東方先代録   作:パイマン

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永夜抄編その五。


其の二十二「難題」

「……軽いわね」

「ああ、軽すぎるよ。こいつ」

 

 永琳の呟きを耳聡く聞き取ったてゐは、相槌を返した。

 診察台代わりの机の上には、ボロボロの少女が横たえられている。

 てゐが竹林の中で行き倒れていたところを連れて帰ってきた少女だった。

 

「何日あそこで座り込んでたんだか……」

 

 少女は極度に衰弱し、死にかけていた。

 異様に体が軽く感じたのは、彼女が餓死する寸前の状態にまで陥っているからだろう。

 しかし、てゐはそれ以外にも、何か致命的なものがこの少女の中から抜け落ちてしまったかのような軽さを感じていた。

 竹林からこの永遠亭まで、てゐが担ぎ、迎えた永琳に事情を説明し、こうして治療の為に運び込むまでの間、周囲の変化に対して僅かな反応すら示さない様子が、それをより印象付けている。

 少女はまだ息をしていた。

 僅かに息を吸い、吐く。

 ただそれを繰り返すだけだった。

 治療といっても、このような状態の人間にどんな治療が出来るというのか、素人のてゐには見当もつかずに永琳の様子を伺うしかない。

 

「――騒がしいわね」

 

 不意に部屋の戸が開いて、輝夜が顔を出した。

 物事の変化が少ない永遠亭の中で起こる出来事に、彼女は敏感だった。

 

「あら、人間を招き入れるなんて珍し、い……っ!」

 

 横たわる少女の姿を見た途端、輝夜は顔色を変えた。

 てゐの知る限り、常に優雅で『姫』という呼称がこれ以上無く相応しい彼女が、初めて見るような動揺を表に出している。

 

「……ひょっとして、知り合い?」

 

 輝夜と、同じように黙り込んだ永琳の反応に、てゐは適当なあたりをつけた。

 その問い掛けを無視し、二人は視線を交わす。

 

「……永琳、この娘は」

「ええ、間違いありません。蓬莱の薬の効果を受けています」

「じゃあ、あの時の……」

「それ以外に人間があの薬を手に入れる機会はないでしょう。この顔、私は見覚えがありませんが」

「おぼろげだけど、彼らの中にこの娘の肉親がいたような……」

「ああ、あの五人ですか。そうすると、少々厄介な身の上かもしれませんね」

 

 二人は、姫と従者としての会話を交わしていた。

 その内容は、てゐにとってまるで把握出来ないものだったが、輝夜の口調からは戸惑いを、永琳の口調からは冷徹さを感じ取った。

 いずれにせよ、目の前の少女の治療を目的としてこの場へ連れ込んだてゐにとって、あまり都合の良い気配ではない。

 

「話し合いはいいんだけどさ、この子今にも死にそうなんだけど?」

 

 てゐは遠回りに治療を催促するように声を掛けた。

 しかし、永琳は反応せず、輝夜の返答を待つように視線を向けたままである。

 

「……いいわ。お願い、永琳」

 

 しばしの思案の後、輝夜は意を決するように永琳へ告げた。

 何かを含む僅かな間を空け、永琳はようやく横たわる少女へ視線を向ける。

 懐から、小刀を一本だけ取り出した。

 

「てゐ、離れてなさい」

 

 そんな物一本で何をするのか、と。てゐが口にしようとした疑問を事前に遮り、永琳はおもむろに刃を少女の首元に押し当てる。

 そのまま、音も無く横へ滑らせた。

 その一連の動作があまりにも自然だったので、てゐは一瞬永琳が何をやったのか理解出来なかった。

 人間の肉体を熟知している無駄のない動きで、僅かな抵抗も無く刃が首の中に滑り込み、動脈を切断して反対側から抜ける。

 元々その部分が開くように出来ていたのかと錯覚するほど鋭利な切り口から、大量の血が流れ出す。

 カッと眼を見開いたてゐの前で、成す術なく少女は呼吸を止めた。

 

「……何を」

「見ていなさい」

 

 意識して動揺を押し殺したてゐに有無を言わせず、永琳は淡々と小刀の血を拭いながら少女の死体を見つめた。

 変化はすぐに起こった。

 突然、少女の死体が燃え上がったのだ。

 二人が何かをした様子はない。つまり、目の前の死体が勝手に発火現象を起こしたことになる。

 不可解さは他にもあった。すぐ傍で様子を見守るてゐ自身には、その炎から全く熱を感じられなかったのだ。横たわる机は、燃え移るどころか焦げてすらいない。

 激しい燃焼は、発火の時と同じように唐突に鎮火した。

 そして、その炎が消えた後には、切り裂かれた首の傷どころか、餓死寸前のやつれた肉体さえ消え去った、瑞々しい美しさを保った少女が横たわっていた。

 

「……つまり、お姫様やお師匠様と同じ種類の人間ってこと?」

「私達は人間ではなく、月人。そして、この娘は正確には元人間であり、今や蓬莱人となった存在よ」

 

 てゐのおおまかな括りを、永琳が細かく訂正した。

 そこにどんな意味があるかまでは、てゐにも分からない。

 ただ、彼女達が――特に永琳が、地上に住む人間という種族を下に見ていることは、長年の付き合いから察していた。

 永琳の胸の内を探ることに面倒を感じていたてゐは、彼女の言葉に反応せず、黙ったまま復活した少女の覚醒を見守った。

 今にも止まりそうだった呼吸が、実際に一度止まったことで力強さを取り戻すという現象に、生命の理を真っ向から否定するおぞましさを感じる。

 そして、肉体の回復に影響されてか、そう間を置かずに少女の意識も回復した。

 ゆっくりと、瞼が開かれる。

 

「……ぁ」

 

 錆びついた音が聞こえてきそうな、緩慢な視線の動きと共に、口からは掠れた声が僅かに漏れた。

 死体が目を覚ましたら、こんな反応をするのではないか?

 てゐは、動き出した目の前の少女から、未だに生きる者の活力を感じられなかった。

 

「ぅ……ぇ……」

「おはよう」

 

 言葉の形にならない、単なる呻き声を洩らす少女に対して、微笑みかけたのは輝夜だった。

 

「ぁ……ぁぇえ……?」

「誰だか分からない? 私の顔、覚えていない?」

 

 少女が僅かに意識のある反応らしきものを見せる。

 

「私は、今思い出したわ。もう千年以上前の話よね」

 

 絵画のような形の良い笑顔の仮面を付けたまま、輝夜は少女に語りかけた。

 

「ごめんなさい、貴女の名前を知らないの。だから、私から名乗るわね」

「…………ぁ」

 

 もはや明確な意思を持って、少女の瞳は輝夜の顔を見上げている。

 急速に焦点が定まり、それに合わせて一つの感情が蘇りつつあった。

 

「――私の名前は『蓬莱山輝夜』よ。藤原の娘」

「ぁ、あ、嗚呼あああああああああああああああ゛あ゛っ!!!」

 

 死体が蘇生した――。

 臓物ごと吐き出すような絶叫を聞き、そこに至って、てゐはようやくそう実感した。

 輝夜の正体を認識した少女は、その瞬間心と体を爆発させるように動き出していた。

 起き上がり様、渾身の力を込めて輝夜の顔面を殴り飛ばす。

 骨の砕ける音が聞こえた。

 しかし、それは輝夜のものではない。逆に殴りつけた少女の拳の骨が折れたのだ。

 小柄な少女の脆い肉体は、身の丈に合わない理性を超えた殺意に突き動かされていた。

 倒れ込む輝夜の上に馬乗りになり、何本かの指が捻じ曲がった拳を無理矢理握って、何度も叩きつける。

 血が飛び散った。

 輝夜が口から出すものよりも、折れた骨が皮を突き破った少女の拳から出るものの方が多かった。

 しかし、少女は狂ったような叫び声を上げながら、拳を振り下ろすのを止めない。

 輝夜は全く抵抗をしなかった。

 何故か、永琳さえもこの状況に対して何一つ行動を起こそうとしなかった。まるで意味の無いものとして、冷ややかに見つめ続けている。

 少女の上げる獣のような叫び声と、肉を叩き、骨が砕ける音。血が床に付着する音。ただそれだけが延々と続く。

 てゐは、一歩退いた場所から、その光景を見つめていた。

 普通ならば狂気を感じ、おぞましさに震えるような光景に、痛ましげな視線を向けるだけだった。

 

「これが、蓬莱人だっての……?」

 

 少女は、延々と輝夜を殴り続けている。

 輝夜は、延々と殴られ続けている。

 永琳は、延々とそれをただ見つめている。

 蓬莱人である輝夜は死なず、同じ肉体を持つ少女もまた力尽きることはない。

 三人の内、誰かが意思を持って止めない限り、この光景は続くのだ。

 延々と――。

 

「……なんて、有様だよ」

 

 この三人の関係の始まりを、てゐは知らない。

 しかし、少なくとも三人に終わりがないことを、てゐは思い知った。

 

 

 

 

 ――誘導されている。

 

 紫と霊夢は、互いに言葉は交わさずとも同じ懸念を抱いていた。

 月の異変の元凶に繋がる軌跡を辿って、迷いの竹林へ入った瞬間に感じたことだった。

 尤も、それを承知の上で足を踏み入れたのだ。

 この竹林全体が、強固で緻密な結界の迷宮によって覆われていることは、外側から見ただけで分かった。結界の専門家である二人には造作もない。

 この場所が単なる通過地点ならば、結界を無視して上空を通り抜ける選択肢もあっただろう。

 しかし、二人はやはり同じように、異変の元凶がこの竹林の中にいることを察知していた。

 結界を崩すことも可能ではあるが、時間が掛かりすぎる。

 紫は一瞬だけ思案し、霊夢の方は全く迷うことなく、結界への侵入を決めたのだった。

 

「この結界の術式、初めて見るわ」

「私は覚えがあるわね。首謀者の正体が掴めてきたわ」

 

 霊夢に先頭を譲り、紫がそれに続く形で二人は進んでいた。

 周囲の景色は、どれだけ進んでも全く同じに見える。

 実際、術中に嵌れば永遠に同じ場所を巡り続けるのだろう。視覚的にだけではなく、結界によって他の感覚も狂わされていた。

 しかし、前を進む霊夢に迷いはない。

 確実に異変の元凶へと近づいているのだと、紫も疑いはしない。

 安全策を取って結界の破壊を選択せず、踏破することを選んだ理由の一つがそこにある。

 博麗の巫女の類稀なる『勘』の正確さを、自他共に認めていた。

 

 ――幻惑や感覚妨害の類の術は、霊夢には通用しない。

 

 本人に気付かれぬよう、紫は満足気な微笑を浮かべた。

 

「……近いわね」

「そう? なら、そうでしょうね」

 

 根拠のない霊夢の断言を、もはや紫は僅かも疑わない。

 優雅な仕草の内側で、如何なる事態に直面しようとも動じないよう戦闘態勢を整えておく。

 この結界一つを取っても、『敵』の技量は侮れないものだと分かる。

 そして更に、紫は個人的な知識から『敵』の正体を半ば確信していた。

 

「霊夢、これから相手にするのは月の――!」

「むっ」

 

 言葉を遮るように、二人は同時に接近する複数の気配を捉えた。

 直前まで何も感じ取れなかったのは、おそらく結界の作用なのだろう。

 しかし、ならば何故唐突に気配が現れたのか?

 まるでこの一帯だけが、結界の穴であるかのように術の作用を受けていない。

 

「……嵌められたわ」

 

 思い浮かんだ疑念からすぐさま解答を導き出し、己の失敗を自覚して紫は苦々しく呟いた。

 接近する気配が、遂に視認出来る位置までやって来る。

 気配は六つ。

 それぞれ別の方向から二つずつ、ほとんど同じタイミングで霊夢達の前に現れた。

 

「れ、霊夢!?」

「……靈夢?」

 

 魔理沙とアリスは、同じ人物を見つめていた。

 

「やはり、この空間は意図して作られた迷路だったようですね」

「ええ。まんまと誘導されたわね」

 

 咲夜の言葉に相槌を打ちながらも、パチュリーの視線は魔理沙とその傍らにいる見知らぬ魔法使いに向けられていた。

 

「ほら、妖夢。迷ってなかったでしょう? 紫がいるっていうことは、この方向で正解だったのよ」

「はあ、そうでしょうか? 何やら複雑そうな状況ですが」

 

 のんきに喜ぶ幽々子とは違い、周囲の者全てを警戒しながら、妖夢は油断無く刀の柄に手を添えていた。

 

「この状況が、仕組まれてたっていうの?」

「おそらく。誘導されていると分かっていてそれに乗ったのに、更に上を行かれたわ」

 

 異変解決の為に行動を始めた者達が、皆一様にこの場へ集まった。

 これが単なる偶然ではなく、仕組まれたことなのだと何人かは理解していた。

 そして、紫は更にその先を予想している。

 だからこそ、苦い敗北感を味わっていた。

 異変の首謀者を決して侮ってなどいなかったが――最初の一手を敵に譲ってしまったのだ。

 

「……『全員』知らない顔ね」

 

 じっと霊夢を見つめていたアリスは、やがて視線を周囲の他の者全員に走らせ、魔理沙にだけ聞こえるように囁いた。

 パチュリーから僅かに敵対の気配を感じ取る。警戒を高める。

 

「敵か、味方か……どっちなの?」

 

 アリスにとって、見知らぬ相手は全て対応を決めかねる相手だ。

 それはパチュリーがアリスに、咲夜が紫に、あるいは妖夢が――互いが互いに見知らぬ相手を警戒することと同じだった。

 探るような視線が複雑に絡み合い、張り詰めた拮抗状態を自然と生み出している。

 誰もが初動を躊躇う中、アリスに問われた魔理沙が顔を上げた。

 その瞳に宿った、分かりやすい決意の色を見て取り、誰もが状況が動くことを予感した。

 

「動くと撃つ!」

 

 魔理沙はミニ八卦炉を構え、攻撃の矛先を定めていた――霊夢に向けて。

 

「……何のつもり?」

「間違えた。撃つと動くだ。今すぐ動く」

「どういう誤解をしてるのか知らないけど、あたしは異変を解決しにここまで来たのよ」

「そうかい。私はいつも通り、迷惑な妖怪を退治しにきただけだぜ」

 

 魔理沙の言い分を聞き、霊夢は後ろを振り返った。

 胡散臭い妖怪がそこにいることを確認し、うんざりしたため息を吐く。

 

「こいつは迷惑な妖怪だけど、今回の異変の元凶じゃないわよ」

「どうかな? そいつの能力なら、夜と昼の境界を弄ったり出来るんだろう」

「確かに、夜を止めているのはあたし達。でも、今はそれどころじゃないのよ」

「なんだ、お前も共犯だったのか?」

「……魔理沙、わざと言ってるの?」

 

 霊夢は僅かに凄みを持たせた声色で尋ねた。

 こちらの言い分を無視して、この状況を曲解するほど察しが悪いとは思えない。悪ノリしているだけでもない。そんな人間ではない、と。霊夢は魔理沙のことを評価していた。

 だからこそ、霊夢には不可解だった。

 魔理沙が自分に向ける戦いの意志は、嘘偽り無く、また同時に決して退くことがないものだと勘で分かってしまうのだ。

 

「身の潔白を証明したかったら、わたしに勝ってみろよ!」

「あんた、その眼はどうしたの?」

 

 血気盛んな魔理沙の様子を無視して、霊夢は冷静にその真意を見抜こうとしていた。

 それはあまりに冷静すぎる対応だった。

 魔理沙は苛立ったように歯噛みした。

 

「うるさいぜ! 勝負だ、霊夢!!」

「まあ、いいわ。とにかく敵ね」

 

 片眼を覆う包帯を毟り取り、魔理沙が弾幕を放つ。

 流されるように、アリスがその行動に追従した。

 

「何なのよ……?」

 

 珍しく戸惑った表情を浮かべながら霊夢が反射的に回避行動に移る。

 霊夢との等間隔を維持しながら、紫は魔理沙を中心に動き出した周囲の状況を見回した。

 同じ異変解決を目的としているであろう者達の内、二人が戦いを始めてしまった。

 これが現状をどう変えていくのか、ハッキリとは分からない。

 しかし、予想は出来る。

 そして、紫の浮かべる予想は常に悪い方向へと向かっていた。

 

「……本当、まんまとしてやられたわ」

 

 胸の内に渦巻く感情を隠すように、紫は口元を扇で覆った。

 

 

 

 

『――侵入者二名が戦闘を開始しました。内容は、例のスペルカードによるもののようです』

「ええ、見えているわ」

 

 鈴仙からリアルタイムで送られてくる映像を確認しながら、永琳は通信に応えた。

 いずれも、幻想郷には存在しない高度な機器を使用したものである。

 周囲に投影された画面には、さすがの彼女も初めて見る弾幕ごっこの実物が映し出されていた。

 交差する鮮やかな弾幕の物量に圧倒されるが、同時に殺傷や破壊といった威力がそれらに込められていないことも実感出来た。

 

『あんな感じでいいんですね……』

「いざ戦うとなったらね。郷に入れば郷に従いましょう、不必要なトラブルは避けたいしね」

『はい。分かりました』

 

 応える鈴仙の声色に僅かな安堵が混じっている点に、永琳は触れなかった。

 この幻想郷で行われる決闘の方法を知り、それが予想していたものよりも遥かに安全であると知って、安心しているのだろう。

 鈴仙は、この弾幕が実弾で行われる戦闘を知っている。その恐怖も。

 だからといって、気を抜かれては困るのだが――。

 

『でも、師匠の言うとおりになりましたね』

 

 苦言を言うべきか否か。下手をすれば萎縮してしまうかもしれない。

 意外と扱い辛い弟子に頭を悩ませる師の心境を知ってか知らずか、鈴仙は尊敬の念を込めて呟いた。

 

『あいつら、勝手に争い始めましたよ』

「予想の範囲内だわ。この幻想郷は、そういう所なのよ。

 軍隊にいた貴女には実感がないでしょうけど、この地には統率された組織的行動を取れる者がほとんどいないわ」

『でも、今回みたいな異変が起こった時、解決する役職の者はいるんですよね?』

「そう、個人でね。それを支援する組織は、やはり存在しない。博麗の巫女はただ単体でのみ存在する。

 また妖怪というものも、個体が強力であるが故に個人主義者が多く、徒党を組んだとしても自負心の強さから自らの地位をその集団の頂点に置きたがるわ」

『では、あいつらがこの場に集まった目的は全く同じではなく……』

「それぞれが、ぞれぞれの理由で同じような行動をした結果顔を合わせた、といったところね。

 お互いの思惑が僅かに違っているのだから、こうして実際にかち合えば何処かで摩擦が起きると踏んでいたわ。少なくとも、互いに協力し、連携し合うという発想は生まれない」

『さすがです、師匠!』

「お世辞はいいから、戦況を見守っていなさい。

 出だしはまずまずだけど、和解して協力し合うという展開が一番厄介だわ」

 

 鈴仙に下した命令を最後に、永琳は一旦通信を切った。

 実力的に考えれば、鈴仙ではあの場にいる一部の人妖相手に勝ち目は無いと分かっている。

 しかし、隠密行動において彼女の能力は八雲紫にさえ通じる面があるだろう。

 とりあえず、事前に用意していた策の進展は順調だった。

 このまま互いの戦力を潰し合ってくれれば言うことはない。

 しかし、全ての物事が順調というわけではなかった。

 

「てゐと輝夜ね……」

 

 いつの間にか永遠亭から姿を消した二人を思い浮かべる。

 二人の動向に関して、全く把握出来ていないわけではない。

 てゐに関しては、時折思いもよらぬ行動を取るので予想という点では厳しいが、そもそも彼女の存在に対して永琳はそれほど重きを置いていなかった。

 永遠亭が動くという重要な事態に、手を貸してくれるならばありがたいが、そこまでの義務は彼女に課せられていないのだ。

 永琳は、てゐの動向を一旦頭の片隅に仕舞った。

 輝夜に関しては逆である。

 長年の付き合いから、彼女の動向は高い確率で予想出来る。

 しかし、彼女には万が一の間違いさえ起こってはならないのだ。

 

「少し、予定を変える必要がありそうね」

 

 輝夜の向かった場所は、ほぼ確実に予想する通りのはずだ。

 永琳は静かに行動を開始した。

 

 

 

 

 ――こんなに平和でいいのかしらん?

 

 私の住む診療所の内部は安置の如く平穏な空気に満たされていた。

 普段ならば一人で座る小さなちゃぶ台を、今夜はプラス二名で囲んでいる。

 私の下へ相談にやって来た慧音と、こっちは何故やって来たのか理由不明だがその笑顔一つで何でも許せちゃうチルノだった。

 慧音はチルノに簡単な漢字を教えている。

 そんなチルノのぱーふぇくと国語教室を眺めながら、私はのんびりとお茶を啜っていた。

 やべぇ……至福だわ。

 どんなテレビ番組よりも素晴らしいものを、私は視聴しているのだ。

 本当、こんなに平和を謳歌してていいのかしら?

 

 だって――今夜って、異変起こってるじゃん。

 

 私は窓から夜空を見上げた。

 夜中に眼が覚めてから今まで、随分時間が経ったと思うが、相変わらず月はそこにある。

 時計がないから正確な時間までは分からないが、そろそろ空が白みを帯びてもいい頃合のはずなのに、一向に夜が明ける気配がない。

 この状況を、私は異変として知っていた。

 まさに今夜は『永夜異変』の真っ最中なのだ。

 実は慧音が相談に来たのも、この事態に気付いたからなんだよね。

 

「解決には、まだ掛かりそうですね」

 

 私の視線に気付いた慧音が、同じように窓の外を見ながら呟いた。

 今夜の異変に真っ先に気付いたのは、実際には慧音だったりする。

 月に違和感を感じ、夜分訪れることに恐縮しながらも私を起こして、そこでようやく私自身も異変に思い至ったのだ。

 慧音が起こしてくれなかったら、多分そのまんま寝て過ごしてただろうね。元旦を寝て過ごすかの如く。

 

「ああ。しかし、いずれ解決するだろう」

 

 私は相槌を返した。

 まあ、半ば確信してますけどね。

 そんな私の迷いの無い返答を聞き、慧音は安心するような笑みを浮かべた。

 

「正直、今回の異変の規模にはどうしても不安が拭えないのですが……貴女の動じない姿を見ていると、私まで安心してしまいます」

「霊夢達を、信じているからな」

 

 ――主に数の暴力を。

 なんてたって、今回の異変には霊夢はもちろん、そのパートナーに紫。他のメンバーもそうそうたるものなのだ。異変解決は確実だった。

 なんというフルボッコ。タグを付けるなら『勝てる気がしない』だな。

 逃げて! 永遠亭、逃げて! と言いたくなる。

 

「やはり、貴女に相談して正解でした。私だけでは、勝手に独走して余計な問題を増やすだけだったでしょう」

「人里を能力で隠そうとした判断は、決して間違ったものではない」

「いえ、霊夢達が上空を通り過ぎたのを見た時、貴女の判断の正しさを確信しました。

 もし、あの場で人里が隠されていれば、彼女達はそれに気付き、余計な警戒を抱かせてしまっていたはずです。まるで先を読んでいたかのような慧眼、恐れ入りました」

 

 うん、毎度のことだけど……すまん。先を読んでいたんだ。原作のネタバレ的な意味で。

 当然、そんな事情を説明など出来ないから、私は何もかも分かったようなすまし顔で、慧音の尊敬の視線から感じる後ろめたさから必死に眼を背けていた。

 ホント、最近の慧音の尊敬値上昇率がヤバイわ。

 私の言動を良い方向に捉えすぎる。

 私だって人間なんだから、間違うことや迷うことだってあるのよ?

 例えば……今まさにそうなんだよね。

 

「そういえば、妹紅は大丈夫かなぁ?」

 

 奇しくも、不意に漏れたチルノの呟きが私の内心を見抜いたかのように、抱いていた不安を具体的な言葉にして表していた。

 

「妹紅か……」

「やはり、先代も気になりますか?」

 

 チルノ自身は、特に何か意図しての呟きではなかっただろう。

 幻想郷規模の異変を思い浮かべ、同じ明けない夜を過ごしている妹紅を単純に気遣って出た言葉だ。

 しかし、私と慧音はまた違った懸念を抱いていた。

 ――あの日、朝食の時に見せた妹紅の狼狽ぶりを、私は忘れてはいない。

 そして、ずっと話してくれないが、あの後を追った慧音はより詳しい事情を知っているはずだった。

 

「あれから妹紅の様子は変わりませんが、まず間違いなく無理を隠していると思います」

 

 慧音の話は、不安を煽るものでしかなかった。

 こんな時、私の持つ前世の知識が決して万能ではないのだと実感する。

 私には、あの時何故妹紅があそこまで心を乱したのか、全く見当がつかないのだ。

 何度思い返しても、あの時の私の発言に妹紅の心に障るようなものがあったとは思えない。

 それが分からないまま、妹紅の事情に迂闊に踏み込むことも出来ず、結局あの日以来当たり障りの無い日々を過ごしてしまった。

 結果、起こってしまった異変の夜に、こうして悶々と過ごすしかないのだ。

 うーん、不安だ……。

 原作通りなら、永夜異変自体には妹紅が関わる要素なんて無いのだが……それが希望的観測以外の何物でもないということくらい分かっている。

 妹紅は舞台となる竹林にいるのだ。

 何がどう転がって事態に巻き込まれるか、分かったものではない。

 常に事態は変わっていくもの――それが現実なのだから。

 

「妹紅の様子を見にいく、というのは無理か?」

「先代自身が、ですか?

 危険です。妖怪の類もそうですが、夜中に迷いの竹林へ踏み入るなど、正気ではありません」

 

 ずっと考えていた案は、あっさりと慧音に却下された。

 ですよねー。

 そもそも行ってどうするのだ、って話なのだ。

 実際に、妹紅の身に何か起こっているわけでも無し。会ったところで、何をすればいいのかも分からない。

 このまま大人しく異変が解決するのを待つのがベストなのかなぁ……。

 

「――夜分恐れ入りますよっと」

 

 話すことも無くなった私達の間に、診療所の入り口の方から聞き覚えのある声が届いた。

 こっちの返事を待たずに遠慮なしに戸を開け、私室であるここまで入ってくる。

 

「てゐ!」

「やっ、どもども。全員揃ってるのね、こりゃあ都合がいいわ」

 

 私達全員の顔を見回して、てゐは普段通りの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「こんな夜更けにどうした? 一人なのか?」

 

 慧音の能力こそ使っていないが、異変を察知して以来人里には厳戒態勢が敷かれている。

 月の異常に影響された妖怪が、何か間違いを起こさないとも限らない。念の為の処置だ。

 そんな中をどうやってここまでやって来たのか? そもそも何故この診療所を知ってるのか?

 疑問は色々あるが、慧音が最初に口にしたのは彼女らしい、夜分に出歩くてゐを心配してのものだった。

 それを理解してか、てゐの笑みが優しいものになる。

 

「夜明けを待つほど悠長じゃないんでね。なんせ、このままだと夜明け自体が来ないわけだし」

「異変だと分かっていたのか? ならば、尚更……」

「その異変の中心が、うちなのよ」

「何!?」

 

 てゐの発言に、さすがの慧音も顔色を変えた。

 私自身も別の意味で動揺している。

 何故、てゐはそのことを関係のない私達に教えに来たのか……?

 

「ひょっとして、妹紅が危ないの?」

「……よぉ、チルノ。時々、あんたが本当に最強なんじゃないかと思うよ」

 

 おそらくこの場の誰よりも事態を把握していないはずのチルノの問い掛けに対して、てゐは尊敬の念を隠さずに言った。

 どうやら、意図せずチルノは核心を突いていたらしい。

 

「そうだよ、妹紅が危ない。異変は、正直あまり関係ないんだ」

「だが、妹紅が危険なんだな?」

「うん。だから、手助けして欲しいんだ」

「分かった。行こう」

 

 慧音が確認し、私が他の二人を代弁するように答える。

 そこに迷いはなかった。

 私達全員を見つめて、てゐは満足そうに笑った。

 

「助かるよ。妹紅の抱えている問題は、正直あたしには荷が重いんだ。

 情けない話だけど、あたしじゃ答えを教えてやれないし、ヒントもやれない。だからさ、頼むよ――」

 

 てゐは頭を下げた。

 そこに嘘や偽りがないことは、疑いようもなかった。

 

「行こう!」

 

 チルノの力強い言葉に、私と慧音は無言で頷き合う。

 大丈夫だ、任せておけ。

 具体的に、何をどうすればいいのか分からんが、とにかく任せておけ!

 安請け合いではない。ただ、先程まで悩んでいたことが嘘のように、私の中で『やってやろうじゃないか』という意欲が湧いてきている。

 だって、てゐが頭を下げてまで手助けを頼んでいるんだもん。

 彼女が『因幡てゐ』という好きなゲームのキャラだから、好意的になるのではない。

 一ヶ月間、共に暮らして、心を通わせた仲間の頼みだから応えたいと思うのだ。

 そして、それは妹紅も同じことだ。

 

 未だに、あの時妹紅を怒らせ、苦しませてしまった原因は分かっていない。

 あるいは、同じような事態を起こしてしまうかもしれない。

 そのことに不安がないわけではないが、それが行動を尻込みする理由にはならないのだ。

 何も出来ないかもしれないし、私が余計なことをしない方がいい状況にぶつかるかもしれないが――。

 妹紅が危険だというのなら。

 何かに追い詰められているというのなら。

 まずは、傍に行くよ。

 

 待ってろ、妹紅。今、行くぞ――!

 

 

 

 

「……おかしいな」

 

 夜空に浮かぶ月を見上げ、妹紅は訝しげに呟いた。

 

「夜が明けようとしていない?」

 

 感じていた違和感を言葉にしてみると、それは確信となって固まった。

 いつものように先代達と別れ、日課となった軽い柔軟運動をしてから寝床に入った。

 そして、目覚めたのがついさっきだ。

 普段ならば、朝食の匂いで目が覚める。自然と、朝日の昇る時間帯に起きるのだ。

 しかし、今日。妹紅は朝日が昇らぬ内に目覚めていた。

 単なる偶然かもしれない。

 少し早めに起きてしまって、今はまだ夜明け前の時間なのかもしれない。

 そんな考えが最初に浮かんだが、まるで真夜中のように夜空の中心で爛々と輝き続ける月を見上げて、違和感は確信へと変わった。

 

 ――あの月は沈まない。

 ――そして、きっとこのままでは朝日は昇らない。

 

「……うっ」

 

 脳裏に、一瞬考えが過ぎった。

 不意の思いつきだった。自分でも、何故こんな考えを抱いたのか分からない。

 しかし、それは間違いなく妹紅にとって覚えのあるもので、酷い息苦しさを覚えて胸を押さえつけた。

 

「今――明日が来ないことに、安心したでしょう?」

「誰だ!?」

 

 心の隙間に滑り込むように聞こえた声に対して、妹紅は咄嗟にそう問い掛けていた。

 ここしばらくの間、自分の住処を訪れた者は先代や慧音達以外にいない。

 だから、それらの内誰のものでもない声を聞いて、得体の知れなさを感じてしまったのだ。

 

「誰だ、とは随分な質問ね」

 

 その声は、嫌というほど聞き覚えがあるはずのものなのに、妹紅は一瞬誰なのか思い浮かばなかったのだ。

 

「輝夜……!」

「一ヶ月ぶりくらいかしら?

 本当に、随分な対応よね。私の声を忘れちゃったの? たった一月程度、私達にとっては瞬きする間の時間だっていうのに」

 

 やはり、今夜は普段とは違うことが起こっている。

 輝夜と出会う時は、常に自ら赴く立場だった。

 そんな妹紅の下へ、今夜は輝夜が自ら訪れたのだ。

 てゐはもちろん、取り巻きの兎達や、如何なる時も傍に仕えるはずの永琳さえ伴っていない。一人でここまでやって来ていた。

 

「どうしてここが?」

「貴女の住処はてゐから聞いているわ。と、いうか。貴女の様子は定期的に報告を受けている。てゐはね、私の命令で貴女の様子を探っていたのよ」

 

 意地悪く笑いながら輝夜が告げた内容に、妹紅は表情を強張らせた。

 内心ではショックを受けていた。

 てゐには、先代達と出会う前からずっと世話になっている。

 彼女の言動から来る胡散臭さを警戒してはいたが、本当は内心で感謝の念を抱き続けていたのだ。

 裏切られた、などとは思わない。

 永遠亭に住むてゐの立場から考えて、この可能性を考慮していなかったといえば嘘になる。

 しかし、予想よりも遥かに自分が傷ついていることに、妹紅は驚いていた。

 

「……何故、ここに?」

 

 おそらくこの内心は見透かされているだろうが、妹紅は虚勢を張って輝夜を睨みつけた。

 

「それを貴女が聞く? 本当、一体どうしちゃったのよ? 一ヶ月ってそんなに長かったかしら、私はとても退屈していたのに」

「何、言ってんだ」

「それとも、そんなに楽しかった?」

 

 輝夜は袖で口元を隠して、クスクスと上品に笑った。

 それがまた、無意味に妹紅の神経を逆撫でた。

 

「あの人間達と暮らした、僅かな時間が」

「黙れ!」

 

 妹紅は激昂した。

 湧き上がる怒りの原因が、輝夜の言動の何処にあるのか自覚していた。

 輝夜は『僅かな時間』と言ったのだ。

 

「別にね、待ってもよかったのよ? 私と貴女の勝負は、別に義務ではないし、何か決まり事を作ったわけでもない。

 私は退屈な日常の刺激になるし、貴女は晴らしたい恨み辛みがあるでしょう。お互いの要望が噛み合った時に、気が済むまでやり合えばいい。そうしてきたし、これからもそうでしょう」

 

 だからね、と。慈しみさえ感じさせる声色で喋る。

 

「一月だろうが、一年だろうが、私は待っても構わない。貴女の過ごした日常は、どうせ百年も経てば崩れて消える程度の時間よ」

「黙れぇ!!」

 

 堪えきれず、妹紅は駆け出した。

 しかし、堪え切れなかった感情は、先程まで沸々と湧いていた『怒り』ではなかった。

 輝夜の告げる内容が全て事実であると理解してしまった途端に背筋を走り抜けた冷たさ――。

 素早く間合いを詰めた妹紅は、全力で輝夜の顔面を殴りつけた。

 それは、間違いなく『恐怖』に突き動かされた行動だった。

 成す術も無く、輝夜は鼻血を噴き出しながら倒れ込んだ。

 

「痛たた……っ、反応出来なかったわ」

 

 殴られた箇所を押さえながら、今度は輝夜が動揺をあらわにする。

 予想外に鋭い一撃だった。

 輝夜の記憶する限り、一月前の妹紅とはまるで別人だ。

 間合いを詰める動きは単純に速く、低姿勢で疾走する様を捉えるのは、素人の輝夜では容易ではない。

 拳を突き出す一連の動きは、まるで武術家のように堂に入っている。

 収束された威力が脳髄の奥まで突き刺さり、ふらつく足で輝夜はなんとか立ち上がった。

 

「しゅ、修行の成果は出ているようね?」

「ごちゃごちゃうるさいんだよ。勝負したいって言うなら、今からでもやってやる!」

「いや、本当。頑張ったわよね、初めて会った時はまともに殴ることも出来なかったっていうのに……あ、手の方は大丈夫かしら?」

 

 妹紅は輝夜の挑発を無視して、再度突進した。

 腰を落とし、右の拳を目標目掛けて真っ直ぐに突き出す。

 先代に教わって以来、毎日繰り返した正拳突きの型だった。

 日々の鍛錬は裏切ることなく効果を発揮した。

 鳩尾に拳が叩き込まれ、呻き声と共に体をくの字に折り曲げた輝夜へ、間髪入れず追撃を放つ。

 妹紅の左拳が弧を描いて、輝夜の顎先を掠めた。

 

「は……外……れ?」

 

 吐き気を堪えながら、不敵に笑おうとした輝夜は落下の浮遊感を感じた。

 足元を見れば、自分の意思に反して膝が折れ曲がり、体が地面に崩れ落ちていた。

 立ち上がれない。

 歯を食い縛って両足に力を込めようとも、腰から下が神経を切断されてしまったかのように全く言うことを聞かなかった。

 

「不死身だからって、弱点が無いわけじゃないんだよ」

 

 油断無く間合いを取り、構えを解かぬまま、妹紅は先代からの教えを反芻した。

 

「蓬莱人だって頭で考えて動いてるんだ。急所だって、人間と同じさ」

 

 ――顎に衝撃を与え、脳を揺らして一時的に半身の自由を奪った。

 

 輝夜は、妹紅の仕掛けた攻撃の正体をようやく察した。

 人体を医学的に理解しているからこそ可能な技だ。

 今更ながら、妹紅を教え、鍛えていた先代巫女に対して畏怖を抱く。

 

「まるで永琳みたいな奴ね……」

「回復まで時間稼ぎはさせない。これ以上痛い目を見たくなかったら、さっさと降参しろ」

 

 油断するな。隙を見せるな。詰めを誤るな。

 先代の教えに、妹紅は忠実に従っていた。

 妹紅は再び正拳突きの構えを取った。

 今度の標的は動かない。狙おうと思えば、更に威力を溜めた一撃を、今度は全身のあらゆる急所へ叩き込むことが出来る。

 それは死の可能性すら秘めた一撃だった。

 しかし、輝夜は降参の意思どころか、追い詰められた様子すら見せずに、今度こそ不敵な笑みを浮かべていた。

 

「降参って……何?」

「……なんだと?」

「いや、不思議なことを聞くなぁって思ってね。この状況に、一体何の意味があるの?」

 

 ――虚勢か?

 妹紅は訝しげな表情を浮かべた。

 

「やればいいじゃない?」

 

 一言で、妹紅の顔色が青褪めた。

 

「遠慮なんてしなくていいわ。『殺す気』で攻撃すればいいでしょう?

 降参を促すとか、何を悠長なことを言っているの。本当に、たった一月で随分と忘れてしまったようね」

 

 日々の鍛錬は、間違いなく妹紅の力となって効果を表していた。

 それによって、油断していた輝夜を一瞬で追い詰め、今まさにその命を奪う瞬間までやって来て――その無意味さに気付く。

 

「回復を待つのも面倒だし、殴られたところが痛いし――やらないなら、自分でやるわ」

 

 妹紅が止める間もなく、輝夜は自らの握力で自身の喉を握り潰した。

 肉が抉れ、血が噴水のように噴き出す。

 それで、輝夜は死んだ。

 力無く倒れ込む輝夜を、妹紅は呆然と見つめていた。

 じわじわと、忘れていた恐怖と不安が蘇るのを感じた。

 それは輝夜が死んだことに対してではない。

 ――輝夜が生き返ることに対してだった。

 

「ふりだしに戻る、ってね」

 

 月光のような淡い光に包まれたかと思うと、次の瞬間には無傷の輝夜がその場で立ち上がっていた。

 自ら抉った首の傷も、妹紅の刻んだダメージも、その新しい肉体には存在しない。

 

「驚くほどのことじゃないでしょう、貴女にだって出来るわ。これが蓬莱人の『力』なんだもの」

「……何度でも」

「永琳なんか、もっと凄いわよ。いちいち手なんか使わなくても、自力で心臓を止めちゃったり出来るんですって」

「何度でもやってやるわ、輝夜!」

「いいわよ? 気の済むまでやりましょう。

 折角修行したんだから、その成果を発揮したいわよね。だから、能力の使用は無し。

 スペルカード・ルールも面白そうだけど、今夜は無粋よね。やめましょう。完全な肉弾戦のみで勝負するっていうことで――」

 

 まるで最初から予定していたかのように勝負の内容を決めていく輝夜の言葉もろくに聞けず、妹紅はただ自分自身と戦っていた。

 気を抜けば、折れてしまう。押し潰されてしまう。

 この勝負を通じて、輝夜が自分に思い知らせたいことを、既に察し始めてしまったのだ。

 彼女の語る内容に――偽りようもない現実に――屈するわけにはいかなかった。

 何故、そう思うのかは自分でも分からない。

 分からないからこそ、今にも限界がやって来そうだった。

 

「ああ、そうそう。大切なことを決めるのを忘れていたわ」

 

 今思いついた、と言わんばかりにわざとらしく輝夜は尋ねた。

 

「この勝負、何を以って決着としましょうか?」

 

 ――決着など無い。

 ――蓬莱人の戦いに、終わりなど存在しない。

 

 妹紅は理解していた。

 理解していたからこそ、何も答えずに、ただ目の前の敵に襲い掛かった。

 鍛えられた足腰と、学んだ技術による足運びは、輝夜に反応する間も与えず間合いを詰めることを成功させる。

 放たれた拳打を、格闘に関して素人である彼女は回避出来ないだろう。

 一方的な勝負が始まる。

 

 ――しかし、この勝負が終わることはあるのか?

 

 その自問から、妹紅は必死で眼を逸らしていた。

 この一月の間で、何かが変わったと実感していた。

 先代に教えられ、慧音と心を通わせ、チルノとてゐを含む周りの者達に支えられて暮らした。

 その日々が、人としての暖かみを取り戻させてくれた。

 

 ――しかし、この日常はいつか終わる。

 

 何故なら自分は蓬莱人だから。

 そして、人間も妖怪も妖精も、皆いずれ死ぬ存在だから。

 

「輝夜!」

「『心』『技』『体』――貴女はたった一月で、体を鍛え上げ、技を磨いた。御見事よ」

 

 妹紅は無意識に怨敵の名前を叫んでいた。

 こんな状況で、望んでなどいないのに、名を呼ばずにはいられなかった。

 眼を逸らし続けていた絶望的な現実を前にして、心が折れぬようにする為に。

 激しい感情を燃やして、支える力とする為に。

 千年以上前に抱いた、全ての始まりである感情と、その元凶にしか、縋りつくことが出来なかったのだ。

 

「では、さて――心の方は如何?」

「輝夜ぁぁぁぁあああっ!!」

 

 妹紅は絶叫した。

 この勝負を終わらせてくれ、と。誰かに助けを求めながら――。

 

 

 

 

 輝夜と少女の一方的な殴り合いは、長く続いた。

 具体的には半日以上、日が沈むまで続いていた。

 しかも、まだ終わっていない。

 てゐは当初の衝撃もすっかり薄れ、今や呆れ果てるばかりだった。

 もはや部屋は猟奇殺人の現場のような有様になっている。そこら中が血塗れだ。

 そんな凄惨な光景を、眉一つ動かさず眺め続ける永琳に畏怖を抱くが、それ以上に半日以上殴り殴られ続けている二人には頭痛すらしてくる。

 無抵抗のまま殴られ続ける輝夜の肉体は、当然のように限界を迎えていた。

 ひ弱な少女の力とはいえ、己の拳を壊す程の勢いで殴られ続け、既に何度も死んでいる。

 死因は様々だ。打ち所が悪かったり、吐いた血が喉に詰まって窒息したり――。

 そして、その度に蘇っていた。

 無傷の状態に戻った輝夜を、少女は再び殴りつけ始める。殺し、生き返り、殺し。

 その繰り返し。もはや単なる作業だった。

 対する少女も、限界が近い。

 両手の拳は完全に潰れ、骨と肉で出来た鈍器と化していた。

 体力もとっくに尽きている。

 一方的に殴りつける側でありながら、汗と涎をダラダラと垂らし、ヒューヒューと擦り切れた喉で不規則な呼吸を繰り返していた。

 それでも、殴るのを止めない。

 自分の意思で止めることが出来ないかのように、ノロノロと腕を上げ、力無く振り下ろし、輝夜の顔を自分の血で汚すことを繰り返していた。

 やがて、本当の限界が訪れた。

 体力はもちろん、ついに精神力でもどうにもならない限界に達した少女の体は、力を失って仰向けに倒れ込んだ。

 人を殴り続けた結果衰弱し、死に掛けるという異常な状態の中、混濁した瞳だけが力を失わずに虚空を睨み付けている。

 湧き上がる激情は、未だ止まってはいない。

 

「……永琳」

 

 それまで無言だった輝夜が、己の従者に短く告げた。

 ただそれだけで意図を察したらしい。永琳は、一度少女の命を奪った小刀を再び取り出すと、それを手元に放った。

 

「使いなさい。意味は分かるわね」

 

 力尽きた少女に教える。

 蓬莱人が持つ力の『使い方』だ。

 少女は憎悪に満ちた視線で永琳を睨み、輝夜を睨み、そして最後に小刀へ視線を向けた。

 決意し、何かを握るという機能をほとんど失った手でそれを掴もうと手を伸ばし――寸前で、てゐが小刀を取り上げた。

 

「……よこせ」

「嫌だよ」

 

 脅すように告げられたが、てゐは飄々とした態度で小刀を懐に隠してしまった。

 少女の憎悪と殺意が、新たな標的としててゐに向けられる。

 

「じゃあ、それで私を刺せ!」

「嫌だよ。ああ、あと舌とか噛むなよ」

 

 てゐの警告を聞き取り、少女は素早く舌を出してそれを自らの歯で噛み千切ろうとした。

 一瞬早く、口の中にてゐの指が滑り込み、舌を掴んで、口が閉じるのを阻止する。

 

「痛……っ! だから、やめなさいっていうのに!」

 

 少女の噛む力は、体力の低下もあって弱々しかったが、それでもてゐの手からは血が滲み始めていた。

 少女は噛むのを止めようとしない。

 

「命を道具みたいに使うな、本当に取り返しがつかないことになっちゃうわよ」

 

 てゐは顔を顰めながらも、落ち着いた口調で話しかけた。

 少女が顎の力を抜く。あるいは、噛み続けるだけの体力も残っていなかったのかもしれない。

 指を口から引き抜きながら、それでもまだ警戒は解かずにてゐはじっと少女の眼を見つめた。

 

「お前は……妖怪だ」

 

 恨みがましい声で少女は呟く。

 

「ああ、そうだよ。あたしゃ妖怪だよ。それが何か?」

「妖怪なんだ……っ」

「だから何さ? 妖怪だったら、あんたにとって何か不都合があんの?」

「妖怪なんか、殺してやる……! 私に近づくな……っ!!」

「妖怪ってだけでそんなに憎いかい? 昔、何かあったのかね?」

「うるさいっ! お前は妖怪だ! 妖怪なんだ!」

 

 少女の言葉は要領を得ていなかった。

 てゐに対して、ただ『妖怪だ』と主張するだけで、一向に話が進展していない。

 敵意と殺意をぶつけられていることは分かる。しかし、そこに至る恨み辛みの根っことなる理由をどうしても感じ取ることが出来なかった。

 ひたすらに『妖怪であることは害悪だ』と言わんばかりに、同じ言葉を繰り返し続ける少女を見て、てゐはおぼろげながら察し始めていた。

 

「……そうかい、妖怪が憎いか。じゃあ、しょうがない。恨め恨め、あたしゃ痛くも痒くもないね」

 

 ことさら悪どく笑ってみせる。

 てゐには、少女の敵意が張りぼての物だと分かっていた。

 妖怪だから憎いのではない。

 憎しみの対象に妖怪しか選べなかったのだ。

 憎んでいなければ耐えられないのだ。

 例え体は蘇っても、何かの激しい感情を支えにしなければ、途端に心は斃れてしまう――目の前の少女は、それを避ける為に、闇雲に拳を振り上げ、最も扱いやすい憎しみを糧に燃やしているのだ。

 輝夜に殴りかかったのも、無駄と分かっていて続けていたのも、それが理由なのではないか。

 そうしなければ、立っていられないのだ。

 

「どうしたい、黙り込んで? もっと喚いてみなって、なかなか面白いから」

 

 不意に口を閉ざした少女に対して、てゐはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた。

 枯れ果てていたはずの少女の瞳に、涙が溜まり始める。

 悔しさなどの、負の感情から来る涙ではなかった。

 少女もまた、てゐの言葉から彼女の優しい気遣いを察したのだ。

 

「……騙されときなよ、馬鹿」

 

 てゐは諦めたようにため息を吐いた。

 少女は弱々しく嗚咽を洩らし始めた。

 

「頭が良すぎるし、察しが良すぎる。何より、優しすぎる。もっと、周りに責任擦り付けて恨んじまえばいいのに」

「無理だよ。そんなこと出来ないよ」

「しがらみなんて捨てちゃえ。周りのことなんか気にすんな」

「嫌だ。出来ない……っ」

「なあ、周りを気遣う余裕なんてあんたにはないじゃないか。自分のことだけ考えてればいいさ」

「出来ない! 私は……人間、なんだ」

 

 少女は声を絞り出した。

 それが何よりの本音なのだと、てゐは感じた。

 

「そうか。難儀だなぁ」

「……助けて」

「難しいこと頼むなぁ」

「…………たすけて」

 

 縋るように呟き、少女は力尽きて眼を閉じた。

 死んではいない、気を失っただけだ。

 しかし、いずれ眼を覚ますだろう。そして、揺らぎようの無い残酷な現実が、この不死になって『しまった』小さな少女を慈悲無く迎えるのだ。

 

「本当、難しいこと言ってくれるなぁ……」

 

 他人事のように呟きながら、鼻の頭を軽く掻きつつてゐは立ち上がった。

 眠っている少女を背負う。

 てゐの体格は少女よりも更に小さかったが、不安に思うほど軽い体重を担ぐことは簡単だった。

 

「――何処へ行くの?」

 

 そのまま無言で立ち去ろうとするてゐを、仰向けのままの輝夜が虚空を見つめながら尋ねた。

 振り返らずに答える。

 

「あんたら二人から離れた所」

 

 輝夜と永琳、二人の蓬莱人を指して言う。

 具体的には、竹林にある隠れ家の一つへ向かうつもりだった。有事に備えて、そういった場所を幾つか用意してあるのだ。

 そこへ連れて行って、気の済むまで眠らせ、起きれば体を拭いて、腹一杯飯を食わせる――その程度の予定しか考えていなかった。

 この複雑な人生を歩んできたであろう少女に対して、してやれることはそれくらいしか思いつかなかった。

 捻った案など何も思い浮かばない。

 しかし、人が生きるということに捻りなど必要ないだろうという開き直った考えもあった。

 

「その娘が味わっている苦しみがどんなものなのか、貴女には実感出来ないでしょう」

 

 輝夜の声色は僅かに苛立ちを含むものだった。

 

「貴女の行動は、その苦しみを先延ばしするものでしかないわ」

「人間として生きようとすることが苦しみか」

「そうよ。苦しみよ」

「そうかい。そりゃ、ますます難儀だ」

 

 もう一度、鼻の頭を掻く。

 

「この娘を含めた、あんたら三人を見ていて連想したものがある」

「へえ、それは何?」

「輪だよ。あんたら三人を繋いだ輪っかだ。

 三人で世界が完結してる。同じ場所でぐるぐる回って、繰り返してる。多分、それは死ぬまで終わらないんだろう。そして、あんたら三人とも死なないときたもんだ」

「それが蓬莱人よ」

「その輪の中へ、この娘を加えるわけにはいかない。そう思ったのさ」

「いずれ破綻する輪の中へ、その娘を入れてやることが正しいと思っているの?」

「さあて……」

 

 輝夜の問い掛けは、罪を責めるような口調だった。

 てゐは答えず、歩みを再開する。

 永琳は終始無言だった。少女のことなど他人事に過ぎないのだろう。

 それ故に、輝夜の言葉は厳しくはあっても決して冷たいものではない、と。てゐは感じた。

 一体何が理由なのかは分からないが、輝夜は輝夜なりにこの少女のことを考えている。

 

「難しいなぁ……」

 

 どんな判断が正しく、どんな行動が良い結果を生むのか、今はまだ分からない。

 長い年月を生きたてゐにとっても、同じ蓬莱人として生きる輝夜の言の方が正しいのでは無いかという迷いがある。

 ――しかし、彼女は自分に『助けて』と乞うたのだ。

 

「こいつは、難題だ」

 

 てゐは答えの出ない問題を抱えることになった。




<元ネタ解説>

特になし。

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