界操作によって心を読ませなかったが、彼女こそが例外であったのだと今更ながら実感出来る。

 別に聞きたくもないのに、多くの心の呟きが聞こえた。

 

 ――こいつが?

 ――こいつが、古明地さとり!?

 ――本当に、こんな奴が地底の管理者なのか?

 ――小さい奴。

 ――弱そう。

 ――隣の鬼の方が存在感がある。

 ――いや、これは油断させる為の印象操作かもしれない。

 ――心を読む能力を持つって?

 ――じゃあ、この考えも読まれてるのか?

 ――嫌だな。

 ――面白い。

 

 概ね、誰もが似たような流れでこのような考えを巡らせている。

 自分を侮るもの、警戒するもの、嫌悪するもの――そして、意外なことに少し好意的なものも混ざっていた。

 先代巫女の人望が影響したものや、自分に対して無知であるが故の興味によるものばかりだったが、正直これはありがたい。

 今回の宴会で関わる分に、安全そうなのはこの好意的な考えの相手ですかね? と、さとりは打算する。

 もちろん、そこから友好関係にまで持って行こうとは考えていなかった。

 彼女達も、会話してみれば分かるだろう。自分が嫌われ者の妖怪である理由が。

 ここに至っても、さとりは宴会の参加理由を『先代から頼まれたから』と頑なに変えなかった。

 傍らの勇儀や先代とは違う。

 宴会を楽しみ、新しい出会いを期待するつもりもない。

 適度に食事や会話に付き合い、予想される八雲紫や八意永琳の追及を上手く処理するだけである――。

 

「宴会の始まりは、乾杯の挨拶が定番。その定番の挨拶を、古明地さとりに行ってもらいたいですわ」

 

 紫からそんな提案が出た時も、身構えていたさとりは『そら来た』と思っただけだった。

 

「……私は、この場の参加者のほとんどと面識がありません。加えて、余所者です。そんな私が乾杯の音頭など、相応しくないと思いますが」

 

 本来ならば、先代が行う方が無難であり、最良である。

 彼女は主催者であるし、何よりもこの場の全員に人望がある。

 誰もが納得し、そして宴会も素直に盛り上がることだろう。

 しかし、心の読めない紫の返答を、さとりはある程度予想していた。

 

「だからこそ、ですわ。此度の宴会の趣旨は『先代巫女の復帰を祝うこと』

 その宴会に向ける貴女の言葉を、私達は聞いておきたい。それが、きっと理解へと繋がると判断いたします」

 

 ――つまり、試しているのか。

 

 つまらない悪意だけではないだろうが、嫌がらせも含めて紫が自分を観察しようとしているのだと、さとりは予想した。

 案の定、紫の提案を聞いて、誰もが自分に興味を向けている。

 先代の挨拶を期待していた者は予想を裏切られて少し不快感を感じているが、大抵の者が抱いているのは『この得体の知れない妖怪が、先代をどんな言葉で祝うのか?』といった強い興味だった。

 先代と自分が友人関係にあることを知っているようだが、その仲に対して、疑いや不審を抱く者も多い。

 それゆえの興味だった。

 実に、居心地が悪い。

 しかし、もはや上手く断ることも出来ない。

 余計に不審や不快を煽り、下手をすれば敵対心も植えつけてしまう。

 

「分かりました。では、僭越ながら」

 

 どうしようもなくなって、さとりはため息で応えた。

 紫に良い様に行動を操作されている実感があった。

 出だしからして、この有様である。

 既に翻弄されながら、本当に彼女の追及を上手くかわせるのか? と、さとりは不安を大きくさせた。

 とりあえず、ノロノロと気の進まない足取りで前に出る。

 必然的に、場の全員が視線を集中させる。

 向けられる様々な思考が、酷く落ち着かない気持ちにさせる。

 早く終わらせてしまおう。

 余計なことは言わず、ただ定番の祝辞を口にして『乾杯』で締めれば良い。

 多くの者が期待している面白味は無い。きっとウケないだろうし、逆にシラける。しかし、大きく不評を買うこともないはずだ。

 さとりは、そんな無難すぎる判断を下した。

 ――と、その時。

 不意に、一際大きな心の声が響いた。

 

『さとり! 私の思念、受け取ってくれぇぇーっ!』

 

 聞き慣れた、外見に不釣合いな騒がしい声である。

 先代の方を見たさとりは、彼女の考えるイメージを受け取って、思わず『ぇー』と声を洩らしてしまっていた。

 

 ――やれってか?

 ――『それ』を、やれってか!?

 

 うんざりしながら、視線で問い返す。

 それに応答する先代の視線と思念は、大きな期待に満ちていた。

 他から見れば、前に進み出たまま黙り込んださとりの様子に、不審を抱く思念が増えていく。

 早く、何か言わなければならない。

 この場を凌ぐのに、特に名案もなかったさとりは、半ば自棄になって先代の要求に応えることを決意した。

 どうなっても知らん! という投げやりな考えも、大分あった。

 

「先代、前に出てください」

 

 さとりの突然の発言に、周囲が戸惑う。

 ただ一人、先代だけが当たり前のように、その指示に従った。

 示し合わせたようにさとりの横に立ち、宴会の参加者全員と向き合った。

 そんな先代を際立たせるように、さとりが一歩下がり、大きく息を吸って、叫んだ。

 

「――復ッ! 活ッ!」

 

 腹の底から搾り出したような声が、境内に朗々と響き渡った。

 さとりへの第一印象を、完全に裏切った力強い叫びに、ほとんどの者が度肝を抜かれた。

 呆気に取られた視線を受けて、さとりは続ける。

 

「先代巫女復活ッッ!!」

 

 血を吐くような――というか、本当に何か吐いてしまうような必死さである。

 しかし、意表を突かれたその場の者達は、誰もが勢いに呑まれ、異常なまでの迫力を感じていた。

 

「先代巫女復活ッッ!!」

 

 もはや乾杯の挨拶もクソもなく、たださとりは全身全霊で繰り返すだけである。

 一人、元ネタの台詞を知っていて、自分がそれを浴びているという状況に内心でご満悦な先代だけが微笑を浮かべる。

 その様子がまた、さとりの突然の奇行に対する印象を周囲に勘違いさせた。

 

「先代巫女復活ッッ!!」

 

 さとりはもはや無我の境地、別の言い方をするとヤケクソである。

 一人だけ楽しんでいる先代への悪態も込めて、ひたすら声を張り上げる。

 そして、三度目になって、ようやく呆然としていた周囲の反応が追いつき始めた。

 最初に、勇儀が笑みを浮かべた。

 さとりの予想外の行動を、むしろ称賛するような満面の笑顔である。

 そのまま大声で笑い出してしまいそうな愉快さを感じながら、それをグッと堪えて、自らも声を張り上げる。

 

『先代巫女復活ッッ!!』

 

 さとりの声に、勇儀の声が重なった。いや、音量では勇儀のそれが遥かに上回っている。

 鬼の叫びは、力を持って他の者達の体と心を奮わせた。

 勇儀の行動に、すぐさま共鳴したのは魔理沙だった。次に美鈴、レミリアが――。

 戸惑っていた人妖の顔に、堪えきれない笑みが浮かんでいく。

 

『先代巫女復活ッッ!!』

 

 更に、多くの声が重なった。

 もはや、神社の境内を越えて幻想郷中に響きそうな音量である。

 当然ながら誰にも、最初に叫びだしたさとりの意図は分からなかった。

 しかし、ワケが分からない中に、理屈ではない強引な一体感があった。

 そして、それがやはりワケもなく楽しく、興奮を煽った。

 

『先代巫女復活ッッ!!』

 

 もはや、その場のほとんどの者が笑って声を張り上げていた。

 頃合を見たさとりが、今度は何も言わずに持っていた盃を持ち上げる。

 既に、さとり自身さえ予想外な一体感に包まれていた宴会の参加者達は、誰も不思議に思うことなく、さとりの動きに倣って各々の酒を掲げた。

 

「……乾杯」

 

 無理をして擦れた声で、最後に弱々しく呟くように言う。

 最後の最後で締まらない。

 しかし、誰もそれを不満に思わなかった。

 

『乾杯ッ!!』

 

 人妖一体となった声が響いて、宴会の始まりを盛大に告げた。

 

 

 

 

「――予想『外』といった表情ね。『以上』でも『以下』でもなく」

「まったく、その通りですわ」

 

 隣に座った永琳に、紫は苦笑しながら相槌を打った。

 始まる前の奇妙な緊迫感を消し去るように、宴は和やかに、そして賑やかに開催された。

 宴に集まった人妖の間にあった壁を一枚取り払ったのは、いや吹き飛ばしたのは、間違いなく古明地さとりの最初の挨拶である。

 あの瞬間の一体感が、多くの者の心を開かせたのだ。

 紫自身さえ、あの時は思わずその場の勢いに乗せられそうになってしまった。

 実際に、幽々子は完全に興に乗っている。

 純粋に宴会を楽しむ姿を眺めて、紫は呆れるような微笑ましいような、妙な気分を味わっていた。

 

「さとりに、あのような芸当が出来るとは思いませんでしたわ」

 

 紫は、さとりを試した。

 それは間違いない。

 多少の嫌味はあったが、何よりもあの状況でさとりがどのような行動に出るのか観察し、そこから彼女の実態を掴むつもりだった。

 

 ――参加者の心を読んで、話術を駆使し、巧みに心象を操作して信用や敬意を勝ち取るのか。

 ――もしくは、ただ目立つ真似を避けて無難に済ませるのか。

 

 しかし、紫のどの予想とも、さとりの行動は違っていた。

 彼女は理屈ではなく、意味のない勢いで、参加者の心を掌握したのだ。

 話術や策謀などとは正反対の位置にある手段だった。

 これまで抱いていた古明地さとりの印象を、あっさりと覆す強引なやり方である。

 どちらかといえば、傍らの鬼の勇儀がやりそうな方法だ。

 それが結果的に、さとりの思惑を警戒していた人妖の心を掴んだのである。

 だからこその『予想外』だった。

 古明地さとりが、智謀に長けた妖怪であるという予想はあった。

 しかし、その予想の範囲から、全く違った形で彼女は抜け出したのだ。

 

「怖いわね。彼女から、どんな言動が飛び出すのか予想がつかない」

 

 派手な乾杯の挨拶をぶち上げた後、こそこそと隠れるように宴会の片隅で酒を飲むさとりを、永琳はじっと観察していた。

 小さな妖怪である。唯一、心を読む能力だけが警戒に値する――そんな印象通りの姿だった。

 しかし、その小さな妖怪の中から、あの時人外魔境の宴を束ねる言葉と力が飛び出したのだ。

 本当に、予想がつかない。

 だからこそ、怖い。

 

「ええ、怖いわ」

 

 永琳の言葉に同意して、紫も繰り返した。

 さとりに対する底知れぬ印象が、ますます強まっていた。

 そんな賢者達の憂鬱を尻目に、宴は楽しげに続けられていく。

 

 

 

 

 鬼が座っている。

 しかも、三匹。

 場所は天狗の集落、天魔の屋敷である。

 鬼は、かつて妖怪の山の大将でありながら、そこを去った種族のはずだった。

 地に潜り、多くの人間と妖怪の記憶から消え去るほどの年月が過ぎた。

 その忘れ去られたはずの鬼が、何故今この時になって妖怪の山に舞い戻り、かつて下僕としていた天狗の前に現れたのか。

 

 ――分からない。

 

 鬼を前にして、文は全てに疑問を抱いた。

 

 ――っていうか、そもそも何故私がここに居合わせなきゃいけないのか分からない。

 

 鬼と向かい合うように、文を含めた数名の天狗が座っている。

 文はその中でも、少しでも鬼の視界から外れるよう、隅に陣取っていた。

 今の状況に対して不条理を嘆き、青褪めながら、他の仲間の様子を伺う。

 天狗を代表して真ん中に座るのは、我らが長の天魔である。

 かつての大将を前にして、相も変わらず威風堂々とした姿が実に頼もしい。

 その傍らに、大天狗が控えている。

 普段ならなるべく関わりたくない、気難しい御方だったが、今は縋りつきたい気持ちだった。

 そして、大天狗の隣にいるのが、何故か一介の下っ端天狗にしか過ぎない椛である。

 この配置が一番ワケが分からなかったが、とりあえず、今の状況で普段と全く変わらない仏頂面を浮かべていられる度胸を、ちょっとだけ尊敬した。

 そして、天魔を挟んで大天狗の反対側にいるのが、この場で一番の厄種であるはたてだった。

 彼女がここにいる理由は、まだ理解出来る。

 格上の相手でも物怖じせず、実力も天狗の中で上位にある存在だからだ。

 しかし、正直物怖じしなさすぎじゃね? とも思った。

 はたては鬼に対して、なんかもう完全にメンチ切っていた。

 

 ――帰してくれ。

 

 文は切実に願った。

 鬼と対峙する――それ自体は、初体験ではない。

 地底で、あの星熊勇儀と顔を合わせ、会話し、酒まで酌み交わしたのだ。

 もう二度と御免だという気持ちはあるが、同時に慣れもあり、再び同じ状況になっても何とか切り抜けられるだろうという気持ちもあった。

 だから、自分がこの場に呼ばれた理由は分かる。

 しかし、状況がまた違うのだ。

 

 ――お願いだから、おうちに帰して!

 

 天狗の集落を、本当に何の前触れもなく訪れた鬼は三匹。

 もちろん、誰も文の顔見知りではない。

 そして、勇儀のように穏やかで友好的でもなかった。

 文の、あるいは古参の天狗の記憶にあるまま、訪れた三匹の鬼は強烈であり傲慢だった。

 本来ならば、同じ天狗であってもある程度の地位の者しか立ち入れない天魔の屋敷。その謁見の大広間の真ん中に、我が物顔で居座っている。

 無遠慮に一番良い酒を要求し、それを惜しげもなく瓶で飲んでいる。

 横暴であり、それがまた天狗にはまかり通ってしまうのだ。

 実際に、鬼達にはこの広い空間を埋め尽くすような存在感があった。

 一匹を中心にして、左右に控えた二匹の鬼は、単純に体格も大きい。

 上半身の筋肉が膨れ上がったような一つ眼の鬼と、表皮が岩のような眼のない鬼である。

 いずれも、同じく巨漢である天魔に匹敵するほどの大きさだった。

 しかし、文の印象としては、その二匹よりも中心の一匹――体格自体は少女と見紛うほど小さな鬼が、最も巨大に思えた。

 それもそのはずである。

 その顔は天狗の中で知れ渡り、名は広く轟き、今もなお色褪せることなく残っていた。

 

「――伊吹萃香殿」

 

 天魔が、その伝説の鬼の名を口にした。

 星熊勇儀と並ぶ『鬼の四天王』 その一角である。

 

「今、何と申されましたか?」

「なんだい、分かって聞き返しているのかい? 鬼は回りくどい言い方が嫌いなんだ。短く、分かりやすく、言ったつもりだったがね」

 

 萃香は、見た目通り少女のような可憐な声で言った。

 しかし、その何気ない口調が、既に言いようのない凄みを持っている。

 

「じゃあ、もう一度言うよ。もう、二度は言わないよ。ハッキリと答えてくれよう」

 

 萃香は拗ねたような顔をして、それから明るく笑って、言った。

 

「人里を襲う。天狗総出で手伝え」

 

 先程と一語一句違えることなく、そんな凄まじいことを口にしたのである。

 傍らで聞いていた文は、既に吐きそうになっていた。

 自分以外の天狗が全く動揺を表に出さない様子が、唯一の救いだった。

 自分では、もはやこの状況で何も言えない。他に任せるしかない。

 というか、普段は逆の立場にいるはずのはたてが、今の萃香の一言で顔付きを更に険悪なものへと変えている。

 文は『頼むから早まってくれるな』と祈るしかなかった。

 

「……それは、幻想郷のルールに反しまする」

「それがどうした」

 

 天魔に代わって分かりきったことを告げる大天狗に対し、一つ眼の鬼が分かりきったことを言わせるなとばかりに答えた。

 

「人里を襲えば、そこを守る人間や妖怪はもちろん、幻想郷の管理者とも敵対することになりますぞ?」

「応、そうよ。戦争よ」

「安心しろい、俺達の側には数もいる。わざわざ出向いてやった俺達の他に、仲間の鬼がわんさといるぞ」

「本気で、幻想郷の人妖全てを敵に回すおつもりか?」

「俺達に賛同する妖怪も、少なからず出るだろうよ。いや、例え出ずとも、片っ端から食い潰す」

 

 大天狗の問いに、一つ眼の鬼と眼のない鬼が迷いなく答えた。

 何処にも冗談や虚勢は感じられない。

 全て言葉のまま、本気である。

 そして、鬼にはそれを可能にするだけの力がある。数が揃えば、尚のことだ。

 左右の鬼の受け答えを聞き、萃香はただニヤニヤと愉快そうに笑っていた。

 

「片っ端から、食い潰すって言うのはよう――」

 

 萃香は僅かに身を乗り出した。

 その僅かな動きで、見上げるほど巨大な岩が音を立てて動いたような印象を受けた。

 

「つまり、この話を断った場合の天狗も含めてるんだぜ?」

 

 今度こそ、萃香は凄んでみせた。

 鬼の脅しである。

 呼吸すら出来なくなるような圧迫感を、ビリビリと肌で感じる。

 もしも、この交渉――というよりも一方的な要求の矢面に立たされていたのが文だったなら、この時点で何もかも受け入れていただろう。

 破滅が待っていることが分かっていても、人里を鬼と共に襲っていたかもしれない。

 しかし、脅しを受けてガチガチと震えている天狗は、この場では文だけだった。

 あの椛さえ、挑むような顔付きで三匹の鬼を見据えている。

 

「答えを、聞こうか?」

「……八雲紫と博麗の巫女も出てきますぞ?」

 

 大天狗が、最後の確認をするように尋ねた。

 伊吹萃香と八雲紫が密かに友好関係を結んでいると、ごく一部の妖怪だけが知っている。

 さすがに、この問い掛けには萃香も顔色を変えた。

 ただし、満面の愉悦にである。

 

「おう、紫か! いいねぇ、あいつはわたしと対等だと認めた妖怪さ。あいつと本気の喧嘩をしてみるのも面白いねぇ」

 

 躊躇う要素は無いらしい。

 もはや、これまで。

 最悪の決断の時か――。

 

「でもなぁ」

 

 文は息を呑んで、萃香の言葉に耳を澄ませた。

 

「なによりもわたしは、博麗の巫女をぶっ殺して、食っちまいてえ」

「ッシャラァ!」

 

 凄惨な笑みで、そう言い切った萃香の顔面目掛け、はたてが蹴りを繰り出していた。

 旋風のような動きである。

 座り込んでいた体勢の萃香には、どうあってもかわしようがなかった。

 首から上が吹っ飛び、それに引っ張られるように体も飛んでいく。

 畳を削りながらゴロゴロ転がって、部屋の一番奥の壁に激突した。

 この場の全員の意表を突いた出来事だった。

 片足を突き出したままのはたての姿を、文は目の玉が飛び出さんばかりの驚愕をもって見つめていた。

 

「――姫海棠はたて!」

 

 呆気に取られている他の鬼よりも先に、天魔が声を張り上げる。

 

「代弁ご苦労! これが天狗の返答よっ!!」

 

 天魔が初めて表情を変えた。

 鬼に向ける、獰猛な笑みだった。

 

「貴様っ!!」

「後悔せいや!」

 

 怒りを漲らせた鬼が二匹、勢いよく立ち上がる。

 恐ろしいほどの迫力があった。

 しかし、この場で怯んで動けないのは、敵も味方も含めて文だけである。

 

「椛、斬れぃ!」

「はっ!」

 

 大天狗の一喝を受け、椛が斬りかかった。

 座った体勢でありながら、居合いに備えた正座を組んでいたのだ。

 はたてのような眼にも止まらぬ速さではないが、十分に鋭い踏み込みで眼のない鬼の方に接近し、剣を振り下ろした。

 しかし、金属質な音と共に、刃は皮一枚切れずに止まる。

 岩のような皮膚だったが、実際はそれ以上。鋼鉄並の強度があるらしい。

 

「たかが、白狼天狗如きの剣術で!」

 

 動きの止まった椛を、鬼が笑いながら叩き潰そうとする。

 その振り上げた腕は、しかし脳天に振り下ろされる寸前で斬り飛ばされていた。

 

「ぬぅ!?」

 

 鋼鉄の腕を切断した剣閃は、いつの間にか音も無く近づいた大天狗のものである。

 

「たわけ! 斬れと言うたら、しかと斬れぃ!!」

 

 裂帛の気合いと共に、大天狗の返す刀が鬼の首を斬り飛ばした。

 さすがの鬼も、これでは絶命するしかない。

 一瞬で仲間を殺され、残された一つ眼の鬼は怒号を放った。

 怒りながら、しかし同時に笑っていた。

 

「はははっ! 変わったか、天狗! いや、変わったのは時代か!?」

「如何にも」

 

 その場に座った不動の体勢のまま、天魔が片手を残った鬼に向けた。

 次の瞬間、鬼だけを包むような限定的な竜巻が発生し、それが一直線に上下に伸びて、天井と床をぶち破った。

 それほどの竜巻の中心にあった鬼の肉体は、バラバラに引き裂かれて四散する。

 一連の出来事を、文は呆然と眺めているだけだった。

 鬼を二匹、天狗が殺してしまったのだ。

 今更ながら、文には奇妙な納得があった。

 並の天狗ならば、鬼を倒すどころか敵対する状況にすら耐えられず、ただ腰を抜かしていただろう。

 しかし、この場にいた天狗は全てが例外とも言える思想や信念の持ち主だった。

 

 ――この場に集めた天狗側の面子って、実はそういう目的で?

 

 何が『そういう』なのか、文は深く考えることを放棄した。

 

「椛、この未熟者め。力も技もまるで足らぬわ」

「申し訳ありません、大天狗様」

「更なる修練を課す。精進せよ」

「はっ」

「……しかし、躊躇いのない踏み込みだけは見事であった」

「ありがとうございます」

「勘違いするでない。褒めるべき点は、それぐらいしかなかったわ」

「……ツンデレ爺、キショッ」

「何ぞ言うたか? 姫海棠はたて」

「イイエーナンニモー」

「そもそも貴様は天魔様の命令よりも先走りおって――」

 

 同僚や上司のやりとりを見ながら、文は誰も事態の深刻さを理解していないことに苛立ち始めていた。

 何をしたのか、ここで何が起こったのか分かっているのか?

 天狗が鬼を殺したのだ。

 しかも、はたてに至ってはあの伊吹萃香を問答無用で足蹴にしたのだ。

 これで事態が一件落着だというのなら良い。

 しかし、鬼の言い分を聞く限り、まだまだ仲間がいて、しかもそれらは幻想郷を総出で襲おうとしているらしい。

 早急に対策が必要だった。

 いや『対策』などと積極的にならず、巻き添えを食わない最善の判断が必要だった。

 文は騒がしい三人を無視して、天魔に指示を仰ごうと詰め寄り――。

 

「いやぁ――嬉しいねぇっ!!」

 

 爆発のような踏み込みを経て、萃香が天魔に向けて襲い掛かっていた。

 はたての刻んだダメージは、しっかりと顔面に残っていたが、鼻血を噴き出しながらも萃香は笑って復活したのだ。

 小さな暴風が天狗達の間を駆け抜け、一直線に天魔へ向かう。

 握り締められた拳が、成す術も無く天魔の体を捉えようとした瞬間である。

 見えない壁が、直前でそれを防いでいた。

 

「むっ、風の壁か!」

 

 萃香はすぐさまその正体を察知した。

 ギリギリのところで横槍を入れたのは、偶然近くにいた文である。

 自慢の拳を完全に受け止めてみせた文へ、萃香は牙を剥いて笑い掛けた。

 

「見事! ならば、次は貴様か!?」

「ひぃっ!」

 

 萃香の標的が、文に変わる。

 しかし、引こうと思った拳が動かない。

 今一度視線を戻した萃香は、風の壁にメリ込んだ自分の拳が、今度は風の枷によって完全に固定されていることを知った。

 

「うおっ! すげっ、何だこれ!? 全然動かねえ!」

「あわわわっ、動かないで下さいぃ!」

 

 文は死に物狂いで能力を行使した。

 風を操って縦横無尽に走らせ、萃香の体を雁字搦めにしてしまう。

 狼狽しきった様子とは裏腹に、相手に抵抗する間も与えない早業だった。

 

「――っだぁ! 駄目だぁ~、動けないぃ。こりゃぁ、参った。わたしの負けだぁ」

 

 やがて抵抗を諦めた萃香は、観念するように笑った。

 図らずも捕縛に成功した萃香を、天魔達が囲む。

 ちなみに、功労者である文は萃香に顔を覚えられないよう、椛の陰に隠れるという無駄な行為を行っていた。

 

「いや、しかし本当に嬉しいねぇ。天魔よう、お前いい部下持てるようになったんじゃないかよう」

「恐れ入ります」

「どうしますか? こいつも、殺しますか?」

「姫海棠! この方は恐れ多くも、鬼の四天王であった方だぞ! 不敬な口は利くな!」

「でも、今はただの敵でしょう?」

「うん、その通り! いいねぇ、本当に気持ち良いくらいハッキリとした女だねぇ。姫海棠っていうのかい?」

「はたてです」

「そうかい、はたてっていうのかい」

 

 罪人のように縛られながら、萃香は嬉しそうに談笑していた。

 余裕のようなものがある。

 しかし、実際に萃香は成す術がなく、自分が敗北したことを認めている。

 それは余裕ではなく、鬼という強大な種族が備え持つ貫禄に他ならなかった。

 

「伊吹萃香殿、質問に答えていただきましょう」

「うん、分かった。負けたのはわたしだしね、何でも答えるよ」

 

 天魔の問いに、萃香は躊躇うことなく答えた。

 

「他に仲間がいると、仰っていましたな?」

「うん、いるよ。もう地上に出てる」

「今、何処におりますか?」

「そこら中にいるよ」

「……そこら中とは?」

「そこら中って言ったら――」

 

 萃香はにっこりと笑って、

 

「そこら中さ。幻想郷中、行きたい所へ、行きたい奴らと連れ立って、散らばった」

 

 そんな恐ろしいことを答えた。

 初めて、天狗達の間に戦慄が走る。

 

「数は?」

「百くらい」

「目的は?」

「さあね、やりたいことは各々違うでしょ。人間食いたかったり、何かぶっ壊したかったり、強い奴と戦ってみたかったり……色々さ」

 

 聞く方が言葉に詰まりそうなほど明け透けに、笑って答える。

 言い知れぬ迫力を伴った真実味があった。

 そんな萃香の変化に、文がいち早く気付いた。

 風の枷によって縛った萃香の体から、どんどん力が抜けているのだ。

 

「――っ! に、逃げられます!」

「何!?」

 

 文が叫んだ時には、もう遅い。

 萃香の体が眼に見えて薄くなり、煙のように霧散して、消え去った。

 

『もちろん、わたしもさぁ! やりたいことは違うんだなぁ――!』

 

 最後にその声だけを残し、萃香は跡形も無く消えてしまった。

 荒れ果てた室内に、天狗だけが残される。

 自分が取り逃がしたと思った文が、恐縮しながら天魔の顔色を伺った。

 

「も、申し訳ありません……」

「構わぬ。伊吹萃香殿は『密と疎を操る程度の能力』を持った鬼だ。

 霧になって逃げられれば、捕らえるのは容易ではない。おそらく、ここへやって来たのも分身だったのだろう。強さに違和感があった」

「さすがは鬼の四天王、ですか」

 

 自分が相手をしたのが弱体化した姿だと知り、はたては呻いた。

 ただし、表情は不満気だった。

 何が不満だったのかを、文は知りたくなかった。

 

「――して、天魔様。この事態、天狗は如何に動きますか?」

 

 大天狗が指示を仰ぐ。

 萃香の話の通りならば、既に幻想郷中に鬼が散らばっている。

 何をしでかすつもりなのか、それぞれによって違う。

 ただそこに共通するのは、暴力による欲望の発露という最悪の手段だ。

 今宵、人間も妖怪も飲み込む百鬼夜行が幻想郷を蹂躙しようとしているのである。

 

「知れたこと。既に、天狗の意思は鬼に伝えた」

 

 二匹の鬼を滅ぼし、伊吹萃香を蹴り飛ばした事実を指して、天魔は言った。

 

「射命丸、姫海棠、犬走の三名は博麗神社まで向かい、八雲紫と博麗の巫女に事情を伝えよ。そこには先代巫女もいるはずだ。協力を仰げ」

『はっ!』

「は……はひ」

 

 天魔の指示に、はたてと椛が明朗な声で応え、文は露骨に嫌そうな顔をして応えた。

 

「大天狗は今すぐ召集を掛けよ」

「古参の天狗どもは、酷く渋りましょう」

「ならば、縄でも掛けて引き摺ればよい。もはや、傍観出来る立場ではないわ」

「では」

「うむ」

 

 天魔は頷いた。

 

「これより幻想郷で、鬼退治ぞ――!」




<元ネタ解説>

「○○復活ッッ!!」

漫画「バキ」で主人公が再起不能から復活した際に烈海王が発した台詞。本来は主人公以外周りドン引き。

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