東方先代録   作:パイマン

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永夜抄編その四。


其の二十一「永夜抄」

 ――珍しいものを見つけた。

 

 見慣れた竹林の中に、見慣れないものを見つけて、てゐは思わずそう考えていた。

 それが思い違いであると、すぐに気付く。

 僅かな好奇心は、盛大な厄介事の気配によって掻き消されていた。

 この妖精すら滅多に立ち入らない竹林の中で、人間が一人座り込んでいるのだ。

 一瞬、見なかった振りをしようかなという考えが脳裏を掠め、しかしすぐに自分が永遠亭の住人と交わした契約の内容を思い出した。

 人間を寄せ付けないことだ。

 目の前の人間が、生きているのか死んでいるのか確認する必要がある。

 やはり、無視は出来ない。

 

「……生きてたら返事してねー」

 

 面倒臭そうな表情で、独り言のように問い掛けを口にしながら、てゐは一歩歩み寄った。

 

「死んでたら返事しないでね」

 

 そこに座り込んで数日は経っているらしい。

 汚れ、傷つき、虫が体を這っている。

 俯いていて顔は見えない。そもそも、ピクリとも動かなかった。

 

「生きてるけど、死に掛けてるんだったら――」

 

 ――それが一番面倒臭い状態だなぁ。

 

 てゐは本音を胸の内だけで吐いた。

 目の前まで近づいても、その人間は反応すらしない。

 全く生きた気配を感じさせないせいで妙に実感が無かったが、間近で見るとその人間の性別が女であることをようやく確信出来た。

 汚れてくすんだ長い髪は、洗えば白銀に輝くのかもしれないが、今は力尽きる寸前の老婆のようにしか見えない。

 実際の年齢はどうなのか。てゐは顎を掴んで、俯いた顔を持ち上げた。

 

「……これは……また」

 

 ――面倒なものを見つけた。

 

 長い年月の中で、世の中の酸いも甘いも見てきたてゐには珍しく表情を歪めた。

 予想の内、最悪のものが当たってしまった。

 あるいは、それ以上のものだ。

 この期に及んでも、まだてゐを、いや周囲の何ものも見ようとしていない虚ろな瞳。

 生気を失った、などという生易しい話ではない。

 

「お前、なんて顔してんのよ……」

 

 

 ――こいつは、自分がこの世に生きて存在することに何の価値も見出していないのだ。

 

 

 

 

 ――妹紅よ。よくぞ、厳しい修行に耐え抜いた。

 この一月余りを鍛錬に費やしたことで、基礎は徐々に形作られつつある。

 では、いよいよおぬしに我が奥義を授けようっ!

 

 毎日通っているわけではないが、ほぼ日課となりつつある妹紅との修行。

 これまで単純な体力作りや、少し力がついてきた頃には拳の握り方、基本的な構え方など、本当に基礎中の基礎を行ってきた。

 妹紅自身、迷いの竹林で暮らす以上特にこれといってやるべきこともなく、一日を純粋な鍛錬に費やすことが出来たので、かなりの密度で鍛えられただろう。

 よって、今日はいよいよ具体的な戦闘技能の習得に入ろうと思ったわけだ。

 そして、そこで浮上する新たな問題点。

 

 ――何を教えればいいの?

 

 今更かよ! と思うかもしれないが、実はこれが意外と難問だったりする。一応、数日前から悩んではいたんだけどね。

 もちろん、私の習得している技の幾つから、使えそうな物をチョイスして教えるというのが普通に思いつく。

 しかし、冷静に考えてみると、私の持つ技には様々な問題があるのだ。

 まず、習得するまで長期間掛かる。

 元々私は『漫画のような修行』をすることが目的であり、その結果で『漫画のような技』を身に着けただけなので仕方ないのだが、いずれも一朝一夕で使える技ではない。

 感謝の正拳突きとか、まず『何に感謝するのか?』という点を妹紅は理解出来ないだろう。

 そもそも基本的な技として正拳突きはつい先日教えたばかりだ。まずはこの型を完全に体に覚えさせる為の反復練習が先である。

 波紋法はどうだ? 肺の空気を出し尽くせば一応すぐに使えるかもしれないけど……小指突っ込むの私がやるの? 無理。普通に攻撃になりそう。

 何よりも、不老不死の妹紅には時間はたっぷりあるが、そこまで長々と修行をしてから輝夜に挑むのかというと、やはり違うだろう。

 一度死んだらリセット、という条件も修練を積み重ねて会得するタイプの技には不向きだ。

 そうなると、やはり最初に妹紅が提案していた『黄金長方形の回転』など、法則を利用したパワーアップが望ましいのかもしれないが……これも正直習得が難しい。

 っていうか、単純な鍛錬が無い分、不可能に近い。

 いや、私も『妹紅、お前はこれから「できるわけがない」という台詞を……四回だけ言っていい』という流れを一度やってみたかったのだが、これ私が楽しいだけで絶対結果は出ないと思う。

 では、どうするか――?

 私の出した答えは、これだった。

 

「精神の集中の仕方?」

「そうだ」

 

 既に五人で囲むことがお馴染みとなった朝の食卓。

 今日の新しい修行内容を一言で表した私の言葉を、てゐが反芻した。

 

「そりゃなんとも……基本的だねぇ」

「だが、重要なことだ」

 

 何処となく肩透かしを食らったようなてゐの苦笑に対して、私は真剣な表情で返した。

 ……実はもっともなツッコミすぎて、半分くらい表情を取り繕ってるのは内緒ね。

 

「あたしはてっきり、最強と名高い先代巫女の技の一つでも伝授するもんかと思ってたんだけどね」

 

 本当にてゐの言葉がもっともすぎて、私としては内心で恐縮するしかない。

 期待してたのにごめん。

 でも、真面目に考えると今の妹紅が早く強くなるにはこれが一番なのよ。

 

「――ふむ。いや、しかし古来より精神集中は武術鍛錬の極意として重視されてきたものだ。

 いわゆる『無我の境地』や『明鏡止水』と呼ばれる精神の在り方は、武術を極めた結果得られる状態だと言われている」

 

 慧音のフォローが完璧すぎてヤバイ。

 そう! そうなんです。それが言いたかったんです!

 ここぞとばかりに便乗しちゃう私。

 

「単純な鍛錬や技の修練を続けていく上で必ず生まれる、未熟な至らぬ部分。それらを埋めるのは精神の在り方だ」

 

 そうドヤ顔で語る私のこの絶大な自信が何処から来ているのかというと、多くの格闘漫画からであった。

 もはや王道とも言える『キャラの更なるパワーアップ』には欠かせない精神修行の数々である。

 一見ド派手な技を習得して『最強じゃね?』と思わせておきながら、実は極々基本的な部分が未熟なので達人には敵わない――といった展開はよく見られるものだ。

 形や流れは違えど、そういった精神的な修行を経て『今まで見えなかったものが見えるぜ』みたいに全体的な力が底上げされるというのは王道の一つだ。

 そんな物語中盤あたりにやるはずの内容を、先取りしてやっちゃおうというのが私の考えなのである。

 

「本来ならば、肉体の鍛錬の後に行うもの。しかし、妹紅ならば心の在り方を鍛える方が効果的だろう」

「ま、確かにそれなら死んでリセットも関係ないしね」

「技や力に眩むことなく、本当に重要なことを鍛える……さすがです、先代」

「な、なんか知んないけど、お師匠がすげーってこと?」

「チルノ、あたしの魚やるからちょっと黙ってて」

「マジで!? やったー!」

 

 妹紅に修行をつけ始めてからこっち、私への敬服度上昇が半端無い慧音。それっぽいことを言う機会が増えたからか? 向けられる尊敬の念が痛え。

 てゐとチルノの和むやりとりを視界の端に収めつつ、私は最も重要な妹紅の反応を確認した。

 こんな感じの修行内容を予定しているんだけど、どうでしょ?

 地味だけどかなり効果的だと思うのよ。

 

「……」

「……妹紅?」

「えっ!? あ、ああ……うん。き、聞いてたよ」

 

 肝心の妹紅は上の空だった。

 

「妹紅。貴女自身のことなのですから、気を逸らしていてはいけませんよ」

「ごめん。ちょっと、考え事しちゃっててさ……」

 

 慧音の説教に対しても、妹紅は何処か力無く応じている。

 ふーむ。数日前から気になってたけど、最近の妹紅ってちょっと様子がおかしいな。

 修行中では凄く集中しているようなのであまり深刻に捉えなかったが、修行以外の時間では上の空になることが多いような気がする。

 何か気がかりなことでもあるのだろうか?

 今思えば、修行に集中するのも余計なことを考えないようにしているだけだったのかもしれない。

 

「何か、あったのか?」

 

 具体的な内容が思い浮かばず、私は曖昧に尋ねていた。

 

「いや、何でもないよ……本当。

 それで、具体的にはどんな修行をするの? 精神鍛錬って言っても全然想像出来ないんだけど」

 

 妹紅は笑いながら、少々口早に捲くし立ててきた。

 うん、なんつーか……物凄く分かりやすい誤魔化し方なんだけど。

 慧音も訝しげな表情だし、てゐは何か諦めたように小さく肩を竦めている。ご飯に没頭しているチルノだけが気付いていない。

 しかし、この場で深く聞くことも出来ず、私は妹紅の逸らした話題に答えることにした。

 まあ、本当に何でもないことかもしれないし、いざとなったら相談してくれるでしょう。

 なんせ私達は、映画のストーリーに出来そうなくらい、深い絆で結ばれること間違い無しな修行の日々を共に送っている仲だからね。

 

「『穿心』という心構えがある」

 

 皆が耳を傾ける中、私は厳かに語り始めた。

 

「――己の心を細くせよ。川は板を破壊できぬ。水滴のみが板に穴を穿つ」

 

 漫画の中で鍛えられた精神の在り方を表現する方法は色々ある。『明鏡止水』とか『水の心を持て』とか。

 しかし、意外とそれらに大きな違いは無い。

 肉体で表現する技とは違い、精神の在り方なんてものは具体的な形など見えないのだから、言葉で表現する場合突き詰めると大抵同じ所に落ち着くものなのだ。

 それぞれの漫画のファンに非難されることを覚悟して、大雑把にそれらの要点を纏めると結局『雑念を捨てて集中しろ』という点に収束される。

 多くの漫画は、ここに至る精神の在り方を様々な言葉で表現しているが、私が個人的に一番理解しやすく、具体的に捉えられるものが、この『穿心』の心構えだった。

 ……まあ、原典であるうしおととらが特に大好きっていうのが一番の理由なんだけれども。

 

「……よく、分からないよ」

「今はそれで良い」

 

 当たり前といえば当たり前な感想を口にする妹紅に対して、私は意味あり気に頷いた。

 内心では、何が『それで良い』のか自分でも全然分かってない状態である。

 妹紅以外の皆も、私の言葉に対して考え込むような反応で、イマイチ要領が掴めていない様子だった。

 うん、まあ……そうだね。それが普通の反応だね。

 言葉で聞いただけで『水……? そうか、見えた!』とか覚醒出来るはずがない。

 今更ながら、この修行内容の困難さが身に染みて分かってきた。

 そもそも最初から『鍛錬を経て到達する境地』って説明しているんだから、それを先取りしようって考え自体が無理があったのかもしんない。

 元ネタの漫画さえ知らない妹紅に、いきなりこんな言葉だけ伝えても理解出来るわけないよねぇ……。

 でも、とりあえず他にいい案も浮かばないし、やれるだけやってみましょう!

 

「具体的な修行の内容はこれまでとそれほど変わらない。基本的な格闘用の技を追加で教える程度だ」

「ふむ……まっ、何か考え有りってことか」

 

 フォローありがとう、てゐ。

 でも、すまん。実はあんまり考えてない。

 現在進行形で頭を悩ませながらも表面上は平然を装い、途中だった食事を済ませる。

 あ、そうそう。

 そういえば大切なことを確認するのを忘れていた。

 

「妹紅。蓬莱山輝夜との勝負は、いつ行うつもりなんだ?」

 

 修行完了の具体的な期日を、私は尋ねた。

 当初は知識で知るだけであり、今に至っても実際の面識は無い輝夜の存在に関しては、ちゃんと事前にそれとなく質問して妹紅から聞き出している。

 もちろん、当たり障りの無いことしか話してもらってないので、妹紅と輝夜の過去の確執などは本来は私が知るはずのない情報だ。扱いには気をつけなければならない。

 また永琳の時みたいな緊張を味わうなんて御免だからね。

 とりあえず、私を含めたこの場の全員が『輝夜は妹紅の勝負相手であり、これまで何度も戦って負けている』という内容だけは把握していた。

 以前勝負したのがいつなのかは知らないが、少なくともここ一月の間は修行だけの日々である。

 別に互いに期日を示し合わせているわけではないと思うのだが、妹紅が具体的にいつ頃勝負を仕掛けるつもりなのか知っておく必要があった。

 それによって、修行で目指す目標も変わってくるわけだしね。

 

「そ……それは……っ」

 

 しかし、妹紅は何故かそんな当たり前の質問に対して返答を躊躇っているようだった。

 

「どうした?」

「まだ……決めて、ない」

「そうか。しかし、期日は決めておいた方がいい」

 

 ただ漠然と鍛えるよりも、目標があった方が断然はかどるからね。

 それに今でこそこうして五人揃うのが当たり前になっているが、慧音には寺子屋の仕事もあるし、私も最近私情で診療所を休業しすぎなので、そろそろ復帰しなければならない。

 あと、これは私だけが知る予定だけど、今後色んな異変が幻想郷で立て続けに起こるはずだしね。

 この迷いの竹林が舞台となる『永夜異変』も控えているのだ。いつなのかまでは分からないけど。

 私もこの日常に楽しさを感じているが、ずっと同じ日々が続くことはないのだ。

 まあ、その変化が生きる上で必要なことなんだけどね。

 

「……分かってるわよ。その……いずれ、勝負するわ。いずれ……」

 

 そう答える妹紅は、顔を俯かせ、声も弱々しいものだった。

 ――本当に、どうしたんだ?

 具体的には分からないが、何か迷いを抱いているような気がする。

 別に答えを先延ばしにすることが絶対に悪いことではないが――うむ、ここは一つ偉大なる名言に肖って、妹紅の背中を押しておくとするか!

 

「『いずれ』とは、いつの話だ? 明日か?」

「……えっ?」

「妹紅、明日とはいつの明日だ?」

 

 呆気に取られる妹紅に対して、私は敢えて厳しい口調で告げた。

 すまん。しかし、ちょっと厳しい言い方になるが、決断に迷った時はこの言葉が一番効くはずだ。

 

「明日とは、今だ」

 

 ねーちゃん、あしたっていまさッ!

 私自身も五十年生きる上で様々な迷いにぶつかった時、何度も最後の一押しをしてくれた言葉である。

 いや、本当。偉大なる先人の言葉には助けられまくりですよ。

 ありきたりだけど、やらずに後悔するよりやって後悔した方がいいってね。

 妹紅と過ごす日々が嫌なわけではもちろん無いが、だからこそ妹紅にはより充実した時間を過ごしてもらいたい。

 負け続けていた輝夜に勝つことが、その第一歩になるのならば、その一歩を踏み出すことを恐れて欲しくないのだ。

 

「だから――」

「……うるさい!」

 

 ……え?

 

「いずれって言ったらいずれだ! 明日は今日じゃない! 先のことなんて、話さないでよっ!」

 

 妹紅は立ち上がり、絶叫していた。

 両目に涙を溜め、肩を震わせている。

 怒りと苛立ち、そしてそれ以上の悲しみがそこに宿っていた。

 

「妹紅、どうしたのですか? 先代はただ――」

「言わないで……っ」

 

 慌ててフォローに入ろうとする慧音を遮り、妹紅は呆気に取られる私達全員を泣きながら見回した。

 

「私に、今の日常を持ってきてくれた貴女達が……先のことなんて、言わないで……!」

 

 それは訴えというよりも懇願に近い言葉だった。

 誰もが突然の事態に混乱し、ただ黙って見つめるしかない状況から逃げるように、妹紅は背を向けて駆け出した。

 竹林の中へと後ろ姿が消えていく。

 私は、もちろん両足のこともあるが……追えなかった。

 

「妹紅!」

「待ってよ、チルノ。悪いけどあんたは追っちゃ駄目」

「てゐ、邪魔すんな!」

「いいから、ここはせんせーに任せときなって。いいよね、慧音?」

 

 この場で誰よりも冷静なてゐが、場の重い空気を和ませるように軽い口調で言った。

 

「私が?」

「あたしの考える限り、この中じゃあんたが一番適任だわ」

「……分かった。すみません、先代。行ってきます」

 

 妹紅を追って駆け出す慧音を、無言で見送る。

 うん、いってらっしゃい。

 キヲツケテー……。

 …………どぉーしてこぉーなった!?

 私は内心、頭を抱えた。

 どう見ても、私の言動が妹紅を傷つけた結果だった。

 な、何が……何が悪かったんだ!?

 やっぱり、口調が厳しすぎたのか? それとも分かっていることをイチイチ説教臭く言ったのがいけなかったのか!?

 

「先代。あんたが気に病む必要は無いよ」

 

 さすがにこの苦悩は鉄面皮にも表情として浮かんでいたらしい。

 私の様子を察したてゐが笑いながら言ってくれる。

 しかし、そのフォローに素直に頷くことなど出来ない。

 私は状況を把握しているらしいてゐに、答えを求めるように視線を向けた。

 

「『明日とは今』――いい言葉だと思うよ。迷いと後悔ばっかりな人生で、前に進む為に必要なものを教えてくれる」

 

 皮肉ではなく、てゐは本心からそう思っている様子で頷いた。

 

「正しい言葉だ。でも……妹紅には、ちょっと厳しい言葉だと思うのよ。『前に進め』って話はね」

 

 呟きながら、てゐは小さく笑った。

 普段の悪戯っぽい笑顔ではない。

 初めて見る。しかし、間違いなくてゐの本心の一片を表していると分かる、素直な笑みだった。

 

「もちろん、それは妹紅の弱さのせいなんだけどさ。

 でも、仕方ないでしょ。あいつは、妖怪でも神様でもない。ただ偶然不死身になっちゃった、元は人間の娘なんだからさ……」

 

 てゐの笑みには一抹の悲しみが含まれていた。

 

 

 

 

 一月の間妹紅の住処まで通ったとはいえ、やはりこの竹林は立ち入る者を迷わせる構造になっている。

 すぐに追ったことが功を奏し、慧音はかろうじて妹紅の姿を捉えることが出来た。

 慧音から背を向け、項垂れている。

 全速力でも追いつけなかったことや、自分とは違い少しも息があがっていない妹紅の様子を比べて、慧音は『修行の成果が出ているな』と場違いな感想を抱いていた。

 

「……妹紅」

 

 てゐは自分が一番適任だと言ったが、果たしてそうなのか自信が持てなかった。

 今も掛けるべき最適な言葉が思い浮かばず、伺うように名前を呼ぶことしか出来ない。

 

「ごめん、慧音」

 

 応える妹紅の声色は、意外にもハッキリとしたものだった。

 

「いや、違うな。謝るなら、先代にか。ははっ、ちゃんと謝らなきゃね」

 

 つい先程、感情をあらわにして嘆いていた様子は今は欠片も見えない。

 先代を避けるような素振りも見せない。

 しかし、慧音にはそれが内心に押さえ込んだ動揺を上手く隠しているようにしか見えなかった。

 どれだけ声色に明るさを持たせても、妹紅は未だに振り返ってその顔を見せてくれないのだ。

 このままでは、きっと妹紅は胸の内をずっと明かしてはくれないだろう。

 

「――明日が来るのが、怖くなりましたか?」

 

 意を決して、慧音は核心に切り込んだ。

 背を向けたまま、妹紅が息を呑むのが分かる。

 

「先程、妹紅が取り乱したのは、未来に待つ恐怖に思い至ったからではないですか?」

 

 具体的な質問は何一つしていない。

 しかし、慧音は奇妙な確信を持って妹紅の心情を察していた。

 それは慧音自身が酷く共感を抱く内容だったからだ。

 躊躇無く告げながら、そこに厳しさではなく、妹紅を気遣うような優しさを含んでいるのもその為だった。

 

「……ああ、そうだよ」

 

 妹紅は力の抜けた声で肯定した。

 

「先代達に会うまで、毎日が同じだった。こんな日が来るなんて、想像もしてなかった。

 先代達に会ってから、一日がいつも違っていた。次の日、何が起こるのか楽しみで仕方なかった」

「今は、違いますか?」

「ああ、怖い。私は、一日が終わるのが怖い。明日が来るのが怖い」

 

 妹紅は日々の辛い修行の中に確かな喜びと幸福を覚えていた。

 輝夜を打倒する為の力を蓄えていくこと自体がそれほど嬉しかったわけではない。

 周囲の暖かな者達に支えられながら、彼女達と目標をひとつひとつ達成していく――その達成感が、妹紅にとって生きる実感を与えてくれる喜びだったのだ。

 しかし、今はその達成感が、生の実感が、正確にはその後に訪れる一息の間が――。

 言い知れぬ虚無感を覚える。

 一つの達成感の後で、一つの終わりを感じる。

 

 ――一歩一歩、この日常の終わりに近づいていくことが怖い。

 

 慧音には妹紅の告白が身に染みる思いだった。

 かつて、先代との間にいずれ訪れる結末を想像して恐怖していた記憶が蘇る。

 夢に見たことが現実と繋がっているという事実に、何度も寒気を覚えた。

 いっそ夢のままであるならば――目覚めの朝など訪れなければ、と。繰り返し考えたのだ。

 そして、その思いは今でも完全に消せてはいない。

 あるいは、その時が来るまで決して消えないのかもしれない。

 

「……しかし、それでも」

 

 妹紅と、同時に自分自身へ言い聞かせるように慧音は首を振った。

 迷いは消せない。

 しかし、答えは得ている。

 

「時の流れを止めることは出来ません。

 人の輪廻を遮ることは、許されません」

 

 心の痛みを堪えながら、慧音は静かに答えを伝えた。

 

「妹紅、貴女の気持ちは痛いほど分かります。

 私の身は半獣。先代と同じ生は歩めない体です。いずれ、私もあの人と共に過ごす日常を失うでしょう」

「……」

「その恐怖にどうしても耐えられず、私は一度過ちを犯しました。その罪を経ても、未だ苦悩は消えません。

 しかし、分かったこともあります。別れがあるからこそ、出会いもあった。日々の移り変わりが、私と先代を巡り合わせてくれた。

 妹紅、貴女が大切に思ってくれている私達との日々も、『明日』が訪れたからこそ得られたもののはずです。

 失うからこそ尊い一日がある。その価値に、どうか気付いてください。例え今の日常を失ったとしても、そのことを忘れずに抱いて生きれば――」

「違う」

 

 諭すような慧音の言葉を、妹紅の震える声が遮った。

 

「慧音に私の気持ちは分からない」

「え……?」

「貴女と私の立場は違う!」

 

 妹紅は振り返った。

 やはり、その顔は涙で濡れたままだった。

 そもそも最初から、彼女は取り繕うことすら出来ていなかったのかもしれない。

 

「――だって、慧音は死ねるじゃないか!!」

 

 妹紅の血を吐くような絶叫に、慧音は続くはずの言葉を詰まらせてしまった。

 

「慧音の言うことも、先代の言ったことも……何よりも正しい。正しいって、分かってるんだ」

「も、妹紅……」

「でも、それは生きて死ねる者だから言える正しさなんだ!

 私は死ねない……終わりが無い。自分の人生を全うすることなんて出来ない。例え答えを得ても、その正しさを永遠に証明し続けることなんて出来ない!

 どんなに固く決意しても、どんなに心が満たされても、私にはその先が残されてるんだ! 終われないんだよ!」

 

 妹紅は縋りつくように慧音の肩を掴んだ。

 鬼気迫る表情でありながら、その力はあまりにも弱々しい。

 

「私が考えているのは、先代との別れだけじゃない。

 慧音も、てゐも、チルノだって、時間の差はあってもいずれ命を全うして消えていく……。

 私だけが……私だけが違う! 私だけがいずれ取り残される! 別れと出会い、得ては失うことを私は永遠に繰り返すんだ!!」

 

 食い縛った歯から嗚咽を洩らしながら、妹紅は額を慧音の胸に押し付けた。

 そうしなければ、堪えられないのだ。

 慧音は青褪め、何も言うことが出来なかった。

 人間である先代と比較して、自分は取り残される側だと思っていた。

 妹紅もまた同じ悲しみを味わっているのだろう、と。

 しかし、その根本が間違っていた。

 失った悲しみを糧にしてその後の生を全うする――彼女にはそれすら許されないのだ。

 慧音には、妹紅が堪えているものの全てを、測りきることなど到底出来なかった。

 何一つ掛ける言葉が見当たらず、震える手で妹紅の肩に触れる。

 

「明日が来るのが怖い……。

 何よりも、掛け替えのない今が、百年後にはただの記憶になっているのが怖い。二百年後には思い出すことが出来なくなっているかもしれないのが、怖い。

 今みたいな穏やかな日常を、昔何度も経験しているはずなんだ。その度に、生きる希望って奴を持ち直していたんだ。そうして今日まで生きて来れたんだ。

 でも、私はもう千年以上前のことなんか朧気にしか覚えていない……っ!」

 

 嘆くような悲しみの中には苛立ちと怒りも混ざっていた。

 それが何を対象としている感情なのかは、妹紅自身も分かっていない。

 妹紅は扱いきれない激情を、ただ闇雲に吐き出していた。

 

「千年だ……千年だぞっ!? 言葉じゃ伝わらないか? これがどれだけ長いことなのか、想像がつくか!?」

「……」

「長すぎる……千年は、人間の私には長すぎるよ。それなのに、ましてや永遠なんて……そんなぁ」

 

 それが永遠の命を得た蓬莱人の本心。

 声を枯らすほどに叫び、心の内を吐き出した後に残ったものは、ただの人間の少女が洩らす弱々しい嗚咽だけだった。

 

「ねぇ、死なないでよ……いなくならないでよ……」

 

 妹紅は顔を上げ、懇願するような視線で慧音に訴えた。

 

「お願いっ……お願いします……! いなくならないでください! お願いします!!」

「妹紅……っ」

 

 錯乱する妹紅を、慧音は抑えるように強く抱き締めた。

 そうして、ただ彼女が落ち着くのを待つことしか出来なかった。

 他にどうすることも、出来なかったのだ。

 

 

 

 

「そう。つまらないわね」

 

 てゐの報告を聞いた輝夜は落胆するように肩を落とした。

 その仕草さえ優雅である。

 脇息に肘を乗せ、両足を揃えて畳の上に軽く伸ばしている。肩を落とす仕草の際にやや首が傾いでいるが、そこに何とも言えない色気が漂っていた。

 気だるげな様子は、ここしばらくの間永琳からの指示で私室での謹慎を続けているせいである。

 こうしててゐが外の様子――密かに見張らせている妹紅達の様子――を、定期的に聞く以外に刺激が無いのだった。

 

「つまらない、ねぇ? 妹紅が聞いたら憤死しちゃいそう」

「ああ、違うわ。妹紅が悩んでいる内容に対してじゃないのよ。先代巫女の新しい修行のこと」

 

 てゐは、今日の朝食の場で起こった出来事を詳細に説明していた。

 輝夜からはただありのままを話すように言われているので、今朝の出来事の中で妹紅が何を思い、苦悩していたのか、てゐ自身の見解は含まれていない。

 しかし、輝夜とてゐの予想はおそらく一致していた。

 先代達と妹紅が出会うより以前に、てゐに妹紅の世話をするよう頼んだのは他ならぬ輝夜だからである。

 

「先代巫女って、代々伝わる巫女の秘術とはまた違う独自の技をたくさん持っているらしいじゃない。

 私としては、そういう分かりやすい技を妹紅に教えてくれたら面白いなって思ってたんだけど……なんか地味なところに落ち着いちゃったわねぇ」

「素人の勝手な思い込みだったみたいだね。でも、実際こっちの方が妹紅にとって効果的なのかも」

「そうね。本当、余計なお世話してくれるわ」

 

 輝夜は悩ましげに額を押さえた。

 

「余計っすか……」

 

 てゐは微かな笑みを浮かべたまま、表情を変えない。

 輝夜に、妹紅の日々の様子を話す時、彼女はいつもこの表情だった。

 どんな内容を話していても、それに対して輝夜がどんな反応を見せても、てゐは自身の考えていることや思っていることを悟らせなかった。

 

「そう、余計。精神鍛錬なんて、妹紅にとって悪影響でしかないわ」

「今朝のことだったら、先代も悪気があって妹紅を追い詰めたわけじゃないんだけどね」

「だからこそ、よ。無自覚でも追い詰めてしまうものなの。

 だって、どうしようもないじゃない。いずれ死ぬ人間と、永遠に生きる人間の違いなんて」

「蓬莱人には通らんもんかね、生きる者の道理ってやつは」

「通らないわね。そもそも価値観さえ違うわ。永遠の命を得た時点で、世界の見方を変えなければならない。

 老いることもなく死ぬこともないとすれば、即ちそれは生きていないということと同義だわ。

 それなのに、妹紅は未だに『生きて死ぬ人間』のまま周りを捉えている。その相違が妹紅の心を磨耗させていってるっていうのに、今更弱った精神を鍛え直すなんて苦しみを延ばす行為でしかないわ」

 

 てゐから聞いた先代の言動に対して、輝夜は苛立ちすら感じているようだった。

 その意見に対して、てゐは何も言わず、何も表情に表さず、ただ軽く鼻の頭を掻く仕草をしただけだった。

 同意か反対か。てゐの反応を見ようとしていた輝夜は、やがてつまらなさそうに肩を竦めた。

 

「……妹紅は必要も無いのに死んでは生き返ってを繰り返している。体ではなく、心の話よ。

 いつまでも人間だった頃の生き方に縋りついている。これが地上の穢れというやつなのかしらね。余分なしがらみがあの娘の足を引っ張り続けているのよ」

「まあ、妹紅の生き方が不憫だってのは同意するよ。

 姫様は妹紅が完全に世捨て人になれば楽になれるって考えてるわけ?」

「世の中との付き合い方を見直しなさいって思ってるわね。周りは『生きて死ぬモノ』ばかり。どれもこれも私達とは違うモノよ。

 同じ目線で見て、同じ価値観で話し、同じ考えで心を通わせれば、いずれ必ず破綻してしまうのよ。その度に心が傷ついて、力尽きて……いい加減、妹紅も気付くべきだわ」

「世情に関わらず、心を石のように静めたまま過ごせってこと?」

「そうしなかった結果、妹紅の心は何度も限界を迎えている。違うかしら?」

「うんにゃ。ただ、姫様自身も自分の周りに変化を望んでるじゃない。先代の行動に興味を抱いてたし」

「そうね。停滞した水はすぐに腐るわ。襖を開いて、部屋の中に風を吹き込みたい気分にもなる――」

 

 輝夜は座ったまま、手元に置いていた木の枝を握った。

 枝の先に鮮やかな宝玉が色とりどり付いた不思議な木の枝である。

 それを軽く振ると、閉ざされていた襖が音も無く左右に開いた。

 開いた先は永遠亭の中庭に繋がっている。

 外は夜である。

 心地よい夜風が、二人の間を吹き抜けていった。

 

「でも、私が欲しいのは嵐ではないわ。かすかに吹いては止む、ささやかな微風。それ以上は余計よ」

 

 てゐはやはり何も答えなかった。

 微かな笑みのまま、黙って輝夜の語りを聞いている。

 

「……あんたって、つまんないわよね」

 

 気品のある笑みを崩し、幼い少女のように口先を尖らせながら輝夜がぼやいた。

 自分の語りに対して、てゐの何らかの反応を期待していたのだった。

 同意でも反発でも良い。

 しかし、てゐは呆けるように再び鼻の頭を掻くだけだった。

 

「あんたが最初に妹紅を見つけてきてからこっち、ずっと監視と世話を頼んでたのに、何も思うところないわけ?」

「いや、最初に姫様が言ったじゃない。長生きした妖怪とはいえ、あたしもいずれ死ぬ存在だしね。蓬莱人の道理に関しては、同じ立場同士が一番通じ合うんじゃないかな」

「だから何も言うことないっていうの? あんた、ちょっと薄情じゃない?」

「姫様も結構ムラがあるよね。結局、今の妹紅の生き方を否定しているのか肯定しているのか、どっちなの?」

「んなもん決まってるでしょう。否定よ、否定!」

 

 輝夜は断言し、続いて気を取り直すように笑みを浮かべた。

 それは美しくも悪辣さを含む表情であった。

 

「最初は新しく力をつけた妹紅との勝負を純粋に楽しもうと思ったけれど、予想外に面倒なことをしてくれたわ。

 話を聞く限り、既に妹紅は自分を追い詰め始めている。つまらない結末を繰り返す前に、ここは一つ勝負を仕掛ける頃合ね」

「……と、いうと?」

「時期的にも丁度いいのよ。永琳が大仰な準備を始めているみたい。

 内容を軽く聞いたけど、また随分と大事を近々起こすつもりのようね。その時を狙って、妹紅に勝負を仕掛ける」

「いや、お師匠様がそれだけのことをするって、どう考えても姫様の為を思ってでしょうが」

「そうね。だから有効利用させてもらうわ」

「駄目だ、このバカ姫」

 

 てゐの呆れたような呟きも聞いていないかのように、輝夜は夜空を見上げて、同じ空の下にいる妹紅に意識を向けていた。

 

「――今この時が永遠に続いて欲しいと、願ったでしょうよ」

 

 輝夜は妹紅の苦悩と願いを完全に見抜いていた。

 

「でも、無理。命は尽きて生まれるもの。世界は変わり廻るもの」

 

 こうして言葉にしなくとも、周囲の生きとし生けるもの全てが繰り返し伝えてくるだろう。

 

「蓬莱人は輪廻しない。妹紅、貴女の繰り返す迷いを断ち切ってあげる。私との勝負が、貴女の決断の時よ」

 

 その勝負が決して逃れられないものであると、輝夜の瞳は語っていた。

 残酷なまでに、選択を迫る意思がそこに宿っていた。

 

 

 そして、輝夜の言葉通り、その夜はやって来た。

 偽りの月が発端となった異変の始まり。

 奇しくも、妹紅が望んだ『明けない夜』の始まりであった――。

 

 

 

 

「待たせたわね、霊夢。準備は完了したわ」

「準備、ねぇ……」

 

 スキマから式神を伴って現れた紫を見つめ、続いて霊夢は空を見上げた。

 夜空には満月が浮かんでいる。

 人間にとって、それは何の変哲もない夜だった。

 しかし、妖怪にとっては異変の夜であるらしい。

 

「あの月が偽物?」

「人間である貴女には実感が無いでしょう。でも、月の影響を受ける妖怪の中では気付く者もいるはずよ」

 

 就寝中の霊夢が、突然神社にやって来た紫に叩き起こされたのは数刻前のことだった。

 手短に事情を説明され、その重大さも念を押されたが、未だに霊夢は具体的な危機感を抱けなかった。

 むしろ、その『偽物の月』に対して紫が取った対処法の方が大事のように感じている。

 

「『夜のまま時間を止める』って方が、よっぽど異変だと思うけど」

「多分、貴女の想像とは違うわよ。『時間を止める』ことと『夜を止める』ということは意味と性質が異なるわ。

 この世の理に干渉する為に必要なものは『力』よりも『知』よ。強さよりも理解が重要なの。優れた術師や、例えば貴女にも可能だと思うわ」

 

 逆にこればかりは先代には無理ね、と笑う紫を霊夢は複雑そうに睨んだ。

 紫の言う『準備』とは、偽物の月を維持したまま夜を止める方法のことだった。

 手段自体もそうだが、実際に行ってしまう紫自身もとんでもない。

 スキマの向こうで如何なる術式や儀式をこなしてきたのか知らないが、紫は涼しげな表情で神社へ舞い戻り、更に偽物の月に関する異変の解決にまで乗り出そうとしている。

 普段は傍観する立場にいる妖怪の本気を、霊夢は初めて感じ取っていた。

 

「このまま夜が続けば、月の魔力が幻想郷中の妖怪に影響を与えてしまう。もちろん、その前にこの永夜の術式を解除するつもりだわ。

 だけど、あの偽物の月は私の意思では消えない。これは私が夜を止めていることに匹敵するほどの、恐るべき所業よ。それを行った何者かが、この幻想郷に潜んでいる」

「要は紫レベルの化け物が野放しになっているってことね」

「その通り。例え夜を止めてでも、あの偽物の月を辿って『敵』を見つけなくてはならない。制限時間付きでね」

「面倒な話だわ」

 

 紫の語る内容は、かつてないほど深刻なものである。

 しかし、それを聞く霊夢は背伸びをしてのんきに体を解し、語る紫の顔には普段通りの胡散臭い笑みが絶やされていない。

 博麗の巫女と妖怪の賢者。

 幻想郷を代表する実力者二人の余裕が、そこには在った。

 

「それじゃあ、藍。いってくるわね。念の為、永夜の術式からは眼を離さないでおいて頂戴」

「――恐れながら、紫様。具申致します」

 

 霊夢と共に神社を発とうとする紫の背中へ、それまでただ黙って付き従っていた藍がおもむろに声を掛けた。

 

「此度の異変は異例の大事態。実力者の同行が必須かと」

「……ふむ。何が言いたいのかしら?」

 

 紫はわざと惚けた様子で尋ねた。

 傍らでは紫と藍、それぞれの意図を鋭く察して、霊夢がうんざりしたような表情を浮かべている。

 

「人間などではなく、私をお供に――」

「つまり、貴女は霊夢よりも異変解決に貢献出来る、と?」

「そのように考えております」

「霊夢の弾幕ごっこにおける実力を知った上で『自分の方が優れている』と、本気でそう思っているわけね?」

「紫様が私に施された式を利用してくだされば、可能性は十分……加えて、私の忠誠がお役に立つかと」

 

 式神の力は、その術を施した主が命じることで真価を発揮する。

 単独ではなくコンビを組む場合、意見を違える場合さえある霊夢ではなく、紫の道具として忠実な自身の方が有効である――と。藍は進言しているのだった。

 紫は面白そうに笑った。

 ただしそれは、加虐心と残酷な愉悦を含んだ妖怪としての黒い笑みだった。

 

「なるほど。それは一考の余地があるわね」

「では……」

「一考したわ。結論を伝えるわね。藍――」

 

 紫は亀裂のような笑みを形作った口で、藍の耳元に囁いた。

 

「いってくるわ。留守番をお願いね」

 

 答えを聞いた藍は、一度眼を伏せ、それから深々と頭を下げた。

 

「……お気をつけて」

 

 紫の身を深く案じる気持ちが込められた言葉だった。

 少なくとも、藍の言動には一切の動揺が表れていなかった。

 紫は満足そうに微笑むと、改めて背を向けて神社を発つ。

 それを追うように霊夢が飛翔し――気になって肩越しに振り返ったことをすぐに後悔した。

 再びうんざりとした気分が蘇る。

 

「あんた、自分の式神からかうのやめなさいよ」

「あら? からかってなんかいないわ。これは愛よ、愛情表現の一つ」

「あたしのいない所でやれ。あいつ完全に殺す気で睨んでたわよ」

 

 つい先程、自分に向けられていた藍の視線を思い出して、霊夢は疲れたようにため息を吐いた。

 鉄のように冷たい瞳の中に、殺意と嫉妬が隠されていた。

 その眼光を受けて恐怖や身の危険を欠片も感じていないのは、さすが霊夢である。

 紫は愉快そうに声をあげて笑った。

 

「藍も懲りないわね、親子で博麗の巫女を目の敵にするなんて」

「はあ? まさか母さんにも同じようなことしてんの?」

「ひょっとして、昔のことを根に持っていたのかしら。嫉妬深いのよね、うちの可愛い狐は。まあ、それもこれも私が尊敬されすぎちゃってるのが悪いんだけど」

「そうね、あんたが悪いわ。あたしと母さんの前から消えてくれれば万事解決ね」

 

 相も変わらぬ軽口を交わし、人間と妖怪のタッグが異変の夜を飛んでいく。

 傍らに霊夢の存在を感じながら、紫は奇妙な懐かしさを感じていた。

 かつて、こうして隣に己の式神ではなく、人間を伴って異変の解決に乗り出したことがあった。

 関係は違えど、あの時と同じ信頼感を胸に抱いている。

 

「――敵は強大ね、霊夢」

 

 紫は思い起こした記憶をなぞるように言葉を紡いだ。

 訝しげな表情で見つめる霊夢に笑いかけ、脳裏には彼女の母親を思い浮かべる。

 

「いえ、大したことはないわね。今夜は、私と貴女で二人掛かりなんですもの」

 

 当代の博麗の巫女と妖怪の賢者。

 異例のコンビが、偽物の月を辿って『敵』を目指していた。

 

 

 

 

「準備はいいかしら、妖夢?」

「いつでも行けます」

 

 腰に二刀を差した妖夢が静かに答えた。

 準備といっても物の備えのことではない。これから向かう先に在るものに対する心の備えである。

 妖夢の顔付きは、既に戦いの前のそれへと変わっていた。

 

「貴女が月を斬るくらいのことが出来れば、こんな異変すぐに解決するのにねぇ」

「申し訳ありません、未だ至らぬ身であります。月の代わりに、敵は必ず斬ります」

「……冗談よ。ルールを守って、楽しく戦いましょう」

「はい」

 

 真剣のように鋭い妖夢の雰囲気を少しでも和ませようと語りかけた幽々子の意図に反して、返ってきた反応は実に剣呑なものだった。

 昔の妖夢だったらもっと可愛げのある反応を見せてくれたのに、と幽々子は僅かに唇を尖らせた。

 春雪異変を境にして、それ以前と以降の妖夢は明らかに変わっている。

 初の実戦とその敗北を経て、何かを掴んだのか。

 あるいは未熟さや甘さといったものを失ったのかもしれない。

 今の妖夢に漲っているものが、これまで無かった何らかの自信や確信にも見えるが――。

 普段の生活の中でも、何処か剣呑な気配を纏うようになった妖夢を、幽々子は密かに案じていた。

 

「そうそう、ついさっき紫から連絡があったわ。

 立場を考えれば当たり前だけど、彼女も今宵の歪な月に気付いたようね。博麗の巫女と共に異変解決へ乗り出しているわ」

「博麗……霊夢、ですか」

 

 妖夢の瞳が僅かに揺れた。

 自分が初めて戦い、そして完膚なきまでに敗北した相手の名前を反芻する。

 その口元には、意外なことに僅かな笑みが形作られていた。

 しかし、当然のようにそこに含まれるものが好意的な感情なはずがない。

 幽々子は、妖夢の笑みが牙を剥く行為と同じ意味であることを見抜いていた。

 

「言うまでもないけれど、今回彼女達は目的を同じとする味方よ」

「はい。理解しております」

 

 妖夢は目を伏せ、口元の僅かな笑みを消した。

 それが渋々とした反応であると気付き、幽々子は扇で隠しながら小さくため息を吐いた。

 

 ――博麗霊夢との出会いが、悪い方向へ転んじゃったかしら?

 

 冥界という閉鎖された世界しか知らない妖夢にとって、外部からの刺激は成長の良い切欠になると前向きに捉えていたが、事態は様々な意味で幽々子の予想を超えていた。

 霊夢が与えた衝撃と影響は、それまでの妖夢の世界観を度が過ぎるほどに破壊したのだ。

 そうして失意の底にいた妖夢が再び立ち上がったことは、一種の成長なのかもしれないが、最近になって幽々子はそれが必ずしも良い意味だけではないと察し始めていた。

 一体何が切欠になったものか。最近の妖夢が振るう剣は鋭さが増している。

 ただし、眼前に想定する標的を斬る為の純粋な剣技としての鋭さのみが。

 

「貴女が剣を学び始めたのは、ただ物を斬る為ではなかったでしょうに……」

「何か?」

「いいえ、なんでも。まあ、妖夢はまだまだこれからよね?」

「はあ、未熟なのは自覚していますが……」

 

 幽々子の言葉を誤解して受け取った妖夢は、曖昧に頷いた。

 子供を見守る親のように、幽々子は微笑む。

 色々と懸念も多いが、前向きに考えよう。

 例え迷走であっても、それが前に進んでいることに変わりはない。成長の一環だ。

 たった一つの出会いが、妖夢をここまで変えた。

 此度の異変では、さてどんな出会いがあるか? どんな経験が妖夢を変えるのか?

 

「行きましょう、妖夢」

「参りましょう、幽々子様」

 

 主従二人。互いに思うことは違えど、ある意味この異変の中で最も解決への義務感を抱いていないことだけは共通していた。

 文字通り、違う世界の住人なのだ。

 半人半霊の庭師は主が定めた敵を斬る為に。

 亡霊の姫はそんな従者を見守る為に。

 死者の世界から、偽りの月が昇る生者の世界へと二人は降りていった。

 

 

 

 

「これが喘息の薬です。携帯用の容器ですから、あまり量は入っていませんよ。大切に使ってください。体調が悪くなったら、すぐに咲夜さんに言ってくださいね。

 それと、これは私が冬に使っているマフラーです。ちょっと長くて不恰好ですが、喉をこれでしっかり守るように。それから――」

「分かった! 分かったから……もうやめて頂戴、美鈴」

 

 美鈴が矢継ぎ早に告げるのを、パチュリーは慌てて遮った。

 背後の小悪魔がどんな表情でこのやりとりを眺めているのか、容易く想像出来たからだ。

 普段のパチュリーならば、こんな母親が子供に対してするような扱いはプライドに懸けて断固拒否するのだが、悪気は無く善意であり、何より相手が悪かった。

 かつて美鈴の世話を受けていた身としては、彼女の献身はどうにも拒み辛いのだった。

 何より、美鈴の気遣いが決して嫌ではないと自分が感じてしまっている。

 

「パチェ、準備は出来たかしら?」

「ええ、十分過ぎるほどね」

 

 同じく外出の準備を整えた咲夜を伴ってレミリアが現れると、パチュリーはややうんざりとした表情で迎えた。

 背後でニヤニヤと嫌らしく笑う小悪魔は、意識して視界から外している。

 

「結構。まあ、パチェの知識と咲夜の実力があれば並大抵のことは大丈夫でしょうけど、今夜は何やら複雑な物事が動いているわ。一応、気をつけてね」

「問題ないわ。――けど、本当に私が出向いてよかったの?」

「何よ、やっぱり面倒?」

「いいえ、親友のお願いですもの」

 

 咲夜は主の命令で。パチュリーは親友の頼みで。それぞれが、今夜の異変の解決に向かおうとしていた。

 レミリアは月の影響を最も受ける妖怪である。

 最初に昇った偽りの月に気付き、その後始まった時間の流れの異常と、結果起こり得る幻想郷への影響まで、全て把握していた。

 止まった夜を動かし、本物の月を取り戻さなければならない――。

 珍しく、道楽などではなく真っ当な義務感によって彼女は自発的に動いたのだった。

 

「でも、私はレミィ自身が動くものと思っていたわ。

 偽りとはいえ月の異変。吸血鬼としての力も漲っているでしょう」

「最初は私もそう考えたんだけどね」

 

 レミリアは苦笑を浮かべた。

 それは誰にでもない、自分自身に向けたものである。

 

「気付いたのよ。姉妹なんだもの、フランだって私と同じような状態のはずだわ。

 あの子を地下に閉じ込めて、私一人だけ外で好きなように暴れ回って発散するなんて、不公平だと思わない?」

「これまでは満月の度に封印を強めて閉じ込めてきてたクセに」

 

 パチュリーは、わざと意地悪く過去を蒸し返した。

 もちろん、その指摘がレミリアにとって悪い意味で受け取られないと理解してのことである。

 彼女とその妹の関係は、もうかつてのように劣悪ではないのだ。

 

「だからこそ、よ。フランはあの頃とは違うわ。

 こうして今も、地下から暴れる音が聞こえない。あの子は我慢している。気が昂ぶるままに暴れることを良しとせず、狂気を押さえ込んで、一人耐えている」

「健気ね」

「そうよ、健気で可愛らしい私の妹よ。

 あの子の成長のことを考えれば、こうして我慢することを覚えさせる為に、何もせず見守るのが一番かもしれない」

 

 自分で口にした正論を、レミリアは景気良く笑い飛ばした。

 

「――が、しかし! そんなことは知ったこっちゃあないわね、私は甘やかすわ!

 今夜は一晩中付きっきりでフランと遊んであげる。パチェと咲夜は、地下室ごと紅魔館が吹っ飛ぶ前に何としても異変を解決しなさい」

 

 レミリアの言う『遊び』の内容が、壮絶なものであることは分かりきったことである。

 それでいて、何処にも昔のような悲壮な響きを感じない。

 フランドール・スカーレットは変わったのだ。姉や、周囲の者との関係さえ。

 

「責任重大ね」

「かしこまりました。お任せ下さい、お嬢様」

 

 パチュリーが呆れたように笑い、咲夜は見事な一礼をして応えてみせる。

 誰もレミリアの判断に異を唱えなかった。

 傍らで聞いていた美鈴も、小悪魔も、この場の誰もが笑っていた。

 レミリアの頼みとも命令とも取れない言葉に背を押され、咲夜とパチュリーの珍しいコンビが異変解決に向かう。

 

「――ああ、それとパチェ」

「何かしら?」

「今夜、異変の解決に出向くことはアナタにとっても大きな意味を持つことになりそうよ」

「……?」

 

 紅魔館を発とうとするパチュリーの背中に、レミリアが意味深げな言葉を掛けていた。

 パチュリーは訝しげな表情を浮かべていたが、それ以上何も言わず笑みを湛えるだけの親友が言葉の真意を明かすつもりなど無いのだと察して、肩を竦めた。

 おそらく、この夜を進めば分かることなのだろう。

 彼女の言う『運命』とやらの導きによって――。

 

「さて、と」

 

 そうして従者と親友を送り出したレミリアは、後ろを振り返った。

 二人が見えなくなるまで手を振っている美鈴を一瞥し、早々に図書館へ戻ろうとした小悪魔の肩を掴む。

 

「それじゃあ、行こうかしら」

「あれ、何ですこの手は? 私、これから仕事があるんで離して欲しいんですけど?」

「美鈴、お前も付き合うわよね?」

「もちろんですよ。私も今夜の月で、少なからず力が滾っていますからね。朝までお付き合いします」

「あれれー? 無視ですかー?」

「小悪魔、お前も来い」

「トイレなら一人で行ってくださいよ」

「ツーカーが主従だけだと思うなよ。パチェがお前に具体的な仕事を何も言いつけなかったのは、お前を好きに使って良いという意味なんだ」

「実は、私には図書館を離れられない魔術的な制約が……」

「以前、先代様の所行こうとしてましたよね?」

「美鈴さんって、空気読めてないところありますよね?」

「読む相手選んでるだけですから」

「……結構言いますね」

「当たり前だ、こいつは昔私を部屋から引きずり出したことがあるんだぞ」

 

 口論なのか単なる軽口なのか分からない応酬をしながら、いつの間にか三人は地下のフランドールの部屋の前までやって来ていた。

 小悪魔はほとんど引き摺られるような形で同行している。

 それでも抵抗らしい抵抗をしなかったのは、諦めているのか最初から受け入れていたのか。

 何か邪な意図があるのかもしれない、と。レミリアは今更ながら彼女を連れて来たことを急に後悔した。

 しかし、放っておいて、こいつが安穏としながら地下の出来事を楽しんでいるのも気に入らない。

 当事者として巻き込んでしまえば、少しはいい気味だろうとレミリアは考えていた。

 

「……静かですね」

 

 部屋の扉の前で呟いた美鈴の言葉の意味を、レミリアは正確に理解した。

 昔ならば、中で暴れるフランドールの叫び声や音が聞こえていただろう。

 今は、まるで息を潜めているかのように物音一つしない。

 あの小さな妹が、薄暗い部屋の中で一人耐えている姿を想像して、レミリアは胸が騒ぐのを感じた。

 居ても立ってもいられず、勢いよく扉を開け放つ。

 

「こんばんわ、フラン。いい子にしてたかしら?」

 

 努めて明るい声を出す。

 部屋の中を確認したレミリアは、内心では驚いていた。

 破壊どころか、部屋の調度品が何一つ乱れてはいない。

 周囲の物に当り散らした跡くらいは多少あるだろうという想定は、完全に外れていた。

 フランドールの自制心は、そこまで強固だったのだ。

 妹への称賛と感動すら抱きながら、その姿を探すと、ベッドの上で膝を抱え込んで座っているのを見つけた。

 訪問者に対して、ゆっくりと顔を上げる。

 

「フラ――!?」

 

 改めて声を掛けようとして、その瞳を見たレミリアは一気に嫌な予感を感じ取った。

 狂気に満ちた眼光が、こちらを射抜いている。

 

「よけなさい!」

 

 背後の美鈴と小悪魔へ、咄嗟に警告を発する。

 レミリアはフランドールの様子から、何かが爆発する寸前の印象を受け、そしてそれは正しかった。

 何の脈絡も無くフランドールが片手を突き出し、その手のひらから弾幕を放ったのだ。

 溜め込んでいた魔力が溢れ出したかのように、精密性は無く、暴走染みたでたらめな軌道と火力で、光弾が三人のいた場所に殺到する。

 扉ごと、地下室の入り口を盛大に吹き飛ばした。

 

「あ……っ! わ、わたし……!?」

 

 地下に反響する爆音を聞き、ようやくフランドールが我に返る。

 自分の起こした破壊の跡を見つめ、遅れて無意識の行動を自覚した。

 一瞬総毛立つような、自分自身への不安と恐怖を感じながらも、爆煙の中からレミリアと美鈴の無事な姿を見つけ出して安堵する。

 しかし――。

 

「お嬢様、無事ですか!?」

「ええ、無傷よ。そっちは?」

「間一髪避けました。危なかったですねー……ところで、小悪魔さんは? 同じタイミングで動いたので、避けれたと思いますが」

「……小悪魔?」

 

 煙が晴れ始め、駆け寄ろうとしていたフランドールは目の前の光景に愕然とした。

 

「あ……あぁ……っ」

「い、妹様……」

 

 足を止めて立ち竦んだフランドールと、蹲った状態から顔を上げた小悪魔の眼が合った。

 小悪魔は右手で左手を押さえていた。

 その手首から先が、無い。

 

「あぁ、手……手がっ。わた、私の……! 痛ぃ……っ!?」

 

 青褪めた顔で、小悪魔は悲鳴を上げた。

 その悲痛な光景に耐えられず、しかし眼を背けることも出来ずに、フランドールは恐怖に凍りついていた。

 目の前の事態は、自分が起こしてしまったものなのだ。

 

「こ、小悪魔……!」

「ひぃぃ……っ! 私の手がぁ!?」

「ごめ……ごめんなさいっ、わたし……!」

 

 取り返しのつかないことをしてしまった絶望感と、身を切るような罪悪感がフランドールを支配していた。

 謝って済むような問題ではない。

 自分は、決して小悪魔には許されない。

 そう自覚出来るだけの良識と理性を持っていたことが、フランドールをより深く追い詰めていた。

 

「どうして……どうして、こんなことを……? 酷い、妹様……どうしてぇ!?」

 

 小悪魔の悲痛な訴えが、何よりもフランドールを責め立てた。

 顔を両手で覆い、恐怖に引き攣った頬を押さえる。涙が溢れ、歯の根が鳴るのを止められなかった。

 どうしていいか、まるで分からなかった。

 ただ命に代えてでも償わなくてはいけないと思い、それでも許されるはずがないと絶望し、ガタガタと震えながらレミリアと美鈴の方へ視線を向けた。

 

「…………おい」

「あああああっ、痛い! 痛いですぅ、妹様ぁ! 死んじゃいますぅぅ~!」

「…………小悪魔さん」

「見てっ、見てください美鈴さん! これを妹様がやったんです! レミリアお嬢様、アナタの妹がやらかしましたよコレ! 私のぉ手ぇがぁぁ……!」

『――ぶっ殺すぞ』

 

 レミリアと美鈴は異口同音で小悪魔に冷たく告げた。

 

「手ぇ――が、あります」

 

 それまで苦痛に歪んでいた顔をあっさりと朗らかな笑みに変えて、小悪魔は袖の中に隠していた左の手首から先を出した。

 ポカンとした表情で呆気に取られるフランドールの目の前で、フラフラと無傷の左手を振ってみせる。

 

「如何でしたでしょうか、妹様? 小悪魔の小粋なマジック・ショーです。ほら、他にもこうやって親指が離れていくように見えるマジックとか……」

「左手の指折りましょう」

「右手も折れ。指全部折れ」

 

 怒りと殺意を静かに漲らせながら、美鈴とレミリアが小悪魔ににじり寄った。

 未だに状況を把握出来ないフランドールの眼には、本気の涙が浮かんでいる。彼女が、目の前で起こった事態にどれほど恐怖したのか想像に難くない。

 誰かを傷つけ、何かを壊すことに恐れを抱き始めた、まだ心幼い繊細な少女なのだ。

 悪ふざけにしては、明らかにやりすぎだった。

 しかし、小悪魔は落ち着き払って二人を一瞥するだけに留める。

 

「外野はちょっと黙っていてください、これから大切なことを話しますので」

 

 向けられる殺意の視線など物ともせず、小悪魔は優しく微笑みながら、フランドールに歩み寄った。

 

「――恐ろしかったですか? 妹様」

 

 言い含めるようなその声色は、聖母のような優しさに満ちている。

 

「……うん、怖かった。小悪魔が、無事でよかった……」

「ふふっ、ありがとうございます。妹様は優しいですね。

 申し訳ありません、私も冗談が過ぎました。しかし、今回は冗談で済みましたが……例えば、本当に誰かを傷つけてしまうこともあります」

「……わたし、怖いよ。ずっと我慢してたのに、何も分からなくって、気が付いたら攻撃してて……」

「ええ、妹様がわざとやったわけではないことは分かりますよ。よく、今まで我慢しました。

 そして、今回感じた恐ろしさを忘れてはいけません。力を振るった結果起こり得る光景の一つが、あれなのです。

 あの時感じたもの全てを忘れず、糧にして、どうすることが一番良いのか、自分で考えるのです。ただ恐れるだけではいけませんよ?」

「うん……分かった。小悪魔、ごめんなさい」

「いいんですよ、妹様。よく一人で我慢していましたね。偉いですよ」

 

 小悪魔がフランドールを優しく抱き締めると、やがて押し殺したような嗚咽が漏れ始めた。

 レミリアと美鈴の二人は、いつの間にか怒りを忘れ、ただ黙ってその光景を見つめていた。

 その優しくも美しい――欺瞞に満ちた光景を、怒る代わりに心底呆れ果てながら。

 

「……本っ当汚いな、あのクズ」

「妹様を玩んだ挙句、綺麗に話を締めちゃうっていうのがもうね……」

「結果的にフランの成長に貢献してるっていう点が余計に始末に負えん」

「横から口を挟めませんね」

「っていうか、このままだとフランがあいつに遠慮して思いっきり遊べないだろう」

「小悪魔さんを抜きにしてやるしかないですね。そこまで計算尽くですか……性質悪っ!」

 

 背中を向けた小悪魔の顔が密かに嫌らしい笑みで歪んでいることを半ば確信して、レミリアと美鈴は歯軋りしながら耐えるしかなかった。

 

 

 

 一方、紅魔館を発った咲夜とパチュリーは――。

 

「……今更だけど、小悪魔を置いてきたのは失敗だったかもしれないわ」

「私も、この先に待つ異変よりも紅魔館の方が気掛かりになってきましたわ」

 

 二人にとって、今夜一番の懸念は前よりも後ろに存在していた。

 

 

 

 

 魔法の森には二人の魔法使いが住む。

 一人は普通の魔法使いである霧雨魔理沙。

 もう一人は――。

 

「……どうしたの?」

「いや、何でもないぜ」

 

 テーブルを挟んだ向かいから聞こえた問い掛けに、魔理沙は本に視線を落としたまま素っ気無く答えた。

 しきりに包帯に覆われていない方の眼を擦っている。

 

「左眼も良く見えなくなってきたのかしら?」

「……ああ、霞んできた。でも、大丈夫だ。文字の方はむしろハッキリ見えるようになってきた」

 

 普通の人間が傍から見れば、それは奇妙な光景に映っただろう。

 テーブルを挟んだ二人の少女が、片方は裁縫を行い、片方は読書に励んでいる。

 二人とも歳若い少女である。

 部屋の内装は小奇麗に整頓されており、下品でない程度に飾られている。テーブルにはティーセットと茶菓子。そして、少女趣味らしい人形が棚の上や窓際に幾つも置かれていた。

 絵本に描かれるようなファンシーな光景である。

 ただし、その人形の何体かがひとりでに動き回り、部屋の内外を掃除する様は現実離れしたファンタジーであった。

 そして、魔理沙が熱心に読み解こうとしている本のページには文字が一つも書かれていない。

 

「しかし、何て本なんだこれは……気のせいか、昨日見えたものと書いてあることが違って見えるぜ」

「そういう魔道書なのよ。それ一冊に何百冊分もの文章が含まれているわ」

「読む度に違う内容になるなんて、読みたいページ探すのが大変だな」

「本来なら、読みたい部分を任意に呼び出せるのよ。この未熟者」

「悪かったな、魔法使いもどきで……」

 

 無関心そうな様子でありながら、何かと自分を弄ってくる向かいの人物に対して、魔理沙は口を尖らせた。

 しかし、本当の悪感情は抱いていない。

 この突き放したある種の冷たさを、むしろ気に入っていた。

 それでいて、言動に無意識なお節介さが垣間見えるギャップを面白くも思っている。

 今もそうだ。

 彼女が甲斐甲斐しく繕っている物は、つばの部分を木の枝に引っ掛けて破いてしまった魔理沙の帽子だった。

 

「しかし、文字が見えるようになったのはいいが、何て書いてあるのかがまるっきり分からないぜ」

「段階が違うわ。その魔道書の文字が見えるようになることがまず一歩目。

 二歩目で本の力を押さえ込むこと。無作為な情報の放出を抑えて、アナタのレベルに見合ったページを出せるようにならなければならない。

 読み解くのはそれからね」

「気の長い話だ」

「あまり悠長にはしていられないわよ。このままのペースだと、左眼の視力を失う方が先だわ」

 

 さらりと告げられた残酷な事実を、魔理沙は無言で受け止めた。

 それは事前に聞かされていた危険性だからだ。

 そして、それは既に覚悟して受け入れたことだった。

 

「魔道書自体の魔力がアナタの視覚を蝕み始めている。

 その影響で、アナタは肉眼では不可能な霊的な要素が見えるようになっているわけだけど、その『魔法使い特有の視覚』を早くモノにしないと、ただ失明するだけで終わるわ」

「逆に周囲のマナを気配ではなく視覚的に捉えるようになれれば、魔法使いとしてレベルアップ出来る……って話だったよな?」

「基礎中の基礎のレベルだけどね。インクの文字で書かれた初歩的な本以上の、呪紋や文章に含まれた暗号なども読み解けるようになるでしょう。理論上は」

「『見えるようになることが、まず前提。そこから先は探求と理解』だろ? 最初の授業で聞いたぜ」

「アナタの師匠は、こんな基本的なことも教えてくれなかったのかしらね?」

「師匠じゃないぜ。わたしが知識不足で聞くことさえ思いつかなかっただけだ。……パチュリーのことを悪く言うのはやめてくれよ」

「これは失礼」

 

 実際に笑い声は出さないが、相手が苦笑する気配を感じ取って、魔理沙は唇を噛みながら本を読むことに集中した。

 相手の反応が恥ずかしかったわけではない。

 考えているのはパチュリーのことだった。

 彼女が自分に、その『基礎中の基礎』を教えてくれなかった理由は分かっている。

 自分がそのレベルにさえ達していないほど未熟だからだ。

 己の身の程を無視して、強引に無理を通した結果、こうして失明するか否かの綱渡りをしている。

 それが分かっていたから、安全性を確かめながら段階をゆっくり踏んでいくことを彼女は選んだのだ。

 パチュリーは冷静で、聡明で、そして何よりも優しかった。

 魔理沙にはそれが悔しかったのだ。

 それは魔法使いとしての矜持ではなく、若さから来るただの意地だった。

 

「今日はここまでね」

 

 唐突に、魔理沙の意に反して本が閉じられた。

 魔理沙自身は何もしていない。

 呆気に取られる前で、本がひとりでにテーブルを滑り、向かいの相手の手に収まる。

 魔理沙が文句を言う暇も与えず、そのままページが開かないように、カバーの上からベルトを巻いてしまった。

 

「なんだよ、まだわたしは大丈夫だぜ」

 

 改めて本以外に視界を向けてみれば、テーブル越しの相手の顔さえ滲んでよく見えないことに気付いたが、魔理沙は強がって言った。

 

「精神面での理由よ。集中力を乱したわね?」

「う……っ」

「魔法使いならば感情的になるなと教えたでしょう。

 ……まあ、アナタにそれが無理であることは、ここ一月の間で理解したけれど」

 

 呆れたように呟きながら、奪った本の代わりに帽子を放り投げる。

 見事なコントロールで、クルクルと回転しながら帽子は魔理沙の頭に乗っかった。

 縫合の跡さえ分からないほど、帽子の傷は綺麗に修復されていた。

 

「あ、ありがと……」

 

 僅かに頬を赤くしながら魔理沙が小声で礼を言う。

 その反応を無視して、眼前に手のひらが突き出された。

 親指と小指だけ折られている。

 

「魔理沙、何本に見える?」

「あ? えー……三本だ」

 

 ほとんど目の前にあるにも関わらず、魔理沙は僅かに眼を凝らしてから答えた。

 

「じゃあ、指から伸びる『糸』は何本見える?」

「三……いや、二本だ!」

「三本よ。一本はわざと魔力を薄めて見えにくくしたわ」

 

 ここで言う『糸』とは、物理的な物ではない魔力で構成された物のことだった。

 この魔法使いが得意とする魔法の一つで、この魔力の糸によって周囲の人形を操っているらしい。

 魔理沙は、勉学について親に咎められた子供のような表情を一瞬浮かべた。

 

「では、見える二本の糸はどの指から伸びている?」

 

 ただ単に勘で答えている可能性も考慮して、更に質問が重ねられる。

 

「中指と……親指?」

「正解。引っ掛からなかったわね」

 

 僅かに愉悦を含んだ声を聞いて、魔理沙は複雑そうに笑った。

 普段は自分に対して無関心で無愛想な言動を取りながら、時折見せるこうした悪戯っぽい彼女の言動には、思わず調子を狂わされてしまう。

 目の前の少女と出会って、まだ二ヶ月ほどだが、魔理沙はその性格や人物像をイマイチ把握しきれていなかった。

 同じ本当の意味での『魔法使い』でありながら、パチュリーとはまた違った部分のある相手だった。

 

「――さて、出掛けましょうか」

 

 例えば、こうした唐突なアクティブさ。

 伺うものではなく、もはや決定事項のように告げられた内容に対して、魔理沙は面食らった。

 

「で、出掛けるって……何処へだ? 何しに? っていうか、もう夜だぜ?」

 

 ケープを羽織って、首に赤いリボンを巻き、粛々と準備を整える様子は魔理沙の都合など全く気にしていない。

 人形が勝手にテーブルの上を片付け始め、周囲の動きに流されるように、魔理沙は慌てて立ち上がった。

 

「魔理沙、アナタは今夜の月に違和感を感じないかしら?」

「月? 何のことだ? また何かのテストか?」

「まあ、それに近いけれど……人間には分からないのかしらね。まあ、いいわ」

「会話しようぜ? 魔法使いってのは一人で勝手に納得するからいけないぜ」

「魔法使いっていうのは、そういうものよ。自身の知識を他者に理解させる仕事ではないわ」

「冷たい奴だなぁ……それで、本当に何の目的で出掛けるんだ? なんか、自然とわたしも同行する流れになってるけど」

「人手が足りていたら、アナタみたいな未熟者なんか絶対に連れ出さないわよ。

 しかし、ある意味都合が宜しい。さっきも言ったけど、今のままのペースではアナタの眼に関して間に合わないかもしれない。

 よって、実地で叩き上げようと思ったのよ。相応に危険もあるけど」

「ふむ……」

 

 質問した相手が、明確な返答をするつもりがないのだと悟ると、魔理沙は自力で推測を始めた。

 思考を回すことに集中する魔理沙の様子を、横目で眺めながらも彼女は悠長に待つことはしない。

 いつの間にか準備を終え、玄関のドアに手を掛けたところで魔理沙はおもむろに口を開いた。

 

「――戦いに行くんだな?」

 

 ドアを開いた。

 月の光などほとんど地に届かない、鬱蒼とした森の中で、その洋館の周囲だけが不思議な力で切り取られたかのように開けていた。

 地底の穴から見上げるように、頭上に浮かぶ夜空と月が見える。

 普段から化け物茸の胞子が漂う森の中だが、今夜は月の力を受けて、眼に見えないはずの魔力の粒子までが淡い光となって周囲を漂っているように映った。

 いや、錯覚ではなく本当に見えるようになったのかもしれない、と。自分の見える世界が変質していく実感を魔理沙は僅かな恐怖と共に感じていた。

 改めて、先んじて玄関から外へ踏み出した彼女を見つめる。

 

「付いて来るかしら? 魔理沙」

「ああ、望むところだぜ――アリス」

 

 振り返ったアリスは、妖しく笑いながら魔理沙を永い夜へと誘った。

 

 

 

 

 人と人ならざる者同士が手を取り合い、それぞれがそれぞれの過程を経て、己に課せられた使命と己自身の意思によって異変解決に向かう。

 各々の事情と目的は違えど、向かうべき先は同じ。

 拮抗し得る力を持った四組の進路が、迷いの竹林という一点で交わろうとしていた。

 

 ――初めて出会う者。

 ――再会する者。

 ――戦う者。

 ――心通わす者。

 

 行く先に待つ波乱は、もはや避けられぬ必然である。

 そして、偽りの月と永夜の下、混迷する事態の最中にいるのは一人の蓬莱人だった。

 千年以上続いた繰り返しの時の中で、果たしてこのような流れはあっただろうか?

 永遠の命を得て以来、延々と続いてきた迷い。自問。苦悩――。

 己の抱える難題の答えが出ようとしている。

 

 

 ――妹紅は、その時が今夜であることをまだ知らない。

 




<元ネタ解説>

「――己の心を細くせよ。川は板を破壊できぬ。水滴のみが板に穴を穿つ」
コミック「うしおととら」に存在する退魔組織『光覇明宗』に伝わる極意の一つ。

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