東方先代録   作:パイマン

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永夜抄編その三。


其の二十「不死」

 

「……おねえちゃん、だいじょうぶ?」

 

 少年は恐る恐る目の前の人物に問い掛けた。

 いや、そもそもそれは『人』なのか?

 近くに自分の住む村があるとはいえ、ここは林の中である。

 獣か、悪くすれば妖怪が出るかもしれない場所だった。

 その木の根元に一人、彼女は背を預けて座り込んでいた。

 頭から被るように羽織った外套はボロボロで、その下から見える顔も汚れきっている。

 汚れているのは見た目だけではない。その瞳も、まるで泥が入り込んでしまったかのように濁りきっていた。

 とても生きた人間とは思えない。まるで墓穴から這い出た亡者のようだ。

 しかし、姿形は少なくとも人のそれであった。

 しかも、女だ。見たこともない、白く長い髪が隙間から覗き見える。

 彼女の顔が、汚れてもなお美しかったので、少年は思わず声を掛けていたのだった。

 

「まいご、なの……?」

 

 話すどころか見向きもしないその女を、心配していたのは少年だけではなかった。

 同じくらいの年頃の少女が、少年の陰に隠れながらも伺うように視線を向けていた。

 

「もうそろそろ、日がくれるよ?」

「夜になったら、妖怪が出るかもしれないんだぜ」

 

 少女と少年は、得体の知れない人物に対して純粋に案じる気持ちで言っていた。

 二人の子供に、女はしばらく濁った瞳を向けていたが、やがて興味を失ったかのように瞼を閉ざした。

 終始、一言も話さなかった。

 

「……どうしよ?」

 

 少女が少年に尋ねる。

 子供の手には余る状況だった。

 ただ、彼女を放っておけないという点だけは二人で共通していた。

 その時、唐突に近くの茂みが揺れた。

 何かの動く気配に、危機感や不安を抱く暇も無く、そこから黒い影が飛び出してくる。

 獣だった。

 幼い二人には、それがどんな種類の獣なのか理解出来なかったが、とにかく牙と爪を持ち――そして、血に飢えた獣だった。

 

「――ッ!!」

 

 最も容易い獲物として、呆然としている子供二人に狙いを定め、獣が咆哮と共に襲い掛かる。

 当然のように、抵抗する手段も余裕も無かった。

 肉を裂く音と共に鮮血が飛び散る。

 

「う……あぁ……っ!?」

 

 少女は言葉を失い、少年もかろうじて呻き声を洩らすことしか出来なかった。

 獣の牙は首元に突き刺さっていた。

 ただし、それは二人にではなく、先程まで座り込んでいたはずの女の首にであった。

 女の口元から泡立った血が溢れ出す。

 しかし、彼女の表情は初めて見た時のまま、何の感慨も抱いていないかのように変わらない。

 そして、ゆっくりと首に喰らいついていた獣が力を失っていく。

 いつの間に取り出した物か、女の突き出した小刀が獣の腹を貫通していた。

 獣が二人に襲いかかった瞬間、女はその進路上に割り込み、相討ちになったのだ。

 絶命した獣が地面に倒れ込むと同時に、女もまたその場に崩れ落ちた。

 

「おねえちゃん!」

 

 少年が慌てて駆け寄る。涙を流して震えながらも、少女がそれに続いた。

 倒れた女は流れ出す血で真っ赤だった。

 子供の眼にも、それが決して助からない傷なのだと理解出来た。

 

「……」

 

 女は何かを言おうと口を開いたが、まるでそれが面倒に感じたかのように、ため息を吐いて瞼を閉じた。

 そして、女の呼吸が止まった。

 

「そんなぁ……っ」

 

 少女が弱々しく呻く。

 少年は己の無力感に歯を食い縛っていた。

 ――しかし、次の変化はすぐに起こった。

 女の首に刻まれた傷が、いきなり燃え始めたのだ。

 驚き、悲鳴を上げる二人を尻目に、得体の知れない炎は傷全体を覆うように燃え上がり――そして、それが消えた時には傷も消えていた。痕さえ残っていない。

 傷が消えた女は、当たり前のように眼を開いた。

 

「……なんだ、まだいたのか?」

 

 獣に襲われた時よりも遥かに大きな衝撃を味わっていた少年と少女は、初めてその女の声を聞いた。

 思ったよりも、ずっと若い女の声だった。

 ボロボロの見た目と雰囲気では分かりづらいが、あるいはまだ少女と呼べるような年齢なのかもしれない。

 しかし、当然のように二人にはそんな事実にまで気が回らなかった。

 死人が生き返るという現象を前にして、抱き合うように震えるしかない。

 

「早く住んでいる場所へ帰れ」

 

 生き返った女の対応は、何処までも気だるげだった。

 濁った瞳は、つい先程命を懸けて助けた二人に向けていない。

 あるいは、先程の行動が単なる反射的なものでしかなかったのではないかと思えるほど、周囲に関心を抱いてはいなかった。

 立ち上がり、座っていた木の根元に腰を降ろすと、再びそのまま眼を瞑って黙り込んでしまった。

 放っておけば、そのまま飢えて朽ち果てるまでそこに座り続けているのかもしれない。

 しばらくの間、沈黙が流れた。

 死んでも生き返るような者が人間であるはずがない。

 すぐ傍には獣の死体が転がり、流れ出す血の臭いがいよいよ強くなり始めた。

 大人であっても、こんな場面に遭遇すれば逃げ帰るしかない状況だ。家に帰り、この時のことが悪い夢であったのだと自分に言い聞かせるくらいしか出来ない。

 やがて、少年と少女が動き出す気配を感じて、女は僅かに瞳を開いた。

 立ち去る二人の無事な姿を確認するつもりだった。

 

「あの……っ」

「……あ?」

 

 しかし、視界に映ったのは、こちらへ一歩近づいた二人の姿だった。

 二人して顔面蒼白になりながらも、じっと自分を見つめている。

 

「ありがとう……」

 

 どちらが先に言ったものか分からない言葉を受けて、やがて彼女は助けた礼を言われているのだとようやく理解した。

 

 

 

 

 迷いの竹林では、ここ数日の間で日課となった光景があった。

 朝、妹紅は匂いで目覚める。

 湯気に混ざった味噌の匂い。

 焼いた塩の匂い。

 ――ご飯の匂い。

 

「……朝か」

 

 眼を開き、誰にとも無く呟いた。

 少し前までは考えられない、贅沢な目覚ましを味わいながら寝床から起き上がる。

 これまで使っていた薄汚れた煎餅布団ではない。新調した寝心地の良い布団である。

 同じく新たに持ち込まれた水瓶で口をゆすぐと、妹紅は外へ出た。

 数日前から改築を進めているとはいえ、未だ住処はボロ屋のままである。一部屋限りの造りで、料理をする為の土間も無いのだ。

 料理はいつも外で行っていた。

 

「おはよう」

 

 家から顔を出せば、早朝にもかかわらず既に朝食の準備に取り掛かっている二人が見える。

 以前と比べると様々な部分が変わった朝の風景だが、一番の変化はこの二人がいることだな、と妹紅は思った。

 

「おはようございます、妹紅」

「おはよう、妹紅」

 

 慧音と先代が挨拶を返した。

 火を石で囲んだ簡易的なかまどを使い、魚を焼きながら、味噌汁を作っている。米は例のおにぎりである。

 二人の息も合ったもので、動きに支えが必要な先代を慧音が上手く補助していた。

 

 ――何度見ても、不思議な光景だな。

 

 平穏な朝を五感で感じながら、妹紅は苦笑を浮かべずにはいられなかった。

 偶然の出会いから先代と交流を持ち、ちょっとした切欠で再会の約束をした。

 当然のようにその約束が次の日に果たされ、何故かそこに慧音が加わり、いつの間にかこんな日常が始まっている。

 未だ戸惑いは抜けないが、それでも――悪くはない。むしろ、楽しい。

 

「おっはよーさーん。恵まれない子供に、幸運の素兎からお慈悲の時間だよ」

「……おはよう、てゐ」

 

 そんな日常の中へ、当たり前のようにてゐが加わった。

 妹紅は口元を引き攣らせながらも、大人しく挨拶を返す。

 今のところ、妹紅の生活環境改善に最も貢献しているのが彼女なのだった。

 食料や資材の補給を始め、何処で身に着けたものか家の改築まで、てゐが中心となって行っているのだ。

 何故彼女がここまで協力的なのかは未だに分からない。

 分からない、が。そのことに悩んでいる自分を見て楽しんでいるようなので、妹紅は悩むのをやめた。

 今日は調理器具を持って来たらしい。背負っていた風呂敷を広げると、金属音を立てて中身が転がり出る。

 

「……いつも思うけど、こんな物何処から調達してるの? このヤカンなんて見たこともないわ」

「んー? それほど元手は掛かっちゃいないよ。捨ててあったの拾って修理したり、磨いたり。そのヤカンは無縁塚で拾った奴かな。多分、外の世界のだよ」

 

 注ぎ口の部分に蓋がある奇妙な形のヤカンを、妹紅はしげしげと眺めていた。

 今、慧音が使っている包丁もてゐが調達してきた物だ。

 穴が空いていて不良品かと思ったが、これがきゅうりなどを切る時にくっつかなくて便利――らしい。何故か先代が説明してくれた。

 先代と慧音の二人の傍で妹紅が心ばかりの手伝いを行い、てゐが冷やかしをしている間に、最後の一人であるチルノがやって来る。

 

「お師匠! 慧音! 妹紅! 兎! おっはよー!」

「おはよう、チルノ」

「おはよう。元気がいいな」

「おはようさん。すっかりここまでの道を覚えたみたいね」

「っつか、あたしゃ未だに兎かい。名前覚えなよ、馬鹿」

「誰がバカよ!」

「こらこら、喧嘩するんじゃない。すぐ朝食にするぞ」

「はーい」

「へいへい……」

「てゐ。返事は『はい』だ。それと、一回で良い」

「……はい。あと、せんせー。あたしも一応あんたより年上なんだけど、妹紅が敬語で、何でこっちは子供に接するみたいな感じなの?」

「気にするな。単なる印象と職業柄の対応だ」

「あたしゃ悪ガキの生徒ってか。まー、否定しないけどー」

 

 かつては一人だった場所に、人妖入り乱れた五人が揃い、食卓を囲む。

 これが、最近の日常的な光景だった。

 

 

 

 

『――なるほど。事情は分かりました、明日から私も同行します』

 

 あの日、迷いの竹林から帰った私が慧音に事の次第を洗いざらい話した後の一言である。

 異論など挟めるはずもなかった。慧音マジ鶴の一声。

 

 永遠亭でのトラブルもあり、帰宅が随分遅くなってしまったせいもあるのだろうが、診療所に帰った私を出迎えた慧音は怒っていた。

 うん……何故に慧音が私の帰宅を待っているのかは、この際置いておこう。

 その後、遅くなった子供を叱るおかんの如きお説教を食らった身としては、もう疑問も抱けない。

 いい歳して『夜道は危ないから、早めに帰宅してください!』とか怒られる私って一体……。

 いや、慧音の年齢と比べれば全然不自然でもないんだけどね。

 とにかく、内緒で出掛けたのが裏目に出たのか、随分と心配させた慧音に言い訳している内に、向かった場所やそこで起こったことなどを全て話してしまっていた。

 そして、冒頭の台詞である。

 危ないからやめろ、と止められなかっただけ幸いか。

 まあ、妹紅が命の恩人だって話もしたし、私自身の気持ちも含めて説得したおかげかな。

 今更なのだが、意外なことにこの段階で慧音と妹紅は交流が無いらしい。

 つまり、私に同行して顔を合わせるのが初対面なのだ。

 二次設定の影響が強いにせよ、やはり妹紅の理解者として慧音のイメージが強い私としては、二人の邂逅的な意味でも再び迷いの竹林を訪れる約束は譲れなかった。

 

『そこまで徹底して存在を隠蔽したがる永遠亭とやら――少々不穏な気配を感じます。

 今の貴女では、絶対の安全など保証出来ません。可能な限り、私も協力しましょう』

 

 結局、寺子屋が休みの日など、慧音の都合が許す限り協力してくれることになった。

 外の世界とは違って義務教育ではなく、元々授業も不定期だから今のところ時間の余裕はあるらしいのだが、なんか慧音の時間を奪ってしまってるみたいで心苦しい。

 本人はむしろ進んで私の力になろうとしてくれてるから、遠慮はしない方が良いと分かってるんだけどね。

 どちらかというと私への心配で同行を申し出てくれた慧音だったが、妹紅との対面はとりあえず無難に行われた。

 まあ、付き合いが浅いせいと、妹紅の素性を知ったせいか、自然と言葉遣いが敬語になったのは仕方ない。

 もうちょっと気安い仲になって欲しいと個人的には思うけどね。

 その辺は、今後の付き合いの中でおばちゃんがいろいろ取り持ったろ。なっ、この人ええ人やろぉ?

 そんな感じに、当初の目的を忘れかける私。

 もう完全にお見合いを勧める親戚のおばさんばりのノリである。

 とりあえず、こういった流れで『私が妹紅を鍛える』という話は、新たに慧音を加え、チルノと、あと何故かてゐも付き合ってくれるらしく、この五人が集まって始まったのだった。

 

 ――さて、それではいよいよ本題に入ろう。ハクレイ・ブート・キャンプの始まりである!

 

 よしっ、まずはトレーニングの前に重要なことから始めようか。

 

「食うんだ」

 

 修行初日。つまり、慧音が妹紅と初対面の挨拶をして、話がひと段落ついたお昼時である。

 私は持参したお弁当を広げて、妹紅に問答無用で促した。

 

「……これ、全部?」

「そうだ」

「いや、美味しそうだけど……こんなに?」

「食うんだ」

 

 私の返答は烈海王並の一点張りだった。

 並べられた料理は、どれも私が朝早くからせっせと作った品々である。

 チルノ達と一緒に食べる分もあるが、それでも相当な量だった。

 フフフ、久しぶりに腕を振るったぜ。

 

「やったー! お師匠の料理だー!」

「先代の手料理ですか……久しぶりかも」

「いやぁ、悪いね。あたしまで与っちゃって。お、美味いね」

 

 戸惑う妹紅の一方で、他の三人は嬉々として食事を始めていた。

 さあ、たんとお食べなさい。

 いいのよ? 遠慮しなくていいのよ?

 料理好きってほどではないのだが、親しい人に食べて喜んでもらうのは大好きな私である。

 最近自覚した世話好きな自分にビックリ。歳食ったせいかな? 昔はこんなじゃなかったと思うけど。

 

「妹紅も、食べるといい」

「ああ、うん。そりゃあ、ありがたく頂くけどさ。……稽古つけてもらうはずなのに、なんで食事まで世話してもらってるんだろう?」

 

 妹紅は苦笑しながら、料理に箸をつけ始めた。

 ……ふむ、味の方は良好な様子。

 丁度いいので、食事を挟みながら私は今回のトレーニング計画を皆に話すことにした。

 

「稽古の話だが、まずは基礎体力をつけることが必要だ」

「体力をつける?」

「そうだ。妹紅、君ははっきり言って貧弱だ」

「ぐ……っ!」

「ぶふっ!」

「てゐ、笑うな!」

 

 うん、ちょっとハッキリ言い過ぎたかも。

 ごめんね、オブラートに包んだ言い方出来なくて。私、言語機能が少々ガタついてるの。

 ただ、私の告げた内容は紛れも無く事実だった。

 歳を取らない蓬莱人の特性故か、妹紅は若い。

 ……というか、若すぎるのである。

 おそらく蓬莱の薬を飲んだ当時の年齢のまま固定されているせいなのだろうが、幼さを残した体格のまま成長が止まっている。

 これは単純な身体能力の面でも不利な状態である。

 実年齢が幾らであろうが、身体的に小柄な少女のままである妹紅は体力が標準以下なのだった。

 生来の体格や、女性であることも影響している。私みたいに長身な方が珍しいんだからね。

 これが、何か不思議な蓬莱パワーとかで体格に左右されない力を発揮出来るならよかったのだが、先日組み伏せた時の抵抗を顧みる限り、外見通りの筋力しかないようだ。

 逆に、勝負相手である輝夜の方は天井投げられるほど力があるんだよね。

 天井投げるってどんな馬力だよ。

 

「何らかの術で炎を扱えるようだが、その技能を抜きにすれば、妹紅の戦闘力は一気に低下する」

「……まあ、確かに。この力が便利すぎて、普通の戦い方なんて知らないわね」

 

 手のひらに火を灯しながら、妹紅が神妙に頷いた。

 意外でも何でもないんだけど、原作ゲームでEXボスだからといって、戦闘力が高いと保証されたわけじゃないよね。不死身なだけで、妹紅は人間だし。

 ちなみに『妹紅貧弱説』は、その原作の考察でも予想されてたわけだが。主に、リザレクションしまくる打たれ弱さのせいで。

 とにかく、稽古云々以前の問題として、まずは妹紅に人並み以上の体力をつけてもらう必要があった。

 よって――まず食え! そして動け! 結果起こる超回復ッッ!!

 私としては、そういった流れを想定しているのである。

『飯食って体動かせ』とか、ただ単に健康的な生活してるだけだが、妹紅の場合その基準にすら届いてなかったからね。

 

「でも、体力作りっていうのは意味がないかも……」

 

 妹紅が申し訳なさそうな表情で呟いた。

 何か事情があるらしい――が、問題ない。妹紅の懸念は大体予想がついている。

 

「一度、蘇生するごとに状態がリセットされるからか?」

「――っ!? ど、どうしてそれを……!」

 

 私の指摘に、妹紅は眼を見開いて驚いた。

 どうやら図星のようである。

 こういう時、前世の知識はありがたい。

 蘇生能力という奴は、意外と多くの漫画などで扱われているが、同じ蘇生現象でもどういった作用が働いてそれが起こってるのかで色々と体への影響が変わってくる。

 例えば、異常な再生力で結果的に不死身となっているのなら、それは生命活動の延長上にある能力である。単純に体を鍛えれば効果は出るだろう。

 しかし、蓬莱人の場合は魂を起点とした蘇生を行うのだ。

 死亡した肉体は抜け殻となってすぐに消滅する。つまり、蘇生の度に妹紅は新しい肉体を得ることになるのだ。

 リセットというのは、この時以前の肉体が刻んだ鍛錬の成果もまた同時に失われてしまうことを意味するのである。

 確定ではなく予想だったが、妹紅の反応を見る限り、この考察は当たっていたらしい。

 

「……本当、あんたは底が知れなさすぎて怖くなるよ。

 けど、分かってるなら話は早い。どれだけ体を鍛えようが、一度死ねば全部台無しだ。以前の貧弱な私に逆戻りってわけ。単純な体力作りなんて無意味なのよ」

「では、妹紅。貴女はどのような稽古を先代に望んだのですか?」

 

 慧音が横から疑問を挟んだ。

 

「記憶なら引き継げるからね、技の一つや二つでも習おうかと思ったのよ。やり方さえ教えてもらえば、後は適当に……」

 

 はっはっはっ、『コツだけ教えてくれ』とか典型的な堕落の発想だな。

 あと、不死身だからって自分が死ぬのを踏まえて考えるとか、まずその前提が許せん。

 その軟弱な思考に、アイアンクロー!

 

「ぁい!? 痛だだだだだだっ!!」

「妹紅、修行を舐めるな」

 

 私は笑顔で指に力を入れた。怒りも込められている。

 妹紅……体を鍛える時はな、言い訳をせず、愚直に……なんていうか、救われてなきゃあ駄目なんだ。

 

「駄目だなー、妹紅は。あたいが、いいことを教えてあげるよ」

 

 アイアンクローから開放されて涙目な妹紅に、チルノが胸を張って言った。

 

「努力する者が、必ず報われるとは限らない。しかし、成功した者は皆すべからく努力している!」

 

 チルノの口から飛び出した、彼女らしからぬ信念の言葉に、その場の全員が一様に驚いていた。

 私も驚いていた。

 なんて……なんてカッコいい台詞なんだっ!

 何度聞いても良い。誰から聞いても良い。俺によし、お前によし、の名台詞である。さすが会長。

 私も修行時代の気持ちが蘇ってくるようだ。

 

「これは、あたいがお師匠に教えてもらった言葉よ」

「先代……さすがです。真理を突いたお言葉、感動しました! 今度、寺子屋で生徒達にも教えようと思います!」

「へー、いいこと言うねぇ。今のはあたしもちょっとドキッとしちゃったよ」

 

 慧音の尊敬の念が溢れ出しそうな輝く瞳と、てゐの感服するような笑みが向けられて、実際心苦しい。

 いや、違うんすよ……私も君達と全く同じ感動を感じてたんですよ。

 毎度のことながら、本当のことを言えず、私は二人の視線に耐えながら黙るしかなかった。

 そして妹紅は、この台詞を噛み締めるように、自分自身でもう一度呟いていた。

 

「……努力、か」

 

 その何気ない一言に、どんな感情が込められているかは分からない。

 人によっては陳腐に感じるかもしれない理論だ。

 しかし、これを信じれる者こそ――。

 

「あしたのために」

「えっ?」

 

 私は自然と、もう一つのボクシング漫画の名言を口にしていた。

 これも素晴らしい言葉だ。

 っていうか、私も修行の初期では具体的にどんなことをすればいいのか分からず、この後に続くジャブの練習方法で拳を磨いていたものだ。

 

「あしたのために、だ。妹紅」

「明日の……為に」

 

 でも、灰になるまで燃え尽きちゃ駄目だからね。

 妹紅の場合、この表現が比喩にならないから困る。

 

「――分かった。私も、頑張ってみるよ。修行、お願いします」

 

 決意を固めた妹紅に対して、私もまた力強く頷いて返したのだった。

 フフフ、自分以外に修行を課すなんて霊夢以来だ。

 その霊夢に関しても、内容は紫任せだから、私自身の指導はほとんど初めてと言っていい。

 もちろん、かつて私が実践したものは上級者向けっていうか馬鹿向けだ。

 しかし、力と技の数だけ修行がある!

 単純な体力作りだって、やり方は幾らでもあるのだ。

 ゆで理論並の理不尽な根拠による修行から、科学的根拠のあるトレーニングまで。初心者の妹紅には後者をやってもらう。

 かつて脳内で私を導いてくれたコーチ達の立場に、私が立つ――やべ、テンション上がってきた。

 よーし、ついて来い妹紅!

 ここから先は脳内BGM『Eye Of The Tiger』でいくぞ――!

 

 

 

 

「オラオラ、走れ走れぃ」

「ぐぅ……っ! て、てゐ……おまっ、後で覚えて……ろ!」

「はーい、こっち気にする余裕あるみたいねー。もう一周追加ねー」

 

 てゐの宣告に、妹紅は内心青褪めた。

 逆に顔は上気して赤くなっている。ずっと走り通しだからだ。

 体力作りの初歩として、先代はまずランニングを命じていた。

 

「っつーか、妹紅さぁ。この程度で息あがってるとか。もう駄目だわ、体力なさすぎ」

「……っ!」

「あれだね、見た目だけ若くて中身は老人だよ。

 これまでの不摂生が祟りまくってるし、日常的にしてる運動っていったら思いついた時に竹林歩くだけだし。そりゃ姫にも勝てんわ。教養でも負けてんでしょ?」

「……っ!!」

「長年健康に気を遣ってきたあたしから言わせてもらうとさぁ……終わってるよ、もこたんの身体。

 そうだね、不老不死なんだから健康とかどうでもいいよね。あ、適当に流して走っていいよ? 辛そうな演技さえすれば、騙されてあげるから」

「……っうるせぇぇぇ!! もこたん言うな!」

「はーい、まだまだ体力残ってるねー。もう一周ねー」

 

 限界まで走らせる為にあえて煽るてゐだが、どう見てもそれを楽しんでいる様子だった。

 当然、妹紅も気付いているが、前を走るてゐは余裕の表情で、必死に追い縋っても全く距離が縮まらない。

 怒りと悔しさを燃料に、歯を食い縛りながら走る。

 しかし、悲しいかな地力の差は早々埋まらない。

 結局そのまま、妹紅が力尽きて倒れ込むまでランニングは続いたのだった。

 

 

 

「痛たたただだ……っ!!」

「堪えろ」

「死んじゃう! 死んじゃうってば!」

「安心しろ、これで死ぬ奴はいない。多分」

「た、多分……ってぇぇぇええ!? い、痛いよぉっ!」

 

 涙目になって悲鳴を上げる妹紅に対して、いっそ無慈悲とも思えるほど先代は背を押す力を緩めなかった。

 座った状態で限界まで開脚する『股割り』である。

 

「そんなに痛いかなぁ? あたい、簡単に出来るよ」

「個人差があるというからな。私もチルノやてゐのようには無理だ」

「それにしたって、妹紅は関節固すぎじゃないかな。もういっそ、一気にやったら?」

「それでは靭帯を損傷してしまう」

 

 喚く妹紅の周りでは、各々が真似をするように座り込んで開脚をしていた。

 慧音はほぼ完全に左右に足が開いている。

 そして、それ以上に足が開ききり、尚且つ胸と顎が地面につく状態にまでいっているのがチルノとてゐだった。

 比較して、妹紅のそれは錆びついた音が聞こえてきそうなほど柔軟さが足りていない。

 

「関節の柔らかさは、怪我を防ぐ上でも重要だ。柔軟であるほど良い」

「こ、これで怪我しちゃうよ! 一気にやっちゃ駄目なんでしょ!?」

「大丈夫だ、限界は私が見極める。痛いのは最初だけだ」

「ひぎぃ!?」

 

 普段通りの鉄面皮のせいもあるのだが、淡々と体重を掛ける先代に対して、妹紅は真剣に恐怖を抱いた。

 ちなみに、不自由が無かった頃の先代は、両足を左右の段差に引っ掛け、地面に接地していない状態で開脚していたと慧音が語っている。

 予想以上に体の固い妹紅の為に、この運動は段階を踏んで行われた。

 その為、しばらくは竹林の中から少女の悲鳴が絶えることはなかったという。

 

「――ところで、声だけ聞いてるとエロくね?」

「エロいって何?」

「てゐ、チルノに妙な話を振るな」

 

 慧音の頭突きを受けて、てゐは笑いながら舌を出した。

 そんな平和な三人のやりとりを、妹紅が涙目で睨んでいた。

 

 

 

「ね……ねえ、まだ必要なの? もう、薪は十分あると、思うん、だけど……っ」

 

 息を荒げながら妹紅は傍らの先代に尋ねた。

 既に山のような薪が背後には積まれている。

 妹紅が斧で割った薪を、先代がその様子を見守りながら丁寧に荒縄で縛って纏めていた。

 

「ご飯、何合炊くつもり、だってのよ……?」

 

 当初は、これまでの苛烈なトレーニングと比べて、単なる薪割りと高を括っていた妹紅だったが、今や既に疲労困憊の状態である。

 息も切れ切れに、懇願するような視線を向ける。

 

「っていうか、これだけあるならしばらくは薪いらない――」

「これは今日一日分だ。風呂を沸かすのに使って、残りは人里で売る」

 

 あっさりと返ってきた返答に、妹紅は絶句した。

 風呂というのは、無縁塚から取ってきた金属製の円筒――先代が言うには『ドラム缶』――のことだろうか? 今、慧音達が水をせっせと溜めている。

 いや、本当はそんなことはどうでもよかった。

 妹紅にとって気になるのは、まだこの薪割りが続き、しかも明日もやるということだった。

 

「いやぁ、それにしても先代の修行って実用性高いよね」

 

 妹紅がしごかれる様を見るのがすっかり娯楽になってしまったてゐが、何気なく呟いた。

 チルノはもちろん、先代の行うことに一切疑問を持たない慧音も『そうなのか?』と首を傾げる。

 

「薪割りって生活に必要な仕事だけど、全身の筋肉を使うから、自然と体が鍛えられちゃうのよ。

 特に背筋が鍛えられるから、腕力の底上げにも繋がる。殴る時の拳の威力も上がるんじゃないかな」

「なるほど。ただ漠然と体を鍛えるわけではなく、当初の目的である『勝負に勝つ為の稽古』にしっかりと繋がっているわけだな。さすが、先代だ」

「慧音ってばそればっかりだねー。ま、確かにさすがって感じだけど。

 昔から何代も続いてる巫女っていうから、もっと古風なやり方するのかと思ったけど、ビックリするくらい理詰めじゃない」

「とにかく、お師匠はサイキョーってことね?」

「……あー、うん。あんたら、先代に関してはレベル同じだわ」

 

 てゐは呆れたようにため息を吐いた。

 

 

 

「――で、今日の修行はこれを捕まえること?」

「そうだ」

 

 先代が頷き、妹紅が指差す籠の蓋に手を掛けた。

 中からは騒がしい鳴き声が聞こえる。

 鶏の声だった。

 

「なんていうか……ちょっと簡単過ぎない?」

「そう思うなら、やってみるといい」

 

 先代が片手で器用に一匹の鶏を取り出す。

 掴む部分にコツがあるのか、籠の中での騒ぎようからは打って変わって大人しい。

 これを捕まえるなど、やはり簡単な話ではないか――。

 妹紅は拍子抜けしながらも、先代が鶏を地面に下ろすのを見計らって、腰を落とした。

 

「あ……っ!?」

 

 本当に『あっ』と言う間だった。

 伸ばした手を逃れるように、鶏が走り出す。

 

「このっ、待て!」

 

 慌てて妹紅がそれを追いかけるが、捕まえることはもちろん、思うように追いつくことさえ出来ない。

 徐々に必死になり始めた妹紅は、自分が捕まえられない理由にまで頭が回らなかった。

 

「上手いね」

 

 鶏が遠くへ逃げないように周囲を囲んだ手製の柵にもたれながら、てゐが笑った。

 

「へたくそだと思うけど」

「妹紅じゃないよ。この修行の内容」

 

 疑問を浮かべるチルノの一方で、慧音が納得するように頷いていた。

 

「妹紅が鶏を捕まえられないのは、自然と中腰の体勢になっているからだな」

「その通り。低い位置を走る鶏を捕まえる為に、知らずに腰を落としてる。

 あんな体勢じゃ速く動けないし、足腰にも負担が掛かる。ま、それが目的の修行みたいだけどねー」

「放し飼いしている鶏を選んで買ってきたのも、その為か」

「ホント、よく次から次へと思いつくよね。しかも、年季入ってる。

 本当に先代って、他に誰かを鍛えたことって無いの? 今の博麗の巫女って、娘なんでしょ?」

「霊夢に関しては、主に代々伝わる博麗の術を教えていたらしい。あの人自身の武術は、ほとんど伝えられていない」

「ふーん。意外と、人に物を教える才能もあるのかもね」

「教える才能……か」

「寺子屋を道場にでもする気?」

「ま……まだ何も言ってないだろう!」

 

 狼狽する慧音を片手間であしらいながら、決死の飛び掛かりが外れ地面に激突する妹紅を、てゐは眺めて楽しんでいた。

 

 

 

「うあー、きもちいー」

「すげえアホ面」

「うるさいー、なんとでもいえー」

 

 脱力の極みにある妹紅の反応を、てゐは苦笑しながら見ていた。

 その日の修行が終わり、風呂で汗を流して、慧音が夕食の準備を始めている間に先代が妹紅の体にマッサージを施す。

 ここまでが一日の流れだった。

 普段は診療所で振るっている技術を使い、次の日に疲労が残らないよう、入念に筋肉をほぐしていく。

 妹紅はこの時間が一番好きだった。

 厳しい修行の締めとして、一日の苦労が報われるほどの安らぎを感じるのだ。

 

「気持ちよさそう……いいなぁ、あたいもやって欲しい」

「チルノは疲れが溜まっていないからな。整骨もやる意味はないだろう」

「ちぇっ。あたいも妹紅と同じ修行しようかな?」

「妖精って体鍛えられるの?」

 

 先代が指圧を行っている傍らで、チルノとてゐが他愛も無いやりとりを交わしている。

 眠気にも似た、半ば夢見心地の中で、妹紅は周囲の穏やかな騒がしさを聞いていた。

 強張っていた体から、疲労と共に余計な力が抜けていく。

 周囲には、自分以外の誰かがいる雑多な音。

 居心地が良い。

 ここは、本当に自分の家なのか?

 少し前まで、想像もしなかった生活がここにあり、自分はそれを味わっている。

 

「――先代、妹紅。夕食の準備が出来ました。そろそろ切り上げてください」

「わーいっ、ご飯だ!」

「今日のおかずって、修行で使ってた鶏絞めた奴だよね。これも狩りの一種かしら?」

「よし、終わりだ。食事にしよう、妹紅」

 

 チルノを先頭として、全員が外へ出ていく。

 天気の良い日は、外で火を囲みながら食事をする。

 天気の悪い日は、少々手狭な家の中で、肩を寄せ合いながら食事をする。

 妹紅は、そのどちらも気に入っていた。

 

「――うん、今行くよ」

 

 先代の呼びかけに応える。

 ただそれだけのやりとりなのに、暖かなものが心の中に生まれる。

 それはずっと昔に味わったことがあるような、最近まで忘れていた何かの感覚だった。

 その何かが具体的にどんなものなのかまでは、まだ思い出せない。

 しかし、この生活を続けていれば、いずれ――。

 食後の休息を終えると、談笑が自然なところで切り上げられ、別れの時が近づく。

 てゐは永遠亭へ。

 チルノは霧の湖へ。

 慧音が先代に付き添い、人里へと帰っていく。

 最後に全員が交わすのは、当たり前のように『また明日』の挨拶である。

 一人になった妹紅は、先代から教わった柔軟体操をしてから床に入る。

 疲れからか、眠気はすぐに訪れ、ぐっすりと眠る――そして、彼女達と再会する明日がやって来るのだ。

 

 

 

 人の踏み込まぬ迷いの竹林の中では、日常となった光景があった。

 もし、何も知らない者がそれを見たら何と思うだろう。

 あるいは、彼女達の事情を知った時、予想外の答えに驚くかもしれない。

 

 ――苦痛と疲労を乗り越えて、自らを鍛えている。

 ――目標を打ち負かす為に、歯を食い縛って耐えている。

 

 そんな修練を行う光景でありながら、誰もがそんな悲壮さや痛々しさを感じない。

 少なくとも、その光景の中心にいる妹紅は汗を流し、息を乱し、そして健やかに笑っていた。

 朝の始まりと共に挨拶を交わし、食卓を囲み、激励と叱責を受けながら走り、笑い合い、再会を約束して分かれる。

 

 その光景は、間違いなく人生という日々を生き抜く――明日に向かう人間の日常だった。

 

 

 

 

 人里には上白沢慧音が個人で運営する寺子屋がある。

 一人で掛け持ちをするので、生徒の数は少ない。

 全員が貧しい家の出身であった。中には捨て子だった者もおり、寺子屋の一部は彼らの宿舎としても使われていた。

 幻想郷の文明が外の世界と比べて古いものとはいっても、実務教育の重要さは定着している。

 裕福な者達は、自分の子供に各々の家で必要な事を学ばせていた。

 そういった余裕のない貧しい者達に、慧音は修学の場を提供しているのである。

 しかしその為、当然のように学費を納められない者が大半だった。

 寺子屋の運営にも資金が必要である。

 その資金を提供し、いわゆる『スポンサー』となっているのが――霧雨屋であった。

 

「――慧音、いるか?」

 

 朝早く、霧雨は寺子屋を訪れていた。

 生徒達はまだ訪れていない。住み込みの子供達もまだ寝ている時間である。

 しかし、慧音は既に身支度を整えていた。

 

「これは、霧雨の御主人。おはようございます」

「おう。悪いな、朝早くに」

「いえ、お気遣いなく。どうぞ、上がって下さい。粗茶ぐらいしか出せませんが」

 

 慧音は早朝の訪問にも快く対応した。

 それは決して、霧雨が寺子屋の出資者だからという理由だけではない。

 彼個人の人柄に好感を持つが故である。

 加えて、二人の交友はこの寺子屋が作られた時からずっと続いていた。

 

「今日は、どういったご用のおもむきで?」

「ああ、うむ。まあ……そうだな」

 

 湯飲みに口をつけながら、霧雨は切り出しの言葉を探すように口ごもった。

 慧音にとっては、意外に感じる様子である。

 衰えたとはいえ、昔から豪胆で単純明快さを好む御仁だった。

 何かを躊躇う様子など、余り見たことがない。

 

「……先代のことですか?」

 

 慧音は心当たりがある点を、思い切って口にした。

 霧雨が口に含んでいたお茶で軽くむせる。

 

「ま、まあ、それよ」

「なるほど。最近の遠出のことですか」

 

 歳を経て老練となった外見には似合わない慌てぶりを見て、慧音は苦笑を堪えていた。

 

「以前から外出の頻度が多かったが、最近はそれに加えて帰りが遅い。しかも、人里から出て、向かった先は迷いの竹林だって話まで聞くじゃねえか。それで……気になってな」

「お気持ちは分かります。

 私も不安に思い、先代から事情を聞き出して、時折それに同行するようになりました」

「うむ……まあ、お前さんが付き添っているという話も聞いたからな。安全面に関しちゃ心配してねえよ」

「先代が出掛ける理由に関しましては――私よりも、先代本人に尋ねられた方が良いのでは? 今なら、診療所にいるはずです」

「そうか。今日も、行くつもりなのか?」

「ええ、私も同行します」

 

 慧音に促されながらも、霧雨は曖昧に頷くだけだった。今の答えだけで自分を納得させようとしているようだ。

 やはり、普段の彼を知る者にとっては違和感のある態度だった。

 先代に直接問うことをせず、慧音に対しても煮え切らない応答ばかりだ。

 本来の彼は竹を割ったような明快な性格である。

 気になったことは本人に直接問い、納得がいけば笑って軽口を返し、いかなければ怒鳴って問い質す――少々捻くれた男だった。

 それを面倒に思う者も多いが、慧音にとってはそんな不器用な部分こそがこの男の美徳だと感じている。

 少なくとも、彼と先代の付き合いはそれが許されるだけの親しさと長さがあったはずだ。

 慧音には、彼が今更何故二の足を踏むのか分からなかった。

 

「……先日な、その先代が俺の所へ来たんだよ」

 

 慧音の言葉にし辛い疑念を感じ取り、霧雨の方から切り出した。

 不器用ではあるが決して鈍い男ではない。相手の機微を読み取ることが出来る洞察力があった。それが商人として成功した理由の一つでもある。

 

「以前、留守だった時に送った菓子の礼と詫びに来たらしい。律儀な奴だ」

「先代は出来た御方です」

「肝心なところで鈍いくせにな。久しぶりに顔を合わせたが、昔と変わらねえ。本当に、昔のまま色褪せない……美しいままだった」

 

 霧雨の最後の『美しい』という言葉に込められた想いは、真に迫っていた。

 その言葉に、慧音は言い知れぬ不安を覚えた。

 同じ好感を持つ人物に対する評価は嬉しい。

 しかし、今のは目の前の男から聞いても良い言葉なのだろうか――?

 

「あの……御主人、もしや――」

「俺はな、若い頃あいつに惚れてたんだよ」

 

 努めて軽く口にしていたが、そこに込められた本気を感じ取って、慧音は言葉が詰まった。

 

「いや、今でも……どうかな? 分からん」

「あのっ、それは……!」

「ははっ、分かってる。安心しろ、妙なことを考えちゃいねえよ」

 

 酷く気まずそうな慧音の様子から内心を察して、霧雨は笑い飛ばした。

 彼女の懸念する内容は十分に分かっていた。

 昔と今は違う。

 霧雨は今や大商店の主人である。もちろん、ずっと以前に結婚もしている。

 勘当してしまったが、血の繋がった娘がいて、しかも彼女は先代やその娘と交友があるのだ。人里にも時折訪れる。

 誰もが会おうと思えば会える位置におり、言葉を交わせる距離にいるのだ。

 霧雨の告白は、それら全ての人間の関係を変えてしまうほどの意味を持っていた。

 

「……失礼ですが、奥方を亡くされて何年経ちましたでしょうか?」

 

 腫れ物に触れるように、慧音は細心の注意を払って質問した。

 霧雨の妻は若くして病死している。

 本当に若かった。当時、既に齢四十に手が届こうとしていた霧雨とは歳の差のある結婚だった。

 何故、霧雨がその歳まで妻を迎えなかったのか当時の周囲には謎だったが――そうなのか? つまり、そういうことなのか?

 慧音は自身の悪い予想を止められなかった。

 

「下世話なこと考えんなよ? 俺は女房を愛していたから結婚したし、今でも愛している」

 

 霧雨は睨みつけるように見返すと、ハッキリと断言した。

 その反応に慧音は驚いていた。

 大抵の男は自分の気持ちを言葉にするのが苦手だ。とりわけそれが、自分の妻に対するものである場合は。

 彼の不器用な真っ直ぐさは、こういった時に良い面として表れる。

 慧音は素直に安堵した。

 

「お前が不安に思っていることは分かる。

 だがな、絶対にそんなことは起こらない。そんな恥知らずな真似をするくらいなら、その前に頭を丸めて出家でもしてやらぁ」

「……しかし、今でも先代に対して思うところはある、と」

 

 慧音はもはや恐れず、ハッキリと疑念を言葉にした。

 答えが返ってくるのに、少しの時間が必要だった。

 

「最後に見た三年前と同じ――あいつは俺の記憶にあるまま、若く美しい姿だった。

 だが、不自由な足を杖で支えた姿だった。長い付き合いだが、あんな姿は初めて見たよ。あいつも人間なんだと実感した」

 

 先代の変わらない姿が、彼女自身の鍛錬の成果によるものだと、もちろん知っている。

 現役時代の彼女は、毎日のように傷を負い、血を流し、そして何事も無いかのように前へ前へと突き進んでいた。

 

「俺は、いつもあいつを眩しいものとして見ていた」

 

 実力や立場という意味だけではなく、何処か人間の領域を超越した存在のように捉えていた。

 かつての自分に恋慕があったことは自覚しているが、同時にそれが尊敬や憧れから来るものであり、決して叶わないと無意識に信じてもいたのだ。

 

「俺はあいつよりも先に死ぬ、と。昔は何の疑問も持たずに信じきっていた。

 だから、期待を抱くと共に何処か諦めもあった。あいつは、俺のような普通の人間とは違う。もっと、何かに選ばれた特別な道を行く人間だ、ってな」

 

 自分の言葉に、霧雨は苦笑を浮かべた。

 

「だが先日、直接あいつに会って、その時の俺は無意識にこんなことを考えていたよ。

 ――そんな足じゃあ、診療所を運営するどころか、一人で暮らすことにも不便が出るだろう。だから俺の所へ客として転がり込めば良い。

 そして、残りの人生をゆっくり過ごせ。それくらい俺が世話してやる。昔の馴染みだ。巫女としての功績もある。誰も不自然に思わないし、文句も言わねぇさ――」

「……その話は、そのまま捉えなくて宜しいんですね?」

「ああ、気の迷いだ。実際には何も言わなかったし、これからも言い出すつもりはない。あいつも迷惑なだけだろう。

 しかし、思ったことは事実なんだ。例え動揺して無意識に考えたことにせよ、俺はあいつに対して今更昔の感情を思い出しちまった」

 

 あいつと顔を合わせ辛い理由はそれさ、と。おかしそうに笑おうとしたが、慧音が見る限りそれは失敗していた。

 霧雨の顔には自嘲とも後悔ともつかない、苦々しい笑みが浮かんでいる。

 

「……人間ってのは、歳を食うごとに弱くなっていくもんだな」

 

 霧雨は、己の実感を疲れたため息と共に吐き出した。

 

「女房への想いは変わらないんだ。それを裏切るくらいならくたばった方がマシだ。

 それなのに、そんな決意とは別の所で違う想いが湧いてくる。それを当たり前のように押さえ込む内に疑問も生まれる。『俺は本当に裏切っていないのか?』――それを切欠に、また心が揺らぐ」

「半獣である私ではハッキリと言えませんが、それもまた人として生きる故かと」

「かもしれねぇな……。常々思うが、人間と妖怪の一番の違いはその死生観じゃあねえか。

 歳を経るごとに、自らの衰えを実感する時が多くなる。一人で歩くことが辛いと思う度に、誰かに縋りつきたいほどの不安を感じるんだ。

 人生という道端で、ただ一人力尽きて倒れたまま動けなくなっていくことが、堪らなく怖くなる。

 そんな時に、それでもなお自分の足だけで歩こうと思えるのが、あの先代だ。だが、大抵の人間はそこまで強く在り続けることは出来ない」

 

 慧音には、霧雨の語る内容が痛いほど理解出来た。

 春雪異変の時に自らの犯した過ちが、脳裏に蘇っている。

 

「俺と、先代と、霖之助――昔、三人でつるんでいた時は、こんな時間がずっと続けばいいと思っていた。

 だが、月日ってのは無情なほど移り変わっていくんだな。歳を経て、体と一緒に心も老いていく。決意は衰え、意志は弱くなっていく。まったく、ままならねえ」

「……」

「人間ってのは、本当ままならねえもんさ……」

 

 

 

 

 ――あれから十年。

 

 

 妹紅が二人の子供と出会って、それだけの時間が経っていた。

 あの日子供だった二人は、少年から逞しい青年へ、少女から美しい女へと成長していた。

 その成長を、妹紅は今日まで間近で見守り続けていた。

 

「何、それは本当か!?」

 

 そんな二人から告げられた内容に、妹紅は驚くと同時に心の底から喜んだ。

 

「はい。俺達、結婚することにしました」

 

 青年の顔は赤くなっている。

 子供の頃と同じように、傍らに付き添う女の顔はそれ以上に赤い。

 しかし、二人とも笑顔だった。

 妹紅まで浮かぶ笑みを止められなかった。

 

「そうかぁ……いや、それは本当にめでたいわね」

 

 妹紅の本心からの祝福だった。

 二人と出会ってから十年。子供だった二人は妹紅と並んでも同年代にしか見えないほど成長した。夫婦となるのに不自然ではない年齢である。

 客観的に見ても、それは幸福な結婚だった。

 親などに強要されたわけではない、二人とも互いに想い合った上での結婚である。

 小さな村だったが、その中でも二人の家はお互いに比較的裕福であり、それでいて名家というほど堅苦しくはない。

 日々不自由なく暮らし、穏やかに過ごせる、恵まれた環境だった。

 ただ、唯一の気がかりは女の体が弱いことだが――。

 

「これまで以上に、二人で支え合わなきゃ駄目よ?」

「はい。こいつは、これからもずっと俺が守りますよ」

「わ、私も……頑張りますっ」

 

 十年間ずっと二人を見守っていた妹紅には、それが要らぬ心配だと分かっていた。

 子供の頃のまま、少年は少女を守り、少女は少年を支えている。夫婦となっても、それは変わらないだろう。

 妹紅は月日の流れをしみじみと感じていた。

 

「それで、婚姻の式なんですけど……」

「うん? ああ、気にしないで」

 

 途端に苦々しい表情となった二人に対して、妹紅は努めて気楽に笑ってみせた。

 

「私が顔を出すわけにはいかないでしょう。折角の祝いの場が白けちゃう」

 

 何処からともなくこの地へ迷い込んだ妹紅が、二人と出会って十年。

 二人にとって、昔の姿のまま歳を取らない妹紅は、命の恩人であり、頼りになる姉であり、今や同じ目線になった友人でもあった。

 しかし、他の村人にとっては違う。

 得体が知れず、十年経っても歳を取らない彼女がまともな人間として見られるはずもなかった。

 明確な拒絶や排斥は行われていない。

 だがそれは、妹紅自身が自らの立場を弁えて、二人以外の人間に積極的に関わらずにいたからでもあった。

 村には妹紅の存在は知られている。しかし、決して受け入れられてはいないのだ。

 

「すんません。せめて、報告は一番にしたくて」

「一番祝って欲しいのは、妹紅さんなのに……」

 

 二人の気遣いが、妹紅には何よりも嬉しかった。

 だからこそ、気に病んで欲しくない。

 自分が祝福するように、二人の周囲の人間にも素直に祝福して欲しい。

 それが何よりも嬉しいことなのだと思っていた。

 

「いいさ。私は人気の無くなった夜中にでも、こっそり顔を出させてもらうよ。……いや、待てよ?」

「え、どうしました?」

「……あー、ごめん。よく考えたら、式の後の夜とか無粋だよね。こりゃ失敬。気が回らなかったわ」

「――っ! も、妹紅さん!」

「え……あ、ああっ! そういうことか……って、ちょっと! 何言ってるんですか!?」

 

 下世話な配慮をわざと口にした妹紅に対して、顔を真っ赤にしながら二人が食って掛かる。

 じゃれ合うようなやりとりを交わしながら、妹紅は自らも幸せを噛み締めていた。

 今の彼女にとって、時の流れは何処までも優しく、暖かかった。

 

 

 ――あれから二十年。

 

 

「すみません、妹紅さん。コソコソとした真似をさせて……」

「気にしないでよ。無理に見舞いに来た私が悪いんだからさ」

 

 横になった女に、妹紅は優しく笑いかけた。

 体の弱い女は、風邪で体調を崩して寝込んでいた。

 両親も高齢である。十分な看病は出来ないだろうと心配になり、妹紅がこっそりと家までやって来たのだった。

 

「私がこんなだから、あの人にも苦労を掛けっぱなしで」

「それを、あいつが辛いと一言でも言ったかい? 私だって、何一つ苦には感じちゃいないよ」

 

 女の夫である青年は、薬を買いに人里まで出掛けていた。

 小さな村である。体の弱い女房の為に、彼は度々遠出をして薬を買いに行っていたのだ。

 家を出る時と帰ってきた時。青年は必ず笑顔だった。

 

「……覚えてる? 私とあんた達が初めて会った日を。

 得体の知れない私を前にして、あんたを庇いながら、私に対しても気を掛けてくれた。そういう良い漢なんだよ、あんたの夫は」

「はい……」

 

 妹紅の言葉に、女は躊躇いがちに頷いた。

 

「どうしたの?」

 

 その瞳に涙が溜まっていることに気付いた妹紅が、案じるように尋ねた。

 

「私……不安だったんです。私と結婚したことが、あの人にとって負担でしかなかったんじゃないかって……っ」

「そんなこと……」

「ごめんなさい。でも……不安は妹紅さんを見る度にも感じていました。

 貴女は私と違って体も弱くない。ずっと綺麗で、優しいまま……あの人が本当に好きだったのは、貴女だったんじゃないかって……!」

「……」

「本当にごめんなさい。私は、醜くて、酷い女なんです……!」

「……そんなこと、ないよ」

 

 優しく微笑み、妹紅はそっと女の手を握った。

 体だけではなく、心まで弱っていることが、痛いほど理解出来ていた。

 そんな彼女に掛けられる言葉が、自分には無いことを無力感と共に実感していた。

 

「ごめんなさい……っ」

「謝らなくていいんだ。大丈夫、すぐに元気になるさ」

 

 妹紅は、半ば願うように告げた。

 家の玄関が開く音が聞こえ、すぐに騒がしい声が近づいてきた。

 

「たっだいまー! 遅くなっちまったぜ、待たせたな! あれ、妹紅さん来てたんですか? ……って、お前何泣いてんだ。寂しかったのか?」

 

 どかどかと足音を立てて無遠慮に襖を開いた青年の顔を二人で眺め、しばし呆気に取られた後、思わず吹き出していた。

 先程までの重苦しい空気は、既にそこには無い。

 病める時も、健やかなる時も――。

 かつて子供だった二人は大人になり、様々な苦難を味わっている。

 しかし、それらは乗り越えるものだった。

 妹紅は、彼らの傍らで静かに見守り続けていた。

 

 

 ――あれから三十年。

 

 

「……そうか。もう、大分悪いのか」

「ええ、ここのところずっと寝たきりで」

 

 久しぶりに顔を合わせる青年は、疲れからか酷く老け込んで見えた。

 もはや実際の年齢も青年という程若くはない。体も衰え始めた、初老の男だった。

 親も既に死別している。

 年月は過ぎ、人間は年老い、それに合わせて体の弱い彼の妻はいよいよ体調を崩すことが多くなった。

 

「とりあえず、人里に行って買ってきた薬があるけど……」

「わざわざ届けて下さって、いつもありがとうございます。

 しかし、もう薬でどうこう出来る話ではないのでしょう。私も家内も、歳を取りました」

 

 話の中で、疲れようなため息が混ざった。

 妹紅は十年前の彼の姿を思い出し、その弱々しい仕草に違和感を覚えた。

 しかし、それが自分の考え違いなのだと心の何処かでは正確に理解している。

 もう、十年も経ったのだ。

 普通の人間が、普通に老いる時間なのだ。

 不老不死である妹紅は、積み重なる年月の無情を感じていた。

 

「……この家も、静かになったな」

 

 老朽化もあるかもしれない、寂れたように見える部屋を見回し、思わず呟く。

 結局、二人の間に子供は出来なかった。

 女の体が、子を身篭ることに耐えられないと悟ったのだ。

 男は気遣い、家族は増えぬまま、両親を亡くして、この家の住人は二人だけとなった。

 この家を訪れるのに、昔ほど人目を気にしなくてもよくなったという事実が、妹紅には妙に寂しかった。

 

「薬は置いてく。他にも何か必要なことがあったら、いつでも言って頂戴」

 

 老いた二人に対して、自分はいつまでも変わらぬままである。

 この違いが互いの関係にどんな影響を及ぼすのか、妹紅は長年の経験から理解していた。

 きっと、二人にとっても気分の良いものではないだろう――そう考え、昔ほど頻繁に訪れることもなくなった。

 二人を想う気持ちは変わらない。

 だからこそ、自分の気持ちを優先して、結果負担を強いるような状況にはしたくなかった。

 

「あの、妹紅さん……っ!」

 

 立ち去ろうとする妹紅の手を、男が掴んでいた。

 驚いて振り返った先で、見上げる男の瞳を見てしまった。

 

「どうぞ、また……また来て下さい。お願いします」

「う、うん。もちろんさ」

 

 もはや懇願にも近い男の言葉に、妹紅は頷くことしか出来なかった。

 向けられた焦がれるような視線と、手を掴む意外なほどの力強さが、妙に不安を煽った。

 

 

 ――あれから四十年。

 

 

 結局、女の容態が良くなることはなかった。

 年齢と共に体は衰え、それに合わせて体調も悪化していく。

 もはや寝床から出ることすら出来ない。自力で食事も出来ないし、小便にすら行けないのだ。

 誰かの世話がなくては、もはや生きていけない。

 その誰かである彼女の夫も、長年の看病疲れから更に老け込んでしまった。

 彼までも倒れてしまわないか、ギリギリのところで保っているような状態だ。

 そんな年月の重みの中で、ただ一人自分だけが平然としていることに妹紅は耐えられなかった。

 しかし、眼を背けるわけにはいかない。

 ここで立ち去れば、後には死んでいく老人が二人残されるだけである。

 妹紅は二人の為に、最期まで何かをしてやりたかった。

 その『何か』が、一体どうすることで最良の方法となるのか、全く分からなかったが――。

 歳を取る人間と取らない人間。三人の関係が、いずれこうなることは分かっていたことだ。

 だが、分かっていたからといって何が出来ただろう?

 四十年前は遠い未来だと思っていた現実が、今目の前に立っている。

 妹紅はそれと向き合うしかなかった。

 

「何か、欲しい物はあるかい?」

「……何も」

 

 久しぶりに顔を合わせた妹紅と女の会話は、たったそれだけで終わってしまった。

 もはや彼女は、女と表現出来るほど若くはない。

 歳は五十を超えた。病のせいか、それよりも更に老いて見える。

 髪は白くなり、皺は増え、昔の面影は何処にもない。

 甘く匂い立つような若さと美しさは、既に遠い昔に去った。

 死人のような色の皮と骨だけになり、寝たきりの布団からはわずかに尿の臭いが漂う、くたびれた老女がいるだけである。

 その枕元に座る妹紅は、四十年前のまま、若く美しい姿なのだ。

 今の彼女にとって、自分の存在は忌々しいものでしかないだろうと、妹紅は自覚していた。

 そのことを罵られ、当り散らされても構わない。自分が居た堪れないというだけで、不自由な彼女を見捨てることは出来ない。

 ただ、自分の存在そのものが彼女の負担になることだけが辛い。

 妹紅は余計な口を利かず、ただ彼女を世話することだけに懸命になった。

 

「……妹紅さん」

 

 不意に、老女が口を開いた。

 

「貴女が、もっと嫌な人なら良かった」

「……え?」

 

 悪意を込めた声色ではなかった。

 ただ、どうにもならない悲しみだけが篭もっていた。

 

「貴女が自らの若さや美しさを誇り、年老いた私を見下すような人であったなら、良かった」

「そんなこと……」

「でも、貴女は優しい女性だった。四十年経っても、心貧しくなく、健やかなままだった」

 

 妹紅は戸惑っていた。

 自分に向けられる言葉は、罵るような内容ではない。それは嬉しいことだ。

 しかし、ならば何故彼女は涙を流しているのか?

 

「あの人が……愛するのも仕方がない」

 

 あの人――夫のことを言っているのだった。

 妹紅は息が止まりそうな衝撃を味わっていた。

 全く予想していなかったと言えば、嘘になる。

 ここ十年の間で少しずつ積み重ねていた悪い予感が、今決定的な形となって告げられたのだった。

 

「……分かっています。あの人は疲れていました。私のせいです」

「違う! そ……そんなことは……っ」

 

 ――もう二人には近づかない方が良いのではないか。

 ――老いた二人の視界に入るだけで、彼らの穏やかな余生を乱してしまうのではないか。

 妹紅は以前からそう考え始め、しかしそれでも、少しでも役に立つのなら、望まれるのなら――と。そう思ってここへ通い続けていた。

 妹紅の来訪を何よりも望んでいたのは、彼女の夫だった。

 疲れ果てた彼の瞳が、自分を見る時だけ焦がれるように光を取り戻すことを、気に掛けていた。

 

「私は老いました」

「……違う」

「貴女は美しいまま」

「あいつは、そんな男じゃない……っ」

「ただの見知らぬ若い女ならば、そうであったかもしれません。

 しかし、相手は貴女です。記憶にあるまま、美しく、優しく――形崩れぬ憧れであるままの女性なのです。

 こうして姿形だけでなく、心まで醜く衰え、貴女に嫉妬するような、変わり果てた私から心が離れても仕方ないことなのです」

「そんな……そんなことがっ!」

 

 それ以上は言葉にならなかった。

 自分自身を消してしまいたいほど疎ましく感じ、妹紅は衝動的に立ち上がっていた。

 

「四十年前。本当は、あの人は貴女のことが――」

 

 その告白を全て聞くことに耐えられず、妹紅は逃げるようにそこから走り去っていた。

 いや、間違いなく逃げたのだった。

 逃げられはしないと分かっていたのに。

 

 

 ――そして、あの始まりから終わりの日。

 

 

 家が、燃えていた。

 村の騒ぎに気付き、妹紅が密かに駆けつけた時、あの二人の住む家は既に全体が炎で包まれていた。

 もはや何処から出火したのかも分からないほど炎は勢いを増し、夜空を赤く照らしている。

 四十年来の見慣れた家が変わり果てていく様を前に、妹紅は呆然と佇んでいた。

 周囲には火事を聞きつけて村人達が集まっていたが、彼らに見つかることなど、もはや思慮の外である。

 

「……二人は?」

 

 妹紅は誰にともなく尋ねた。

 周囲の者達は、野次馬よろしく騒ぐだけである。

 火がいつ着いたものか分からないが、もはや手を出せる状況でないのだった。

 

「おい、ここに住んでいる二人はどうしたっ!?」

 

 妹紅は手近な者に掴みかかっていた。

 鬼気迫る表情に、相手は妹紅が一体何者なのかも知らぬまま、慌てて答える。

 

「い……家から出て来た奴はいない。多分、まだ中だ」

「――っ、うわぁあああああああっ!!」

 

 次の瞬間、妹紅は絶叫を上げながら燃え盛る家の中へと突っ込んでいた。

 背後から制止する声が聞こえるが、意にも介さない。

 呼吸すらままならない熱風を掻き分け、崩れ落ちる家の破片をかわして、がむしゃらに走り抜ける。

 二人の居場所は分からなかったが、家の間取りは完璧に理解していた。

 四十年通った家なのだ。例え周囲が炎の壁に囲まれていようと、正確に内部を把握出来る。

 妹紅は一目散に、老女の眠る部屋へと駆けつけた。

 半分燃え尽きた襖を蹴り開ければ、果たしてそこに二人はいた。

 周囲の炎などまるで存在していないかのように、布団に横たわる老女の傍で年老いた男が座っている。

 

「無事だったか!」

 

 妹紅はこの時、心の底から神の慈悲に感謝を捧げた。

 

「早く逃げるぞ!」

「……死にました」

 

 そして、告げられた言葉に全てが崩れ去った。

 

「家内は、もう死んでいます」

「…………え?」

「私が殺しました」

 

 男が何を言っているのか、妹紅には全く理解出来なかった。

 あまりの衝撃に、心が全てを拒絶してしまったかのようだ。

 周囲の音は消え失せ、熱は感じなくなってしまった。

 

「本当は自ら命を絶ちたかったようですが、もうそれだけの力も残っていなかったので、私が毒を用意したのです」

「……ぁ……え?」

「家に火を放ったのも私です」

 

 そう言って、ようやく男は顔を妹紅に向けた。

 炎に照り返されていることだけが理由ではなく、老いた男の瞳は力強く輝いていた。

 それは、一つの決意を宿した眼だった。

 

「最後に家内と話をしたのです。

 これまでのこと。これからのこと。そして、貴女のことを――」

 

 男は、この窮地に場違いなほど穏やかな笑みを浮かべた。

 

「子供の頃、私は貴女に淡い想いを抱いていました。それが、年老いた今蘇っております。私は……貴女が愛しかった」

 

 妹紅は何も答えることが出来なかった。

 ただ弱々しく首を振り、怯えるように後退ることしか出来なかった。

 

「しかし、妻を愛する気持ちも決して失ってはいない。

 老いた私には、この揺れ動く心を再び固めることが、どうしても出来ませんでした。

 だから私は、そんな気持ちも含めて、心の内を全て家内に話し、また彼女の心の内も全て打ち明けてもらいました」

「その……その結果が、これだっていうの……?」

「私は、もうこれ以上彼女を裏切りたくはありません。衰えた心の迷いを止めることは、もはや私自身がどう思っても不可能なのです。だから――」

 

 言葉の続きを口にせず、男は小さく笑うと、一度だけ眠るように横たわる老女の髪を手で梳いた。

 かつて彼女を娶った時と同じ、愛おしさに溢れる仕草だった。

 

「家が崩れます。早くお逃げ下さい――いや」

 

 男が懐から小刀を取り出すのを見て、妹紅は我に返った。

 

「要らぬ、お世話でしたね」

「よせ――っ!!」

 

 叫びながら手を伸ばした妹紅を遮るように、目の前で燃え盛る屋根の一部が崩落した。

 炎の向こうで、男が己の首に刃を突き立てるのが見えた。

 妹紅は血を吐くように絶叫した。

 その声は崩れ始めた家の音と、勢いを増す炎の音に飲み込まれていく。

 それでもなお、断末魔のように叫び声は尽きることなく響いていた。

 死んでいった二人と同じように、彼女もまた一度絶命するまで。延々と――。

 

 

 ――生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く。

 

 

 結局、火事が収まったのは明け方であった。

 

「ひでえ火事だったな」

「他の家に飛び火しなかっただけ幸いだ。死人は二人……いや、あのワケの分からねえ娘を入れれば、三人か」

 

 真っ黒に焼け残った家の残骸の中を、村人達が手分けして掻き分けていた。

 死体を見つけ、せめて弔ってやろうという考えである。

 その時、折り重なった木片の隙間から炎が溢れ出し、周囲の村人は息を呑んだ。

 

「残り火か!?」

「危ねえぞ、離れろ。なぁに、もう燃えるもんはねえんだ。すぐに消え――」

 

 村人達の言葉が途切れた。

 目の前の信じ難い光景に呆気に取られたからである。

 炎は木片からあがっているのではない。その下に埋もれていた死体から立ち昇っている。

 眼を剥いた彼らの視線は、炎に包まれた死体がゆっくりと起き上がる様に注がれ続けていた。そうして、収まり始めた炎の下から、生きた人間の皮膚があらわになった時――ようやく悲鳴が上がった。

 

「……化け物だ……っ!」

 

 誰かが、そう言葉を洩らした。

 死体が炎に包まれ、それが消えた後には生きた人間が残る。

 この世の理に真っ向から逆らう現象が、そこで起こっていた。

 炎によって死から蘇った人間――妹紅は、恐れ怯む周囲の者達に一瞥もくれず虚空を見つめていた。

 いや、淀んだ瞳には本当は何も映っていない。

 未だ心の方は死んだままであるかのようだった。

 

「ひ、人か……?」

「馬鹿言え、生き返った死体が人間なわけあるか! 物の怪だ!」

「武器だ……何でもいいから武器持って来い!」

「おい、あの炎でも死なねえ化け物だぞ! 何が出来るってんだ!?」

 

 村人たちは各々が凶器となる農具を持って妹紅を取り囲んだが、誰もが恐れて竦んでいた。

 相手は死なずの者だ。

 下手に手を出して、暴れ始めたらそれこそ多くの人死にが出るかもしれない。

 そして妹紅は、やはり周囲の騒ぎに関して、何一つ意識を向けようとはしなかった。

 やがて、周囲の村人達の中から一人の老人が歩み出てきた。

 丁度、死んだ二人と同じくらいの年齢の老いた男である。

 

「……そういえば四十年程前、年老いぬ女がおったなぁ」

 

 独り言のように呟いた老人の声を聞き、妹紅は初めて意識を現実に戻した。

 

「この家に、火を放ったのはお前さんかね?」

 

 妹紅は何も答えなかった。

 心の底から否定することが出来なかった為でもある。

 

「……まあ、良い。お前は死なぬ人間だ。何をしようと、わしら普通の人間に勝ち目は無い」

「……」

「ただ、もし何もする気が無いのなら、大人しくこの村から出て行ってくれんか? 必要ならば、このわしの命くらいくれてやろう。頼む」

 

 老人の懇願に、周囲の村人達は息を呑んで状況を見守った。

 妹紅は老人を一瞥し、次に燃え尽きた家の残骸を眺め、最後に足元へ視線を落とした。

 

「…………人間が近づかない場所って、ある?」

 

 感情の抜け落ちた、それこそ死人そのもののような声で妹紅は尋ねていた。

 

「少し行った所に竹林がある。人が入れば必ず迷い、妖怪となった獣が棲む危険な場所じゃ。人は恐れて、誰も足を踏み入れぬ」

「……そう。ありがとう」

 

 形だけの礼を言い、妹紅は示された方向へゆっくりと歩き始めた。

 進路にいる村人達が、慌てて道を譲る。

 死なない人間への恐れはもちろんあった。

 しかし新たに、生き返りながらも滲み出る雰囲気や仕草全てが死人のままである妹紅の姿を、不気味に感じたからでもあった。

 何か目的があるわけでもなく、何かに呼び寄せられるわけでもなく――あるいは何かから逃げる為に歩き続けているようにも見えた。

 

「あれが人であるというのなら、なんと無残な有様か……」

 

 のろのろと、亡者の歩みのまま去っていく妹紅の背中を眺め、老人は憐れむように呟いていた。

 

 

 ――死に死に死に死んで死の終わりに冥し。

 

 

 

 

 目覚めは最悪だった。

 それが今見た夢のせいなのか、それともその夢が現実と地続きになっているという事実への忌避感に由来するのかは分からない。

 布団から起き上がった妹紅は、あらゆる感情というものが抜け落ちた表情のまま視線を動かした。

 しばらくの間、自分が一体何を探しているのか分からなかった。

 徐々に思考が巡り始め、ようやく何を探しているのか自覚した。

 現実感だ。

 先程まで見ていたものが夢であるという、確たる証拠だ。

 それはすぐに見つかった。

 自分の寝ている布団だ。何年も前の物ではない、昨日干したばかりの暖かい布団。

 夜の暗闇の中でぼんやりと見える家の内装は、少し前と比べると驚くほど整っている。日々の改装の成果だった。

 妹紅はのろのろと布団から抜け出した。

 喉が渇いているわけでもないのに、水瓶の中を覗き込む。

 汲んだばかりの澄んだ水が入っている。

 外へ出ると、まだ月が上にあった。

 夜明けは遠い。

 家の周りをゆっくりと歩いた。

 毎朝、先代達が料理をする台と調理器具が片付けられている。

 昨夜、火を起こした場所には黒ずんだ跡が残っている。

 薪割りに使う斧。

 組み立て式の柵。

 風呂に使うドラム缶。

 全部、そこにある。

 つい数時間前まで使われ、そしてこれからも使われていく物だ。

 妹紅の今の生活の一部となっている物だ。

 騒がしく、暖かな日常が在ることの証なのだ。

 

 ――だが、これらがいずれ朽ち果てるのに100年も掛からない。

 

 妹紅は薄ら寒い不安と恐怖に襲われて、無意識に夜空を見上げていた。

 月はまだそこにある。

 夜明けはまだ遠い。

 ……遠すぎる。

 早く朝が来ることを、妹紅は切実に願った。

 しかし同時に、明日が来ることが酷く恐ろしかった。

 

 ――最初の300年は人間に嫌われて身を隠していた。

 ――その次の300年は世を恨み、妖怪を退治することでそれを晴らしていた。

 ――次の300年は死んだも同然の日々だった。

 ――そして次の300年で、この幻想郷へ辿り着いた。

 

 巡り。廻り。回り。

 出会い。別れ。出会い。別れ。

 得ては失い。失っては得て。

 満たされた腹もいずれ減る。

 暖められた手もいずれ冷える。

 また食えばよい。

 また包んでもらえばよい。

 

 

 

 だが、この繰り返しは何処で終わる?

 

 




<元ネタ解説>

「あしたのために」
コミック「あしたのジョー」で矢吹丈に送られたボクシングのレッスンの一文。

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